Fate/Last sin -02
悲劇というのは、案外どこにでもあるものなのだと思った。
アメリカ合衆国の南部らしい明るい太陽光が大きくて清潔な窓から差し込む、最近完成したばかりの州の公立図書館の中は静かだった。広い読書スペースと巨大な本棚の森を包む空気を、何人もの人が紙をめくる微かな音の集合体が揺らしている。遠くで誰かがくしゃみをする音、ひそひそという話声、どこからともなくコーヒーの香りが流れてくる静謐な空間はその少年にとってまるで未知の空間であったが、少年にとってそれは些細な問題に過ぎなかった。
少年は周囲の物珍しさはおかまいなしに、本棚から新しい一冊の本を取り出し、中身をぱらぱらと眺め、目的のページを探し出すと一心不乱に読み始める。本棚の間を通り過ぎる人々は、そんな褐色の肌を持ち、毛先が白墨の粉ですすけたような奇妙な黒髪の子供が一心不乱にアメリカ史を読み耽っているのを横目で眺めているだけだったが、無関心ではいられないごく少数は存在した。
「おいお前、インディアンだろ」
その言葉と同時に、白い手が少年の持っていたアメリカ史の参考書を突然叩き落した。バサバサ、と激しい音を立てて重い本が少年の手から滑り落ちる。
褐色の少年は白い手の持ち主を見た。彼の目の前に立つ、彼と同じくらいの身長の白人少年は、彼の手から落ちた参考書をつまみ上げ、わざとらしくハンカチで表紙を拭いた。その白人少年を筆頭にするように後ろに群れていた子供たちが、くすくすと笑う。
「本を返して」
褐色の少年は静かに言った。少年の鳶の目のような金色の瞳は怯えることも怒ることもせず、ただ冷めた目で白人たちを眺めている。
「インディアンが図書館で勉強してる」
白人の少年はくすくすと笑った。後ろの子供たちも可笑しそうに笑う。紙をめくる音に混ざっていく嘲笑は、それでも褐色の少年の表情を変えることはできなかった。彼は嘲笑を気にも留めず、平淡な口調で言う。
「本を返して。それに、図書館の本は大事に扱わないと―――」
「インディアンが図書館で勉強するな! 出てけ!」
そうだそうだ、と子供たちは笑った。出てけ、出てけ、と合唱が始まる。それは大きな本棚の森に響きわたった。
出てけ、出てけと合わせる声に少年が目を伏せた瞬間、彼の硬い髪に、ぽん、と温かく大きな手が乗る。
「図書館では静かにしなさい」
その温かい手の主が子供たちに告げた瞬間、ぴたりと合唱は止んだ。それから間をおいて、子供たちはつまらなそうに散っていく。本を叩き落とした白人の少年は舌打ちをして参考書を床に放り投げ、褐色の少年を睨みつけてから背を向けてどこかへ行った。
「ほら、ラコタ、もう大丈夫だ」
温かい手の主はしわがれた声でそう言って、手袋をした手で褐色の少年の髪をわしわしと撫でると、しゃがみこんで参考書を拾い上げる。その年老いたアメリカ人の白人男性はラコタに向かってアメリカ史の参考書を差し出しながら、「今度は歴史の勉強かい?」と尋ねた。
ラコタは本を受け取り、頷く。
「インディアンについて、はもう終わった。歴史が終わったら、外国について勉強する」
「そうか」
老人は青い目を細めてラコタを撫でた。ラコタは自分よりも背の高い、塔のような老人の顔を見上げてはっきりと言った。
「外国について勉強したら、先生、こんどこそ魔術を教えてくれる?」
「……」
『先生』は少しの間、黙ったままだった。コツ、コツと革靴で真新しいフローリングの床を鳴らし、糊のきいたワイシャツの袖に通した腕を組みじっと考え込む。
そうやって数十秒近く沈黙を守ってから、ラコタにとって聞きなれた台詞を口にする。
「そのうち、な」
ラコタは夕方までに読み終わらなかった本を何冊か先生のもとに持って行き、先生の図書館カードでそれらを借りてもらった。いつものように五時に図書館を後にし、先生が運転する小さな古い車に乗って、街のはずれ、すぐそばに丘陵地帯の森が迫っている小さな家に帰る。二人で夕食を作り、それを食べ、片付けまですべて終わると先生は二階の研究室に籠るので、ラコタはリビングのソファーで図書館から借りてきた本を読み、日付が変わるころそのままソファーで眠るという生活だ。
ラコタは本を閉じ、明かりを小さくして、ソファーの上で丸く縮こまった。歴史の本はほとんど読み終わっていた。明かりに、小さな羽虫が寄ってたかって飛び回り、何匹かはランプの中の火に触れて焼け焦げてしまう。それを眺めながら、二階の研究室から時折聞こえてくる先生の足音や、窓の外の森のざわめきや、風の音を聞いていた。
悲劇なんて、案外どこにでもあるものだと思った。
目を閉じると、三年前の光景がまざまざと蘇ってくる。火の海、ものが燃える音、焦げた布の臭い、悲鳴、崩れ落ちる家々、焼ける肉の臭い、炎の眩しさ、肌を舐めるような熱、悲鳴、悲鳴、怒号、夜明け前の暗闇。
三年前、十歳のころ、故郷は突然壊れた。誰かが村に火を放ち、次々とやってきた黒衣の人間たちが人間離れした技で無抵抗の村人たちを全員、殺してまわっていた。何もわからず、何も知らなかったラコタは、その殺戮の夜を村のはずれの荒野の岩陰で砂だらけになって明かし、その翌日の朝に現れた先生に拾われ、故郷から遠く離れたこの町と家を与えられて生きてきた。あの大火災は人生においても、世界にとっても大変な悲劇であるはずで、自分は誰も経験したことのないほどの惨劇を生き延びたのだと思っていた。
ところがどうだろう。こうして図書館で本を読み勉強すればするほど、自分の過去に勝るとも劣らない悲劇などどこにでも転がっている。
民族同士の対立。そんなありふれた言葉であの災厄が意味を持つことに、ラコタはとっくに慣れていた。
「でも、そうじゃない」
「……早く、先生、魔術教えてくれないかな」
*
「本当に行くのかい?」
それから更に三年が経ち、より顔のしわが増えた先生は、空港の搭乗口で不安そうに教え子の肩に手を置いている。十六歳になった少年は、鳶の目色の瞳を細めて笑った。
「先生は心配性だなあ。大丈夫だよ。連絡もするし、何とかなる」
「……だが、君の魔術回路は……」
「半分も開いてないよ。分かってるから無茶はしない」
ラコタは先生の手を両手で包むように、しっかりと握る。三年かけてやっと追いつき始めた目の高さで、先生の青い目を真正面から見据えた。
「日本に到着したら一度、カザミに着いたらもう一度連絡する。……待ってて。絶対、聖杯を獲って帰ってくるから」
三画の赤い幾何学模様の浮かび上がっている右手を離すと、先生はため息をついた。それから、コートの内ポケットを探り、ハンカチに包まれた何かをラコタに差し出す。
「持って行きなさい。渡す日が来るとは思わなかったが……」
ラコタは包みを受け取り、艶やかなハンカチをめくって包みを開けた。手のひらに収まるくらいの長さで、先端だけ炭で黒く染められたような白い鳥の羽が八本、姿を現した。
「これは?」
「君の故郷の焼け跡から拾い集めた。あの村で作られた魔術礼装のようなものだ。一本一本、精巧な疑似魔術回路が編み込まれている。君の不安定な魔術回路を補佐するのに役立つだろう。……さあ、もう行きなさい。飛行機の時間だ」
先生の声に重なるように、日本行きの飛行機の搭乗口へのアナウンスが流れ始めていた。ラコタは八本の羽を大事に荷物の一番奥へ仕舞うと、先生の手をもう一度握る。
「ありがとう、先生」
「……気をつけなさい」
先生は愁いを帯びた青い目でラコタを見つめた。
「人間というのは万遍なく、欲望の奴隷なのだから」
*
大雑把に言うと長方形のような形で、決して広いとはいえない風見市には市を二つに分断するように高低差のある崖線が通っており、北は台地に、南は平地に分類される。市の北には森に覆われた丘陵地があり、その森の中のダム湖から小さな川が市を縦に走り、南の湾岸へと流れ込んでいる。北は主に住宅と公園と学校、南は主に港と工場と繁華街、といった様相を呈していた。
ラコタはその風見市の地図の、北の丘陵地の近くに赤いマーカーで点を打つ。ここが自分が今いる場所、すなわち市の北側にある住宅街の外れの空き家だった。正確には言えばここはもともと名も知らない老人がいて、ラコタの『ちょっとした説得』で一か月ほど旅行に行く気分になったらしいので『有難く』その留守を預かっているわけだが、どちらにせよラコタ以外に住人もおらず、誰かが訪ねてくる気配もない。そういうわけだから風見の聖杯戦争の拠点にするには丁度良かった。それに、すぐ近くに森と丘陵があるという点は、アメリカにいる先生の家を思い出させて、それがラコタを安心させた。
風見に来て最初の日が傾きはじめる。
ラコタは地図を片付け、代わりに使い古したランプと、鋭利な包丁を鞄から取り出した。先生から預かった大事な魔術礼装の羽を耳の後ろに挿し、故郷の伝統的な正装に着替えた。気高い英霊が初めて自分の姿を目にしたとき、子供だと思って侮られた態度で接されては困るからだ。
「……よし」
マントを被り、冷たい一月の風が吹きすさぶ屋外に出る。裏手にあらかじめ隠しておいた、十羽の鳩が入った大きな鳥かごを抱え、昼に目をつけておいた森の中の霊脈地へと歩いていく。本当は生贄ではなく水銀を使いたかったのだけど、飛行機で大量の水銀を運ぶのは危険だったからやめた。先生が貸してくれた触媒は、マントの下に隠した。
聖杯戦争に出たい、と言ったとき、先生は始め渋い顔をしたものだ。
「……どこでそれを?」
先生の研究室にあった本を読んだ、と答えた。
「駄目だ。危険すぎる」
先生はそう言って二か月ほど頑なに許してくれなかった。だが三か月を過ぎたころ、とうとう根負けして、この一本の古い木の枝の標本を差し出してきたのだった。
「それが果たして聖遺物と言っていいのか、ましてや英霊召喚の触媒になどなるかは疑問だが、せめてもの餞別として君にあげよう。だが注意してほしい。もしその触媒で英霊を召喚できたとしても、その英霊が最強とはまず言えないだろうから」
ラコタは、それでもいい、とその触媒を受け取った。
先生の言葉を反芻しながら、持ってきた刃物で順番に鳩を〆て、生き血で魔方陣を描いていく。最強と断言できない英霊、とはいったいどういう意味なのか。最優のサーヴァントといえば剣士であるセイバーだが、セイバーは召喚できないということなのだろうか。それとも、他のマスターのほうが自分のサーヴァントよりも強いサーヴァントを引き当てるということか?
九羽目の鳩の血を絞りながら、どちらにせよ問題はないし、ここまで来た以上どんなサーヴァントであっても協力していくしかない、と腹を括る。
「ボクは、ボクの最善を尽くすだけだ」
最後の一画を書き終わった時、ちょうど九羽目の鳩の血が無くなった。召喚の詠唱を始める前に、九羽の鳩の死骸を丁寧に森の中に埋葬し、残った一羽は遠くへ逃がす。
ラコタは血と土塗れの手で触媒となる枝の標本を取り出した。幼少期の生活柄、天候や植物、動物についてある程度の知識は持ち合わせていたラコタでも知らない種類の木だ。先生は『チェリーブロッサム、つまりサクラという種類の一種だ」と教えてくれたが、この見知らぬ枝が過去の数多くの英雄の中から一体どんな英霊を引き当てるのか、想像もつかない。
徐々に早く、強くなっていく鼓動を落ち着かせるように、その枝を魔方陣の中心に置く。夜の藍色が森の中を染め上げ、冷たい風がランプの灯を揺らした。
乾いた唇を舌で湿らせ、張り詰めた空気に爪を立てるように、夜の冷気を破くように、最初の一節目を口にする。
「素に、銀と鉄―――」
その夜、その詠唱を口にしていたのは、異邦人の少年一人ではなかった。
或いは、呪縛に等しい悲願を背負いこんだ魔術師が。
「――――――礎に石と契約の大公。祖には我が大師、エイベルフェムト。
降り立つ風には壁を。
四方の門は閉じ、
王冠より出で、
王国に至る三叉路は循環せよ」
或いは、硝子製の檻の中の無垢な魂が。
「――――――閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する。
―――――Anfang.
――――――告げる」
或いは、焦がれるほどの思いの果てに答えを見出すため。
「――――告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。
誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷く者」
或いは、単なる律儀な偏執のため。
「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。
汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」
或いは、暗く深い、願いの果て。
「汝三大の言霊を纏う七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」
*
2018年、1月21日。
最優の一つを残して六つの器は満たされ、風見の地にエーテルの肉体を得て顕現した。
Fate/Last sin -02
to be continued.