彼女の百合

 黒い窓枠には、灰色の服を着た彼女がいた。
 暗い目をして私を見つめ、そして彼女の白皙の肌を囲む黒髪だけは光沢を受けている。曇り空でもなお。
 私は森に囲まれた草地に咲く白百合の群れから、一輪手折った。彼女のところまで歩き、そっと差し出すと、彼女はそれを虚ろな目で受け取り、そしてすっと薫りを鼻腔に充たさせた。
 彼女の魂は百合に忍んでいたかのように、あでやかな笑顔になり、光る瞳で私を見る。
「クリスさんは、優しいのね。私を哀れんでいらっしゃる……」
「そのようなことは」
 私は頬を染め眉をしかめてうつむいた。彼女を連れ出すことなど、小作人の私には出来ない。ひっそりとしたこの灰色の土壁の小屋は彼女の砦として、主人が閉じ込めている。
「それでもね、私は晴れの森も、曇りも森も、雨の森も、好き。小鳥が挨拶をくれる。ときどき動物が私を見てくれる」
「私も、私も貴女を、カリエラ様」
 百合を細い手にしながら、彼女は森からふと私を見た。
 そして、ふと花のように微笑んで、藍色の瞳をふせた。
「そうね。それがもしも叶うなら」
 再び遠い目をして、屋内へと歩いていく。黒い襟と黒髪に囲まれていた彼女の細い顔は、さきほどまでは百合と笑顔が飾っていたものの、今は表情も分からない。灰色のワンピースの裾から覗く白い脹脛が、私の心を雁字搦めにした。
 あの細い足首は、白銀の百合の枷が似合った。音を鳴らして足を揃えていた姿が、悲しげだった。私が主人の目を盗んで助け出したのが間違いだったのか。再び連れ戻され、こうやって城から森の小屋へ彼女は監禁されてしまった。
 それでも、私だけの彼女の微笑みを見ることが出来る。
 彼女の主人であるリザー男爵は、現在不在だ。他の爵位の城を管理を手放す理由で引き受けることとなり、それをシャトーにするのだという。すでに八十年も前からその侯爵の先代の時代が過ぎ、時代とともに利用法を変えることは言われていたようだが、次代の当主が一族の面影を残しておきたく思い、管理をし続けていたのだそうだ。だが、その彼女の子供であり、現在の侯爵が爵位としても形式的なものになりそうな昨今を、シャトーに変えるか、ワイナリーに変えるかしないと、城の保持自体に関わると判断した。
 そこで、リザー男爵他、数名の爵位を持つ者等を介して、連盟を組む上でシャトーにする契約をこれから結びに行くために朝方から馬車で移動していった。
 それらの話は一小作人である私が何故知るのかといえば、カリエラ様を連れ去ったことにより、位を落とされた為でもある。お咎めが無かったかといえば首を縦には触れないほどに鞭をもらいはしたものの、カリエラ様を開放して差し上げたかった。
「クリスさんは」
 私は彼女の背から、振り向いた横顔を見る。
 あまりものの置かれていないこの場所でもよく美しさが映えるお方だ。なおのこと引き立つのだ。百合の花のようなものだった。
「何故、私を助け出したの? いつも何を考えているのかも分からない顔をして、冷静を崩したことなど無かったわ」
「分かっておいでのはずです。これ以上はもう」
「他の危険を侵してまで救われたくはなかった」
「カリエラ様」
 暗い目は静かに私を見つめ、そして離さなかった。
「リザーはあれから試しているの。あなたが私をどうするのかって。こうやって私にボディーガードを付けさせないのだってそう。長期留守にするときは、絶対に私には護衛がついてあなたに私を触れさせなかったのに」
「………」
 私は目を見開き、彼女が百合の花の裏から出した短剣を見た。
 彼女が泣きそうな目で歩いてきて、その短剣を差し出してきた。
「お願い。私は自由になりたいの。けれど、今のままでは無理よ。あなたにだけ頼めるわ。私をもうここで自由にして欲しいの」
「そのようなことは出来ない」
「一瞬よ。もう、一時間前に睡眠薬を飲んだわ。だから、そろそろ……」
 虚ろな目は、そのまま伏せられた。
「カリエラ様!」
 窓を乗り出し体を支え、短剣が彼女の足元に落ちた。百合も落ち、彼女の足首を装飾する……。

 私はきつく縛った腕を押さえながら、彼女を抱え上げ森を走っていた。
 馬のいる場所までくると、彼女を背に乗せて私も乗る。
 腕が痛む。先ほどは多く血を出した。くらくらする。私の下がった体温が彼女を冷えさせてしまわないように、早く出る。
 馬が走り、私は彼女の体を支えながら掛け声をあげた。

 目を覚ますと、そこはどこかの床の上だった。
「目覚めたのね。クリス」
 柔らかな感覚は、彼女の膝だった。頭を預けていたようだ。
「馬鹿よ。自らを傷つけてまで……あなたはそんな不器用な考えの人のはずじゃ無かったのに」
「私は、貴女を手に入れるためなら馬鹿にでもなんにでもなる」
「え……?」
 ずっと手に入れたかった。救い出したいなどとは、そんな英雄めいた気持ちなど、いらない。ただ奪いたかった。いつも鞭打たれる彼女の美しすぎる涙が、私の心を傷つけ続けた。男爵の目を盗んでいつしか、涙で無い、笑顔だけを彼女に与えてあげたいと思ったことが馬鹿で愚かなのだとしたら、いくらでも傷などつくる。救いたいというそれを愚かなだけだというのなら、この世の何が善悪なのかなど、問うことすらもあまりに悲しくなるではないか。
「大丈夫です。あれほどの血を見れば、男爵も諦めるでしょう。貴女と私は同じ血液型だ」
 裏手の底なしまで血を流しておいた。世を哀れんでそこに沈んだと思ってくれればいいのだが。
 あまりにも咄嗟のことで、そんな考えしか浮かばなかった。ただ、遠くへ逃げたい。
「まだしばらく目を閉じていた。ここは目の見えない老婆が一人暮らしている所なの。古い馬小屋よ。私は一人だと言っているし、あなたは気絶していたから」
「しかし」
「ふふ。大丈夫よ。声を凄く低く変えていたの。私だと、年齢も何も分からないぐらい。快活な風でね」
「ふ……浮かびませんね……」
「でしょう」
 私は微笑んだまま、また再び重いまぶたを閉じた。

 目を覚ますと、血が多少は巡ったのか、体が軽くなっていた。
「ここは一体?」
「州の北部よ。覚えてないのね。割と長くあなた自身で走らせたのよ」
「そうですか……」
 私たちは身支度を終え、老婆に挨拶をしてくると言い、静かに彼女が厩を出て行こうとした。私はその手首を掴んでいた。藁や枯れ草が絡まる足首を返して、彼女が私を見上げた。
 そんなことが、私は心の底からうれしかった。枯れ草でも、藁でも、それらがいいのだと思った。あんな冷たい枷など、彼女に二度と填めさせはしない。
 柔らかく、色も穏やかな藁でいい。
「心配をおかけして申し訳ございませんでした。気絶など」
「いいのよ。男性は女より血を流すと良くないから」
 彼女がどこか力強い笑顔で言い、そして歩いていった。
 そんな強い微笑みを見て、芯を感じた。
「ああ、彼女は変われる」
 私はつぶやいていた。
「お婆さん! ありがとうね。もう充分休めたから、そろそろ行くわ!」
「ああ、そうですか。それは良かったことです」
 細身の上品な雰囲気をかもす背の彼女から発される言葉に、私は微笑んだ。
 彼女が戻ってくると、静かに馬に乗り込んだ。
 私も馬に乗り込む前に、穏やかに微笑む老婆に深く頭を下げた。

 州を越え、葡萄畑の広がる風景から処変わり、丘が低い山に囲まれるところまで来た。ここの山を越えれば、私たちのことを知りはしない者の村に来る。
「まだ少しの知識しかありませんが、小作人として働いたものはあります。大丈夫ですよ。教わりながらやっていけることでしょう」
「小麦や野菜を作るのね。もしかしたら、私にも向いているかもしれないわ」
 彼女には我慢強さがある。きっと大丈夫なはずだ。
 馬はもう足並みを遅くし、優しい風の吹くにまかせて歩いていった。
 頭を寄せ合い、私たちの微笑みに淡い陽がかかる。

2017

彼女の百合

彼女の百合

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-16

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