優しい医師
「それで、アンダーソンは、見事、コナー嬢のハートを射止めたわけさ!」
ワトスン医師が声を張り上げて笑い語る。
それを真向かいで探偵は聞いていた。
二人は互いにワイングラスを持っていた。
探偵のグラスには美しい赤色のワインが、静かに収まっている。
それに対し、医師のワイングラスは、瞬く間に口へ入れられ、すぐに継ぎ足す。
何も知らぬものが見れば、医師がワインを飲みながら、陽気に語らっているように見えただろう。
だが、眼に見えるものと、その本質が異なることは、万人の知る所である。
「アンダーソンは本当にいい奴だったよ、軍でも出世頭だったんだ。本当にいい奴だったよ」
そして、ワインを一気に咽喉に流し込む。
一息ついて、また医師は笑った。「アンダーソンに乾杯だ!」と。
探偵は無言で、ワイングラスを目線より上にあげる。
その行為は、何度目だろう。
繰り返される行為に探偵は、それでも無言で付き合っていた。
こうして、ワトスン医師が大量にアルコールを摂取する事が、度々ある。
彼は酒の類を好む男だが、常に節度を守って飲む。
そんな彼が、浴びるように酒を飲むとき、それは彼の患者が天に召された時だった。
はじめは、一人で飲んでいた。
寝室に篭り、買ってきたであろう大量のアルコールを摂取し、酔いつぶれる。
起きてこない彼を心配し、様子を見に来た探偵はその光景に絶句した。
最初に気付いたのは、密室に充満する、アルコール臭。
その濃い空気の中、ベッドを背に床に座り込んだまま眠る医師。
その周りに転がる空のアルコールの瓶は、両手でも足りないほどの数だった。
あの痛々しい姿の理由を知ってから、探偵は酒を飲むのなら、共に飲もうと告げた。
最初は拒む態度であったが、探偵の一言に、医師は驚き、表情を綻ばせた。
それ以来、探偵は医師と共に酒を飲む機会が増えた。
彼の語るアンダーソン氏も、医師の患者の一人であった。
ただ、少し皆と違うのは、アンダーソン氏は医師が軍医であった時代からの知人であったことだった。
アンダーソン氏が初めてベーカー街を訪れた時は、昔の友人としてであった。
懐かしい顔に、ワトスンは喜び、軍籍時代の知人を嬉々として受け入れた。
思い出話に花を咲かせているのを、少し離れた場所で備忘録を眺めながら、探偵は随分と恨めしそうに眺めていただろう。
話が一段落してから、アンダーソン氏は落ち着いた声で、自分の病気を告白してきた。
それは、難病で、すでに死期が迫っていた。
従軍時代に受けた傷が原因の疾病だった。
医師は何度も謝罪し、アンダーソン氏は、ワトスンのせいではないと、笑っていた。
ただ、お願いがあるとするならば、主治医になって欲しい、と。
それから月に二度、アンダーソン氏は定期的に訪れる客人となった。
私のほうから出向くよ。
何度もワトスンは言うが、アンダーソン氏は決して首を縦には振らない。
「いいんだ。知人に会いに行くとなると、張り合いができる」
それでも。
今朝。バーツから迎えの馬車が駆けつけてきた。
駅で倒れたアンダーソン氏が、バーツに運ばれて、ドクターワトスンの診察でなければ嫌だと言っているとのことだった。
それを拒む理由など、医師にはない。
すぐに緊急手術となった。
手術着を纏う、いつもと違うワトスンは、一緒に来てくれた探偵に、小声で告げた。
「アンダーソンの家族を呼んで欲しい」と。
ワトスンには分かっていた。診察をした時から。
倒れたと聞いたときから。
アンダーソンの命は燃え尽き、天使がすでに迎えにきているのであろうと。
ならば、何故。
そんな体をおしてまで、ワトスンに会いに来た?
彼を苦しめるためにか。
どうして。
ワトスンは情に脆い。患者が亡くなっただけで、あの荒れようだ。
知人が亡くなったとなれば、彼はどうなる。
どうして、来た。
何故、ワトスンじゃないと駄目なのだ。
彼を苦しめたいのか。
彼に苦渋を味合わせたいのか。
彼は医師だ。臨終場面を避けて通れる職業ではない。
しかし、彼は、彼は医師にしては、情に篤く、そして脆い。
心が、彼の心が壊れてしまいそうで、怖いのだ。
しかし、ワトスンは、黙って受け入れる。微笑みながら、両手を広げて。
手術室から出てきたワトスンは、アンダーソン夫人に臨終の時刻を告げる。
ワインを片手で足りぬ数ほど、空にした。
ワトスンはソファーにひっくり返って高いびきをかいている。
朱色のブランケットを、探偵は横たわる彼の体にかけてやった。
そして、そっと額に落ちる前髪を掬う。
一人で抱え込まないで欲しいのだ。君は、自分が思うほど、強くはないのだから。
その額から手を離そうとした時だった。
強い力で、探偵は手を掴まれる。眠っている医師の手が、探偵の白い手を逃すまいと、しっかりと掴んでいるのだ。
「ワト…」
「ホームズ」
手を掴んだまま、いや、医師は両手で探偵の手を慈しむように包み込みながら、小さく、小さく、告げた。
「…--君が、居てくれて、よかった…----」
その手に頬を寄せ、ワトスンは嗚咽した。
一度込み上げてきた感情は、堰を切ったように、留まることはなかった。
溢れる涙は探偵の手を濡らす。それでも、探偵はその手を振り払うことはしない。
縋るような、親友のその両手に包まれたまま、空いた片手で、探偵は親友の茶色の髪を優しく撫でる。
「…ぅわあぁあああ……!」
優しい医師の悲しい声は、深夜の室内に静かに響いていた。
2011.2.8サイト掲載
不良保育士コウ
優しい医師
読んでくださって、ありがとうございます。