秋の雨
晩夏。
しとしとと降り続く雨は、緑の木々を優しく打っている。その柔らかな音は、ずっと聞き飽きることはないの。
畳に伸びる影。空は曇りで、重く垂れ下がっている深い色の雨雲。一面に降り注ぐ優しい雨は、今も彼の頬を打ち付けているかしら。
彼、九松さんは雨でもかまわなく出かけていった。
花や植物、それにこの辺りの水に由来するものを意気揚々と研究している人で、昆虫や小動物にも詳しい人。
蘭学を学び始めてからというものを、いろいろ研究というものに興味を持ち始めたみたい。
彼が少年の頃に良くしてもらっていたオランダ人の学問者ルークさんのことを慕っていて、ちょっと心では妬いてしまう。
ルーク・ドゥ ヨングさんはとても立派な明るい色の髭を蓄えた男の人で、大和語の達者な人だった。
戸口よりも背が高かった。いつでも十歳だった少年の九松さんに手を引かれて走ってくると、寸出の所で屋敷の間口を壊しかけて、欧州衣裳の腕で九松坊の胴を脇にすくい上げ、帽子頭を下げて入って来たわ。秋には秋の染め模様の暖簾を潜って、深緑の目の笑顔をのぞかせて。
毎回、ルークさんが黒いビロウドの上着ポケットから私のためにと可愛いらしい花を出して、手渡してくれる事と来たら、頬を染めてしまって仕方なかったのよ。
私はルークさんに憧れていたから、九松坊やが彼を困らせて懐いてばかり居るのを少しばかり妬いていたのよ。けれど、こちらときたらまた十四歳の少女だったし、ルークさんはただでさえ二十四の大人なお人。
今では、少年だった九松さんは二十歳の立派な大人になって、このお屋敷の婿養子。
ルークさんはお勤めをおえて五年前オランダへ戻っていって、今はもう三十代を謳歌してるのでは無いかしら。絵画もたしなむと言うから、あちらのお国を描いて過ごしているかもしれない。一度は西洋へ行ってみたくて、焦がれてしまう。
まめな所があった私だから、ルークさんからもらったお花の一つ一つをしばらく飾って、それで今でも押し花として和紙に閉じこめて、今のこの座敷の障子下方を飾っている。それを一撫でして、雨の情景を見た。
ぴしゃぴしゃぴしゃ
音と共に、霧煙る向こうから影がやってくる。
九松さんが帰ってきた。
蓑と笠をかぶった彼が頭を下げながら走ってきた。
一度お天道さまのように私に笑いかけた。
そして、格子の向こうへ走っていった。
随分して顔を向けると、九松さんは手ぬぐいで顔を拭きながら入ってくる頃には蓑も笠も納屋に掛けて、着物の裾をおろしていた。
「やあ、見てくれよメイ。この草は羊歯の変わったかんじだよ。須田乃縁の近くで見つけたんだ。亜種って奴じゃあないかな。その辺りだけ一種変わった風のが生えていたんだ」
「本当、模様がついているのねえ。ここの辺りのは、山のも川近くの林のも、緑一色だものね」
「ルーク殿の話では、羊歯は何百も種類があるっていうから、これもきっとその一つ」
「ふうん。けど……、あら」
横に並んだその模様は、しっとりと雨に濡れた羊歯の裏でざらざらとして、模様と言うよりもちょっと様子が違うみたい。
「これは何かの卵ね」
「ええ?」
まじまじと九松さんは羊歯を見る。
「ふふ」
もう少しは頼りある風だともっと惚れるのに、間抜けた声で羊歯を見回して、私を見つめるより必死に確かめている。
けれど、こうやってよろこんで子供みたいに植物を持ってきたり、お天道のような笑顔でやってくると、落ち着き払ったルークさんとはまた違う大切さを九松さんには覚えるの。
つい、可愛いのですねと男の人に言ってしまいそうになる。『子供扱いはいけねえや』と年下の彼をいじけさせるから、私は微笑んでいるだけで訪ねた。
「どう? 何の虫の卵かしら」
「葉の裏に密集する奴に似ているねえ。きっとあの辺りに住む奴らのかな。いろいろなのが居るから、きっとこれらは目を覚ましたら羊歯の栄養でもとって成長して、さなぎになって冬を越えたら何かになるんだ」
こういった曖昧な所もなんだかおかしくって、私は頷きながら一緒に見つめた。
「しかし、こいつらはきっと羊歯が地下茎と離れたから持たないかもしれない」
私は歩いていくと、一輪挿しをもってやってきた。
「挿しておくだけ挿しておいてみましょう。植物だもの、栄養はないけれど、水分があれば少しはもつわ」
彼は笑顔で頷いて羊歯を挿した。
少女の時から使ってきたお気に入りの一輪挿し。
これは九松さんが蚤の市でいきなり買ってくれた。『ルーク殿がおまえに神のご大切みたいに花をあげているから、これが必要なんじゃねえかって』だなんて言って、私にばっと差し出してきた。きっと、この彼と将来をともにするんじゃないのかしらと、その時は思ったの。
「メイ! 文が来たよ!」
よく晴れた日の山は錦の様に色とりどりに美しくて、秋こゆる空の深い色は心にしみる。九松さんが駆け込んできて、私にそれを見せる。
まさか、文をびらびらと広げたまま走ってきたから、さっきは棚引く雲みたいに真っ白くて目を細めていた。
私の膝に文を広げると、それはジパング人よりきれいなのではと錯覚する文字でしたためられていた。
「ルークさんがいらっしゃるの」
私は驚いて文を何度も読んだ。
九松さんがうれしそうに何度も頷いていて、飛脚からルークさんの文字を見た途端、奪い取って走ってきたみたい。
「ほら、これは半年前の文だよ。だから、もうこの国にいて、すぐにでも来るに違いない。おまえは懐いていたものな。ああ、懐かしいなあ」
九松さんが腕を組んで天井を仰いで、涙ぐんでそれを拭った。
「まあ、九松さんったら、早いのね」
「だって、うれしいじゃないか。もうあれから十年も経っているんだよ」
「ええ、ええ。本当に」
きっとまた何かの研究のためにやってくるのでしょう。はるばると船に乗って多くの海を越え、オランダの地から大和へと。
胸が高鳴るとはこういう事で、私の伸びた背は少しは彼に近づいて、ルークさんはあの頃と変わらないままの素敵さ。
私を見ると颯爽とやってきた。まっすぐと。
「まあ、ルークさん」
「メイさん」
黒い衣の長い腕が伸びて、私は強く抱きしめられた。
息が止まるほど驚いた私は、しばらくオランダ衣裳の肩に顎を乗せたまま固まった。こんなに強く抱きしめられたのは九松さんだけだったから、ルークさんへの激しい恋心をどうしたらいいか分からなくて脳天が真っ白になった。
「会いたかったです。とても、美しくなって」
私も二十三ときたらもういい年の女ですから、まさか美しいだなどと言われて胸の鼓動が抑えきれずに困ってしまって……。
「ああ、ごめんなさい。僕は貴女をいきなり抱きしめてしまって。オランダでもこのような無礼は婦人にはそうはしないのです。しかし、逸りを抑えることなどはとても出来ない」
ルークさんは手を握って、私に言った。
「とても好いていた。僕と、オランダへ来てくれませんか」
「えっ」
ガシャン、と何かが地面で壊れた音がして、咄嗟に後ろを振り向いた。九松さんが、ずっと『ルーク殿に見せるんだ』と言っていた薬草の壷を落とし割ってしまっていて、瞬きを続けている。
「九松」
ルークさんが驚いて「怪我はないかい」と駆け寄っていった。
九松さんは俯いて拳を振るわせて、走って行ってしまった。
「九松さん!」
ああなると九松さんは町一番足が速くて、夕方になっても見つけられなくて私達は山で途方に暮れてしまった。
「山小屋がありますから、行ってみましょう。いるかもしれないし、夜は狼や猪が多く出歩くと思いますから」
提灯を揺らして頷き、歩いていく。狼の遠吠えが月に静かに聞こえる。それは心に沁みる声。
山小屋はこの奥にもいくつかあるから、九松さんもどこかにいると思うけれど、やはり不安だった。
小屋は無人。いろいろな山道具が並べ掛けられている。提灯から蝋燭を出して二つ並んだ。
私はルークさんと二人きりで無言になってしまって、床に座りながら静かに夜の獣達の声を聴いていた。
まだ、「私は九松さんとすでに夫婦の仲なの」と言えずにいて、こわばった口さえ動かせない。
恐る恐るルークさんを見ると、彼は微笑んで腰元の水筒を出してくれて飲み物をくれた。
「沢の水ですが」
「まあ、どうもありがたいです」
歩き疲れていたからさすっていた足首から手を離してそれを頂いた。
土間に降りてルークさんが私の足袋の足をさすってくれて、私は「まあ、よろしいのです」と遠慮したけれど、「お疲れでしょう」と甲斐甲斐しくしてくれたから、疲れが和らいでいった。
「ごめんなさい。九松さんはまだ、子供っぽい所があるから一度いじけ虫がつくと山を出てこないかもしれなくて」
「僕が悪かったんです。僕は……」
Ik hou van jou,Ik wil trouwen Mei,Kom naar Nederland...
何かオランダ語でルークさんが言ったから、私の足を撫でてくれているその帽子の頭を見た。鍔の広い帽子を置いて、ルークさんが私を見た。
「………」
「貴女が許すのなら、」
ぴかっと言う音。私はそれでも彼の目から目を離せなかった。
雷鳴が轟いて、突如強い雨が屋根を叩いた。バババババという音を小さい小屋に響かせて、私はもうルークさんの声がそれで紛れて聞こえなくなって、うつむいた。
横まで来たルークさんの口元をみる。十年前とは違って、口の上だけに整った髭が細くあるだけ。昔『紳士は成人したら大人の証で髭を蓄えるから、十代のように若く見える僕はこうやってたくさんはやしてるんだ』と言っていた。元から若く見えるから年齢も変わって思えないのね。
私は秋の雨の勢いを知っている。ただただ彼の目を見つめてから心を偽ることに必死になった。これ以上ルークさんに心を奪われてはいけない。初恋の相手でも。
余りに強い雨風は周りに大木がたくさんある山だから、それらに風をしのがせていて案外平気なもので、それでも山を下った町では大変でしょう。しかと戸締まりをしてしまわないと、風にとばされてしまう。九松さんが羊歯を取ったという縁下の川も激しく流れる。幸い、川の水が氾濫するような所に町は無いからいいけれど、九松さんのことが心配だった。
その風は数刻して、すっかり雲を連れて行ったのか雨音は遠のいた。
私はずっと手を合わせて九松さんがどうか無事なようにと願っていたから、肩の強ばりを降ろした。
格子を開けると、木々の間に見える空は星。
「まあ、雨が止んだ」
私はあつらに座るルークさんを振り返り、そして頬を染めて俯いた。
くっきり星明かりで明るくなった場所で見る姿がやはり落ち着き払っている。今し方、蝋燭が尽きて消えていった。外套も向こうに掛けられていて、長い足を解いて彼が立ち上がる。
彼が歩いてきて、微笑んで何かを出した。
「望遠鏡」
彼が頷くと、一緒に星を見た。
「貴女が願っていたからきっとお星様は願いを受け入れてくれている。九松は無事のはずだよ」
私はそこで、無事を思うと本当に安心したくて涙がながれかけて必死に抑えて頷いた。星はきれいに瞬きをしていて、優しく言ってくれるルークさんは私に触れないようにしてくれていた。
さっき、顔を染めてどついてしまったから。腰を抜かしてしまった私を咄嗟に謝りながら起こしてくれた。一瞬、心が張り裂けそうになった。蝋燭に揺られる雨風の小屋で腕を強引に引っ張られて。
「私も……好いているのです」
星明かりが射して、口だけで言うと、うつむいた目元が滲んだ。
九松さんが心配なのと、ルークさんが好きなのと、その心がせめぎ合い葛藤して肩がふるえる。
秋の虫の音が、一時さわさわと鳴ってから、夜もまだ深いと気づいたのか、合唱は成りを潜ませていった。
九松さんが帰ってきたときは、町の人が呆れかえるほどぼろぼろに泥にまみれていた。
「ああ。足を滑らせちまってよ、そこにいた猪が必死に掘っていた穴に落っこちちまったのよ。
そしたら猪、俺に気づかず土掘りまくって俺は埋められるんじゃないかって泡くってさ、俺の横に猪お目当ての山芋があるんだよ。それをひっつかんで腕を上げて、見えるか見えないか分からないが猪に見せてから遠くに投げたんだ。そしたら見えるわけ無くってよ、確か鼻が良いだけだったか、俺に気づいて追いかけて来てさ、必死になって大木によじ登って難を逃れたが猪ときたら木の幹に頭をぶつけて威嚇してきやがる。
俺は木登りにかけちゃ一丁前だから、太い枝に掴まって奴が諦めるまで待ってたらよ、狼の声がした途端に猪も辺りをぐるりと見て、音も立てずに茂みに突進して行ったんだ。ほっとしたのも束の間、木の下を狼が三匹ぐらいで通っていって俺は身を潜めてたから、通り過ぎていったんだ。狼は神経がしっかりしてるからな。勘が鋭くて俺は音も立てなかった。
それでまた一人になったと思えばいきなり稲光が走って雷神様がよ、男らしくねえいじけた俺をお叱りの勢いで雨風を俺にぶつけやがる。かぶった土が泥になって染みこむし、雨打つ肌は痛いしで目もすぼまるし、体は冷えるしで、必死になって幹と枝の丁度いい案配の所に掴まり収まって、さすが大木だから揺れずにすんで大野次が行きすぎるのを待ったんだ。
で、俺の目の前を嵐の灰色と共にいろいろ飛んで行くんだな。真横になって。鳥がばさばさびーびー鳴きながら二尺ばかり先の巣と一緒に飛んで行ったり、いろんな染まった葉っぱが紅とか黄色とか橙色でそこだけ彩って飛んでったり、それに紛れてルークのすっとこどっこいも飛んで流れてやこねえかって思ってたらよ、俺の顔にびしっと大きな葉っぱが覆い被さってきやがって仏様が叱ってくる。
必死にはぎ取ってよ、きっとこれじゃあ奴は無事で、今頃かわいいメイと共に俺をぬくぬくと家で心配して待ってて、あったかい汁でも用意してくれてるに違いないって思ってよ、大木降りて帰ってきたわけだよ。
そしたらあの猪、まだ俺を諦めず求婚の勢いで追っかけてきて俺をどっかの球根かと勘違いしやがるんだな。そんで俺は泥に転びながらいかつい山娘から逃げてきたってわけよ」
と、真横のルークさんも含めた近場の人達に呆れ笑われられながら言って、九松さんは泥まみれの肌を手ぬぐいで拭う。
「良かったじゃねえか。猪に球根頭引っこ抜かれなくて」
「安心したわ。九松さん。良かった」
「おう。ようやく雲がどろんどろんと流れて一気に天をのぞかせ始めて、そしたら星がきらきら大層明るいんだ。なんだかおまえの顔が浮かんで、いきなり涙ぐんじまったよ」
ルークさんと顔を見合わせて、くすりと笑って九松さんを見た。
「それは良かった。祈りが通じていたのね」
ずいっと九松さんがルークさんを見た。ルークさんは瞬きをして九松さんを見た。
「ちょっと来てくれ」
私はルークさんと共に手首を引っ張られて間口に入って行った。
しばらく九松さんは私を見ていた。じーっと、穴が空くぐらい見ていた。私もその瞳を見ていた。
なんと、一刻ばかりも彼は黙って私を見続けていた。
ルークさんが動こうともせずにいるのを、九松さんは胡座の膝に掛けていた手を離して、腕を組んでそっぽを向いた。
「これ以上預からないぞ」
「………」
九松さんが耳を真っ赤に言う。今に泣き始めるときなのだと分かっていた。それを耐えている時、耳が真っ赤になる。
「どうせおまえ、ルークが好きだったんだろう」
「えっ」
私は九松さんの反らす顔を見て、口元を抑えた。
「今じゃ、俺のめちゃくちゃな知識でちょっとはこいつの事、研究に詳しくしといたからよ、ルーク、とっととメイなんかオランダにでも連れてっちまって良いんだ」
ボロボロ横顔が涙を流しながら言う。
「ちょっと気がつかない点もある奴だが、向こうでも何かあんたの力にでも励みにでも助手にでもなれるぐらいにはなってるだろう」
九松さんは私が口を開く前に、まるで嵐のように裸足で走っていってしまった。
「ま、待って、九松さん!」
すでにまた山の方へ秋晴れの元を走っていってしまって、ただただ空を鳶がぴゅーろろろ、と旋回している。鹿の高いきゅーうという声が響き渡って、私はおろおろとして涙があふれて、ルークさんが肩に手を当て落ち着かせてくれた。
「これはあいつの駆け引きかな」
ルークさんが何かを言って、友禅を召したような山錦から私を見る。
「僕は正直に言うけれど、貴女を迎えにやって来た。婚姻を結ぼうと、十年を待っていたんだよ。向こうでは僕はもう認められた身分もあるし、九松を助手に、貴女を妻に迎えるために、はるばるやって来たのです」
「なんだって!!」
私は驚いて障子のある方を見た。明るい外へ続く座敷奥の障子は九松さんの影。今回ばかりはぐるりと回ってそこに居たみたい。九松さんが駆け込んでくると、ルークさんの肩をぐらぐら揺らして叫んだ。
「三人の事情がこんがらがってもか! 俺はメイと結納を済ませているんだぞ!」
ルークさんは困惑して言った。
「ジパングとオランダは、キリシタンと仏神崇拝をしている。重複した婚姻は結べないだろうね。エジプトとは違うんだ」
「えじ、ぷつ?」
ルークさんは九松さんを落ち着かせて、横に座らせた。
「君たちを夫婦として……オランダに連れて行っても構わないんだ」
深酒をしていたルークさんが、蝋燭に揺られている。
既に九松さんは座敷に転がっていびきをかいている。
私は頬を染めて、ちらりとルークさんを見た。
黒ビロウドの上着を向こうに置いて、白い薄手衣の片肘を畳について横ばいになり、長い脚を横たわらせている。その釦の外されのぞく首もとも、肩も、金髪も、緑の透ける目も灯される。蘭物の琥珀色のお酒を硝子器で揺らし傾けて、蝋燭が照らす。
ちらりと、鋭く強く……、彼の上目が私を射抜いた。
なんという目力だろう、心が荒波をひっくり返して囚われる。私は咄嗟に目を反らして、瞼に彼の野性的な眼差しが焼き付いて身を焦がす。
心は灼け尽くされてしまう。危険をはらんだ想いのもつれ合いが続くのだわ。キリシタンの彼は結納を済ませた私に手を出すことは無いでしょうし、私もそんなことなど出来はしないでしょう。
だから、視線はいつでも、どこででも、向こうの国ででも、お酒の力を借りてでも強く一瞬だけ向けられて、一生叶いはしない大切な心の牢に私たちは三人囚われて、その坩堝の内で脈打ちながら生きていくのだわ。
十年前は見せなかったルークさんの恋情の強いまなざし。囚われてしまいたくなるそのまっすぐな好意。
触れてしまえば、いけない感情。それを持て余し続けるのでしょう……。
「メイさん。遂げられてしまえば……」
畳に視線を静かに落とす彼の横顔を見つめた。
「冷めるものと心に言い聞かせた方が、いいのです」
「わかっております……」
私の声は震え、それでも垣根のないこの場所で、涙が落ちたと共に黒い影を落とし伸びた腕に包まれていた。
彼の胴に衝突し乗って抱きすくめられて、すぐにわかった。冷静に見えて深酒は彼を既に酩酊させ、なんの心の格子も取り払って今、ただ純粋な十年間の愛だけを互いに交わそうとする。
私もルークさんを好いているわ。九松さんには悪いと何度だって思っているけれど、結納を済ませたってずっと忘れられずにいた人だから。
涙が白い薄衣に落ちて、ただ、ただ私は心を白くした。
*
九松は呆然としていた。
彼がいるのは丘の上。
あんな浮気事を見てしまったのでは、世間の目も冷たくなるだろう。メイを追い出す形でルークに任せて、大和の国から船に蹴り入れた。蹴り入れたのはルークの背だけだが。
海を船が帆に風を受けて走っていく。
九松はわかっていた。はじめからルークからメイを奪い返すつもりでいた。幼なじみで好きだったのに、余所者にメイを奪われるぐらいなら、自分も草に詳しくなって博識のルークみたいにメイに認められたかったが、結局それは回り灯籠と同じ様なルーク投影というだけ。自分は体力こそはあるが他の勉強も数学も不得意で、だからってメイを思う心は負けてなんかいなかった。年齢なんて関係ねえ。年下だからって、関係ねえ……。
女の心がそこでどう出るかだ。これは九松の賭でもあったんだ。
きっと、もうメイは帰って来ないんだろうな。
メイにはいろいろな草を見せておいたから、恋敵といえど少年時代から尊敬していたルークの役に立ってくれるだろう。あとは自分が羊歯の卵も枯れさせないように育てて、いつかは孵化と共に心切り替えてメイと恋心を諦める他無いんだ。だが、オランダとジパングの草は違うんだぞ。また基本は分かったろうから、ルークから学び直せばいいんだ……。
「畜生……」
ボロボロと涙がこぼれる毎に海が鮮明に現れて、船がくっきり現れる。
「ばかやろー!! 二度と帰って来るんじゃねー!! げんきでなあー!!」
まるで御仏の心になっちまったわけでは無い。はじめから分かっていたのだ。それを、いつか迎えに来るならとしあわせな猶予を与えられていたと思って、今の気持ちを誤魔化した。本当はルークを蹴りつけても足らないぐらい悔しいし、くれてやるつもりなんか無かったし、メイがはじめてあんなきれいな微笑みをルークに見せなければ、九松は諦めもつかずに彼女を放しはしなかっただろう。
割れた壷から拾って集めた薬草、腹に利いたり滋養にいい草をルークに押しつけ渡して、メイが知らない土地で腹を壊しても、心が疲れてもどうにかやっていけるように言って送り出した。蘭学で学んだその滋養薬効っていうのを駆使して集めた和の薬草は、やはり慕っていたルークや好きなメイのためだった。
十年前初めて会った南蛮人に九松は怯えていた。その夜腹を壊してしまった背の高い異人を見て九松は医者に駆けつけて、薬をもらって来て男に感謝された。その男がルークだった。医者が蘭学で得た薬効知識だと言って、そこから彼はメイの屋敷に泊まる異人ルークになつき始めた。それが始まりだった。
薬草のにおいは、まだメイとルークと自分の思い出の残り香のように、この大人になった九松の逞しい手に残っていた。
「どうかあいつ等を無事に、無事にオランダに渡してやってください」
九松の逞しい手はがっしりあわせられて、いつまでもいつまでも祈り続けた。
メイの本当のしあわせを願うなら、それが本望なんだ。
*
九松さんが屋敷を出て寺院に入った報せを数年後の文で受けて、彼のおちゃめな笑顔が浮かんだ。
すっかり私もネーデルラント……ジパングでいう所のオランダ語に詳しくなって、ルークさんのお手伝いもしている。何度か心病でお腹を弱くする毎に九松さんの薬草をルークさんが煎じてくれて、とても和らいだ。
私にとって九松さんはずっと放っておけない子供のように思っていたのね。たくさん背伸びをする九松さんに愛着を持っていたのでしょう。
ルークさんへの愛情と、いつも必死の九松さんへの身内に向けるような心。それは結局は相容れずに九松さんだけを苦しめて、私はルークさんを選んでしまった。
今私はしあわせで、オランダにも少しは慣れて、メイ・関原・ドゥ ヨングの名で日々を過ごしている。気候も違えば植物も違う。丸いジャガタライモが米代わりで美味しくて、それでもまだカース(チーズ)と言われる食べ物はジパング人のお腹にはなかなか慣れないの。恐ろしいほど寒くなるから体調変化も起こるし、誰もが背を見上げるほど高くて、なのに可愛らしい建物ばかり。同じく見上げるほど大きな風車もあるのだけれど、山があまり見あたらないから錦の山が懐かしいわ。ここからは山錦に霧煙って降る大和の秋の雨も見えないの。彼等とは考え方も物事の捉え方も違って困惑する点もあって、きっと妻として認められるのも十年後だろうと言われているけれど、様々な文化が花のよう。彼等の民族舞踊も可愛いのよ。
いつでもルークさんは私を守ってくれる。
優しくて、偉大な方。
九松さんだって、それは素敵な人だったわ。お天道の笑顔は元気をもらえたから。きっと、お寺での修行も慣れれば元気にお経を詠むのでしょうね。
大和の国からの懐かしい香りがする便りに、望郷の心を一時にためて、共に添えられていた香りの良い押し花を私は透明の瓶に閉じこめる。これが、大和の香り……。こんな私のことでも大切に思ってくれた人のくれた香り。
九松さん。私はこの地で元気でやっているわ。愛するルークさんもいてくれる。だから、あなたもどうかお元気で。
2015.夏
秋の雨