潮騒

 ざらついた足裏の感覚をしばらくは楽しんでいたように思う。
 朝陽を透かすまつげを閉ざしたまま、耳からは潮騒を、頬や腕には冷たい風を受け、髪が触れる唇は光り、微笑んでいた。
 彼女が振り向きながら私を見たとき、影に入ったはずの彼女の瞳も光りを収め、私の心を奪った。
「砂にかかれた名前の記憶を、砂たちが憶えているのだとしたら、いったい何層も名前をその身に受けてきたのかしらね」
 彼女が裸足で回転して、光るさらさらの砂に円を描きながら言った。
「そして風にさらわれていく名前は、波にもってかれる名は、地球が記憶していくのかしら」
 私は砂浜に座って、膝を抱えて彼女を見上げた。
「わからない」
 首を振りながら言うことしかできなかった。彼女は薄橙色の朝陽を背に、両手にして落とす砂とともに回りながら、心地よさげだ。
「だから、私の存在もいつか空気になって、記憶された地球の土に戻って、いつかミコと会えるかもしれない」
「私は今ここにいるよ」
 私はうつむいて、膝に目元を押し当てた。
「いつでもレイは私を見ていない」
 つぶやいて、波音にかき消された私の声は、拾われないまま。私の心は回転して砂に描かれるレイの円にとらわれて動けないというのに、レイは今というときを見ないんだわ。
「わかってる」
 レイが私の肩を抱いて、私は彼女を見た。彼女のさらさらの髪が私の頬にも触れて涙に触れる。レイの頬も、涙に濡れていた。
「行っちゃわないで!」
 不安になって、抱きついていた。
 笑顔のまま泣いているレイに抱きついた。

 けれど、レイは転校して行ってしまった。この海の見える小さな小さな町から離れて、山間の学校へ。
 私は毎日のように学校から帰ると、急いで電話を抱え込んで会話をした。今日あったこと、今度の音楽会のこと、お習字でまあまあの点だったこと、隣の席の子のこと、なんでもレイに話した。夕食の時間がそれでちょっと遅れそうになると、いつもいい加減にしなさいと頭をぽんと叩かれて受話器を置くことになった。
 レイはいつも私の話をくすくすと微笑んで聞いた。休日も会いにいけないの? と何度も言う私に、遠いから無理よと小さな子供を諭すように言う。同い年なのに、レイは私よりも色々と違う。そのたびに私は寂しくなる。
「レイは私と会えなくて寂しくないの? 私はいつも寂しいのよ」
「いつも同じものを見ているじゃない。心の肖像にある風景」
 いつものようにレイが言う。
「レイったら!」
 いつでも「今」を見ないように思えるレイだから、一緒に海岸で遊んでいても、一緒に帰り道で花を見つめていても一緒にいることに不可思議を覚えていたような気がする。なんではぐらかすのだろう? 私が子供なだけだろうか? 素直に同じ花を可愛いねと言ったり、突然の大きな犬にびっくりして走ったり、セミの鳴き声を真似っこしあったり、そういうことがレイとは無かった。レイはいつでも路地の猫と話のようなものをしていたり、何語か分からない言葉ともならない言葉で唄をつくって歌ったりした。
 だから、一度でも言ってもらいたいのだ。「本当は寂しいよ。ずっと気持ちを言わずにいるだけなんだから」って。
 レイはもしかしたら、私のことを空気と同じだと思っているのかもしれない。私もレイの言う空気で、地球を巡っているさなかで、生命の箱に収まるまでを旅している同士。それが偶然すれ違って挨拶を交わして、土に返るまでを光りのなかで生きている。微笑んで、共に唄を歌いながら。
「風の唄も葉掠れの音も、よく耳に馴染むのは地球の子だから」
 レイはよく言う。
 レイの感覚なら、寂しさなんて無いんだろう。

 私は夜、布団にくるまってお人形さんを抱きしめた。それはレイの好きな水色の帯をつけている。
「レイはいつもどうやって寝付けるのかしら。私はレイのことばかり浮かんで、ぜんぜん眠れないのに」
 私はいつも、帰り道に道端の落ち葉を持ち帰って、それのかおりを思い切りかいで心を落ち着かせる。
 レイは将来、西洋に行って仕事をしたいんだと言っていた。だから、今は教師の親について転勤があるけれど、今に独立できる年齢になったら行くんだって。
「レイは大人になったら美人さんになるんだろうな」
 そう思うと、私は安らかな眠りに誘われ、微笑んだ。
 私はレイのことが大好きだ。

 小鳥の鳴き声で目を覚ますと、今日は土曜日だけど、音楽会が近いから休みじゃなくて、合同練習があった。手持ち鍵盤と楽譜、お弁当だけを持って学校に向かう。
 通学路に、いつもレイが話しかけていた猫がいた。私はいつも背を撫でてあげるだけの猫。
「最近、レイが転校しちゃったからあなたも寂しいよね」
「何故。わたくしは心で通じ合っているのですもの。今でもご機嫌麗しく声がこの耳に聞こえるのよ」
 私は周りを見回したけれど、顔が丸い三毛猫を見て、横の大きな家を見た。そこは和洋折衷の綺麗な家屋で、低学年のときは学校の行事で訪問した明治時代のお宅だった。
「あなた、お寂しいの」
 また、猫を見た。細い黄色の目で、いつも「ビャーミョ」と野太い声で鳴く。なのに今はその声の先に違う声が重なって聞こえているんだもの!
「あなた、喋れ、」
「あっははははは!」
 私は驚いて煉瓦と黒い鉄格子の塀を見た。緑の木々の先に例の屋敷が見えて、柵の先に女の人がお腹を抱えて立って笑っていた。
「私よ、私。驚かせてごめんなさいね」
 同じ声で、さっきの上品な言葉はどこかに行ったみたいだった。
「あんまりあなたが最近うつむいて学校に向かってるものだから、あの女の子が猫に聞かせていた言葉を言っただけ。ちょうど真横に毎朝過す場所があるの」
 私が少し柵から広い庭に顔をのぞかせると、円卓の上にお茶のお菓子が置かれていた。
「ちょっと食べていく?」
 私は頬を染めてうなづいていた。
「日本語上手ですね」
 その人は長い金髪に緑の瞳をした白人さんだった。
「生まれたときから日本にいるわ。ずっとね」
「それで上手なんですね」
 猫は庭を歩いていった。私は紅茶は苦くて飲めないから断って、お菓子をいただいた。何のお菓子か分からなかった。

 「今度から遅れないようにするんだぞ」
「はい」
 お辞儀をしてから皆の列に戻った。
「寝坊したの? 珍しいのね」
「ううん」
 隣の子に今朝あったことを言おうとした。
「こら! もう演奏が始まるぞ。遅れてきたんだから私語はつつしめ」
「はい」
 私は慌てて手持ち鍵盤を構えた。
 ひそひそと隣の子が聞いてくる。
「屋敷の異人さんと話してたの」
「えっ」
 先生が音合わせをしていた男子の方から、驚きの声が上がった女子側を見た。
「それって、噂のおばけのこと?」
「おばけじゃないわ。だってしっかりお菓子だってもらったもの」
「けど女の人のでしょ?」
 私は瞬きを続けた。みんなは「何何?」と見てきている。
 いつもレイは魂の話をしていた。あの屋敷の猫に話しかけていた。私に話していた。そう思っていた。
 けれど、もしもいつも三人でいたのだとレイが思って話していたのなら? 私と、彼女に話しかけていたのだとしたら。
 先生が怖い顔をしてここまで来たから、私たちは手持ち鍵盤を構えた。先生が指揮棒を操って女子が吹く。
 男子二名と女子三名が手持ち鍵盤を奏でて、男子四名と女子五名が歌う。
<追憶>の唄。
 歌うと、奏でると、きら、きらら、と音楽が光りとなって上がっていく。そう見える。
 目を閉じて、空を、緑を、海を、レイに重ねて奏でると、きらきらと眩い光りがレイを包むわ。

 帰り道、皆であの女の人の住む大きなおうちに来た。
「どこ? おばけ」
 後ろの後ろの三年生と二年生の男子が、五年生の後ろに隠れて見て来ている。手持ち鍵盤を抱えた男子と女子の三人は、おばけについてひそひそ会話をしている。
 私も緑の葉枝を掻き分けて、庭を塀の外から見る。遅れてやってきた手持ち鍵盤を持った女子の二人と合唱の四人は、きゃあきゃあ騒いで、みんなに口に指を当てられた。
「こうやってみると、昼下がりだから明るいのね」
 合唱の一年生の男子と女子二人は怖がって、着いて来なかったみたい。もう帰ったのかここにはいない。
「あ、猫!」
 小さな声で振り向くと、庭の木の上から猫が下りた。
 すると、あの女の人が向こうから来た。まだ明るい緑の庭で、女の人の金髪も、白い綺麗な薄手の長袖も、長い下衣装も透けていた。
「ほら、あの人よ。お菓子をいただいたの」
「おばけじゃないみたい」
「でしょ?」
 私たちは顔を見合わせて、うなづきあった。まだ、怖がりの二年生は後ろのほうで隠れて女の人を見れないでいる。
 私たちは門のほうに歩いていって、鉄格子から庭を見た。
「あら。可愛いお客さんたちが来たのね」
 彼女がここまで来ると、門が開いた。みんな緊張して固まっている。
「いらっしゃい。午後の紅茶をいただこうと思っていたの」
 肩のあたりからきら、きらきら、と光りが流れて庭へすすんで行った。
「ねえ。異人のお姉さんに練習したお唄を聞かせてあげましょうよ」
「そうね」
「さあ、座って」
 椅子とベンチは合わせて十個しかなかった。女の人はお菓子を出してくれて、お茶も出してくれた。私と隣のパートの子は顔を見あせてから言った。
「私たち、お礼に合唱を披露します」
「まあ、本当?」
 手持ち鍵盤を出して、みんなも並んで演奏を始める。
 あれ。音が足りないな、と思っていると、さわさわと吹く風と光りの間を、また唄に合わせて、きらきら、と、きらきらきら、と輝いた。一生懸命みんなで歌って、奏でた。
 演奏が終わって、目を開いた。
「素敵だったわ。それはスペイン民謡ね。確か<月見れば>」
 手持ち鍵盤の男子が私の腕を引っ張って言った。
「ほら。古い方の題名で言ったから、やっぱり」
 私は、微笑んでお茶をいれる女の人を見た。きらきらと金髪が光って、綺麗な形の白い薄手長袖も眩しい。
 振り返ると、三人が同じように女の人を見上げていた。
「………」
 私は女の人を見上げる。三毛猫が歩いていて、鳥が羽ばたいたのを見上げた。
 はっと見ると、庭には私と女の人だけだった。
「はい。今日はお砂糖を入れたわ」
 貴重なお砂糖を入れたお茶が一つ。私は女の人を見上げた。
 彼女は、寂しそうに微笑んでいる。どこか、それはレイの微笑みと似ていた。
 私は不思議に、涙が流れていた。
 女の人が、綺麗なお庭で、きらきらと光りになっていく。その向こうに、毛づくろいをする三毛猫が透けた……。

 電話で、今日見た白昼夢の話をレイに必死に話していた。
「とても不思議な体験をしたの。きっと、帰り道で疲れて眠ってしまっていたのね。あの猫の飼い主の女の人、とても綺麗だったわ」
「もうその人もなのね」
 私は受話器を持ち替えて、また夕飯前に呼ばれる前に襖を見た。まだ大丈夫。私はセルロイドの筆箱から筆を出して、絵日記に女の人の顔と猫と庭のある屋敷と、合唱をしたみんなを描いた。恐い先生は木の横にかいた。
「光りに乗ってみんな唄と共に返っていく。巡っていくの。明日ね、日曜日に、会えるわ」
「本当?!」
 私は喜んで、また口をおさえて座りなおした。
「うれしい! また、海岸で待ってる」
 私は微笑みが止まらなくて受話器をおいて、日記を付け始めた。
『十一月九日土曜日
 本日は、学校で行われる音楽会の練習があるので、お弁当を作っていただいて、朝から学校へと出かけて参りました。
 すると、通学路にあるとても大きなお宅のお庭があんまりステキだったので眺めておりますと、女性がいらっしゃって、とても美味しいお菓子をいただきました。
 学校へは遅刻をしてしまい、先生様からお叱りを受けました。一生懸命に合唱と手持ち鍵盤の練習をみなさんとしておりますと、その内に、「帰りにそのお宅へお邪魔しまいか」ということに決定いたしましたので、私たち生徒はその女性のお宅へ伺いました。
 そこには可愛らしい可愛らしい三毛猫さんがいて、女性と猫に私たちはお唄を聞かせました。とても喜んでいただけて、とってもうれしかったです。』
 私は筆を置いた。今日は早く眠りにつけそう。

 海岸で待っていると、私は波間の音とレイの走ってくる足音を、すでに聞き分けられるようになっていた。
 振り返って、立ち上がった。
「レイ」
 向こうから走ってくるレイは、私のところまで来ると両手で握手をしあった。
「もう何年も離れているみたいだった」
 思い切り抱きしめた。
「今日は鍵盤を持ってきたの。一生懸命練習したのよ」
 私はレイから微笑んで離れた。今日は曇り空。潮騒も悲しい。私は吹き始めた。
 一生懸命、何度も何度も、レイとずっと離れたくなくて、吹き続けていた。
 顔を上げると、いつの間にか星空。暗い海に、雲が全部流れていて星は輝いていた。
「澄みゆく心に しのばるる昔
 ああ 懐かしい その日」
 レイが歌うと、星がきらきらきら、と光った。
 私の頬に、冷たい涙が滴った。
 私の手から鍵盤がきらきらと砂のように変わって行った。私の手を見ると、星のように光る。
 レイを見た。
「いつか、私も土に帰るときに、また会いましょう」
 私の目から熱い涙がどんどんこぼれて、初恋の彼女の顔が星明りだけじゃ見えなくなっていく。
「好きなのに……なんでさよならなの」
 レイは光る私の体を抱きしめて、彼女の体も光りに包まれた。背中が見える。髪が流れる背中。私の爪先だけ、光って薄れていく。
 レイが私の髪を撫でてくれた。
「会えるのは、きっと近いわ」
 レイの声がさざなみのように聴こえて、海馬の優しい唄にする。



この物語は、昭和十五年の十一月秋を題材にしたものになった。
主人公の女の子は実は幽霊で、昭和十五年という追憶のなかで生きていた。
その魂を鎮めるために現れたのがレイであり、海岸で語り合ううちに、自分が幽霊であるのだと思わせるような言葉を紡いでいく。
だが気づくことは無く、追憶のなかで幽霊の女の子は日常を過していた。洋館の異人さん、学び舎の先生やみんな。
彼らの魂は、<追憶>の歌や緑の輝きが増すごとにきらきらきらと天へと昇華されていく。
ついには一人だけとなった幽霊の女の子は、海岸に訪れてレイと再会する。
そして星の輝きと共に、レイに見送られ天へと昇華していく。

2017

潮騒

潮騒

2017年作品

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-16

Copyrighted
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