蝋梅とツグミ
ふわりと、甘い匂いが鼻をくすぐった。
それはまるで淑やかな少女の笑うような、控えめでなお華やかさの溢れてしまうような、たいそう心地のよい匂いであった。
それは、まだ梅の咲くには早い頃、木々の芽が次第に膨らんで萌え出す準備をしている頃のことだった。まだ風の冷たい季節であるというのに、一足早く葉のない枝に花を咲かせるそれは、一本の蝋梅であった。
毎日通る道であるのに、毎年花の咲くとき以外は、全く目にとまらないのは不思議なものである。私は、蝋梅に気付いた嬉しさと、ほんの少しのわけもない寂しさで胸がいっぱいになって、ひとつ大きなため息で、それを吐き出した。冬の終わりは、いつもどこか寂しい。
私は片手でそっと蝋梅の枝を引き寄せて、その黄色く丸い花をようく眺めた。蝋細工の梅、とはよく言ったもので、厚みのある花弁はほんのりと半透明で、蝋のようなやわらかな艶をもっている。冬の青空によく映える、鮮やかで美しい黄色などは、いくら人が真似ても全く同じように作ることはできまい。私はそんなことに考えを巡らせながら、一足早い春の香りを、胸いっぱいに染みわたらせた。
私は枝をそっと手放して、万作や木瓜が咲くのも頃合いだろうか、或いは万作などはもう咲いているのだろうか、などと考えつつ、また歩を進めようとした。
その時つい、と椋鳥ほどの大きさの鳥が、蝋梅の一番てっぺんの枝へととまるのが見え、私はぱっと振り向いた。蝋梅の木は一階の屋根を少し超えるくらいの高さだったから、目のよくない私は、目をすぼめて睨むようにして、その鳥をじっと見た。
その鳥は、椋鳥よりも羽のまだらが多く、また足や嘴などを見ても、年中見る鳥たちよりいくぶん地味な色をしていた。顔をふちどる白い襟巻きに似た模様が特徴的なそれは、冬によく見慣れた姿であった。
「ツグミよ、お前はきっと、もうじきここを離れるのだろう」
私はぽつりと、独り言のつもりでそう呟いた。言ってから、誰かに聞かれたか、と一瞬周りを見渡したが、幸く人の気配はなかった。
ツグミはこの辺りでは冬鳥であるから、春のくる頃になると北のほうへ飛び立ってしまう。今年はあと何回見られるだろうか、などと考えていた、その時であった。
「ええ、私らは暖かくなったら、北へ旅に出なきゃなりませんもの」
そう声が聞こえた。どきりとして、辺りをもう一度見回してみても、人の気配は一つもない。空耳か、或いは妄想かと思ったところで、また同じ声が言う。
「あら、ごめんなさい。私も、貴方に聞こえているとは思っていなかったの」
その時、蝋梅にとまったツグミが、下の枝へ飛び移ってきた。私が手を伸ばしてもぎりぎり届かないほどの高さへ近づいたツグミが、こちらに顔を向けたまま口を開いた。
「この花は、毎年ここへ来るたびに見ているのですが、いつ見ても素敵ですのね」
「僕に話しているのは、君かい」
「果たしてそれ以外に、話し相手がいるのかしらん」
ツグミはそう言って、面白そうに体をゆらした。
私はこのとき、目の前のツグミの言葉が解せることについていろいろと考えてみたが、不思議と動揺はせず、きっともう春が来たと勘違いした、能天気な私の頭が見せている夢なのだろう、と思い至った。
ツグミは蝋梅をたいそう気に入ったようで、その黄色い蝋の鞠をつついたり、またじっと眺めたりしていた。
「それは蝋梅というのだよ。蝋でできたような梅という意味だ」
私がそう言うと、ツグミは少し首をかしげて、それから言った。
「蝋は、人の言っているのを聞いたことがありますから、分かります。けれどもウメとは、なんでしょう」
私は一瞬考えて、それから答えた。
「君らは梅の咲くより前に行ってしまうから、知らないのも仕方あるまい。梅は、春の花のことだよ。木の芽よりも先に花を咲かせる、赤くて可愛らしい花だ」
ツグミはへえ、と小さく感心するような声をあげて、答えた。
「もしかして、シベリアへゆく時に見える、あの赤い木々でしょうか」
「分からない。けれども、そうかもしれないね」
私がそう言うとツグミは嬉しそうに、枝を行ったり来たりしては、さっきと同じように蝋梅の花をつついて遊んでいた。
「花の散ってしまうのは、寂しいね」
私は夢の中だというのに、なんだか少し眠いような、ぼうっとした頭で、そう呟いた。ツグミは答えた。
「寂しいことなんかありません。来年になれば皆同じことを繰り返すでしょう」
「蝋梅が散った後に梅が咲くというのが、まるで、他の者に命を預けているようだと、思うんだ。まるで生き返らせるみたいにさ。この季節は皆、生きたり死んだりしていて、ひどくせわしないものなのだね。だからきっと、冬の終わりはこんなにも寂しいんだ」
「ひとからそんな言葉が聞けるだなんて、不思議な感じがするものですわ。あなたがた、近頃はすっかり彼らのことが、どうでもよくなってしまったのかと思っていたもの」
ツグミの言った彼らというのが、果たして何のことなのか、私はもうひどく頭がぼんやりしてしまっていて、はっきりと聞かなかった。私はただ
「たいていは、少し忘れてしまっているだけだろうさ」
とだけ答えた。それを聞いてツグミは、しばらくじっと黙り込んでいた。それから静かに口を開いた。
「私はこれから先シベリアへ行くすがら、あの赤い花を咲かす木を見て――それがほんとうに梅かどうか、私には分かりませんけれど――きっと貴方を思い出すのです。遠くへ行ってしまっても、そうして思い出せさえすれば、何も寂しくはないのです」
私はそれを聞いて、いつだかどこかで読んだ物語を思い出した。キツネが黄金色の小麦畑を見て、かつて自分の懐いた少年のことを思い出す話だった。私は、君とこうして話していることが夢だったと気付いたら、きっと余計に寂しさが増すだけだろう、という言葉を飲み込んで、ただ「違いない」と答えた。ツグミはひとつ頷くと、
「また来年ここで会えたら、その時は」
と、それだけ言って、私の返事も待たず、枝からぱっと飛び立って行ってしまった。
ああ、もうじき蝋の梅は散り、梅はほころぶ。
お終い
蝋梅とツグミ