ごきぶり

母さんはわたしに優秀であることを求めた。
学校が全ての判断材料だ。成績がすべての判断材料だ。
誕生日にはいつも検定の教材をもらった。クリスマスには、頭のよくなる本を。
頭が良いという事つまり勉強ができるという事は私にとって必須要素だ。
はい!メリークリスマス。
黒いカシミヤニットセーターを着た母は色のきつい真っ赤の口紅を引いた口でほほ笑む。
『できる!勉強のやりかた』を手渡された。
本の半分まで帯が付いていていかにも胡散臭い金の地に黒の文字で「100万冊!」とか「小中学生から大学生、社会人までの勉強の基礎は全て同じ!」とか書いてあった。
裏表紙の方には「もっと早く出会いたかった本。―35歳会社員」「うちの息子が一番をとりましたー42歳主婦」。
嫌気がさした。本を読むのが大嫌いな母は、書店の入口の平積みか、売れ筋ランキングの棚から帯だけをみて買ってきたに違いなかった。
愛情をかけていますとあなたを思っていますと言い張りたいのだろうけれど、そのプレゼントの選び方はいたって機械的で、思いも何も感じられなかった。
そしてそれをうけとったわたしの気持ちよ!
本が、母の満足げな視線が「あなたの成績が悪いのは許しません」という呪いを放ち続ける。
こんなに悔しいのに、こんなにあきれ果てているのに、私の口は便利なもんさ。
「ありがとう、読んで頭よくなるね」そんな言葉をするりするりと紡ぎだし、最後に笑顔までトッピングしやがる。
「勉強あるから」と今度は口をちゃんと動かして言って、
呪いの本を胸に抱えて走る。自室まで走った。

しにたい。

ある時、自分でも意識せずに口からこぼれおちた言葉。
こぼれた瞬間我に返る、ハッとする。
いつの間にかその感情は増幅する。ごきぶり。身体の中で蠢く。
死にたい気持ちは雌雄あってくっついて交尾して、大きな卵を産む。一度に何匹もそこから出てくる。産み落とされた卵は幾日も経たずして孵化。無数の小さくて半濁の白い身体が重なる、それぞれが意思を持って動く。日にちが経つごとに黒くなってゆく。私の肉を食い散らかす。
いつの間にかいつの間にか繁殖してついに口からこぼれ出たわけだよ!!!
一匹見つけたら、百匹。
もう私の身体は終わりだな。
明日はきっと鼻の穴から、一匹ずつ出てくるぞ。
そんなことを思っていたらことのほか想像がリアルになっていき、ごきぶりの剛毛すね毛みたいな脚とか、てらっとした体表だとかを思い出した。
全身が痒くなった。血が出るほど掻き毟った。
そんな想像をしてしまう自分の思考回路を壊さんとばかりに掻き毟った。

学校へ行く。
電車に揺られながら鞄から取り出すのは、古典の単語集。
古語を覚えることがよいとされた。数が多い方がよいが、頻出の単語と頻度の低い単語とをいかによいバランスで覚えるかに重点が置かれた。
私のバランスといえば常に悪くて数だってずっと少ない。
「こころもとなし」「わろし」「あし」。
「あし」な私はその頃からときどきごきぶりの存在に気付いて振り向くことがあった。
見ている気がするのだ、私のこの醜態を。気付いてはっと振り向いた瞬間やつらは物陰に隠れてしまう。

毎朝目が覚めると腕から血が出ていた。リストカットやアームカットでではない。掻き毟っているのだ。
ごきぶりは私が眠っている間でも活動し続けた。
いや、私が寝ている間に最も活動した。
外に出てきて卵を産んで。
そのせいでかれらの通り道である部分はなんだかとてつもなく痒くなった。

朝、とうとうその朝はやってきた。
鼻から出てきたもの。
ごきぶりに食われてすかすかになった私という名の存在。

しんだ。




(2011/09/29)

ごきぶり

ごきぶり

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-14

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