雪虫の里

雪虫の里

雪女幻想小説です。PDF縦書きでお読みください。


雪虫の里
                                
 北の寒い地方の二つの県境に位置するこの村では、昨年の暮れからほとんど雪が降っていない。いつもは軒下近くまで降り積もる雪がほんの数センチである。遠くに見える山並みは真っ白になっている。ということはこの村だけの異変ということである。
 「今年はなんて温(ぬく)いんだ」
 「こんなじゃ、熊も冬眠できねえべ」
 「そうじゃ、もう年も明けたに、地べたに土っこが見えとる」
 一月の終わりが近づくと梅の花が満開になってしまった。いつもは五月近くに桜と梅が一緒に咲くような寒いところである。こんなに早く梅が咲くなどということは百歳を越えた孫兵衛さんさえ経験したことはなかった。
 孫兵衛さんは蝶(ちょう)太(た)の隣に住む村一番のお年寄りである。蝶太は孫兵衛さんから昔話をよく聞かされた。雪の中で熊に襲われたこと、猟師小屋で雪女に会ったこと、面白い話ばかりだった。
 そんなある日、小学校からの帰り道のことである。蝶太の目の前ににふわっと雪虫が舞ってきた。
 雪虫は十一月から十二月ごろ現れる小さな虫で、ふわふわと何の目的があるのかわらないが人の近くに寄ってくる。羽の付け根に白いふんわりした毛のようなものをつけているので雪が舞っているように見える。
 蝶太は今頃なぜ雪虫がいるのか不思議に思った。雪虫が飛ぶのは雪の先駆けてといわれている。これから雪が降るのかもしれない。
 小学校五年生の蝶太は虫のことに極めて詳しい。虫たちが大好きなのだ。名前が蝶太なのは生まれた日、家の縁側にたくさんの蝶が止まったことから父親が名づけたのだそうである。
 蝶太は大きくなるにつれ生き物好きが強くなり、庭に来る虫はもちろん山や野原で見かけた虫の名前をみんな覚えてしまった。父親が中学校の理科の先生をしていることから、虫の図鑑がたくさん家にあったからでもあるのだろう。
 蝶太はとりわけこの雪虫が好きであった。ゆっくりと空気中を舞っていく姿はおとぎの世界から来た妖精みたいである。どうしてこんなにふわふわ飛ぶことができるのだろう。図鑑を見ると、油虫の仲間とある。白いふわふわしたものは蝋だと書いてある。
 雪虫は蝶太が突き出した人差し指の上に止まった。
 雪虫はなにをするわけでもなく、ただ、じっと止まっている。
 そのうち、ふわっと蝶太の指の先から離れると、蝶太の鼻先にすっと止まった。鼻の先の雪虫を見ると、白いというより少し青みかかった雪のような蝋がフルフルとゆれている。
 何をしているのだろう。
 目を寄せてみていると、ふっと雪虫が振り返って蝶太をみた。虫が振りかえるなどできるのだろうか。
 でも、振りかえった。
 雪虫の目は真っ赤に燃えていた。
 「え」蝶太は驚いて声を出してしまった。図鑑に描かれていた雪虫の目は黒かった。
 赤い目の雪虫は急に飛び立った。
 その時、雪虫がまた振り向いて蝶太を見た。
 ついて来いといっているようだった。
 雪虫は蝶太の前をふわっと飛んでいく。
 蝶太は吸い寄せられるように赤い目の雪虫の後を追った。
 雪虫は家への帰り道から脇にそれた。山際に向かう道で林の奥に続いている。
 猟師の人たちが鉄砲を担いでその道を歩いて行くのを見たことがある。
 蝶太は雪虫の後についてその道に曲がった。ランドセルの中の教科書がカタカタと揺れた。
 雪虫はふわっと蝶太の目の前を浮かんでいく。
 雪の残った草に囲まれた道を行くと、田んぼの中から殿様蛙が飛び出してきた。勢いよく蝶太の足にぶつかると、反対側に向かって一目散に飛び跳ねていった。運動靴が蛙のしょんべんで濡れた。
 なぜ今頃蛙がいるんだろう。
 蝶太は立ち止まると、雪虫がもどってきて蝶太の周りを舞った。蝶太は雪虫に気がついてまた歩き始めた。
 雪虫は林の中にはいった。
 杉の木に囲まれた道は上り坂になった。もしこのまま行くといくつか山を越して隣の村に行くことになる。途中に山の頂に行く山道があるが、猟師やら、茸取りの人たちが使うだけだ。蝶太は入ったことが無かった。
 そのとき、林の中から、兎が飛び出してきて蝶太の足にぶつかった。兎は振りかって蝶太に赤い目を向けると、首を横に振って走っていった。野生の動物が自分から人間にぶつかってくることなど希なことである。
 蝶太は立ち止まって、兎が走り去ったほうを呆然と見つめた。
 蝶太の周りに雪虫が二匹になってもどってきた。
 ふわりふわりと頼りげなく、二匹は上になったり、下になったりして舞っている。そこへすーっとまた一匹よってきた。三匹になった雪虫は一緒になって、立ち止まっている蝶太の目の前をふらふらと漂った。
 三匹の雪虫は真っ赤な目で蝶太を見た。蝶太は思い出したように雪虫の後をついて歩き始めた。
 雪虫は林の中の細い道に入った。蝶太も曲がった。そこへ、ごーっという音とともに、蝶太の前を大きな獣が駆け抜けていった。
 蝶太は勢いよく尻餅をついた。背中のランドセルの中で鉛筆箱がからからと鳴った。猪だった。大きな猪は林の中を飛ぶように行ってしまった。
 怖くなった蝶太は立ち上がると、来たところを戻ろうとした。すると、林の中から、何十匹という赤い目の雪虫が現れ、蝶太の周りを踊り始めた。蝶太はいつの間にか雪虫に囲まれ、林の細道を押されるように登っていた。
 しばらく登ると道の脇に小さな池があった。鏡のように波一つ無い池を覗くと、自分の頭に青白い雪虫がいくつも止まっているのが水面に映っている。
 水の底の小石の間から小さな泡が沸き立っている。水が湧き出しているようだ。
 その時、池の脇の斜面にある大きな岩がぐらっと揺れた。大きな地響きがして、地が揺れ動いて蝶太は足元をすくわれ、尻餅をついた。たくさんの雪虫が舞い上がった。
 岩が動くと、その後ろに岩穴がぽっかりと口を開けた。
 冷たい風が岩穴から吹き出してきて、蝶太の頬にあたった。
 蝶太は身震いをした。
 岩穴から吹き出す風は池の水面をかすめると斜面を登っていった。水面を漂っていた雪虫は風に乗って上へ上へと舞い上がった。
 池の水面がちりちりと音を立てて凍っていく。
 蝶太が起き上がると、透き通ったまま池は凍りついていた。底から湧き出ていた小さな泡が氷の中に閉じ込められている。
 蝶太は岩穴を見た。岩穴が広がった。
 奥のほうに白いものが動いた。
 穴から出てきたのは女の人であった。白い着物を着た髪の長い女が俯いたまま静かに穴の入り口に立った。
 真白なうりざね顔の女は顔を上げた。
 赤い目が蝶太をとらえると微笑んだ。
 蝶太は金縛りになった。
 女が穴のほうに向かって言った。
 「おはじめ」
 女の吐く息がきらきらと凍って輝いた。
 岩穴から四人の白装束の女が長い箱を支えて出てきた。それは杉の木で作られた棺だった。四人の女は棺を池の氷の上に運んだ。
 女たちは棺の周りに集まった。
 蝶太は孫兵衛さんが話していた雪女だと思った。
 一人の女が手招きをした。
 「ぼう、こっちにおいで」
 蝶太は震える足をやっとの思いで動かすと、女たちのところに行った。
 「こっちだよ、ぼう」
 女が棺の脇に蝶太を立たせた。
 女たちが棺の蓋を持ち上げた。中には年老いてしわのよった雪女が白装束で横たわっていた。
 蝶太は覗き込んだ。
 すると、老女が赤い大きな目を開けた。
 死んだ人だと思っていた蝶太はがたがたと震えた。
 老女の口が開き赤い舌がちろちろと動いた。
 「ぼう、わしは今死ぬ。雪女は村人が雪の中で死ぬときにみとる役目がある、雪女が死ぬときは村人にみとってもらうのじゃ、わしは数千年にわたって人の死を見守ってきた、ぼう、わしの最期を看取ってくれや」
 蝶太には老女が言っていることがよく分からなかった。ただ、雪女が死ぬところだということは分かった。
 周りの雪女たちが頭をたれ、手を胸にかざした。
 蝶太が見ている中で棺の中の老女は静かに眼を閉じた。
 棺の中の雪女のまぶたの中から目の赤い雪虫が這い出してきた。
 次から次へと雪虫が老女の顔やからだから這い出し、死んだ雪女の顔は次第に崩れていった。
 這い出した雪虫は空中に浮かび、あたり一面にふわふわ飛んだ。
 雪女のからだは雪虫になり、次々と棺から飛び出し、蝶太の周りを舞った。
 あたり一面おおいつくした雪虫は、穴から吹き上げる風に乗り空へと舞いあがった。
 空のかなたで雪虫は雪に変わった。やがて、ぱらぱらと雪が落ちてきた。
 池の周りに雪が積もった。
 寒くて震えていた蝶太に雪虫がびっしりととりついた。蝶太は少し暖かくなった。
 あたり一面雪景色に変わった。凍った水面に雪が積もる。
 雪女たちは頭をたれて棺の中を見つめていた。
 最後の一匹が死んだ雪女の着物の中から這い出てきた。
 棺の中には白装束だけが残されていた。
 「長老様はお出かけになりました」
 棺の蓋が閉められた。
 四人の雪女たちは空になった棺を持ち上げ、氷った水面から降りると穴の中に入っていった。
 一人の雪女が振り向いた。
 「ぼう、ありがとう」
 岩が動いて岩穴を塞いだ。
 蝶太に取り付いていた雪虫が離れて空に舞った。
 雪虫は空へ空へとのぼっていき、やがて消えていった。
 雪が強く降り始めた。
 
 その日を境に村はいつもの寒い村にもどったのである。
 雪は降り続いた。
 その日、雪まみれの蝶太は家の前で倒れていた。
 隣の孫兵衛さんが蝶太に気づいて家の中に運び込んでくれた。
 蝶太は四十度の熱を出して一週間学校を休んだ。
 しかし、それ以来、蝶太は百八歳で死ぬまで一度も病にかかったことは無く、擦り傷一つ作ったことが無かったということである。
 蝶太は雪女のことを終生他人に話すことは無かった。

(「雪女」所収、自費出版 2015年 33部 一粒書房)

雪虫の里

雪虫の里

雪虫に魅せられた少年と死にゆく雪女のお話し

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-08

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