Voice~キミがくれたもの~

プロローグ-遠い記憶と傷跡-

―2015年秋―
綺麗な夕日に照らされた、休日の夕暮れの図書館。閉館間際のその図書館の中で、高校3年生の姫奈乃(ひなの)は、勉強を終えて、1人で読書をしていた。
「もうすぐ閉館時間ですよー。」
司書の女性にそう告げられて、慌てて席を立つ。開いていた近くの窓から風が入ってきて、カーテンと共に、姫奈乃が履いているロングスカートがふわっと揺れ、黒くて長いストレートの髪がさらさらと風になびいた。読んでいた本を棚に戻そうと、早足で歩きだす姫奈乃。履いていたパンプスのせいか、足がもつれてつまずいてしまった。体が前のめりになって傾いてゆき、羽織っていたカーディガンがふわっとめくれる。
"あ、倒れる…。"
そう思ったその時…。
「あ、危ない。」
誰かの手が姫奈乃の手首をガシッと掴み、次の瞬間には、その人の体に支えられていた。
「あ、ごめんなさいっ…。」
そう言いながら慌てて体勢を立て直し、その人から離れる姫奈乃。
「大丈夫ですか?」
そう声をかけられて、一瞬びくっとしてしまう。
「大丈夫です…。ありがとうございます…。」
顔をあげてそう告げると、目の前には端正な顔立ちをして、ジーンズにスニーカーを履き、Tシャツの上からチェックのシャツを羽織っている、端正な顔立ちをした男子が立っていた。
「大丈夫ならよかった。じゃ。」
その男子はそう言うと、そのままその場を立ち去って行った。

しかしそれから先、姫奈乃がその男子に会うことはなかった。

その後、成績がよかった姫奈乃は高校を卒業し、偏差値が高い大学の法学部へと進学。でも、その4年間の間にいろいろな恋愛を経験し、そのせいで心に深い傷を負った。そして、大学を卒業する頃には、心の傷のせいで声を失ってしまっていた。病院の医師からは、心因性の失声症だと告げられた。
"いつ声が出るようになるかはわからない。"
1ヶ月経っても2ヶ月経っても声が戻る気配はない。声を失った苦しさから、どうすればいいかわからなくなり、姫奈乃はもう、声を取り戻すことを諦めていた。そして姫奈乃は、こんな自分なんていなくなってしまえばいいと、一度だけ、カッターナイフを手首に当てて、スーッと引いた。幸いにも傷が浅く、傷跡は残らなかったものの、心の傷が癒えることも、声が戻ることもなかった。そんな姫奈乃には、これから起こる出来事など、予想だにしていなかった…。

運命の再会

―2020年12月ー
先月に行政書士試験を終えた姫奈乃は、自己採点で無事に合格したことをを確認していたため、最終目標である司法書士試験合格を目指すための学校への入学手続きをとっくに済ませていた。姫奈乃が選んだのは、行政書士試験合格確定者に合わせて、来年の1月から講義が始まる初心者向けコースがある学校だ。講義開始日を間近に控えていた姫奈乃はこの日、1人暮らしをしている部屋を出て、午後から外に出かけた。予約してあった大好きなシンガーソングライターのニューアルバムの特装版を受け取りに行き、お気に入りのベーカリー「フラワー」で、大好きなメロンパンとクロワッサンを買う。かなりウキウキした気持ちで街中を歩いて、家路につこうとする姫奈乃。
"早く買ったアルバムを聴きたいな。帰ったらコーヒーを淹れて、買ったパンを食べながら聴こうかな。あ、その前にDVDの特典映像を観ようかな。"
姫奈乃の心の中が、買ったばかりのニューアルバムを早く開けたいという気持ちでいっぱいになっていたその時…。
"チリンチリン"
いきなり自転車のベルの音が聞こえて、驚いた姫奈乃は慌てて端によけようとしたが、履いていたスカートとショートブーツのせいで足がもつれて、思いっきり転んでしまった。
"ドンッ、バサッ!!"
買ったばかりのニューアルバムの特装版が入った袋と、フラワーで買ったパンの袋が地面にぶつかる音が聞こえてくる。
"いたたたたた…。"
"あ、パンが…。アルバムの特装版は大丈夫かな…。"
時すでに遅く、姫奈乃が買ったはずのパンは、転んだ拍子に中身が投げ出されてしまったせいで、無情にも、ベルを鳴らして追い越していった自転車に踏みつぶされてしまっていた。買ったばかりのニューアルバムの特装版は何とか無事なようだ。
「大丈夫ですか?」
急に声をかけられて、再び驚きながらも、大丈夫だということを伝えようと、何とかうなずく姫奈乃。目の前には、自転車に踏み潰されてしまったフラワーのパンと共に、スッと手が差し出されていた。差し出されていないほうの手には、姫奈乃が買ったのと同じ、フラワーのビニール袋と、CDショップの袋を持っているのが見える。サイズからして、姫奈乃が買ったのと同じニューアルバムの特装版なのだろうか。そんなことを考えながら、姫奈乃がその人の手を掴んで立ち上がろうとした時…。
"痛いっ!!"
姫奈乃の左足首に激痛が走った。
「足首が痛むんですか?」
激痛で顔が歪んだのがわかったのか、その人が尋ねてくれたので、姫奈乃はゆっくりとうなずいてから、顔を上げた。目の前には見覚えのある顔の人がしゃがみこんでいる。
"…え…?あの時私が図書館でぶつかったあの人…。"
「…あ…あの時図書館にいた…。」
同時に気がついた2人。目の前にいる彼がすぐさま、
「ちょっとごめん。」
と言いながら、ショートブーツ越しに姫奈乃の左足首に触れようとする。
"え…?この人は何をするつもりなの…?"
少しの驚きと、何かおかしなことをされるのではないかという恐怖心が入り混じった表情をして、姫奈乃は慌てて少し後ずさりをしようとした。その拍子に、左足首に再び激痛が走ったので、とっさに左足首を手で押さえた。
"痛いっ…。"
姫奈乃の表情と手の動きに気が付いたのだろう。彼は、静かな声でこう言った。
「大丈夫。変なことはしないから。ちょっと動かないでじっとして。」
なぜかその人の声は、姫奈乃の心を落ち着かせてくれた。そして、その人はゆっくりと手を伸ばし、ショートブーツのファスナーを下ろしてそれを脱がせると、姫奈乃の左足首に触れた。
「医者じゃないからちゃんとしたことは言えないけど、たぶんちょっとひねっただけだと思う。まだ今は普通だけど、後になったら腫れてくるかもしれないから、早く家に帰って冷やしたほうがいい。」
彼はそう言うと、カバンの中に入ったビニール袋を取り出してブーツを入れて手にさげてから、潰されたパンが入った袋を拾い上げ、ちょっと貸してと言って姫奈乃の手から取ったCDショップの袋を手にし、地面に座り込んで立ち上がれずにいる姫奈乃を、まるでお姫様抱っこするかのようにひょいと抱きかかえてそのまま歩き出した。
"え…?ちょ…ちょっと…何するの!!"
わけが分からず、慌てて地面に降りようと、足をじたばたさせながら、そのせいで起こる激痛に顔をゆがめた姫奈乃に、彼は、
「いいからじっとして。」
とだけ言ってそのまま歩き続け、近くのバス停のベンチの前まで歩くと、足を伸ばすように、横向きに姫奈乃を座らせた。
「あのさ、家、どこ?」
"え?"
彼からのいきなりすぎる質問に、姫奈乃は驚いた顔をする。
「だから、家どこ。」
再びそう聞かれて、姫奈乃は思わず首を横に振った。
彼が、しゃがみ込んで目線を合わせながら再び話しかけてくる。
「どうしたの?君、耳が聞こえない?…じゃないか…。あ、もしかして、声が出せない?」
彼のその言葉にハッとした姫奈乃は、カバンから慌ててノートとペンを取り出し、急いでノートにペンを走らせる。
"私は失声症なので、声が出せません。助けていただきありがとうございました。私は1人で帰れるので、大丈夫です。"
姫奈乃はノートにそう書き終えると、それをその人に見せた。
「その足じゃ、1人で帰れないでしょ。声が出せないんじゃタクシーも何も呼べないだろうし。」
“だから私は大丈夫です。助けてくださってありがとうございました。”
ズカズカと自分の中に入ってくるような態度に少しイラッとしながら、姫奈乃は走り書きしたノートを見せた。
「俺からしたら全然大丈夫そうにみえないんだけど。」
しかし姫奈乃は、目の前の男からそう言われて、何も反論できないまま、ペンとノートを手にしたまま、そのままうつむいてしまった。
「そっか、あの時は名前も何も言わなかったから、俺のこと何もわからないか。俺の名前は天羽煌輝(あもうこうき)。歳は23歳。その足と声じゃ1人で帰れないでしょ。だから俺が送っていくから。家の場所を教えて。それと、君の名前は?」
再びそう言われた姫奈乃は、何かを考え込むようにして、少しの間下を向いたまま、諦めたようにノートにペンを走らせて、名前と部屋の住所を書くと、それを煌輝(こうき)に見せた。
相川姫奈乃(あいかわひなの)さん…23歳…。相川さん、俺と同い年なんだ。教えてくれてありがとう。家の場所は大体わかったから。近くになったら道が合ってるかどうかだけ聞くから、うなずいたり首をふったりして返事してくれない?」
姫奈乃はこっくりとうなずいた。
「ちょっとここで待ってて。車取ってくる。さすがに駐車場まで抱きかかえられて行くのは恥ずかしいでしょ。」
煌輝は少し笑みを浮かべながらそう言うと、そのまま走り去ってしまった。

数分後、姫奈乃が普段運転しているのと同じ黒い車が近くに停まり、その中から煌輝が降りてきて、助手席のドアを開けると、助手席のシートを思いっきり後ろまで引き下げた。
"あ、車は私と同じか…。"
「今乗せるから。」
煌輝はそう言って再び姫奈乃を抱きかかえ、そのまま助手席に乗せると、姫奈乃が持っていた荷物を後部座席に乗せ、車のドアを閉めた。
「その体勢で足痛くない?大丈夫?シート思いっきり後ろまで下げたから、足伸ばしてていいから。」
運転席に乗り込んでドアを閉めながらそう尋ねる煌輝に、姫奈乃は首を縦に振ってうなずく。
「あまり振動とか起こさないように運転するけど、もし振動とかで足が痛くなったりしたら、俺の服掴んで教えて。」
機転の利いた煌輝のその言葉に、姫奈乃は再びうなずいた。車内からは、姫奈乃が大好きなシンガーソングライターの曲が流れている。
"え…?何でこの曲…?天羽さんも好きなのかな…。"
姫奈乃が不思議そうな顔をしているのに気づいたのだろう。"何で私の大好きな歌手を知ってるんですか?"と姫奈乃がノートに書くよりも先に、煌輝が口を開いた。
「あ、ごめん。こんな曲わかんないよな。俺、今どきの歌手とかじゃなくて、結構昔にデビューした人なんだけど、この人の曲が大好きでさ。今音消すから。」
そう言ってカーオーディオに手を伸ばそうとする煌輝の腕を姫奈乃が掴んで制止し、首を横に振る。
「え?どうかした?」
慌ててノートにペンを走らせる姫奈乃。
"音…消さなくていいです…。私も大好きだから…。"
「え?じゃあまさか、持ってた音楽堂の袋の中身って…。」
姫奈乃は煌輝が言おうとしたことを理解し、静かにうなずいた。
「そっか。じゃあ俺と同じか。じゃあ、とりあえず出発するから。」
姫奈乃がうなずいたのを確認した煌輝は、ゆっくりと車を発進させた。
"この人は、何でここまで気を遣ってくれるの…?何でこんなことしてくれるの…?昔会ったことがあるから?でも、会ったのはあの日1回だけだし…。だけど私、あの日会っただけだし、さっき名前も教えてもらったばっかりなのに、結局天羽さんの車に乗っちゃった…。これじゃお持ち帰りされても何も言えないよね…。"
そんなことを考えながら車内の音楽を聴いていると、姫奈乃の大好きな曲が流れてきた。聴いていると、なぜか心が落ち着く曲だ。
「俺、この曲大好きなんだよね。聴いてると何か心が落ち着くし。」
煌輝はそうつぶやくと、その曲を少しだけ口ずさみ始めた。

姫奈乃が頭の中でいろんなことを考えているうちに、あっという間に部屋の前まで着いてしまった。
「着いたよ。」
姫奈乃がうなずく。
「ちょっと待ってて。」
煌輝はそう言ってエンジンを切ると、姫奈乃が手に持っていた袋たちと、ブーツが入った袋を後ろから下ろして手に提げると、器用に助手席のドアを開けた。煌輝は姫奈乃の体とシートの間に手を入れて、ひょいと姫奈乃を抱きかかえると、体を使って器用にドアを閉めてロックし、そのまま歩き出した。姫奈乃の部屋は、オートロックがついて、駐車場もついたおしゃれな感じのマンションだった。
「ゴメン、鍵、貸してくれない?」
オートロックのドアの前で、煌輝が少し困ったような笑みを浮かべながらそう言った。煌輝に言われてハッとした姫奈乃は、車が着く直前にカバンから出してずっと握りしめていたキーケースを開けて、鍵を握って手渡した。煌輝は姫奈乃を抱きかかえたまま器用にオートロックを開けてエレベーターの前まで行くと、そのままボタンを押した。エレベーターに乗り込んで、姫奈乃が住む階につくと、姫奈乃の部屋の前まで行き、鍵を開ける。姫奈乃を下ろす気配はない。姫奈乃が、いつまで私はこのままなのだろうと思い始めていると、煌輝は姫奈乃を抱きかかえたまま、靴を脱ぎながらお邪魔しますと言って部屋に入り、部屋のソファーに姫奈乃を座らせてから、ソファーの前のテーブルの上に姫奈乃が持っていた荷物を下ろした。
「氷とビニール袋ある?それと湿布と包帯と長いタオルも。」
姫奈乃は、煌輝が何をしようとしているのかをすぐに察して、慌ててノートにペンを走らせる。何より、ほとんど見ず知らずの人にあまり家の中を見られたくないという感情が先立ってしまったからだ。
"送っていただき本当にありがとうございました。後は自分でやるから大丈夫です。"
「いいから場所どこ。できるだけ安静にしとかなきゃダメでしょ。」
煌輝に強くそう言われて、姫奈乃は渋々、何がどこにあるのかをノートに書き記し、それを煌輝に見せた。
姫奈乃の部屋にはリストカットの傷を隠すための包帯がそのまま置かれていた。でも、その包帯は、声を失ったショックでリストカットをしたとき以来、使われたことはなかった。
「ん。ありがと。」
煌輝はそう言ってすぐにすべてのものを探し出すと、てきぱきと応急処置をし始めた。
“冷たっ!!”
「ごめん、痛かった?」
姫奈乃の表情に気が付いた煌輝がそう言ったので、姫奈乃はゆっくりと首を横に振る。
“痛かったんじゃなくて、氷が冷たかったからびっくりしただけで…。”
湿布を貼って包帯を巻いた上からタオル越しに氷を入れた袋をあて、それをそのタオルで結び、応急処置を終えた煌輝は、
「それならよかった。痛みがひどくなるようだったら病院に行ったほうがいい。じゃあ俺はそろそろ帰るから。」
と言って立ち去ろうとした。姫奈乃がそんな煌輝の服を掴んで、煌輝を引き留める。慌ててノートにペンを走らせて、それを煌輝に見せる。
“今日は本当にありがとうございました。”
「あ、ちょっとそのノートとペン貸してくれないかな。」
煌輝は、そう言って姫奈乃からノートとペンを受け取ると、ノートに何かを書き始めた。
「これ、俺の連絡先。さっきあの場所でまた会ったのも何かの縁だと思うから、何かあったらいつでも連絡して。じゃあ。」
煌輝はそう言いながら姫奈乃にノートとペンを手渡すと、そのまま部屋を去って行ってしまった。

何が起こったかわからないような状況になった姫奈乃は、煌輝から返されたノートを呆然と見つめていた。ノートには名前と携帯の電話番号に始まり、メールアドレス、LINEのID、生年月日や血液型まで丁寧に記されている。さっきまで何が起こっていたのか、頭の中で整理が追いつかない。姫奈乃はそのページを開いたままテーブルに置いて、買ったばかりのニューアルバムに手を伸ばした。予想通り、こちらは無事だったようだ。中を開けて中身も無事であることを確認すると、それを再び元通りにしまった。そして、パンが潰れてしまったのはしょうがないし、潰れてしまった以外は無事だったので、とりあえずそれを食べようと思い、今度はフラワーのビニール袋に手を伸ばした。何か袋に厚みがあるような気がしつつも、手を伸ばして袋を開けると、中には、潰されていないパンが入っていた。
しかも中身は、姫奈乃が買ったのと全く同じものだった。
“天羽さん、もしかして袋を間違えたのかな?でも、荷物を下ろしてくれる時に何かガサゴソしてたような…。え?まさか、天羽さん、わざと…。”
そう、姫奈乃の予想通り、煌輝はわざと、自分が買っていた潰れていないほうのパンを車から降ろし、部屋に置いていってくれたのだ。そのことに気づいた姫奈乃は驚いた。
“え…どうしてここまで…。”
慌ててスマホとノートを手に取った姫奈乃。
"パンのこと言わなきゃ…。お礼言わなきゃ…。"
そう思ったものの、結局、何と書いて送ればいいのかわからず、スマホとノートをを見つめたまま、メッセージを送ることはできなかった。

-2021年1月-
何もメッセージを送れないまま、2週間が過ぎ、年が明けて、司法書士試験対策のオリエンテーションの日を迎えた。足首は少しひねっただけだったようで、もうすっかりよくなっていた。車で行こうかどうしようか迷った挙句、バスに乗って学校へと向かう。職員に呼ばれて、声のことを確認された。その後、説明された通りの教室に入ると、まだ誰も来ていなかった。バスの時間もあったせいか、来るのが少し早すぎたようだ。
"これからは定期を買ってバスで通学しようか、それとも車で通学しようか…。"
そんなことを考えながら誰もいない教室に1人で入って、目立たないようにと、最後列の端の席に座る。
“ちょっと早すぎたかな…。音楽を聴きながらオリエンテーションの資料でも見ておこう…。”
そう思った姫奈乃が、カバンの中から音楽プレイヤーを取り出し、イヤホンを耳にはめようとしたその時…。
“ガラガラガラ。”
いきなり教室のドアが開いた。ドアが開く音に気付いて、ふとドアの方向を見ると、そこには、教室の中に入ってこようとする煌輝の姿があった。
“え…何で…。”
一瞬だけ煌輝と目が合って、姫奈乃が驚いた顔をするのと同時に、煌輝も驚いた顔をした。
「あれ?相川さん?何で…?もしかして相川さんも?」
姫奈乃はうなずいて、ノートとペンを取り出し、文字を書き記すと、それを煌輝に差し出した。
“行政書士試験受けて、合格が確定したから、最終目標の司法書士試験を受けるために、ここの講義を受けようかなって…。”
「じゃあ俺と全く同じか。ところで、足の具合はどう?だいぶ良くなった?あの日から何も連絡がなかったから、ずっと気になってて。部屋に行こうかとも思ったけど、勝手に押しかけるのは悪いかなって思ったし。」
“ありがとうございます。足のほうはほぼ治りました。”
「そっか。それならよかった。あ、隣、座っていいかな?」
姫奈乃がゆっくりとうなずく。ダメですと断れるはずもない。うなずいてから、ふと思い出した姫奈乃は、慌ててカバンから財布を取り出して、中から300円を取り出すと、煌輝に差し出した。
「え?このお金何?」
慌ててノートに文字を書いていく姫奈乃。
“パンのお金です。この間、私が天羽さんが買った綺麗なほうのパンを食べちゃったから…。”
姫奈乃は、文字を書いたノートの上にお金をのせて、そのまま煌輝に手渡した。
「パンのお金か…別にそんなこと気にしなくていいよ。」
そう言ってお金を受け取ろうとせず、ノートを返してきた煌輝に、姫奈乃は首を振って、再びノートを押し返す。
「ホントにあの時のことは気にしなくていいから。」
煌輝がそう言いながら、ノートの上から拾い上げたお金を姫奈乃の手に握らせたので、姫奈乃は仕方なく諦めて、財布にお金をしまった。
「それと、俺たち同い年なんだから、別に普通に話してくれていいよ。」
姫奈乃は、どう返していいかわからず、黙り込んでしまった。姫奈乃が黙り込むと同時に、ぼちぼちと他の生徒たちも入室してきた。
「そういえば、相川さんって、今日は何で来たの?」
“バス。車で来る人多そうだから、バスとかのほうがいいかなって思って…。”
「そうだったんだ。俺は普通に車で来たけど。」
姫奈乃がノートに返事を書こうとしているとき、続けざまに煌輝が口を開いた。
「あのさ、よかったら…。」
煌輝が何かを言いかけた瞬間に、講師が入ってきて、
「はいじゃあ来月から始まる講座のオリエンテーションを始めまーす。」
と言い始めたので、煌輝が何を言おうとしたのかわからずじまいになってしまった。

オリエンテーションが始まったのはいいものの、煌輝が何を言おうとしたのかわからず、それが気になって、オリエンテーションの内容があまり頭に入って来なかった。煌輝が何を言おうとしたのかをずっと気にしているうちに、半分が終わり、休憩時間になった。姫奈乃がトイレから戻ってくると、すかさず煌輝が口を開く。
「あのさ、よかったら、俺、帰り送って行くよ。バスで帰ったら、帰りもバス代かかるし。」
姫奈乃は首を横に振った。
"ありがとう。でも、一人で帰れるから大丈夫。"
「いいよ。俺が送っていったら、バス代浮くでしょ。あ、それと…。」
煌輝が言いかけたところで講師が戻ってきて、休憩時間が終わってしまい、姫奈乃はまたしても、煌輝が言おうとしたことがわからずじまいになってしまった。
“何で大事なところで休憩時間終わっちゃうのよ…。”

煌輝が言おうとしたことを考えているうちに、講義は終わりを迎えた。姫奈乃は荷物をカバンにしまって、さっさと帰ろうとしていた。
「待って相川さん。俺が送る。」
“ありがとう。でも1人で帰れるから。”
そう書いたノートを見せた後、そのノートをカバンにしまいながら立ち去ろうとする姫奈乃。
「…お礼!!」
“え…?”
煌輝にそう言われて、姫奈乃は煌輝のほうをパッと振り返った。
「パンのお礼してくれようとしたでしょ。だったら、帰りは俺に送らせて。それをパンのお礼ってことにするから。」
そう言われた姫奈乃は、何も言い返せなくなって、その場に立ち尽くした。
“パンのお礼をしたがってるなら、帰りは自分に送らせてくれって、何かずるい…。”
そう思いながらも、そう言われてしまって何も言い返せなくなった姫奈乃は、結局煌輝の車に乗り込んだ。車内で流れているのは、相変わらず、姫奈乃と煌輝が好きなシンガーソングライターの曲だ。走り出してすぐに信号待ちになったところで、煌輝が口を開いた。
「相川さんって、今日は急いで帰らなきゃいけなかったりする?」
姫奈乃はちょっとうつむき気味で首を横に振った。
「じゃあちょっと寄り道していい?」
姫奈乃は何も反応しなかった。
“寄り道…。きっとホテルか家かどこかに連れ込まれちゃって、いろいろされちゃうのかな…。でも、送ってもらうことを選んだのは自分だから、自業自得か…。どうせまた、心の傷が1つ増えるだけだ…。”
姫奈乃の頭の中では、いろんな思考がぐるぐると渦巻いていた。
「ごめん、やっぱりあまり知らない男からいきなりこんなこと言われたら不安だよな。今の話は…。」
姫奈乃は気がつくと、煌輝がそう言い終わらないうちに煌輝の服を引っ張りながら、必死で首を横に振っていた。
"違う、違うの…"
「大丈夫。相川さんが不安になる気持ちもわかるし。でも俺はちゃんと部屋まで送り届けるから。って言っても信じてもらえないだろうけど。」
姫奈乃は、煌輝のことを疑ってしまった自分に激しい嫌悪感を抱き、無言のままうつむいた。

その後煌輝は、少し車を走らせたところで、有名なコーヒーショップの駐車場に車を停めると、
「ちょっと待ってて。」
と言って、車のエンジンをかけたまま、そのまま車を降りて店の中に入って行ってしまった。
“え…何…!?私置き去り…!?”
数分後、持ち帰り用のコーヒーカップを2つ抱えて車に戻ってきた煌輝は、そのうちの1つを姫奈乃に手渡した。
「はいこれ。普通のブラックコーヒーだけど。あ、相川さんブラックで大丈夫だった?俺はいつもブラックだから、つい癖で2つともそうしちゃったけど。」
姫奈乃はうなずきながら、車内のドリンクホルダーにそれを一旦置いてノートとペンを取り出し、
“大丈夫。私もホットは基本ブラックしか飲まないから。”
と書いて手渡した。煌輝は、姫奈乃が再びカバンに手を伸ばして財布を取り出そうとするよりも先に、
「あ、別にお金とか気にしなくていいよ。今日は俺にパンのお礼してくれるんでしょ。だったら俺におごらせて。それもパンのお礼ってことで。」
と言いながら、再び車を発進させた。車が発信してすぐに曲が変わり、左足首をひねった姫奈乃が家まで送ってもらった日と同じように、大好きな曲が流れだした。あの日と同じように曲を口ずさむ煌輝。そのうち、どこかの駐車場に入って、車が停まった。
「着いた。」
連れてこられたのは、姫奈乃もたまに行く小高い丘だった。丘の上にはベンチなどが設置され、ドーム型の屋根がついた展望台があり、そこからは街を見渡せる。
“え?何でここ…?てっきりホテルかどこかに連れ込まれるかと思ってたのに…。それともまずはここに連れてきていったん安心させておいて、この後ホテルに連れ込んだりするのかな…。”
さっき煌輝を疑ってしまった自分自身に嫌悪感を抱いたばかりなのに、また煌輝を疑ってしまっていた。姫奈乃は、そんな自分自身につくづく嫌気がさした。
そんなことを考えながら車を降りて歩き、煌輝と共に、丘へ上るための階段を上って行く。
「相川さん足大丈夫?階段上がれそう?」
姫奈乃を気遣ってそう言葉をかけてくれる煌輝に、姫奈乃はゆっくりとうなずいた。丘に上ってから展望台へと続く階段を上ると、展望台の頂上から街を見下ろしながら、煌輝が言った。
「ここからは街がよく見えるし、夜になると街の明かりが綺麗なんだよね。だから俺はここが好きなんだ。」
煌輝のその言葉に、私もという感じで姫奈乃もうなずいて、煌輝と一緒になって街を見下ろす。
“やっぱり私もここが好きだな…。”
そんなことを考えながら街を見下ろしていると、煌輝が再び口を開いた。
「相川さん足痛くない?少しベンチに座ろうか。」
2人はほぼ同時にベンチに腰を下ろした。少しの沈黙の後、煌輝は意を決したように立ち上がり、姫奈乃の目を見ながらこう言った。
「相川さん、俺と友達になって。」
煌輝にいきなりそう言われて驚いた姫奈乃は、わけがわからず、ポカーンとした顔をして煌輝を見つめた。
「俺さ、あの日、相川さんと再会した時、最初はまさか手を差し伸べた人がまさかあの時図書館にいた人だなんて全然思わなくてさ。5年前のあの時から全然タイミングが合わなくて、この間再会するまで、結局ずっと会えてなかったわけだし。だから、この間、大丈夫ですか?って声をかけた人が5年前に図書館でぶつかった人だって、相川さんだって気づいた時、本当に驚いた。まさか、あんなところで再会するなんて思ってなかったし。」
煌輝は、姫奈乃から目を逸らすことなく話を続けた。
「まあ、相川さんが失声症で話せなくなってるって知った時は少し戸惑ったけど。でも俺は、気がつくとなぜか、相川さんを助けたいって思ってた。だからあの日、家まで送って行った。乗りかかった船じゃないけど、何か俺で力になれることがあればいいなと思って、連絡先も書いた。俺は、相川さんがもしかしたら連絡くれるかなってちょっとだけ期待してたし、あの日からずっと相川さんのことを気にしてたし、心配もしてた。怪我の具合とか、声のこととか。でも、相川さんからは連絡がなかった。きっと、何を送ったらいいかとか考えすぎちゃって、戸惑ったんだと思うけど。今日学校で再会して、進みたい道が同じだって知った時、ただ気にするだけじゃなくて、心配するだけじゃなくて、友達になれたらなって思った。別に声が出せなくたって、友達にはなれるし、コミュニケーションをとる方法はいくらでもある。だから、俺と友達になってほしい。」
姫奈乃の顔をまっすぐに見つめながら、あまりにも真剣な目つきで話していた煌輝の顔を、姫奈乃はじっと見つめていた。そして、少しの間考え込んでしまった。
"友達…か…。私なんかでいいのかな…。それとも…天羽さんには何か思惑があるのかな…。"
「ごめん。相川さんのことまだ全然知らないのに、怪我したからって勝手に家まで送ったり、急に友達になってほしいって言ったり。やっぱり今の話は忘れて。」
考え込んでしまった姫奈乃に、煌輝はそう告げた。
"違う…天羽さんは…この間だって、あの日と同じように、私を助けてくれた…何かあったらいつでも連絡してって言ってくれた…。でも…私は…。"
いろんな考えが頭の中をぐるぐると渦巻いてしまう。
"ここまで考え込んでしまうほど、自分の心には深い傷がついてしまっているのか…。"
そう考えると、姫奈乃は、自分が少し情けなくなってしまい、少し悲しい表情になってしまった。
「相川さん、ごめん。」
その表情を見た煌輝に、再び謝られる姫奈乃。
"違う…違うの…。天羽さんのせいじゃないのに…。"
そして姫奈乃は、何かを決心したような顔をして、自分のスマホと筆談用のノートを取り出した。展望台のベンチで、煌輝に助けられたあの日からほとんど使っていないノートをパラパラとめくる。姫奈乃は、そのノートを見ながら手早くスマホを操作し始めた。その直後、煌輝のスマホが短い着信音を発した。
"ピンポン"
煌輝は、LINEの音に気が付いた顔をしたが、一瞬自分のスマホに目を向けただけで、それを開くことなく姫奈乃の隣に座ったままだった。姫奈乃は、煌輝が自分に気を遣ってスマホを観ていないことにすぐに気が付いたので、すかさず煌輝の肩をポンポンと叩く。
「ん?何?」
姫奈乃は続けざまに自分のスマホを取り出して一生懸命スマホを指さした。
「え?俺のスマホがどうかした?」
一生懸命にスマホを指さす姫奈乃を見て、煌輝が自分のスマホを開く。届いているのは、今さっき通知音を発した誰かからのLINE1通だけらしい。煌輝がその通知を開くと、「姫奈乃」という名前が目に入った。慌ててそこをタップすると、煌輝が姫奈乃のノートに書いたのと同じように、姫奈乃の連絡先や誕生日や血液型など、全てが書かれていた。
「え?これ…。」
煌輝が言い終わらないうちに、またスマホがLINEの通知音を発する。
”これが…今の私の答え…。これからよろしくお願いします…。”
新しく届いた姫奈乃からのメッセージには、こう表示されていた。メッセージを見た煌輝に向って、姫奈乃はにっこりと微笑んだ。
「相川さんありがとう。これからよろしく!!」
”姫奈乃でいい…。”
”友達なんだから…そんな堅苦しい呼び方はなしでしょ…。"
少しだけ顔を赤くしながら送ってきた姫奈乃に、煌輝が笑いながら答える。
「俺のことも煌輝でいいよ。ていうか姫奈乃、ちょっと顔赤い。」
"え、ヤダちょっと、何見てんのよー。"
「だって顔赤くなってるから。」
笑いを堪えきれず、笑いながら話す煌輝。
"ちょっと、私が怒ってるのに笑うとかありえないんだけど‼︎(怒)"
煌輝はなおも笑いながら、
「ごめんごめん。姫奈乃が怒ってるのなんかかわいくてさ。」
"罰として今日は私をちゃんと送り届けること。そもそも、私に時間あるかなんて聞いてきて、ここまで連れてきたのは煌輝のほうなんだからね?"
「ハイハイ。姫をきちんと家まで送り届けるのが俺の役目です。」
"わかればよろしい。"
姫奈乃はそう返しながら、声を出せぬままケラケラと笑い出した。
「姫奈乃が笑ってくれた。いつかきっと、声を出して笑える日が来るといいな。」
煌輝にそう言われて、姫奈乃が一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、煌輝は姫奈乃のその表情を見逃さなかった。
"ねぇ。"
悲しそうな表情を見られたと悟った姫奈乃がそう送って、ガラッと話題を変えようとする。
「ん?」
"そういえば私たちって、私が図書館で転びそうになったあの日から、この間私が煌輝に助けてもらうまで、全然会ってなかったのね。"
「そうだよな。でも俺は、少し前に姫奈乃を助けたあの日、大丈夫ですか?って声をかけた時、俺はすぐに、あの時図書館にいた人だってわかった。だって姫奈乃は、図書館で出会ったあの時と変わらず綺麗だったから。」
"私も、煌輝に助けてもらった時、昔図書館で私を助けてくれた人だって気づいた。だって煌輝も、あの時のまま全然変わってなかったから。"
「でも、あの日俺が助けた姫奈乃は、とても寂しそうで、とても悲しそうに見えた。それは今も同じ。姫奈乃はとても寂しそうで、悲しそうに見える。声を失くすくらいに傷ついて、何もかも1人で背負い込んで、いっぱいいっぱいになってるのかなって。」
煌輝のその言葉に、姫奈乃は一瞬だけ顔を曇らせたが、すぐに表情を作り直し、おどけてみせた。
"私は大丈夫。話すことは出来ないけど、別に何かあるわけじゃないし。それにほら、私はこの通りピンピンしてるから。"
煌輝は姫奈乃の顔が一瞬だけ曇ったのを見逃さなかったが、それ以上は深追いしなかった。
「そっか。でももし何かあったら、俺でよかったらいつでも話聞くから。」
”私は大丈夫。でもありがとう。”
「ごめん急に連れ回したりして。外も冷えてるし、姫奈乃が風邪を引いてもいけないから、そろそろ帰ろうか。」
”うん。でも気にしないで。私は大丈夫。”

姫奈乃は、煌輝と再会してからの煌輝の言動を見て、今まで関わってきた男たちとは何かが違うなと感じていた。でもその一方で、今までと同じようにまたいつか傷つけられたりしてしまうのではないかという考えも捨てきれずにいた。
展望台からの帰りの車中でも、今度こそお持ち帰りでもされてしまうのではないかと覚悟を決めていた姫奈乃だったが、結局家まで送ってもらっただけで、何か変なことをされたりすることはなかった。むしろ煌輝は、姫奈乃に気を遣って優しくしてくれてばかりだった。
「ごめん、急に寄り道したから遅くなっちゃって。」
”ううん、ほんとに気にしないで。”
”煌輝って不思議な人だな…。このままお持ち帰りされるかと思ったのに、何もなかったし、むしろ私に優しくしてくれてる気がする…。”
そんなことを考えながら姫奈乃が煌輝の車を降りようと、ドアに手をかけたその時…。
「あ、ちょっと待って!! 姫奈乃、明日って時間ある?」
"え!?"
煌輝の唐突な発言に、姫奈乃は驚いて、これしか返すことができなかった。
「いや、だから、明日って、時間空いてる?」
"…空いてるには空いてるけど…。"
「よし、じゃあ明日は朝9時半に迎えに来るから。」
"へ!?え!?ど、どういうこと!?"
「明日時間空いてるなら、俺に付き合って。」
"え!?えーと…。いきなり俺に付き合ってって言われても…。"
いきなりの提案に困惑している姫奈乃に煌輝は、
「俺たちが友達になった記念。あと、パンのお礼も。」
と言った。
"え、だって今日のこれがパンのお礼だって…。"
「明日は俺に付き合って。それもパンのお礼ってことで。」
笑顔で煌輝にそう言われてしまった姫奈乃は何も言えなくなってしまい、
"わかった…。"
とだけ返すしかなかった。
「じゃあ明日迎えに来るから、姫奈乃が行きたいとこ考えといて。よろしく。」
"わかった…。今日は送ってくれてありがとう。"
姫奈乃はLINEでそれだけ送ると煌輝の車から降りて、自分の部屋へと戻った。

部屋に戻った姫奈乃はソファーに座り、さっき起こった出来事を思い返していた。でも、考えれば考えるほど訳が分からなくなって、頭の中がパニック状態になりそうだった。
"あ、えーと、帰りに送ってもらう途中でコーヒーを奢ってもらって、そのあと展望台に連れていかれて…煌輝と友達になってくれって言われたから友達になって…家まで送ってもらったときに明日会えないかって言われて、なんだかんだでOKしちゃって…。"
1つずつ、さっき起こった出来事を頭の中で整理していく姫奈乃。そして、明日の朝9時半に迎えに来ると言われたことを思い出した。
"あ、明日は朝から煌輝と会うんだ…。何着て行こう…。明日来て行く服を考えなきゃ…。それもそうだけど、明日行きたいところを決めとけって言われちゃったけど、どうすればいいんだろう…。急に言われたって、よくわかんないよ…。これってデートってこと…?それとも友達として遊びにいこうってこと…?私が何も決めなかったら、ここぞとばかりにホテルとかに連れ込んじゃったりするのかな…。"
姫奈乃は、頭が爆発しそうになるくらいに1人で考え込んでいた。
"カフェに行って、海を見に行って…買い物をして…とかこんな感じでいいのかな…。多分こういうことだよね…。いや、違う、これってデート…?"
姫奈乃は、考えれば考えるほど分からなくなった。
さっきまでの出来事と、帰り際に煌輝から言われたことが頭から離れない。風呂から上がってスマホを見てみると、新着LINEを知らせる通知がきていた。
メッセージは煌輝からで、内容は明日の約束についてだった。
"姫奈乃は明日どこに行きたいか考えてたりする?"
姫奈乃が平静を装って返事を返す。
"うん、お風呂の中でずっと考えてて、今お風呂から上がったとこ。"
"それで、行きたいところは大体まとまった?"
"うーん、カフェとか海とか買い物とかかな…。あ、あと、本屋さん。どうしても買いたい新刊の小説があって…。"
"マジで?俺も買いたい新刊があるから、ちょうどよかった。"
姫奈乃は煌輝とLINEでやり取りして、当たり障りのない返事を返しながら、クローゼットの中を探す。あれこれと迷った挙句にコーディネートが決まったところで、姫奈乃はふと考えた。
"そういえば、煌輝はパンのお金も何も受け取ってくれないし、お礼がしたいって言えば、俺に送らせてとか、時間があるなら俺に付き合ってとかそんなことばっかり…。私のほうが煌輝にお礼しなきゃいけないのに、煌輝にしてもらうことばっかりだ…。どうすればいいのかな…。"
そんなことを考えていると、煌輝とのLINEの合間に、毎日のように父親から届く、姫奈乃を心配するLINEがいつものように届いた。
姫奈乃はそのメールにパパパっと返信をする。
"いくら声が出せない私を心配してるからって、毎日のように連絡をよこさなくたっていいじゃん…。私はそれなりにやってるし…。"
心の中でそんなことを思いながら父親に返信していた姫奈乃は、パッと思いついた。
"あ、料理!!料理を作って食べてもらったら、それをお礼にできるかな…。いや、でもそれは彼女が彼氏にしてあげることだろうし、いきなり料理って、絶対に重いかも…。でも、それ以外考えつかないし…。"
結局、手料理を振る舞うことにした直後、頭の中で冷蔵庫の中身を思い浮かべた姫奈乃は、冷蔵庫の中に食材がほとんど入っていないことに気が付いた。まだ買い物に行っていなかったのもあるが、声を失ってからめっきり食が細くなってしまったため、あまり食材を買いこまなくなってしまったのだ。
"あ…食材どうしよう…。家にはほとんどないし…。少しだけ残ってたご飯も、卵雑炊にしちゃったしな…。
冷蔵庫の中を見てがっくりとうなだれる姫奈乃。
姫奈乃は考えた挙句、適当にパパっと着替えてから、24時間営業のスーパーに買い物をしに行った。買った物を冷蔵庫にしまい、再び部屋着に着替えて目覚ましをセットする。
ベッドに入ってスマホをチェックすると、煌輝からの返信が入っていた。
"じゃあ明日は本屋行ってカフェ行って、買い物したり海観に行ったりしようか。"
"うん、わかった。"
"あ、やっと返信きた。もしかしてもう勉強とかしてたりした?"
"ごめんね。ちょっと車で買い物しに行ってて…。"
"え?こんな時間に買い物?1人で大丈夫かよ?"
"あ、うん、ちょっと冷蔵庫が空っぽだったから、オールに買い物しに行っただけ。あそこは24時間営業だし。だから大丈夫。"
"そっか。それだったらいいんだけど、姫奈乃は今、状況が状況だから、ちょっと気になってさ。"
"ごめんね。わざわざ心配してくれてありがとう。でももう寝るとこだから大丈夫。"
"わかった。ゆっくり休めよ。ちゃんと休まないと、朝起きられなくなっても知らないからな。"
"私はちゃんと起きられるから大丈夫です‼︎"
姫奈乃は、煌輝がケラケラと笑いながらメッセージを読んでいるであろうところを想像して、
"もー、煌輝のいじわる…。"
と、心の中でこんなことをつぶやいてみた。
"とにかく今日はもうそろそろ寝ないと。"
"うん、おやすみなさい。"
"おやすみ。じゃあ明日な。"
煌輝から送られてきた文を確認し、スマホを閉じてからベッドに入った。
しかし、今日の出来事を思い返すと、なかなか寝付けない。
結局姫奈乃は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。

心の闇

翌朝、ほとんど眠れぬままに目を覚ました姫奈乃は、着替えやメイクなどの準備を済ませて、特にすることもなく時間を持て余していた。
煌輝が迎えに来る時間が近づくにつれて、だんだんと緊張が高まってくる。
時間を持て余していたかのように見えたが、あっという間に煌輝が迎えに来る時間の5分前になってしまった。
"あ、そろそろ外に出とかなきゃ…。"
姫奈乃がエレベーターを降り、オートロックのドアを抜けて外に出た瞬間、ちょうど煌輝の車が目の前に停まるところだった。
「姫奈乃おはよう。とりあえず乗って。」
助手席の窓を開けてそう言った煌輝が運転席に乗ったままドアを開けてくれたので、姫奈乃はとりあえず煌輝の車に乗り込んだ。
「うーん、じゃあとりあえず本屋からでいい?俺、どうしても買いたい小説があるんだけど。」
姫奈乃は即答するかのように頷いた。
"ホント?私も買いたい小説があるの。やっと続きが出たからとても楽しみにしてて…。"
「そっか、俺のもやっと新刊が出たとこなんだ。もしかして、俺たちが買いたい小説、同じだったりして…。いや、さすがにそれはないか。」
笑いながらそういう煌輝。
"そんな、私たちが買いたい小説が同じだったら、それこそびっくりよ(笑)"
「そうだよな。まあとりあえず本屋に行くか。」
笑いながらそう答えた煌輝は、車を発進させた。

大きなショッピングモールの中の書店。
売り場面積も広く、本の品揃えも豊富な書店だ。
「姫奈乃が買いたい小説って何?まずそれから探そうか。」
そう言ってくれた煌輝だったが、姫奈乃はふと思い立って、こんな提案を始めた。
"じゃあこれから、お互いに買いたい小説をそれぞれ見つけてこない?そして、見つかったら、それをもってレジの前に集合。これでどう?"
「あ、なんかそれいいかも。じゃあそうしよう。それじゃまた後で。」
そう言った煌輝がすたすたと歩きだしたので、姫奈乃はまず、すぐ近くにあった売り場案内のプレートを見て、場所を確認することにした。
"えーっと、文庫本だから…。そして出版社は…。あ、ここか。"
最短ルートで目的の売り場へと急ぎ、作者名があいうえお順に並んだ本棚を探して、目的の作者を見つけ出した。
お目当ての新刊は、残り2冊しか置かれていない。
"うーん、最新刊は…。あ、あった!!やったー!!でも残り2冊か…。売り切れる前でよかった。"
喜び勇んでその小説を手に取ろうとしたその時だった。
「あ…。」
誰かと手がぶつかり、聞き覚えのある声が聞こえてくる。姫奈乃が目を横に向けると、そこには煌輝が立っていた。
"え…?"
「え?まさか姫奈乃も…。」
"そうみたいね。驚いちゃった。"
「でも音楽といい、本といい、好みが共通のものが多くて俺もびっくりした。まあとりあえず本買って次のところに行こうか。」
"そうね。"
2人はたまたま残り2冊だった小説をそれぞれ手に取り、レジへと歩き出した。
「いらっしゃいませー。」
「あの、会計は一緒でいいんですけど、袋は別にしてください。どっちもカバーありで。」
レジの店員に向かってさらっとそう言いながら財布を取り出し、中からポイントカードを出そうとする煌輝を見た姫奈乃は、慌ててカバンから財布を取り出そうとする。
「あー、いいからいいから。これは友達記念ってことで、俺からのプレゼント。」
"で、でも…"
「だったらこれもパンのお礼ってことにしといて。」
そう言いながら笑う煌輝を見て、
"何か煌輝って不思議な感じ…。"
などと考えていた。そしてこの頃から、煌輝という存在が少しずつ気になりだしていた。
ショッピングモールの中をすたすたと歩く2人。ゲームコーナーの前を通りかかると、プリクラの機械が目に留まった。姫奈乃は、初めて付き合った男に、一緒にプリクラを撮りたいと言って、いろいろと理由をつけられて断られたことを思い出し、思わずプリクラの機械に目を向けて、少しだけ悲しくなってしまった。。
「ん?姫奈乃?大丈夫?」
姫奈乃の視線に気が付いた煌輝がすかさず声をかける。
"あ、ううん、何でもない。大丈夫。"
「それならいいけど。プリクラの機械の方見てたからさ。」
"あ、ちょっと昔のことを思い出しただけだから、ごめんね。"
「別に謝らなくてもいいよ。」
姫奈乃は平静を装ってうなずいた。

再び歩き出す2人。
姫奈乃がふと目をやると、視線の先に、かわいいクマのストラップたちが飛び込んできた。
"あ、あれかわいいなー。"
クマの首元には、何かキラキラ光るものがついていたので、姫奈乃は、ここは天然石を使ったアクセサリーなどを扱うお店だから、そういうたぐいの石がついているのだろうと考えた。かわいかったので、煌輝に声をかけて店に買いに行こうとも考えたが、ただでさえ友達記念やパンのお礼にしてくれという名目で本を買ってもらったのに、煌輝に声をかけたらきっとまた何か言いくるめられて煌輝がお金を払おうとするだろうと考えると、買いに行きたいと声をかけることはできず、そのまま煌輝に並んで歩きだした。
ショッピングモールの案内板と休憩用のベンチがあるところにつくと、煌輝はいきなり、
「俺、ちょっとトイレ行ってくるから、ここに座って待ってて。」
と言い残し、来た道を戻って行ってしまった。でも、それだとトイレまでの道は遠回りになることに姫奈乃は気が付いていた。
"え?ちょっ…そっちに行ったらトイレは遠回りなのに…。"
そのことをLINEで煌輝に伝えるも、既読がつく気配すらない。なかなか戻ってこない煌輝に、姫奈乃がどうしたんだろうと不安を募らせ始めた頃、煌輝がようやく戻ってきた。
「ごめんごめん、レジが混んでてさ。」
"え?レジ?私を置いてどこかで買い物してたの?"
「実は、トイレに行くっていうのはウソだったんだ。はいこれ。」
煌輝は、手に持った小さな紙袋を差し出してくれた。紙袋には、さっき姫奈乃が目にした天然石などのアクセサリーを扱うお店のロゴが印刷されている。
「開けてみて。」
李桜が小袋を受け取って中を開けると、そこには、李桜がかわいいと思っていたクマのストラップが入っていた。
"え…?何でこれを…。"
「だって姫奈乃、さっきこれ見てただろ?だからきっと欲しいんだろうなと思って。」
"え…ありがとう…でもこれ…。"
「お金だったら気にしなくていいから。友達記念ってことで。」
"ありがとう…。すごくかわいい…あ…ペリドット…私の誕生石…。"
「そう、そのストラップさ、首のところに誕生石がついてるんだよ。姫奈乃は8月生まれだろ?だからちゃんとペリドットがついてるやつ探してきた。」
"嬉しい…ありがとう…。"
姫奈乃は早速、そのストラップをスマホのカバーにつけ、ブラブラと振って煌輝に見せた。
"ふふふ、かわいい(*^-^*)"
「ほんとだ、姫奈乃と同じでかわいいじゃん。」
とっさにそう言われて、姫奈乃は思わず顔を赤くした。
"ちょ、ちょっと、いきなり何言い出すのよ。"
「姫奈乃、顔赤くなってる。」
"もう、私のことからかってるでしょ。でも、本当にありがとう。これから大切にするね。"
「よし、もうちょっとで昼だし、とりあえずご飯でも食べに行こうか。姫奈乃は何か食べたいものとかある?」
"うーん、そうね…。"
「姫奈乃カフェがいいって言ってたじゃん?それならおすすめの店が1軒あるんだけど。」
"え!?どこ!?行きたい!!"
「カフェSakuraって店。ワンプレートランチとかデザートとか結構おいしいから、たまに行くんだけどさ。」
"え!?Sakura!?おいしいから私もたまに行くの。私、おしゃれなカフェとか大好きだから。"
「じゃあもうそこで決まりじゃん。」
"そうね。楽しみ!!"
「あそこ人気だし、昼時は混むから、もうそろそろ行こうか。」
"うん。私もそのほうがいいと思う。"

Sakuraの店内に入って席に着くなり、2人はほぼ同時に全く同じメニューを選択した。
「俺はワンプレートランチデザートドリンク付きで、飲み物はホットコーヒー、デザートはチーズケーキ。李―。」
"私はワンプレートランチデザートドリンク付きで、ホットコーヒーとチーズケーキ。ヾ(@⌒ー⌒@)ノ"
「チョイス全く一緒じゃん。」
煌輝はそう言ってケラケラと笑いながら、
「すみません。」
と店員を呼んだ。
「ワンプレートランチデザートドリンク付きで、飲み物はホットコーヒー、デザートはチーズケーキ。これが2つ。」
「かしこまりました。少々お待ちください。」
2人はSakuraでのランチに舌鼓を打ちながら、楽しく談笑した。
2人が再開した日に購入していたアルバムの感想、2人が大好きなシリーズ物の小説についてのあれこれ…。
しかし、話すのは煌輝だけで、言葉を話せない姫奈乃は、ただLINEで返すだけ。姫奈乃は、
"声さえ出れば…普通の友達みたいに、きっともっと楽しく話せるのに…。"
という悔しい思いを捨てきれずにいた。

結局煌輝はランチ代も姫奈乃に出させず、姫奈乃が財布を取り出してお金を渡そうとしたものの、友達記念とパンのお礼だと言い張り、頑として受け取らなかった。
「じゃあ次の場所に行こうか。ちょっと連れて行きたいとこあるから付き合ってくれない?」
"それは全然大丈夫だけど…。でもどこに行くの?"
「あー、それは内緒で。着いてからのお楽しみかな。」
"何それ、煌輝のいじわる。(・´з`・)"
「まあとにかく行けばわかるからさ。」
車に乗り込んだ煌輝が、そういって車を発進させる。見慣れた景色ばかりが目に飛び込んでくるが、どこへ向かうのか姫奈乃には全く想像がつかなかった。
"どこに連れて行かれるんだろ…。"
姫奈乃が声を出せず、煌輝も車の運転をしていて、LINEの画面を見ながら会話するわけにもいかないので、車内がしんとしてしまう。
"こういう時、普通に話せたらもっと会話とか弾んだりするんだろうな…。"
姫奈乃は、悔しくなって煌輝に見えないように唇を噛み締めた。しんとした車内では、2人の大好きなシンガーソングライターの曲だけが、ただただ流れ続けていた。
「駐車場がないから、ここのコインパーキングに停めてちょっと歩くけど大丈夫?」
窓の外の流れる景色を眺めながら、過去の出来事を思い出してしまった姫奈乃。たまらなく悲しくなり、姫奈乃の目からは一筋の涙がこぼれ落ちる。それを煌輝に気づかれまいと、目をこすりながら必死に隠そうとしていた姫奈乃は、煌輝のこの声に気がつかなかった。
「ん?姫奈乃?」
それでも姫奈乃の返事はない。
「おーい、姫奈乃?」
煌輝から肩をポンポンと叩かれながら呼びかけられてやっと我に返った姫奈乃が、慌てて煌輝の顔を見つめる。
「絶対俺の話聞いてなかっただろ。駐車場がないから、ここのコインパーキングに停めてちょっと歩くけど大丈夫?って聞いたのに。」
姫奈乃は慌ててコクコクとうなずいた。煌輝は姫奈乃の涙の痕に気づいていたが、あえて何も言わなかった。

コインパーキングを出て歩く2人。歩き慣れた道に、姫奈乃は煌輝の後に続きながら、ふと思い当たる行き先を考えついて、思考を巡らせた。
"え…この方向って、まさか、私が一度行ってみたかった雑貨屋さん!?でも、そんなわけないか…。"
「着いたよ。」
とあるビルの前で足を止めた煌輝にそう言われて目の前を見ると、目のまえに建っていたのは、姫奈乃の予想通り、姫奈乃が行ってみたかった雑貨屋が入ったビルだった。
"え…ここって新しくオープンした雑貨屋さんがあるところだけど…"
「うん。初めて姫奈乃の部屋に入った時、こういうおしゃれな雑貨屋とか好きなのかなーと思って。まあ俺も結構好きなんだけど。」
"え!?なんでわかったの!?"
「いや、勘だよ勘。それに俺も好きだから、俺が行きたかったってのもあるし。」

2人はそのまま雑貨屋が入るビルへと入っていく。
目新しい雑貨やおしゃれな雑貨達に、あれもこれも欲しくなるばかりだった。そんな時、煌輝はふと、視線の先に、ガラス製の小瓶が陳列されていることに気がついた。
それは、ガラス製でコルク栓のついた空の小瓶だった。
「李桜ごめん。ちょっと待ってて。」
"え?煌輝どうかしたの?"
「大丈夫。ちょっとだけ待ってて。」
"う、うん…。"
煌輝は小走りにそのガラスの小瓶が陳列された棚に向かい、それを手に取ると、急いでレジに向かい、会計を済ませて姫奈乃の元へと戻った。
「ごめんごめん。そろそろ行こうか。」
"何かいいものでも見つけたの?"
「まあそれはこの後のお楽しみかな。」
"なにそれ煌輝のいじわる。"
「まあまあ、後になったらわかるからさ。」

-夕方-
姫奈乃と煌輝は、窓を開けて塩の香りを嗅ぎながら、夕日に照らされようとしている海を横目に、海岸沿いを車で走っていく。姫奈乃たちが駐車場に着く頃には、海面は綺麗な夕日の色に染められていた。
"綺麗…。キラキラしてる…。"
砂浜を歩きながら、夕陽の眩しさに目を細める姫奈乃。ふと過去の記憶が蘇り、姫奈乃の目から再び涙がこぼれ落ちる。
「どうした姫奈乃?大丈夫か?」
それに気づいた煌輝がすかさず声をかける。
"ごめん大丈夫。夕日に照らされた海がキラキラしててすごく綺麗だから、なんか感動しちゃって。"
指で涙を拭きながらとっさに嘘をつく姫奈乃。でも煌輝には、そんな嘘などとっくにお見通しだった。
「そっか。姫奈乃が急に泣き出すから、なんかあったのかと思ってびっくりしたじゃん。」
煌輝は気づかないふりをしてそう言った。
"ごめんごめん、私は全然大丈夫。"
「それならいいけどさ。でもまあなんかあったらいつでも話聞くから。俺でよければだけど。」
"ありがとう。"
今の姫奈乃には、それだけ言って平静を装って見せるのが精一杯だった。そんなことは百も承知の煌輝は、かまわず姫奈乃に話しかけた。
「この辺に座ろうか。」
煌輝のその言葉で2人は砂浜の上にあった大きな流木に腰を下ろし、何を話すわけでもなく、夕日に照らされた海を眺めていたが、その沈黙を破るかのように、煌輝が話しだした。
「姫奈乃。」
"ん?"
「姫奈乃はあれからどうしてた?」
"え?あれからって?"
"俺たちが図書館でぶつかった後。会ってない間、姫奈乃はどんな風に過ごしてたのかなーって。"
姫奈乃は記憶をたどり、少しだけ表情を曇らせたが、平静を装って、
"うーん、普通に大学に行って、普通に過ごして、行政書士受けて…って感じかな。"
とだけ答えた。煌輝は姫奈乃が平静を装っていることに気づき、一瞬黙り込んだ後、
「こんなこと聞いちゃってごめん。あまり話したくなかったよな。」
"ううん、私は大丈夫。"
「姫奈乃。」
"ん?"
煌輝に呼ばれた姫奈乃が、顔を煌輝の方に向ける。
「目を閉じて。俺がいいよって言うまで目を開けないで。」
"え?何?どういうこと?"
「いいから俺がいいよって言うまで目を閉じてて。」
姫奈乃は静かにうなずくと、目を閉じて顔を伏せた。少し時間が経って煌輝からもういいよと言われて目を開けたが、姫奈乃には何が起こったのかさっぱりわからなかった。
「はいこれ。」
そう言いながら差し出された煌輝の手には、夕日にてらされてきらきらと輝く小さなガラスの小瓶が握られていた。コルクで栓がされているその瓶の中には、この砂浜にある星の砂が入れられていて、小瓶には、
"To Hinano"
"2020.12.27"
"From Koki"
と記されている。
"え…すごく素敵…。ありがとう…。"
姫奈乃が小瓶を持ち上げて、少しだけ振ってみると、さらさらとした砂が、その中で動き、夕陽に照らされてキラキラと輝いて見えた。
"綺麗…。"
「姫奈乃が喜んでくれてよかった。」
姫奈乃は、再び泣き出しそうになるのをこらえながら、精一杯の笑顔を作って見せた。煌輝はそれが作り笑顔であることをわかりきっていたが、それには全く気付かないふりをして、流木から立ち上がった。
「じゃあそろそろ帰ろうか。」
姫奈乃は、今煌輝誘って手料理の話をしたら、きっと遠慮して断るだろうと思い、うんとだけ返したが、姫奈乃の心はもうとっくに決まっていた。
"煌輝に手料理を振る舞ってお礼をしよう。家に呼んで、もしその時に襲われちゃったりしたら、その時はその時だし、そうなったら私の傷がまたひとつ増えるだけだ…。"
海沿いを走り、姫奈乃が住むマンションまでたどり着いた2人。
「着いたよ。じゃあ、また明日来るから。」
2人は、明日から毎日、一緒に勉強する約束をしていた。姫奈乃は、煌輝のこの言葉に頷いたものの、なかなか車を降りようとしない。姫奈乃は、うつむきがちに下を向いていた。手料理のことをなかなか言い出せずにいるのだ。
「ん?どうした?」
煌輝のその言葉で、姫奈乃が意を決したように、握りしめていたスマホを操作し始める。
"煌輝は…この後用事とかあったりする…?"
「俺は別に何もないよ。それにしてもどうしたんだよ急に。」
"私…昨日から…ううん、煌輝に再会したあの日から、煌輝にしてもらってばっかりで…。だから、そのお礼じゃないけど…もしよかったら、全然上手くないけど…ご飯作るから食べていって…。"
「俺はただ、自分にできることをしてるだけだし、そんなこと全然気にしなくてよかったのに。むしろ逆に気を遣わせちゃってごめん。」
姫奈乃が、首をふるふると横に振った。
「でも、せっかく姫奈乃が誘ってくれたから、今日はお言葉に甘えさせていただきます。じゃあ、車停めてくるから先に降りて待ってて。」
煌輝と共に部屋に戻ってきた姫奈乃は、テキパキと料理をはじめ、カルボナーラとシザーサラダを煌輝に振る舞い、食後には早朝に焼いておいたチーズケーキを振る舞った。
「姫奈乃これすごくうまいよ?」
"そうかな…。ありがとう。"
「姫奈乃って料理もお菓子作りもうまいんだな。姫奈乃にもいいところあるじゃん。」
"そんなことないよ。1人で暮らしてて、家事全般やらないといけないからやってるだけだし。"
「でも、姫奈乃の手料理を食べられる人は最高だろうな。」
"そんなことないよ…。"
煌輝の言葉にそう返しながら、少しだけ表情を曇らせる姫奈乃。
「ごめんこんなこと言って。今の話は忘れて。」
"違う、煌輝が悪いんじゃない…。"
そう考えると、自分はこんな風に考えるほどまでになってしまったのかと、姫奈乃はまた悲しくなってしまった。
「片付け手伝うよ。今日は姫奈乃にごちそうになったし。」
少しでも気分を変えるために話題を変えようと、煌輝は明るくそう言った。
"大丈夫。今日はずっと運転もしてもらったし、煌輝はゆっくりしてて。"
「いいよいいよ。ごちそうになったんだし。」
"いいからゆっくりしてて。"
「ありがと。」
"あ、コンサートDVDならそこにあるから。"
「ん。サンキュ。」
そう答えながら、煌輝がCDとDVDをしまってある棚に手を伸ばす。
「え、やっぱり思った通り、全部揃ってんじゃん。まあ俺も全部揃えてるけど。」
"私も、中古だったりはするけど、一通りはそろえてあるかな。"
「やっぱり?全部揃えたくなるよな。」
"うん。よし、洗い物終わり。"
姫奈乃が皿洗いを終えた後、2人は姫奈乃がコレクションしているコンサートDVDを見ながら談笑していたが、あっという間に夜も更けてしまった。
"夜も更けてきちゃった…。これから私はきっと襲われちゃうのかな…。きっとそうなんだろうな…。"
姫奈乃がそう思い始めたその頃、煌輝がいきなり口を開いた。
「夜も遅くなってきたし、俺そろそろ帰るよ。また明日来るから。」
"え…?てっきり襲われるかと思ったのに…。"
姫奈乃は煌輝の発言に驚いたような顔をしたが、すぐに言葉を返した。
"うん。わかった。今日は本当にありがとう。"
「あ、そうだ。明日は俺の家で勉強する?」
"え…。今日は安心させといて、明日私を煌輝の家に呼んで、そこで私を襲うつもりなんだ…。"
姫奈乃の表情を読み取った煌輝は、
「ごめんやっぱりこの話は忘れて。」
"いい…。"
「え?」
"いいよ、明日は煌輝の部屋で勉強しよう…。"
「え、別に無理しなくても…。」
"無理なんてしてない…。大丈夫…。"
煌輝は、これ以上言っても押し問答になるだけだと察して、
「わかった。じゃあ明日9時半に迎えに来るから。」
とだけ答えた。
"うん…お願いします。"

翌日、煌輝は時間通りに迎えに来て、姫奈乃を自分の部屋へと連れて行った。
しかし、普通に一緒に勉強したりご飯を食べたり、談笑したりするだけだった。そして一緒に学校へ行って講義を受け、それが終わると姫奈乃を部屋まで送り届けるだけで、姫奈乃が思っているようなことは何1つ起こらなかった。その翌日も、そのまた翌日も、毎日毎日姫奈乃の部屋や煌輝の部屋で一緒に勉強をし、楽しく談笑し、ご飯を食べ、一緒に学校へ行って、帰りに姫奈乃を送り届けてくれるだけで、姫奈乃が思っているようなことは何も起こらない。講義が終わった後でも、休日でも、何事もなく最後は姫奈乃の部屋まで送り届けてくれる、ただそれだけだった。

姫奈乃が煌輝から友達になってくれと言われてから3週間近くが過ぎ、姫奈乃は、煌輝という存在がますます気になり始めていた。でも一方で、昔みたいにそのうちまた傷つけられるのではないかという気持ちも消せずにいた。煌輝はそんな人じゃないと思おうとすればするほど、また傷つけられたらどうしようという気持ちも湧いてくる。でも、そんな姫奈乃の気持ちに反して、煌輝はいつも姫奈乃を気遣い、優しくしてくれてばかり。姫奈乃は気が付くと、煌輝のことが好きになり始めていたが、煌輝への疑いの気持ちも消すことができず、煌輝への気持ちに蓋をすると同時に、自己嫌悪に陥っていた。そして、煌輝への気持ちと、煌輝への疑いを消すことができない自分に対する自己嫌悪の気持ちとの狭間で苦しくなって、気がつくと、煌輝のことを少しずつ避けるようになっていった。
「じゃあまた明日くるから。」
"ごめん明日は用事があるから一緒に勉強できない。"
「え、じゃあ夕方迎えにくるよ。」
"大丈夫。用事が何時に終わるかわからないし、私自分ひとりで行くから。"
もちろん、姫奈乃に用事があるなんていうのは真っ赤な嘘で、何も予定はないし、何時に終わるかわからないわけでもない。でも今はとにかく煌輝と一緒にいたくなかったし、一緒にいればいるほど苦しくなる一方だった。姫奈乃は、毎日何かと理由をつけて、学校以外では煌輝に会わないようにしていた。

姫奈乃が煌輝を避け始めて一週間近くが過ぎようとしていたある日の夜…。
「姫奈乃、帰り送るよ。」
"いい。寄るところあるから。"
「明日は一緒に勉強できそう?」
"ごめん。予定あるから。"
「そっか、わかった。ごめん、じゃあまた明日学校で。」
煌輝は、姫奈乃に避けられていることに気づいているようで、少し悲しそうな表情を浮かべていた。姫奈乃は煌輝のそんな顔を見ていたくなかったので、足早にその場を後にしたものの、煌輝の悲しそうな表情を思い出すと、心がなおさら苦しくなった。姫奈乃は、部屋に戻った後、ベッドの上で膝を抱え、1人で静かに泣いた。
"違う…煌輝が嫌いなんじゃない…本当は煌輝を避けたいんじゃない…。でも…でも…今一緒にいると…。"
姫奈乃が心の中でそんなことを考え始めていた、その時だった。新着LINEを告げる通知音が鳴り、姫奈乃は、父親からのいつものLINEだろうと思って何気なくメッセージを開いてしまった。しかし、送り主は煌輝で、メッセージにはこう書かれていた。
"ごめん。直接話しても、今の姫奈乃は話を聞いてくれないと思ったから。もし時間があるなら、俺の話を聞いてくれるなら、このメッセージを読んだら返事が欲しい。"
姫奈乃は、少し迷った挙句、一言だけ返信をした。
"話って何…?"

その頃煌輝は、姫奈乃が住むマンションの目の前の道路に車を停め、エンジンだけ止めて、ほぼ真っ暗な車内の中でカーステレオから流れてくる大好きな曲を、1人で口ずさんでいた。LINEを告げる短い通知音が鳴る。すかさず開くと、一言だけ、
"話って何…?"
と書かれていた。それを見た煌輝は意を決したように、エンジンを完全に切ってカーステレオを止めてから、車の外に出て、姫奈乃が住む部屋を見上げた。
"あのさ…今から少しだけ通話できないかな…?"
"え…?私の状況…。"
姫奈乃はそう返事を打とうとしたが、煌輝からは矢継ぎ早にメッセージが送られてくる。
"もちろん、姫奈乃の今の状況はわかってる。"
"だから、姫奈乃は俺の話を聞いてるだけでいい。言いたいことがあればメッセージを送ってくれればいいし、もしうるさいと思ったら切ってくれてもいいから。"
姫奈乃は少しの間考え込んでから、
"わかった…。"
と一言だけ送り返した。
"ありがと。じゃあ、かけるよ。"
"うん…。"
姫奈乃が送り返した短い返事に既読がつくと同時に、すぐさまスマホの着信音が鳴り始める。姫奈乃は、ほんの少しだけ待って心を落ち着かせてから、通話の応答ボタンを押した。
「姫奈乃、俺の声、聞こえてるかな。」
そう言った煌輝が、ほとんど何も聞こえないはずの自分のスマホに耳を澄ませる。すると、電話口から、かすかな姫奈乃の息遣いだけが聞こえてきた。
「俺には、姫奈乃の呼吸がちゃんと聞こえてるよ。だから、姫奈乃が俺の声を、俺の話を聞いてくれてるのがちゃんとわかる。電話に出てくれてありがとう。」
煌輝は、姫奈乃の部屋を見上げながら、自分のスマホに耳を澄ませたまま、話を続けた。
「俺たちは、高校生のあの時以来ずっと会うこともなかったなかったけど、でも姫奈乃にこうしてまた出会って、あの日怪我をした姫奈乃を助けたのも、俺は何かの運命だと思ってる。だから俺は、姫奈乃にはいつでも笑顔でいてほしい、笑っていてほしい、そう思ってるし、俺は姫奈乃を笑顔にするために、失くしてしまった姫奈乃の声を取り戻すために、今の俺にできる精一杯のことをしてあげたい。俺には、再会するまでの姫奈乃がどういう人生を生きてきたのかも、その間姫奈乃に何があったのかもわからない。それに、今の姫奈乃には、俺のことを信じろっていうのは無理かもしれない。でも、何かあったのなら俺はいつでも話を聞くし、友達として姫奈乃の支えになりたいと思ってる。だから、姫奈乃は1人で抱え込まなくていいし、強がる必要も、元気を装う必要もない。何かあったらいつでも俺のことを頼ってほしい。」
ひとしきり煌輝の話を聞き終えた姫奈乃は、ふと気が付くと、一人で静かに泣いていた。こんな時に声が出せない自分が悔しくて、なおさら心が苦しくなる。スマホに耳を澄ませた煌輝は、姫奈乃のかすかに震えた息遣いと鼻をすする音に気が付き、話をつづけた。
「姫奈乃もしかして泣いてる?もし、俺がこんな話をしたせいで姫奈乃を泣かせてしまったのだとしたら、本当にごめん。でも、これが今の俺の気持ちだから、それを姫奈乃にちゃんと伝えたかった。いつでも頼っていい存在があることを姫奈乃にわかってほしかった。今すぐに俺のことを信じてほしいなんてことは言わない。だけど、何かあったらいつでも頼ってくれていいし、その時はちゃんと姫奈乃の支えになりたい。俺のその気持ちだけはわかっておいてほしい。」
煌輝の話を聞き、スマホを持ったままその場を動けずにいた姫奈乃は、1人静かに泣き続けていた。煌輝がふと思い立ったように話を続ける。
「姫奈乃、少しだけでいいから窓の外を見てくれないかな。」
煌輝に言われるがままに姫奈乃がカーテンを開けて窓の外を見下ろすと、そこには、寒空の下、スマホを片手に立っている煌輝の姿があった。
"え…どうして…。"
姫奈乃は、驚いた顔をして窓の外の煌輝を見つめた。
「ごめん、ほんとは直接会って話をしたかったんだけど、今の姫奈乃はたぶん俺に会いたくないだろうから。だけど、少しでも姫奈乃に近いところで話をしたほうが、ちゃんと伝わるんじゃないかと思ってさ。でもこんなのやっぱり迷惑だったよな。ごめん。」
"違う…違うの…迷惑なんかじゃない…でも今の私は…。"
姫奈乃がそう思った、次の瞬間だった。
「クシュン!!」
通話越しに聞こえてくる煌輝のくしゃみの音。
"まさか煌輝、この寒空の中ずっと私のために…。"
「ごめん。多分今の姫奈乃は俺に会いたくないだろうし、この寒空の下、姫奈乃が外に出てきて風邪を引いてもいけないから、姫奈乃はそのまま部屋にいていいから。じゃあ、俺の気持ちはちゃんと伝えたし、俺はそろそろ家に帰る。だからもう通話は切るよ。姫奈乃、今日は俺の話を聞いてくれてありがとう。じゃあ、また明日学校で。」
"…。"
結局、姫奈乃は何もできずに窓の外の煌輝を眺めているだけだった。ほどなくして、煌輝の車のエンジン音が鳴り、その車は煌輝の家の方向へと走り去っていってしまった。

姫奈乃は、1人で膝を抱えて静かに泣き続けた。
"煌輝…どうしてそこまで…。私は煌輝にこんなにひどいことをしてるのに…。"
考えれば考えるほど、姫奈乃の心は苦しくなるばかりで、煌輝を避けている自分がとてつもなく嫌になった。そして姫奈乃は、昔と同じようにカッターナイフを手首に当てて、スーッと軽く引いた。暗い部屋の中でかすかにわかる姫奈乃の手首にうっすらと滲み出す血。そんなこともお構いなしに、姫奈乃はカッターナイフをその辺に放り出すと、ただその場に膝を抱えてボーっと座り込んでいた。

姫奈乃が2度目のリストカットをしたのとほぼ同じ時刻、煌輝も、自分の住む部屋に戻ってきたところだった。部屋に入り、来ている服のフードを被って、すぐさま窓辺のベッドへと向かう煌輝。煌輝もまた、1人で膝を抱えてベッドに座り込んだ。そんな煌輝が、誰もいない部屋に向かって、苛立ちの声を上げる。
「クソ…なんで…なんでなんだよ…。俺は…俺は…どうすれば姫奈乃を笑顔にしてあげられるんだよ…。どうすれば姫奈乃の奇麗な声は戻ってくるんだよ…。」
そんな煌輝もまた、一人で膝を抱えたまま、悔し涙を流していた。

告白

2人は、それぞれの部屋で朝を迎えていた。ベッドの上で膝を抱えたまま、気が付くと壁にもたれかかって眠ってしまっていたようだ。姫奈乃がリストカットをしたときに滲み出た血はもうすっかり乾き、手首がうっすらと傷になっているだけだった。一方の煌輝は、着ている服のフードを被ったまま寝てしまっていたらしく、フードの中で髪の毛が少しぐちゃぐちゃになっていた。
「ん…俺このまま寝ちゃってたのか…。」
煌輝は、フードを外し、少しぐちゃぐちゃになった髪を手でかき回し、スマホを確認しながらキッチンへ向かうと、置いてあったパンを無造作にかじり、ペットボトルの水をそのまま口に流し込んだ。そして、再び手を伸ばし、1通だけLINEを送信する。
"姫奈乃、おはよう。"
その頃の姫奈乃も、カーテンの隙間から漏れてくる光で目を覚ましていた。リストカットをしてしまったせいなのか、頭がうまく回らず、ひどく頭痛がする。姫奈乃はそのまましばらくの間、ボーっとしていた。スマホからはLINEを告げる短い通知音が鳴り響く。LINEを開くと、煌輝からのおはようというメッセージが届いていた。煌輝は、姫奈乃に避けられるようになってからも、おはようとおやすみのメッセージだけは絶対に欠かさなかったのだ。姫奈乃は、煌輝とどう接していいのかわからず、メッセージを開かないままスマホの画面を閉じ、それをベッドの上に放り投げた。そして、フラフラとよろけながらリビングに行き、頭痛薬を手に取ってからキッチンへ向かうと、コップに入れた水でそれを流し込む。そして再びベッドに戻ると、壁にもたれながら、また1人膝を抱えて座り込んでしまった。
時間はあっという間に過ぎ、気が付けば昼を過ぎていた。煌輝は、姫奈乃のLINEに既読がつかないことを気にして、何度もスマホを確認していた。一方の姫奈乃は、何をするでもなく、何も口にしないまま、ただベッドの上で膝を抱え、壁にもたれてボーっとしていた。窓のほうに目をやると、昨夜の煌輝のことがよみがえり、胸が苦しくなる。姫奈乃はどうすればいいのかわからなくなってしまっていた。そのうちおもむろに、ベッドの上に放り投げていたスマホに手を伸ばすと、LINEを開き、1通だけ送信した。
"司法書士総合コースの相川です。今日は体調が悪いので、欠席します。すみません。"
担当職員からの返信だけ確認すると、再びベッドに横になる姫奈乃。なにもやる気が起きず、何かを食べる気にもならず、ただただ1人でベッドに横たわっているだけだった。
一方の煌輝は、姫奈乃のLINEに未だに既読がつかないことに不安を覚えていた。姫奈乃の家まで行こうかどうしようかと迷ったが、今の姫奈乃はきっと、自分に会いたくはないだろうと思うと、姫奈乃の家まで様子を見に行くことはできなかった。
"自分にはやはり、姫奈乃を救うことはできないのだろうか、姫奈乃の心を解きほぐすことはできないのだろうか…。"
昨夜電話口からかすかに聞こえてきた、姫奈乃の泣き声を思い出すと、煌輝もまた苦しくなってしまう。しかし、1人ベッドに座ったままあれこれと考えているうちに、あっという間に時間は過ぎて、講義を受けに行く時間になってしまったので、煌輝は学校へと向かった。煌輝が学校に着いた時、姫奈乃はまだ来ていなかったが、結局、姫奈乃がその日学校に姿を見せることはなく、LINEの既読もつかないままだった。講義が終わり、車内で大好きな曲を流しながら、悔し涙に声を震わせる煌輝。そんな煌輝は、ただ1人、姫奈乃と一緒に行った展望台へと向かった。しばらくの間1人で夜景を眺めていたが、その後、何かを決意したように、
「よし…。」
と一言だけつぶやき、おもむろにベンチから立ち上がった煌輝。そして煌輝はそのまま家路についた。
一方の姫奈乃は、次の日もほぼベッドから出ることなく、ただ1人でボーッとしているだけで、体を動かすことができずにいた。そしてまた、担当職員に、
"司法書士総合コースの相川です。今日も体調が悪いので、欠席します。すみません。"
とだけLINEを送ると、スマホをその辺に放り投げて、ベッドに潜り込んだ。煌輝もまた、いつもと変わらず姫奈乃におはようとLINEを送ったが、既読がつくことはない。姫奈乃のことが心配になった煌輝は、学校へと向かう前に姫奈乃が住むマンションまで向かったものの、姫奈乃もう学校へと向かっていて、入れ違いになってしまったらどうしようと考えてしまい、結局、姫奈乃の部屋を呼び出すことができなかった。しかし姫奈乃は、その日も学校に姿を見せることはなかった。煌輝は、自分が今どうすればいいのかを必死で考えていた。でも、なかなか答えは見つからない。そんな自分に、煌輝は腹が立って腹が立って仕方がなかった。そして、悔し涙とともに、握りしめたこぶしを何度も思いっきりベッドの上に叩きつけた。
次の日の夕方近く、姫奈乃はフラフラとした足取りでベッドから起き上がると、おもむろにカーテンを開けた。窓の外は土砂降りの雨。姫奈乃はカーテンを閉めてからキッチンへと向かい、冷蔵庫にあったプリンだけを平らげると、出かける準備をして学校へと向かった。さすがにこれ以上講義を休むわけにはいかないと思ったからだったが、本音を言えば、今の状態で煌輝に会うことは避けたかったので、休めるものなら休んでしまいたかった。わざとギリギリに学校に着いた姫奈乃だったが、姫奈乃がいつも煌輝と一緒に過ごしていることを他のみんなが知っているためか、座席はもう煌輝の隣しか空いていなかった。
「姫奈乃…。」
煌輝が声をかけようとする間もなく、始まる講義。休憩時間も姫奈乃がわざとすぐに出てギリギリまで戻ってこないので、煌輝は姫奈乃に全く話しかける余裕すらない。やがて講義は終わりを迎え、生徒たちがそれぞれ帰る準備を始めた。姫奈乃がとっとと帰る準備を済ませ、バスに乗って帰ろうと、土砂降りの中傘を差しながら校舎を後にしようとした、その時だった。
「姫奈乃!!」
その声に振り返ると、煌輝の姿がそこにはあった。
「姫奈乃、どこか具合でも悪かった?2日も休んでたから心配した。この土砂降りだし、帰りは俺が送るよ。」
姫奈乃は、わざと自分から避け続けてもなお、優しくしようとする煌輝を見て、また苦しくなった。
"私は…私は…煌輝のことが…でもやっぱり…それに私なんか…。だから今は煌輝に会うと…。"
姫奈乃の頭の中でグルグルと渦巻く感情。そして、姫奈乃の指からは、思ってもいない言葉たちが紡がれていく。
"煌輝はどうしてそんなに私に優しくしようとするの?"
"私が優しくしてくれなんていつ頼んだ?"
"私が助けてくれなんていつ頼んだ?"
"私は優しくしてとも助けてとも頼んでない。"
"それに私は、煌輝のことを友達だなんて思ったことは1度もない!!"
"ずっと煌輝に合わせて我慢してただけ。"
"だからもう私になんか優しくしないで!!"
「姫奈乃…。」
煌輝が姫奈乃の手首を掴みながら声をかける。その手首には、よく見ないとわからない程度にうっすらとした、治りかけのリストカットの傷があり、それは煌輝の目にも映っていた。
"もう私になんか構わないでよ!!"
姫奈乃が煌輝の手を振りほどき、差していた傘も投げ出して、土砂降りの中を走っていく。
「姫奈乃!!」
煌輝が雨の中走り去る姫奈乃の背中に向かって叫ぶが、姫奈乃の耳には届かない。
「俺は…俺は…大好きな姫奈乃を守りたいんだよ…。」
声の届かない姫奈乃の背中に向かって小声でそうつぶやいた後、しばらくの間、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった煌輝だが、意を決したように姫奈乃が投げ出した傘を拾い上げると、それを丁寧にたたんで車に乗り込み、姫奈乃の部屋へと向かった。

一方の姫奈乃は、気が付くと部屋に帰り着いていた。煌輝の手を振りほどき、差していた傘を投げ出してから、どこをどう帰ってきたのかもわからない。暗い部屋の中で、スマホを開き、煌輝に送った言葉たちを読み返した。
"ああ、私は煌輝にこんなにひどいことを言ってしまったのか…。あーあ、もうおしまいだ…。もうこのままいなくなってしまおう…。"
そして、姫奈乃がスマホを床に放り出し、へなへなと床に崩れ落ちた、その直後。
「なんであんな嘘つくんだよ…。」
気が付くと、煌輝の優しい声と共に、姫奈乃はふわっと抱きしめられていた。
"え…どうして…。"
どうやら玄関ドアのカギを閉め忘れていたらしい。オートロックは、他の住人の誰かが出入りするタイミングで突破したのだろう。煌輝は、びしょ濡れになり、目に涙を浮かべている姫奈乃を抱きしめながら、優しい口調のままで、言葉を続ける。
「姫奈乃、俺、姫奈乃のことが好き。だから俺と付き合って。」
それは、煌輝の口から自然に出た言葉だったが、姫奈乃は、一瞬何を言われているのかわからなかった。
「姫奈乃。姫奈乃は、ふとした瞬間に、俺にいつか何かされるんじゃないか、いつかまた傷ついてしまうんじゃないかって疑ってしまうから、それが苦しかったんだろ。俺に会ったら、俺の顔を見たらなおさら。それに、俺と一緒にいればいるほど、声が出せない自分が嫌になって、それも苦しかった。だから、わざと俺を避けてたのに、それでも俺は姫奈乃に構おうとした。優しくしようとした。だから、あんなふうに言って、俺に嫌われてしまえばいいと思った。違う?」
煌輝の口から紡がれる言葉はすべて図星だった。何も言い返せない姫奈乃に、煌輝がさらに言葉を続ける。
「でも、俺はそれでも、姫奈乃のことが好きだから、俺は姫奈乃と一緒にいたい。俺の言葉を信じろとは言わないけど、俺は姫奈乃が好きだから、姫奈乃と一緒にいて、姫奈乃のそばにいて、姫奈乃のことを守りたい。」
姫奈乃が、言われた言葉の意味を理解して、暗い部屋の中で、すぐさま首を横に振る。姫奈乃の心の中では、マイナスの感情がグルグルと渦巻いていた。
"ダメ…私なんかじゃダメ…あんなにひどいことを言ってしまったから、もう煌輝とは一緒にはいられない…。それに私は…。"
それでも煌輝は、言葉をやめようとしない。
「俺のことを疑ってしまうから?俺にあんなひどいことを言ったから、もう俺とは一緒にいられないと思ってる?それとも、ふとした瞬間に昔のことを思い出してしまうから?それとも、声が出せなくなってしまったから?」
やはり、煌輝の口から発せられる言葉のすべては、図星でしかなかった。
「俺、言っただろ?姫奈乃に友達になってほしいって頼んだ時、声が出せなくても、コミュニケーションをとる手段はいくらでもあるって。それに俺は、姫奈乃が笑顔になってくれるなら、姫奈乃の声が戻るなら、なんだってできる。だから俺は、何があっても、もしも姫奈乃の声がもう戻らなくても、姫奈乃のそばにいるから。何かあったら、俺がそれをちゃんと受け止めるから。だから、一人で全部抱え込もうとするな。」
「…うわああああああああん!!」
気が付くと姫奈乃は大声をあげて泣いていた。それは、いつ聞いたかも思い出せないほど久しぶりに聞く自分の声だった。そう、姫奈乃はついに声を取り戻したのだ。
「私…私…ホントは…。」
大声で泣きじゃくっているせいで、うまく言葉にならない姫奈乃。
「大丈夫。ゆっくりでいい。深呼吸して。俺が話聞く。全部全部話聞く。姫奈乃の綺麗な声、ちゃんと聞こえてるから。」
「私…私…ホントは…。ホントは私も…煌輝が好き…。でも…でも…。」
その時、ふいに姫奈乃の唇が煌輝の唇によって塞がれた。
「ん…。」
「姫奈乃はもう何も言わなくていい。姫奈乃…愛してる…。」
「ん…煌輝…。私も…。」
「姫奈乃…。」
「ん…。」
煌輝にきつく抱きしめられた姫奈乃の唇が、再び煌輝の唇によって塞がれる。煌輝は、自分の唇が姫奈乃の涙でしょっぱくなるのも構わず、姫奈乃の唇を塞ぎ続けた。それは、息が止まりそうなくらい長くて熱いものだった。
「ん…煌輝…。」
「姫奈乃…。」
「好き…。煌輝…いなくならないで…。」
「うん…。」
しばらくの間、唇を重ね合ったままで動かずにいた2人だったが、びしょ濡れだった姫奈乃の体は、少し冷えていた。
「姫奈乃…そのままだと風邪引く…。」
煌輝が、手に持ったバスタオルを優しくかけてやる。
「お風呂入らなきゃ…私のせいで、煌輝の体も濡れちゃったよね…ごめんなさい…。」
「俺は大丈夫。それより、そのままだと姫奈乃が風邪引く。」
"グゥゥゥゥゥゥー"
ほとんど何も食べていない姫奈乃のお腹がついに鳴りだした。
「あ…。」
「姫奈乃、もしかしてあまり食べてないんじゃない?」
「うん…。でもなんか恥ずかしい…。」
「大丈夫。俺しか聞いてないんだから。それより、冷蔵庫の中何かある?」
「うーん…ここ3日間くらいほとんど何も食べてないから、何も買ってない…。」
「じゃあ、このままだと風邪引くから、とりあえず風呂入ってからコンビニに何か買いに行こうか。俺、湯船にお湯張ってくるよ。シャワーだけだと風邪引くだろうから。」
「ん…煌輝ありがと…。」
湯船にお湯が満たされるまでの間も、煌輝はずっと姫奈乃のそばに居続けてくれた。
「煌輝、煌輝。」
「ん?」
「名前…。」
「え?俺の名前がどうかした?」
「そうじゃなくて…今までずっと、煌輝の名前を呼んであげられてなかったから…。」
「別にいいよ、その代わり、これからたくさん呼んでもらえるだろうから。ほら、お湯溜まったみたいだから、ゆっくり暖まっておいで。俺待ってるし。」
「…ってほしい…。」
ボソボソと恥ずかしそうに話す姫奈乃。
「え?」
「私のせいで煌輝まで濡れちゃったから…煌輝も暖まらないと風邪引く…。」
「でも姫奈乃…。」
「私だったら…大丈夫…。今はそばにいて…。」
「うん…でも姫奈乃、俺、着替えも何もない。」
困ったように笑いながらそう話す煌輝に、姫奈乃は、しまったという表情を見せた。
「大丈夫。姫奈乃の状況も状況だったし、何かあった時のためにと思って、着替えを車に乗せてあるから、それを取ってくるよ。」
こう言いながら立ち上がった煌輝に、悲しそうな表情を見せる姫奈乃。
「煌輝…行かないで…。」
「大丈夫。俺はどこにも行かないから。一緒に取りに行ってもいいけど、今の姫奈乃と一緒に行ったら、姫奈乃が風邪を引いてしまうから。だから少しだけ待ってて。な。」
煌輝は、そう言いながら姫奈乃の頭をポンポンと撫でて落ち着かせ、急いで車に向かって荷物を取りに行き、姫奈乃の部屋へ戻ってきた。
「ほら、大丈夫だっただろ。だから早く入って暖まっておいで。」
煌輝にそう言われても動こうとしない姫奈乃。
「ん?もしかして俺に先に入れってこと?」
姫奈乃が動こうとしないので、そう言った煌輝だったが、少し不機嫌そうな顔をした姫奈乃に無言で服の裾を引っ張られてしまった。
「あー、そういうことか。わかったわかった。じゃあ俺がお姫様を脱衣所まで連れていくか。」
姫奈乃の意図をようやく察した煌輝は、わざとそう言うと、濡れたままの姫奈乃をひょいと抱きかかえて、そのまま脱衣所まで連れて行った。
「ちょっと煌輝恥ずかしいよ…。」
「もうそんなこと言わないの。でも、あの日と同じだろ。」
「うん…。」
湯船の中で少しぎこちなさそうに距離をとって座ろうとする姫奈乃に、煌輝が優しく声をかける。
「姫奈乃、おいで。」
煌輝はそのまま姫奈乃をそっと自分のほうへと引き寄せ、姫奈乃を優しく抱きしめてやった。
「煌輝…暖かい…。」
「俺も…。」
"バシャン‼︎"
その水音と同時に、煌輝の顔と髪の毛がびしょ濡れになる。
「おい、姫奈乃…。」
「これで煌輝もびしょ濡れだから、おあいこでしょ?」
「ハハハ…そうだな…ってやったな?おい。」
すかさず仕返しにかかる煌輝。煌輝がかけてくるお湯をかぶるまいと、湯船の中で必死に逃げ回ろうとする姫奈乃だったが、煌輝にあっさりと捕まってしまい、ガッチリと抱きしめられてしまった。
「姫奈乃捕まえた。」
「あーあ、もうあっさり…ん…。」
煌輝の唇によって、姫奈乃の唇がまた塞がれる。
「姫奈乃、顔赤い…。俺にお湯をぶっかけて逃げ回ろうとするから、お仕置き。」
「だったらもっと煌輝にお湯かけちゃうかも…。」
「おい…。そんなこと言ってると…。」
「ん…。ちょっ…。ん…。」
何度もお互いの唇を塞ぎ合う2人。
「姫奈乃、そろそろ出ないと風邪引く…。」
「うん…。」
2人揃って風呂から出て服を着替え、姫奈乃が長い髪をタオルで拭き始める。
「姫奈乃、ちょっとこっち来て。」
「え?うん。」
程なくして、煌輝の手に握られたドライヤーから、暖かな温風が吹いてきた。煌輝が姫奈乃の髪を乾かしてやっているのだ。
「姫奈乃の髪、長くて綺麗…。」
「そうかな。ありがと。」
そして2人は、オートロックの外までやってきた。外に出ると、さっきまでの土砂降りが嘘のように雨は止んでいる。
「あれ?煌輝車の鍵は?」
一瞬の沈黙の後、煌輝はぎこちなさそうに姫奈乃の手に自分の手を絡め、少しだけ頬を赤らめながら言った。
「車で行ったら…こうやって姫奈乃と手を繋げないだろ…。」
「あ…うん…。」
煌輝にそう言われると、姫奈乃まで顔が赤くなってしまい、ぎこちなく返事をするのが精いっぱいになってしまう。しかし2人は、最初こそぎこちなかったものの、気が付くと、今までの2人以上に親密になっていた。
「ほら煌輝、お腹空いたから早く食べよ?」
「うん。」
「あ、でもその前に写真写真。煌輝もこっち来て。」
「なんかそうやってはしゃいでる姫奈乃、すごくかわいい。」
「え、煌輝ちょっと何言っ…。」
"チュッ"
"カシャッ!!"
姫奈乃がそう言い終わらないうちに、煌輝の唇が姫奈乃の頬に触れたのと、スマホのカメラのシャッター音が鳴ったのは、ほぼ同時だった。
「え!?え!?」
「よっしゃ、不意打ち大成功。」
「あーもう煌輝ってばずるい!!」
「いいだろ別に。俺は姫奈乃の彼氏なんだから。」
「そりゃそうだけど…。」
「ほら、早く食べないと、せっかくレンチンしたのに冷めるぞ?…おい、姫奈乃?」
"チュッ"
"カシャッ!!"
「あ!!姫奈乃やったな?」
「ほら、これでおあいこでしょ?」
「姫奈乃覚えてろよー?」
「いただきます。んー、おいしい。はい、煌輝、口開けて。あーん。」
「ん。ありがと。じゃあ姫奈乃も。」

君(と僕)のBIRTHDAY

サンドキャッスル

Autumun Park

エピローグ~バトンリレー~

―3年後―
「もーママー、おそいよー!!」
「ごめんごめん、お仕事の電話が入ってたから。」
「美優、ママは大事なお仕事の電話をしてたんだ。だから怒るのはよくないぞ?」
「はあい。ママごめんなさーい。」
「大丈夫。美優はちゃんと謝れてえらいね。」
そういいながら美優の頭を優しくなでてあげる姫奈乃。
「姫奈乃、木村さんなんだって?」
「ああうん、明日午前中に書類を持ってきますだって。でも煌輝明日戸田さんの件で出かけるでしょ?だから私が対応するから大丈夫。」
「もうパパー、ママー、早く行こうよー。」
「はいはいごめんごめん。」
「じゃあ、今からパパとママと公園に行く人!!」
「はーい!!」
美優を真ん中にして、手をつないで歩きだす3人。
「ねえねえ、手つないでビューンってやるやつやって?」
「よーし、いくぞー?ビューン!!」
「キャハハハハハ!!もう一回もう一回!!」
「よーし、もう一回いくぞー?ビューン!!」
「キャハハハハハハハ!!もっともっとー!!」
そうこうしているうちに公園にたどり着いた3人だったが、同年代の子どもたちが結構いたので、姫奈乃と煌輝は美優をその子たちと遊ばせることにした。
「よーし美優、お友達がたくさんいるから、いっぱい遊んでおいで。」
「うん!!」
美優が子どもたちの輪をめがけて元気に駆け出していく。
「美優も入れてー!!」
そんな美優の姿を、屋根のついたベンチの上に座って肩を寄せ合い、微笑ましく眺める2人。
「あんなに楽しそうにお友達と遊んでる。こんな姿を見られるのもいつまでなのかな。」
「美優も少しずつ成長してるってことだよ。」
「そうね。だってもうすぐお姉ちゃんになるし。」
姫奈乃が自分のお腹に手を当てながら、ポツリと言う。
「え!?今なんて言った!?」
「あのね煌輝…私…2人目ができたみたい…。」
「え!?本当か!?」
「うん…。昨日ちょっと出かけてくるって言ってたでしょ?あの時病院に行ってきたの…。それで、これがエコー写真。いつ話そうかなと思ってたんだけど…。」
煌輝はその写真を目にすると、顔をほころばせ、姫奈乃のお腹に置かれた手の上に、自分の手を重ねながら言った。
「やっぱりまだ小さいんだな。赤ちゃん、パパとママと美優のところに来てくれてありがとう。」
「もう、煌輝ったらホントに気が早いんだから。それは赤ちゃんが産まれてきたときに言うセリフよ。」
「いいんだよ。こうして姫奈乃のお腹の中に来てくれたんだから。このことを早く美優にも伝えてあげないとだな。きっと喜ぶぞ。」
「そうね。美優も弟か妹が欲しいって言ってたし。」
「パパー、ママー!!」
遠くから手を振る美優に、2人は優しく手を振り返した。そんな2人の目に、父親が後ろから自転車を押して、自転車の練習をしている親子連れの微笑ましい光景が飛び込んでくる。
「美優ももう3歳だから、もう少ししたら自転車を買ってあげないといけない時期かな…。」
「うん。あの親子みたいに、そろそろ練習を始めさせてもいいかもしれない。」
「よし、じゃあ帰りに自転車屋さんに寄って美優の自転車を見に行くか。」
「多分そうすれば、美優もきっと喜ぶと思う。」
「でも美優のことだからきっと、ピンク色の自転車がいいとか言い出すんだろうな。」
「フフフ。それ言えてるかも。」
そんなやり取りをしているうちに、ひとしきり遊びまわった美優が、
「パパー、ママー!!」
と言いながら駆け戻ってきた。
「パパー、抱っこー!!」
「よし、こっちおいで。」
煌輝が美優を抱き上げて、自分の膝の上に座らせてやる。
「ねえパパー、美優いっぱい遊んだからおなかすいたー。」
「よし、じゃあ帰りにパン屋さんに行こうか。姫奈乃もそれでいい?」
「賛成。ママは何のパンを買おっかなー。」
「美優メロンパンがいい!!あとクロワッサンも!!」
舌っ足らずなしゃべり方で必死にパンの名前を言う美優に、煌輝が笑いながら言う。
「おー、美優は食いしん坊だなー。そんなに食べたらママが作ってくれるご飯が入らなくなっちゃうぞ?」
「えー、ママが作ったご飯もちゃんと食べるもん!!」
そういってむくれた美優を見た2人が、そっと目で合図をする。
「美優。」
「なあに?」
「パン屋さんに行く前に、いいところに連れて行ってあげようか。」
「えー?どこどこー?」
「美優ももう3歳だから、もう少ししたら、自転車の練習を始めないとね。だからパン屋さんに行く前に自転車屋さんに行って、自転車を選びに行こっか。」
「え?ほんとに?やったー!!じゃあ美優ピンク色のやつにする!!」
「ほらやっぱりな。」
「フフフ。予想通り。」
お互いにそう言いながら、姫奈乃と煌輝は笑い合った。
「でもその前に、パパとママは美優に大事なお話をしなきゃいけないんだ。美優はここに座って。」
煌輝の膝に座りながら、
「大事なお話ってなあにー?」
と2人の顔を交互に見る美優。それを見た煌輝が、すかさず姫奈乃に合図を出した。それに応えるように、姫奈乃がうなずいてから美優に話しかけ始める。
「美優、あのね、今、ママのおなかには赤ちゃんがいるの。まだママのおなかの中に来てくれたばっかりだからものすごくちっちゃいんだ。でもね、ママのおなかの中で赤ちゃんはだんだん大きくなるの。そして、美優の弟か妹が産まれるんだよ。だから、もうちょっと先になるけど、美優はお姉ちゃんになれるんだよ。」
「ほんと?美優お姉ちゃんになれるの?やったー!!」
「美優はお姉ちゃんだぞー?よかったなー。」
「うん!!美優すっごく嬉しい!!」
「まだ弟か妹かわからないけど、お姉ちゃんになったら、赤ちゃんのお世話手伝ってくれる?」
「うん!!美優いっぱいお手伝いする!!たくさん練習して、早く自転車にも乗れるようになる!!だから早く自転車屋さん行こうよー!!」
美優に袖を引っ張られてせがまれる姫奈乃と煌輝。2人はまた美優の手を取り、自転車屋さんへと歩き出した。
「美優の好きなピンク色の自転車、あるといいね。」
「うん!!かわいいのあるかなー。」
「きっとあるよ。」
「やったー!!」
さっきの遊び疲れはどこへやら、美優は自転車を買ってもらえると聞いて、ものすごくはしゃいでいる。そして美優は、2人を見上げながら、元気な声でこう言った。
「あのね、美優、パパとママのことがだーいすきだよ!!」

Voice~キミがくれたもの~

Voice~キミがくれたもの~

過去に負った心の傷のせいで、精神的ストレスから声を失ってしまった姫奈乃(ひなの)。 姫奈乃には、リストカットの経験もあった。 そんな姫奈乃はある日、自転車をよけようとして転び、足をくじいてしまうが、大人びた男性に助けられる。 それは5年前、図書館で出会った青年、煌輝だった。 一方の煌輝も、姫奈乃がその時の少女だと気づく。 お互いに同じ学校で、司法書士を目指していることを知った2人は、友達として仲良くなっていくが、次第にお互いに好きになり、相手のことを意識するようになる。 声が出せないことを引け目に感じ、次第に煌輝のことを遠ざけてしまう姫奈乃だったが、ついに煌輝に告白されてしまい…。 そんな2人の恋の行く末とは…。 そして、姫奈乃は失った声を取り戻すことができるのか…。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ-遠い記憶と傷跡-
  2. 運命の再会
  3. 心の闇
  4. 告白
  5. 君(と僕)のBIRTHDAY
  6. サンドキャッスル
  7. Autumun Park
  8. エピローグ~バトンリレー~