ガラスのエース、滅びの一球

  晴天、満塁のダイアモンドを囲む一回り大きな観客席。正面にスコアを写した巨大なスクリーンがある。右側は白き装いの永聯高校応援団、左側は黒いワンポイントのある蕪高校応援団が陣取っている。決勝とはいえ、地方大会にしては珍しく一般席もほぼ満員であった。それには、二高の因縁少なからぬところも関係している。同校区で、どちらも野球部の強豪とあれば自然とそうなるものだ。そして、あと一球で、その二高の明暗が分かれようとしていた。だから、応援団も観客も固唾を飲んで見ていた。
 マウンドに立つのは、身長二メートルを超す二年の白浦スティーブソンだ。つばの下から、細目が青い炎を宿して猛っている。野球部にしては珍しく、金の毛先は肩胛骨にかかるほど長い。
 対する四番同じく二年の狭間コウは、黒いヘルメットにすっぽりと坊主頭をくるんでいる。四角い輪郭に引き締まった頬、広い胸板にKABURAの縫い込みが引き伸ばされている。その姿をマウンドから見たものは、誰しもが長打を予感した。
 しかし、スティーブソンだけは、同県野球部の中で唯一そう思っていない。なぜなら、公式戦でコウのバットが球に当たったことは一度もなかった。コウだけではない、誰も彼のボールを捉えたものはいない。地方公式戦無失点無被打の超越的な投手であった。
 こめかみからシャープな顎へ汗が流れる。真夏の炎天下のためだけではない。スティーブソンにとって初めての危機だったためだ。八回裏、平凡なピッチャーゴロ。それが、九回裏の乱調に繋がった。四球四球死球で満塁、続いてバッターボックスにはコウ。
 そしてフルカウントの今。蕪が一点を追う今。スティーブソンの手からボールが離れた今。コウは腕を引きながら、思う。
 夕焼けに染まる河川敷。対峙する金髪の彼は言う。お前では決して俺の球を打てない。魂さ、死んでもいいって気持ちで投げている、魂の乗り移った球だ。お前にあるか、その心が。
 数千とんで数百のシミュレーションがあった、だからこの場面でアウトローにストレートだと確信できた。
 歪んだ音が空気を振るわせる、客席が湧いた。コウは舌打ちして、後ろ足で土をはね飛ばした。
 ピッチャーライナーだ。スティーブソンのグラブを弾いてボールの行方は三遊間へ。本塁アウトで、ファーストに送球。審判の腕は水平を切る。
 観客がどよめく。マウンドに内野が集う。中心のスティーブソンはグラブを押さえてうずくまっていた。
 胸の泥を払いながら、コウがそちらを覗く。人いきれの隙間から、スティーブソンの上半身が見れた。半分に開かれた口内で歯がかたかた鳴っている、両腕は自分をきつく抱いている。視線は地面をさまよい、そしてなにかへ注がれた。右手がそのなにかを掴む。
 それから、スティーブソンの降板が告げられた。マウンドからベンチへ歩く背中に大声が飛ぶ。永聯のチアガールが金網にすがりついていた。激しく揺れて、吐血が膝へ落ちた。投手はそれに気がついたか、気がついていないのか。歩みを止めることはなかった。
 甲子園へ進んだのは蕪高校だった。次の春大会にスティーブソンの姿はなかった。

  長い梅雨が明けたら、また昨日も雨で今日も夕立があったので、少年が公園を訪れたのは予定していた日から一日と半日も遅れた。
 公園は長方形で周囲は柵に囲まれている。柵の手前に木々がぽつぽつとあり、その下にはあじさい。遊具はブランコが一つで、ベンチが二つ、後は砂場。ブランコの鎖は錆びて、ベンチは木が腐っていた、砂場は連日の雨で泥になっている。
 少年は立っていた。カーキなのか汚れなのか、くすんだ色のワイシャツに、ポケットの部分が破れた半ズボンを着ている。坊主頭にくすんだ一部分がある。かさぶたが生々しい。なにより、彼は隻眼であった。左は正常な黒目、右は壊死の灰色が丸く。
 少年は立ち尽くしている。右目と同じ色に塗りつぶされた空を残された瞳で見ている。その奥の太陽の暖かみを感じている。
 右手に、それは握られていた。暖かくないもの。拳から頭だけを出していた。
 公園の時計塔が五時を告げた。雲の切れ間から陽が差し込むと、あたりはたちまち紅に装う。
 直立不動の少年へ、声がかけられた。漆黒の髪をなびかせる女である。熱気の夕暮れにありながら、肌は雪の白さだ。眼鏡の奥の目尻の下がった双眸は、少年へ優しげな印象を与えた。日焼けを嫌う長袖のシャツは白く、フレアパンツはグレーで、モノトーンの組み合わせだ。
 「どうしたの」
 少年はうつむいている。女は文庫本を閉じ、肩掛けカバンにしまうと、膝を曲げた。
 そして、それに気がついた。右手に握られた死骸、ハムスターのものだ。握力で小さな眼球が飛び出している。少年の目的は埋葬であると彼女は悟った。
「一緒に埋めよっか」
 わずかに首をあげるが、すぐに元の位置へ戻す少年。女は構わず話続ける。
 「したくないって、わけじゃないでしょ」
 女は少年の左手をとった。そこに、プラスチックのスコップがある。
 二人は大きな桜の下へ穴を掘った。女は素手で土をえぐった。幸い雨で地面は柔く、女子供でも労せず埋葬は完了した。
 長さの違う小枝を二本、女が拾う。胸ポケットから髪留めを取り、枝と枝を結びつけた。
 「刺しときなよ、あなたがクリスチャンかどうか知らないけれど」
 粗末な十字架であったが、少年は言われた通りにした。掘り返したことで周りと色が違う土へ突き立てた。
 「じゃあ、またね」
 女は水場にて、手と膝を洗う。そのままトートバッグを持って、公園を出た。
 公園の西にある出入口はそのまま坂道へ繋がっている。女はそこを上がってゆく。
 しばらく後ろ姿を眺めていたが、少年は後をつけることにした。
 少年の名は狭間ユウという。

  一本の坂道は三叉路へ合流した。腰のあたりの毛先が揺れて、女は右折。そこから少し進んだところで、足を止めた。錆びたチェーンがおざなりに立ち入りを禁じているのは、背高い藪の覆う空き地。草を分けて進む先に、開けた空間があった。
 トタン張りの長屋である。正面は両開きの金属扉が朽ちていた。夕日に陰って内部は見えない。扉の傍には腐った看板が、かすかな赤色で、この場所の名前を伝えた。坂田ペンキ。
 女は扉を抜けて、暗い方へずんずん進む。採光窓が壁の上に設えてあるのだが、ほとんどに板が打ちつけられており、内側に全く光りを通さない。内部には様々の機器や工具、作業車が埃にまみれている。その中で一番大きなものは、工場奥北西側の角から始まり、蛇のようにくねって、工場入り口南東の角のあたりまで続くベルトコンベアーであった。床は割れたガラスや鉄釘などの廃材が散らばっている。女は下手を打てば怪我をしかねない薄闇でも、足を止めない。既知の足取りであった。
 一つだけ、板張りのない窓がある。それは、ベルトコンベアの始まる場所近くにあり、そこだけが緋色に輝いている。彼はそこに居た。簡素なパイプイスに腰掛けてうつむいている。
 「待たせちゃったかな」
 「誰も待ってなんかいない」
 掠れた低い声。伸びるに任せた髪はあちらこちらに跳ね、顎には無精髭がぽつぽつと生えている。襟が胸元に入り込んでいるが、男は気にもならないらしい。
 「なら、どうしてここに居るの」
 「言いに来たのさ。もういい加減でやめにしないか」
 女の眉間が歪む。黙っているので、男は続けた。
 「僕はキミの目的は知らないし、名前も知らない、これが何の意味を持っているのかも知らない、僕がなにかをできているとも思わないし、これからなにかをできるとも思わない。いいかい、僕はもう終わったんだよ」
 「なら、どうしてここに居るの」
 男は顔をあげる。そこへ、女が飛びかかってくる、膝が胸へ沈む。男は言葉にならない声をあげて、痛みに顔の形を変えた。女が襟首を捕み地面へ引きずり下ろすと、背中側へ馬乗りになる。
 「やめてくれ」
 「名前ね、ミサキよ。今更よろしくってわけじゃないけど」
 女、ミサキは放り出していた鞄を漁った。握られて出てきたのは、日曜大工で使うようなハンマーだ。持ち手のくすんだ木目は加工によるもので、打撃部分は剥げがない。
 宙を舞う埃が縦一線に切られた。金属と金属がぶつかり合う音がする。ミサキが振り下ろしたのは、男の右の人さし指だ。ミサキに手首を床に押さえつけられた状態で固定されている。
 そう、指が金属の甲高い音を立てた。指には細い裂け目が無数に走っている。もう一度、ミサキによる金槌が入ると、指は当然の物理の如く砕け散った。男はガラス細工の人形だろうか、いや、骨肉のある人間だ。しかし、その指は砕け散った。欠片が散る、血は出ないが、工場の床にペンキの汚れがある、それが赤い、欠片の色と同じく。
ミサキは立ち上がり、眼鏡のズレを直す。
 「また明日ね、治療を続けるのよ」
 そう言って工場を出ていった。残された男はというと、地面に伏せたままだった。
 「これの、どこが」
 何度も繰り返した疑問を口にする。答えを知る女はすでにいない。もっとも、納得のいく答えが返ってくるとは、男も思っていなかった。だから、続く言葉はミサキに向けたものではない。
 「どうして」
 夏がすぐそこまで来ていた。

  口を押さえた指の隙間から、吐瀉物がこぼれ落ちる。弓なりに伸びた雑草がひしゃげて、地面に広がった。
 しばらくえづいていたミサキは涙目を携帯の液晶に写して、口をハンカチで拭う。
 スポーツ施設の観客席に並びあった男女と奥にミサキ、そんな写真が壁紙に設定されている。
 男は永聯野球部のユニフォームを身にまとい、帽子を目深くまで下げている。顔は隠れているが、その金の長髪は高校野球においてあまりにも異端だった。
 女は永聯チアの衣装で、ナチュラルブラウンショートながら、鼻筋と口にミサキとの類縁を感じさせる。少女はうつむきがちにはにかんで笑っている。 
 口元に一筋の唾液を残したまま、ミサキはその場を去る。時刻は十六時を回ったところだった。
 竹藪に身を潜ませていた少年、ユウがおずおずと顔を出した。ミサキが居ないのが分かると、泥土を蹴った。藪の中は足下のぬかるみ具合が酷い。
 ユウが目指したのは廃工場の入り口で、そこへしゃがみ込んだ。くぅうと鳴る腹の欲求のままに、それを飲み込んだ。酸味がきつく、消化されかけている野菜の感触があった。砂利が混ざっていた。食えないと一口で分かったので、胃に落ちた後の数分は息が荒くなった。
 ユウが潜んでいた竹藪は工場の東側面にあった。彼はそこからぐるっと裏手を通り、工場の西側面へ回り込んだ。その辺りは、雑草も低く少ない。代わりに工具が散乱している。壁には地面から三メートル上に、採光窓が開いている。このトタンのすぐ向こうにあの男が居た。
 窓の真下にはドラム缶が三つ並んでいる。ユウが、それによじ登る。ドラム缶の上に貯まった水の中のボウフラたちが驚いて四方に散った。
 少年が上ったそこに、穴があった。錐で開けたような、子供の瞳の幅程度の小さなもの。ほとんどの人は見逃してしまうだろう。ユウは違った。
 穴から見る工場はより暗く手狭に見えた。男はミサキが出ていった時と同じ格好でいた。すなわち、地面に伏している。しかし、
違ったのは、指だ。何事もなかったように、人差し指はそこにあった。
 たしかに砕けたはずだったのに。それとも錯覚だったのか。ユウには答えが見つからなかった。

  「そんなわけがあるか」
 後ろのロッカーがひしゃげるような勢いだった。学校指定カッターの青年が、もう一人の青年に肩を押されて壁まで寄り切る。青年は二人とも丸刈りであり、肩を押している方は、野球部のユニフォームを着ていて、棘のように突きたった濃い眉の下で瞳が燃えている。ユニフォームにはKABURAの刺繍、背番号は三番。男の名は、狭間コウだ。

  「もう一度言ってみろ、誰が出ないんだ」
 肩を握られた青年は怯えきった表情だが、コウは更に指へ力を込めた。シャツのシワが深くなる。
 「やめろ、コウ」
 もう一人、野球部の青年が現れて、両手でコウの指を外した。
 「後輩に怒鳴ってなんになる」
 コウは、それを聞いて、ふぅっと息を吐く。足から力を抜いて、重力にまかせてベンチに座った。長細いベンチの両側に小さなロッカーが並んでおり、ベンチの端の一方には扉、もう一方には窓から青葉茂る桜が覗いていた。
 「ほら、いつもの話なんてどうだ。猫のあれだ」
 「最近はあまり好きじゃなくなった」
 「いいから、話してみろ。普段の冷静さを取り戻すんだ」
 コウは気乗りしない様子だったが、ぽつりぽつりと語りだした。
 「ネコネばあさんを知っているか。本名じゃない、米田だ。米田ばあさんなんて呼ぶ奴はいないが。
 ばあさんは猫が好きなんだ。そこいらの野良猫を拾い集めて飼っていた。そいつらは、一度ネコネばあの家に入ると二度と出てこなかった。妙な想像はするなよ、別に猫を煮て食ったとかじゃない。それじゃあ猫煮ばあじゃないか、笑え。
 ちゃんと、猫は屋敷に居る。垣根から少し頭を出して覗いてみろ、ほら中庭に、軒先に見えるだろう、足を引きずった猫たちが」
 口調は淡々として、決められた言葉が頭脳から決められた手順で引き出されているだけのようだった。二人の聴衆は黙している。終わるのを待っているのだ。
 「ネコネばあの屋敷は毎日決まった時間になるとにゃあにゃあうるさくなる。夕方十七時頃だ、飯の時間さ。ネコネばあが居間から立ち上がって家中を回って、猫たちに餌を配る。十九時にようやく鳴き声は聞こえなくなった。
 ところがある日、二十時、二十一時になっても声がやまない。次の日になっても猫たちは鳴き続けた。この時点で、なにかおかしいと近隣住民は思ってたはずだが、結局なにもしなかった。薄情だと思うか、しかし猫狂いの偏屈ばあさん相手だし、人付き合いのいい方じゃなかったらしい、因果だな。
 猫が鳴き続けて三日目、声が止んだ。一体なにがあったのか、ネコネばあはどうしたのか、猫はどうなったのか。想像はできるが、実際はわからない、わからないことは気味が悪い。そこでようやく、誰かが連絡をして、警察が屋敷へ踏み込んだ。
 酷い異臭がしたらしい、中庭には衰弱した猫、廊下にも同じく猫が。そして、そのどれもが足を折られている。これは後にネコネばあの仕業だと分かった、猫の足を固定したであろう万力と足を折った石臼が見つかっている。マタタビや睡眠薬を使って猫を大人しくさせていたらしい。
 ネコネばあは、居間に眠っていた。顔からは判断できなかったので、衣服と歯の治療痕から、そこに居たのがネコネばあだと確認された。
 なぜ、顔で判断できなかったのかというと、原型を止めていなかったからだ。食い荒らされていたんだよ、猫に」
 コウがぼんやりした瞳で天井を見つめる。コーヒーをこぼしたような茶色のしみがあるはずだった。それを求めるが、見つからない。
 「続きはどうした」
 「もういいだろう。落ち着いたよ」
 「いいから話せ」
 「先は知ってるだろ」
 「話すんだ」
 「最近本当に嫌いになったんだ、この手の話。その、死とか命とか輪廻とか」
 「早く」
 しみの捜索を振り払うように首を回す。それから、声のトーンがさらに落ちた。音量も小さく、二人にはほとんど聞き取れない。
 「ネコネばあの飼っていた猫たちは施設に連れていかれる。
 殺処分を逃れたのは一匹だけで、子を孕んでいた。引き取ったのは、ネコネばあの部屋に踏み込んだ警官の一人だ。
 その猫は、出産した後衰弱して死んだ。
 残された子の雌猫は警官によってミルクを与えられた。雑種ながら品のある顔立ちへと成長した。そして、警官がこの猫の奇癖に遭遇したのは、夜番から帰ってきた朝だった。
 警官はアパート暮らしだった。垣根に囲われた中庭の一角に共有便所がある。階段を上っていると、そのあたりの方から二匹の猫の鳴き声がする。喧嘩でもしているのかと思ったが、それにしては妙だ。一方はうなり声だが、一方は悲鳴のように聞こえる。警官は声の方へ向かった、そして見た。猫が器用に他方の猫の足を押さえて、そこへ何度も頭を打ちつけているのを。まぎれもなく、足を折ろうとしているのだった。
 それは、ネコネばあの所行を思い起こさせた、気味の悪くなった警官はその場から逃げるように部屋へ戻ったという」
 後輩の丸刈りが口を開く。頭上に疑問符を浮かべている。
 「えっ、終わりなんですか」
 「そうだが」
 「気にするなよ、話に深い意味なんてないんだ。ただ、気を落ち着かせるためにさせただけだ。ルーティーンさ」
 事実、コウは喋る前より息が落ち着いた。
後輩はよく理解していないが、分かったように頷いた。
 「しかし、なんでまた急に嫌いになった」
 答えはない。なので、コウの同輩は続ける。
 「言ってただろ、親父さんが好きでよく聞かされたって」
 「黙れ」
 ベンチが揺れて土埃が舞う。コウは立ち上がり、鞄を肩に掛けた。
 「もう一度俺に話をさせたいのか」
 「だけど」
 「うるせえな」
 言いながら、乱暴に二人の間を抜けると、ドアノブに手をかけた。
 「おい、今日は素振り何回したんだ」
 「数えられないほど」
 コウは後ろを見ずに言った。素振りは一度も出来ていなかった。

 「いつもより調子がいいんだ」
 病床のショートブラウンは、窓を見ながら言った。ガラスのむこうでは、夜道をヘッドライトが急カーブにうねりながら残光を伸ばしている。
 「遅かったね、なにかあったの」
 「ゼミのレポートがあったの。数人で調べる部分を分けあったのだけれど、なにもしてない人が居てね。大学を出るのが遅れちゃった」
 嘘つきは饒舌で説明的だ。少女はふぅんと呟いた。嘘に気がついているわけではない、興味がない。
 「大学生って大変だね」
 高校三年生の彼女が、まるで自分に関係のないことのように言う。それがミサキの胸を締め付ける。
 「コズエも同じ苦労をするわ。来年は無理でも、再来年にはね」
 「そうだね」
 思っていないことを口にするのは、人らしさだ。彼女ももそうしている。
 コズエは、ミサキの携帯の壁紙に写っていた少女である。少し頬がこけたように見えるが、ミサキは錯覚だと考える。点滴や医療機器に、つんとくる消毒液の匂いと、病衣が作る雰囲気によるものだと思いこもうとしている。
 「お姉ちゃんはさ、新しい季節が来るのが怖いことってないかなあ。あとこれから夏を何回迎えれるのかって考えたんだ、お姉ちゃんは六十回ぐらいだと思う」
 「コズエも同じぐらいよ」
 肺患いは、せき込む。病巣は今も彼女を蝕んでいる。
 「ここにね、コインが一枚あるのよね。命を賭けた大博打。表なら勝ち、秋を迎える。裏なら、おしまい。私はきっと裏に賭けちゃう」
 「そんなことないわ」
 「覚えてる? 家族でラスベガスに行ったときのこと。未成年じゃカジノに入れないからって、正装してさ。パパがアジアンは若く見えるだけなんて言い訳してたの面白かったなあ。
 一番最初にルーレットやったよね。赤に貰ったお金全額。結果は黒で一文無し。その時はママがまたお金くれたけど、このコイン投げに二度めはない」
 「裏が当たりよ」
「そもそも賭ける勇気なんてないのが、私だよね」
 それから、二人の間に流れる空気は重く沈んだ。自然、どこかから聞こえる虫の声に意を取られる。
 「帰るわ。あの約束、忘れてないわね?」
 ミサキが口を結んで、踵を返す。答えが欲しい問いではない。
 「かならず、見せてあげる」
 それだけ言って廊下へ出る。コズエは静かに布団へ体を崩した。
 エレベーターに乗っている時、ミサキは鞄を忘れてきたことに気がついた。病室にではない、廃工場にである。

 あの夜がコウを縛り続けている。持つ、構えるまでは出来る。しかし、振れない。バットだ。
自主練のつもりが立っているだけになってしまったので、やめることにした。公園を出た頃、海の向こうに日が沈んでいた。
 コウの家は公園からすぐ北のアパートだ。乳色の壁はコンクリートの地肌をところどころ晒している。その一つに枯れ葉が挟まっていたが、彼の帰宅とともに吹いた風で落ちた。
 階段を登り二階の突き当たりの扉で立ち止まる。鍵はかかっていない。廊下の電灯が届くのは玄関までで、散乱した靴を照らす。大人の手のひらに乗るような子供靴、修繕した跡のある運動靴、埃のかぶった革靴に、鼻緒のちぎれたサンダル。
 コウは遠慮なくそれらを踏みつけて、その上で靴を脱いだ。
 玄関から続く廊下は暗く、膝に柔らかい丸々としたものが当たった。それはゴミ袋だ。二キロまで入る大きなものだが、一つや二つではなく、廊下の両側面に並んでいる。中は弁当の箱や菓子の袋が大半で、臭いも酷い。
 ペンライトで照らしてようやくノブを見つけた。それを回す。
リビングは更に酷い臭いだが、コウは顔をしかめることもなく進んでゆく。
 暗闇から丸い明かりで切り抜かれたのは座卓にソファにこんもりした布団にゴミ袋ゴミ袋ゴミゴミゴミ。そして少年。隻眼の少年。
 骨ばった両足を畳んで両腕できつく丸めている。光が当たると、片目を光らせて返事した。
 「今日やるぞ」
 腹が鳴る。兄弟のどちらでもない。
二人が見つめたのは布団だった。敷き布団が盛り上がっており、肥満体がそこにすっぽり隠れているように思える。ぎらぎらとした銀色の虫が山の頂点をくるくる回る。数匹のハエたちが終わることなくお互いを追いかけていた。
 「飯だな」
 布団のことはともかくとして、エナメル質のバッグから弁当を取り出した。透明のケースに貼られた賞味期限はとうに過ぎている。これは、コウのバイト先のコンビニから貰ってきたもので、二人の栄養のほとんどを賄っている。
 酸味のある白米を食べながら、また腹が鳴る。これは体内のアンモニアや炭酸ガスによるものなのだが、その原理を知らずともなにが鳴っているかは、兄弟共に理解していた。
 「夜にするぞ、夜に」
 弟が箸を置いて立ち上がる。空腹を解消したらしく、素早い動きだった。窓の外は暗い。
 「違う、もっと遅くだ」
 それだけ言うと、コウはその場へ横になる。ユウもそれに倣った。無駄に動くと腹が減るし、深夜が過酷なことは分かりきっていたからだ。
 一時に決然と瞳が開かれた。むくりと影が動くと、続いて小さな影も動いた。
 「先に運ぶ、道具は後からにしよう」
 二つの影は布団を囲む。コウはペンライトをくわえると、布団の端を掴んだ。宙でたわんだ布団から、わっと黒い煙のようなものが湧きだしてくる。ライトの明かりが暴く正体はハエだ。煙を構成する一粒一粒がすべてハエなのだ。これには決意に満ちたコウも唇を歪める。深刻なのはユウで、布団がそちらへ傾いてしまう。二人の身長差で、兄がなにも考えずに持ち上げてしまうと、もちろん傾く。ただこの場合はユウが黒煙に動揺したためだ。布団から染みた緑の液が両腕を伝いシャツの袖下から潜り込んでくる。粘性が強く、振れているだけで体を悪くしそうな印象をユウは持った。
 「一度降ろすぞ」
 そうは言ったが、ほとんど落ちるに等しく布団は床へ。
 ユウは上半身をかきむしっている。兄が側により、自分の服で腐汁を拭いてやり、弟が落ち着くのを待った。二人はまた布団を握る。
 先ほどよりは薄いが、また煙が飛び出す。今度は動揺することもなく、ほとんど水平に布団は浮いた。
 なにより難儀したのはアパートの階段だった。深夜ゆえ、人はいなかったが、どうしても布団を斜めにする必要があった。前に立ったコウは汗と腐った液が混じり合うのを堪えた。
 それに比べれば、家のゴミ袋で狭い廊下も長い坂道も何の苦でなかった。
 二人が目指したのは、あの廃工場であった。月下では雑草がより背高く、より奥に件の建物があるように感じさせられた。
 「ここいらでいいだろう」
 兄弟が止まったのは工場の西側面。東は竹藪が生い茂っているが、こちらは物資置き場となっていたようで、手入れの後がある芝生状の地面。壁に沿って、クズ鉄やドラム缶が放置してあった。
 布団が降ろされる。ユウは指示されて、家へ走った。道具を取りに行ったのだ。
 残った兄はその場にしゃがみ込む。夕立があったが、地面は乾いていた。
 掛け布団をめくる。そこから出てきたのは、頭部である。月光に白い顔面だ。
 「ようやくおさらばだ」
 肌は紫の線がヒビのように幾本も走っている。髪は散らばっているが、血に固まった部分だけはまっすぐ首の方へ伸びている。目は乾き眼窩の内側にウジが並んでいた。口の端から舌が垂れていて、そこにも紫の線が走る。
 死んでいる頭部だった。それが布団に隠されていたのだ。

  窓から部屋に差す光が空気なら、影は水。その澱に沈んでいる男が一人居た。金髪をカーペットに投げ出して既に一時間以上。彼は起きているほとんどの時間をそうしていた。視線はは壁に掛かった服に注がれている。永聯のユニフォーム、両肩に白く埃が積もっている。
 彼はそれを見ているのだが、それによってなにかを思うだとか、感じるだとか、特別の感情が巻き起こっているわけではなかった。ただ、目がそちらを向いているだけ。開いた目は必ずなにかを見るしかない。
 目を閉じるのは嫌だった。眠れば、絶対に夢を見てしまう。同じ夢を。
 彼は渇いた人生を思う。アメリカ人体操選手と日本人プロ野球選手の間に生まれたハーフで、気がついた時から彼はマウンドに居た。リトルリーグもジュニアリーグでも当然打たれないし、打った。高校野球もそう。地方大会では公式戦で無安打ピッチング。甲子園では二番手投手が打たれて敗退したが、本人は一度も打たれていない。自分がマウンドに立てば勝って当然である。
 さて、それで彼は楽しいのか。楽しい楽しくないなど、介入する余地がない。ただ、息をするごとく勝つ、それが彼のスティーブソンの野球。
 勝利を当然にする犠牲は大きい。私生活は練習に染まった。生まれた時からそうなので、疑問もない。ただ、理由の分からない渇きがあった。
 ある夕方、日課のランニングをしていた。堤防を川に逆らって走る。急に声をかけられた。振り向くと逆光に学生服の男が一人。男も体格がよく、身長は百八十センチを越えているが、スティーブソンは更に上だ。
 「お前、打たれないと思っているだろう」
 出し抜けに男は言う。なんのことか分からないでいると、続けざまに口を開く。
 「俺は蕪の四番、狭間コウ。未来、日本の四番になるスラッガーだ」
 そういえば、見たことがある顔だ。蕪高校のサード。蕪はライバル校らしく監督チームメイトが意識している。スティーブソンは興味のないことだったが。
 「そしてだな、いいか、ここが重要だぞ。俺はお前を打ち砕き、甲子園へゆく」
 そのとき、水が跳ねたような気がした。川は静かに流れている。
 「お前ごときに立ち止まる俺ではない」
 また、水が。スティーブソンの体の中でのことだった。それは、鼓動だ。震えだ、今生涯で初めて、男が揺れているのだ。なにに? 挑戦に、予感に。
 これは共振。夕日をも焦がす魂が吐いた言葉が、本人も知らない体の一部分を揺らしている。
 「なら、今試してみるか」
 言葉は自然に紡がれた。考えもしない言葉だった。
 ジャンパーのポケットから白球を取り出す。
 「一球勝負。ボールなら僕の負け、バットが当たってフェアグラウンド方向に落ちたら負け。残りは全部、僕の勝ち」
 あからさまに打者不利な条件である。
 「やらない理由はないよね、未来の四番」
 「いいぜ」
 背負ったケースからバットを抜いた。コウは笑っている、自信に満ちた表情だ。
 ただ一球。それだけで、息が切れたのは初めてだ。白球が夕日に吸い込まれてゆく。いずれ推力を失い、地に転がるが、視線を切るまでは飛んでいた。
 初体験はそれだけではない、潤い。時は夏、セミの鳴く夕暮れ時に長袖のジャンパー。暑いはずだ、それなのに、心は潤いを示す。
 「なぜ打てないか、分かるかい」
 構えたまま、茫然としているコウに声をかける。
 「僕は、命をかけて投げている。僕の覚悟が乗った球が打てるわけがない」
 そう言ったとき、自分がどうして投げているのか分かった。それがすべてだからだ。
 彼は眠った。だから、悪夢にうなされ始める。
 そうして、夜は更けてゆく。時間はただ流れゆくのみ、もうすぐ夏が来る。

 持ってきたものをバラバラ放り投げる。金属音がして、コウは顔をしかめた。
 深夜だ、工場の周りに他の建物はない。それでも、誰かに聞かれたらという思いがよぎったためである。
 二人は穴を掘る。スコップは全長二十センチ足らずの小さなものが一つしかない。海水浴で使うような熊手があるが、幼児向けであまりにも非効率だ。結局、ユウにスコップを預けて、兄は素手で掘ることにした。
 「おい、歌でも歌え」
 先ほどは音を気にしておいて矛盾した言いぐさだ。しかし、あまりにも平坦で規則的な作業はコウの苦手とするところ。その上、ただ掘っているだけだと、そら恐ろしいことばかり考えてしまう。特に布団の中の死体を思うとまずい。それが今にも起きて二人を襲うのではないか、ありえないことが起こるのでは、月光の魔力に惹かれて。
 「小声でな」
 そう言われるのは慣れている。ユウは物覚えがいい。
 「ママァジャストキルドマン」
 「それはやめろ」
 母親に人を殺したことを告げる歌なぞ、今はとても聞けそうにないコウである。弟が現実をどこまで認識しているのか、不安になった。
 「ある日、森の中」
 よし、それならいい。コウは言わず、頷くに留めた。
 表層は乾いているが、少し掘るだけで水の染みた土が出てくる。納得のいく深さの穴になるまで、それほど時間はかからなかった。森の熊さん五十回分だ。
 汗と土で汚れた額をシャツで拭う。兄弟は泥まみれだった。一息つく間もなく、布団を持ち上げて、穴底へ落とした。死体は穴の中途でつっぱる、布団は奥へ垂れた、背中のあたりが癒着している。
 弟がそれを兄へ掲げる。金属バットだ。
 「未来を切り拓く」
 父の言葉であり、兄が弟によく聞かせた言葉である。
 コウはバットを振りおろした。血は出ない、鈍い感触だけが残る。もう一度、穴にふさわしい形になった。
 くの字に歪んだそれは直視に耐えない。だから兄はすぐさま、土を手に取る。穴の隣、掘り返した土が山になっている。
 そのときだ、彼のすぐ背後、壁のむこうから物音がしたのは。
 後ろを向く。そのトタン壁に、錐で開けたような細い穴が開いていた。そしてそこに、瞳の反射を捉えた。
 誰かが、居る。

 誰か、は椅子に座っていつのまにか眠ってしまった。土を掘り返す音で起きて、歌声も聞いた。そして、穴を覗いた。その先に、坊主頭を見つけた。それから、その男が死体を寝かせた布団を持ち上げるのだから、驚くのも無理はない。
 誰かは自分が見つかったことに気がついて、走り出した。今度は鞄を忘れない。
 追うはコウだ。誰かが工場内に居た。見られた、捕まえなければ。それからは考えていない。

  コウは坂を下り、公園まで来た。深夜だけあって、人気はない。
 汗は蒸し暑さのためだけに流れているのではなかった。もし、ここでの埋葬が世間に発覚するのならば、コウの苦労は無駄になる。 必死で探した。だのに、見つからないから、焦りは募る。
 「くそ」
 ベンチのペンキは径年で薄くなっていた。落ちてきた汗が点々と、そこだけ色濃くなる。
 そう遠くに行っているはずはない。工場の周りには民家や入れるような建物はない。しかし、途中の分岐路を両方辿ったが、人っ子一人居なかった。だとすれば、可能性は。と、思い至った時に、坂道から一人の女が降りてきた。
 肌が白いのは月光ゆえか、生来か。坂を流れる穏やかな水のように歩くのはミサキであった。トートバッグを肩に掛けて、なんでもないように正面を向いている。
 こんな夜更けに女一人とは珍しい。汗を拭ってコウは声をかける。
 「なあ、このあたりに誰か通らなかったか」
 「えっ、いいえ。見ませんでしたけれど」
 「あんた、こんな時間にどうした」
 それはコウにも言えることだが、そのことは考えれなかった。ミサキは眉をひそめて訝しげだ。
 ミサキには答える義理もないが、自分のうるさい心音に押されて、言葉が飛び出た。
 「喫茶店で眠ってしまって、閉店だって店員さんに起こされて、それでこんな時間に。ほら、夕立があったでしょう。雨宿りだけのつもりだったの」
 コウはミサキの奥、彼女が歩いてきた道を見つめている。何の変哲もないコンクリートの道。所々ひび割れて、そこから雑草が飛び出ている。どこにでもある道だ。しかし、そこにしかないものを求めている。
 ミサキの発言は嘘だ。今眠ってしまったのは本当。ただし、廃工場のパイプ椅子の上でだが。見つかったことに気がついた彼女は走り出した。そして、工場周辺の竹林に身を潜ませて、コウをやりすごした。
 しかし、工場を出た先でもう一度例の男出会ったのは不運であった。落ち着いて見える彼女の首筋は球のような脂汗にまみれている。口も奥歯を食いしばっていなければ、かたかた鳴りそうだ。時折、震えた息がほっと飛び出る。まるで、凍えた様子。しめりけのある六月の夜だというのに。
 「喫茶店っていうと、B&Kだな。ここからは一本続き」
 「ええ、そう。もういいでしょ、帰るとこなの」
 苛立ちを語調に含もうとしているミサキだが、成功はしなかった。代わりに、焦り、焦燥、そんなものが強く表れた。
 「ああ、行けよ」
 すれ違うミサキの背後に、地の底からはい出たような声がかかる。
 「足裏の泥の理由だけ教えてからな」
 ミサキは駆けだした。だが、もうすでに口と首に手が回っている。砂利の感触が、ミサキの唇へ。
 「お前だな」
 喫茶店からここまでは舗装された道が続いている。竹藪の下の地面だけがぬかるんでいる。コウはミサキに続く点々とした足跡を見ていた。それだけ気がついて、あとは勘だった。

 なにに使うつもりだったのか、ユウがビニール紐を持ってこなければ、工場の床に転がっている鉄鎖で両腕を巻かれることになっていただろう。その点は幸運であった。
 動くなと言われているが、パイプ椅子がきしむ、抵抗しているつもりはない。しかし、見知らぬ男に縛られる恐怖から、体の震えが止まらないのだ。
 ビニール紐をさるぐつわのように噛ませようとしたところで、コウは手を止めた。
 「声、出すな。殺すぞ」
 耳元で囁くと、ペンライトの光が工場の出口の方向へ消えた。
 それから、土が落ちる音が聞こえ初めて、ミサキは涙に濡れた顔を上げた。
 そこに、片目を見開く少年が居た。兄に言われて、女を見張るつもりのユウである。
 ミサキの驚きは少し遅れた。夕方、ハムスターを一緒に埋めた少年と、ここに居る少年が繋がらなかったからだ。
 ペンライトの安っぽい光と窓からの月光が、二人を闇から切り抜く。目線はミサキが座ってるために近い。
 「私を逃がして」
 虫のさざめきに消えてしまうような声に、切実の色が深い。少年の善性を信じた言葉である。
 少年は震えたか、首を振ったか定かでない反応。
 「お願い」
 ユウの中で、ミサキとコウの肖像がぐるぐる回る。そして、女を縛る紐に手を伸ばそうとした時、父親の最後の顔が浮かんだ。
 ユウとコウの父はプロ野球選手だったらしい。らしい、というのは、ユウは物心ついてから、のんだくれの横臥する背中しか見ていないからだ。コウは野球の才能で、その血を証明した。ユウは再婚相手の連れ子なので、父と血縁はない。もっとも、このことを少年は知らなかったから、自分がなぜ父に嫌われているか理解できていない。一人目の母、つまりコウの母は愛想を尽かして出ていった、二人目もユウの母も同じだ。ユウとコウは似た名前を運命的に思い、仲を深めた。ただ、兄弟と父の対立も、二人の仲に比例にして深まった。
 さて、すべてはハムスターに機縁する。あれは、ユウの母が子供のわずらわしさを少しでも解消しようと、買い与えたものだ。ユウとしては、そんな逃避的な贈り物が、初めての母親からの愛情表現に感じたので、大変大切に育てた。
 しかし、母が出奔してから、ハムスターの存在が父の勘気に触れる。一撃の元、踏みつぶされてしまった。ハムスターの小さな眼球は押し出され、窓際に転がってゆく。それを探している姿が気に食わない父は、少年の眼球へ向けて遠慮なく拳を振るい、その機能を奪った。
 なおもユウを殴り続ける父。そこへ、帰宅したてのバットを背負ったコウが割り込み、もみ合いになる。その末、父が振りかざしたバットを奪い取り、逆にコウが振りおろした。そして、そして、今この仕儀に至る。
 だから、ユウは手を力なく落とした。できない、兄の言いつけに背いて、ミサキを助けることはできない。
 「どうしたの、お願いよ」
 急かされる。つい、指がまた紐に伸びた。しかし、解くつもりはない。
 「なにしてる」
 第三の光芒はその手のペンライトから。コウだ。彼は弟を椅子から引きはがした。
 「バカ野郎」
 割れるような怒声が闇にこだまする。音を気にしていたことなど、吹っ飛んでしまった声量だ。
 「いいか、これから二週間ほど、コイツはここに居てもらうことにする。なんでか分かるな」
 胸ぐらを捕まれて、少年が唸る。
 「甲子園」
 その言葉にミサキはぴくりと反応する。それと同時にある変化に気がついた。
 「ああ、だからこんなことをしてるんだ」
 自分の両手を椅子に縛り付ける紐が緩んでいる。ユウがそれに指をかけた状態で、体を引っ張られたせいである。
 言い合いを続ける兄弟を一瞥すると、ミサキは体をくねらせた。いつ終わるかもわからない口論の中で、ついに、紐が外れて、まとめられていた腕が自由になった。
 次の瞬間。トートバッグの奥で、それの振動が始まった。三つの瞳が女を射抜く。
 絶望がひたりと心臓に針を刺す。ミサキは椅子を後ろ足に蹴り上げる。が、いかに必死とて、相手は男で、スポーツエリートで、むこうも必死。汗とも涙とも知れぬ飛沫が、地面にぽつり。ミサキは押し倒されて、すぐさま口を塞がれる。
 弟がバッグを漁り、携帯を取り出す。既に振動は止んでいたが、ディスプレイは光ったままだ。
 「これは」
コウは液晶の中に、宿敵を見つけた。

「どういうことだ、おい。教えろ」
姿勢は変わらない。地面にミサキを押しつけたままで、コウは叫ぶ。
 「お前、スティーブソンと知り合いなのか!」
 女は答えない。胸が地面に押されて、なにも言えないのだ。そのことに気がついたのは、二の腕をタップされてからだった。
 ミサキはせき込みながら、椅子へしなだれかかる。
 それにコウが続く。中腰になり、視線を合わせながら言う。
 「知っているのか、アイツを」
 「今日も会ったわ」
 大きく上下する胸を押さえながら、やっとのことで呟いた。
 「教えてくれ、今アイツはどうしてるんだ。なぜ、練習にいつもいない、なぜだ」
 女はへばりついた前髪をかきあげる。目にかかって不快だった。
 「なあ、答えてくれよ。なあ」
 コウはというと、情けないほど顔を歪めて、地面へ伏した。
 「頼む、頼むよぉ」
 本来なら、ここまでの乱暴狼藉に、怒りもあろうものだが、今のミサキは違った。大男が身をくぐめて泣き言を連呼するさまに哀れみを感じたからかもしれない。
 「飲み物でももらえるかしら」
 途端にコウが駆け出し、数分のち、三つのジュース缶を掴んで戻ってきた。
 それぞれがそれぞれのドリンクを嚥下すると、ようやく話が始まった。
 「彼はとある理由で野球をできなくなっているの」
 「怪我か」
 「いいえ、ただ体の変化という意味では正解」
 コウは丸く張った腕を組み合わせ、唸る。爪に固まった土が入り込んでいた。
 「はっきり言ってくれよ。俺、そんな頭いい方じゃないぜ」
 「私だって分からないのよ。彼に起こっていること、彼を包む現象がなんなのか。ただ、そのために野球を止めざる終えなくなっているのは事実よ」
 「だからさ」
 先ほどまでの態度はどこへやら。コウは眉間にしわを寄せて、声色に火の粉を混ぜる。
 「こっちへ」
 盗み聞きするものなど居もしない。なのに、彼女は耳へ両手をかぶせて囁いた。吐息が皮膚の洞窟を暖める。
 それから、何事かを話し合った後、二人はがっちりと手を組んだ。
 先ほどまで、ただならぬ関係であった男女がである。その二人は視線を合わせ、小さな人工の光のサークルの中である計画を相談し始めた。
 それの外周の側の暗闇で、少年はその様子を片目に写す。満面の笑みを浮かべながら。心中の肖像の円運動は止まっていた。思いの深さは違えど、コウにとっては、この世にたった二人の好人物。どちらか一方と決めることは行い難し。だから、これで良かった。
 繋がれた手に小さな手が重なる。今、ここに三つの因果が螺旋を描き組み合う。そして生まれた太い一本の綱が迷いなく伸びてゆく、暗室にうずくまる金髪の青年へ向けて。

  今年初めてのセミが鳴いた昼の後、紅の時間に男はそこへやって来た。名を白浦スティーブソンと言う。十年に一人と謳われた野球エリートだった。乱れた金髪を腰まで垂らし、顎には髭が取り巻いている。翡翠の瞳は原石のように淀んで、足取りは不安定。
 そんな彼がここに居た。古さびたペンキ工場へ、座るたびぎしりと鳴るパイプ椅子の上に。
 約束である。名も知らない女に、一方的に取り付けられているのだが、スティーブソンはそれを守っていた。いや、単にここに来るのが習慣なだけかもしれない。本人にもどちらかははっきりとしていなかった。
 スティーブソンは野球部を辞めてからというもの、自由な時間が増えた。しかし、趣味があるわけでもない、なにかを始めようという気にもならないので、部屋で横になっていることが多かった。与えられている自室は八畳と広く、見たくない道具のほとんどを片づけたので、より一層広く感じた。寂しさに胸を塞がれる。
 だが、壁の向こうから夫婦の言い争いが聞こえることが増えると、そうしているのも嫌になった。そして、散歩を始めた。親はもちろん、カウンセラーにも、誰にも会いたくなくて、人気のない方ばかりを選んで進む。ある日、見つけたのがこの廃工場であった。
 昼でも暗い埃だらけのここは、今のスティーブソンが落ち着ける唯一の場所だった。長くは続かなかったが。
 「こんにちは」
 ミサキがぬっと現れる。下半身が陰に消えている。まるでその空間に突然移動してきたように、スティーブソンは感じた。
 彼女が先に居るのは珍しいことだ。休学中のスティーブソンは朝から晩までここに座っている。ミサキが来るのはだいたい夕方だった。
 珍しいことは続く。更に、男が出てきた。ごま塩坊主頭で、太眉の下にぎらぎらとした目が座っている。しわだらけの半袖シャツに褪せた青ブリキのジーンズを腰下で止めている。
 その顔を見たスティーブソンの瞳が拡大する。そして、後ろ足に椅子を蹴りあげる。蒸した空気に足音が繰り返して響く。
 ああ、この男だけには。今の僕の姿を見られたくないんだ。
 「待てよ」
 たとえ優秀な血筋であろうと、ここ何ヶ月もまともに動いていない男では、現役の運動部から逃れることなど出来なかった。すぐ捕まり、胸ぐらを捻られる。
 「てめぇ」
 逸らしたスティーブソンの顔に向けて、コウが拳をふりあげる。
 「いけないわ」
 追いついてきたミサキが間に割って入った。
 「暴力はだめよ」
 「お前がなに言ってんだ」
 コウはミサキのスティーブソンに対する蛮行を知っている。そして、その理由も。
 「治療よ」
 「じゃあ、これもそうだ」
 スティーブソンの頬がひしゃげる。グゥっと声が漏れて口の端が切れた。
 「おい、おかしいじゃねぇか。割れないぞ」
 「もっと堅いものによる打撃じゃないと例の現象は起きないわ」
 ミサキはトートバッグからカナヅチを取り出して、続けた。
 「こういうのとか。硬球とかね」
 「やめろ」
 スティーブソンはまだ現状を理解しきれない。ただ、もうあれは嫌だった。
 「俺も信じられねぇんだ。とりあえず見せてみな」
 もがくスティーブソン。その力の弱いことに、コウは少し目を細めた。
 抵抗むなしく、床に押さえつけられると、手を開かされた。その人差し指へ、雷のごとき速さのカナヅチが落ちる。
 「ああっ」
 それは確かに起きた。人体にまつわる物理現象を超越したそれは、指を赤い欠片に変貌させ、土埃を乱しながら床へ散らばった。
 驚きのあまり腕を緩めてしまったコウ。その隙に抜け出したスティーブソンは、欠片へ走る。
 「本当だったのか」
 スティーブソンの人差し指は第一関節から先を失っている。その断面は硬質だ。血が数十年を経て、宝石となったらば、このようなものになるのだろう。
 床を掬って数個の欠片を断面へ近づける。すると、そこで新しい太陽が生まれたかのような強い光が迸った。
 「お、おお」
 その場の全員が目を開ける。声をあげたのは、コウだ。
 直っている。砕け散ったはずの指が、何事もなかったように付いている。
 「ほらね、言ったとおりでしょう」
 この怪現象に惚けていたコウだったが、次第に眉間にしわを寄せ、鋭い眼光を放った。未だ床にぺたんと座り、小さく震えるスティーブソンに向けてである。
 鼻息荒く、しゃがみこむと、またしてもスティーブソンの胸ぐらを掴んだ。
 「お前っ! これだけで野球やめたのか」
 コウが引き上げると、その怒りに燃えた瞳と、涙に潤んだ瞳とがぶつかる。
 「指だけじゃないんだ。体、全部なんだ」
 「だからどうした」
 「もし、打球が当たったらどうする! そこが胸だったらどうする! 内臓もきっと破片になってしまう! 僕は死ぬ!」
 叫びは遠く反響する。外の蝉はなにも変わらず、鳴いている。
 「打たせるな、それでいいだろうが」
 「できるわけがない」
 「やってたじゃねぇか」
 地方大会公式戦で、彼の投球がバットに触れられたことはない。異次元の記録である。もっとも、去年の夏だけは違った。
 「それももう終わった」
 「偶然だ」
 打った張本人が答える。
 「たとえそうだとしても、その偶然に怯えて一生投げ続けろっていうのかい!」
 スティーブソンは胸へ延びているコウの手首を掴む。そして、腕が振るえるほど強く握りしめた。見開いた目は充血し、端から涙が止めどなく流れていた。
 「そうだ」
 厳然と言い放つコウ。その意志に曇りはない。
 「無理だ」
 栄養の薄い金髪が横に揺れる。下を向こうとするスティーブソン。しかし、胸を掴む腕が捻りあがると、顎が押されて叶わない。
 「自分で言ってたことだぜ」
 「なんだよ」
 「打たれない理由さ」
 その時、スティーブソンの脳裏に映ったのは、紅の防波堤。太陽に消えてゆく白球。そして、魂の燃焼。
 「ああ」
 この男は、あんな言葉を。あんな、興奮からでた取り留めもない言葉を覚えているのか。
 だが、そう思ったスティーブソンも覚えているのだ。自分の取り留めもない言葉を。
 「命をかけて投げているから」
 二人の声が揃った。コウはにっこり笑う。
 「マジにそうだとは思わなかったぜ。確かに、俺は打てなきゃ死ぬって考えたことねぇし、気持ちじゃ負けてるかもな」
 あの頃は、違った。こんな体質では無かった。思いはするが、弁解する必要を感じない。だから。
 「ああ、そうだよ」
 スティーブソンも頬をつり上げる。笑い方を忘れたのか、不器用に震わせながら。
 「な、なにも変わってないだろ。投げない理由、あるかよ」
 「ないとも」
 コウは手をスティーブソンの胸から外した。そして、それは自然と向かってきた手と組み合った。
 夕炎がまた、スティーブソンのろうそくへ灯を灯したのだ。

  男の世界に圧倒されていた。じぃんと胸にくるものがあったし、自分の手段がいかに酷いものであったか、実感したミサキだった。
 結果として、二人を引き合わせたのは正解だった。それだけに、無力感がある。
 「それじゃあ特訓だな。もう大会まで二週間無いぜ」
 「ああ、やろう」
 二人は連れだって出入り口へ歩いていった。
 「野球、半年ぶりなんだろ。できるのかよ」
 「同じ状況で、君ならできないだろうね」
 「なんだと」
 笑い声がシルエットと共に消えてゆく。
 ミサキはどこかへ行く気になれなかった。彼女もスティーブソンに投げて欲しかったのだから、これで良かった。しかし、しこりのようなものが心にある。
 どれだけ時間が経ったろうか。そして、思いいたる。謝っていない。
 確かに吐くほど辛かった。しかし、それが最善だと思っていたのだ。体が壊れることに慣れてもらう。そうすれば、彼はきっとまた投げるだろう。実行した。殴って蹴って砕いた。だが、その成果は。
 彼に謝らないと。あんなに酷いことをしたのだ。
 ミサキは光の方へ走る。自らに急かされて雑草をかき分ける。もう日が暮れていた。
 「あっ」 
 見違えた。日の下で出会ったのが初めてだからではない。透けるような金糸の髪。磨きあげられたサファイアを埋めた眼窩。伸び放題だった髭は剃られている。刃負けの赤い線が頬に一筋。小汚いシャツも着替え、ラインの入った黒のランニングウェアの上下になっている。
 「スティーブソン、くん」
 本人の前でその名を呼んだのは初めてかもしれない。
 「君が誰なのか僕は知らない。けど、分かるよ。野球、もう一度やらせたかったんだよね」
 「ごめんなさい」
 つむじが後ろ髪に隠れる。顔を伏せたのは謝意からというよりも、彼を見ていられないからだ。
 「謝らなくていい。聞いたよ、コウくんは君が連れてきてくれたんだろう」
「違うの、私は」
 ミサキの背中、浮き出た肩胛骨にそっと手が置かれる。彼女はびくりとして、腰を伸ばした。
 二人の距離は息がかかるほどになっている
。ミサキはつま先に力を入れたが、後ろに下がれはしなかった。清純に光る二つのサファイアがその足を地面に縫いつけている。
 「むしろ、お礼を言いに来たのさ。僕はもう一度マウンドに立つ気持ちになれた」
 川が流れるごとく当たり前に、ミサキの手がスティーブソンの手に包まれて、胸の前に持ってこられる。
 「お、お礼だなんて」
 しどろもどろに空を見上げるミサキ。その手が汗ばむのは夏の暑さのためだけだろうか。
 「いいや、言わせてもらうよ。ありがとう、僕を殴ってくれて」
 自制心である。この青年は妹のコズエの思い人で、それで。ミサキの思考は彼の手がぐちゃぐちゃにかき混ぜてまとまらない。
 「気にしないで、もう忘れて」
 「いいや、気にするし、忘れないよ。こっちを向いて」
 スティーブソンの空いていた手がミサキの頬に触れる。すべすべした感触はスポーツマンの手とは思えない、人形かなにかのようだ。そう感じると、ミサキには目の前の青年が、シュブナイルの王子のように思えてくる。ならば、周りの雑草は一面金と銀のバラで、背後の廃工場は尖塔に旗を立てた城だ。
 「頼みがあるんだ」
 「なんですか」
 知らず、敬語になっているのは、物理的距離が取れない代わりに精神的な距離を取ったのだろう。涙ぐましい抵抗である。
 「たった一つだけなんだけど、いや、随分君には恩があるし、差し出がましい頼みなんだ。でも、時々、うん、たまにでいいから」
 「なんなんですか」
 「僕に今までみたいな乱暴をして欲しい」
 ぼんやり桜色に染めた頬が気持ち悪い、ミサキは嘘偽り無く思う。ミサキの周囲を包んでいた甘い匂いのもやは消え去り、薄汚い雑草が生い茂っていた。

  それからの一週間は飛ぶように過ぎた。球児二人はそれぞれの高校で日が落ちるまで練習している。特に半年の空白期間があるスティーブソンは、一層奮励した。さすがは希代の投手だけあり、もう八割方の実力を取り戻していた。
 ミサキはというと、病院と大学と家を言ったり来たりだ。
 姉妹の間には約束があった。手術の決意ができないコズエに、ミサキが取り付けたものだ。それは、スティーブソンの投げる姿を見せること。そうしたら、コズエは手術を受ける、というもの。
 もうスティーブソンは復部しているので、約束は果たせる。しかし、彼女の決意を促すにあたり、一番効果的なのは、決勝戦のマウンドにて投げるスティーブソンの姿だと考えていた。地方大会トーナメントの決勝戦の組み合わせは、順当に行けば蕪と永聯となる。その時、球場へ車椅子を押して行くつもりだった。
 本当にコズエは、手術を決断してくれるだろうか、そのことについては不安だが、二校が負ける心配は全くしていない。
 さて、そう計画したはいいが、焦燥は募る。今にも病魔は妹の体を犯しているし、自分ができることはなにもないのだから。
 そんな気分となると、講義であくびをかみ殺してなどいられない。だが、やはりできることもない。そんなやりどころない意志が、月曜の昼から赤錆た扉をくぐらせた。
 ここは七月になっても涼しげで、遠くに聞こえる蝉もそれを助長していた。
 向かったのはいつものパイプ椅子だった。
 「あれ」
 そこに、男が居る。いがぐり頭に眉を斜に引いたコウ。
 ミサキはここに来たことを少し後悔した。正直な気持ち、得意な相手ではないし、得意になれるはずもない。あまりにも、出会い方が悪すぎた。今になっても思う。例えば、あの日、携帯を忘れていたら? 待ち受けを変えていたら? 電源が切れていたら? 私はどうなったのだろうか。
 それにあの死体。なんだったのだろう。詳しく聞きたいわけでもないが、あれを作ったのはコウだろう。そして、隠していた。あれは今頃、壁のむこうの土の下で、分解され始めているのだろうか。
 またそれらを差し引いても、今までミサキが関わってきたタイプの人間ではなく、接しづらかった。
 「ちょうどいい、持て」
 「えっ」
 ふらりと立ち上がったコウが腕を伸ばしてきた。ミサキは思わず身を引く。そのため、それは宙へ浮く。
 「こら、落とすな」
 胸に押しつけられたのは、野球のグラブだった。焦げ茶色の表面の所々が白くなっている。コウがすばやくすくい上げて、今度は瞳の前へ差し出した。
 「着けろ、そうしたら離れろ」
 従わないと、なにをされるか分からない。その思いが、彼女の足を進める。
 「ああ、その辺でいい。じゃ、投げてこい」
 グラブは膨らんでいる。中に硬球があった。
 「やったことないわ」
 コウは立てかけてあったバットを取る。
 「いいから投げろ。軽くでいい」
 初めて触る硬球は重く、どう掴むのが正しいのかも分からなかった。難儀して投げた球は見当違いの方向へ飛んで行く。
 「下手くそ」
 ミサキの元へボールが返ってくる。小さく声を上げ、膝を曲げて頭を抱える。正確に彼女のグラブへの軌道を描いていたボールは後ろへ飛んでいった。
 「避けるな」
 「だって」
 コウとしては軽く投げたつもりだったが、彼女には十分速かった。急かされて小走りで硬球へ向かう。
 「えい」
 また投げる。腰が引けたフォームから繰り出される球はへろへろと見当違いの方へ。
 コウがボールを転がしてくる。それを投げる。また転がしてくる。
 額から汗が一筋。私はなにをしているんだろう、そんな疑問と共に投げたボール。それは、ようやくストライクゾーンを通る球だった。
 コウの瞳孔が開き、両手が握り直される。そして、絶好の瞬間を越えて、硬球は彼を通りすぎて行く。
 「ちくしょう!」
 叫びと共にバットが叩きつけられた。すさまじい金属音が響いて、ミサキは両目をつぶった。
 「あっ」
 コウは工場を飛び出した。呆然としていた彼女は、すぐ側の壁のむこうに雑草の踏みつぶされる音を聞く。
 あの人にこれ以上関わる理由なんてない。そのはずなのだが、ミサキは走り出した。
 彼の瞳に、妹と似た色を見つけてしまったから。
 工場の西側面。彼は猛烈な勢いで穴を掘っていた。素手であるにもかかわらず、ミサキがスコップを使うより掘り進む速度は速いだろう。
 もっとも、ミサキは感心することはなかった。むしろ逆で、この人ってちょっとおかしいんだろうかと思った。
 「あの、やめたほうがいいよ」
 「この野郎いい加減にしろよ、死んでまで俺に付きまとうな」
 そのうち、わっと黒い霧が穴から飛び出してくる。その黒い粒一つ一つは、すべてハエだ。
 げえっと、呻いてコウは顔を背ける。背けた下の地面で吐瀉物が跳ねる。それを見てしまったのだ。
 ミサキは霧の止んだ後、好奇心に押されて穴の奥をのぞきこむ。土色の肌。ひしゃげた眼球に集うウジ虫。半開きの口はひび割れた舌を見せる。そしてその無数のひび隙間にもウジ虫が入り込み体を横たえている。
 同じように、ミサキも顔を背けた。その後も同じだった。
 濁った色の雲がゆっくりと太陽を覆い尽くす。
 「なにがあったの」
 「お前に関係ない」
 「だから、気楽に話せるでしょ」
 コウは埋め直した土の上にあぐらをかいて、語りだした。親殺しについて。
 口調はたどたどしく、なにを言っているか大部分が判然としない。しかし、ミサキは急かしもしないで、小さく頷いてやった。
 「バットが振れないんだ。死に際のアイツの顔が浮かぶんだ」
 つまり、彼の抱えている問題はその一言で示された。
 「そりゃあ俺のやったことはワルだ。けどよ、この夏だけ、この大会だけは出たいんだ。その後はどうでもいい、供養が欲しいんならしてやるぜ」
 コウは眉根寄せて真下へ叫ぶ。
 「だから、今だけは邪魔すんじゃねぇよ」
 この上なく身勝手な主張である。ミサキは小さく息を吐くと、工場の角を曲がって消えた。残された男は、そのままうなだれていた。

  部屋は未だに悪臭が残っていたし、暗いままだった。ユウが起き上がる。扉の開く音が聞こえた。
 のっそりと入ってきた人影。ユウには兄のものだとすぐ分かる。
 「今日は風呂に行くか」
 腹をさすりながら、弟はしぶしぶと従った。
 くしゃくしゃの タオルケットをそれぞれ持ち、ぐるぐると階段を降りた。蒸せる 暗夜を歩いて二人がやって来たのは、公園であった。
 「お前からでいい」
 ユウは水飲み場のグレーチングに素足で踏み込む。 シャツとズボンを脱ぎ、下着も下ろして全裸になると、それらを兄へ渡した。代わりに小さな石鹸を握らされる。
 少し捻っただけで蛇口から勢いよく水が飛び出し、周りの砂に米粒状のしみを作った。
 ユウは屈む。水の落ちるところへ無理やり頭をねじ込んで髪をかき乱した。蛇口は捻り続けなければ水が止まる。そのため、頭の上に手を伸ばしたままでいなければならなかった。
 いつもは兄が蛇口を固定しておいてくれるのだが、今日は公園のそばを走る道の方をぼんやり眺めている。
 ユウが股間のチャックを上げると、次はコウが服を脱いだ。弟は丸出しだったが、兄は腰にタオルを巻いていた。
 小さな手が蛇口を包む。二人の間に会話はない。普段はコウが一方的に話しているので、それが黙ってしまっていると、沈黙が続く。そう、今のように。
 こんな時、兄はなにかに悩んでいる。それを弟はちゃんと理解していた。そして、自分が聞いたところで、なにも話してくれないことも。
 だから、別のことを聞くことにした。
 「ご飯は?」
 「忘れた」
 ユウの腹がきゅるると鳴る。
 「お腹すいた」
 その声が聞こえているのか、いないのか。青年は頭を濡らし続ける。
 「止めんな」
 豆だらけの手が蛇口へ伸びる。また水が流れ出した。
 「お腹すいた」
 先ほどより音量が上がる。コウの反応は変わらない。
 それで悟った、自分の要望は叶えられないことに。押さえつけていた感情が爆発し、ユウは叫ぶ。
 「うるせぇんだよ」
 コウがユウの首根っこを掴み、胸元へ引き寄せる。仰向けにし、無理やり口を開かせた。蛇口から落ちる水が喉奥に叩き込まれる。片方の目は全開され、兄の青筋を見ている。
 「好きなだけ飲め」
 数分して解放されたユウは転がってえづく。赤ら顔を濡らしているのは涙か水か。
 それを尻目にコウはさっさと服を着て、かかとを踏み潰したスニーカーを履く。
 「スティーブソン」
 その呟きは風に乗る。呼吸がうるさい少年の耳にもかすかに聞き取れた。
 足音が坂を登ってゆく。ユウはまだそこに居た。
 雲が流れ、月光が少年へ注ぐ。白く染まる体、しかし潰れた瞳だけは死の色合いを強固に留めている。
 「スティーブソン」
 硬球のように丸い月が、バットに打たれて飛んで行く。ユウの夢想の中で。
 未来を拓け! あんなに嫌いだった父の言葉が空きっ腹の中を反響した。
 「うん」
 素直な返事だった。空腹も忘れて、少年は立ち上がった。

  小気味好い音と共にスティーブソンの顔が弾けた。
 「あっ、ごめん。やりすぎた」
 「いや、やりすぎるということはないよ」
 腫らした頬を摩りながら、眩しく笑う。そんな様子を見るたび、ミサキは背筋に寒いものを感じた。
 「それで、彼がイップスだっていうのか」
 「うん。バットが振れないんだって」
 火曜日の午後である。例の工場内で二人は相対していた。
 殺人犯でしかも親殺しで自分にも害を為す大悪党のためなにかをしてやる義理なんてない。だが、ミサキはその問題を解消するつもりだった。あくまで、彼女の理想とする永聯と蕪の決勝戦を実現するためである。四番が欠けては蕪が勝ち進める可能性は低くなる。
 彼女自身はそう思い込むようにした。しかし、本当にそうだろうか。
 「原因はわかっているのか」
 ミサキの腕がしなる。先ほどとは逆側の頬に手の甲がぶつかる。
 「一応ね」
 人の事情を勝手に話すのもどうかと思ったミサキだったが、ここまで言っては仕方ないと覚悟を決めた。
 最初は目を見開いたスティーブソンだったが、話が終わる頃にはすっかり落ち着いた。
 「なら、なんとしてもバットを振れるようにしないとね」
 淡白と取れるほど冷静な意見に、ミサキが肩透かしを食らったような気持ちになる。
 「その、いいの?」
 「なにが」
 聞き返されて具体的な言葉が浮かばなかった。男の子同士ってこんな感じなのかなと、納得することにした。
 「よし、僕に考えがある。これから時間あるかな」
 その飄々とした態度に妙な苛立ちを覚えながら、ミサキは腕を振りかぶる。
 「あっ、ごめん」
 「いや、いいんだ。それでいいんだ」

  水曜日、二人は朝から工場に居た。ミサキは授業をすっぽかしたし、コウは練習をサボった。
 「おはよう」
 ミサキの目には、コウが月曜から更に荒んだことが分かる。だから、あえて明るく声をかけたが、一瞥すらなかった。
 代わりに、兄の後ろからひょっこり顔を出したユウが返事をした。
 「待たせたみたいだね、ごめん」
 二人が着いてから十分後、スティーブソンが現れた。兄弟は声の方を向く。ミサキはそちらへ顔を向ける気になれなかった。
 「お前、それ」
 スティーブソンは、黄染めの法衣をまとっている。安っぽい数珠を鳴らすと、ついて来いとばかりに振り返った。
 金髪碧眼の青年が仏僧に扮しているのは、ちぐはぐで不自然な感覚を覚えるコウ。ミサキも同様だったが、初見ではないので、コウほど強烈ではない。
 この衣装は昨日二人で選んだものだ。三千円する割に品質が良くないが、ミサキと違い、スティーブソンは満足している。
 「ここだね」
 彼が立ち止まったのは、工場の東西。土の色が違う場所だ。
 コウがぎらついた瞳をミサキに向ける。明確な非難だった。
 「なにするつもりなんだよ」
 「一つしかないだろ、供養だ」
 スティーブソンは、法衣の生地を引っ張ると、当然のように答えた。
 「話は聞かせてもらった、君には葬式が必要だ」
 「はあ?」
 「葬式とは誰のためのものだと思う」
 コウは眉間にしわを寄せて、口を固く閉じている。今にもスティーブソンに跳びかかりそうな雰囲気を感じて、ミサキは落ち着かない。
 「生きている人のためだよ。人生のピリオドだ、だからそいつを打って、君のバットに絡みついた死者の手を払いとる」
 「そんなことのために呼んだのか、こっちは練習を抜けて来てるんだぞ」
 「バットも振れないでなんになる。今更君の守備がどうにかなるとも思えないし。なにせ君のそれときたら、そこらの下っ腹の出た草野球のおじさんのがまだ上手だからね」
 ますますコウの眉間のしわが深くなってゆく。しかし、スティーブソンは全く意に介さないで、話を続けた。
 「さ、さっさとやろう。僕だって時間があるわけじゃないよ」
 スティーブソンが胸元に手を入れる。しかし、目当てのものが見つからなかったらしく、身体中を探る。
 「どうしたのよ」
 「その、経文を書いた紙が見つからなくて」
 眉を八の字にしたスティーブソンに、コウがそれを差し出した。黒い合成皮の手帳だ。
 「それでいいだろ、適当なところを読み上げろ」
 蕪の生徒手帳であった。
 「けれどなあ、こういうのは形式が大事だ。家まで取りに戻るよ」
 「いいからさっさと終わらせろ」
 問答が続いたが、時間の無さには勝てずに、結局はスティーブソンが折れた。
 「学則。第1条、本校は未来への希望を担う青少年の育成を至上の目的とする」
 スティーブソンが伸びきった口調で読む。それが蕪の校則あっても、あくまで経文として読んでいた。
 それが一分、二分、三分と続く。時間が進むごとに、コウの足は素早く地面をタップし、ミサキの眠気は強くなった。
 ちょうど十分して読み終わると、手帳を閉じて、数珠をかき鳴らした。
 「よし、次は出棺だな。なにか音楽を頼むよ。出来るだけ故人にゆかりのある曲で」
 振り返って言うスティーブソン。コウは、彼の行動にいちいち文句を付けていたら、かえって遅くなるだけだと思った。なにを出棺するのか疑問に感じてもいたが。
 「ユウ、来て歌え」
 呼ばれた少年の肩が小さく揺れる。少し離れて動向を見ていたユウが小走りで寄ってきた。そして、楕円に口を開いた。
 「あああああ」
 特徴的なシャウトから始まり、西の海岸を目指す歌だ。
 「よし、そんなもんでいいだろう」
 スティーブソンは一メートルほどの卒塔婆と筆ペン握っている。
 「あとは戒名だね。お父さんはどんな人だったんだい」
 コウが卒塔婆とペンを奪う。勢いのままペンを動かしして、スティーブソンの後ろにある地面へ卒塔婆を突き刺した。
 馬鹿、と書きたかったのだろう。漢字が分からなかったらしく、『馬か』と書いてある。ミサキは、馬鹿なのはこの人じゃないかなと思った。
 「はは、馬鹿は君だな」
 「ああ?」
 取っ組み合いになった。

  スティーブソンが乱れた髪を手櫛ですいている時、コウは襟元を正していた。
 「どうだい、なにか憑き物が落ちた感じがするんじゃないか」
 「知るか」
 そっぽを向いて呟いたので、スティーブソンにその言葉は届かなかった。
 「試してみる気はないか」
 法衣に手をかけるスティーブソン。その下から現れたのは純白のユニフォームだ。
 衣ずれの音で振り向いたコウの目にバットが映る。先端が白っぽい使い古しの品だ。
 「これは工場で打ち捨てられていたものだよ。いや、打てなかったから捨てたのか」
 コウは受け取ったバットをリレーのように弟へ押し付けた。
 「なんだ、やらないのか?」
 「こいつは備品だ」
 それだけ言って、工事の中へ駆けこんだ。再び、三人の前に姿を現したコウはスパイクを履き、それを右手に握りしめていた。何度もテープを巻き直した青銅色のバット。これこそが、彼の相棒だ。
 よし来たと頷いて、スティーブソンが卒塔婆の方へ向かう。埋め直した土が盛り上がっているので、マウンドと見立てるに最適だった。
 「邪魔だな」
 突き立てたばかりの卒塔婆がぞんざいに投げられ、薮向こうに消える。
 コウが間隔を取り、スティーブソンが足元を踏みならすと、準備が整った。
 中天へ登りゆく陽が熱い、しかし、ここの肉体の奥より光を放つ二つの魂がより熱い。視線は漏れいでた熱線となり、二人の間で激突する。
 頭皮から流れた汗が口苦い、コウは思う。あの葬式ごっこの効果とは思えないが、振れる。今なら確実に振れる。
 バットが腕となったような感覚。体と鋼をつなぐものこそ、胸に燃えるものだ、もう一度思う。振れる、今ならば。
 唇の乾きが心地よい、スティーブソンは思う。感謝がある、もう一度投げれる喜びがある。投げれる、今ならあの日と同じ球を。
 右腕が燃えるような感覚。触れ得ざる球へと昇華するものこそ、胸に燃えるものだ。もう一度思う。投げられる、今ならば。
 ハンカチを忘れた、ミサキは思う。
 「あっ、ごめんちょっと待って。人を呼びたいんだけど」
 これをコズエに見せればと思った。だが、二人は当然無視する。
 セット。左足を下げる、連動して両手が頭の上までやってくる。体が捻れて、引きしぼられる。
 そして、白球が伸びやかに、コウの元へとーー届かなかった。
 スティーブソンの体は、くの字になり、指から外れた球が落ちる。血は流れない、代わりに赤い破片が宙を舞う。
 誰も彼を見ていなかった。予備のバットを誰が持っていようと、彼以外はどうでもよかった。
 腹から引いたバットは中に掲げられる。そして、スティーブソンの頭部へ落ちた。数千の赤いかけらはその全てが陽を照らし返す。その輝きたちを引き裂いてゆく無慈悲なる鋼鉄の一撃、二撃。
 そして、惨劇は終わった。盛り土の上に残るのは、赤いかけらの山と、ユニフォームと、バットを持ったユウ。
 「いやああ」
 あまりに唐突な出来事に、蝋人形のごとく立っているしかなかったミサキとユウ。最初に動けたミサキが呻く。続いてコウが叫びながら、ユウへ駆けてゆく。
 胸ぐらを掴み上げ、わめき散らしているが、意味のある言葉は一つもない。ユウはされるがままに、両腕を垂らしている。その口が小さく動いていた。
 「未来を切り拓く」
 呪文のように何度も何度も繰り返している。
 「未来を切り拓く、未来を 切り拓く、未来 を切り拓く」
 兄を苦しめ、自分へ辛く当たらせるもの。それはスティーブソンであると、感得したのが満月の夜。それをどうにかすれば兄は今までのように戻ると、思いついたのが同じ夜。兄と同じ方法によってと、決めたのも同じ夜。そして、この朝。泥に汚れた細腕が、未来を切り拓く予定の一撃を決めた。
 コウの拳が瞳へ入る。弟の残る一つの瞳へと。悪寒のする音が響いて、血涙が流れた。
 ユウは目を両手で抑える。両手をでたらめに動かして、兄の戒めを抜けた。そして、駆け出す。 トタン壁にぶち当たり、転げ回った。起き上がり、とにかく兄の声のする方向の逆へと走った。
 コウは消えてゆく小さな背中を追わなかった。ただ破片の山にすがって泣いた。
 ミサキは彼が脱ぎ捨てた法衣を綺麗に折りたたんだ。そんなことをするべきではないことはわかっているはずだが、そうした。その後、服を広げて、また折りだした。何の意味もない。
 「私のしてきたことは」
 意味あることだった。すべて、ついさっきまでは。
 「ああ、コズエ」
 鳴き声が輪唱した。まだ陽は上りきらない。

  更に目の隈が濃くなったように思う。ミサキはラジオセットをその膝に置いた。
 「外に出られるなんて」
 セーラー帽子を被ったコズエが、車椅子に腰を下ろしている。病衣に上着を羽織っただけの服装だ。
 「うん」
 ミサキがラジオを付ける。朗々とした声のアナウンスに導かれ、往年のヒットナンバーが流れ出す。そこにセミの声が加わって、混ざり合って生まれるのが夏色だ。
 ハンドルを握る腕が汗で滲む。坂を上りきったミサキは一息吐く。
 そこで彼に出会った。ミサキは目を見開いたが、相手も同様であった。
 狭間コウは病床から抜け出してきたかのような顔つきで、よれたシャツの裾で汗を拭った。私たちと同じね、ミサキは思った。
 「妹よ」
 「あっ、コズエです」
 車椅子の上で軽く会釈したが、コウはそちらに目を向けなかった。
 「なにしに行くつもりだ」
 ミサキは無言で道を進む。返事はできなかった、自分でもどうしてあそこへ妹を連れて行こうとしているのか分からなかった。彼の破片を見せてどうなるというのだろう。自らの努力を妹に認めてもらいたいのだろうか。その結果、妹がショックを受けても? 思考は巡る。結論へは至れない。
 「あなたはどうなの」
 コウも答えなかった。わからないのでなく、答えたくないだけだ。
 赤錆が高い草のむこうに見える。 二人が目指したのは、廃工場である。かつてのペンキ工場で今はガラクタ置き場の大きなガラクタ。
 そこにガラクタとなった彼が積もっている。
 ああ、そうか。これは葬式なんだ。私と狭間くんが、彼の死を受け止めるための日なんだ。ミサキは気がついた。
 工場の西で、葬列は止まる。あの日と変わらず、盛土の上に赤い破片とユニフォームがあった。
 「自首するつもりだ」
 振り始めの雨のように、コウが言った。
 「あんなんでも弟だ。捜索願出したくてな、そんならもう隠してらんねぇよ。ああ、お前のことは言わない」
 「きっと、彼のご両親も彼を探してるのよね」
 コウは生徒手帳を開いた。
 「学則。第1条、本校は未来への希望を担う青少年の育成を至上の目的とする」
 それだけ言って閉じる。ラジオがちょうど、あの時と同じ歌を流した。
 「やめろ」
 コズエの肩が小さく跳ねる。膝上にコウの手が伸びて、ラジオのチャンネルが切り替わった。
 「それでは、只今より全国高等学校野球選手権大会〇〇地方決勝の模様をお届けします」
 「あっ」
 コウの目つきが険しくなり、唾を吐き捨てた。踵を返して、来た道を戻ってゆく。その姿をミサキは潤んだ瞳で見つめている。
 コズエは二人の関係も分からず、ここがなんなのか、自分がどうして連れてこられたのかも分かないので、どうしようもなく、姉に倣って男の背中を見ていた。
 その時だ。背後から音がした。誰も聞いたことがない音だった。
 全員が振り返る、そしてその現象を発見した。
 土が更に盛り上がっている、破片とユニフォームを巻き込んで螺旋に上へ上へと。
 「なんだこりゃあ」
 破片混ざりの土は二メートル程度で止まると、四方にも伸びた。手と足である。そうして完成したのは、ユニフォームをまとった泥人形だ。
 「まさか、お前なのか!?」
 コウは叫んだ。コズエはユニフォームの背中にエースナンバーを見た。
 泥人形の顔はいびつに丸いだけで瞳も鼻も口もない。
 「スティーブソンくん!?」
 何故そう思ったのか、コズエは自分でも説明できない。ただ、そう直感した。
 泥人形は土を散らしながら屈んで、落ちていた硬球を握りしめた。手は指の一本一本まで精巧に形作られている。
 「蕪と永聯ナインが整列して一礼しました」
 察したミサキはハンドルを握り、壁際に下がる。
 「ああ、そうか、そういうことかよ」
 あの日捨てたバットが持ち主の元に戻る。あの日沈んだ二つの魂がまた燃え上がる。
 ミサキは流れる涙が押しとどめられない、コウは押しとどめる気などない。
 セット。コズエは確信した。ああ、これは私の好きな。
 振りかぶる左腕が崩れた。上げた左足が崩れた。巨大な亀裂が肩口から入る。首が折れた。
 コウは泰然と構えて、微笑んだ。見えている、あの夕陽が。
 「プレイボールが告げられます。ピッチャー加川くん。第一球投げました」

ガラスのエース、滅びの一球

ガラスのエース、滅びの一球

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-09

Copyrighted
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