ハリボテの夕日
教室のドアをがらっと開けて、その光景を見たとき、まるで誰かが誂えたような光景だと思った。
放課後、夕日が差し込む教室、教室の奥の方の窓辺、そこにひとり佇んでしくしくと泣いている女子生徒――。安っぽい漫画の始まりみたいだった。
俺はなんだかどきりとしてしまって、きょろきょろと挙動不審にあたりを見回してみたのだけれど、本当にその女子生徒以外に教室に残っているやつはいなかった。
俺はなぜかバレてはいけないような気がして、抜き足差し足でそっとその女子生徒に近づいてみた。逆光で見えづらかったけれど、見覚えがあった。当たり前だ。ここは俺のクラスだ。その女子生徒の名前は確か、月島とかいった。
月島は黒い髪の毛が長くて、クラスの中でもそこそこ可愛い顔をしていた。が、如何せんなんというか暗いイメージの強いクラスメイトだった。いつもひとりでいて、休み時間はぼんやりとしているか何かミステリー小説とかを読んでいるかのどちらかだった。俺の友達で月島のことをそれなりに気にしているやつがいて、そいつは月島のことを「ミステリアスなところがいい」などと言っていたけれど、俺にはどうしても根暗という印象が強かった。
だがしかし、そっと夕日に照らされる横顔を覗き見てみれば、なかなかどうして魅力的に見えてしまい、柄にもなく心臓の鼓動が早くなるのを感じた。陳腐すぎる表現だけれども、頬に流れていく涙が夕日によってきらきらと光っていた。そういう幻想的に見える現象のせいか、そこそこ可愛いと思っていた顔が美しいと思えるようだった。
本当に、現実ではあり得ないようなシチュエーションだった。創作物の中にいるような――。創作物の中なら、俺が取るべき行動はきっと声をかけることだろう。何かが始まるかもしれない。そんな期待感のようなものが胸中に膨らむのを感じた。なぜか使命感にも似た感情を持って、俺はすーっと息を吸った。そのときだった。
月島が思いっきり鼻をすすった。ずずずーっと特大の雑音に、俺は急に頬をビンタされたような気分になって、吐き出そうとした息をぐっと飲みこんだ。月島は鼻腔の奥に何か詰まったみたいにずびーっ、ずびーっと繰り返し鼻をすすり上げた。それはまるで中年オヤジが立てるみたいな音で、俺の胸中に膨らんでいた期待感のようなものは徐々に萎んでいった。
・・・・・・なんだか馬鹿らしくなった。こうやって月島の横顔をじろじろ見ていること、雰囲気に酔って声をかけようとしたこと、そういう教室に入ってからの一連の自分の動作と心情がすべて恥ずかしいことのように思えて、一気に居た堪れない気持ちになった。
月島の顔はやっぱりそこそこ可愛いレベルだし、鼻をすすり上げる姿はまるっきりブスだった。きらきら光っているのが涙だったのか鼻水だったのかも今となってはよくわからなかった。どちらにせよ、それはただの排泄物で綺麗なものなんかではなかった。
俺はそこでようやく自分がこの教室に戻ってきた理由を思い出す。置き忘れていた数学の教科書を取りに来たのだ。こんなハリボテに見惚れるためではない。
俺はもう月島に声をかける気なんかこれっぽっちも失せていたので、泣き続ける月島から離れ、そそくさと自分の席から数学の教科書を回収し、速足で教室のドアまで向かった。
そこで一度振り返ってみたけれど、月島は相変わらず泣いては鼻をすすってを繰り返していた。
――冷静に考えてみれば、月島が俺に気づかないのはおかしな話ではないか。俺はドアを結構大きな音を立てて開いたというのに、月島はまるでそんな音なんか聞こえていないように窓辺に立って泣いていた。普通なら俺が教室に入ってきた時点で、振り向いたりなんなりするだろう。しかし月島にはそういう仕草が一切見られなかった。月島が難聴だなんて話は聞いたことがない。それに、そもそも俺は月島の横顔をじろじろ眺めていたのだ。他人に泣いている姿を見られていたら嫌でも気になるものだろう。俺は忍者でもプレデターでもないから気配を消す能力など持っていない。月島が俺に気づいている素振りなく泣いているというのは、どう考えても道理に合わないというか、違和感がある。
するとすべてが嘘くさく見えた。月島の泣き方は演技臭さ全開の大根芝居で、夕日までも合成やらなんやらで、適当に製作したもののように思えた。安っぽいなんてレベルではない。低予算の自主製作映画や学芸祭の演劇以下の、へたくそなハリボテだった。
こんな偽物に酔っぱらっていたのかと思うと、急激に情けない感情に駆られて、俺は少し強めにドアを閉めた。そのドアの音に月島は反応したのかしなかったのか、結局月島は実際に俺に気づいていたのかいなかったのか、そういったいろんな疑問を知ろうという興味ははなから湧いてこなかったし、むしろ知りたくもなかった。
俺は駆け足で階段を降り、校舎を飛び出すと、駐輪場に停めてある自分の自転車に跨って一心不乱に漕ぎ出した。一瞬自分のクラスの窓、つまり月島がそばに立って泣いていた窓を見上げてみることが一瞬脳裏に過ったけれど、窓辺にもう月島は立っていない気がして、立っていたとしても今の鼻白んだ感情を消すことはできないだろうとわかっていたから、俺は俯いて自転車を漕ぎ、校門も飛び出した。
俺はとにかく学校を離れたくて必死にペダルを漕いでいたけれど、しばらくすると落ち着いてきて、徐々に緩やかな速度になった。ハリボテだと気づいたときに感じた猛烈な恥ずかしさも、だんだんと薄れていっていた。
月島は何で泣いていたんだろうか、と今さらになって思う。しかし、そんなことはどうでもいいことだった。それはあのハリボテの中で、自分が何かの創作物の主人公であるかのように錯覚したときからそうだった。理由なんて関係なかった。夕日の差し込む教室、窓辺で泣くクラスメイトの女の子、そのありきたりなシチュエーションが、馬鹿な俺に一瞬の幻想を見せたのだった。何かそれが特別かつ俺の人生に重要な瞬間であるような幻想を。
でも蓋を開けてみれば、あんなに作り物めいていて白けた空間もなかった。きっとあそこで月島に声をかけていようといまいと、俺の人生にはなんら特別なことは起こらなかっただろう。月島はそこそこ可愛いだけの、ただの根暗なクラスメイトだ。ファンタジーも、SFも、ラブコメも、どの物語の世界に繋がる扉の鍵も持ってはいなかっただろう。
今日特別に見えた月島も、明日には特別でもなんでもなくなって、いつものように根暗に休み時間を過ごしていて、あのとき自分が特別であるかのように思えた俺も、やはり特別でもなんでもなく、退屈な日常に何となく流されていくのだ。それはあの適当にその場で作られたようなハリボテの光景よりも、遥かに現実味を帯びていて、本物だった。
結局特別なことなんか起こりはしない。この世に魔法はない。秘密道具もない。ツンデレもいない。あるのは、気づけば過ぎ去っている毎日同じように続く生活と、それをさも特別なもののように錯覚させるハリボテだけだ。
俺はもうそんなハリボテのことなんて忘れかけていた。月島のことなんかどうでもいい。それよりも今は腹の虫が鳴いている。早く帰ろう、飯を食おう、腹が減った――。
そんな確かな日常のことを思いながら、俺はまたペダルを強く踏みこんだ。
ハリボテの夕日