白薔薇の薫り~ブランカ~
静かに鳴り響く鐘を聴いていると、窓枠に這う蔓花からの薫りが澄んで思える。いつでもそれは夜に嗅ぐとなんとも官能的で甘美なる魅力を月光の元解き放つのだが、ロサには昼のそれはどこか違うものに思えた。
見渡す街並は今は風も無く穏やかで、白い鳩が群れて羽ばたいていき、そして雲ひとつ無い水色の空はどこまでも澄み渡る鐘の音を響かせて留まらないようなので、そっとまなこを閉じた。日差しがまぶたをそっと照らしてくれる。
パリのマレ地区。ここでロサは恋人のブランカと暮らしていた。蚤の市で出会ったブランカは骨董品の鏡を露店に広げていた。細い背を丸めて座り、ベージュのコートから出る黒いパンツの足は細くて、そしてまとめられた髪から出る項はどこか色気があって、サングラスで見えない顔立ちのレッドルージュは閉ざされていた。どこを見ているのかも分からないような寂しさを感じ取って、ロサは声をかけていた。
「見せてもらってもかまわない?」
「ええ。どうぞ。いいものがあれば、気軽に言ってもらっていいの」
ブランカの仏蘭西語はスペイン訛りがあり、ロサは親近感を覚えた。しばらくロサは金縁でエレガントなものが揃う壁掛けや手鏡、コンパクトを見ていたが、ブランカの座る横に置かれた古めかしいトランクに入れられた鏡に目が止まった。それは錆びなどが鏡面を侵食する部分のある、まともに顔を映しえないようなもので、随分と使い込んだ風があった。
「その鏡は売り物ではないようね」
「これは……」
気づいたブランカはふとトランクを見下ろし、頷いた。
「これは私物。売れなくて申し訳ないわね」
その鏡と共にシュタイフドールや骨董の器、それに可愛い絵柄の缶やキャンディーの入る瓶が入っていて、無意識にロサは彼女の紅色のマニキュアを見ていた。
「お店を閉じたら、一緒にお茶しない?」
その呼びかけにブランカはロサを見上げた。彼女はいろいろな鏡を見ていて、おおよその目星をつけてからブランカを見た。
「それと、この壁掛けをいただきたいの。あたしの部屋に送っていただけないかしら」
「ええ……。これに住所をお願い」
住所と共に名前、それと電話番号まで書いて手渡した。
「じゃあ、夕方にまた来るわね」
ロサは微笑み、肩越しにもう一度彼女を見てから立ち去っていった。
それがロサとブランカの出会いだった。
夕方になるとバーでワインを飲み交わし、当たり障りの無い話を続けた。そしてブランカの素顔のどこか冷たさのある美しさを気に入った。
「以前は母と共にスペインにいたんだけれど、大学の関係で伯母がいるフランスに越してきたの。彼女は料理研究家でずっとフランスに父と共に住んでいて、あたしたち親子とは別居していたわ。今は部屋を借りているんだけれどね」
「お母様は今スペインで一人で?」
「妹と暮らしてるわ。あの子はまだ中学生だから」
「へえ。それなら寂しくないわね」
「ブランカは何年前からフランスに?」
「幼い頃から三、四年単位で行き来しているわ。両親についてね。でも、そろそろ独り立ちしようと思っているところだったわ。それで父が資金稼ぎにと倉庫で眠っていた鏡を売ってはどうかってすすめてくれたのよ」
ロサはブランカの横顔を見つめた。
「あたしの部屋に来なさいよ。マレ地区にあるんだけれど、そこでもいいのなら」
ブランカは微笑むロサを見て、グラスを置いた。
「迷惑じゃないかしら。いきなり押しかけるようで申し訳ないわ。勉強だってあるんでしょう」
「あなたは普段何をしているの?」
「両親の手伝いよ。数年前からね。彼らはフランスの骨董の卸をしているから。最近はオークションでの買い付けにも参加しはじめてる」
「忙しいのね」
「時期にはね」
「来てくれていいのよ。フランスでの住まいにしてもいいわ。でも、これからも何年か向こうに行くこともあるの?」
「今は自由よ。それに、拠点はフランスなの」
ブランカはあまり人の目を見なかった。サングラスをはめていたときは時々ロサの顔を真正面から見た。それは今も変わらないことだった。夜の照明のもとでなら見詰め合うものの。
ブランカがロサの部屋に来たのは一週間後のことだった。注文の鏡もあったし、生活費としてロサに払う分の資金のためにも今も蚤の市で鏡を売っている。元が働いているブランカだから余裕はあるのだが、どれほどかを環境保護ボランティア活動へまわしているということだった。ロサの場合は現在父が学費を支払ってくれているが将来働き始めたら返していくつもりでいる。母親は卒業をしたらスペインへ戻るのかと聞いてくるが、ロサ自身はフランスのこの街でずっと暮らしたいという理由があることを伝えていた。
ロサはいわゆるLGBTQのQ……、セクシャルマイノリティのクエスチョニングに位置する性癖少数者の持ち主だ。女性として生まれたのだが、物心ついた頃は自分は男の子だと思った時期もあったし、中学生になれば女性の心が芽生えたし、高校ではそれが男女の間で揺らぎ続け、恋愛対象は子供時代は女の子を好きになり、大学生になると男性も気になっていたり、女性と付き合ったりするという自分がよく分からない状態で生きてきた。この問題はロサを困惑させたし恋仲を長続きさせることも無く、そして時に現れる見掛けからは想像できない男っぽさがかすめると周囲を混乱させもした。マレ地区にくると、少しは自分というものに納得がいくようになっていた。自分の性と向き合うことに安堵とする時間を与えられた街だった。スペインでは自分の性癖を人に話した事は無かったし、大学に通い始めて彼氏や彼女をつくり始めたものの、彼氏とは長く続かない。彼女が出来始めたのはマレ地区に部屋を持ってからだ。だが、その人とは去年喧嘩をして別れてしまった。
自身がクエスチョニングであると思うまでは、自分はFTM(性同一性障害)なのか、バイセクシャルなのか、レズビアンなのかがよく分からずにいた。異性愛者は同性愛者であるレズビアンやゲイを差別するきらいがあるし、レズビアンやゲイは半端なバイセクシャルを嫌う傾向があるし、レズビアンやゲイやバイセクシャルは今度ははっきりとしないクエスチョニングを避けることもある。誰もが性的少数者達は認められたいと思っているし、誰もがパートナーと愛し合いたいと純粋に思っているというのに、なかなかそれを互いが性自認や性癖のくくりを決定してしまうと他のものを避けたがるという結果が悲しいことに生まれるらしいのだ。だからこそLGBTQというレインボー活動がある。フランスでは同性婚が認められ、マレ地区はその彼らの生き易い環境なのだ。ロサの両親は未だに彼女の性癖を知らない。
現在、ロサはブランカと恋仲だ。あの時、蚤の市で同じものを感じ取っていたのだろう。まるで鏡に映りこむ自分自身かの様に。鏡面を境にマレで生き始めた自分と、そして自身の心に性癖を隠し続け悩みの底にいたブランカが同じ動きと感情を持つものかのようにひきつけあい、共鳴したのだ。
ブランカは高校時代に自身がレズビアンであることを知ったらしく、思えばずっと女の子しか気にならなかったし、男の子に告白されても付き合おうとも思わずに女の子の友達とばかり過ごしてきた。小学一年から三年までフランスで過ごし、四年生から六年までスペインで、そして中学をフランスで暮らし、高校生活をスペインで過ごし、社会人になってフランスで両親につき骨董品の勉強と卸を学び始め、二十一から二十四までスペインで本格的に役員になって仕事の一部を任されはじめ、そしてフランスに来たのだ。二十五の時にロサと出会い、人生で初めて自分がレズビアンであることを告白した。
始めは壁を作っている雰囲気のブランカだったし、元からの冷静な性格もあって近寄りがたさはあったのだが、それも自分を認めることや恋人が出来たことで表情も変わった。たまに笑うようになったし二人でいるときはリラックスして互いに過ごした。
ブランカ自身が気に入っている鏡と、ロサが露店で買った鏡はよく二人を映す。そっと微笑み合う二人。教会の鐘の音に無心で目を閉じる二人。二人は似ているようで違う人間。同じ様で全く異なる人間。なのに、あまりにも似通った二人の心。
あたしはブランカであり、わたしはロサ。どちらも同じ鏡の存在。薫る白い花であって、体を伝う蔓……。
白い薔薇は今薫る。
ブランカがサングラス越しに街並を見ていた。ここは広場。地面はどこまでも気温を体に伝えてくる。彼女は一人、朝方はここでヒールを脱ぎ捨てて裸足で座っていることが好きだった。あまりに寒いと涙などは流れてこなくて、ただただ口から吐かれる白い息に気をとられていられる。それぐらいが心が落ち着いていられるような心境の前は、悲しみに占領されるのだった。
「ブランカ」
歴史ある建築物の屋根上から陽が白く射し始めたころ、ロサの声が背後から響いた。彼女は恋人を見た。ワインレッドのウールのひざ掛けを持ったロサはここまでくると、彼女にそれを掛けてそのまま抱きしめた。冷たい頬にロサの甘い薫りのする黒髪が触れ安堵とさせた。
二人はおぼろげに緑の芝生部分を見つめていて、ロサは目を閉じた。ブランカはサングラスの先、ただただ見つめ続けた。
今日はブランカは仕事がありロサは大学がある平日で、五時現在ではまだのんびり出来る。こうやって二人で過ごす朝の時間は尊いものだった。
どちらとも無く唄い始める。
「愛しい貴女の頬よ
美しい貴女の笑みよ
濡れたような唇よ
虜にする白い薔薇のように
朝の陽に透かされて溶ける
風に梳かされて漂う髪よ
私の恋人よ
渦巻く心の瞳よ
受け止めてくれるのだろう
確かな甘い言葉も
指に絡める貴女の黒髪
薔薇の頬が愛しくて……
身を一体化するように抱きしめたい
貴女は私に 私は貴女になる」
今は孤独を忘れられるのに、何故心は悲しいままなのだろう。ブランカには自分が理解できなかった。ロサと出会い、愛し合っている幸せが自分にはまだ慣れないのかもしれない。愛の歌を囀って心は愛情を感じることが出来る。
彼女達は部屋に戻り、朝食の準備に取り掛かる。チーズを絡めたベーコンと野菜の上にジャガイモを載せ胡椒を振り掛けるとオーブンに掛け、サラダを用意し、ロサはミルク、ブランカはブドウジュース。麦パンにハムとオリーブを乗せてテーブルに並べる。
朝食ではいつでもブランカの視線はグラスや料理に注がれる。ふとロサは仕事をしているときのブランカを見たいと思った。普段は寡黙でクールなブランカだが、まさか仕事をしている時も無口とは行かない。
ここで共に生活を始めて二ヶ月目。共にいて楽しんでくれているだろうか?今は聞かない。朝だから。
「あたし、行って来るわね」
時間的に大学生のロサが早く部屋を出るので、いつもブランカがキスで彼女を見送った。
「いってらっしゃい」
ロサは黒のパンプスに灰色のタイツ、黒の膝上スカートに灰色のニットを着て、パーマ掛かる黒髪の頭に帽子を乗せてバッグを肩からかけ、ドア横のコートを手に出て行く。コートを脱いだブランカは黒のノースリーブの上に白いゆったりした襟口の服を着ていた。どちらも黒や黒、灰色が好きだと互いで気づいていた。時々差し色で原色を入れることはあるのだが。
またロサが出て行くとブランカは意味も無く受話器を手にした。
「………」
何も声の聞こえない受話器。単調な音だけ。目を閉じる。ボブ髪を耳に掛け、それをずっと聞き続けた。
彼女も仕事の為に出る時間になり、バッグを持ち出かける。
「ブランカ」
「………」
「ブランカ・シガネル!」
彼女は髪を揺らし止り、振り返って声の主を見た。
「サンスエーニャ校で友達だった、リリアンよ!」
ブランカはここまで来たリリアン・エリアスをまっすぐ見て視線を反らせなかった。
「あなた、七年ぶりだわ。更に美しくなって、今はご両親の仕事を手伝っているって、フローリカ達の噂で聞いていたの」
「ええ……」
ブランカの心は一気に学園時代に戻る。リリアンはまるで百合の様に優雅に微笑んだ。
一瞬、恋人ロサの影が陽にそっと溶けていった。
リリアンはあの頃のままに無垢な微笑みで話しかけてくる。彼女達を含めた六人でできていた友人グループだったのだが、リリアンはブランカの初恋だった。
ロサは夜、ブランカが戻らなかったので一人窓辺で膝を抱えていた。
「………」
冷め切ったコーヒーは既に彼女の頬よりも冷たくなり、何故か流れる涙よりも冷えていた。そちらの流動的な雫の方がぬくもりがあり、それでもブランカのさっとしてくるキスより優しくはなくて、そして悲しかった。
何故こんなに悲しいのかしら。戻ってくるというのに。彼女が仕事で遅くなる事は何回だってあったし、連絡が無いことが今までに無かったからって心配のしすぎだと思うのに。
彼女の背が映る鏡は彼女しか映さずに、いつも横にそっと静かにいるブランカが見えない。
「!」
ロサは目を見開き、窓の外、街灯と一寸先の闇に紛れるブランカと、そして見知らぬ美しい女を見た。彼女達は美しくキスを寄せ合い、手を握り見詰め合って今しがた、ブランカが明かりへ全身を現した。あのスレンダーな体を。
ロサは立ち上がり後ずさりして、それが鏡に映った。衝動を受けた自分。その体が揺れて、涙が視界をぼやかせて地に落ちた。
「何で……。え?」
冷たくなった手。カップはその場に残したまま、半開きの窓に映る室内に既に彼女は映らない。
「何で……?」
髪をくしゃっとやり、瞬きを繰り返した。
ふと鏡が目に入る。
「あたし達……」
瞳が揺れるロサが映る。影は彼女に入り、月光が冷たく照らす体。
「同じじゃなかったの? 鏡みたいに……」
幻想?
「違ったの? 幻想だったっていうの?」
ドアが背後で開かれる音がした。振り向けなかった。
足元に差す白い月光。街灯に柔らかく照らされていたブランカとは違う。違ったわ。白い月光のような人なのがブランカだった。冷静で、静かで、愛情をそれでも深く持っている人だった。恐る恐る現す人だった。なのに、何故?
もしかしたら思い過ごしかもしれない。見間違い。寂しかった心が幻想で映っただけ。まるで鏡……みたいに。
ロサはくるっと振り返った。
「ただいま」
ブランカはコートを開き、ビリジアンのマフラーを取っているところだった。まとめている髪をほどいてボブに戻すブランカはロサを見ると、白い顔をしているので驚いた。それ以上に……。
「泣いているの……?」
ロサの手は狂気に鏡を割りかけてぎゅっと握り締めた。
「おかえり」
涙をぬぐった手の甲のひやっとした冷たさに息を漏らし、うつむく目が上げられなかった。
ブランカは駆け寄って肩を持ち、頬にキスをしようとした。
パンッ
「!」
ブランカは驚き、頬を手の甲で押さえてロサを見た。
「浮気者!」
声がびんっと響き、ぶわっと涙が零れた。
「子供扱いしてたのね?! 他の女とずっと浮気してたんでしょう! だからあたしといてもつまらなかったのね!!」
「ロサ、」
彼女は自分のマントコートを掴んで出て行った。
「待って! ロサ!!」
ブランカの姿が両方の鏡に映り、まるで魔力が働いたように動けなくさせた。それは愛情の尺度なんかではない。ロサのこともおっかなびっくりだけれど確実に愛しているのだ。ただ、方法が分からないだけで不器用な自分が素直に表せないだけで、壊したくないから。鏡の様に全てを映して、割れてしまったら鋭く傷つけてしまうことが怖い。
キスは確かにリリアンと先ほどした。けれど、それ以上はしていないし久し振りに会ったから食事をして、それで共に不動産屋を回って、それで戻ってきたのだ。まさか、その一度のキスを見られていたなんて。
行く当てがあるわけじゃ無い。カフェから出ると酒も飲んだからなお更落ち込んでいた。なんで窓辺で過ごしていたのだろうか。でなければあんな場面を目撃することは無かった。
振り返ってもブランカは追ってきてはいない。いつも行かないお店を選んだから現れる確立も無い。許せる? 分からない。浮気なんてされたこと無かった。自分もしたことは無いし、今までは愛が終ったために別れてきたのだ。相手が横暴だったりドSだったりとかしたわけでは無かった。この今の心への衝動はどうだろうか。静かな人だから、まさかあんなショックを与えてくるようなことがあるなんて思わなかった。自分の色に染められるとも思っていたのだ。鏡みたいに同じ動作をするような人というのではない。全く違った者同士、価値観だって違うままに、愛情を同じく互いに向け合うにはもっともの人だと。
何も言わない人だから、同じ感情だと勘違いしていたのだろうか。ブランカにとって、この間柄はそんなに軽いものだったというの? まさかそれは無いわ。ひとつひとつの愛を大切にするわ。
街角に来ると、壁に背をつけた。夜空を見上げる。
「どうして?」
あの時、鏡売りに声を掛けて、そして始まった愛の生活。間違いじゃないわ。今だって好きだわ。
浮気だったの? あの相手は誰だったの? 何故?
「ロサ……」
ブランカを見た。彼女はマフラーを持っていて、風の当たるロサの首元にふわりと巻きつけた。
「さっきの人……スペインの高校時代の初恋の人だったの。キスだけよ。こんな言い方したら怒るかもしれないけれど、一緒に食べて、彼女が一人暮らしする部屋を探すのを手伝ってあげただけ。こっちに来て、それであたしを訪ねて頼ってきたというの。助けになりたくて、それで」
ロサは静かに彼女の瞳を見つめながら聴いていたけれど、そっと相槌を打った。ブランカは一度もその泣き濡った目を反らすことはなかったし、今まで見たこと無かったぐらいに耳まで紅くして泣いていた。ロサは年上の恋人をそっと引き寄せた。
「信じる。信じるわ、愛するブランカ」
「ごめんなさい、不安にさせて、ロサ」
肩がブランカの体温に染まり、ロサは微笑んで息をついた。自分が染められていたのだと気づく。ブランカに。薔薇が白く染められていっていたのだ。ブランカ色に。一緒に眠るときも、窓から星を眺めるときも、ええ。元は、鏡を売っていた彼女に魅せられて染まったのが始まりで……。
ロサはブランカと強く包括しあい、その二人を月が照らした。その明かりは彼女達を離れさせないヴェールみたいで……。
「浮かない顔ね」
肘をついてゆったり頬杖をついていたロサの友人メリーザが顔を傾けて覗き込んだ。緩い髪を小さな耳にかけてあげると頬を指で撫でてあげる。
「ちょっとね」
食堂でコーヒーを傾けていると少しは気持ちが落ち着く。疑惑はこんなにも根深く心に針をおとすなんて思いも拠らなかった。この小さな耳から入ってきたブランカの甘い許しの言葉を鵜呑みにしていられればいいのに、そこはかとない焦りが心にあるのだ。大人な雰囲気を持ったブランカの友人。初恋の相手。あたしの方が若いし、どちらかというと可愛い顔立ちをしているし、時々履くロマンティックなスカートだって似合う。しかし、恋のライバルになりうる女性は大人の女だった。まるで草原を体現するような爽やかな笑みを感じた。ああいう人が、好みだったんだ……。
「あたしはあたしよね」
「え? いきなり自信喪失? 他の誰だというの? 誰かになりたいの? それはロサらしくない」
「分かってる」
メリーザは彼女の性癖は知らないが、恋人がいることも聞くし「鏡の様な人」と言っているので自我が強いロサにしては珍しい恋人を選んだものだと思っていた。自分を重ねられるほど同じ人だと。どのあたりが? と訪ねると「分からないけれど、感じるのよ」と曖昧なことを言う。先ほどの質問は、もしかして恋仲が芳しくないという意味なのだろうか。自分だけがその鏡の人から遠ざかっていくか、相手が遠ざかろうとしているのか。
「あなた、変わりたいの?」
「気づいたの。変わることって必要なんだって。確かに自分らしさは大切よ? でも、誰か大切な人に愛されていると、盲目になって自分に自信がついてこれでいいんだって思うけど……」
「恋人の気持ちが離れていく前にその人に染まりたくなったのね」
「負けを認めるような気分だわ」
「ロサ」
細い手を重ねるとメリーザは言った。
「恋に一筋なのは素敵だわ。恋をするうちになんでもしてみればいいと思うの。満足いくまで、それが愛を育てる行動の一つだとも思うわ」
メリーザ自身が彼氏と五年間続いている子で、冷静な性格なのだがどこか性格の面でドジなところがあり可愛らしくてロサ自身ももだえるほど抱きしめたくなる時がある。装って冷静にしているのでは無く、本当に明晰なメリーザがなぜかふとドジなことをやらかすのがお茶目でしかたなく、その辺りも彼氏は彼女を放っておけない魅力なのだと言っていた。彼女たちは彼女達同士の愛し方があって、それで成り立っているのだ。
ロサが部屋に戻ると、パンプスを玄関口で履き替えて揺れる黒いマフラーストール先の細い足首をふとみつめた。ぱたんと落ちるパンプス。スキニーなパンツ。それにベージュトレンチコートに包まれる灰色のセーター。彼女は裸足のまま、姿鏡の前までふらりと歩いてみていた。
「………」
赤いルージュ。長くてエレガントな黒髪。焦げ茶の瞳。眼力がある。アンダルシアの馬みたいに勇ましい顔立ち。自分はいつでも、いつでも自分に自信を持って顔を上げて生きてきた。自分の性癖がどんなに周りから受け入れがたい時もあるだろうが、それでも恋に生きた。確かに愛の終わりは毎回自信をなくしてしまうことだってそれはあったけれど、それでも恋をしてきた。同じ女性、同じ柔らかな体、同じぐらい繊細は心、そして同じぐらいに激しさだってあった。敗れたり勝ち取ったりの連続だったけれど、今の愛はどれもが今までの一番。ずっと恋はその時の一番だった。少し大人な付き合いができるようになった自分と、はしゃいできた前の愛とはまた違う面をどんどん見せるもの。
「髪型……変えようかしら」
なにも、あのブランカの友人のようになりたいなんて思わない。もっとロサ、自分らしさを出したいのだ。反面的にあのブランカの友人とは全く反対の位置に行ってブランカが今愛しているのは自分の事なのだと……。違うわ。それがブランカを勝ち取る正式な方法なのでは無い。自分らしさを見失ってはいけない。
「恋はこんなにも自己を見失わせるものなのね……」
ロサは俯き、その場にしゃがんで頭を抱えた。髪が美しい顔を隠し、歯の奥を噛み締める。愛に盲信したってかまわない、それを体と体で向き合って表現しきれていなかったのかもしれない。ヴェール先……鏡の硝子面に今まで隔たれていたのだ。だからブランカは静寂だったのをそのままに自分はさせていたのだ。その硝子を越えて、あの見た目はエレガントな枠を越えて、心と心だけで飾りなど無い『自分』で愛し合うということ。それが愛なのだわ。
重厚なまつげのまぶたを開き、立ち上がった。
鏡にはロサが映る。
「これが、あたし」
ブランカは複雑な心境だった。自分を心を今例えれば、壊れかけの懐中時計のようなものなのだと思った。しっかりとロサという存在があって動いている懐中時計が、自分という歯車で今まで愛をすすめていたけれど、初恋の相手という存在が再び現れてそのせわしなく動く秒針が狂わせてくる。秒針が歯車を、強制的に。それがロサに影響してくるだろうことは恐怖だった。こんなに可愛いロサを愛しているのに、リリアンという存在は秒針よりも早くブランカの鼓動を早くさせる。無邪気に相談してくるリリアンは酒で酔っていて夜のキスを覚えていなかった。
そして今、ブランカの目の前にリリアンが青年を連れてきたのだ。
「彼のポールよ。もう付き合って三年になるかしら。ね」
そのポールという青年はどこか間抜けな雰囲気が拭い去れなかった。きっとリリアンの方が気が強いし彼を引っ張っていっているのかもしれない。年齢は彼の方が上の印象がある。服装だって何というか、パンツにしまわれたシャツはチェックで、短髪は刈り上げられている。腕は太い。背も高いのだがのぼっとた感じだった。
「彼は軍の出でね、病院で知り合ったの。あたし以前風邪を酷くこじらせたことがあって入院したのよ。そこで彼が除隊した後のカウンセリングというやつで病院に来ていて、病院内をうろついていたあたしとぶつかってね。それでなんだか一目惚れ」
ブランカは「へえ……」とただただ頷いていて、優しい目元の青年が照れて笑う顔からリリアンを見た。
「仲が良さそうだわ」
言葉は宙を浮いてばらばらになってテーブルに落ちた。どうしてもブランカには興味の引かれない男はブランカに予想以上の気持ちを作らせていた。自分の方が勝っているのでは? という気持ちと、張り合う気も起きないほど拍子抜けした、という両局面の脱力感だった。ただ、それはそれはリリアンを大切にしてくれているのだろう……。
ブランカは微笑んで、彼を見た。
「大切な友人を愛してくれていてどうもありがとう」
「実はね……、結婚を控えているの。今年のことよ。彼は国に戻ってしまうからあたしだけフランスに残るんだけれど、それもしばらくしたら一緒になるから新しい部屋を探すわ。それまではよろしく。ブランカ」
「ええ……」
ショックを受けて二人を交互に見た。結婚。恋下手だった自分の初恋相手の結婚。
「あの……ちょっと失礼するわね」
耐え切れずにブランカは席を立った。
「ブランカ?」
走って行き、手洗いに駆け込んでこみ上げてきたものがいきなり溢れて涙塗れになった。
「ロサがいるのに、ロサがいるのに」
ブランカは小さく震え呟き続け、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。このままでは駄目だという心と、リリアンから離れなければと思う心と、奪ってしまいたいという渦巻く気持ち……。
「ブランカ」
まるで囁く声は自分のファムファタールに思えた。意地悪な人では無い。リリアンは底抜けに。なのに、今の思い悩む自分にはその彼女さえもどんなに自分をいけなくする存在になりうるか……。
ブランカは肩に手を掛けられたと同時に手首を掴み唇を奪っていた。驚いたリリアンの脈が一気に上がり頬を濡らすブランカの頬を見て開かれた目を見た。
「ごめんなさい、好きだったの……リリアン、あなたの事が」
ブランカが離れて行き、背後の壁に粒かって細い体が揺れて一度俯き、小さく言った。
「駄目だわ。あなたに協力出来ない。あたしには彼女がいるの。彼女のこと愛してるのに、これから幸せになるあなたと一緒にいたらあたしも彼女との関係も崩れてしまう。それが恐いわ。本当にごめんなさい」
彼女は走って出て行き、全ての後悔を抱えながら泣き続けた。
美術館にいて、一人心が空になりながらただただ一点の絵画をおぼろげに見つめていた。もう心を動かすことに疲れて、少しだけ、休んでいたい。しばらくその絵を見つめ続けていた。
とぼとぼと家路に着くころ、携帯電話に連絡が入った。
「ブランカ」
「………。リリアン」
「今日はごめんなさい……」
「何を言うのよ。謝るのはあたしだわ……。でも、安心して。あたしの会社にパリに詳しい子がいるの。とてもいい子で親身になってくれるから、彼女に協力させてあげてね……」
出来るだけ明るい声で言おうと思ったのに無理だった。なんてあたしは心が弱いんだろう? ブランカは星を見上げた。
「ありがとう。ブランカ」
ブランカは星のきらめきを見上げて、昔のことを思い出した。
『白い百合』と、友人達が二人のことを呼ぶ事があった。懐かしい呼び名。
今は『白い薔薇』。なんの遜色も無い愛の形が出来上がっているのだから。ロサとブランカ。あたしであってロサである人。ブランカであって彼女である不思議な感覚の子。時に大人びすぎているロサ。理由も分からずに大好きよ。一緒にいて、ただただ心がリラックスするの。つまらないなんて思ってないわ。一緒にいやすいの。話してなくても分かる気がして、まるで窓辺の白薔薇の蔦の様に、甘く絡み合う心の存在。
「あたしの方もありがとう。リリアン。あなたの事が好きでいられた過去はとても素敵な経験だった」
「今の人と、しあわせなのね」
「ええ。とても」
だからこそ、もう少し感情を口に表すことをしなければと思った。口に出さなければ、リリアンの時みたいに気づいてもらえない。どんなに今ロサ自身が大切なのかと云うことを。ロサを不安がらせたのだから。
「応援しているわ。優しい目をした彼とのこと」
「ありがとう」
彼女が照れて笑っているだろう顔が声からでも分かるほどよくあの頃はリリアンを見ていた。
「また落ち着いたら、これからも友人でいさせてもらいたいの。リリアン。その時はあたしの愛する彼女のことも紹介させてね」
「もちろんよ、ブランカ!」
星は流れてどこかへ彷徨っていく。それは心の内側に巡る宇宙かもしれない。心を乗せて、どこか分からない場所へ流れていくのが。どうか、その先にある場所にロサの心が光り漂っていますように……。
愛の形と云うものは何なのだろうか。リリアンは上の空で石畳を見ていた。
「どうしたんだい?」
ポールは彼女の横にコーヒーカップを置いた。
「あ、ええ。何でもないわ」
彼は彼女の表情を見て、「そうかな」と正直思ったが言わないで置いた。割と感が鋭い部分がたまに自分でも嫌になるポールだが、その部分は軍でも長所にはなった所だ。問題は感受性が強くなる部分が良くなかった。リリアンからはそこからくる優しさをよく褒められるのだが、それらから出てくる感の良さは時に邪魔になる。
昨日紹介されたあの美しい女性。どこかミステリアスな雰囲気があった。猫の様に鋭い目をしていた。どこかへ行ってしまった後は戻ってこなかったのも気がかりだったが、どこか自分がリリアンを見つめるときの顔と彼女がリリアンだけに向けるまなざしは同じに見えた。女同士は束縛しあう事がある。特に女子校の出なのでそれらがあるのではないだろうか。自分だけの人にしておきたい、という心が。それが恋や愛に充分なりうることがすぐに予想できた。
ポールは椅子ぬ座るとあまり彼女の様子を見過ぎないようにコーヒーを傾けた。きっとあの後何かがあったに違いない。こんなにぼうっとしたリリアンは初めてだ。いろいろと分かってしまう分、それらを上手に出さずにいることが自分には出来るのでうまくいっている事もあった。第一、愛するものは守らなければという精神が強い。
リリアンはあのキスの後からドキドキが収まらずに仕方が無かった。思い返せばよく彼女が自分を見てきていた。それがまさか恋心からだったなんて。昨夜の電話で「諦める」という言葉に少なからず消沈したのは事実だ。いきなり告げられて諦められて、それが普段冷静な相手だったから特に突き動かされて焦ったのかもしれない。
「ね。正直言うんだけれど」
それがリリアンの性格だとポールは分かっているので、穏やかに耳を傾けた。
「うん」
「あの子、魅力的よね。今まで気づかなかったけれど久し振りに会って美しくなってて。でも、この心は再会の衝動がさせてるだけかもしれない」
「うーん……良い事だとは思うよ。どんな形にせよ、良い方向に心が動かされるのは栄養になるんじゃないかな」
「ほどほどにしておくわ」
「ああ」
髪にキスをしてから二人で街並を見た。ポールと話していると、やはり安心して彼に戻っていくのだろうと思う。ポールの肩にこめかみを乗せて流れる音楽に耳を傾け続けた。
リリアンはメドリーという子を紹介されていたので、待ち合わせのカフェに来ていた。ポールはあと二日したら帰ってしまう。今はリリアンがこれからどんなところで生活するかを確認しに来たのだ。
「話は伺っているわ。あたしに任せて。比較的部屋も近いみたいだし、なんでも聞きに来てくれていいから、この連絡先も登録お願いします」
「助かるわ。いい人を紹介してもらって良かった」
「ふふ」
メドリーはにっこり微笑んだ。ブランカお嬢様の友人なので特に失礼の無いようにと思っている。思った以上に爽やかな人でメドリーは安心していた。ブランカ自身がどこかプライベートでは寡黙な人なのでどういった友人関係があるのかを一切知らずにいたのだ。
その後メドリーはリリアンと共通の話題を見つけて親近感を持ち、これからそつなくやっていけるだろうと確信を持てた。その事をブランカに伝える。
「どうもありがとう。本当に助かったわ、メドリー」
ブランカは畳んだ衣服を仕舞ってから肩と耳に挟んでいた受話器を手に持ってキッチンに来た。
「申し訳ないけれど、彼女の事よろしくお願いします」
「任せてください。いい友人になれると思いますわ」
「良かった。今日、共に食事をしない?」
ロサは今日サークル仲間との飲みで遅くなると言っていたのだ。メドリーが返事をして共に食事をすることになった。
宵の時刻、メドリーが部屋に来ると今日はシェアを組んでいる『同居人』の女子大生、ロサがいないことを知らされた。メドリーは持ち寄ったワインをブランカに渡すと一緒にキッチンに立って料理を手伝った。普段あまり使われないキッチンなので手軽なものを作るばかりだ。量はある。
そんなこんなでロサが帰ってくると、何やら珍しく笑い声がしていた。ブランカが酔いすぎると笑い上戸だとは知らないロサなので、首をかしげながら入って行った。
「あら。いらっしゃい」
そこにはテーブルの上を数本の酒瓶をあけた状態の二人がいた。
「ロサ。お邪魔してるわ。ああ、もう飲みすぎてしまって」
メドリーも可笑しくて笑っていてロサは歩いていった。こんなに酔ったブランカは初めてだった。もうふらふらしていて何を言ってるのかわからない。
「バッカスに誘われて惑わされているのよ!」
「まあ、ブランカったら凄い飲んだのね」
メドリーは微笑んでウインクした。
「たまにね、笑い上戸になるの。安心して。酷くは酔わないから」
既に食器は洗われた状態で台の上に並べ置かれている。ブランカはソファにすやすや眠り始めた。メドリーもそれを見て睡魔がやってきたらしく、テーブルに頬を乗せて眠り始めた。ロサはやれやれ微笑んで姉さん方の飲んだ酒瓶を片付けていくとワイングラスを洗い、彼女達の肩に毛布をかけてあげた。ブランカは何かふっきれたような顔で微笑み眠っていて、ロサは愛しくて頬にキスを寄せた。さっとメドリーを見るが、眠ったままだったから安心した。
白薔薇の薫り~ブランカ~