HIROYAについて思うこと

 運営団体が、テレビが、過剰に持ち上げていて鼻につくな……
 それが、キックボクサー・HIROYAをテレビ越しに知ってからしばらく見ていての印象だった。彼が表舞台に出たのは2000年代の地上波格闘技の華やかな時代。そんな時代の中で正式なプロデビュー前から特別扱いをされており、並のプロ選手以上にテレビで取り上げられていたのだ。
 K-1 WORLD MAXの放送局TBSは、彼の事を魔裟斗が認めた天才などと煽りアマチュアの試合を地上波で流すという大盤振る舞い……この時点でHIROYAはまだ15歳だった。やがてTBSは彼を中心に据えて「K-1甲子園」なる高校生限定のK-1の大会を催し、これまた地上波でしっかりと放送をした。
 毎年開かれたこの大会で、HIROYAの高校3年間の成績は1年目に準優勝、2年目に優勝、3年目にベスト4というもの。勝った相手の中には強豪もいたし、2年目には主催もTBSも望んでいたであろう優勝も果たした。だが自分は、冒頭に書いた通りのネガティブな印象を彼に対して持ったままの状態だったし、この時の他の出場選手である野杁正明や卜部功也に対して純粋に彼以上の興味を持つようになっていた。
 そしてこのK-1甲子園時代、破格の引退ロードを歩んでいた魔裟斗とエキシビションで拳を交えて(無論地上波でその模様を放送)おり、「魔裟斗の次のスターはHIROYA」的な演出がされたりもしていた。

 では、魔裟斗引退後のK-1でHIROYAがどうだったかというと、結論から言えば魔裟斗のようにはなれなかった。

 魔裟斗が2009年の大晦日に引退をした翌年、HIROYAは3月に高校を卒業する。だが、この時点で彼は魔裟斗が活躍していたK-1MAXという大舞台に立つための身体が出来ていなかった。MAXの規定体重である70kgになっておらず、別の階級で戦うことを余儀なくされた。(一応、K-1MAXの大会内で70kgより下の契約体重のワンマッチをしたりしていた。K-1以外の他団体にも出たり)
 仮にこの時のHIROYAにMAXで戦うための身体が出来ていたとしても、キャリアの浅さからトップには遠く及ばなかっただろう。
 当時のK-1の運営とTBSは魔裟斗無き後のK-1のため、MAXよりも更に下の階級を本格的にスタートすることになり、HIROYAはそこでスターを目指すことになったのだが───日本人8人が出場しての世界と戦う代表を決めるトーナメントで、1回戦で敗退をしたのだった。相手は、大和哲也である。
 思えば、このあたりでHIROYAは「魔裟斗二世」なる呪縛となっていたものから解放をされたのではないだろうか?

 更に悪いことは続き、その後しばらくして当時のK-1の体制が崩壊。2000年代の地上波格闘技華やかな時代は終わり、HIROYAも他の格闘家達と同様2010年代、地上波無き新たな時代に突入していったのだ。
 ここで彼が身を置いたのがKrushである。旧K-1と協力関係にあった国内キック関係者の格闘技イベントで、首相撲や肘を排除したルールを採用したK-1の流れを汲んだイベントだ。
 ではこの場所でHIROYAが新たなカリスマになれたかというと、そうではなかった。同じくKrushに来ていた野杁にリベンジはできず、他の選手にも負けて連敗もした。
 この時代の試合や彼の諸々を全て追えてはいなかったが、国内の選手に対して勝ったり負けたりという「普通の選手」にすっかりなっていたのではないだろうか。ネームバリューはあったのだろうが。
 一方、HIROYAに連勝した野杁や、MAX時代にワンマッチで対戦した久保優太(結果はHIROYAの負け)は世界とガンガン戦う選手になっていた。
 この頃にはもう、彼の事が鼻につくなどということはなくなっていた。

 そんな、国内でまずナンバー1になれていないという状況で舞台はまた変わる。
 Krushの運営が「K-1」の名前を使いイベントをすることになり……所謂「新生K-1」が誕生したのだ。
 当然、HIROYAはそこに出場することになる。
 旗揚げイベントとなった2014年11月の65kg級トーナメントではベスト4で終わった。負けた相手は国内選手の左右田で、新生K-1でもKrushと似たような感じなのかなと思ってしまった。
 だが、再起戦となった2015年4月のワンマッチ……これが今まで筆者が見てきたHIROYAの試合の中で、最も熱い試合となった。

 相手は木村・フィリップ・ミノル。HIROYAより若く、旧K-1に参戦したことがない選手である。
 このカードは完全に旧K-1(HIROYA)と新生K-1(木村)という構図。煽りVでもHIROYAを「あの頃のK-1を知る者」とし、木村はHIROYAより7~8倍は上回っているトークスキルを発揮し「もう新生K-1だし」「自分が新たなスーパースター」というようなことを言っていた。
 試合の入場でHIROYAは旧K-1のテーマソング(フジテレビのWGPとTBSのMAXの2曲の合わせ技)を使い、ちょっと度が過ぎるくらいに「あの頃の」象徴であることを演出していた。
 それは中継で見ていて思わず これは狙いすぎだろ! と突っ込みそうになるところだが────
 でも、確かにあの時、HIROYAをその「象徴」だと思い、筆者は感情移入して彼を見ていた。
 地上波テレビに流れる華々しい舞台でデビューをしたあの少年が、あの時代を背負って試合に挑んでいるんだなと胸が熱くなる感じさえした。

 結果は木村が1Rに3度のダウンを奪い完膚なきまでのKO勝ち。旧K-1の象徴が、新生K-1のニュースターに打ち砕かれる結果となった。

 旧K-1と新生K-1がおなじ「K-1」の名前を使いながらも違うことは当たり前だが、この試合ほど「旧」をわかりやすく表現したものはなかったのではないか。そして、これ程までに「旧」を「新」とぶつけることで熱を生み出せるカードはおそらくこれからも出てこないだろう。
 
 その後のHIROYAの新生K-1でのキャリアだが、やはり頂点に達することはできなかった。
 印象深かったのは2017年4月の大和哲也戦だ。このカードが発表された公開記者会見に筆者は足を運んで生でHIROYAを見ていたが、どこか覇気のなさのようなものを感じた。「2017年でデビューから10年の節目になる」というようなことを会見で言っていたが、それもどこかテンションが上がった様子がない。
 まあ、10年たってもマイクが下手くそなだけなんだろうなと筆者は自分に言い聞かせたが、いざ試合になったら結果は2RでKO負けだった。
 これはもう、終わりかなあと思ってしまった。

 そうして2017年はその1試合のみで終わり、2018年3月の新生K-1のビッグイベントにHIROYAの名前が出ないまま、トライハードジムの新生K-1離脱騒動である。
 ビッグイベントまで1週間を切ったというタイミングでジムの代表代行として登場したHIROYAは新生K-1との間の諸々を曝け出した。
 その部分については興味のある人間は大いに語り合えばいいと思う。筆者も色々考えてはみてる。
 HIROYAの弟の大雅は新生K-1でベルトを手にし今後看板を張れるような存在でありながら、今回の騒動でベルトを失い離脱となる。彼以外にも、トライハードジムには選手が所属している。
 そんな中で、HIROYAは代表代行として彼らの戦う場所を探していると言っていたようだ。トライハードジムが正しいかどうかという問題は置いといて、これはジムの代表代行としては当然することだろう。

 だが、筆者がここで注目したのはHIROYA自身のこと。「去年で選手寿命が終わりなのかと考えていましたが、こうなった以上、ジムのトップである以上、先頭に立たないといけない。試合の場を提供していただけるなら試合に挑みたいです」という発言だ。
 去年はKO負けをした1試合しかしていない選手が言う、「去年で選手寿命が終わりなのかと考えていましたが」という言葉は重い。
 そして、そんな選手が「先頭に立たないといけない」ということは、悲壮感さえある。
 格闘技が華やかな時代にデビューした選手がキャリアを積み、新たな時代の中で選手としての晩年を迎えようとしている。
 それが自身の格闘技観戦歴と深くリンクしている選手であれば、できれば幸福なラストを迎えて欲しいと思うのが人情だろう。

 正直に言えば、HIROYAの「選手寿命」は確かにもう長くはないのだろう。今回の会見の写真でも冴えないプロレスラーみたいだったし、ここから試合用のコンディションまでもって行けるのか不安を覚えるくらいだ。
 ならばせめて、綺麗な引退試合をして欲しい。最早試合が出来ない状態ならば、周りから祝福されて引退をして欲しい。
 10年前にネガティブな感情を抱いていたあの選手に対し、今はただそう思う。

HIROYAについて思うこと

HIROYAについて思うこと

所謂新生K-1とTRYHARD GYMの間で起きている問題、その当事者であるHIROYAについて、旧K-1から彼を見てきたイチ格闘技好きが思ったことを思うままに書いてみました。オチはありません。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-17

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