文章を書くこと

 気付いたときには文章を書くことが好きだった。授業でやった、教科書に載っている物語の続きを書けという課題は楽しかった。夏休みの宿題である読書感想文では賞をもらった。小学生対象の手紙コンクールとやらでは佳作に選ばれた。
 原稿用紙の上を鉛筆がよく走った。ひらがなが綺麗に書けるとヒットポイント。ガッツポーズを心の中で決める。「あ」の払いが良い。「な」の丸い部分がかわいい。等々。逆に熟語が一発で書けなかったときはマイナスポイントだ。「庭」のまだれの中が逆になった。「専門」に無駄な点や、口を書いてしまった。こちらの場合は実際に声が漏れてしまう。「あーテストに出たのに忘れた」。人の目には見えない闘いが、私と原稿用紙で繰り広げられているのである。夢中になれば、消しゴムも闘いに参戦する。うまく消せた、ヒットポイント。消しゴムが折れた、マイナスポイント。
 丸くなった鉛筆は手動の鉛筆削りを使って芯をとがらせるのだが、書き始めるとすぐにまた丸くなってしまう。鉛筆を削っている最中の私はあたかもマラソン中に赤信号にぶつかり、今までの走行ペースを乱されるようで気持ちが焦る。早く続きを書かなくてはと思えば、鉛筆削りのハンドルを回す手がスピードを上げ過ぎて鉛筆の芯が折れてしまう。また一からやり直しである。腕は疲れるし、文章は遠のくし最悪である。今度は落ち着いて回す。慎重になると、まだ満足に削れていないのに鉛筆を挟んである穴から出してしまう。タイムロスが生まれる。
 そんなことを繰り返して先に進む。書きたいことは尽きない。文字数が増えるごとに私の集中力も高まっていく。だが、残酷にも原稿用紙は尽きる。学校で配付された枚数は3枚だけだったが、私にはもっと書きたいことがあった。3枚にどれだけ書き込めるか意地になる。かぎ括弧を使う文は行数を使うから嫌いだ。枚数が増えてしまう。空いたスペースにさえ文字を詰め込みたかった。そうやって考えながら書いても、結局規定の枚数は超えた。
 当時、文房具は親にお金を出してもらえる約束だったため、母親に数百円もらって文房具屋へ行った。家から徒歩5分のところに文房具屋はある。入店してすぐ右側の棚に原稿用紙はいつも置いてある。一番安いもの、つまり枚数が少ないものを選んでレジに出した。会計を終えて紙袋に包まれた原稿用紙を胸に抱えて帰る。この幸福感は今もなお忘れられない。何も書かれていない400字分のマスが何枚もある。しかもそれらの空白は私の自由に埋めていい。原稿用紙の上に描かれる世界を想像して悦に入る。まだ何も完成していないけれど、楽しい時間なのだ。
 家に着いてさっそく新しく買ってきた原稿用紙を開ける。新品の紙の匂いとさらさらした紙の肌触りに胸をときめかせて、折れないように傷がつかないようにそうっと一枚取り出した。ふんわりと空気を感じるそれを下敷きの上に乗せた。緊張した震える手と削りたての鉛筆で一文字目を記す。鉛筆の滑り良好。心なしか文字まで綺麗になったようで誇らしい。
 再び私は文章を書くことにより、自分が想像し構築する世界へ没入していく。しかしここまで来ると、右手が痛む。スピードを上げて右手を動かし続けたせいで、書くこと自体が苦痛となってくる。書きたいことはあるのに手を止めなくてはいけないのはもどかしい。仕方がないので原稿用紙はクリアファイルに大切にしまって、頭の中で文章を練る。あれを書こう、これを書こう、そうしているとリビングから母親の声がする。「ご飯できたよー!」この匂い、今日はカレーライスだ。おかわりしよう。なんてことを考えたらもうおしまい。頭の中の文章はどこかに消えて、原稿作成モードの私もオフになる。
 現在の私は、もう原稿用紙にはほとんど書き込まない。いつだか、原稿用紙に手書きで書いて応募してくださいという規定の賞があり、そのときに久しぶりに文房具で原稿用紙を買った。枚数は少ない賞だったが、思い切って50枚になっているものを選んだ。たまに読んだ作品の気に入った箇所を手書きで書き写して遊んでいる。文豪の気持ちになって書く。自分の文章ではないが、小学生の頃の私が目を覚まして喜んでくれる。
 そうそうこれだよ。どんどん書いて自分の世界に入っていこう。周りが見えなくなるくらい。希望と勇気が溢れる世界へ。

文章を書くこと

文章を書くこと

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-06

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