白い花の情景

 月光に染められた清純の白い花を見ていると、僕は彼女のことを思い描くのです。
 彼女は名前を礼子と言って、深窓のお嬢さんでした。
 彼女が許嫁に当てられたのは僕の少年時代だったけれど、随分と会ったのは後のことです。父と母と共に馬車を乗り継いで二日。静かな田舎の子でした。
 当時、家に囲われていた礼子さんは十五歳。男の人と喋ったことなど無く、庭師とも話すことも出来ないほど内気だったようで。その整えられた庭で初めて見た印象は、一気に僕の心を引き付けたのです。
 あまりにも白い頬。それなのに鮮やかな瑠璃色の着物。小さな声は挿された小さな紅から漏れて、一言。
『ご機嫌麗しく……』
 彼女は視線をしばらくはあげなく、僕も緊張をして言葉を詰まらせていたけれど、父が咳払いと共に肘で軽くついてきたので咳を切ったように言っていた。
『僕は松乃居の英治郎です。浦下川の学校に通う十七の年齢で、今回に至りましては礼子さんを紹介頂いて、至極しあわせの限りに……』
 変なことを言い出す僕に両親は天を仰ぎ、礼子さんのご両親は青空のように笑って、僕でさえも口べたなのだと知られてしまった。当然女性との付き合いなど一度も無く勉学に励むばかりで、日々を過ごしてきた結果がこの失態だ。
 礼子さんはただただ目を丸く僕を見て、口をぽかんとあけていた。
 僕はまっすぐと初めて見た彼女の麗しい顔に目も反らせずに、手を取りかけてしまった。慌てて手を背後で組んで学生帽の頭を俯かせた。
『まあ、うふふ……』
 礼子さんが笑い、僕ははにかんで彼女を見た。
 それが彼女との初対面だった。その時から、きっと僕は彼女の全てを手に入れ得ると幻想を抱いていたのであろう。ぼうっと脳髄が麻痺するほどに眩い礼子さんの瞳は、控えめに光っていたのに、僕には眩しすぎた。瑠璃の魔力か、それだけでは無い。
 だから、僕は全てを手に入れたくなったのだ。礼子さんの全てを。

 揃って着物と着流しで出歩くその日の夜。秋の風が充分に流れ始めていた。
 虫の音は静かで闇に沈んで足下から響いてくる。
 笹の草むらは月の影を二つ伸ばしていた。もちろん、僕と礼子さんの。
 その時、白い花を見つけた。それは白いサザンカだった。
 僕は立ち止まり、礼子さんも止まった。黒い髪が流れる彼女の淡い色彩の着物の背。俯く無言の礼子さんの唇は、昼の時よりも濃い色で、僕はその白いサザンカの様な肌に咲く唇に引き寄せられていた。伏せられた睫毛が繊細な影を頬に落とすほど明るい月。困惑するほど綺麗な子だ。
 髪ごと背を引き寄せていた。僕の肩に紅が彩ってもかまわない。ひしと抱き寄せて、彼女の肩にサザンカの花々が濃い緑の葉と共に彩り乗った。香りは無い花だけれど、それは純真無垢な礼子さんの印象と同じに思える。
 青を着ている時とは違って、不安げに見える礼子さん。それがいじらしくて可愛くて、僕は焦がれた。
『さあ、行こう』
 彼女はこくりと頷き、僕は一房サザンカの花をつみ取った。木は揺れて、彼女の肩に花びらが数枚落ちる。金の花粉も降りかかって、それが、花粉が僕の心を確固としたものに変貌させた。得体の知れないものに。
 震える指で彼女の髪にサザンカを飾った。なんと馨しい顔立ちだろうか。暗がりに浮かぶ彼女は。僕の可憐な許嫁は。
 そして、僕の心に生まれ始めた異常性は消えることはなかった。

 「………」
 後悔が僕の心を占領する。
「ここならよく見えるでしょう」
「はい……」
 座敷で正座をする僕は、母に感謝をしてそれきり口を閉ざした。
 一輪挿しに飾られた白い花は椿で、なんの汚れも知らない花びらを広げてくれている。
 それを見つめていると、障子から椿に射す月光が恨めしくなる。それさえもうらやましくなる。
 僕は駄目だと分かってるのに、母の去った後にその椿の花を手に握って、ぽろりと親指の先から花顔が落ちた。僕の拳となった白い手だけを月光が照らす。
 全てが妬ける。何もかもが。彼女の髪が触れた着物も、彼女が脚を通した下駄も、触れた縮緬のハンカチも、頬を眩しく照らした陽にも僕は適いはしない。だから僕の心は彼女の全てになってしまいたかったんだ。
 自らの肌さえ彼女に着せたかった。皮として。彼女の滑る唇が愛しくてその紅になってしまいたくて、引き裂いて血をたむけたあの遠い日。
 その時、礼子さんが叫んで気を失う淵へ逃げていったとしても、僕は彼女の着る着物。彼女の引く紅です。何故逃げるのか。僕は彼女が日々着飾るものではないか。
 だが、僕の心は白い花のような礼子さんの心を恐怖に陥れただけだった。婚約さえ破棄されて、彼女はノイローゼになって男性不信に陥ったという。初めての恋は互いの初さを礼子さんは加速させ、僕は変質を伴って行った。
 婚約破棄に至った僕は父に大いに叱られて、しばらくは屋敷から出るなと言われてしまった。母に白い花を所望して、それでおきながら僕は花顔を落としてそれに礼子さんを重ねる。なんという事だろうか。いくら文をしたため許しをこうても彼女の恐怖は消えはしないようで。
 「こうやって僕は一人反省して君の様な花を愛でている日々なのだ。まだ僕の未熟な愛は変わってなどいないよ。だから、君に会ったら、また笑顔を見せておくれ。君が笑ってくれるときが来たら、今度は礼子さん、君と結ばれよう。それが僕らの添い遂げられる条件なのであって、僕らが愛を紡げる血潮の一端なのだ」
 そう手紙を送っているのに、彼女は愛を返してくれない。
 僕の筆の文字はだんだん日に日に震え出し、和紙ににじみ始め、僕の恋情と同じようにどんどんと黒くなっていく。白い花は白いだけだったのに、和紙に落ちた椿は黒い墨に染められて、悲しいかな、美しいほどにそれでも汚れ無き情景。僕の愛の言葉だけが激しい波にもまれている。
 忘れることなど出来ない。
 礼子さん。
「英治郎。もう文を書くことは辞めるんだ。礼子さんは精神を困憊して、心を患ってしまうよ」
 父が襖の向こうから僕に問いかける。僕は椿の影を見つめたまま、何も言わなかった。
 滲んだ文だけが僕の言葉。僕の心。

 半年前が、彼女に対する異常を望んだ瞬間だった。
 礼子さんが僕との愛情を確かめ合うために言葉を交わし、僕は彼女の所へ通い続けた二ヶ月間。何度も僕は礼子さんの全てを奪う好機を見ていたのだ。何気ないキャフェーで過ごす時間も、共に乗馬をする時も、湖で語り合うときも、だんだんと彼女の心を浸食する術を探ることに心はむしばまれていた。それは突如と始まる月食が月を蝕むようなものでは無い。ゆっくりと欠けていく月の巡りの様に奪っていこうとした。
 そして二ヶ月後、日常の間にふと現れた僕の心が牙を剥いた。日傘の先に揺れる黒髪。からりと鳴る下駄。袂を引き寄せる細い手を見て、今この時に彼女の着物、彼女の今は傘に隠れる紅になろうと決めたのだ。僕は自らの肌を傷つけ、血が流れ、礼子さんの白い日傘に赤い飛沫の絵を描いた。そして戦慄いた礼子さんの唇は日傘を落としたことで現れ、僕は言っていた。
『君の肌に、君の唇になれるのは今だけなんだろうね、礼子さん、今だけなのだろうね』
『ひ、』
 まるで異常者を見る目で見上げる礼子さんが、途端に叫んで気を失って、屋敷から番頭が走り寄た。そこから僕の記憶は無かった。
 そして『反省しなさい』と父に言われて四ヶ月。一度も恋文に応えない礼子さんを諦めろと父は言う。
 僕は肩を振るわせ、正座する膝に俯いた。
「何故ですか……。礼子さんだって、夜僕の眠る振りをする間に僕に接吻をするお人だったのに、僕の肌に頬を寄せて異常なほどに囁く人だったのに、僕だけがおかしいんじゃないのに、僕だけが愛してるんじゃないのに、そんなの変じゃないですか、僕だけが変なんじゃないのに」
 ぶつぶつと言い続け、その晩の夜気が冷たくなって来る。
「僕だけおかしいなんて、そんなの変じゃ無いですか……」
 また涼しい夜は礼子さんは僕が眠った振りさえすれば、頬を寄せて執拗な接吻を降らせるんだ。僕の肌になったように。僕の唇になったように、それは白い花びらが触れることと同じぐらい、可憐な動作……。

2014.

白い花の情景

白い花の情景

2014年ライトノベル研究所投稿作品

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-16

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