東京カモメ

 君なつかしと都鳥 幾代かここに隅田川 往来の人に名のみ問われて

                     「都鳥」より



 一二三は新幹線の乗降ドアから東京駅のホームに降り立った。
「暑いね」
 一二三の独り言にサングラスをかけた若い女の子がちら、と彼の方に顔を向けてからキャリー・バッグを引きずって通り過ぎていく。彼女の黒いサングラスにはヒッピーみたいに長髪で髭面、コム・デ・ギャルソンのエナメル・ボストン・バッグを肩にひっかけて、着古したシャネルのプリントTシャツをユルめに着た一二三が映っていた。
「ほんとあの人テキトーだ、やっぱり暑いじゃん」
 一二三は煙草を咥えて火を着ける。スマホに繋がったイヤホンの向こうからボアダムスが「TVスコーピオン」をがなり立てていた。駅の屋根が空を真っ青なカステラみたいにカットしていて、新大阪駅で買ったサンドイッチを食べ忘れていたのをなんとなく思い出した。売店のビニール袋の上から触ると、ペットボトルのお茶の汗が染みだして少し温くなっている。何処からか熱風が吹いてくる。
 駅員が走って来て、勢い良く一二三の口から煙草を叩き落とした。彼の話では駅は全面禁煙になっているという。
「なんで煙草吸っちゃいけないんスか」
「クサイんだよ。お前クサイ、凄くクサイッ! ヤダーッ!」
 駅員は絶叫するダルマみたいに怖い顔をしていた。

 十年前、二十歳の一二三が東京で売れないバンドマンをしていた頃にバイト先で知り合ったのが四天王寺さんだった。四天王寺さんは昔は有名なアダルト・ビデオの監督で、一二三がチラシ配りのバイトに入った頃にはすでに四十代でAV業界から仕事を干されていて、生活のためにアルバイトをしていたようだった。池袋にあったチラシ配りの会社には他にも役者の卵とか、映画監督の卵とか、芸術家の卵とか、小説家の卵とか卵が一杯いて、その他は卵のままなれの果てまで行き着いた年をとった人間しかいなかった。
 四天王寺さんは酔っ払って気分が良くなると、嬉しそうに自分が手掛けたAV女優の名前を諳んじた。
「高樹マリア。葵みのり。川島和津実」
「マジっすか、四天王寺さん!?」
「飯島愛。森下くるみ。豊丸」
「スゴイっすね、四天王寺さん!?」
「AVはルイス・ブニュエル。AVはアレハンドロ・ホドロフスキー。AVはジャン=リュック・ゴダール」
「頭良いっすね、四天王寺さん!?」
「俺はAVでノーベル賞を獲る」
「四天王寺さん!?」

 夢破れた一二三は高槻の実家に帰って、昔の同級生が経営するタロット・カードを扱う会社に就職した。カードを自社で制作したりカモワンやウェイト・タロットなどの定番品や、イーチンなどの特殊な海外から仕入れた商品を梅田や難波、江坂、堺などの大型書店やホームセンターなどの販売店に卸すのが主な仕事で、給与は少なく小さな会社ながらも少しずつ業界のシェアを広げており、一二三も営業を頑張って会社の一員として売り上げに貢献していた。四天王寺さんから数年ぶりに電話があった日も、梅田の新梅田食堂街の立ち飲み屋で会社の後輩と一緒に飲んでいた。顔の赤いサラリーマンたちの煙草の煙が充満するなか、隣で飲んでる初対面のオッサンの寒いギャグに愛想笑いしながら串カツを頬張り生中に口をつけた瞬間スマホの着信音マリンバがコロロン・コロ・コロ・コロロロン♪ 登録の無い番号
「なんやねんアホッタラア、クソッタレぇ誰やねん何や、クラスぞグラぼけカスう、しばいたんぞエエんかワリぁボケったれえい!? はよ喋らんか!? ハゲ―しゃあいたんぞ言うとんじゃチョケてんちゃうぞガキッ!?」
「え、誰?」
「こっちが聞いとんじゃ小便やろう大阪湾に沈めたろか!? 調子に乗ってっと攫うぞコラぁッ!?」
「四天王寺だよ。一二三くんでしょ?」
「え、あ四天、四天王寺さん。ええ、久せ、久しぶりッス。ねー。お久しぶりっす」
「元気?」
「ええ、ちょー元気っすよ、マジで。えええ、久しぶりっすねえ、懐かし。チョー久しぶり、元気っすか? 猫? まだ飼ってるんすか?」
「いや、あの子は死んじゃった。新しいの飼ってる」
「へえええ、いいっすネエ。マジで、へえ、久しぶりだなあ」
「てかさ、久しぶりに飲まない?」
「え、いいッスよ! あ、でも今大阪。住んでるんすよ、実家に帰ってて」
「あ、そうなんだ。こっち東京、じゃあ無理っぽい?」
「いや全然。友達みんな結婚しちゃってて、ちょー暇なんすよ。遊ぶ奴もあんまいなくなっちゃってて。僕今土日休みなんで、今度東京行きますよ」
「あ、そう? 今週?」
「あ、はい。あ、いいっすね、東京。そうっすね、やっぱ東京行くの楽しいかも。ほんとに行きますよ」
「じゃあ新宿で飲もうよ」
「あ、いいっすね」
「大阪より東京の方が涼しいでしょ、良いじゃん土日。俺ん家泊まりなよ」
「あ、いいっすね! 涼しいんすか? やっぱ大阪の夏って苦手で、僕」
「うん、涼しいよ。東京はほんと涼しい。クーラーかかってるみたい。ほな東口で」

 山手線で痴漢に遭うのは三回目だった。昼間だというのに身動きとれぬ満員のギュウ詰め電車、ちらちらと一二三のことを見てくる太ったサラリーマンがいた。一二三も相手がガンつけてきているものと思って睨み返していたが、渋谷駅でドアが開いた瞬間にアッ! 太ったサラリーマンは一二三の股間を一撫でして走り去って行った。一二三はバンドでボーカルをしていただけあって整った顔立ちをしている。彼に見つめられたホモ・リーマンは居てもタッテもいられなくなったのだろう、すぐにトイレに駆け込んだに違いないのであった。
 久しぶりに歩く東京には変な奴が多かった。待ち合わせの時間まで新宿周辺で時間を潰すことにして、チラシ配りをしていた時に回った懐かしい場所を散策する。西新宿、明治通り、歌舞伎町、新宿市役所辺り、いたるところに変な奴が一杯いた。道の真ん中でT字剃刀をつかって血だらけになりながら必死に顔を剃っているオジサン、介抱する友人に呂律の回らぬ口で罵詈を浴びせながら地面に倒れ込むミニスカート姿のギャル、いきなり叫び出したと思ったらそれは中国人観光客の喋り声で、突然歌いだしたと思ったら目がイッちゃってる制服警官だったり。難民募金のボランティアをする大学生の傍らではあぶら汗まみれのホームレスが腹を押さえて唸ってる。風俗のキャッチが全力で走る韓国人らしき男を追いかけている。喫煙所で鋭い目をした小学生たちが煙草を吸っていた。気持ち悪くてうるさい街だな、と思った。こんなに変な所だったかな? とも。
 一二三も昔より、世の中が訳の分からないものだということが分かってきたつもりだったが、やっぱりそれでも訳の分からないことばかりなんだなあ、と分かったような気がした。疲れるけど、こういう訳の分からなさに慣れていくしかないんだな、と思った。そして東京は、この世で一番訳の分からないところなんだなあ、と分かったつもりになった。何も分からないよりましだ、少しは気分がましだ。こういうことを考える度に頭がゴチャゴチャになり、指が震えて吐きそうになる。良く分からないんだ、世の中の色んなことが頭の中で今の自分に上手く繋がってくれない。
「へえ、あれ、こんなタクシーあったっけ?」
 一二三は待ち合わせの時間に遅れそうになってタクシーを止めた。屋根の社名表示灯には「東京カモメ交通」と書かれており、カモメなのかアヒルなのか良く分からない微妙な絵が描かれていた。

「おお、一二三くん。久しぶり」
 ライトアップされた新宿駅東口前のステージで、何度かテレビで見たことがあるアイドルが歌を歌い始めたころ、人ごみのなか自転車に乗った四天王寺さんに一二三は声をかけられた。
 電灯や百貨店、携帯電話販売店の光に照らされた自転車のフロントと荷台のカゴには化粧品や水道工事などのチラシが大量に突っ込まれていて、半袖半ズボンの四天王寺さんは陽に焼けて真っ黒の肌をしていた。笑うと口髭の中で左の前歯が抜けて無くなっているのが丸見えになり、残った歯もヤニ汚れなのか昔よりも黄色く変色していた。
「おっけ、そこのつぼ八いこ」
「え、自転車にチラシ積んだままじゃないっすか。盗られないっすか?」
「良いんだよ、盗まれたら全部配りましたって言うよ」
 夜で良かった、と一二三は思う。四天王寺さんの後姿を見ていたら泣けてきたから、こんな情けない顔を見られなくて良かった。なんでなのか理由が分からなかったが、涙が零れてきた。居酒屋に入ってすぐトイレに駆け込み顔を洗った。トイレから出て、妖精みたいに体が小さくなった四天王寺さんが座っているテーブルを見つけるのに少し難儀した。

「ふあ、久しぶりに酔っ払っちゃったな。二軒目いこう、いこう」
「大丈夫っすか?」
 四天王寺さんは昔より酒に弱くなっていたみたいだった。あんなに素直に話をする四天王寺さんを見たことが無かった。今は違う会社でチラシを配っていること、最近病気をしたこと、数年前に携帯電話を失くしたこと、ずいぶん友達が少なくなってしまったこと、年々性欲が弱くなっていること、今は自主製作映画を撮っていること、四天王寺さんの喋り方や表情からは昔あった凄みが消えて、色々なもののスケールが小さくなっていた。声が小さくなった。肌に皺が増えた。歪な変な髪型をしていた。爪の先が真っ黒になっていた。
「俺はAVでノーベル賞を獲る男だ」
「マジっすか! すごいっすよ四天王寺さん」
「いつか一発当ててよ、良い服着て、良い車乗って、良い女連れて、さ」
「ヤバイっす! ちょー良い、それ。まじヤバイっすよ」
 ガシャンッ!
 物凄い音がして振り返ると、『ハレンチ女学院 30分8,000円』という文字がパネル裏から照らされた電飾看板が四天王寺さんと一緒にひっくり返っていた。地面でうずくまる四天王寺さんは短パンから覗く膝から血を流して唸っており、傍らで制服姿のキャッチが声を裏返させてスマホで誰かに連絡を取っている。
 すぐにスモーク・ガラスのセルシオが一本目の角に停まり、中から素敵なスーツを着た鬼が数匹飛び出してきた。飲み屋街の灯に照らされた鬼は乱暴な言葉遣いで絶叫するとこちらに向けて走り出した。詫びを入れろとか、看板を弁償しろとか、50万払えとか、そういうことを喋りかけてきているようだった。一二三の酔って歪んだ視界の中で、鬼たちは角と牙をギラギラと輝かせていた。
「一二三くん、逃げよう。怖い」
 声がした方を振り向くと、もうすでに四天王寺さんは十数メートル先をしっかりとした綺麗なフォームで走っていた。一二三も一声叫んで途中で転がりながら必死に後を追う。東京の暑い夜が体中に絡みついて、呼吸が苦しくて上手く走れない。東京の長く入り組んだ道を走り続けることが出来るのは、ずっと練習をしてきた人間だけなんだと思う。

 どこをどう逃げたのか、一二三と四天王寺さんは気が付けば新大久保の路地裏に入り込んでいた。ああいう組織には縄張りがあるに違いなく、上手く相手の手の届かないところまで逃げることが出来たのだ。ハングルで書かれた焼肉屋の看板の下で、四天王寺さんが取り出して火を着けた不思議なクサ入りの煙草を回し喫みした。強烈な酩酊感に襲われるが、グッとこらえて眠ってしまわないよう四天王寺さんの顔に注意を向ける。大久保通の向こう側を自転車に乗った制服警官の二人組が走り去る。水商売風のお姉ちゃんが通りかかり、一二三たちは連れの小型犬に吼えられる。向かいの一軒家の二階から、網戸越しにオジイサンとオバアサンが無表情でコッチを見下ろしている。
「あはははは、これで土産話できたね。東京は怖いでしょ?」
「まじ洒落になってないっすよ。こんなに走ったの久しぶりで」
 がっこん、がっこんと飲み物の自動販売機がゲロする音がして、頭の上に蚊柱が立った四天王寺さんが缶コーヒーを差し出す。段差に腰かけた一二三はTシャツの裾で汗を拭いながら冷たい缶コーヒーに口を付けた。
「こんなことバッカしてるわけじゃないよ。いつもはもっと、ちゃんとしてんだ」
「マジびびりましたよ、えー。ぎゃはは、膝真っ赤すよ大丈夫スか?」
「あは、もう血止まってると思うけど。いやあ、でもさすがにビビったよね。うん。近年で一番だったかも」
「そうっすよ、ひひひ。はあ、なんか、でもなんか笑えますよね。良いオッサンが二人で必死こいて」
「あっはっはっは、わけ分かんないよね。看板倒したくらいであんな怒るかっつうの」
「ね! なんか良く分かんないことばっかっすよ」
「俺も良く分かんないでこの歳まできちゃった」
「ひゃはは。まあ、ね。色々あるっすよ。僕も三十代っす、もう……ああ、仕事したくねえ! 大阪帰りたくねえッス。面倒なことばっか」
「自民党が悪いんじゃない? ああいう悪い奴らが野放しになってんだもん。政治が上手くいってないから、世の中が面倒臭いことばっかになっちゃうんじゃん」
「へえ、そういうモンすかね? 良く分かんないっすけど」
「俺も分かんないよ。てかさ、タロット占いやってるんでしょ? 俺より人生のこと色々分かるんじゃないの、占いパワーでパーン、パーン、パーンってさ」
「いやいや、カードを売ってるだけっすヨ。そりゃちょっとくらいはやり方分かりますけど、占いとか本格的には全然知らないっすから」
「え、でも今日持ってきてるでしょ? 持ってるよね、カード?」
「いやまあサンプルっつーか、まあ別に僕がやる訳じゃないんスけど、やってる訳じゃないッスけどね。なんとなく持って来ちゃった。まあそんなテキトーな感じで」
 四天王寺さんはしゃがみ込んで、一二三がバッグから取り出して地面に裏向けに置いたタロット・カードのデッキを犬の頭みたいに右手で撫でた。
「カード、引いてみてくださいよ。出た絵柄の意味くらいは説明できるんで、運試し」
「なんか怖いね。嫌なカードが出たら嫌だな」
 そう言うと四天王寺さんはそのままカードを引いて裏返した。出たカードは『塔』、雲が取り巻く塔の上に雷が落ちて火事が起こり、二人の男女がそこから転落している絵だ。一二三からだと絵の上下は正しく見えるので、彼と向かい合った四天王寺さんには『塔』の絵が逆さまになって見えているはずだ。タロットでは絵柄が正位置か、逆位置かで読み取るべき意味が変化する。
「なにこれ」
「『塔』のカードっす。突然の変化とか、転落、爆発、とにかくカオスな感じを暗示するカードっすね」
「え、なになに!? すっげー怖いんだけど! この塔めっちゃ燃えてんじゃん。ちょっと、やめてくれよお」
「いや、別に悪い意味ばかりじゃないっすよ? 何か、こう、状況がすっかり激変するというか、なんか全部解放されちゃうというか、なんつーか、とにかく良い徴かもしれないんスよ」
「うーん、そうだね。確かに。この絵を見てても、べつに嫌な感じはしない」
「ちゅうか、僕の方から見ると正位置ですけど、四天王寺さんから見たら逆さまになってるじゃないっすか? そうなんすよ、一見トラブルを呼ぶカードに見えますけど、それが逆で出てきたっつうことは……」
「そうだなあ、ここに描かれてる二人は、転落しているというより空を飛んでるように見えるね、なんか楽しそう。所々に火花が散っていて、物凄く面白い、ワクワクするようなことが起こる直前みたいな感じの……」
 突然、はっぴいえんどの「はいからはくち」のメロディーが流れて、四天王寺さんが携帯電話で誰かと話し始めた。

「一二三くん、悪い。今日、君を家に泊められなくなっちゃった」
「え? あ、いいっすけど。え、どうしたんすか?」
「ほんとごめん。なんか、いや、今仲間と一緒に映画を撮ってるんだけど。なんかさあ、今から撮影するから来いって。タクシーで迎えに来るってさ」
「まじすか!? 良いじゃないっすか。ええ、いやじゃあ僕も連れてってくださいよ」
「いやほんとゴメン。それは無理」
「ええ」
「あ、タクシー来た。あれ、あのタクシー」
「ねえねえ」
「ここでお別れだ。今度は俺が大阪に行くよ」
 ランプに照らされた「東京カモメ交通」の文字が、一方通行の狭い道路にも関わらず左折して一二三たちに近付いて来た。東京カモメ交通のタクシーは一台どころではなく、何台も何台も空車表示灯を「割増」の緑色に光らせて灯籠流しみたいに一二三たちの前をゆっくりと通り過ぎてゆく。最後尾のタクシーが停車すると、ドアが開いて車内から見覚えのある人々が降りてきた。
「え、ちょっと、チョット!? 四天王寺さん。ねえ!?」
「なに」
「なにジャナイッスよ! なんすかこの人たち」
「本人を前に、そういう言い方は無いんじゃない? ちょっと失礼だと思うな」
「る、ルイス・ブニュエル? ホドロフスキー? ゴダール? え、え、なんすかなんすかソックリさん? この人たち。ねえ、四天王寺さん!? ちょっと!?」
「あんま騒ぐなよ。他の人に見られちゃうだろ?」
 オー、四天王寺サーン、オー、フジヤマ、ゲイシャ、原宿、AVギャル、ジャパニーズ・ヘンタイ
 二十世紀の前衛映画の巨匠たちは片言の日本語で四天王寺さんに気安げに話しかけていた。皆むかし四天王寺さんに見せてもらったモノクロ写真で見た通りの顔をしていて、それぞれハットを被り、仕立ての良い上品なスーツを着ていた。
「みんな良い奴らだよ。いま彼らとポルノ映画撮ってんだ、内緒だからね? ネットに書き込んだりしないでくれよな」
「ええ!? 意味分かんない、なんっすか。なんでまだ生きてんスか!? ええええ、あれ、アレアレ黒澤明? ジェームズ・スチュアート? 小津安二郎? 笠智衆? マリリン・モンロー? 清水宏? ケイリー・グラント? 芦川いづみ? 有馬稲子? ジャック・タチ?」
 道路の果てまでを埋め尽くして輝いている東京カモメ交通のタクシーのドア・ウィンドウが開いて、中から往年の映画監督や役者たちが身を乗り出して四天王寺さんに手を振っていた。もう死んだ人だけでなく今も生きているはずの人もいるのだが、みんなスクリーンの中からさっき出てきたみたいに若々しかった。
「ほんとゴメン。だけど今日は急がないと、良い絵が撮れそうなんだよね。早く行かないと」
「絶対僕も付いてきます! 絶対ッ! 行くッ!!」
「だから連れてけないって。ああヤバイ、もう始まっちゃったよ。ゴジラVSキングコング」
 四天王寺さんが指差すと空は暗雲に包まれ稲光が迸り、地面が激しく揺れ始めた。
「VS座頭市VSスター・ウォーズVSフランケンシュタインVS猿の惑星の猿VS若大将VS魔人ドラキュラVSフリークスVS寅さん」
 皆の衆、飛べいッ!! タクシーの屋根で仁王立ちする着物姿の三船敏郎が号令をかけると、東京カモメ交通のタクシーの群れは空中に浮かび上がった。空の向こう側ではスカイツリーのまわりで怪獣や宇宙船がぶつかって火花を散らしている。わらわらと大久保上空にもモンスターや妖怪が漂ってきて、口から怪電波を放って攻撃してきた。タクシーのドアから身を乗り出した原節子やオードリー・ヘプバーンが光線銃で応戦する。ウルトラマンが巨大化した天津敏をぶん殴ると地響きが起こる。分身した無数のウーピー・ゴールドバーグがビルの屋上や信号機の上、マンホールの中、公衆便所の便器など至る所で陽気な歌を歌っていた。空を飛ぶマルセル・マルソーがクネクネ動き、チャップリンが驚いた顔をしている。
「とりあえずお台場でローレン・バコールと志村喬の絡みを撮るから、野外プレイ。時間無いんだよ、普通のAVにはしたくない」
「四天王寺さん!? 待ってくださいよッ!!」
 空気と地面が激しく振動していて一二三はもう立っていられなかった。四天王寺さんのタクシーもゆっくり宙に浮かび上がっていく。
「ちょっと!! 四天王寺さん! ねえッ!!」
「また飲もうよ。今度は奢るからさ」
「待ってください! 僕も、僕も、連れて行って」
「だからゴメンって。一二三くんを連れていくわけにはいかないんだ」
「なんで!? 友達じゃないッスか!? 四天王寺さん! 置いてかないで、嫌だ」
「諦めてよ、無理無理。あはは」
「四天王寺さんッ!!」
「ごめん、さよなら」
「なんで!? こんなこと、あんまりだ」
「だって、君はもう東京の人間じゃないからさ」
「四天王寺さん」
「東京の奴じゃないと、夢は見られないさ」
「四天王寺さん」
「仕事頑張りなよ。別に、俺はそれを責めたりしない。人生色々さ」
「四天王寺さん」
「夢を見続けるのもしんどいし、夢を諦めるのもしんどいさ。お互いがんばろ。じゃあ、また」

 一二三は気が付くとタクシーに乗っていた。「東京カモメ……」思わず口走ると運転手がちょっと振り向き、プラスチックの防犯板に張り付けられた社名入ステッカーを指差して「大江戸あひるタクシーですよ」と喰い気味に返事をする。
 タクシーはどうやら新大久保から外苑東通りに入るつもりらしく、懐かしい早稲田の街並みが窓の外を流れていく。東京にしては緑が多い鶴巻町周辺の並木道を、良く咥え煙草をしながら夜中まで営業しているラーメン屋まで歩いて行ったものだ。そう、このコースは見覚えがあった、多分このタクシーは東京麺珍楼油そばまで行くに違いない。
 いつタクシーに乗り込んで行先を告げたか、なんで東京麺珍楼まで行こうと思ったのか、一二三はさっぱり思い出せなかった。空を飛ぶ東京カモメ交通のタクシーの群れと、それに乗ったスターや監督たちの超編映画のドンチャン騒ぎは夢だったんだろうか。やっぱり、新目白通りと外苑東通りがぶつかる交差点の脇に、東京麺珍楼の赤い提灯が見えてきた。相変わらず夜中でも行列が出来ており、カップルやサラリーマン、ジャージやスウェット姿の学生らしき集団などが並んでいた。

「へい、らっしゃい」
 入口の券売機で食券を買いカウンター席に座る。一二三が油そばを食べるのは久しぶりだった。油そばとは普通のラーメンとは違いスープが入っておらず、そのかわり熱々の麺の底には少量の不思議なタレが入れられている。そこに好みで酢とラー油を加え、麺に万遍なく絡ませる。一二三は昔の通り二玉のダブル盛りに、ネギごま、半熟卵のトッピングをして注文した。やはり半熟卵を加えて油そばの強烈な香りを和らげるべきだ。他の客たちは一言も喋ることなく一心不乱に麺をすすっている。一二三の目の前にも丼が置かれた。記念に写真でも撮ろうかとスマホを取り出したが、カメラの撮影音が鳴り響いて周りの客たちにジロリと睨まれる。一二三は赤面してむせ返りながら、涙混じりの美味しい美味しい油そばを啜り倒した。
 一二三は熱いゲップを吐き出すと、厨房に向けて空けたばかりの丼を思い切り投げつけた。鍋やタイルに当たったあと派手に割れる音がして店内から悲鳴が上がった。
 なにやってんだよ、お前! 冗談じゃないよ!
 と黒い制服を着た店員たちの怒鳴り声。
 一二三は外へ飛び出して、『東京麺珍楼油そば』と墨字で書かれた、お盆ほどの小さな看板を力づくで捥ぎ取った。外に並んでいた客たちは絶句して一二三の所業を眺めている。その中の一人の老人が彼に向けて諭すように話しかけた。
「おい、兄ちゃん。『東京麺珍楼油そば』はアンタだけの物じゃない、みんなの物なんだよ。油そばは東京名物、持って帰りたくなる気持ちは分かるけどさ」
「うるさい、くたばり損ないのジジイめ。棺桶とオマンコしてろい!」とつれない返事の一二三。
 一二三は看板を両腕でかき抱いて、夜の早稲田を駆け抜けた。
「もう思い残すことなんか無え。東京なんか、二度と来るものか」
 小さく叫ぶ。

「やあ一二三くん」
 また登録の無い番号がスマホの画面に表示されて、
「ちょっと、マジメな話をするけどさ」
 四天王寺さんから電話がかかってきた。
「君が持ち帰ったそれ、東京行きの片道切符だからね」
「え?」
「東京って文字の入った、何かを盗んだだろ?」
「え、なんすか。なんで知ってんすか」
「まあね」
「どっかで見てたんスか? 怖」
「見てないけど分かるよ、友達だもん」
「超能力」
「いや、そんなんじゃないけどさ」
「つーかズルいっすよ、自分だけみんなと行っちゃって。つーかあの人たちマジで何なんすか? 超気になるのに、何も教えてくれないし」
「あはは、まあまあ怒らないで。ね?」
 一二三はネットカフェに泊まるために、池袋へ向けて目白通りを歩いていた。有名な政治家の豪邸の玄関に設置された監視カメラを横目に見ながら、ガードレールに腰かけて煙草に火を着ける。高そうなスポーツ・ウェアを着た夜中のランナーたちが脇を通り抜けるたびに風が吹いて、一二三の体の表面に浮いた汗を冷やしていった。脇に抱えた油そばの看板が街灯に照らされて、東京の二文字が白く輝いている。
「まあ、何だな。一二三くんはやっぱり東京が好きなんだ。分かる、分かる、みなまで言うな。好きだから素知らぬ顔する天邪鬼だよ君は。まあ良いじゃないかそれも人生、素直でいるには自分の力が足りないから、普段は忘れたフリをしているのさ。
 しかし東京は一二三くんの中にとどまり続けるだろう。慰めに聞こえるかもしれないけれど、ズバリ言うとね、本当は本当の東京なんてものは何処にも存在しないんだ。全て東京だし、全て東京じゃない。東京は東京であって東京じゃないし、東京であり続けるけど東京は思っているほど東京じゃない。
 東京はただの文字だ。東京は素晴らしい宝物だ。東京は日本の首都だ。東京はダサい奴らが集まる街さ。
 ただその東京の切れ端だけ大事に持っていなさい。それは東京への片道切符だよ。お守りにしなよ気分が軽くなるから。いつでもその気になりゃ、東京くらい簡単に行けるんだぞって、ね。辛いことがあったら取り出して眺めるんだ。だけどそれに頼り過ぎちゃいけない、東京はやっぱり東京だけど、でもやっぱり所詮東京でしかないからね
 きみの目的は東京に行くことじゃなくて、幸せになることなんだろ?
 俺はAVでノーベル賞を獲る。君は君の目的地を思い出して、忘れないようにしていなよ」
 電話の途中で制服警官が走って来て、勢い良く一二三の口から煙草を叩き落とした。路上で煙草を吸うのは駄目なのだという。
「なんで煙草吸っちゃいけないんスか」
「クサイんだよ。お前クサイ、凄くクサイッ! ヤダーッ!」
 制服警官は絶叫するダルマみたいに怖い顔をしていた。
 スマホを見ると、いつの間にか電話は切れていた。

 あれから四天王寺さんは一度大阪に遊びに来て、また東京に帰っていった。東京カモメが空に飛んだ日のことは、お互い話題に出さなかった。一二三は街中でタクシーを見かける度にあの日のことを思い出して、往来の人に尋ねてみる。
「あのタクシー見たことあります? どこのタクシーなんでしょうね?」
 ひょっとしたらあれは夢だったのかもしれない。夢じゃなかったのかもしれない。目を閉じると、夜空で星々のように輝く東京カモメ交通のタクシーが浮かんでくる。目を閉じると、そこは人生の向こう側なんだ。瞼の裏で「東京」の文字がチカチカと輝く。

 ローンを組んで買った築十五年の中古マンションに一二三は引っ越した。再び歌を作り始めた一二三の2LKDの一部屋には、まだ『東京麺珍楼油そば』の看板が飾ってある。最上階の一つ下の、十階から見る夜の街はとても綺麗で、大阪も悪くないもんだ、と思わず笑みがこぼれてしまう。
 一二三はあの日の四天王寺さんを思い出して、手持無沙汰な時なんかにタロット・カードを引いてみるようになった。毎回念入りにシャッフルして良いカード出ろ、良いカード出ろと呟きながらカードを引く。
 これは夢なんだろうか、夢じゃないんだろうか。何度タロット・カード引いてみても『愚者』のカードが出てくるんだ。人生に種も仕掛けも無いんだろうか。絵の中で太陽に照らされた『愚者』が崖の上に立ち、カモメみたいに両手を広げて今にも空へ飛んでいきそうに見える。
 あっはっはっはっは

東京カモメ

東京カモメ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-06

Copyrighted
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