鯛の鯛は忘却の海の底で夢を見る

 一

 私は秋葉原で機械専用のジャンクショップで少年型アンドロイドを安価で購入した。それはセクサロイドタイプなのだが店の主人が言うには、どうやら記憶回路に欠陥があるらしく、記憶領域へのアクセスが不安定なのだという。
「毎日あんたのこと忘れるかもしれないけど、それでもいいなら六千円で売るよ」
 私はそれでも構いませんと主人に現金で支払った。
「初めまして。僕はV〇六一二です。よろしくお願い致します」
 V〇六一二と名乗った少年の見た目は中学生ぐらいであったが、女性の持つものとは違う柔らかさを持っていた。中性的な顔立ちで、肌は透き通った美しい乳白色であった。大きな浅葱色の瞳で私を見つめ、優しく微笑んだ。私も小さく会釈をして彼の手を取り、家まで歩いて帰ることにした。帰路の途中、ずっと私の横にくっついては、にこにこと笑っていた。夜の冷たい風が身に染みる。少年の美しく短い銀色の猫毛がそよそよと泳ぐのを見ると、何故か背中がこそばゆくなるのだった。
 私は天涯孤独の身であった。家族もいなければ恋人もいない。母は私が十八歳の時に癌で死んだ。そして父もまた、大学を卒業してから一年後に脳卒中で倒れ、そのまま死んでしまった。よく会社の同僚に「彼女でも作ればいいのに」と言われるのだが、私は女に全く関心がなかった。かと言って、男にも全く興味がない。私は人間に対して興味がないのである。それだけではない、私はこの世の全てに無関心だった。だから家には最低限の物しかない。だから私はワンルームの安いアパートに住んでいる。
 先ほど私は「天涯孤独の身で『あった』」と過去形にしたのだが、これには訳がある。今夜から、白銀色の美しい少年が部屋の住人となったからだ。
 少年はぐるっと私の小さな部屋を見回した。
「シンプルな部屋なんですね」
「私にとって、これだけで十分だからね」
 彼は好奇心溢れた眼差しで私の部屋をくまなく調査し始めた。バスユニットや、冷蔵庫の中、そして狭く小さなベランダ、隅々調べて、あたかも異世界を探検する勇者のようだった。
「冷蔵庫の中、ペットボトル一本しかなかったんですけど不便じゃないんですか?」
「私は自炊しないし、食事はだいたい外で済ますか、コンビニで買ってしまうからね。それだけで事足りるんだよ」
 彼はふうんと鼻を鳴らし、ゆったりとベッドに座り込むのだった。ここで「いきなり人の家に上がって、部屋を探索するのはあまりお行儀が良くないよ」と注意しようと思ったのだが、敢えて口にはしなかった。今まであらゆる事に無関心であった私が、何故こんなものを買ったのだろう。ただの気まぐれなのだろうか。
 少年型のセクサロイドはぼんやりと天井を見つめて、そのまま眠り込んでしまった。

 名前を付けるという行為は、ひどく勇気を必要とする行為であるように思われた。例えば、犬に何も考えずに「ポチ」という名前を付けたとする。しかし、その安易な行動で主人と、それに服従する者(奴隷であってはいけない)という関係が結ばれてしまう。それは永遠の契約であり二度と変えることは出来ない。それが例え犬猫であろうと人間であろうと変わらない。これは神と被造物の関係と同じであると言える。
 被造物は神の奴隷であってはならない。神に従うのではなく、無意識のうちに自然体で行動しなくてはならない。そこに自己は内側ではなく外側にある。
 V〇六一二を購入した翌日は土曜で、のんびりとした朝であった。十時過ぎに彼は目覚め、ぼんやりとしたまま不思議そうな顔で部屋を見回していた。そして私の顔をじっと見つめて「あなたが新しいご主人様になるのですか?」と訊ねた。私はそうだよと返した。
「初めまして。僕はV〇六一二です。よろしくお願い致します」
 事前に説明があったものの、実際に忘れられるというのは少し寂しく感じるのだった。
「昨日のことは覚えてないのかい?」
 ほんの数秒だけ考え込んだ後、ちょっとだけ困ったような顔で答えた。
「……申し訳ありません。記憶回路に不調があるみたいで、うまく思い出せないんです。長い間、『不良品』としてお店に出されていることは覚えています。あっ、でも僕はこうしてご主人様と出会えたことを、とても嬉しく思っています」
 私はこの「ご主人様」という言葉に違和感を覚えた。私は奴隷も労働者も必要としていない。そこで私は提案をした。
「その、『ご主人様』というのはやめてくれないか。恥ずかしいから」
 彼は目を丸くした。戸惑いを隠せないようであった。
「では……。なんとお呼びすれば良いのでしょうか」
「名前でいい。私の名前は『廣人』だから、そう呼んでくれ」
「分かりました。『廣人さん』」
 私は「廣人さん」という言葉もくすぐったく感じたのだが、あまり悪い気はしない。彼の明るくなった顔に免じて、それで良しとした。
「そうしたら君の名前を考えないとね」
「どうしてです? 僕の名前はV〇六一二です。もう既に名前はあるので別称は必要ありません」
「僕はね、君をロボット扱いしたくないんだ。人間として受け入れたいんだよ。だから新しい名前が必要なんだ」
 そこで私は二人で一緒に考えようと提案したのだが、彼に「廣人さんが決めてください。僕は廣人さんに名づけられたいんです」と却下されてしまった。
 私は困ってしまった。特にこれといったものが思い浮かばなかったのもあるが、それ以上に永遠の契りを交わす恐ろしさを感じたからだ。
 ほんの数分であろうと思われる沈黙がとても長く感じる。そんな中で私は「山桜」という言葉が頭によぎった。特に理由もなく、ふっと思い浮かんだ言葉を名前にするのはどうかと思ったが、それ以外に何も思いつかない。
「山桜という名前はどうだろう」
「ヤマザクラ?」
「嫌かな」
「いいえ、とても嬉しいです。廣人さんがくれるものはなんだって嬉しいです」
 彼はとても嬉しそうな顔で、そのまま私に抱きついた。
「僕、絶対に忘れないようにします。絶対に……」
「分かった、分かったから離れてくれ。ところで君は飲食はできるのかい」
「はい、一応は」
「そうか、せっかくだから一緒に食べよう。何か食べてみたいものはある?」
「急に言われても、なかなか思いつきませんよ。廣人さんが好きなものがいいです」
 山桜は随分と楽しそうだった。
「じゃあコンビニに行こう。山桜も来るかい」
「もちろんですよ、僕はずっと貴方のお側にいます」
 こうして私たちの新しい生活が始まった。

 山桜が来て以来、生活が随分と豊かになった。そして部屋の中に物が少しずつ増えていった。ボードゲーム、ぬいぐるみ、テレビ、観葉植物……。以前の私なら、絶対に買うはずがないものだ。しかし、こうして物に囲まれて暮らすのも悪くないような気がする。
 そして冷蔵庫の中も食材でいっぱいになった。意外なことに山桜は料理が得意で、まるで専業主婦のように容易く台所を扱うのである。
 当然、ワンボックスタイプのものでは収まりきらないので、二ドアタイプのものに買い替えたのだが、それでも一杯いっぱいで、いっそのこと五ドアタイプで四百リットル以上の大きさのものを買えば良かったと後悔している。
 このような変化は職場にも表れているらしく、後輩に「ついに彼女が出来たんですね」とからかわれてしまった。それだけではなく、雰囲気が明るくなったらしい。決して嫌ではないが、なんだか照れくさいと思うのだった。
 ある休日の日のことである。山桜がオセロをしたいとせがんできたので、テーブルの上にボードを出して石を並べた。
「負けませんからね」
 山桜は無邪気に笑った。
 石が黒から白へ、白から黒へとぱちんと音を立てて変わってゆく。
「ところで」
 山桜の手が止まる。
「いつになったら僕を抱いてくれますか」
 私は性欲が無いわけではない、ただ興味が無かっただけなのだ。
「僕はご主人様の生欲を処理する為に作られた道具です」
 石は硬い音を立てながら、ボードを黒く染めていった。
「廣人さんは……。どうして僕を買ったんですか」
「どうしてだろうな……」
「これでは僕の存在理由がない……。生きている意味も……価値もない」
「セックスをする事だけが君の存在理由なのかい」
 山桜は頷いた。
「それでは死んでいるのと何も変わらないよ」
 ボードの片隅に白石が置かれた。私は一杯のコーヒーを飲んだ。
「私は前に君を人として接していきたいと言ったのを覚えているかい」
 黙ったまま何も答えない。
「人間には知恵が必要だ。君は道具じゃない」
「よく分からない……。僕は道具だ……」
「僕は主を慰める為だけに存在する道具です。だから……」
 山桜は口を噤んで、少しだけ間を置いてこう言った。
「僕は人間にはなれない」
「君はまだ生まれて間もない赤ん坊なのさ」
「貴方は変わった人だ」
 山桜が小さく笑みを浮かべたが、それは何処となく寂しそうな雰囲気を漂わせていた。
「もう、やめるかい」
「いいえ今日こそ廣人さんに勝つって決めてますから」
「君もなかなかの負けず嫌いなんだね」
 試合は続行された。数時間、狭い部屋の中では、ぱちぱちと音が響くだけだった。
 
 山桜と一緒に暮らして一月以上が経っているが、私は孤独というものが、どういうものか未だに分かっていない。
 もしかすると本当は私がロボットで、山桜が人間なのかもしれない。私はこの世に愛する者は存在しないと思っているし、その逆も然りだ。もしそれが存在するとするなら、この世界の外にあるだろう。ここには真実なんてものは存在しないのだ。目に見えるものは、真実ではなく偽りなのだ。だが山桜には肉眼では見えるはずのない世界の外側を見通しているのかもしれない。
 アンドロイドは基本的にロボット工学の三原則に基づいて作られた基礎プログラムによって働き、それぞれ人間に与えられた役割を果たしている。彼らの主たる人間は何も考えもなしに、行動を能動的に受け入れるだけで良いのだろうが、私はそういうふうに受け入れることは出来なかった。少なくとも、山桜だけは必然によって行動をしてもらいたいのだ。圧迫された服従は主従関係を破壊し、秩序をも壊してしまうからだ。私は歪んだ関係は望んでいない。

 二

 共同生活を始めてから数ヶ月が経った。
 仕事が終わった後は普段と同じように、どこにも寄り道をしないで真っ直ぐアパートに戻った。家の鍵を開けると部屋に明かりがついていなかった。
「ただいまー。なんだ、誰もいないのか?」
 電気をつけると、ベッドの中でうずくまっている山桜がいた。私は羽毛布団を剥がそうと手を伸ばした。
「やめてください!」
 山桜は布団の中で大声をあげた。
「一体君は何をしているんだ」
「やめてください……。お願いですから……僕を見ないで……」
「どうしたんだい」
「お願いです、電気を消してください……」
 山桜の震える声が聞こえた。
「じゃあまず、わけを話してごらん」
「それはできません」
「どうして?」
「……廣人さんに……嫌われたく……ないから……」
 すすり泣きをしながら途切れ途切れに答えている。
「どうして私に嫌われるのかな」
 山桜はじっとしたまま何も答えなかった。
「今の僕の姿を見たら、きっとあなたに嫌われてしまうんです。そして毎日、軽蔑の眼差しで僕を見る……。そんなの、耐えられない」
「それじゃあ、こうしよう。私は決して君を嫌ったり、腫れ物扱いをしないと約束する。どうだろう」
「本当に……約束してくれますか……」
「もちろん」私は小さく頷いた。「だから早く出てきておくれ」
 いい加減観念したのか、もぞもぞと動き、亀のようにゆっくりを顔を出した。目元が少しばかり赤くなっている。しかし動きが止まり達磨のような姿で私をじっと見つめた。
「……やっぱり恥ずかしいです」
「駄目だ、約束したろ。ほら」
 私は無造作に布団を引き剥がすと、そこには一糸纒わぬ少年がいた。そしてベッドに私のワイシャツがしわくしゃになって放置されている。私は言葉に詰まってしまった。そこで何をしていたのか聞くのは野暮というものだ。
 少年は私に顔を背けて俯いている。
「そうだな……。まずは服を着なさい。話は後でゆっくり聞くから」
 山桜は俯いて黙ったままだった。
 私はコーヒーを淹れようと背を背けた、その時だった。
「僕を捨てるんですね」
 私は振り向くと山桜は裸のまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「……僕は……命令に背いてしまった……だから……僕は……」
 最後に力を振り絞るように声を出して言った。
「ここにいる資格がない」
「どうしてそんなことを言うんだ。君はセクサロイドだろ、だったらそれは普通のことだし、僕に裸を見られた事ぐらい些細な事じゃないか。それに」
 私は二人分のマグカップを取り出して、コーヒーメーカーのボタンを押した。
「私が一体全体、どんな命令を出したと言うんだい」
「それは……」
「ほら、そのままだと風邪を引くだろ。早く服を着るんだ」
「僕は風邪を引かないので、大丈夫です」
 のろのろと私のワイシャツに手を伸ばし腕に裾を通した。
「どうして私のワイシャツ着るんだ」
「だめ……ですか?」
「別に駄目じゃないけどさ、自分のがあるだろ?」
 私に裸を晒したまま、何かを考え込んでいるようだった。
 元々、セクサロイドは人の性欲を満たすためだけに作られたアンドロイドだ。そして命に従い羞恥心を捨て(そもそも持っているかどうかは疑問だが)、奉仕をするのが本来の役割となる。そのためには当然、支配者を魅惑する要素がなくてはならない。私は十分にそれを理解し、彼と共に過ごしていたはずだった。
「あんまり……じろじろ見ないで……」
 顔を赤らめながら私に背を向けた。
 私は小さい頃から、よく両親に「知識だけの頭でっかち」だと言われていた。今の今まで気にしていなかった事が、私の目前に晒された山桜の目の当たりにした時、その言葉が頭の中で強く響いている。
 山桜の透き通った白い肌は確かに男を魅惑する力を持っている。計算され尽くした人工的な誘惑美があった。うなじから背中にかけてほっそりとした線は柔らかく、美術の教科書に載っている石膏像のようだった。
「どうしても私のがいいんだね」
「……やっぱり駄目ですか」
「いや、構わないよ」
「僕……廣人さんの匂いが大好きなんです……。これを着ていると、廣人さんに抱きしめられているような気がして……」
 サイズが合っていないぶかぶかのシャツを着ている姿は、まるで子供みたいだった。
「それで、どうしてあんなことをしたんだ」
 少年は艶のある両足をテーブルの下に晒したまま口を閉ざしている。
「別に叱っているわけでも、責めているわけでもないんだよ」
 私は苦味のあるコーヒーを一口すすった。
 彼もまた私の真似をしてずず、と音を立てて角砂糖がたっぷり入ったコーヒーを少しだけ口にした。
「黙っていたら何も分からないだろう?」
「……僕は……」
 コーヒーに映る自分の姿を見ながら答えた。
「貴方に……犯されたいんです……。乱暴に扱われて……無理やり挿れられて……それで、それで……」
「わかった。もういいよ」
「僕は」
 声を荒げて真剣な顔で私を見る。
「道具なんです。貴方は以前に『道具ではなく、人として扱いたい』と言った。でも、それは無理なんです。出来ないことなんです。僕はただ精液を受け入れるだけの……」
「便器でしかないんです」
 それを聞いた時、私は強い不快感と憎悪が湧いた。私は反射的に彼の頰に平手打ちをした。
「二度とそんなこと言うな」
 数秒の間を置いてもう一度同じことを言った。
「ぼくは……僕のこと……嫌いに……なら、ないで……。もう二度とこんなことしないって約束するから……お願い……」
 彼は叩かれた頬を手で抑えながら、とぎれとぎれに懇願をした。美しい浅葱色をした瞳から一筋の涙が流れていた。
 この顔を見た時、私は我に返った。なんということをしてしまったのだろうか。思わず座っていた椅子を倒して山桜を強く抱きしめた。
「すまない」
 髪に山桜の頰が当たっている。
「許してくれ」
 そう小さく囁いた後に、「ずっと貴方のお側にいます」と彼は呟いた。気のせいかもしれないが、彼は微笑んでいたような気がした。

 夜に私は寝る前に山桜にベッドで一つ物語を聞かせた。それは旧約聖書のアダムとイヴの物語だった。イヴが蛇に唆されて禁断の果実を口にし、アダムもまたその実を齧った。それが人類が初めて神に対して犯した罪であり、罪を犯した罰として楽園から追放された話を丹念に語った。
 山桜は熱心に話を聞いてくれていたようだった。そして話を終えると私の手を優しく握って問うたのだった。
「ねえ、もしイヴが禁断の果実を食べなかったら人類は一体どうなっていたと思う?」
「さあね……。少なくとも、永遠にエデンにいたんじゃないかな。そうすると僕たちはこの世に命を授かることはなかったかもしれない」 
 それを聞いた山桜はふふっと笑った。
「じゃあ、その二人のおかげで僕たちはこうしていられるんですね」
「どうだろうな。でも、こうして出会えたのも神の導きなのかもしれないね」
「私はね、山桜」
 私はふわふわと羽毛のように柔らかい癖のある銀色の髪を、そっと撫でた。
「君にいろんなことを経験して、学んで欲しいんだ。知恵を得るということは、恥を知るということなんだよ。そして同時に人としての感情を得ることが出来る」
 それを聞いた山桜は何も言わず、私の胸に顔を埋めて背中に手を回した。私もそれに答えるように静かに抱きしめる。
「さっきのことは……恥ずかしいと言えば恥ずかしい。少なくとも人にあまり話してはいけないことではある。でも私は咎めたり、怒ったりはしない。それが君の役割なのだから。ただ、自分のことを蔑ろにして欲しくないんだ。そして君には、人間として生きて欲しい。それから」
 一呼吸置いて、こう言った。
「もう二度とあんなこと言わないでくれ」
 山桜は私の足を絡ませて小さく分かりましたと答えた。そして私の顔を見て微笑んでおやすみなさいとだけ言って眠りについた。私の白いワイシャツを着て素足を晒しまま。

 私は日曜日に上野へ行かないかと山桜を誘った。彼は二つ返事で誘いに乗ってくれた。
 十時過ぎに家を出て、山手線にゆったりと揺られ上野へと向かった。休日なので当然車内は空いていた。
 山桜がパンダを見たいと言い出したので、私たちは上野駅の公園口の改札を出て、国立西洋美術館を通り過ぎた。動物園の中に入ると、家族連れや恋人、外国人観光客でごった返していた。しかし迂闊なことにパンダの観覧は事前に申し込みをしなくてはならず、その上抽選で当たらないと見ることが出来ないらしかった。私は自らの情報不足に謝ったが山桜は笑いながら仕方ないですよと許してくれた。二人はパンダを諦め、様々な動物を眺めたのだった。キリンやフラミンゴ、そして狼、象、フクロウ、鹿……。
 私には動物達が一体何を考え、何を思って過ごしているのか分からない。檻の中で過ごす人生は楽しいのだろうか。しかし考えてみれば私もまた会社の中で働いて給料をもらい、日々を過ごしている。この生き物達と何も変わらないのだ。そんな中身のないことをぼんやりと考えている横で、山桜は熱心に動物の動きを観察していた。
 ちょうど空腹になった時に、私たちは動物園を出て一度来た道を戻り、東京文化会館の中にある精養軒に入った。
 ボーイに案内され、二人掛けのテーブル席についた。
「好きなもの食べなさい」
 私はメニュー表を開き、じっと彼を見つめる。
「そう言われると、迷ってしまいますね」
 私はどうしてだか、この言葉を聞いて家族ができた喜びを感じたのだった。思わず顔がほころんでしまう。
「えっと……じゃあ、これと、これ」
 彼が指差したのは、ビーフハンバーグステーキとパンダロールだった。そのロールケーキには可愛らしいパンダの顔がプリントされている。
「はは、パンダは見られなかったからね……」
「プリンと迷ったんですけど……。このパンダさん、かわいいから」
「まあ、せっかく上野に来たんだしなあ」
 そうして注文を取り、私は牛頰肉のシチューを頼んだ。私はライスを追加し、山桜はパンを追加した。
 食事を終え、山桜のデザートを待っている間、私はこの後どこに行こうかと尋ねた。
「そうですね……。うーんと……」
 彼は深く考え、こう言った。
「美術館とか、博物館がいいです。あ、あと。さっき動物園行く時に見かけた大きな彫刻がすごく気になります」
 ボーイが山桜のグラスに水を注いだ。
「じゃあ、ちょうど目の前だし、西洋美術館に行こうか」
 そう言った数分後に、愛くるしいデザートがテーブルの上に置かれたのだった。
「食べるのもったいないですねえ」
「大丈夫だよ。ここのパンダにはいつでも会えるし、逃げたりしないさ」
「そうですね、あ。そうだ! 今度、家でプリン作りましょうよ。ねっ?」
「ああ、そうだな。山桜くんの作るプリン、とても美味しいだろうなあ」
「そりゃあそうですよ」
 山桜はにこっと笑顔を作った。
「なんて言ったって僕が作るものはみんな美味しいに決まってるんだから。バケツのプリンとかどうです?」
「それは遠慮願いたい」
 この小さな幸福は私の今までの人生の中には無いものだった。

 国立西洋美術館の中には様々な絵画と彫刻があったのだが、中でもとりわけ目を引くのはキリストと聖母マリアが描かれた二連祭壇画であった。右翼に祈りを捧げるマリアが描かれ、左翼には両手を握り合わせたキリストが描かれている。そして作品に「ディルク・バウツ派 悲しみの聖母 荊冠のキリスト」と書かれたキャプションが添えられていた。
 描かれている二人の目が赤く染まっている。私は美術に疎く、詳細は分からないが、これから訪れる試練に恐れと悲しみを抱いているのだろうか。
 涙を流し、目を真っ赤に腫らして祈るマリアは苦しみの中で、神に祈りを捧げているようだ。祈りは苦痛を伴い、苦痛は魂と肉体を引き剥がす。そのような痛みには私は到底耐えられないだろう。
 美術館を出る頃には、時計の針が二時を指そうとしていた。
「僕、芸術はよく分からないんですけど……。面白かったです」
「そりゃあ良かった」
「次は東京博物館行きませんか」
「ああ、いいよ」
 私たちは上野公園の噴水広場を散策しながら博物館へ向かった。
「うわー、すごく大きいですねえ。今日中に見て回れるのかな?」
 山桜は横断歩道の前で、目の前にある東京国立博物館にひどく感心した。
 この博物館は学生の時に一度だけ行ったことがある。ここは本館、東洋館、表慶館など様々な館に分かれている。そして花見や紅葉の時期には庭園が解放されるらしい。そこで二人きりで花見をするのも悪くないなと、ふと思うのだった。私は正門にあるチケット売り場で二人分の入館料を払い、入り口にいるスタッフにチケットを見せて中へと入った。私たちは本館へ向かい、一階の展示室をぐるっと見て回った。本館の展示室は一階と二階に分かれており、一室ごとに展示されるテーマが区分されている。エントランスに入り、右に進むと第十一室があり、そこには数十体ほどの仏像が展示されている。それらはおおよそ平安時代から鎌倉時の間に制作されたものだった。
 山桜は不動明王の荒々しい姿に興味があるのか、食い入るように見ていた。
「仏像って面白いですねえ」
「ああ、色々と考え込んでしまうね」
「一体何を考えてるんですか?」
「それは秘密」
「教えてくださいよう」
「だめ。ほら、あんまり騒いでると博物館の人に怒られちゃうから、静かにな」
「はあい」
 彼が他に興味を指し示したのは尾形光琳が描いたとされている、江戸時代の小袖だった。それは秋の草花が全体的に描かれているものだった。水色の花はおそらく桔梗だろう。
 少年もまた、小袖に描かれている花が気になるようで私の袖を引っ張った。
「ねえ、これなんの花だと思います?」
「青い花は多分桔梗だと思う。それで多分……。白いのは、形からして菊の花かなぁ。花の事はよく知らないから、違うかもしれないけど」
「まあ確かに廣人さんにお花は似合いませんよね」
「はっきり言ってくれるなぁ」
 二人は静かにふふと笑みをこぼした。
「花かぁ……うちでも飾ってもいいかもなあ……」
 山桜は小さく独り言を言った。
 二階の展示室を見て回った後は一旦エントランスに戻り、そこからミュージアムショップへ足を運んだ。お土産用のクッキーや、インテリア用のミニチュア屏風、文房具、キーホルダー、美術書、洋服、ハンカチなどバラエティに富んでいたが私は山桜にねだられて埴輪のぬいぐるみを一つ購入をしたのだった。あのちょっと抜けたような表情が彼のツボに来たらしい。嬉しそうな顔で「ありがとう」とお礼を言った。
 私は先ほど見た仏像が心のどこかで引っかかっていたので、山桜に法隆寺宝物館へ行かないかと提案した。
「うん。行きましょうよ。早く早く!」
 そう言って私の手を握っては腕を引っ張った。
 第二室のずらっと小さな仏像が並んでいる光景は圧巻であった。
 多数、仏像がある中で私はある一つの仏像に目が止まった。それは台座に腰を掛け、半分だけ胡座をかいて右手で印を結んでいる仏像だった。それは「半跏像」と呼ばれるものらしい。私はこの仏像を見ていると昼頃に見た聖母の祈りを思い出すのであった。
 神に祈るということは魂を神に預けるということだ。その行為には神のためにとか、神が命令したから、といった不純な動機があってはならない。あくまでも無意識に、自然の体でなくてはいけないのだ。すなわち必然である。
 私は神を信じているわけではないが、神は存在すると思っている。それは厳密に言えば神ではなく、創造主である。
《創造主は我々をお造りになられた……愛を持って、主に祈りを……》
 無意識にこんな言葉が頭の中でよぎった時、「愛」という言葉が私に鈍い痛みを襲った。
 愛。下らなくて、ばかばかしい言葉。薄っぺらで安っぽい、浅はかな言葉。嘘くさい言葉。
 私はそんな言葉が大嫌いだった。本来なら非常に不愉快になるはずなのだが、「愛」という言葉を思い浮かべると同時に、山桜が自慰に耽る姿を想像したのだった。私のワイシャツを着て、淫らに私の名を呼びながら手淫に耽る彼の姿を……。
 ベッドの上に跪き、両手で、あの細く繊細で柔らかな指で……自分を辱め……慰め……相手に捧げた〈祈り〉が自己に帰結する……。
 白い皮一枚で肉欲に身を委ねる山桜の姿がノイズのように乱れ、神に侮辱行為を働いている。それは山桜が一人で耽っている時、私に「愛を持って祈りを捧げている」とでも言いたいのだろうか。もしそうであるなら、それは歪んだ愛であって私と彼が結んでいる契約を壊しかねない。それだけは避けたい。だが、それは必ずしも歪んでいるとは限らず、神格化された私が山桜の中を通って彼に恩寵を授け、彼は恩に報いるべく祈りを捧げているということも十分に考えられるのだ。私が神になるなんて随分と馬鹿馬鹿しい話だが、もしそれが正しいとすれば彼の行為は愚行ではなく、知恵を授かった人間として当然の行為なのだ。山桜は人間になれたというわけである。
 私は……山桜とどうなりたいのだろうか。
「ねえ、廣人さん」
 自分が性にひどく恐れる幼稚な人間のように思えてきて、情けない気持ちになった。
「ひーろーひーとーさあーん」
 私も彼を歪んだ形で愛しているのだろうか。私が散々嫌っていた人間と同じように。
「ねえったら!」
 山桜が私のシャツの袖を強く引っ張った。
「もう! この菩薩さんを見てぼんやりしてるんだから」
「ああ。すまない」
 一人の館内スタッフが私たちに近づいてきた。
「館内ではお静かにご鑑賞ください」
 ついに注意されてしまった。

 日が暮れる前に私たちは上野を出ることにした。夕方の山手線は、朝よりも混んでいたが平日ほどではなく、パーソナルスペースを確保できるほどの余裕はあった。電車の音を聞きながら、私は山桜に言った。
「この後は、コンビニでご飯を買って家で食べよう。今日はもう疲れたよ……。静かな場所で休みたい」
「分かりました。家は静かで落ち着きますものね」
 結局、一番好きな場所は住み慣れた自分の家だった。
 帰宅後は二人で入浴と夕食を済ませ、部屋の中でだらけていた。
「さっき私が考えていたことはね、山桜くん」
 私はベッドで寝っ転がって、さっき買ったばかりの埴輪のぬいぐるみを抱いている山桜に語りかけた。
「なんですか」
「愛について色々考えていたんだよ」
「愛ですか。僕は廣人さんを愛しています」
 思わず不意打ちを食らってしまったが、止めずに語り続ける。
「この世に、本当に、『愛する人』と『愛される人』がいるのか、今でも疑問に思っているんだ。少なくとも僕にとって『愛する人』がいるのか、『僕を愛してくれる人』がいるのか……。分からないんだ」
「本当に貴方って人は変なことしか考えない人だ」
 山桜はあどけない顔で笑った。
「僕は廣人さんを愛してるし、僕は廣人さんに愛されてる。逆もそう、廣人さんは僕を愛してるし、廣人さんは僕に愛されてる。たったこれだけのことです」
「本当に……それは正しい愛なのかな?」
「もう! ひねくれ屋さんなんだから! 変なことばっかり考えてると、えいっ!」
 突然私に飛びかかり、抱きついてきた。
「こうですよっ」
 右手の人差し指と親指で私の鼻をつまんだのだった。
「こら、やめないか」
 私は右手首を掴み、そして両手で彼を抱きしめた。
「今日はもう寝よう、またお話を聞かせてあげるから、いい子にするんだ」
「今日はなんの話を聞かせてくれるんですか」
「そうだなあ……。ベッドに潜ってから考えよう」
 私は臆病者だ。本当は孤独を恐れて、自ら自己を内部から破壊していただけの臆病者だ。今のこの状態を壊したくはない。孤独が何であるかを知ってしまうからだ。山桜とは平衡を保ったままでありたい。彼を遠くに置かず、これ以上近づかないようにする。今のままで、もう少しだけ眺めていたい。

 三

 外では毎日、蝉たちが合唱をするようになった。丸く白く光る太陽の下で、飽きずに命を削って鳴いている。
 そんな中で山桜はエアコンの効いた部屋で裸のままゴロゴロしているのだった。
「いつまでもそんな格好で寝てるなよ」
「うう……だって、あつい……」
「昼ご飯は冷蔵庫に入ってるから……じゃあ行ってくるよ」
「いってらっさあい……」
 私はゴミを持って、家を出た。ゴミを捨てる時にふと彼のことが気にかかったが、特に心配することなくそのまま会社へと向かった。
 そして夜になり、家に帰宅すると山桜は朝の状態のままだった。
「お前、一日中その格好でいたのか……。風邪は引かないとは言うが、ロボットだって体に不調をきたす事だってあるだろう?」
 しかし彼は唸るだけで、それ以外の反応は何もなかった。
「ご飯は食べたのかい」
「食べて……ないです……」
 彼の様子を見る限りでは、どこか具合が悪そうなように見える。私は冷蔵庫の中を開けると、昼ごはんとして取っておいたピラフが忽然と消えているのだった。不審に思った私は山桜にご飯はどうしたのかもう一度尋ねると、ぼんやりと分からないとだけ答えたのである。
 ふと、台所の流しを見るとピラフが盛ってあったはずの皿が空っぽになったのを見つけた。
「なんだ、食べてるじゃないか」
「え……?」
 ボクサーパンツ一枚でふらりとベッドから起き上がり、のっそりと私の元へ来た。
「あれ……。いつ食べたんだろう……」
「やっぱり、どこか具合でも悪いんじゃないか。明日病院へ……」
「大丈夫ですよ、ただの夏バテだと思うので……」
「アンドロイドは夏バテにはなるのか」
「わかんないけど……。でも、多分大丈夫……。水飲めば……多分……」
「じゃあ、ちゃんと服を着て、今日はもう寝なさい」
 山桜はこの日の境に容態が変化していった。ついに彼の記憶領域へアクセスするための回路に不調をきたし始めたのである。そして記録媒体そのものにも不具合が生じているらしく物忘れが日に日に悪化し、大事な記憶も少しずつ減っていった。共に生活をしていても、わたしたちは少しずつ引き剥がされているのだ。
 昨日一緒に食べたご飯、休日に二人で散歩をしたこと、そこでホトトギスを見た事……。それらは全て雪に埋もれていくように、白く消え去ってしまうのだ。
 私はアンドロイド専門の修理施設であるラボへ連れて行こうとしたのだが、彼は頑なに拒むのであった。
「どうしてそんなに嫌がるんだい。お医者さんに体を少し見てもらうだけだよ。いきなり手術なんてしないさ」
「……ダメなんです……。この体は……誰にも見せられません」
「どうして! このままだと君は君ではなくなるんだぞ!」
 思わず私は怒鳴ったが、彼は怯まず反論をした。
「医者に行くぐらいなら、僕は自殺します! 誰かの手に触れられるぐらいなら……僕は自ら死を選びます」
「だからどうしてそうなるんだ!」
 繰り返される押し問答に苛立ちが募っていくばかりだった。
「どうしても、ダメなんです……。体の中を弄られる時点で僕は僕ではなくなる、僕はそう思うんです……」
 自分が自分ではなくなる恐怖、それはこの世で一番恐ろしいものではないかと思う。幽霊よりも、死よりも、ずっと恐ろしいことのように思えるのだ。それと同じぐらい私は山桜を失うことが怖かった。
「怖がることはないんだ……。記憶さえあれば、君は君のままでいられる」
 私はそっと彼を抱きしめた。
「いいえ、僕は……貴方と出会った時のままでいたいんです……。それに、僕の秘密が外に漏れるような気がして……」
「君の秘密?」
「はい、僕が心のずっと奥深くにしまい込んだ秘密です」
「それは……?」
「まだ、教えません」
 私の顔を見上げて優しく笑った。外から橙黄色の光が差している。

 私はベランダで夏の夜空を見ていると、「毎日あんたのこと忘れるかもしれないけど、それでもいいなら六千円で売るよ」と、店主の声が頭の中で再生されたのだった。
「毎日忘れるかもしれない」私はついにこの時が来た。そう思った。
 今ならまだ間に合う。無理矢理にでもラボに連れて行けば、まだ山桜と一緒に。
「駄目ですよ。僕の秘密が外に漏れるといけないから」
 山桜の幻影が私に囁いた。
 山桜の秘密。私と出会う前の過去の記憶のことだろうか。それともこっそりと私の知らないところで他の男と寝たのだろうか。皆目見当がつかない。一体何を隠しているのだろう?
「そんなところで何してるんですか」
 後ろを振り返るとホットココアが入ったマグカップを両手で持っている山桜の姿があった。
「星が綺麗だなあ、ってこうして眺めていたのさ」
「そうですねえ……。ねえ、廣人さん」
「なんだい」
「さっきは……ごめんなさい……。貴方を、困らせてしまって……」
「いや、いいんだ。ところで、君の意志は変わらないのかい」
「はい」
 彼の返事は澱みが全く無かった。
「変なとこだけ強情なんだね、君は……。でも、少しだけでもいいから、私の気持ちも、考えて欲しかったなあ」
 夜風がほのかに冷たい。そろそろ夏が終わるのだろう。
「廣人さんの、気持ち?」
「そう、僕の気持ち」
「それは……いったい、どんな?」
 山桜はマグカップに口付けた。藍色の長袖パジャマを着ている彼は、人間の子供のようだ。彼が本当に人の子であったら、こんな苦しい思いをしなくて済んだのかもしれない。
「君を失う恐怖に耐えられないということだよ。僕は君の手を」
 彼の瞳を真っ直ぐ捉える。夜に照らされたその瞳は私を反射していた。
「もう二度と離さない」
「じゃあ……お願いがあります。ぼくの、最初で最後のおねがいです」
「最後と言わないでくれよ」
「いいえ、最後です。今日、僕を……抱いて欲しいんです」
「ああ、構わないよ。ただ」
 私は彼に歩み寄った。
「せめて『最後から二番目』にしてくれないか」
 私は彼のマグカップを手に取って、ココアを啜った。もうだいぶ冷めていた。
「『最後から二番目』?」
「そうすれば、終わりがないだろ」
「そう……ですね。さ、そろそろ冷えてきましたし中に入りましょう」
「そうだな、蚊に刺されてしまう」
 こうした、さり気ない会話も少しずつ風に吹かれて、砂上の城の如くぱらぱらと音も立てずに静かに崩れ去っていくのだろう。全ての行動が無意味と化している。

 だったら、幼い少年を犯すことも全く意味がないのだ。
 無機質な寝具の上で衣服を剥ぎ取る行為はまさに穢れを知らない子供の、悪意なき虐待だった。
 純真無垢な少年の皮膚を慎重に一枚ずつ剥がしていった。薄い膜に包まれていた少年の内臓はとてつもなく、脆く柔らかい。
 彼は私の行為を肯定している。何一つ抵抗することなく、ただ私を見つめては恍惚に浸っているだけだった。
 最後の膜を剥がし終えると、そこには生暖かい内臓がむき出しに晒されていた。それは白く、繊細で、弱々しいエネルギーを放つ無機物の生物だった。
「ふふ、そんなにじろじろ見られると恥ずかしいですよう」
 私は黙ったまま、山桜を形造った。
 赤い舌と舌が深く絡み、潜り込み、そして貪り合った。互いに内部をまさぐって魂の拠り所を探っている。その際には言葉は不必要だった。赤く満ちていく吐息だけで十分だった。
「実は……我慢してたんでしょう?」
 先に沈黙を破ったのは山桜の方だった。
「してない、と言うとそれは嘘になるな」
「なんで我慢してたんですか?」
「均衡を保てなくなるからさ」
「なあに、それ」
「禁止を踏み越えると私も君も、人間ではなくなるんだよ」
「やっぱり、貴方ってヘンな人」
 右手で私の頬にそっと触れた。そして次第に私の形を認識していくように、首を、頭を撫で回していった。
「ねえ、僕を」
 山桜はそっと私に耳元で囁いた。
「×××××」
 私は彼の口をこじ開けて、舌先で返事を返した。
 ついにおまえは……私のものになった。そして私の体内に潜り込んだ。赤子が母の胎内に戻っていくように。
 血肉と肉塊に混ざりながら、私と山桜は一つになった。だがこれらは全て無意味だった。しかしそうと分かっていても、止められないのは……本能がそうさせている、あるいは創造主に対する反抗なのかもしれない。
 山桜が私の性器に手を伸ばし、上下に扱き始めた。そして無言で口で円環を作り性器をすっぽりと包み込んだ。
 銀色の猫毛が私の腿を愛撫する。唾液にまみれながら、全てを逃さまいと丹念に睾丸と陰茎を舐り始めたのである。それは飢えに苦しんでいる乞食であり、愛に苦しんでいる哀れな子供でもあった。
 山桜には母の記憶がない。店の片隅で放置されていただけの孤児だった。その記憶が今残されているのかは定かではない。ただ、何者かに縋り付いていたかった事は全くもって確かな事だ。
 屹立した私の性器から溢れた精液は山桜の口内に流れ込み、彼は一滴もこぼさずに飲み干した。
「もっと……もっと……あなたを……」
「山桜」
 浅葱色だったはずの瞳が部屋の間接照明の色と混じり合って、真っ赤に染まった月のようにひどく濁り淀んでいた。
「山桜」
 もう一度、彼の名を呼んだ。ただ、何も言わず微笑んでいるだけだった。
「ねえ、廣人さん。僕の、最後の願い……聞いてくれますか」
「最後と言うのはやめろといったはずだ」
「いいえ、最後なんです……。僕にはわかるんです」
「駄目だ。最後から二番目の願いしか私は聞けない」
「どうして、『最後から二番目』なんですか」
「終わりが永遠にこないからだ」
 私は優しく山桜の背中を抱きしめた。
「そんなもの、ありませんよ」
 山桜が耳元で呟いた。「そんなものは、ありません」
 万物に永遠は存在しない。そんなことは分かりきったことだ。でも私はどうしても抗いたいのだ。時間と命に、苦しみから逃れようと抗わずにはいられないのだ。私は蟻地獄に呑まれている。苦痛と恐怖を伴う穴の中に月の力で引き摺り込まれている。せめて今の苦しみから逃れようとして、深く、深く山桜にキスをした。粘膜と粘膜を絡ませ、舌を使ってもう一度内部まで潜り込もうとしている。彼もまたそれに答えてくれた。口の中から山桜の声が流れ、溢れ出している。
 私は彼を押し倒して、肛門に中指をゆっくりと挿入した。指に粘液が淫らに絡みついてくる。そして山桜の口からどろどろと喘ぎ声が漏れ出した。そこで私は指を一本から二本、そして三本へと増やし穴を拡張していった。
 彼の体内には数千もの百足が潜んでいた。百足は肉壁にへばり付いて私の指を待ち焦がれていたように、食いついて離さないのだった。
 山桜は涙を流しながら「ごしゅじんさま」と漏らした。
「ご主人様はやめろと命令したはずだ、忘れたのか」
《わからない、わからない、です。》
《じゃあ仕置きが必要だな。》
 彼は人の形をした哀れで醜い肉塊と化していた。腐敗の侵蝕が急激に進み、私の体内をも蝕み始めた。
 私は最大寸まで膨らんだ一物を拡張された穴の中に、何のためらいもなく奥まで突き上げるように差し込んだ。そうして内臓を無造作に傷つけていった。石を削り彼の中に「跡」を残している。
 かつて古代人が洞窟の岩壁に事実を遺していったように、私もまた彼の体内に存在の事実を大きく遺していくのだ。
 記録を残す。何のために? 誰かにこの記録を見てもらうために? うたかたに過ぎない活動記録を一体誰が見ると言うのだろう。
 ただ「私がいて、山桜がいた」という事実だけはこの世から消えて欲しくないのだ。神に抗うように、私は必死に無駄な抵抗をしている。無駄で意味がないと分かっていても、やはり止めることができないのだ。
 自己コントロールの効かなくなった私は彼の口をこじ開けて唾液を流し込んだ。そして貫かれて揺さぶられている少年は言語を忘れてしまったかのように、ひたすら同じ言葉を何度も何度も繰り返した。
 すき、スキ、だいすきです、ごしゅじんさま。
 私はそう言われるたびに彼の核を、硬い音を立てながら何度も繰り返して突く。完全に恍惚に侵蝕された私たちは時間の外に追い出され、自己と他者の境目が消滅し融合した。
 山桜の白く艶めかしくひかめいている腿に二人の混じり合った体液が、ぼたぼたと流れ落ちていった。
 この無意味な行為を嘲笑いたければ笑うがいい。私は指をさされても、馬鹿にされても構わない。今はただ、山桜と名付けられた少年型セクサロイドと共に過ごす事しか頭にないのだから。
 不思議なことに、この日の夜はやけに静かだった。本当にわたしたちだけが取り残されたかのようだった。
「でも、意外でした。廣人さんて、結構激しい人なんですね」
「君が煽るからだ」
「そんなことを言われても」
 山桜は呼吸を整えてからこう言った。
「そう、プログラムされていますから」
 そのまま静かに瞳を閉じて眠りについた。その横で私は一人でぼんやりと山桜をどうすべきなのかを考えていた。結局、ただの独りよがりで山桜のことなぞ何ひとつ考えていなかったのではないだろうか。私は彼がどうあるべきなのか、何も考えていなかったのだ。二つの思いが全身を駆け巡っている。気持ちが晴れぬまま、私も眠りについた。

 四

 あの夜の出来事から一週間が経った日のことだった。
 その日は日曜で山桜はベッドに横たわり、私はぼうっとテレビを見ていた、何の変哲もない休日だった。
「ねえ……廣人さん」
 彼は重たく起き上がりゆっくりを私を背中から抱きしめた。
「こんな出来損ないのセクサロイドでも、天国に行けるのかな」
「そういう話はしないでくれよ。君は、ずっと私のそばに居るはずなのだから」
 聞きたくない、聞きたくない。
「ううん、僕にはわかるよ……」
 お願いだ、これ以上何も言わないでくれ。
「明日はもうこないってことを」
 何も言えなかった。返す言葉が見つからないのだ。
「でも、それでも、いいの。僕が望んだことだから」
「やっぱり君をラボに……」
 山桜は少しだけ強く私の手を握った。
「だめだよ」
「私が死ぬまで君は」
「もう記憶がほとんど残ってないんです……。いろんな場所に連れて行ってくれたはずなのに、いろんなことを教えてくれたはずなのに、何もわからない、何も思い出せない」
 私の背中に彼の涙が伝ってくる。
「ぼくは、あなたの手で殺されたい」
 背中越しにこの世にあってはならない、黒く澱んだ物が私の体の中に潜り込んでくる。
「苦しみが甘美なら僕は余すところなく、全てを受け入れましょう」
 それは天使の声だった。
「ごめんなさい、ご主人様。僕は駄目な愛玩道具です。創造主である、あるじさまの命令を聞くことができませんでした。僕自身、どうしてこんなに修理を拒むのかさえ、もうよく分からないんです。でも、僕はどうしても」
 これは私に対する罰だった。神に成り上がろうとした、おこがましい私に対する神が与えた罰だった。結局私は純真無垢な少年を奴隷として扱っていたのだ。気づかぬうちに私が彼の中に自己をねじ込んでしまっていたのである。
「あなたと一緒にいたいんです」
「創造主であるのは君の方だよ、山桜」
「どうして?」
「私を救ってくれたからだ」
「それなら」
 私の背中に温かな重みがゆっくりとのしかかった。
「よかった」
 鼓動が共鳴している。
「ぼくの最後のわがまま、きいてくれる?」
 私は力なく、ああ。とだけ答えた。
「ぼくが、ぼくであるうちに、殺して欲しいんです」
「君の苦しむ姿は見たくない」
「生きたまま、僕を解体してください」
 これは本当の「最後のおねがい」だった。
「君の『秘密』を僕が見ても、いいのかな……?」
「もちろん」
 山桜はさあ、早くと私を促した。
 私は本当にそれが正しいのかどうか考えたが、彼がそれで苦しみから解き放たれるのなら、私は彼の願いを叶えてやろうと決意した。山桜と一緒に居られる時間は残りわずかとなった。
 解体するといっても、たいそうな道具は必要ない。必要なものは調理に使う包丁一本だけだった。
 ベッドに全裸で眠る少年の顔はとても安らかで、そしてどこか嬉しそうだった。
 彼の喉元に刃物を突きつけ、ゆっくりと肉に食い込ませた。して力を込めて一気に一直線に下半部まで血線を描いた。
 刃が局部にまで達した時、彼は「ああ」と、絶頂に達した時に酷似した悲鳴を上げた。彼の淫らな声を聞いたその刹那に私は勃起をした。
 鮮やかな紅色に染まったベッドの上で私は両手で彼を内部をこじ開けた。彼の体内は人間の構造とほぼ同じだった。唯一明らかな違いといえば、彼の血液は油で出来ていた。血の色は赤色だが、これは恐らく人間の模倣なのであろう。
「痛くはないか」
「いいえ」
「本当に、苦しくはないのか」
「いえ……。このまま……続けてください」
 私は分かったとだけ言って、彼の内臓を壊さないように慎重にそっと一つずつ取り出した。
 鯛の中には、また同じ鯛が存在する。鯛の鯛。人間もまた同じように、人間の中に人間が存在する、喉仏がそれだ。山桜と名付けられたセクサロイドにも入れ子の世界が存在した。小さな体の中に広大な世界があり、それは宇宙だった。
 弱々しく動く臓器たちを私は丁寧に手に取り、傷つかないようにそっと卓上に置いた。山桜はまだ小さく呼吸をしている。
 彼の瞳が私に告げる。
《僕は貴方の奴隷になれて本当に良かった》
 私はぬるりと垂れる両手の血液を見て、激しい自責の念に苛まれる。
《私が、君を。山桜をひどく傷つけてしまった》
 私が安易に『山桜』という名をつけてしまったばかりに、永久の契りを交わしていなければ、きみは、こんなに苦しまなくても良かったはずだ。
「こんなにも愚かなぼくを、許しておくれ、山桜」
 真っ赤に染まった手で彼に空洞を築き上げる。
 ぽっかりと空いた寂しい空洞の中には、かつて人類が作り上げた栄華の跡だけが残されていた。人々が暮らし、主婦たちの井戸端会議をして、子供達が元気にはしゃいでいる。商店街で生計を立てる人々の姿の痕跡だけが虚無となって漂っている。それらは全て瓦礫とガラクタとなり、乾燥しきった団地の中で無言で佇んでいる。そしてその団地の中で一人の男と一人の少年の姿があった。少年は男に抱かれて幸せそうな顔で眠っている。
 それらの光景を全て納めたカメラフィルムに私は震える手で音を立てずに触れた。その瞬間、彼はまた小さく「ああっ」と喘いだ。それに呼応して、私の男根が震え、張り裂けんばかりに膨らんだ。
「ぼくは、うれしい、うれしい」
「ああ、わたしも」
 彼の心臓を五本の指で感じながら、徐々に引きずり出していった。
「かみさま」
 最後の臓器を取り出すと、彼は安らかな眠りについた。その顔は愉悦と快楽、そして幸福に満ち溢れていた。
 最後の言葉をきっかけに、私の頭の中から自動記述のように意味を持たない様々な一節が映像となり、次々に止めどなく洪水となって溢れてくる。
 苦しみが存在するなら愛さなくてはならない。私は貴方のために、貴方は何を望むのか? 私は私の魂を愛する神を欲している。私はあなたの奴隷なのです。神だと思っているそれは依存することしかできない弱者。共依存する哀れな弱者は汚れた部屋の中で地獄に落ちる。同化した腐肉、蛆が集り死臭を放ち、下水道をさまよい歩く我が子を喰うサトゥルヌス。自我を持たぬ人形が自ら神になろうとした罰。おこがましいことをした創造主が与えた罰、快楽に身を委ねた罪。二つの肉体が一つとなった肉塊はどぶの中で眠り続ける。彼らに自我はなく、知恵も肉欲も、記憶をも失い、大理石のような無機物になり、蛍のように弱々しく淡い光を放っている。
 私は彼を征服しただけでなく、影はただの影であると分かっていながら実像と錯覚し、しがみ付いていたのだった。否、そうではなく私は全てを実像に作り変えたと思い込んでいたのだ。愚かな私は山桜を殺す前に気がつくことができなかった。これも、私に与えられた罰だった。
 君はもういない。今の私は死神にすがりつく哀れな乙女そのものだった。私は震える指で死んでしまった少年の唇にそっと触れた。そして付着している血をすくい取って舐めた。
 山桜の味がする。それは今まで共に過ごしてきた記憶の味だった。それを体内に取り込んだ私は突然、飢餓を感じ苦しさを覚えた。この飢えに耐えきれなくなった私は彼の体内を乱暴に掻き回し、ドロドロとしたオイルを口の中に突っ込んだ。それは生ぬるく、強い苦味があり化学薬品のような匂いがあった。私は山桜を求めて食べられそうな部位を胃の中にがむしゃらになって取り込んだ。私と山桜が一つになる。胃の中が満たされた時、私は絶頂に達し彼の顔に射精した。無機質な少年の頬に白い液体が掛かり、いやらしくぬめぬめと光っている。
 私は山桜食べ尽くした後、すっかり疲れてしまい彼の隣で横たわった。
「もう君は永遠に出られない」
 誰もいない静かな血で汚れた部屋の中で独り言ちた。
「私の魂が滅んでも、君は私の中から出られない。私と君は、これでやっと一つになった」
 血まみれの少年を強く抱きしめた。顔にかかる銀色の髪がくすぐったい。
 
 君は私の中から出られない、私も君の牢獄の中に囚われ、外に永遠に出ることができなくなってしまった。
 私たちは永遠に外の光をじかに見ることができないのだろうか?
 私は……。いや、「私は」というのは間違っている。もはや自己が存在しない、ただの無機物な物質でしかないのだから。(今後は「それら」あるいは「それ」と呼ぶことにする)
 それらは創造主に見捨てられ、忘却の海に投げ込まれた。それらには自我が存在せず、ただの物質でしかなかった。誰も知らない、見捨てられた下水道のような場所で内臓によく似た物体は、弱々しく動きほのかに白い光を放っていた。それはまるで見知らぬ誰かにメッセージを送っているようであった。そしてかつて「山桜」と名付けられた、人間として生きることを許された少年だけは天上へ向かい、光を見たことを願う祈りでもあった。

鯛の鯛は忘却の海の底で夢を見る

鯛の鯛は忘却の海の底で夢を見る

主を求める弱者の物語。エログロ系のBL小説です。

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更新日
登録日
2018-03-08

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