花の薫りの章<和>

菊の薫り

 蔀戸から天道の射す町屋を見つめていると、木々の陰が緑に揺れて涼しげだ。
 もう少し突っ掛けで戸を上げて、ゆっくりと立ち上がる。着物の袂をそっと整えながら、足袋の足を進めさせた。
「にゃお」
 格子の陰先から光に照らされて黒猫が現れ、そのしなやかな肢体が格子にふれて見上げてくる。
「お前、文はあずかったの?」
 宵(よい)は戸から入ってきた猫を抱き上げ、首輪の鈴を確かめた。黒猫が花柄の着物を彩る。ごろごろと鳴いた。
 黒猫は長屋で生きる宵の猫であり、庄屋の倅である太吉(たいきち)との橋渡しでもあった。彼女はしっかと昼の明かりで文を読む。その瞳は横顔が真剣そのものに光っていた。
 外では井戸の水を汲む女たちの世間話が聞こえる。ざぶざぶという音が鳴り洗濯物を始めたようで、これから芋を干すとか、灰屋が明後日来て灰を買い取りに来るから用立ての間にうちの灰もよろしくねと頼んでいたり、普段通りのものだった。
 それでも、宵の耳にはそれらさえも軽やかな琴線の音色として変わる程に心躍っていた。明日、太吉様の姉様が河越えをするということで、両親も留守にして庄屋の番頭に一日を任せるというのだ。
 宵は目を綴じ微笑むと、日の射す野外を見た。主婦達が桶やたらいを持って会話をしながら歩いていく。陰が流れて行き彼女の頭もそちらに戻ろうとする。一人が振り返り、蔀戸から宵に笑顔で話しかけた。
「お宵ちゃん。あんたんところも、灰を出しておおきよ」
「あ、はい」
 昼餉の支度をし終えていた宵は灰の桶を奥から持って来ておいた。灰は農作物の肥料に変わるのだ。
「今日は顔色が芳ばしいじゃないの。何かいいことあったの? 猫は知ってるかねえ」
「意地悪ね、もう」
 宵は頬を染め微笑んだ。

 太吉が庄屋屋敷を歩いていくと、柳の横を通って飴屋に入った。
 宵はここの塩飴や大根飴が好物で、土産に持っていくと悦んで彼を見るのだ。
「若旦那。いらっしゃい」
「ああ」
 飴屋の親父が笑顔で出迎えた。神社へ行ってその社の裏手の猫しか通らないようなところで彼等は夜まで話し合いながら飴をなめるのだ。
「菊飴?」
 台に敷かれた季節の和紙の上に赤漆の皿が置かれていて、その上に何種類かの飴がきれいに山積みにされているのだが、それらに菊の飴を見つけた。
「ええ。若旦那。割りに、これは品のいい味にしあがりましたよ」
「ちょっと、いただこうかな」
 味見のために飴屋の親父は用意した。彼は口に含み、確かにほんのりとする菊のあの芯の通った味に頷いた。
「これも今回はいただくよ」
「まいどあり」
 太吉は飴用の竹細工の器を出して、親父はそれに詰めてくれるのだ。量りに乗せていき、器に入れてふたをした。銭を出してから顔を上げた。
「隣の町に行くんですってね。みちこさん」
「ああ。三日ばかね。柘植の櫛を見に行くんだ。じゃあ、また来るよ」
「ええ。ありがとうございます」
 飴屋を出て鼻歌まじりに歩いていった。

 いつもの神社の裏側。
 宵は緑のもみじを見上げながら折り重なるその緑と濃い緑、それともみじ柄の陰と光に目を細めていた。彼女自身の白い頬にもその美しい陰が降りている。
 その先に、トキの群れが空を飛んでいた。美しくてしばらくぼうっと見上げていた。
 鳴き声にはっとして、飛び石が向こうの木々の間に見えて、その先には境内の三毛猫が二匹毛づくろいしていた。その先にはこの神社で育てている菊の花が鉢で育てられていて、どれもが趣のある妖怪の目に見える。
「宵ちゃん」
 振り返り、岩場に座っていた彼女は立ち上がった。
「太吉様」
 頬を染めあって彼等は歩いていった。窓の無いこの神社背後の林はまだ蝉の鳴き声が残る。夕暮れには日暮がしんみりと啼くのだ。美しくも別れのときを感じさせるので、いつでもその声を聴くと宵は太吉様の御大切さを知るのだった。
 いつでもおしゃべりをしていると時間は早く、でも時に二人とも黙るときはその時間さえも和やかで、とても尊いのだ。
 菊の飴をなめながら、手の平にためる飴を見て口に運び歩いている宵の横顔を見て太吉は口ごもった。
「いつまでも……」
「……ん?」
 宵は微笑んで太吉を見上げ、いきなりの事に仰天して宵は太吉の肩を見た。想像以上に逞しい肩を。
「宵ちゃん。僕はね、姉さんにだけは打ち明けてしまったんだよ」
「え」
 宵は開放されて太吉を見上げた。
「今から行って、菊の櫛も用立てしてもらうよう行ってくる」
「え、太吉様」
 彼は疾風のように走っていき、そして彼女はひとり残った。遠くに、菊が見える。三毛猫たちが、鼻をひくつかせて菊の葉に彩られている……。

 半月して、いつもの神社の裏手にある林の端にある林道を二人は歩いていた。
 時季によって菊の飴の味は少しだけ変わった。それもまた良かった。太吉はあれから折に触れて二人の仲のことを何か言うでもなく、姉に相談している話のことも宵は聞くことはなかった。
「宵ちゃん」
 林道で太吉は宵をとめ、彼女は見上げた。
 すっと、櫛が彼女の髪を彩った。
「似合うよ……」
 菊の透かし彫刻がされた柘植櫛は、まだ新しい椿油の薫りがした。
「太吉さん」
 彼の胸部に寄せ、彼女は涙を流した。
 叶わない。それでも愛している。
「宵」
 しっかと抱き寄せ、ほろほろと泣いた。
「叶わないとわかっています。かなしくって、かなしくって」
「ああ、ああ。分かっているよ」
 接吻。それははじめてのものだった。菊の品のある薫りがする。凛とした宵の姿に似て。
 柘植の櫛が、地面にこぼれた。

 黒猫が太吉のところへやってきた。
 何気ない顔をした猫は床の間に入ると餌をもらってごろごろ鳴いた。
 文をつけている。気がはやってそれを読む。宵はこのために文字の読み書きを必死で習い、今では難しい図の計算にすら興味を持って時々二人で盛り上がることもあった。解ければ二人微笑み顔を見合わせ、団子を食べてはいきなりの脅かしに噴出して鴉に持ってかれたり、その驚いた声にキジが潅木からばさばさと飛んでいったり……。
「………」
 太吉はその文字に、目を見開き何度も見返した。黒猫が畳を歩いていき、姉の手毬を転がし遊んでいる。
 駆け落ち。
 その文字に、頭が回転する。思った以上に冷静に、彼はその手順をすぐに頭にめぐらせていた。舟の手配や、落ち合う場所、姉に手伝ってもらいそれを行いやすくすることなど。
 彼等は十七の年齢だ。太吉も手に職はあるし、やっていける……。
 脈が打ちながら太吉は何度も固唾を呑み、目を開いた。引き出しから和紙と筆を出してしたためる。
 猫の首輪にしのばせ、鈴がごろんと鳴った。
「主人のところへ行くんだよ」
 小さな身を彼は見送り、ずっと障子のさきに佇んでいた。

 宵は出来る限りの長屋のなかのものを売り、すでに金銭にしていた。髪もびんつけにしているわけにもいかずに、先のほうでひとつにまとめて手拭いて顔を隠して長屋を夜に出る。
 月は冴えて、それでいて井戸から汲んだたらいの水まできれいに光らせている。ござの上に置かれた干された大根や、隣から聴こえる向こうで長い髪を米糠の桶で洗っている女の鼻歌。猫の鳴き声……。
 全て売り払っても、柘植櫛だけは手元に残した。黒髪を月光が照らす。意を決した宵のまなざしは強かった。
 黒猫が木の上から降りてきて、宵の足に絡まった。
「さ、あんたも行こう」
 抱き上げ、そそと歩き出した彼女を長屋の陰と月の明かりが交互に照らした。菜種油の灯りが各戸から漏れていたり、夕餉の湯気が漏れたり……。
 彼女はいそいそと進んでいった。
 橋の下。
「太吉さん」
 猫を抱きかかえた宵が暗がりに入った。すぐに太吉は引き寄せ、舟に促す。柳を撫でながら舟は進み、一言も話さなかった。
 これから、知らない地で二人は生きていく。菊の鉢が舟にはあった。月光が水面を射して、菊の陰と宵の美しさが静けさの流れに時を紡いだ……。
「飴……食べよう」
 宵が静かに言い、彼自身も庶民の装いで手拭いを被り、二人とも同じ菊のそそとした雰囲気を纏っていた。
「ああ」
 これだけは残しておいた飴の器を、ふろしきから出してそっとあけ、二人で食べた。
 舟は二人を乗せて、どこまでも流れて行く……。静かに、波音だけをさせながら……。

2014.03.08

草木の薫り

 日本庭園。夜が闇を呼び込み、それでも木立を見上げれば星が微かに瞬き月が挙がっていることが確認できる。
 綴れ織の端を持って立ち尽くし、そっと哀しげに目を伏せた。
 月浪京太(つきなみ きょうた)は縦縞で織られた浴衣の袷から首に掛かる紐を出し蜻蛉硝子を月光に照らす。それは彼の青白い頬と黒い瞳に光の影を落とす。
「京太」
 彼と同じ華道の門下生である掛元一(かけもと はじめ)はこれから花火大会に行くというのに今年も暗い背を見せる京太の背後に来た。
「毎年、誰を待ちわびている」
 この夏の時期になると友はどこか影のある眼差しで庭を見つめることが増える。花と心を通わせているときでさえふとした時には障子の先に光る庭をただただ横顔は見つめているのだ。
 京太は一の顔を見るとはにかみ、首を横に振った。
「行こう」
 蜻蛉玉をまた浴衣に入れては草履の踵を返した。門下生達の間では蜻蛉玉の女が以前彼にはおり、その恋が生と死で彼らを分かつ過去でもあったのではないかと言っているが、元来から大人しい性格の京太に真相を聞けたことは無い。
 時に花火を見上げながら涙を流すこともあるのだ。目も頬もきらきらと光らせながら。そんな彼をこっそり見ると女達はこぞってほんのりと頬を染めて恥ずかしげにうつむき、恋の始まりでも迎える乙女たちは彼の手の平に握られる蜻蛉玉の漏れる紐を見ては顔を見合わせ、暗黙の了解で諦めざるを得ないのだと言い聞かせるかのような空気が花火にはしゃぎ騒ぐ群衆の一角に流れるのだった。
 垣根を越えると、門下生達がすでに集まり彼ら二人を待っていた。
 百合子はこの流派の師匠の娘であり、京太とは学院が同じ間柄だ。京太自身の家柄は西洋の紅茶を卸売りしている。夫婦は欧羅巴へよく出向き良質の薫り高い紅茶葉を仕入れてきた。なので店は店員と雇いの店長に任せ、ほとんどを仏蘭西や英吉利などで過ごしている。以前、百合子は京太のご両親がいれば彼はこんなに何かに思い悩むことはなかったのではないか、問題は解決されたのでないかとそっと言ったことがあった。季節の花を生けながら、畳の新しい薫りにも囲まれ、春の日差しはゆるく個室を流れて行き、様々な小鳥達の囀りが響き渡っていた。これから来る夏の季節を前に言っていた。
 彼女は普段は楚々として一歩下がり歩く性格の女性だが、時に一つ年下の京太を心配する顔を向けたりする。特に恋仲でもなく百合子自身には仲の良い許婚がいるので弟の様な感覚なのだろう。
 百合子は日傘を差し他の女達と歩いていき、稀に二人、三人が京太を肩越しに見た。
 一は繊細な風の京太とは違い、剣道もしていてよく日に焼けしっかりした体格をしている。どちらかというと女達にからかわれる事で浮かれる性格なのでそれこそ恋愛がどうのという青年でも無い。ただ、一自身には佐伯亮子(さえき りょうこ)という恋を寄せる相手がおり、亮子自身は恋愛になどなんの頓着もなく男共も時に引っ張っていくような美丈夫な女だった。その亮子は白と黒の太い縦縞の浴衣に桔梗の花柄を散らせては颯爽とその先を進んでは時々浴衣の裾から真っ白く細いかかとをにゅっと覗かせて進んでいく態が美しい。艶を受ける黒髪を頭の天辺で結い上げ揺らし、紫の日傘にあのうっとりするような項は隠されていた。時々彼女の愛らしい笑い声が聞こえると、頬を染めて彼は見てしまう。
「百合子」
 青年の整った声に振り返ると、垣根の角には毬紫陽花の先に百合子の許婚である陣場条(じんば じょう)が優しげな微笑みで佇んでいた。いつも彼は彼女を迎えに来るのだ。
「条さん」
 一と京太たちも彼に挨拶をし、女たちは微笑んで二人を交互に見た。
「素敵ね陣場さん。本当、浴衣の二人はいつでもお似合い」
「いつもの着物のときとは違った素敵さよ」
 女たちが口々に言い、百合子も頬を染めた。一番先頭を歩いていた亮子が立ち戻って来て京太の横に来たので一はがっかりしてその亮子の横に来る。
「条君、今年もエスコートお願いね。京太のことはあたしが面倒見るから」
「?」
 京太が亮子を見て、彼自身は一の気持ちを知っているので口を閉ざして前を向いた。
「昨年みたいにいきなり姿を晦まさないので、安心して下さい。みなで楽しみましょう」
 京太がいつもの敬語口調で亮子に言い、颯爽と歩いていった。一は亮子が肩をすくめてやれやれ言うので恋愛的な好意よりも面倒を見てやらなければという気持ちが先立ってのことらしいと思って安心した。
 京太は横に来た一の横顔を見てささやいた。
「今年は告白は?」
 花火を見上げながら愛の告白、というのは以前から言っていた事だった。
「お前が余計な心配事の種にならなければな」
「僕のことは気にするな」
「こいつは」
 あきれ返って一は背中をどつき歩いていった。基礎体力の整った一にどつかれると京太はぐらついて下駄を鳴らし、蛙の声が響き渡る田んぼ路に差し掛かるところでふと顔をよろけた足元からあげて水田を見た。
「………」
 青々と風に気持ち良くそよぐ緑の稲。囲う木々も緑が蒸せて、どこまでも爽やかだ。稲の間から覗く鏡の水面は山々や空を蒼く映し、そして美しく純白のサギが羽ばたいては田んぼに降り立つ姿も映る。
 みっちゃん。
 彼女は14歳の頃、まだ何も世間を知らない箱入り娘だった。女学院にも通わずに田舎で大切に両親から育てられていた。毎年七日間、夏休みを京太少年はその田舎で過ごしてきた。みっちゃんと出逢ったのは彼が12歳の時、垣根から零れる名も分からない花に手を伸ばそうとしていたからだ。そのお宅は広い庭が見事で、いつでも恐いおじさんがいる記憶しか無かった。勝手に庭に入ると怒鳴られたこともあった。それがまさかみっちゃんがいたからだとは知らずにいた。
 身体が丈夫ではなく心も閉ざし勝ちだったみっちゃんは、白い大きな犬だけが友達だった。両親とも会話が出来ないぐらいに心を閉ざしていた。その理由は両親も知らずに原因も不明だった。あまりに声を出さずにそれが小さな頃からなので喋れないのではとお医者に連れて行ったが声は出るし喋ることはできた。なのでとても静かな庭で、その日はおじさんもいないらしかった。
 京太は綺麗な花をもっと近くで見たくて垣根に近寄り、そしてその薫りを嗅ぎたくなった。そして竹の向こうに初めて見えたのが巨大な白い犬だった。そしてその向こうに同じ程白い肌の女の子が座っていた。手には毬を持ち、犬が取ってくるように少し近くへほいと投げていた。犬は大きいのですぐに取ってくるが、少女は変わらず近くにしか投げなかった。花から少女に気を取られて庭に自然に足が進んでいた。
 少女は驚いて少年を見て、犬に腕を回した。
『誰……?』
『僕は京太。夏休みだから村に遊びに来たんだ。君、この家の子?』
『ええ……』
 小さな声で言い、名前を言った。
『父と母は私をみっちゃんって呼ぶわ』
『みっちゃん、大きな犬飼ってるんだね』
『友達なの。名前は白よ』
 京太は恐いおじさんがいない事を見回してから頷いた。
『僕、お菓子持ってるよ。みっちゃんも一緒に食べよう』
 京太はニコニコして進んで自分より背の高いみっちゃんを見上げた。遠くから見たら背が低く見えたが、どうやら年上らしいと声を聴いても分かった。京太は正直心臓が落ち着かなかった。まるで硝子の様にきらきらと光るみっちゃんの瞳は不安げなのにとても綺麗で、そして小さな声はどこまでも近付きたくなるものだった。
『ね。後で川に行かない? メダカがいっぱい泳いでて可愛いよ』
『えっと……私、外に出たことが無いの。お医者様のお世話になったときはあまり覚えが無くて』
 彼女は一気に落ち込んでしまい、白が頬をなめた。
『身体が弱いの?』
 みっちゃんは頷き、京太は相槌を打って横に座った。そしてアラレ菓子の入った袋の紐を開いた。
『これ、食べよう』
『うん。おいしそう。ありがとう』
 二人は黙々と食べ始め、庭の大きな池やその上を滑っていくツバメを見ていた。青い空は白い雲が流れ、そよ風が夏の音を運ぶ。豆腐売りや風鈴売り、蝉時雨を。
『今日は豆腐屋さんが早いね。いつも夕食の数時間前なのに』
『うん』
 みっちゃんは頷き、そして小さな声で言った。
『ポン菓子のおじさんの声がすると、いつも村の子達が大勢走ってはしゃぐ声が壁の向こうから聞こえるの。私ね、大きな音がするごとにいつも花火が見たいって思うわ』
『手持ち花火?』
『いいえ。鶏卵売りのお兄さんが毎年教えてくれるの。とっても大きな、線香花火よりも本当に大きな花火があって、それを大空に挙げるんだよって』
『………』
 うれしげな横顔を見て京太は気の毒に感じてしまい、みっちゃんの視野に入った。
『一緒に観にいこう?』
 彼女は驚いた顔で京太を見た。
『山を一つと野原を越えた所にある街から来たんだ。そこはそのお兄さんが言う打ち上げ花火が挙がるんだよ』
『でも、父が許してくれないわ。母も心配して気を失ってしまう』
 京太はみっちゃんの言う病院という言葉が気になった。覚えていないというのも。気絶してしまうのだろうか。貧血気味なのかもしれない。でもそこまでは聴けなかった。
 蝉がみんみんと啼き、陽が天辺に昇り始める。京太は汗を腕でぬぐうと思い切り立ち上がった。
『今日の夜、待ってて!』
 彼はいきなり走って行き、みっちゃんは驚いてその背を見た。緑が蒸せる庭にどんどん小さくなっていく背を。
『京太君』
 京太は父親にお願いして隣の村にある花火屋に連れて行ってもらい、そこで花火セットを買ってもらった。来月のおこずかいは半分という約束で。母親はせせらぎで冷やして来たきゅうりをざるに入れて帰ってきた時で昼のご飯つくりに伯母たちと取り組んでいてなにやら京太がせっせとしている事には気づかなかった。
 夕暮れ時、京太は花火を腕に抱えて走って行った。
『………』
 田んぼや竹林を越えて川を渡り、みっちゃんの家に来る。
 垣根の先には明かりがついていた。みっちゃんと、それに彼女の父親と母親がいるのだろう。京太はみっちゃんが夕涼みで彼の事を待っていてくれていることを信じて、離れたところに花火をセットしはじめた。
 夜風が彼の短く刈り上げた項をさらっていく。時々蝙蝠が飛んでいく。夕陽は刻々と色を黒に染め上げていく。
 セットし終えて京太は息をついて立ち上がって微笑んだ。
『よし』
 マッチを手にすると、それを静かに擦った。
 そっと点火していく。
 京太は花火から離れて行き、そして見守った。
ジジジ……、シュー、パンッ
 その時、みっちゃんは音に顔を上げて瞬きをした。
パンパンッ
シュシュ、シューッ
 夜空と、それに庭園の池に鏡みたいに映る、きらきらと金色や色々な色の火の花が咲いては立て続けに散っては咲き、そしてバチバチという銀色の火の柱が立ち上って辺りを明るくしたのだ。
『まあ、綺麗だわ』
 みっちゃんは驚きのままただただ近い夜空を様々な仕掛け花火が彩るのを佇み見続けた。
『何事だ!!』
 障子がガラガラと開き、父親が下駄をはき凄い勢いで灯篭が照らす庭を走って行った。花火はなおもその灯篭のぼんやりした蝋燭の灯りと共に夜空と鮮明に池に映る仕掛け花火を打ち上げていく。
『とても綺麗……』
 垣根の向こうで声が響き渡った。
『こらお前! 何をやっている!!』
『わ、ご、ごめんなさい!! いたっ!!』
 どうやら他のひやかしにたまに入ってくる男子達がされるように父親に拳骨をされたらしく、その声でそれが京太君なのだと分かった。
『花火……』
 みっちゃんは草履を引っ掛け走っていこうとしたが、胸を押さえて膝を付いた。眩暈がして目を閉じ、息がしずらくなるまえに落ち着いて肩の力を抜いた。
 真っ青で顔を上げると、すでに花火は挙がらなく静かな夜が流れていた。両親と線香花火をしたときの火薬の薫りが、庭の草木の薫りに混じってやってくる。京太君の優しさがそっとやってきたみたいに。
 みっちゃんは胸を押さえながら顔を白く微笑み、しばらくうごけずにその場にただただ座り込んでいた。
 京太はバケツに全て急いで花火の片づけをして拳骨をされた頭をさすりながら走って帰っていった。それでも顔は微笑んでいた。
 みっちゃんの父親が急いで庭に帰ってくると、妻が縁側に静かに座る娘の横に座って肩を抱いてあげていた。妻は夫を見てから彼はずんずんと進んでいた速度をゆるめた。
『どうか怒らないであげて。あの子、私に花火を見せてくれたの。悪戯で庭に何かしようとしてきたんじゃないわ』
 みっちゃんは真っ白い顔で言い、すぐに言った。
『とても綺麗だったの。だから、お願い』
 父親は口を噤んで唸り、腕を組んで息をついた。
 庭は再び夏虫が声を響かせ始める……。彼等は庭を見渡し、ただただ聞き入った。宵のひと時を、時に珍客が来てもいいのかもしれない。
 京太は翌日はあの恐いおじさんが見張っていたのであきらめて帰って行った。
 そしてその翌日は彼が村を離れなければ鳴らない日だった。
 彼は垣根の前に来て、そして新しく花を開かせたあの花房を見た。背を伸ばせば届くぐらいの花の薫り。
『………』
 京太は意を決して垣根の先を見た。
『みっちゃん』
 みっちゃんは白といた。日に照らされて白の頭を撫でていた。白自身は草木の薫りを充分に嗅ぎ腹や背を撫で付けている。
 京太は庭に入って行った。
『京太君』
『こんにちは』
 彼女は立ち上がり、微笑んで彼を見た。
『この前はありがとう。花火、とっても綺麗だったわ。まさか私のために大変だったでしょうに』
『僕も楽しかったよ』
 京太は頬を染めて言い、照れくさく微笑んだ。
『あ、ちょっと待ってて……』
 みっちゃんが小走りで縁側から屋内へ走って行き、慌てたので胸を押さえて膝をついた。
『みっちゃん?!』
 京太は驚いて駆けつけ、みっちゃんの横に膝を付いた。彼女からはとても綺麗な草木の薫りがした。まるで庭から生まれたみたいな。
『大丈夫……?』
 みっちゃんは頷き続け、顔を上げて微笑んだ。
『ごめんね。大丈夫よ』
 白いままゆっくり立ち上がり、京太は付き添った。
『京太君に私の宝物、あげたいの……』
 箪笥から綺麗なハンカチに包まれたものを小さな手におさめ、彼に微笑んでそれを開いた。
『蜻蛉玉……?』
『うん。これ、とても綺麗でしょ? お天道様に照らすととっても綺麗なの』
『申し訳なくてもらえないよ、僕』
『いいの。受け取ってほしいの』
 みっちゃんは京太の手に硝子玉を持たせ、にっこり微笑んだ。
『本当にありがとう。花火、とてもうれしかったの』
 京太は巨大な花火の音でハッとして顔を上げた。
「たまやー!」
「たーまやー!」
 一達が花火を見上げてはしゃいでいた。
「京太! 一緒に言おうぜ! たーまやー!」
 その花火は色とりどりの花を咲かせ、まるで夜空に活けられた花の様だった。それは、みっちゃんが活けたかの様にも思えた。幾重にも連なる大玉の花火たちが天に渦巻き、輝きと共に皆を笑顔にする。
 京太は涙を流していた。今度はその美しさに微笑み涙を流していた。
 草原の草のむせ返る薫りに包まれて、花火の煙が乗せてくる火薬の懐かしい薫り。みっちゃんの庭から蒸せた草木の夏らしい薫りと、自分を取り巻いたあのひと夏の仕掛け花火の薫り。
 みっちゃん。
「綺麗だ……」
 翌年、変わらない夏の日に彼は村にやってきた。
 しかし、彼らはどこかもっと涼しい避暑地を求めて引っ越してしまっていた。行き先も村人たちに告げないまま、引っ越してしまったのだ。
 あれは確かに恋だった。初めて恋した瞬間だった。彼は蜻蛉玉を握り締め、ただただ夏の薫りの蒸せる放置された庭に佇んでいた。少しだけ伸びた背と、伸びた髪と、従兄弟のおさがりの服と。蝉が時雨を降らせ、彼を優しくつつんだ。それがみっちゃんの包まれてきた草木の薫りと美しい音。垣根の花は伸びたいほどに伸び、既に京太の背も届かないほどに伸びていた。
 夕涼みになっても、ヒグラシの啼く宵になってもじっとじっと、みっちゃんの庭で夜空を見続けた。心に垣根の外から見上げた同じ仕掛け花火を思いながら。あの時、確かにみっちゃんと自分は同じものを見た……。

2014.07.21

夜桜の薫り

 星を見ようと思い、私は夜路を歩いたのでした。
 夜気は優しくこの身を包む込み、心を透明に和ませる。静かな夜ですから、今にオカリナや草笛でも吹く小人でも現われやしないかと思うほど。
 ぼんやりと、闇をあちらの方で灯りが照らしております。周りの樹木の存在をそこだけうっすらと色を帯びて現している
る。暗がりに佇む並木はシルエットとしてそこには在り、少しの風に揺れている。
 街路灯が灯る場所までやってくると、私は既に甘い薫りに包まれておりました。どこまでも女性らしくて乙女の薫りは夢を乗せてやってくる花弁の世界みたいで、素敵でした。
 夜桜は二種類……。うっすらと色付いたソメイヨシノは上品な薫り。そして、白い種類オオシマザクラはとっても甘い薫りをさせる。時季は少し違いますのよ。白い方が先に咲いて、その白い並木を通ればとても柔らかな薫りが降ってきて通り過ぎる。まるで少女の様な薫りがする。ソメイヨシノはどこか大人めいた芯のある薫りをさせて威厳があります。
 今の季節は、白い方が花弁と若い緑の葉を交互に顔を覗かせる時季で、ソメイヨシノが満開に花開いていまして、夜の今の時刻だって、その両方の薫りが宵の気候に広がって混ざり合って鼻腔を満たして体を包む。
 しばらく、私はその場から夜桜の並木に佇んで、そして見上げていました。花弁は本当に細やかに木枝を包んで繊細に顔を八方へ向ける花鞠の様で、風が吹けばさらさらと闇に花弁を舞わせ流れて行きます。
「………」
 まるで、それは恋をする人の心にも思えまして、流れ行く愛情みたい。虚ろになることは無いけれど、薫りが寂しさなんぞは和らげてくれて、そして夜路に寄り合ってたまっている花弁を見ると、まだ若い色の乙女が地面にそっと頬を寄せているみたいで、紫の着物の振袖も鼻緒の可愛い草履の足も降り積もる花弁が飾っていくみたい。それが、花の精に見えて。
 艶のある白い横縞の入る堂々たる幹の足元にゆっくりと眠る少女の様で。彼女は今眠るうちにも、どんなにか幻想的な夢を見ているのでしょうか。もしかしたら、秘密の月と一緒に扇子を振り舞っているのかもしれません。光臨に包まれて、眠って夢見る蝶と共に。その微笑みが見えるかのよう。
 私はふっと目を覚まし、夜を見た。
 夜桜の影の先に、星が光っておりました。
 星にも薫りがあるのだろうかと錯覚するぐらいに、星と薫りを愉しみました。

 昼時、小川にくるくる流れる花弁を見つめていると、小さな野鳥が囀りながら彩り飛んでいく。透明な水面は細かく光って鮮やかな苔をも光らせ、そしてその緑を花弁が飾っています。
 春の小鳥が小川で首をかしげて水面をしていて、そしてチュチュッと鳴いて飛んでいきます。
 窓枠に着物の腕をかけて、少しの間、お茶を愉しみながら春爛漫を満喫しています。土手の上に枝垂れる桜は今にも花を乗せた枝が水面につきそうで、咲き乱れる様子も映しています。
 近くの和洋菓子店の美味しいチーズケーキはお茶もよく合って、ここまで陽気に吹かれてくる花の薫りも合いまると何ともいえない幸福感に満たされます。
 ここから見えるのは見事な丸い八重の花をつける枝垂れ桜で、白に近い淡い色が可愛らしい。細い枝に美顔を並べて咲いている。チーズケーキの横にも桜の花が添えられております。それは、その町屋風の素敵なお店の横に咲いた紅色と白色どちらの色もつける枝垂れ桜のもので、その横には小川の土手に咲く色と同じ淡い桜色の枝垂れ桜が咲いています。
 ついつい、いつでも通りすがる毎にそのお花の薫りを愉しむんですけれど、そのお店の丸い顔の猫がいつでも幹の向こうに座ってこちらを見ているんです。三匹猫はいて、あっちにいったりこっちにいったりと転がったり跳ねたりをして、光のなかで春を遊んでいて可愛らしい。
 小川にも猫が二匹いるんですよ。若い猫みたいで、お店の猫のようにがっしりとはしていないのですけれど、その代わりとても美形でしなやかな猫達で、いつでも体を寄せ合ってごろごろしている。小鳥が現れると機敏に反応しているんですけれど、目を光らせています。今は木陰で葉をつけて黄色い花が枝垂れる下の草地でそろってお昼ねしているのが見えます。
「おや。それは藤伝のケーキだね。私にもあるのかい」
「まあ、先生」
 私は慌てて膝を向け、彼を見上げました。彼は私の料理の先生で、日本料亭でも腕をふるって来たお方。私の恋するお方です。けれど……彼には素敵な恋のお方がいるのでまさかの心内など明かせやしない。それがどうもせつなくって、せつなくって……。
 まさか本日いらっしゃるだなんて。夜桜と星にかけた願いが叶ったかしら。
「私、五個も六個もいただくものだから」
 彼の前ではどうしようもない事を言ってしまう私ですけれど、彼はいつでも受け止めてくださって、「どれどれ、それじゃあ、狂子さんのケーキをいただいてしまおうかな」と全て平らげていく勢いでお茶目に笑うんです。
「深子さんにも、持って行ってさしあげて……」
 それを小さなお櫃に入れて、花も一枝。
「………」
 心を偽る指先が花を添えたとき、幾重にも重なる花弁のように心もめくりめく変わっていけば良いのにと思います。
「昨夜、夜桜を愉しみましてね。薫りも美しくって、風に舞う花弁の奇麗だったこと」
 蓋を閉じて、春色と蓬色の風呂敷に包んで顔を上げました。彼は窓から見えるあの桜を見ておりました。光り輝くお外は四季の美を誇っており、彼の着物の肩に気づいて目を向けますと、花弁が乗っていてくすりと微笑みました。
 夜の舞う桜が恋を思う心のように彷徨い舞っていくというのなら、彼の肩に届いた花弁は夜桜を見上げた私の思いが届いたのでしょうかと、勝手に可笑しげに思ってしまいます。
 彼は明るい日差しに舞い降る花弁からこちらを見ました。
「どうもありがとう。深子も宵の深まった頃、一人外へ出掛けてってね。貴女と同様に夜桜でも楽しみにいったらしい。少し歩くとあの辺りは苑があるだろう。柳と八重桜が見事な」
「ええ。椿と池もあるところでございますでしょ。随分と立派な苑で、また揃って御茶屋で楽しみながら眺めたく思います」
「近い日には」
 箱をお渡しして、彼に尋ねました。
「本日はどうなさって」
 彼はお茶を傾け、共にチーズケーキに食指を進めながら頷きました。
「実は、私の新しい生徒さんに狂子さんと同じ年齢の子がいてね。もしあなたがよろしければ、紹介をしようと思う」
「ま! 先生ったら!」
 またでございます。露ともこちらの気持ちも知らないもんだから、いつでも先生は、「知り合いの画家で若い子がいてね、狂子さんと感性が同調しやしないかと彼を紹介したい」だとか、「声楽を習う学生さんが素敵なんだよ。どうだい、付き合ってみては」とか、「美術館で素晴らしい話を聞かせてくれた方がいたよ。今度紹介したい」だなんておっしゃって、きっと私の気持ちを察してるんではないかしらって思ってしまう。
「じゃあ、お会いして見ましょうかしら」
 毎回お受けはするものの、やっぱり心にわだかまりがあって話している時だってちらちらと日差しの先には彼の姿が幻で浮かんでしまうのですよ。
 彼は小一時間もすると帰ってしまって、私は日の傾き始めた窓の外からの景色を眺めました。
 先生は桜の枝垂れる小川の並木を歩いていかれて、その羽織の肩にまた花弁が流れて行きます。
 窓辺にいたときも、花の薫りに満たされて彼には雅な花がよく似合う。思いながら三個目のチーズケーキを頬張ってうっとりしておりました。
「………」
 彼があの街路灯のある向こうの並木へ差し掛かったときの事です。
 ソメイヨシノの樹齢を重ねた見事な木と、それに白い花弁と緑の葉をつけるオオシマザクラの並木の方へ向かわれた背中に白と薄桜色の花弁が舞って行き、信じられないもう一つの背中を見ました。
 夜桜に見たあの花弁の床に眠る精霊です。紫の着物の狭い背をして、江戸傘をくるくる回して光と影を滑らせている……。
 うっすらとこちらを見ると、彼女は遠くから私に微笑み遥か向こうからふうっと掌の花びらを吹きこちらへあの甘く夢のような薫りを届けて幻覚か、なんなのか、私を花弁にそっと包ませる。
 先生の背はチーズケーキの入ったお櫃の風呂敷を持ったまま歩いていくと、ふとこちらに薫りと花弁が届いたときに立ち止まってソメイヨシノを見上げていて、悪戯に微笑む精霊には気づいて無いみたい。くるくると江戸傘が彩って、ころころと笑っているみたい。
 私は急いで草履をはいて駆け出しました。
 光る小川の横を走っていき、小鳥たちが飛んで行き、雛罌粟(ひなげし)が路の端で揺れていて、つくしが揺れている。そして小川のメダカは光りと苔と藻の先に泳いでいる。
「どうしたんだい。そんなに慌てて」
 驚いた先生が私を見ては、舞い降る桜の花弁が彼を木漏れ日と共に包みます。彼の背後にも並木は続いてうららかで、なのに、彼ときたら私にチーズケーキの箱を差し出すんです。
「もっと食べたいならほら、ふふ。どうぞ」
「ま! 先生ったら」
 頬を明らめてから彼は冗談めいて微笑んでから見渡しました。
 淡い白水色の空は鏡のようで、でも本当淡くって、不思議なほどに見上げ続けてしまいます。オオシマザクラの白い花弁がよく映えて。
 精霊はまるで私の可笑しな動作でも見ているようにくすくす微笑み、昨夜の寂しげな花弁が掠めていった眠る横顔は掠めずに、きっと、私の心を移していたのだと思い当たります。
「この先までお送りしようと思って」
 照れながら言い、そして歩き出しました。
 きっと、この淡い恋心は花弁の舞う様に舞っては、次の季節を待つこと無く、諦めざるをえないのだと思うのです。
 彼の笑顔を見ることが出来るのならば、それはそれでかまわないのです……こうやっている時間が、これからも続くのですから……。
 幻のような精霊は、そんな私の心さえも見透かすのか、どこか大人めいて私を見つめてきては、色付く風に紛れて包まれていきます。
 そして、私はこの陽気を踊る蝶の様にふらふらと彼の横をついて歩いていったのでした。

 帰り路は夕暮れに差し掛かり、宵の陽は色を増して眩い瑪瑙の色。
 春の夕時を様々な花を透かしてグラデーションに優しく空を染めています。どこまでも優しげで、見惚れてしまうのです。
「………」
 枝垂れる並木の向こうに沈んでいく夕日。町屋の品格ある瓦を照らして。
 涙が流れていました。
 ただただ、涙が流れていました……。風の凪いだ夕暮れ時の花弁は舞うことは無く、心はただ一人、ここに留まったまま……。
 宵の風が癒してくれましょうか。精霊はまた笑い飛ばしてくれるでしょうか……。
 強い光りを放って沈んでいく。シルエットになっていく花の毬達。背後を走っていく自転車のちゃりちゃりする音。猫が愛を探し求める歌声。どこかしら、時が止まってるのは、私だけの気がして……。
 くっきりと頬を夕色と透明な花毬の陰で照らされたまま、光が滑っていく。心を、恋を、心を。足元に渦巻く花弁と、落ちた涙を。

2014.04.14

金木犀の薫り

 その家屋は金木犀の木に囲まれていた。
 漆喰の塀がぐるりと敷地を隔て、木々が並び植えられている。
 明治初期に建てられたその和洋折衷の建物は、小さな日本庭園の池にも金木犀の花が反射して映っている。
 むせ返るほどの薫りに包まれながら、縁側で朦朧と過ごしていると暁子(あきこ)はいつでも思った。まぶたを透かす記憶の陰を追うこと。薫りの渦巻くさきに見えもしないけれど腕を差し伸べるのだ。
 軒先から吊るされる青銅の行灯の硝子に、奥の和室が映っていて、先ほどまで暁子の弾いていた琵琶が横たえられ、床の間には生け花がなされていた。その薫りを発さない生花でさえも金木犀が薫るのではと錯覚するほどに満たされながら間口を開け放ち眠ることが好きだった。
 襖を開ければ開かれた和室の奥に洋間が見え、今は母がコーヒーを豆からミルでひきいれている時間。色とりどりの色ガラスが上部にはまった窓からその空間を照らして明かりをとり、その窓の先でさえも金木犀が見える。そして、しばらくすれば洋菓子と共に母が暁子の肩を揺り起こしてコーヒーを置いていく。
 暁子はまともな生活を送ることはなかった。一日じっとこの庭園が見える場所でぼうっとしていた。白く細い腕がモダンな柄の和装から見え、裸足に履いた黒塗りの下駄をからから揺らしている。心はいつでも薫りに包まれて探していた。相手の事を。ふらふらと腕を差し伸べて。
 彼女の母はまずは義理の父が座る擦り切れた色合いのグリーンビロードのソファセットに座るローテーブルに菓子とコーヒーを置き、彼は厳しいまなざしで小さく折りたたんだ新聞を読んだまま手を伸ばした。一口飲めば顔立ちが穏やかになる。
 お盆に暁子の分も乗せると、静かに歩いていく。
 畳を歩いていき、銀箔の貼られた襖を引くと、金木犀の薫りがわっと彼女を包み襲い掛かってくる。その先に娘の背があった。丁寧に櫛の通された黒髪が背中に流れ、娘のコレクションでもある個性的な簪がささっている。朝方と夜中になると奏でる琵琶は今はまるで打ち捨てられた暁子自身のようにおかれていて、それをしっかり立てかけてあげると横へ歩いていった。
 縁側に彼女のストッキングの足も陰になり進み、そっと娘の横に腰掛けお盆を置いた。
 風がゆるやかに拭き、二人の髪を撫でていく。コーヒーの薫りも立ち上り、鼻腔を掠めた。
 金木犀の花々はどれもがまるで踊るように咲き乱れ、夜は小さな精が踊りだすだろうと思われるほどで、母もそっとまぶたを閉じた。
 暁子は下駄をおとし膝を抱えて頬を乗せ、目を綴じる……。

 幼馴染の翔子(しょうこ)がいつもの様に暁子のことを「しょうこ!」と玄関から呼びかけやってきた。暁子はしょうことも読めるから、翔子はいつでも愛着と親しみをもってそちらの名前で呼んでくる。
 翔子は円形の漆喰壁内部の玄関で吹き抜けになる階段うえを見上げた。和と洋を織り交ぜたシンプルなシャンデリアが下げられ、この屋敷の家紋が二階欄干咲きの通路に繋がる間口上に漆喰で浮き彫りにされている。
「まあまあ。翔子さん。本日もいらっしゃい」
「ごきげんよう。おば様。暁子はどうしてらっしゃるの」
「ええ。落ち着いているわ。いつもありがとう。どうぞ」
「はい。お邪魔します」
 暁子の部屋に来ると、彼女は珍しく鏡台の前に座って棚から引き出しを出し並べられる簪から一つ一つ髪に当てながら笑顔で見比べ選んでいた。鏡台には櫛や椿油、貝殻に紅、おしろいなどが置かれている。金木犀の小枝も。
 翔子は彼女の横に座ると、菓子とコーヒーを出されて微笑んで感謝した。
 暁子の髪を櫛で梳かしてあげながら、今日も一方的に話し続ける。どんなことがあったか、近所の人はどうか、こんな人と会った、カフェでこんな話をした、レコードを聴いたなど。
 外の世界に関心を示さない暁子は聞いているのかも不明で鼻歌を笑顔で歌いながら紅を乗せたり、簪を選んだりしている。
 二人で縁側に来て、橋のかかる池を見ていた。岩の先に鯉が泳いでいるのが見えて、飛び石は池の左右に伸びていた。暁子はいつでも同じことを言った。
「右からあの方が現れて、橋を左へ行って金木犀の群生に向かっていくの」
 しかし、彼女のいつもの視線と指先は左から右へ流れて行き、右の先には金木犀の木々の横を通って先ほどの玄関の表側へ出る。暁子の頭は左右の表現や感覚が逆に出来ていた。主に右利きだがふとしたときに左利きになっていて、時々琵琶も左で弾いているのを見かける。そのとき音は逆の弦からひかれていて、摩訶不思議な旋律を奏でていた。それでもあわせる歌は正規のものだ。
 暁子の言う「あの方」本人は今現在日本にはいずに西洋にいて、彼女の恩師でもあった。

 暁子の恩師は「フレグラント・オリーブ」という歌で一躍有名になった唄の先生で、琴と琵琶も奏でることができる音楽家だ。暁子に琵琶を手ほどきした人物でもあり、暁子の高い声に歌というものを与えた。それまでは、いつでもぼうっと庭を見つめるだけの少女だった。居たたまれないほどにやせ細り、そのため目も大きく笑顔もなく虚ろでもない無表情でいるだけだった。金木犀の季節になっても……。
 音楽を覚えると、彼女は目覚しく変化していった。まれに翔子の話にも振り向くようにもなり、にこにことして頬は紅に染まるほどだった。この変化に翔子はよろこんだ。そして彼女の恩師を敬意をこめてフレグラント夫人と呼んだ。
 暁子の脳裏ではいつでも敷地の奥手から玄関、すなわち暁子の知らない、感知しない外界へ行ってしまう姿が巡っているのだろう、それが逆の左右表現の認識で言い表す暁子の言葉は、外界からお歌の先生が帰ってくることを待ちわびる望みに思えて翔子の心を少し切なくした。友人はずっと待ち望んでいるのだ。再び大好きになった金木犀の薫りを婦人と橋の上で愉しむことを。それを毎日叶えてあげたいと思うけれど、翔子の権限では到底西洋から引き戻せる相手ではなかった。
 フレグラント夫人の旦那は様々な柄の手拭いを西洋に広めようとしている人で、夫人はその彼について日本独特の音楽をその土地ごとで教えている人だった。なので日本に居たときも短期的に依頼されたり教室を開いて歌や琴、琵琶を教えていた一人に暁子がいたというわけだ。
 旦那様の扱う手拭いの柄は日本的な柄に限らず、西洋の画材や風雅を取り入れたものや自然の情景を染め上げたものも多かった。綿素材でもちも良く、乾きも早くて清潔な日用品である手拭いの愛好家でもある。それに最近では使い勝手の想像性が広がる風呂敷も加えたようだ。 
 夫人自身も面白い試みとして、日本特有の音楽で西洋の踊り、バレエやヨーロッパの民族ダンスを融合させる試みをはじめ、日本へ帰る報せは今のところは無いのだから、暁子が幻想を見るうちはまだ良かった。
 ただ、金木犀も季節のめぐりがある。春夏秋冬、四季があって花を咲かせることが出来る。雪の季節は花をつけずに家屋は薫りが無く、暁子は寂しくも美しい静寂の雪庭を見つめているのだ。透明な瞳で。そして椿の花が落ちると、いつでもほろりと涙を落とした。感情も無いかの横顔で。

 暁子の母は受話器を静かに置き、開け放たれた襖の先で琵琶を弾く暁子を見た。
 顔をそらし、洋間の横の廊下を歩いていき部屋に入ると娘の着替えを用意し始める。
 夫人、大城麗(おおき れい)さんが旦那との別居を決め、日本に戻るというのだ。別段不仲の意味ではなく、仕事上の都合で別々に行動する方が便利だという結果からのことだった。
「今から、東京駅まで馬車の手配をお願いします」
 言伝てから廊下を戻り、桐の箱を暁子の部屋へ持っていった。
 昨夜は星まで出る空で池にも映り、娘は甘やかな薫りに包まれながらしあわせそうに縁側で過ごしていた。今は同じ笑顔で目を綴じ琵琶を奏で、いつもの様に母が横にきても気づかない。
「暁子さん。あなた、本日は遠くへ出てよ。お着替えをして、マントを羽織って先生を迎えに参りましょう」
「せんせい」
 暁子は反応して母を見て、彼女は微笑み頷いた。
 薫るほどの笑顔が暁子の表情に宿り、それは悦の光が瞳にいついた。
 母は知っていた。恋など知る由もなかった暁子が麗さんに恋にも似た感情を持って想起しているのだということを。その事すらも彼女は分からず、しあわせにいるのだ。
 暁子は着替えを手伝われ、大正浪漫の柄が素敵な着物と帯、足袋などを纏って髪型も一部モダンに結って片方の肩に飾りと共に流した。
 馬車に乗り込み着物姿の母の羽織の腕に暁子はこめかみを預けて一点を見つめていた。紅のさされた唇がうわごとを何か言い続ける。
「あの方があちらからあちらに歩いてかれるの……」
 母は風呂敷につつんだ麗さんへの贈り物を膝に、前を見続けていた。まとめられた黒髪に紫玉の簪が挿された母の頭が微かに暁子に頷いてあげている。
 十五の齢の暁子は将来誰か婿養子をもらわなければならない時に、どんなに悲しむことかを母は考えると切なかった。だから、出来るだけ心を穏やかにさせてあげたい。
 実際にいる許婚の青年を彼女は許婚の意味も理解に及ばずいるだけで、彼は今大学で植物の生態系をを学んでいる子だった。週末は甘い菓子を持って彼女を訪れ時々翔子も加わって暁子の横で時間を共に過ごしたり、暁子の祖父と日本国についてを話しながらソファセットから彼女の背を見たりしていた。
 そのときでも、「あの方がいらっしゃる。あちらへ、こちらから……」と言い続けた。

 東京駅へ到着し、パーラーへ入ると大城麗は笑顔でそっと立ち上がった。
「まあまあ。あなたがあの暁子さん? まあなんて美しい女性へとなられたことかしら」
 彼女は暁子をしみじみと見つめて頬を染めてもじもじする暁子の笑顔の顔を覗き込んだ。
「あなた、いつかヨーロッパへ行くといいわよ。あの場所は感性がまた一段と磨かれて、とてもいいと思うの。ねえ、お母様もそれを賛成してくださると、暁子さんのいい感情へと繋がるとおもうの」
「まあ、またそれは……」
 母は暁子を見て、娘はただただ先生に緊張して頬を赤らめうつむいていじらしくし続けていた。
「そのときはあたくしを頼ってくれればよろしいですから、お考えあそばせてくださいね。暁子さん。あなた、そのお気持ちになったら、本当素敵よ」
 暁子は微笑んで頷き、耳を染めた。
 料理店で食事をし、庭園のある場所で過ごした。終始暁子は笑顔が花開き、歌舞伎を観ては、夜は自宅へと先生を誘った。
「懐かしいわね。この金木犀の薫りも、このお庭も……」
 日本庭園の橋の上から池には二人の姿が映っていた。夜は行灯が照らされ幻想的な情景に浮かび上がり、暁子は先生の腕に細い手を回して彼女の肩にこめかみをあずけ、一生このままでいることを思っておぼろげにいた。
 むせ返る金木犀の薫りが、暁子の感覚を漠然とさせる。流れる風の如く、この場に淀んで、回転する……池の星を見つめ、微かな体温をこめかみと手腕に受けて、微笑んで暁子はぽろりと涙を落とした。星光に雫は照らされて、一方的な慕う気持ちは二人の間にある池へと募って行く。
「せんせい……」
 暁子は麗に言うでもなく呼びかけ、彼女は美しい少女の髪に頬を微笑み寄せてあげる。
 そんな、時間が過ぎてゆく……それが一生ものかの様に。

2014.03.12

嵐の薫り

 百合を散らした嵐の……。薫り奪ってった嵐の……。潮の薫りに増して土の薫りが強い汀。追い風や向かい風を受けて歩く僕等はずっと語らうことなく目に映る情景を写していた。
 伸びきったつつじの茂みは背よりも高くどこまでも続き、緑の桜の並木が上に覆いかぶさる。ツツジの茂みからは高く伸びた白百合の花が頭を垂れて、空と百合を囲うツツジと木々に咲いていた。垣根の下に細かいピンクの花がたくさんルビーの様に散らばっていて、その花のもとの居場所のありかを探すけれど見当たらず、しばらく歩いてそれが風に飛ばされ散ってきた百日紅の花なのだと分かった。そして木々に絡み付いてレースみたいなカーテンの様に青い朝顔が枝垂れる風景とか。水色のアガパンサスの花が時期を終えて緑の房が揃う横に蝉の抜け殻を発見したり、見たことも無い植物群が迫っていたり、緑は美しくむせかえっている。
 クラブを終えた帰り道は人通りは無いに等しく、嵐のために学校でしばらくの時間を過ごしていたうちにも練習は続いていた。肩にかけたバッグからは飲み残した水筒の中身が風音と共にちゃぷちゃぷと耳元をくすぐる。
 公園に来ると、セミ達の鳴き声は僕等をまるでもう少しここに留まらせようとでもするかのように聴こえて包まれた。
「海也はさ、先生の話どうするの?」
 僕の幼馴染で友人の孝輔がベンチに座ってぼうっと空を見ながら言った。
「もしも選考が通ったら、学校は移ると思うんだ。だから地元での大学進学の話は結果が出た後で」
 孝輔は野球部だけれど、僕は演劇部だ。声を張り上げるから水筒の水は欠かせない。けれど、今回は多くの生徒達が一気に学校で待機していたから声を小さめに練習をしていた。クラブ練習のない生徒達の一部は僕等の演劇を見に来ることもあっていつもと違う雰囲気が広がっていた。親には学校から連絡網で話は行っていたから、なかには子供を車で迎えに来た親もいた。
「オーディションの最終選考まで行くなんて、将来映画やドラマに出るようになったら友人役で友情出演できるように監督とかに話つけてくれよな」
「野球映画とかだったらね。その時は僕が孝輔に教えてもらわないと」
 僕等の背後に自転車が近付いてくる音がして、それが女子の声を伴って停まった。
「孝輔に海也!」
 三年生の片山先輩で、僕と同じ演劇部なので声がよく通る。この広い公園にも響いたのではないだろうか。孝輔は片山先輩のお兄さんの開くイタリア料理店でよく食べさせてもらっているのでなじみが深いのだ。野球帰りにお腹がすくと腹持ちのいいニョッキを食べさせてもらっていた。
「先輩」
 僕等は立ち上がり、笑顔でここまで来る彼女を見た。緑を背に爽やかな先輩で、ボブの髪が風にゆらゆら揺れている。制服の黒いスカーフリボンも。彼女は高校を卒業したらイタリア料理店を手伝い始めるらしく進学は考えていないらしい。なので気楽だといつでも僕等に言っているけれど、今必死に大学受験の勉強をしている同級生達には口がすべっても言わないでいるのだと言っていた。だから演劇にもその分、身を入れていて、僕の演劇指導も手厳しくしてくれているのはとてもありがたかった。彼女は家族でイタリアに旅行することが好きで、どこか男勝りな点もあることも味方してか、なにかしら感情表現が劇に活きている。舞台に上がる彼女はいつでもまるで魂が旅をし始めるかのようだった。
 感情表現が下手でいつでも美しい物には関心があってぼうっと花や緑を見つめてきた僕に二年前に演劇部の勧誘をしてくれたのも彼女で、僕はその時あの笑顔に一目惚れをしてしまってつい入部を決定したことが功をそうした。家庭では昔より僕がよく喋るようになったとよろこんでくれて、声も大きく出せるようになった。まるで乙女っぽいわねとよく先輩にはからかわれるほど初めはすぐに根を上げてばかりいたし先輩達の威圧感にはのされてばかりいた僕がオーディションという舞台でどんどん挙がっていくまでに成長できたのだ。
 孝輔がジュニア時代から野球を続けてきたことと同様に、自分も何か一つのものに打ち込めるよろこびを知ることが出来たのだ。
 だから、僕は片山先輩を尊敬の人と置いているし、それに僕のよき理解者でもあった。だからこそ僕が町を移れば彼女や孝輔に逢う事が少なくなることが寂しくて仕方が無い。
「今日、料理店に来なさいよ。ドルチェでも食べてからでも夕飯は食べられると思う」
 孝輔はグラウンドが嵐に見舞われていて練習は出来なく、体育館は他の運動クラブに占領されていたのでいつもの様に空腹は感じていないらしかったが、いつでも甘いものは別腹に入るとにこにこする。
「食べます!」
 即刻返事をして僕等は歩き出した。
 レンガ路を左右に囲う桜の並木は、緑の路になっていた。時々緩み始めた風に黒い蝶が緑の茂みから緑の茂みへと飛んで行ったり、木々の先にカラスが鳴いていたりする。
「最終審査まで行ったご褒美だと思ってくれてもいいの。よくあたし達の厳しい指導にも耐えてきたわね」
「海也がもしも選考通ったら、フルコースとか」
「あやかりたいんだろう」
「もちろん!」
「いいわよ! 言っておく」
 公園の橋を渡っていき、池を見渡す。風が水面を撫でていっている。向こうに広がる芝の伸びた草も撫でていく。
「この場所、好きだから本当は町を移る程の事務所よりも近場を探そうって思ってたんだ。ここは僕の心の泉だから」
「本当に綺麗な場所よね。美しくて」
 先輩は僕の腕を叩いてくれて孝輔に言った。
「孝輔も良い奴ね。寂しいと思うけど幼馴染の背を見送ってあげるなんて」
「うん……正直、一緒についていきたくなるけどね。でもこいつのよろこびはこっちのよろこびでもあるんです。どんなことがあっても大喧嘩しても最終的には今まで離れたこと無かったけど、不思議と一緒に成長してきてこいつ見てきていずれは分岐点は来るんだろうなって分かってたから。良い意味で。その路を先輩が作ってくれたから感謝してるんです」
 片山先輩は耳まで紅くして照れて微笑んだ。僕は彼女のこの笑顔もどんな笑顔も大好きだ……。

 雨が再び降り始めた。僕等は少し駆け足になり、料理店へと駆け込んだ。
「つれてきたわよ!」
 店に声が響き、オーナー兼店長の大地さんが笑顔で出てきた。
「よう。よく来たな。雨はまた強くなってきたな。さあ。どうぞ」
「空は明るいから通り雨かもね」
 硝子越しに見ると雲は流れていないけど、確かに雨脚はすでに弱まってきていた。
「今日はありがとうございます。先輩からお誘いを受けて」
「どうか俺にも祝わせてくれ。こいつも毎日の様に言ってるんだ。選考が通るごとにな」
「ふふ!」
 先輩は僕の座った背もたれに腕を組んで顔を覗き込んできた。
「顔立ちだって甘くて可愛いんだから、海也はきっといけると思うのよ。深刻な役だってまるで顔つき変わってね、それに優しい人の役だって上手だし、頭の良い人の役も凄いせりふ量をこなすの。怒りの鬼神役で黒蛇を演じたことがあったけれど、あの時は本当恐かったわ。あとはコミカルな役をマスター出来ればいいんだけれど!」
「コミカルなのだったらこっちに任せてくれればいいんだけど」
 孝輔はお笑いが好きでよくはまっている。顔の割りにおどけてくるからいつでも僕が落ち込んでいるときは元気をもらってきた。
「………」
 そんな親友とも時間を過ごすことが経るかもしれない。でも今は電話もある。
 僕等はみんなでおいしいドルチェを頂いた。
 雨は次第に再び強くなっては弱くなり止んで、僕等の会話を小さくしたり大きくしたりする。硝子に打ち付ける雫。店内の観葉植物の先に霞むレンガ通りの街並。前の花屋の猫はショーウインドウから外の様子を眺めていて、花瓶から下がる花の薫りを子猫がかいでいた。しばらくすると雨の雫が硝子の壁に川を描く様を追い始めた。何気ない全てが脳裏に刻まれていく。
「海也……」
 僕は甘くて美味しいドルチェを頂きながら、そして涙が流れていた。
 彼らはみんなで僕の肩を抱いてくれた。
 時は静かに過ぎていく。雨も上がりはじめ、少しだけ空が明るくなってきた。

2014.08.10

マリーゴールドの薫り

 校庭の前衛に咲き乱れる元気な橙色の花を、その少女は苦手だった。
 可愛いし美しいことは変わりないが、オレンジの色がおとなしい性格の少女にはそれさえも元気すぎたのかもしれない。ただ、パンジーやマリーゴールド、ひまわり、それらは学校という学校ではよく見かける種類の花であり、近所や通学路までの軒先のプランターには何を置いてもそれらを育てる主婦達が極めて多かった。
 確かにピンク色や紫、黒やそれらの色が好きな少女は対極となる黄色やオレンジを周りには進んでは置かないこともあったが、それでも校庭のマリーゴールドは強く咲き誇り、季節を満喫しては、子供達を見守るかのようで、そして蜜蜂たちが可愛らしく蜜を吸い取っていったりもした。
 グラウンドへ走っていくときや職員室へ行くまでの屋根つき通路をあるく途中でも、友人等と縄跳びを持って休み時間に走って通り過ぎるときでも、その花は折り重なりぎざぎざの橙の花びらに紅色のラインを乗せ、太陽の生まれ変わりのように咲いていた。
「………」
 少女は自宅で咲いている藤棚の下の白やピンクの薔薇、松を囲う紫式部や百合、イチジクやドクダミの花などとは違う雰囲気の校庭のマリーゴールドをじっと見つめた。膝を曲げこみ焦げ茶色の瞳で見続け、その細部を隅々まで見た。
 花の王冠をつけるにふさわしいがっしりした深い緑の茎と葉。密集している花たちの顔。きっと彼女達は女の子の花なのだろうと、理科の時間で習うおしべやめしべの知識もよそにおいて見つめる。
「知ってる?」
 友人の声に彼女は振り返った。
「ひまわりって漢字で向う日の葵って書くんだよ」
 その友人は少女が親友と呼んでいる子で、とても頭のいいしっかり者の人気者だ。少女も彼女が大好きだ。
「ひまわり? そういえば夏休みに育てたよね。朝顔も」
「うん」
 下校時にも彼女と二人で帰るとき、その路沿いには見上げるほど背の高く、そしてこうべも垂れるほど種をぎっしりとつける巨大なひまわりが咲いている。同じく黄色なので、どこか少女は苦手でもあった。
「ひまわりってね、師匠を慕うように太陽を見ながら咲くんだって。ひまわり畑も全部太陽に向かって顔が移動していくんだよ」
 その魅力的な話を聴いて、少女はドキドキとした。
 彼女の事を信頼している少女は、彼女が薦めてくる少女の苦手な食べ物も食べることが出来るようになるほどだった。
 それでも少女はそのとき、マリーゴールドを親友がどう思うのか、どう見ているのかを聴こうとする頭はなかった。
 少女は保育園での運動会を思い出していた。土手に彼岸花が咲いていたことだ。それは地元に流れる川にも群生して菜の花の違う時季に咲く花でもあり、彼岸の時期に咲くから幼少時代の友人が怖いよねと言っていたり、それでも自分は立派に咲き誇る凛とした彼岸花を好きだと思ったことも覚えている。その子と共にその彼岸花が饅頭釈迦と呼ばれていることを教えてもらったり、その饅頭釈迦の茎を交互に裂いていって運動会のお昼の時間にネックレスにして笑いあったり、家の前の公園で春はシロツメクサの首飾りや冠をつくった事もあった。
「花は花で全てが美しい」
 その事実は、彼岸花に時に人が向ける感情や、毒のあるトリカブトでも美しい青紫の花を咲かせることを加味しても少女の心にふと思ったことだった。毒があろうとも、トリカブトの花を嫌いうらむ人間などいるだろうか? 花に罪は無い。
 どの花も美しい地球の輝きの一部だ。
「素敵だね、ひまわりって」
 少女は微笑んだ。
「行こう」
「うん」
 二人は歩き出し、飼育小屋の横を通る。
「この菜の花って食べられるんだよ」
「花を食べるの?」
 少女は驚いて彼女を見た。
「確かに、よくツツジの蜜は吸うよね」
 少女も言い、あの甘い、蝶も味わうツツジの蜜を思い出していた。
 少女は元気に黄色の花を咲かせる菜の花の畑になっている一角から見上げた。
 彼女達はまだ様々な花の背よりも小さくて、見上げると青空が花を彩り、太陽がその先にはあった。モンシロチョウや蜜蜂がその空や花の周りを見上げていると飛んでいる。
 マリーゴールドは、なぜあんなに背が低いのに少女の心に残るほど元気なのだろう……。
 この休み時間、カゴメカゴメをみんなでやったり、大縄跳びをやったり、遊具で遊んだり、一本橋をバランスをとりながら渡ったりして遊んだ。
 そして少女は知らない。夕暮れ時、教師や部活の野球部やサッカー部達の残る緋色の時間帯、あの太陽に照らされていた明るいマリーゴールドも、夕陽の色に染まりきってめらめらとした紅色へとなることを。花と花の間に濃い夕影を落とし、それぞれが咲き誇り、そしてその校内の花を公務員のおじさんが育ててくれているのだろうということ。夜風にもあてられ、星を仰ぎ見るのだろうということ。マリーという名の、彼女達は……。
 マリーゴールドの薫り。
 それは、少女の記憶では薫ったのか、どうだったのかさえ今ではおぼろげな記憶。

2014.03.12

花の薫りの章<和>

花の薫りの章<和>

花の薫りから連想したストーリー集。日本舞台の花の作品集。第一話<菊の薫り>江戸舞台の恋愛物。第二話<草木の薫り>日本家屋の少女に花火を見せたい男の子の恋愛物。第三話<夜桜の薫り>桜の精に会った一夜の物語。第四話<金木犀の薫り>琴の師匠が好きなぼんやり少女の話。第五話<嵐の薫り>。第六話<マリーゴールドの薫り>小学校の花壇の話。2014年作品。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 菊の薫り
  2. 草木の薫り
  3. 夜桜の薫り
  4. 金木犀の薫り
  5. 嵐の薫り
  6. マリーゴールドの薫り