マチミサキ

いきなり
身の回りで
冠婚葬祭的な出来事が続きました。

入学祝いに卒業祝い
デキ婚に出産祝い
なんといっても

お葬式が連発しました。

ざっとみても
なかなかの出費

つらいのは
これらのほぼ全ての事象について
振り返るに

私が今後
自分の順番として頂ける見込みが
まったく無いということ。

御香典くらいですかね。

しかし
その時にはもう私は居ません。

誰の手に渡るのやら。

生きているうちには
よくて
要りもしない返礼品を
押し付けられる程度。

赤ちゃんの名前入り石鹸だのタオルだの
もーいいですよ。

風習として
しょうがないのでしょうけど

せっかく
御祝儀として
清水ハイジャンプを決めたのですから

そんなものに使うのならば
新生児の為に全額
キチンと使って頂きたい。

後々の世を支えるべき
立派な人間へと成長できる
お手伝いが
私の寸志などで役立てるならば

その方がよっぽど良いです。

結婚式も同様かと。

・・・・

つい、先日
たまたま拝見していた収録でのこと。

若い女性芸能人のかたが

中学だか高校だか
当時の思い出を振り返り

『わたし!呼ばれてもいないのに
先生の結婚式に行っちゃって~♪』

そんな事を言い

おそらく
彼女の
この発言を

おまえ非常識でバカだな~

的な
意味合いで捉えたと思しき
スタジオに居られた他の演者さんや
観客の皆様が一同大爆笑、となりました。


……が、

私は首を傾げました。

本来、祝いの席とは
そういうものだと思ったからです。

その行動や
行動を起こさせるに至った
その恩師との
それまでの関係性が
素晴らしい訳で

失笑、爆笑を買うような
行動では無いと。

私、こんど結婚しますので
お祝いに来て下さい!
出来れば…、というか
ハッキリとは言えませんが
勿論、金を持って!
貴女の貴重な時間をも
私を祝う為に使わせて下さい!


と、いう風に
私の目には
【結婚式の招待状】
が映るのです。

これを本来
祝われる立場の当人が
わざわざ表明して
催促紛いの事をするのは
滑稽極まりないのでは?


そうではなく

あの娘が結婚する!
ならば
何を置いても
駆けつけなければ!

私も祝ってあげたい!

結婚する本人は
遠慮し
呼ばずとも
そうして
祝福する者達が
どうしても!と、
集う


それが
本当なのでは?


解ってますよ
現実的でないことくらい。

逆にいえば
お葬式はまだましです。

義理事とかは
あるでしょうけど

それでも御葬儀の招待状は届きませんからね。

あくまで
少なくとも
体制としては
自主的に参加する訳ですから。


…でも
蒸し返すようで
しつこいですが
思うのですよね。


こういった披露宴

挙げ句に新郎新婦の

どうです?
私達、素晴らしいでしょう?

そんな
ありとあらゆる手練手管で
構成されたような
幸福プログラム演出を

どうだ!よく見ろ!

と、ばかりに
呼び出された私達に公開されても。

これではもう
ジャ○アン・リサイタルなのでは?

どうしても
やりたいなら

貴女の親族だけではダメか?
私もそれを見て
感動しないとまずいのか?

特に強く思うのが
親への感謝の手紙

貴方の親に向けて書いた想いを
何故
この場にいる一同が
聞き入るしかないのか?

親に伝えたい
気持ちではないのか?

親に伝えたい気持ちを
皆に見せたい気持ちではないのか?

我が子
可愛さ故なのか

それを
照れくさそうに
誇らしげに
時には涙混じりにしている親御さん

この親にして…


・・・


そして
私はこれらに
お金を払うのか?

挙げ句

取り返せるあてもなく

私は ずっと貰えない見込み なのか?

そう考えると
思わず
やるせない悔し涙が出て来そうです。

この涙が
当人達に

大☆成☆功

とでも思われたらもう・・。


ま、愚痴にしかなりませんな。


うろ覚えですが

人間とは誰しもが


生ぜしもひとり 死するも独なり
されば
人と共に住するも独なり
そひはつべき人なき故なり


という
一遍上人のお言葉があります。

このお言葉は
解釈する人によって
それぞれ
少し意味合いが変わってくると
思うのですが

多くの場合

人間は結局
己以外に己の心を分かることはなく
誰とも解り合えぬ

が、しかし

だからこそ
全てを大事に。


そんな風に纏められる事が多いのですが

私の捉えた解釈は
少し違いました。

高名なお坊様や学者先生方の
ご意見がきっと正しいとは
思うのですが

馬鹿の戯れ言として
聞いて頂けるのならば


こちらのお言葉は
近く死にゆく者や
それに
人間関係に絶望する者

希望を持てぬ者に対する
応援歌であり

救いのお言葉だと思ったのです。

未婚、既婚

子供が居ようと居まいと

どれだけ
恵まれた家庭を作り上げ
幸福そうにみえようとも

社会的に大成功を収め
この世の春を満喫しようとも

結局は常に

【己独り】

それを全く
自分自身と同じ心で
分かち合う
人間はいない

仲良しグループに囲まれようとも
比類なき優しい両親に恵まれようとも

結局は
孤独なのだと。

それを
悲観的に捉えるのではなく

皆、
この世に生きる全員が
そうなのだと。


それまで

この世界に公平なものは
いずれ誰しもに必ず訪れる【死滅】しかない。

そう
考えて
常に不公平を嘆いてばかりいた私には

この文を目にした時

雷に打たれたような衝撃が走りました。

…死滅しかない…

そうではなく

生きとし生ける
全ての人間は
等しく
孤独なのです。

いま、この瞬間も
例え
家族や恋人と過ごしていようとも。

そう

自分ばかりが
孤独なのではない

自分と似たような境遇に身を置き
不幸に見える
そんな者ばかりのみが
わたしと同じように孤独なのではない

みな

孤独に生まれ
孤独に暮らし
孤独に死んでいくのです。

双子だろうが
心中であろうが

すべて独り。

こうしている
たった今も。

永い永い
歴史の中で
生まれ
亡くなっていった
全ての人間が全ての生を。

偉人であろうと
悪人であろうと。

豪華な葬儀、
愛する親族に見守られ亡くなるも

非業の死を余儀なくされようとも

死する瞬間の
その刹那の想いを受け止め
真に解するのは
所詮
己唯ひとりでしかないのだと。



そう
考えると
心が軽くなるのです。

この想いも

完全に
私と同じ心で理解し
捉えてくれるような
他人は
いないでしょう。


だけど


それで良いのです。

だからこそ

私は
すくわれる。

僻ませたら世界一、
私の半分は【妬み】で出来ているのです。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-09

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