けして好きとは言わないで

1.好きなものは好きだと言った方がいい


好きなものは好きだと言った方がいい。
真中にそう教えてくれた友人は、その信念を違えず、好きなものを好きだと言うことになんの躊躇もない。
たとえ周りの賛同を得られなくても、誰が相手であろうとも、彼は好きなものは好きだと主張した。その成果か、彼のもとへは彼の好きなものが集まる。好きだと言っていたお菓子。好きだと言っていたバンドのCD。ジュースや靴、お下がりのTシャツ、集めているペットボトル飲料のおまけなど。しまいにはこれが好きそうだとか、おまえは絶対好きになるからとか、彼の好みを知り尽くした他の友人達が、好きだと言っていないものまで彼に与えるようになった。

「乙石くん、今日もいっぱいもらったんだね」

乙石の机に山を築いている食べ物やら小物やら漫画やらを目にして微笑んだ真中に、乙石は上機嫌に笑顔を返してきた。

「俺の好きなもんばっかり。宝の山ってやつだな」
「いらないもの押し付けられてるだけじゃないのか」
「違うわ! あっ、こら、触るな。そんなこと言う奴には分けてやらん!」

あまり興味なさそうに宝の山を物色し始めた溝端の手をはたき落とした乙石は、山からいくつかお菓子を手に取って、真中に握らせた。

「真中くんにお裾分け。溝端はそこらへんの草でも食ってろ」
「教室に草は生えてないだろ」
「わかってるわ! おまえはもう! おまえってやつは! もう!」
「乙石くん。お菓子、ありがとうね。溝端くんと分けて食べるよ」
「溝端にはやらなくていいから!」
「乙石、さっさと行った方がいいんじゃないのか。おまえの連れ、廊下でずっと待ってるぞ」
「はよ言えよこの野郎。ーーごめん、待たせた!」

乙石は財布片手に待ち人のもとへと駆けていった。残された真中と溝端は、どちらからともなく顔を見合わせた。

「食うか」
「うん」

真中の席で、乙石の椅子を拝借した溝端とふたり、弁当を広げる。三年生になって、同じクラスになってから、真中と溝端は昼食を一緒に食べるようになった。おかずをつまみながら喋る真中に、溝端が素っ気ないとも取れる短い相槌を打つ。傍から見れば真中の話に全く興味がないと捉えられる態度でも、そういうわけではないと、一年生の頃から同じ部活で彼を見てきた真中にはわかる。溝端は真中の話をちゃんと聞いているし、それに対して何かを思うことも多々ある。でも、彼はあまり自分の感じたことを口にするのが上手でなく、結果、素っ気ないとも取れる短い相槌になってしまうだけだ。
彼が自分に興味や関心があることを、真中は知っている。
溝端は口下手な上に顔にもあまり感情が出ないけれど、それを補って余りあるほどに目がものを言う。饒舌な瞳は、真中に向けられる時だけ、その奥に逃れようのない感情を灯すのだ。それはとても力強く、情熱的で、真中にその存在を気づかせずにはいられなかった。

「今日の帰り、行ってみるか?」

一昨日オープンしたフライドポテト専門店の話をしていると、溝端が箸をとめて言った。送られてくる視線からは、彼自身がその店に興味を持ったわけではないと感じ取れる。真中が興味を持ったからだ。真中からフライドポテト専門店に行ってみたいなぁという気持ちを読み取ったから、溝端はそう提案したのだ。

「いいの?」
「当たり前だろ」
「ありがとう」

真中は控えめに微笑んだ。溝端は目を細め、「ん」とだけ言って、弁当を空にする作業に戻った。ふたりのまわりだけ、ふわふわと柔らかい何かが包み込んだようだった。

2.落雷のような衝撃


それに気づいたのは、まだ部活を引退する前の、特にイベント事があるわけでもない平日の放課後のことだった。
部活を終えて、着替えていた。ひとり、またひとりと、連れ立って帰っていく部員達を見送りながら。真中がもたもたしているのはいつものことで、そんな真中を溝端が待っていてくれるのも、いつものことだった。

「真中くん、おっ先ー。また明日ー」
「ああ、うん。ばいばい乙石くん。また明日」
「溝端ぁ。鍵ちゃんと閉めとけよ」
「わかってる。さっさと帰れ」
「はいはーい。じゃあなー」

別の部活に所属する連れと帰る時間を合わせるためにだらだら着替えていた乙石が出ていくと、部室には真中と溝端だけになった。

「ごめんね、溝端くん。いつも待たせちゃって」
「べつにいい」
「急いでるんだけど、急げば急ぐほどもたもたしちゃって……」
「ゆっくりやれ。…………なあ、真中。それ、裏表逆なんじゃないのか」
「あっ。ほんとだ。どうりでボタンはめにくいと思った」

あわわわーとせっかく一生懸命はめたボタンを外そうとするも、もたつく。

「こっち向け」

振り向くと、ベンチで待っていたはずの溝端が立っていた。長くて器用な指先が、真中のボタンを外していく。

「ご、ごめん」
「いい。ほら」
「ありがとう」

外れていくボタンを追っていた視線をあげると、思っていたよりも近くに溝端がいた。身長差があるため、顔と顔がぶつかるようなことはなかったが、溝端がもう少し屈めばキスできそうな角度だった。
合っていたはずの目が、外れた。溝端の視線はゆっくりと真中の唇へと移り、何か言いかけたのか、それとも一瞬呼吸の仕方を忘れたのか、口が開き、なんの音を発することもなく閉じた。そして再び、視線が交わる。真中は声もなく瞠目した。
頭のてっぺんから地面に向かって一直線に、衝撃が貫いた。
溝端の瞳の奥に隠しきれない感情が灯っていることに気づいてしまった。それが自分に向けられたもので、なおかつ同時期に他の誰かに対しても向けられるようなことは、溝端の性格からいってあり得ないだろうと断言できるもので。それはつまり、彼にとってその感情を向ける特別な枠に、なぜか同性の、それも冴えない自分が入ってしまっているということで。
溝端が自分へ向ける感情を察した瞬間、真中の身の内に湧き上がったのは、どうしようもないほどの歓喜だった。
抑えきれぬ喜びが目から溢れてしまったのか、真中の目をじっと見つめていた溝端が息を呑んだ。
言葉はなかった。お互いの瞳の奥にある感情を確かめるように見つめあって、引かれ合うままに唇を重ねた。

3.進む道は違えるか


互いに、言葉にはしなかった。
わざわざ口から吐露するまでもなく、相手の瞳を覗き込めば、そこに自分だけに向けてくれる感情が滲み出ていた。
ふとした瞬間目が合って、それが至極当然のように唇を寄せ合うこともあった。
部活を引退した後もそれは続いて、キスした回数は片手の指の数を超えた。
溝端は時々何か言いたげにすることもあったが、真中はこの関係に充分なほど満足していた。

「好きなものは好きだと言った方がいいんだぜ」

今日も机に宝の山を築いている乙石はそう言って、山からスナック菓子と干し梅を見つけ出し、真中の目の前に掲げてみせた。

「真中くんはどっちが好き?」
「干し梅の方が好きかな」
「そうかそうか。なら、あげるわ」
「えっ。いいの?」
「いいとも」
「わ、ありがとう」

干し梅を譲り受け、口元を綻ばせて喜ぶ真中の背を、乙石は豪快に笑ってばしばし叩いた。

「ほら、な? 好きなもんを好きって言ったから、手に入ったんだ」
「そうかも」
「だから、好きなものは好きだと言った方がいいんだよ」
「なるほど」
「テストに出るからメモっといた方がいいぜ」
「なんのテストに出るんだよ」

トイレから戻ってきた溝端のつっこみは無視して、乙石は「ちゃんと手は洗ったんだろうな」と訝しげに距離を取った。

「当たり前だろ。おまえと一緒にするな」
「俺だってトイレの後はちゃんと洗ってるわ! 帰宅した後の手洗いうがいまでばっちりだっつの!」

いーっと歯を剥き出しにして溝端を威嚇した乙石は、宝の山を鞄に突っ込むと、財布だけを手に「じゃっ」と真中に手をあげて教室を出ていった。廊下で待っていた連れと合流し、食堂へ向かうのだろう。

「真中」

乙石が仲良さげに連れと歩いていくのを微笑ましく見送っていた真中は、呼ばれて振り返った。目が合う。呼んでおいて、溝端は何も言わない。でもその瞳は雄弁に語っている。彼が真中に向ける気持ちを。俺だけを見ていろと、力強く。
真中はほおが緩むのを感じた。自分がふにゃふにゃに笑っているのがわかる。それでも、止めようがなかった。溝端は自分の気持ちがだだ漏れになっていたことに気づいたのか、照れ臭そうに目を逸らした。唇をわずかに尖らせて。
キスしたいな。そう思い浮かんで、真中はあわわわーと首を振って打ち消す。

「ご、ごはん、食べよっか」
「……ああ」

幸い、目を逸らしていた溝端には気づかれなかったようで、ほっと息を吐く。
真中の席で談笑しながら弁当を食べていると、ふいに話が途切れた時、珍しく溝端の方から口を開いた。

「そういや、進路は決まったのか」
「うーん……まだ、ちょっと悩んでる」

もう三年生で、部活も引退しているというのに、真中はまだ志望する大学が決まっていなかった。行きたい大学がないわけではない。自分の成績を考えて、ある程度候補はあげている。ただ、行ける大学と行きたい大学は違う。教師や親に薦められる大学に決めようかと思うこともあるけれど、そのたびに心の奥から問いかけてくる声がある。

本当にその大学でいいのか?
溝端と離れ離れになっていいのか?

その問いはなんども繰り返される。
溝端はすでにスポーツ推薦で進む大学を決めている。これから先も彼と一緒にいたいと思う気持ちと、自分の将来をもっとよく考えて選ぶべきだという考えは、真中の進路をなかなか決めさせてくれない。
たとえ同じ大学に進まなくとも、繋がりが途絶えるわけじゃない。でも、確実に、今よりは距離ができる。だんだん疎遠になっていく可能性もある。そう考えると、真中は揺れる。
溝端と同じ大学を目指すか、否か。

「どうしても行きたいっつう大学がないなら、俺とーー」

溝端が何か言いかけた。真中は続きを促すように首を傾げてみせる。だが、溝端は目を伏せ、口を閉ざした。

「溝端くん?」
「…………いや。なんでもない。進路は自分で考えて決めることだよな。進んだ大学によって就職先も変わってくるし」
「そう……だね」

真中は力なく視線を弁当の隅へ落とした。期待した自分を恥じる。もしかしてと思った。もしかして、溝端は同じ大学に来ないかと誘ってくれるのではないか。そう期待した。溝端が誘ってくれたなら、真中は一も二もなく頷いただろう。悩んでいたのが嘘のように、ただまっすぐ前を向いて受験勉強に励めただろう。
でも、彼は誘ってはくれなかった。

4.明日も隣にきみがいる


放課後は学校に残って受験勉強に励む。そんな受験生は三年の教室や図書室でちらほら見受けられる。真中はクラスメイトが何人か残っている教室より、静かで集中できる図書室を勉強の場に選んだ。
真中の集中力がふいに途切れた時、隣に溝端が座っていることは珍しくない。彼はいつも真中の邪魔をしないようにか、気配を消してそばへ来るのだ。真中が勉強する横で静かに本を読み、真中が帰り支度を始めると本を閉じる。
退屈じゃないかと問うたことがある。
わからないところを訊ねることもなく、問題集とばかり向き合っている真中の隣で、ただ本を読むだけの時間が。溝端がそれほど読書好きではないと知っているから、なおさらに退屈なのではないかと。

「正直に言うと、本を開いてても読んでないことも多い。ただ、勉強に集中してるところをじーっと見つめられてたら、気が散るだろ? だから、本読んでるふりしてたまにおまえのこと見てる」
「それって、やっぱり退屈なんじゃ……」
「いや。真中は表情がころころ変わるからな。あーこの問題苦手なのかとか、これは得意なんだなとか、いろいろわかって楽しい。見てて飽きねえよ」
「そ、そっか。あの、その……構ってあげられなくて、ごめんね?」
「何言ってんだ。おまえは勉強に集中してればいいんだよ。構ってもらえなくても、俺はただ一緒にいられるだけで充分……」

いや、と溝端は苦笑した。

「やっぱり、嘘だ。一緒にいられるだけで充分なわけねえな。でも勉強の邪魔をするつもりもない。だから、今みたいにさ、勉強してない時間とか、時々構ってくれたら嬉しい」

少し恥ずかしそうにそんなことを言われたら、真中は自分の表情筋が緩むのを止められない。この人は、なんて、かわいいんだろう。

「なに笑ってんだよ」

隣を歩く溝端が、肘で小突いてくる。ふたりきりの帰り道は、もうすぐ分かれ道に差し掛かろうとしていた。

「ふふ。溝端くん、かわいいなって思って」
「はあ? かわいいのはおまえだろ」
「ええっ!? ぼくが、かわいい!?」
「驚きすぎだ」

真中は溝端と比べれば小さいが、男子高校生の平均値くらいの体格はある。顔立ちだって、誰がどう見ても男だ。そんな自分のどこにかわいらしく見える要素があるというのだろう。
しきりに首を傾げる真中に、溝端は目を細める。

「俺だって、真中が俺のことかわいいって思う気持ちは理解できないぜ。一体俺のどこ見てかわいいと思うんだか」
「溝端くんはかわいいよ。かわいくて、その上かっこいいんだ」

力強く言い切ってみせる。溝端は目を丸くして、ほんのりと上気した顔を背けた。照れているのはばればれなのに、「ふうん」となんてことなさそうに返事する。そういうところがかわいいのだと、真中は思うのだ。

「じゃーな」
「また明日」

分かれ道で、互いに手をあげて別れる。ほんの少し別れ難くもあるけれど、明日になればまた会えるのだ。明日も自分の隣には溝端がいる。それだけで、明日がくるのが待ち遠しい。
ふと足を止めて、振り返ってみる。溝端も立ち止まってこちらを見ていた。目が合うと溝端は少し驚いた顔をして、次いで控えめに微笑んだ。真中の心臓はキュッと鳴って、愛おしさに暴れだす。

「またね!」

満面の笑みで、大きく手を振った。溝端も小さく手をあげ、今度こそ背を向けた。
真中の足取りは、羽根が生えたように軽かった。

5.答えのない問い


三時間目の数学の授業が自習になった。真面目に問題を解いていく生徒もいれば、おしゃべりに花を咲かす生徒もいる。そんな中、まるで教師のいない授業を狙ったかのように、乙石が登校してきた。彼が遅刻してくるという珍しさより、彼の顔に明らかに殴られたであろう痕があることに、教室内は一瞬で静まり返った。何も言わず自分の席へ向かう乙石に、注目が集まる。
溝端が席を立った。無言で乙石の腕を掴むと、教室の外へと引っ張っていく。乙石はおとなしく溝端の後をついて行った。真中もふたりの後を追った。

「何があった」

空き教室で、溝端は乙石と向かい合って問うた。真中は閉めたドアの横に立ち、おろおろとふたりの友人の間で視線を泳がせた。

「親父に殴られた」

乙石は不自然なほど無表情で言った。普段の表情豊かな彼からは想像できないほど、凝り固まった顔だった。

「親子喧嘩か」
「喧嘩とは……ちょっと違う」

溝端は無言で説明を促した。数十秒の沈黙は、真中に呼吸することさえ躊躇わせた。

「……今朝、妹が片想いしてる相手がいるって話になって……俺にも好きな人くらいいるだろうって訊かれて、俺、付き合ってる奴がいるって言った。親も妹も大騒ぎで、どんな子とか名前とか訊いてくるから、正直に答えた。したら、殴られた」
「付き合ってる相手のことを喋っただけでか」
「そうだ」

乙石はたった今痛みを思い出したかのように、腫れた唇の端を押さえた。貫くような鋭い眼差しを向けてくる溝端から逃れるように、視線をつま先へと落として。

「俺は好きなもんを好きだって言っただけだ。でも、だめなんだと。あってはならないんだと。妹が男相手に片想いするのはよくても、俺が男と付き合ってるのは、許されないことらしいわ」

その言葉に嫌な音を立てた胸を、真中はぎゅっと押さえた。瞬きを忘れたように、目を見開いたまま閉じることができない。

「同性に恋するのは、許されないことらしいわ」

淡々と喋っていた乙石は、自分の言葉に身体を支えていたものを打ち砕かれたように、その場にぺたんと座り込んだ。両手で顔を覆い、呻き声をあげる。彼は今、泣いているのかもしれない。

「会ったこともないくせに。喋ったこともないくせに。俺の連れがどんな人間かも知らないくせに! 男ってだけで、だめなんだと。妹はドン引きで何も言葉にならないみたいだし、おふくろは自分の育て方が悪かったのかってヒステリックになるし、親父は顔真っ赤にして殴りかかってくるし」
「……乙石」

溝端は床に膝をつき、乙石の肩に優しく触れた。かける言葉が見つからないのか、友人の名を呼んだだけで口を閉ざす。

「別れろって言われた。嫌に決まってる。だって、好きなんだ。でも、家族のことも、同じくらい好きだから。どっちも失いたくない。だから……どうしたらいいのか、俺にはもう……わからん」

ここにきて初めてーー乙石の弱りきった声とその内容を理解して初めて、真中は自分の気持ちがどれほど危ういものかを知った。同性に恋をするということが、家族を失う危険性を孕んでいるということに、今になって気づいた。
恐ろしいことだ。家族を失うのも。好きな人を失うのも。どちらかなんて選べない。だから、乙石も苦しんでいる。
自分の息子が男に恋していると知ったら、真中の両親はどうするだろう。泣くだろうか。怒るだろうか。嘆くだろうか。親子の絆はあっさりと断ち切れるだろうか。

「どうしたらいい……なあ、どうしたらいいんだ」

それは誰に向かっての問いかけだったのだろうか。
問うた乙石は顔をあげない。溝端は悔しそうに黙り込んでいる。
真中はぐるぐる、ぐるぐると巡る思考の海に揉まれて、顔色を青くした。口元を覆う。乙石の問いは、真中の問いでもあった。
どうしたらいい。この気持ちは。溝端との関係は。どうしたらいい。どうしたらーー

どうすべきなんだ?
どうするのが正しいんだ?

その日の帰り道は、重く、果てしなく長く感じた。真中は思考を巡らせることに集中して口を固く閉ざしていたし、溝端もどこか上の空で、ふたりの間には沈黙が渦巻いていた。
分かれ道で立ち止まってようやく、ふたりは肩を並べて歩いていた相手に目を向けた。溝端は何か言いたそうにして、手をさまよわせた。真中がじっと待っていると、さまよっていた手は諦めたように引っ込められ、溝端の髪をぐしゃりと乱した。

「真中、俺……」
「……うん」
「俺は……」
「……うん」
「俺たちは……」

溝端が真中に向けた目は、寄る辺ないこどものようだった。今すぐ抱きしめて、大丈夫だよと言ってやりたくなるような。でも、真中は何もしなかった。自分の心をうまく言語化できないでいる溝端を、励ますことも、言葉を引き出してやることも、しなかった。
溝端はもどかしさを紛らわせようとしたのかさらに自分の髪をぐしゃぐしゃにして、まっすぐ真中を見据えた。その瞳には覚えがあった。言葉で伝えないかわりに、行動で示そうとしている目だ。溝端の手が真中の腕をとらえ、ぐっと引き寄せられる。近づいてくる唇が己のそれと重なる前に、真中は顔を背けた。溝端からのキスを拒んだのは、これが初めてだった。

「……真中」

視線を逸らしているせいで溝端がどんな表情をしているのかはわからなかったが、自分を呼ぶ声からは驚きや戸惑いが、それから彼が傷ついたことが感じ取れた。

「真中」

もう一度、彼が呼ぶ。腕を掴む力が強くなって、痛いほどだ。
真中は顔を背け、視線を地面に落としたまま、「だめだよ」と拒絶の言葉を口にした。

「だめだよ、溝端くん」
「な……んで」
「ぼくたちは友達だから」
「は……なに言って……」
「友達はキスしたりしない」

真中はずっと考えていた。乙石が父親に殴られた理由を知ってから、ずっと。
同性同士の恋を、家族はどう思うか。自分の家族、それから溝端の家族が。考えて、考えて、考え尽くして、真中は自分が家族から否定されることよりも、溝端が彼の家族から否定されることの方が恐ろしいと気づいた。彼の幸せな家庭を壊すくらいなら、自分の気持ちを押し殺すことを選ぶ。幸い、真中と溝端はまだ友達だった。お互いに、気持ちを伝えあっていない。好きだと言っていない。今まで交わしてきたキスも、ただ触れ合わせるだけの軽いもので、友達同士のふざけあいだと思えばいい。これからは友達の距離を保っていけばいいのだ。高校を卒業すれば、真中と溝端は離れ離れになる。物理的に離れられれば、真中の気持ちは、溝端の気持ちは、だんだんと萎んで消え失せるだろう。

「真中、俺は、おまえをただの友達なんて思ってない。もっと特別でーー」
「やめて」
「俺は真中が」
「やめて!」

それ以上は聞きたくなかった。両耳を塞いで、ぎゅっと目を閉じる。

「ぼくたちは友達だよ。他のひとよりちょっと仲が良いだけの、ただの友達なんだ」

自分に言い聞かせるようだった。
腕を掴んでいた手が離れた。溝端が息を吸い込むのが聞こえる。でも、彼は何も言わなかった。ひとの気配が遠ざかる。足音が離れていく。
真中はそっとまぶたを開いた。溝端の背が見えた。彼は振り返らなかった。滲む視界の中で、彼の背だけがくっきりと輪郭を保っていた。

6.傷つけたいわけじゃない


真中は溝端を警戒するようになった。せざるを得なかった。
キスを拒み、自分たちは友達だと言い聞かせた翌日から、溝端は以前にも増して何か言いたげにする。とても苦しそうに。吐き出さねば生きていけないかのように。
時折じっと見つめてくる視線は熱く、鋭い。彼の瞳はより一層、真中への気持ちを訴えるようになった。それが恐ろしかった。いつ彼が決定的な言葉を吐くかと警戒し、少しの隙も見せられないと身構えるしかなかった。ふたりきりになると緊張を見せる真中に気づいているはずの溝端は、しかし指摘することはなかった。ただほんの少し、苦しそうな、傷ついたような表情を浮かべる。それを見ると真中の胸は罪悪感に締め付けられ、息が苦しくなる。固く縛りあげたはずの気持ちが、縄を抜けそうになる。だめだと抑えつけてみても、欠片がぽろりと溢れ落ちて、真中に甘く囁くこともある。
いいんじゃないか? バレなければ。
ふたりだけの秘密にして、家族にも友達にも、誰にも告げなければ。
おまえは溝端が好きなんだろう?
溝端もおまえが好きなんだろう?
両想いなら、いいじゃないか。想い合ってるふたりが恋人になって、何が悪い。

「だめだよ」

なぜ?

「ぼくたちは男同士だから」

世界には同性同士のカップルなんてたくさんいる。

「知ってる。でもだめなんだ。他人のことなら受け入れられても、いざ自分の身近なひととなると、受け入れられないひとだっているんだ。ぼくの家族が、溝端くんの家族が、そうではないとは言い切れない」

ならーー

「もう黙って!」

真中は叫んで、言葉を継ごうとした気持ちの欠片を踏みつけた。粉々に砕け、風にさらわれて消え失せる。
自分の荒い息の合間に、誰かが呼ぶ声がした。とても優しく、心地よくて、ずっと聞いていたくなる声だった。

「真中」

まぶたを開いて、覗きこんでくる溝端と目が合った瞬間、ハッとした。受験勉強の途中で眠ってしまっていたようだった。図書室には、自分たちの他に残っている生徒はいなかった。

「ちょっと休憩す」

ちょっと休憩するつもりだったのに、寝ちゃってたみたいだね。照れ笑いを浮かべ、そう言うつもりだった。でも、近づいてきた顔に遮られた。待ったをかける暇もなかった。
溝端の唇が真中の唇に重なり、押し付けられる。濡れた感触が下唇をなぞった瞬間、頭を後ろに引いた。しかし大きな手が溝端の方へ後頭部を引き寄せ、離れられない。溝端の肩に当てた両手は、どんなに力を入れて押し返そうとしても、なんの抵抗にもならなかった。
固く閉ざした口を開けろと催促するように、溝端の舌が真中の歯列をなぞる。
あんなに気をつけてきたのに、警戒してきたのに、隙を見せてしまった。ここなら他人の目があるし、溝端は受験勉強を邪魔するようなことはしないとわかっていたから、油断した。
押し返す腕に精一杯力をこめる。固定された顔を、力づくで背けようとする。自由に動く足で、溝端の脛を蹴った。
ようやく解放され、うつむいて荒く呼吸する。おもてをあげた真中の顔を見て、無理やりキスした男は瞠目した。真中は泣いていた。

「あ……まな……か」

溝端は自分の方が泣きそうな顔をして、傷ついた顔をして、恐る恐るといった様子で腕を伸ばしてきた。真中はそれを拒絶した。

「ごめん……真中……俺……」

ぼろぼろと溢れ落ちる涙を、真中は必死で拭った。泣きたくなかった。嫌だった。辛かった。悲しかった。無理やりキスされたことがじゃない。溝端にそうさせてしまったことが。拒絶しなければならないことが。
だって、真中も溝端が好きなのだ。お互いが同じ気持ちだと気づいて歓喜したように、溝端が幸せな家庭を失うことを恐れるように。真中は溝端が好きで好きで仕方ないのだ。

「俺は、おまえが」

今一番聞きたくて、聞きたくない言葉。溝端が言おうとした言葉。声にはならず、吐き出した息の中に溶けて消えた。

◇◇◇

避けられている。
朝登校すれば挨拶は交わすし、昼はいつものように昼食を共にする。放課後は図書室で勉強する真中の隣で、溝端は本を開いているし、下校時には肩を並べて他愛ない話をしながら帰る。今までと、何も変わらない。それでも、真中は溝端に避けられていると、そう感じる。

「溝端くん」
「ん?」

呼びかけに対する返事は彼らしく、声音もいつも通りだった。でも、彼は真中を見ない。目が、合わない。
図書室でキスされて以降、溝端は真中と目を合わせるのを恐れるように、頑なに真中を見なくなった。それが、真中に溝端から避けられていると感じさせる。

「み……ぞばた、くん」
「なんだ」

呼んでおきながら、真中は続く言葉を発せられなかった。何を言えばいいのかわからない。言っていいのかわからない。言うべきではないかもしれない。
どうして避けるのか。どうして真中を見てくれないのか。どうして目を合わせないのか。きみの瞳に、まだぼくへの想いは灯っているか。
確かめたい。でも、恐ろしい。自分から拒絶しておきながら、彼の気持ちが真中への熱を失ってしまっていたらーーそう考えると、恐ろしい。
真中は自分のことを、嫌な奴だと思う。ずるくて、意気地なしで、その上泣き虫だ。
自分はさんざん溝端を傷つけたのに、自分が傷つくのは恐ろしいだなんて。

4
溝端はこんな自分のどこが好きだというのだろう。いや、もう、好きではないのかもしれない。だから、目を合わせてくれないのかもしれない。真中がずるくて意気地なしで泣き虫だから、愛想を尽かしたのかもしれない。

「真中?」

図書室へ向けていた足を止めた真中を、数歩先で溝端が呼ぶ。

「どうした」

優しく問われても、顔をあげられない。今の自分は、ひとに見せられる顔をしているとは思えない。

「な、なんでもないよ。行こ」

うつむいたまま、溝端の横をすり抜ける。腕を掴まれて、また足が止まった。

「なんでもないわけないだろ。どうしたんだよ」
「本当に、なんでもないから」
「……俺のせいか?」

腕を掴む力が緩んだ。ほとんど添えているだけなのに、力をこめられるよりもずっと拘束力が増したように振り払えない。

「俺、また、おまえに嫌な思いさせたのか?」

その声が震えていることに気づくと、真中はおもてをあげずにはいられなかった。溝端は泣きそうな顔をしていた。また、真中は彼を傷つけた。

「ごめん、溝端くん。ごめんね……」
「なんで真中が謝るんだ。おまえは何もしてない。俺が……俺の方が……くそっ。なんで」

溝端は片手で自分の顔を掴むように覆った。

「傷つけたいわけじゃないのに」

血反吐を吐くように呟かれた言葉は、真中が抱える気持ちと全く同じ形をしていた。

7.襲来


連れが学校を休んだらしく、乙石は珍しく真中たちと昼食を共にした。溝端とふたりだと真中ばかり喋っているのが普通だったが、乙石が混ざるとおしゃべりな彼の話を聞くことの方が多い。

「おふくろが会わせろって言ってきてな」

昨日観たドラマについて熱く語っていた乙石は、急に声のトーンを落とし、そう呟いた。

「俺が男と付き合ってるって言ってから、家族とはギクシャクしてた。なるべく顔を合わさないようにしてきた。その間に、おふくろと親父はずっと話し合ってきたみたいで……一度、俺の連れに会わせろって」

真中は膝の上で拳を握りしめて、溝端は箸をとめて、静かに乙石の言葉を聞く。

「どんな相手かちゃんと向き合ったこともないのに、頭ごなしに否定ばっかりするのはよくないんじゃないかって。俺が本気で好きな相手ならたとえ男でも、ちゃんと相手の人となりを知って、その上で判断するべきなんじゃないかって。話し合って、そう決めたらしいわ」

ぐしゃりと、乙石は顔を歪めた。

「これって、いいことなんだよな? 家に呼んでいきなり、俺の連れに殴りかかったりしないよな? 罵声浴びせたりしないよな? 会わせて大丈夫だよな?」

真中は不安に震える乙石の手を覆うように握った。

「大丈夫だよ。乙石くんのご両親だもん。酷いことなんてしないよ。会ってくれる気になってくれて、よかったね」
「よかったん、だよ、な……そうだよな……」

よかったね。もう一度、真中はそう言った。
乙石の両親は、何度も話し合って、悩み、苦しみ、息子を理解しようとしたのだろう。息子が男を恋人にしていることを、受け入れようとしたのだろう。息子の恋人に会うことが、その第一歩なのだ。

「連れに、俺の両親が会いたがってるって言ってみるわ」

乙石はいつもの調子を取り戻して、笑った。
うまくいけばいい。そう、思う。もし乙石が、その連れが、乙石の家族に受け入れられたらーーその先に希望が見える。自分の家族も、溝端の家族も、真中たちのことを、もしかしたらーー

真中が密かに希望を抱いた矢先、それは襲来した。

翌日の二時間目の授業中のことだった。教師が黒板にチョークを滑らせる音と、生徒が板書を写す音だけが混ざり合っていた教室に、廊下から騒がしい音が近づいてきた。何かを喚く甲高い声と、必死に止めようとする男子の声。お母さん、やめてーーと、そう聞こえた。
勢いよく音を立て、真中たちの教室のドアが開いた。血走った目でぎょろぎょろと室内を見回す女に、誰もが動きを止める。

「乙石大悟って奴は誰!?」
「お母さん、やめて! やめてよ!」

女が叫んだ名前と、彼女を止めようとする男子生徒を見て、真中はハッと乙石の方を見た。乙石は緊張からか強張った顔つきで、女の前へと進み出た。

「俺です。はじめまして、お母さん」
「あんたにお母さんなんて呼ばれたくない!」

静まり返った教室に、彼女の叫びは響き渡った。誰も彼女たちから目を離せず、教師さえも口を出せなかった。

「あんたが、あんたがうちの息子をーー!」
「やめて! お母さん!」

振り上げられた女の手を、後ろにいた男子生徒が止める。

「放せ! 放しなさいよ! こいつが! こいつが誑かしたんでしょ! 男のくせにうちの息子に手を出すなんて!」
「違う! 違うよ! ぼくだって大悟が好きなんだ! 大悟はなにも悪くないよ!」
「あんたは騙されてるの! じゃなきゃ男となんてーー!」

髪を振り乱して暴れる女は、自分の息子を振り払い、乙石に掴みかかった。

「あんたが、あんたがーー!」

乙石は胸ぐらを掴まれても、なんの反応もしなかった。できなかったのかもしれない。真中の席からでは乙石の後ろ姿しか見えなくて、彼が今どんな表情をしているかわからない。
女は再び手を振り上げた。今度は息子が止める間もなく、乙石のほおを張る。勢いよく叩きつけられた音が、静かな教室に響き渡った。
ハッとした教師が、ようやく三人の間に入る。騒ぎを聞きつけた他の教師たちも集まり、女は喚き声をあげたまま連れて行かれた。彼女の息子と乙石も、教師から二、三声をかけられ、あとをついて行った。
このクラスの授業を担当していた教師が自習を告げて出ていくと、途端に教室は騒がしくなる。
真中は、とてもひとと話せる気分ではなかった。うるさいくらい鼓動する心臓を押さえ、うつむく。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、うまく空気を吸えない。苦しくて、苦しくて、堪えきれないほど痛かった。
真中が抱いた僅かな希望は、女の襲来によって粉々に崩れさった。
やっぱり、そうなのだ。大抵の人間は、大抵の親は、自分の息子が男と付き合っていることを、そう簡単には受け入れない。断固として拒絶するひとだっている。認めたくないひとだっているのだ。

「よかった……」

そう呟くのは、己に刃を突き立てるより痛く、難しかった。それでも呟かなければ、自分を支えていられなかった。
乙石が傷つけられたことを喜んだわけじゃない。彼らの関係がうまくいけばいいと、誰よりも強く思っているのはきっと真中だ。乙石の気持ちを思えば、心が張り裂けそうになる。
よかったと思ったのは、自分があの時、判断を間違えなかったことだ。真中は判断を間違えなかった。そうわかって、よかったと思ったのだ。
乙石が男の恋人の存在を家族に知らせて殴られた時、自分の気持ちは、溝端との関係はどうすべきか、真中は考えた。そして、友達でいることを望んだ。溝端からのキスを拒絶した。溝端に好きだと言わせなかった。溝端と同じ大学を選ばなかった。それらの判断は、間違ってなかった。

「よかったんだ……」

もう一度呟く。
よかったはずなのに、どうしてこうも苦しいのだろう。言葉にするのが、血を吐くより辛いのだろう。
真中はそっと溝端をうかがい見た。溝端は青い顔をしていた。瞬きもせず、ぴくりとも動かず、ただ青い顔をして、机の上を凝視していた。

8.期限付きの特別


真中は己の心の矛盾に気づいていた。
友達でいなければならないと思いながら、溝端の自分へ向ける恋慕が失われることを恐れる。
目を合わせてもらえないだけで、愛想を尽かされたのではと怯える。友達としての距離を保とうとするならば、自分の気持ちを隠しきれないであろう瞳を彼に見られるべきではないのに。
乙石の両親が息子の恋人を受け入れようとする話を聞き、自分と溝端の家族もーーと希望を抱く。溝端を傷つけてまで、友達でいると決めたくせに。
そう。友達でいると、決めたのに。
なのに今、久々に溝端と視線が交わって、その瞳に以前と変わらぬ感情が灯っていることに安堵した。拒絶されて、傷つけられて、それでも真中を好きだと訴える瞳に、真中は安堵したのだ。

「真中……」

呼んで、溝端はそっと真中の手を取った。包み込むように優しく握った真中の手へと視線を落とした溝端は、唇を噛み、惑うように視線を泳がせた後、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎはじめた。

「俺……わかってなかった。乙石が親父に殴られて遅刻してきた時も……話聞きながら……ちゃんとは、わかってなかったんだと、思う。真中に、俺たちはただの友達だって言われた時も……なんで急にそんなこと言うのかわかってなくて……結構、傷ついた」

真中も触れ合うふたりの手へと視線を落とし、ごめんねと小さく謝った。溝端はいいんだと静かに返す。

「真中は、ちゃんと、わかってたんだ。俺は……わかってなかった。乙石の連れの母親が教室まで乗り込んできて……乙石を傷つけて……引っ叩いた時、ようやく、わかった。同性を好きになるって、どういうことか……ちょっとだけかもしれないけど、ようやく……わかったんだ」

だから、と溝端は続けた。

「真中へのこの気持ちは、卒業までにする。卒業したら、真中とはもう会わない。連絡もしない。なかったことに、する」

だから、と、もう一度続けて、溝端は視線をあげた。つられて、真中も溝端を見上げる。視線が合わさって、お互いの気持ちが筒抜けになる。
嫌だ。苦しい。辛い。なかったことになんてしたくない。卒業してもずっとーー
痛いくらいに、伝わってくる。そしてきっと、同じくらいの熱量で伝わっている。

「キスもしない。気持ちを伝えることもしない。受験の邪魔もしないから、だから、真中の卒業までの残りの時間、俺にくれないか。恋人になってほしいとは言わない。ただ、ほんの少しだけ、卒業までの間だけ、ただの友達より特別になってくれないか。俺を……おまえの特別に、してくれないか」

溝端がこんなにも喋っている。それも自分に伝えるために、一生懸命。それだけで真中は泣きそうなのに、話の内容がさらに涙腺を刺激する。

「真中」

不安そうに、苦しげに真中を呼ぶ溝端に、微笑んでみせる。うまく笑えたかはわからない。細めた目から、涙が今にも溢れそうだった。
卒業までね。それまで、よろしくね。
そう言いたいのに、言いたくない気持ちが邪魔して声にならない。言葉にするのは諦めて、真中はこくこくと頷いた。

「……ありがとう」

溝端は包んでいた真中の手を強く握った。ここに真中は存在すると、嘘ではないと確かめるかのように。

冬休みに入る前日の、放課後のことだった。

9.繋いだ手を放さずにいられたなら


溝端は言葉にしたとおり、受験勉強の邪魔はしなかった。毎日、寝る直前に十分ほど電話で話すだけで、顔を合わせることもない。卒業までの期限付きの特別とやらになった実感はわかないが、勉強に集中できるのはありがたいことだった。
試験の一週間前になると、電話のやりとりさえもなくなった。何度か自分から電話をかけようかとも思ったが、溝端が自分のためにそうしてくれているとわかっているから、踏みとどまった。
そして試験当日、溝端から『頑張れ』と短いメールが届いた。それをお守りにして、真中は試験に臨んだ。
試験が終わってすぐ、真中は溝端に電話をかけた。

「終わったよ」
「お疲れ」

久しぶりに聞く溝端の声に、自然と笑顔になる。

「どうだった?」
「思ってたよりはできたかなって。でも、その、思ったよりは、だから、絶対とは言いきれないんだけど……」
「大丈夫だろ。真中なら」
「そ、そうかな」
「ああ」

真中は胸に拳を押し当て、はやる気持ちを抑えつけ、口を開いた。

「あのさっ」
「ん?」
「明日、あいてる? ……溝端くんに会いたい」
「あいてるよ。俺も、真中に会いたい」

同じ気持ちであることが嬉しくて、真中の表情はふにゃふにゃに緩む。
待ち合わせの時間と場所を話し合って、通話は終了した。
その日はなかなか眠れなかった。
翌日の昼前、そわそわと待つ真中の家に、溝端が訪ねてきた。真中の部屋に通すと、溝端は「きれいだな」と感想をこぼす。

「溝端くんが来るから掃除したんだ。いつもはもっと汚いよ。ーー座って」

ラグに溝端を座らせ、真中はDVDをいくつか溝端の前に並べた。

「どれがいい?」
「これ」

溝端が指差したのは、真中たちの最後の試合を撮ったものだった。プレーヤーにセットし、真中は溝端の隣に座った。
テレビの中で動く自分たちを見つめ、今のところはどう動くべきだったか意見を出し合う。もう終わっていることなのに、ふたりは真剣だった。それは、ふたりがいかに部活に真剣に取り組んできたかを、お互いにひしひしと感じ合わせるほどだった。

「真中は大学でもバレー続けるのか?」

テレビの中の溝端がバレーボールを相手のコートに叩き込んだところで、そう問いかけられた。思わず溝端を見る。溝端も真中の方を向いた。真中は視線を逸らした。

「……ううん。大学では、もうバレーはしないよ」
「…………そうか」

バレーは、真中と溝端を繋ぐもののひとつだ。それを辞めるということは、溝端との繋がりがひとつ断ち切れることでもある。それは寂しく、辛いことだが、どうせ卒業すれば溝端との繋がりは一切なくなる。会うことも、連絡を取ることもなくなるのだから。

「ーーっ!」

手に何か触れて、咄嗟に引っ込めようとした。握りこまれて、それが溝端の手だということに気づき、胸を撫で下ろす。握り返すべきか、この接触は拒むべきか、考える。普通の友人は特になんの意味もなく、男同士で手など繋ぐものなのだろうか。
横目で溝端をうかがう。テレビへと目を向けたまま、表情は変わらない。ただ、握りこむ力が強くなる。

「卒業までだ」

その言葉に、真中はようやく、なんとなくだが、実感がわいてきた。自分たちは卒業までの期限付きでただの友達ではなくなったのだ。だから手を繋ぐのも、おかしなことではないのだろう。
真中は強く握り返すことで応えた。安心したように、溝端の力が緩む。下がり気味の口角が、僅かにあがったように見えた。笑顔のようでいて、それでも目はどこか悲しげだ。そんな溝端を見ると、真中も暗い気持ちが押し寄せてくる。
卒業までだ。この感触を、この温もりを、感じられるのは。卒業したら、きっぱりと忘れなければならない。
ーーどうして? どうしてなんだ。
真中はうつむいた。もう、試合に集中できる心境じゃなかった。

◇◇◇

無言で試合を見終えて、それでも手を放す気にはなれずに、ふたりはただ黙ってそばにいた。
あとどれくらいの時間、溝端とともに過ごすことができるのだろう。真中はまだセンター試験の自己採点をして、志望する大学に願書を提出し、二次試験に備えなければならない。時間に余裕がない。でも、真中は少しでも長く、溝端とともにいたかった。

「溝端くん」

思いきって、真中は口を開いた。

「あのね、ぼく、もっと溝端くんと一緒にいたい。勉強しなきゃいけないって、わかってるけど……でも、あの、溝端くんが嫌じゃなかったらーー」
「真中」

溝端はまっすぐに真中を見つめた。少し怖いくらいに真剣で、緊張しているように見えた。

「俺も、真中ともっと一緒にいたい。だから、明日も、ここに来ていいか? 勉強の邪魔はしない。ただ、おまえのそばにいられるだけでいいんだ。構ってくれなんて言わないから。だから」
「うん。明日も来て。明後日もその次の日も、そばにいて。ぼくは一度だって、溝端くんが勉強の邪魔だと思ったことはないよ」
「真中……」

ありがとう、と。溝端は静かに笑った。

翌日から、真中の部屋には毎日決まった時間、溝端の姿が見られるようになった。
真中は机に向かい、溝端は漫画を読んだり、イヤホンをつけて音楽を聴いていたりする。そして時々挟む休憩時間には、手を繋いで話をした。学校で過ごす時よりも近い距離で、より親密に。でも、手を繋ぐ以上のことはしなかった。誰も見ていない、ふたりきりの状況で、時折瞳の奥に隠しきれない熱をちらつかせておきながら、溝端は絶対に手を繋ぐ以上のことはしない。きっと、期限付きの特別になってほしいと望んだその時、自分が言ったことを溝端は守ろうとしているのだ。キスもしないという言葉を、守っている。そのことに気づくと、真中は溝端が愛おしくてたまらなくなる。
でも、キスはしない。真中も、手を繋ぐ以上のことはしない。あとで辛くなるのはわかっているからだ。自分も、溝端も。

10.存在しない世界


席に座って、流れゆく景色をぼんやりと眺める。行き先は決まっていない。この電車で行けるところまで行って、乗り換えた電車でまた行けるところまで行くのだろう。
遠くへ行こう。そう、溝端が言った。自分たちのことを誰も知らない遠くへ。
だから、真中と溝端は電車に乗った。
肩が触れ合うほど近くに座って、こっそりお互いの手指を絡めて。会話はなく、ただ窓の外を見続ける。
電車が駅にとまるごとに人が増えたり減ったりして、乗り換えた電車でさらに遠くへと向かえば、真中たちの車両には他に乗客はいなくなった。

『別れた』

今朝、乙石からメールが届いた。真中は一瞬固まって、動揺を隠しきれない目を溝端に向けた。溝端は瞬きを忘れたまま、ゆっくりとした動作で乙石に電話をかけた。ふたりの間でどんな会話がなされたのか、真中は知らない。溝端の声は聞こえているはずなのに、どこか遠くて、耳に蓋がされたようだった。
乙石のほおを張った、乙石の連れの母親を思い出す。乙石は彼女に受け入れられなかったのだろう。乙石のことだから、彼女の息子をどれだけ想っているか、好きなものは好きだと、はっきり告げただろう。それでも、受け入れてはもらえなかったのだ。

「遠くへ行こう」

乙石との通話を終えて、溝端はそう言った。

「俺たちのことを誰も知らない遠くへ」

真中は頷いた。そこからは無言で、ふたりは駅へと歩いた。

◇◇◇

乙石は受け入れてもらえるまで、彼女のもとへ通い詰めるつもりだったらしい。でも、乙石は彼女の放った言葉に折れた。
男同士だと周りから批判的な目で見られることもある。男同士だと子どもができない。そもそも息子はゲイじゃない。女を愛せるのだから、わざわざ同性愛という険しい道を進む必要はない。そんなことを、彼女は言ったらしい。

「息子の幸せを本気で願ってくれるのなら、別れて」

それがあの子のためになるの。そう言われて、乙石は頷くしかなかった。

「乙石は誰より連れの幸せを願っていた。だから、それが連れのためになるならと自分の心を押し殺して、別れを受け入れたんだろう」

窓の外をぼんやりと眺めながら、溝端は今朝乙石と電話で話した内容を真中に伝えてくれた。淡々とした口調だった。わざと気持ちを乗せないようにしているような、わきあがる感情を抑えつけているような。
絡み合った指に、力がこもった。

「……うまくいかないもんだな」
「……そうだね」

次に到着した駅で、溝端は何も言わず立ち上がった。真中も後に続いて電車を降りる。しばらく無言で歩いた。繋いだ手は放さなかった。すれ違うひとの視線が自分たちの絡めあった手にそそがれることに気づきながらも、けして放さなかった。ここには、真中を知るひとも、溝端を知るひともいない。もう二度と来ることもないのだから、堂々と手を繋いで歩くことくらい許してほしい。

「このままおまえを攫ってしまえたらいいのに」

ぽつり、溝端は呟いた。

「この世界にふたりきりで生きていけたらいいのにな」

それは甘い妄想だった。誰の目も気にせず、否定されることもなく、ふたりきりで生きていけたなら。そんなに幸せなことはない。でも現実は残酷で、ふたりきりの世界なんてどこにも存在しないことを、真中は知っている。溝端も知っていて、しかし言わずにはいられなかったのだろう。
ふたりは黙々と歩いた。手を繋ぎ、誰も自分たちを知らない場所を。ふたりきりで生きていける世界を探して。存在しないことを知っていながら。

11.明日から隣にきみはいない


丸筒を握りしめ、空を仰ぐ。どこまでも晴れ渡る青空は、卒業生たちの門出を祝っているようだ。
あちこちから笑い声とシャッター音、時々泣き声が聞こえてくる。別れを惜しんで抱き合う女子生徒の横を通り抜け、真中は図書室へと足を向けた。
受験勉強で世話になった机を撫でる。毎日通っていたのが、とても遠い昔のことのように思える。席に座って、目を閉じる。
いろいろなことがあった。充実した三年間だった。それらの思い出は、ここに全て置いていく。真中にとっての高校生活とは、溝端とともに過ごした記憶と同義だ。だから、持ってはいけない。今日で、彼との関係は終わる。繋がりを断ち切る。思い出はなかったことにする。辛くても、苦しくても、彼との日々はここに全て置き去りにして、彼への想いは捨て去って、前に進まなければならない。

「真中」

呼ばれてまぶたを開く。溝端が立っていた。制服のボタンが全て無くなっている。最後だからときちんと締めていたはずのネクタイも消えていた。

「ネクタイまでとられちゃったの?」

真中が緩く笑うと、溝端は「ああ」と短く返事をした。

「乙石が探してる。三人で写真撮ろうって」
「そういえば三人だけで撮ったことってないね」

席を立ち、ドアの方へ身体を向ける。「行こう」と声をかけ、溝端の横を通り過ぎた時、後ろから腕を掴まれた。強い力で引き寄せられ、身体が後ろへ傾ぐ。真中を受け止めた溝端に、そのまま抱きしめられた。

「溝端くん……放して」
「いやだ」

抱きしめる腕はきつく、縋りつくようで、真中は振りほどくことができなかった。したくなかった。
真中の肩に顔を埋めた溝端の髪が、首筋に当たってくすぐったい。身動ぐと、溝端の力はさらに強くなる。

「今日で最後だ」
「……うん」
「ずっと言いたかったことがある」
「…………」
「気持ちも伝えないって言ったけど、あの約束、破る」
「……だめ」
「最後だから言わせてくれ」
「だめだよ」
「俺は真中のことが」
「だめ!」

真中は大声で溝端を黙らせた。抱きしめる腕から逃れようともがく。それでも溝端は放さない。

「なんでだめなんだ。男同士だからか? 異性ならよくて、同性はだめなのか。なんで、なんでーー」

溝端だってわかっているはずだ。だから彼は真中への気持ちを卒業までで終わらせると言ったはず。真中もそのつもりで今日を迎えた。

「俺が女だったら、何も気にせずそばにいられたのか。お互いに好き合ってるってわかってるのに、離れなきゃならないなんてことにはならなかったのか。俺が男だったから、おまえが男だったからーー」

そんなことは、真中だって何度も考えた。自分が女だったら。溝端が女だったら。でもそんなのは、いくら考えたって現実にはならない。

「男同士の一体何が悪いんだ」

溝端の拘束は苦しく、絞り出すように紡がれる言葉は真中に突き刺さる。

「俺たちはただ、ひとを好きになっただけだろ……っ!」

真中はもがくのをやめた。これ以上、したくもない抵抗など続けられなかった。溝端の拘束はより強く、固くなる。甘えるように肩へひたいを擦り付けられ、真中は胸がいっぱいになった。
きみが好きだよ。
声には出さず、唇を動かす。溝端にも誰にも気づかれず宙に放たれたこの言葉は、どこへ消えていくのだろう。
ただひとを好きになった。この気持ちは、なぜここで殺さなければならないのだろう。

◇◇◇

乙石と三人で写真を撮った。この三人で写るのは、最初で最後だ。だが、その写真は、乙石の手元にしか残らない。真中も溝端も、お互いに関するものは全て消去したからだ。写真もメールも通話履歴も連絡先も、全て消した。

「落ち着いたら、また遊ぼうな。連絡するから。じゃ、またなー」

乙石は笑顔で手を振り、他の友人のもとへと走っていった。これが今生の別れになるなどとは、微塵も思っていない足取りだった。
真中は溝端に向き合った。お互いに目を伏せたまま、視線は交わらない。

「今までありがとう。溝端くんがいてくれたおかげで、楽しい高校生活だった」
「……俺も、真中がいてよかった」
「大学に行っても、バレー頑張って」
「ああ」
「ぼくはまだ合格発表されてないから、大学行けるかわからないけど……勉強、頑張るよ」
「真中なら受かってる。大丈夫だ」
「うん。ありがとう」
「…………」
「…………それじゃ」
「ああ」

おもてをあげた。溝端と目が合う。そこにはまだ、真中を想う気持ちが灯っている。でももう二度と、見ることはない。
真中は溝端への気持ちを全部ここに出し切っていくつもりで、溝端を見つめた。溝端が息を呑む。

「さよなら」

笑顔で言った。未練など残さないように、満面の笑みで。
溝端に背を向けて、歩きだす。だんだんと早足になって、校門を抜ける頃には駆け出していた。
涙が溢れて止まらなかった。

12.胸を張って叫べ


大学生活は思ったより楽しかった。それほど多くはないが、友達もできた。
勉強にバイトにサークル活動、友達とのお出かけ。暇ができるのを恐れるように、空いた時間に予定を詰めた。それでも時々、ご飯を食べている時や風呂に入っている時、ひとりになってしまうと思い出す。思い出はあの図書室へ置いてきたはずなのに、何度殺しても立ち上がる不死者のようによみがえる。溝端の温もりを知ってしまった左手が、握り返してくれる大きな手を探してさまよう。

「溝端くん……」

名を呼ぶだけで想いがわきあがって、真中はベッドの上で膝を抱えた。
卒業までにすると決めたのに。会わなくなれば、気持ちは薄れゆくと思っていたのに。会わない時間は、空いた距離は、意に反して想いを育て続けている。
忘れるために、女の子のお誘いを受けてデートしてみたこともある。真中のために着飾り、髪を整えて、化粧もして、上目遣いに話しかけてくれる彼女はかわいらしいと思ったが、それだけだ。付き合いたいとは、思えなかった。もしかしたらそもそも自分は女が恋愛対象にならないのではと考えて、ゲイの集まるお店に行ってみたこともある。結果、自分はただ溝端だったから好きになったのだということがわかっただけだった。
携帯を手に取り、連絡先のアプリを開く。どれだけスクロールしても、そこに彼の名前はない。当たり前だ。自分で消した。わかっている。それなのに、どうしようもなく、苦しい。

◇◇◇

何の連絡もなく、乙石が訪ねてきた。
突然の来訪者は、真中が大学で講義を受けている間、真中の母親とリビングで談笑していたらしい。真中が母親から連絡を貰い急いで帰宅すると、毎日顔を合わせていた高校時代と変わらぬ態度で、「おかえり。真中くんのお母さん、相変わらずおもしろいなー」と笑った。

「急にどうしたの」

真中の部屋へと場所を移し、突然の来訪の理由を問う。

「真中くんの顔見たくなってな。卒業してから一回も会ってなかったし。迷惑だったか?」
「そんなわけないよ。会いにきてくれて嬉しい」

お互いの近況を報告しあい、昔話に花を咲かせたのち、乙石はおもむろに姿勢を正した。つられて、真中の背筋も伸びる。

「俺、高校ん時付き合ってた奴いるだろ?」

真中は頷いた。忘れられるわけがない。恋人が男であることを家族に受け入れてもらえなくて、それでも好きで、悩んでいた乙石。両親が話し合って、会ってくれることになったのに、恋人の母親が学校まで乗り込んできて乙石を引っ叩いた。反対し、拒絶する恋人の母親と話をした乙石は、息子の幸せのために別れろと、それが息子のためになるのだと言われて、別れることを選択したのだ。

「そいつがな、昨日急に俺ん家まで押しかけてきてな。それで、言ったんだわ。ぼくのお母さんの価値観で決められた幸せなんていらない。ぼくの幸せはぼくが決める、って。母親と何度も話して、泣かせて、怒らせて、縁切るって言われても、それでも大悟をーー俺を、選ぶって、言ってくれた。俺がいないと幸せになれないって、言ってくれたんだ」

乙石は柔らかく笑った。愛おしいという気持ちが溢れた笑顔だった。

「だから、まあ、ヨリ戻すことになった。連れのお母さんとは、これからもずっと話し合っていくことになるだろうけど、認めてもらうために頑張るわ。連れが言うには、お父さんの方はもう好きにしろって感じらしい。うちの両親は、男と付き合ってるって言った時の反応が嘘だったみたいに、今は俺たちのこと応援してくれてる」
「よかったね」

こみあげる何かが、真中の声を震わせた。

「本当に、よかったね……!」

瞳を潤ませる真中に、乙石は朗らかに笑った。

「ありがとう」
「よかった……ほんと、よかった……嘘みたい」
「そんなに喜んでくれるとは思わんかったわ」
「だって、ぼく、ずっと、乙石くん応援してたし……別れたって聞いた時、本当にショックで……」
「うん、ごめんな。それから、ありがとう。真中くんはいつだって俺の味方でいてくれたもんな」

握りしめていた真中の拳を覆うように、乙石は手を重ねた。温かい手だった。

「それで、実はこっちが本題なんだけど」
「……本題?」
「そう。真中くんが俺の味方でいてくれたように、俺も真中くんの味方なんだ。ずっと、応援してきた。うまくいけばいいなって、思ってたんだぜ」

それなのに、と乙石は真剣な眼差しで真中を射抜いた。

「溝端とはもう二度と会わんらしいな。お互いに連絡先も消したって聞いた」

どくん、と真中の心臓が跳ねた。視線が泳ぐ。身体が勝手に逃げ出そうとする。それを許さないとでもいうように、乙石はぐっと身を寄せてくる。

「俺、ふたりは両想いだと思ってたんだけど。なんでそんなことになってんだ?」
「き、気づいてたの……?」
「両想いってことにか? 気づくわ。三年も真中くんと溝端のこと見てたんだぞ。そりゃわかるだろ。ーーで? なんで付き合うどころか二度と関わらんことになってんの?」

真中は目を伏せた。顎を引き、覆われた拳をぎゅっと握りしめる。

「男同士、だから」

乙石の手がぴくりと反応した。

「同性の恋人がいるって、息子がそうだって、受け入れられるひとは……少ないよ」
「それは……俺がそうだったからか? 俺たちの親がそうだったから? 俺が、真中くんにそう思わせてしまったんか」

違う、とは言えなかった。
乙石は「うー」と唸るように呟いて、自分の頭をがしがし掻いた。

「あのな、真中くん。俺の親は確かにはじめは受け入れられなかったみたいだけど、今は応援してくれてるって言っただろ。連れのお母さんは、まだ反対してるけど……でも、態度はだんだん軟化してきてる。俺が連れのことをどれだけ好きで、幸せにしたいって思ってるか、何度も何度も伝えたからだ」

真中くん。もう一度、乙石が呼んだ。伏せていた視線をあげると、乙石は幼い息子の失敗を温かく見守る顔をしていた。

「真中くんは両親に溝端が好きってーー男が好きって、言ったか? まだだろ? なんで打ち明ける前に諦めてるんだ。はじめは受け入れてもらえないかもしれん。でも、時間をかけて話し合えば、応援してくれるようになるかもだろ」
「……ぼくの両親と、乙石くんの両親は違うよ」
「そりゃ違うわ。でも俺は、真中くんの親が、真中くんのことを頭ごなしに否定するとは思わん。溝端の親もな」

乙石は覆っていた真中の拳を優しく撫でた。大切なものに触れるように。

「真中くんは溝端が好きなんだろ? 好きなものは好きだと言った方がいいんだぜ」

押し込めていた感情がぶわーっと溢れ出して、真中の目尻から伝い落ちる。

「ぼく、溝端くんが好きだよ」
「知ってる」
「卒業したらこの気持ちにさよならするって決めてたのに、今でも、こんなに、好きだ」
「うん」
「溝端くんが、溝端くんのご両親から否定されたらーーそう考えると、怖い」
「溝端なら大丈夫だ」
「そんなのわからない。……苦しいよ」
「吐き出せば楽になる」
「できない」
「溝端はやってる」

真中は思わず、乙石をまじまじと見た。乙石はこくりと頷いて、もう一度言葉を繰り返した。

「溝端はやってる。今」
「いま……?」

何を言っているのかわからなかった。小首を傾げた真中に、乙石は小さく笑みを見せる。

「ここ来る前、溝端とも話した。溝端もまだ真中くんのこと……真中くんと、同じ気持ちだった。だから発破かけてきたわ」
「葉っぱ」
「発破。溝端は口下手なりに頑張ってる。真中くんと一緒にいる未来が欲しいって、頑張ってる。親と向き合ってる」

鼓動が内側から大きく聞こえる。喉がごくりと鳴った。何かが、変わろうとしている。

「真中くんも、頑張れ。勇気出せ。好きなもんは好きだって、胸張って叫べ」

13.ここからがスタート


真中は走った。
溝端の家には一度だけ行ったことがある。溝端の案内で、乙石も一緒に。その時のことを思い出しながら、地面を蹴る。
母親には時間が欲しいと言われた。怒るでもなく、泣くでもなく、ただ静かに、時間が欲しいと。
息子が男に恋をしていると聞いて、驚かなかったわけがない。それでも母は落ち着いた様子で、息子の気持ちを一旦受け止めた。これから時間をかけて咀嚼し、理解し、受け入れるか受け入れないかを決めるのかもしれない。
父親には、今夜仕事から帰ってきたら、自分の口から伝えるつもりだ。母の反応は予想外だったが、父の反応の方がもっと予想できない。どんな反応だったとしても、真中は受け止める覚悟をした。
だから今、真中は溝端のもとへと走っている。覚悟を決めたことを伝えに。一度も言葉にしなかった気持ちを、伝えるために。
溝端の家が見えてきた。呼吸を整えるために、走るスピードを落としていく。ふと、溝端の家から誰か出てきた。それが溝端家の一人息子であることに気づくと、真中の足は止まった。溝端が真中に気づいて、一瞬動きを止める。そして、確かな足取りで目の前まで来た。見上げる真中に、溝端はまっすぐ視線を合わせてくる。

「親に話した。好きな奴がいるって。男だって。冗談だと思われた。でも俺が本気で言ってるってわかったら、真剣に対応してくれた。俺はーー」

俺の、と溝端は言い直す。

「俺の親は、俺が思ってるよりずっと柔軟な思考のひとだった」

数秒、見つめ合ったまま無言だった。次に口を開いたのは真中だった。

「ぼくのお母さんも、頭ごなしに否定しなかったよ。時間が欲しいって言われただけで、怒りも泣きもしなかった。お父さんには後でちゃんと話す。自分の口から伝えるよ。その覚悟がーー溝端くんと寄り添って生きていく覚悟ができたから、ぼくはきみに会いにきたんだ」
「俺も、これから真中に会いに行こうと思ってた。気持ちが変わってたらと思うと怖かったけど、そんな心配はいらなかったみたいだな」

溝端は真中の気持ちがいまだに溝端の方を向いていると、わかってくれた。真中もまた、溝端の瞳の奥に灯る感情が変わらずそこにあることに気づき、胸が熱くなる。

「もう、言ってもいいんだよな?」

こくりと真中は頷いた。もう止める必要はないのだ。

「言って」

溝端は真中の両手を握り、こつんとひたいを合わせてきた。息を吸い込み、言葉として吐き出す。

「俺は真中が好きだ」

痺れるほど甘い声だった。真中のほおは色づき、耳まで赤くなる。それでも目は逸らさず、ふにゃりと笑ってみせる。

「ぼくも溝端くんが好きだよ」

けして好きとは言わないで

けして好きとは言わないで

好きだと言わせない真中。好きだと言いたい溝端。好きだと言った乙石。※BLです。(3/24完結)

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-12

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著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1.好きなものは好きだと言った方がいい
  2. 2.落雷のような衝撃
  3. 3.進む道は違えるか
  4. 4.明日も隣にきみがいる
  5. 5.答えのない問い
  6. 6.傷つけたいわけじゃない
  7. 7.襲来
  8. 8.期限付きの特別
  9. 9.繋いだ手を放さずにいられたなら
  10. 10.存在しない世界
  11. 11.明日から隣にきみはいない
  12. 12.胸を張って叫べ
  13. 13.ここからがスタート