岩男
岩男は大きな岩みたいなゴロリとしたいかつい顔かたちをしていた。山や森なんかにある自然の存在と同じで、あまり他の生徒たちとふれあうこともなかったね、ほとんど物も言わなかった。体が頑丈で、殴られたり蹴られたりしても平気だ。だけどそんなとき制服が汚れてしまうのがさいなんだったが、洗濯をするお母さんは気付かないフリをしてくれていたよ。親に自分がいじめられたり馬鹿にされているのが知られてしまうのが一番悲しいことだって、お母さんもちゃんと知っていたから。他人の悪意は嵐みたいに、じっと耐えていたらそのうち過ぎ去るものだから、名前の通り、我慢強く世界が晴れ上がるのを待っていた。
岩男の家は貧乏だったから、流行のゲームとか、漫画とかケータイとか、なんにも買ってもらえなかった。高校生になっても遊びといえば、一人っきりで空の雲を眺めて、あれは兎、あれは神様、あれは天国だといって色々あたまの中で想像して楽しむことしか知らなかった。誰も何も、普通の男子高校生がするような楽しみを教えてくれなかった。同級生たちは岩男のことを、本当の岩だと思っているみたいに、無視したり、蹴飛ばしたり、軽んじたりしていた。岩に話しかけたり、岩を遊びに誘うような人は、おかしい。そういう風に、生活の道ばたに転がる醜いものだと思われていた。
だけどなんの悪戯か、ゴテゴテした岩のてっぺんに綺麗な花が咲くこともある。岩男がいつものように中庭のベンチに座って空を見ていると、校舎の上の階から男子と女子が言い争う声がした。痴話喧嘩といったあんばいだったがどちらも大変興奮していて、女子が死んでやる、と叫ぶと、四階の教室の窓から飛び降りてきた。髪の毛やブレザーやスカートがひらひらひらめいて、まるで花束が落下するよう。岩男は力が強くて体が大きかったから、その女の子の体を少しも痛めずに、やはり大きな花束を受け取るように両手でしっかり抱きとめた。一瞬、大きく風が鳴る。
「……おおい、大丈夫ですか? 気をしっかり、分かりますか?」
「わたしは……」
「気が付きましたか? あんな高いところから落ちて」
「生きてるのね、わたしは生きてる」
「そうですよ、なんであんな、危ないですよ」
「良かった、死ななかった。本当に生きてる。飛び降りなんて、したくなかったわよ。本当は死にたくなんか、なかったのよ」
「そうです、死んじゃ駄目ですよ。せっかくそんな、綺麗な姿で生まれてきたのだから」
女の子は柔らかくて良い匂いがして、岩男は生まれて初めて岩石みたいに灰色な心の中に鮮やかな色彩がひろがる思いがしていた。彼女は美咲さんといって、笑顔が花びらが開いてこぼれるみたいに綺麗だった。美咲さんは安堵した涙を流しながら、岩男に向けて素直な顔で笑っていた。
☆
「美咲さん、愛しています。僕の恋人になってください」
岩男は生まれて初めて人を好きになったものだから、そのやり方はぶざまなものだった。コツを教えてくれる友達もいなかったし、場所や時をかまわず赤ん坊みたいに思ったことを大きな声で口にするしかなかった。
美咲さんはたしかに、心を持たない風や土や木みたいなものにも恋をさせてしまうほどにすばらしい女の子だった。そしてそういう子にありがちなことで、心の中まで外見ほどに美しいとまではいかなかった。つまり美咲さんは若くて綺麗な、普通のありきたりな女の子だった。
「そうね、岩男くん。私を恋人にしたかったら、そのコケがへばりついているようなうっとうしい髪型をなんとかしてくれないかしら」
美咲さんは岩男の目も見ずにツンと澄まして、友達の女子と一緒に行ってしまった。教室を出た瞬間、友達は美咲さんに意地悪で楽しげな調子で話しかける。
「岩男くん、ネー。命の恩人だからって、調子に乗ってるんじゃないの? ああ、醜い顔。ぞー、としちゃう。恩に着せてるのよ、気持ち悪いあの顔で。美咲さ、もうちょっと強く、断った方が良いわよ」
「そうね、たしかに助けてくれたのは感謝してるけど、あの顔じゃあ、私の恋人にはできないよね、全然釣り合わないよ。土やホコリのにおいがして、不潔な感じがする。しつっこくて、なかなか諦めてくれないのよね」
「あーあ、醜さって人を不幸にするのね。自分だけが苦しめば良いのに、他人まで嫌な気分にさせて。本当に不幸よ、不幸の種を蒔いているんだ。それが分からないこと自体、本当に醜いことで不幸なことだ。ヤダヤダヤダ、不幸はヤダなあ」
ぱたり、と二人の会話が止む。
廊下の向こうから剣道部の主将が歩いてきた。
主将がピンと背筋を伸ばして涼しげに整った顔で目礼すると、二人の女子は桃色の笑顔を送り返す。
岩男の話と不幸の感覚は塵と一緒に風に吹かれて何処かへ消し飛んでいった。
☆
「美咲さん、愛しています。僕の恋人になってください」
ごつごつした岩男の頭のてっぺんだけ、刈り上げられてワックスがついた今風の茶髪になっていて、それはそれはチグハグでかわいそうで、滑稽な見世物になっていた。
美咲さんに言われて、前の日に初めて美容室に行ったのだった。岩男のお母さんは、初めて岩男が美容室に行くと言ったので、岩男に彼女が出来たんだと思って、なけなしの一万円札を快く岩男にあげた。
お父さんはもうこの世にいないし男の身だしなみを教えてくれる人がいなくて、岩男はワックスのつけ方も知らなかったから寝て髪形を崩しちゃいけないと思い、とうとう一睡もせずにそのまま学校に来たのだった。
くすくす、くすくす。その髪形があんまり似合わないものだから、クラスの同級生たちははあはあはあと勢い良く笑い出した。地味な風景の一部だと思われていた岩男の頭だけがお洒落に整えられていたものだから、みんなはまたなにかの悪ふざけなんだと思ったのだった。また新しい悪戯が始まったんだと思ったのだった。
「そうね、岩男くん。服が駄目なんだと思う。学校の制服では駄目よ。私の恋人は、お洒落な洋服を着ている人でないといけないわ。ごめんなさいね」
ギター・ケースを背負った男子生徒が教室の外から合図すると、美咲さんは一緒に行ってしまった。その男子はピアスをしてガチガチに固めたモヒカン頭、着崩した制服は安全ピンだらけの痩せっぽっちのパンクスだけど、いかにも女の子の人気が出そうな自信満々の顔をしていた。気取ったしゃがれ声で美咲さんに話しかける。
「あの岩男の奴、みっともないったらありゃしねえや。自分で鏡を見てみろ、ってんだ。誰もなんにも教えてくれねえのか、かあいそうな奴だ。傑作だよ、笑っちゃうね、け」
「私も困ってるのよ、なにか勘違いしてるみたい。人間には身分というものがあって、低い身分の人間は上の身分の人と仲良くしちゃいけないって、世間体があるから誰も口に出さないけど、ちゃんと決まっているのにね。命を助けてくれたお礼なら言ったはずなのに、しつこいのよ」
「だいいち、あんなに素直に告白するなんて、格好悪いったらありゃしないぜ。もっと人のアドバイスを聞いて、鏡を見て一番格好良く見える顔の角度を研究して、流行の音楽を聴いたり、色々の面白い遊び場を知っていなくちゃあいけないのにな。女の子はそういう、楽しくてキラキラ光った美しいものが好きなんだ」
そういってモヒカン頭は美咲さんの肩を抱き寄せた。二人は恋人同士でもないのに、戯れにお互いの体を触りあった。唇がくっついてしまいそうなくらいに顔を近づけたり、手を繋いだりして肌の温度を確かめ合った。別に恋人同士ではないのだ。本当に好きだというわけでもないのに、男友達にたいして思わせぶりな調子で、美咲さんはそういうことができる女の子だった。
☆
「美咲さん、愛しています。僕の恋人になってください」
岩男は高そうな服を、ピエロみたいにちぐはぐな組み合わせで着ていた。お洒落な服はお洒落な体つきの人が着るように作られているから、岩男には全然似合わない。岩に洋服を着せているみたいで、同級生たちはまたはあはあはあと大きな声で笑っていた。
岩男は初めてお母さんを殴って、パートの給料から十万円をくすねてきたのだった。お母さんはとても痛くて泣いてしまったが、それでもお母さんというのは息子が急に乱暴になっても、息子のことを信じていてくれるものだ。痛いことや、辛いことを我慢してくれるものだ。お母さんは岩男の小さい頃の、素直で良い子の印象を命綱みたいに掻き抱きながら、四畳半の部屋に一人うずくまって泣きながら静かにしていた。
岩男は十万円を握りしめて、都内でいちばんお洒落な街に服を買いに行った。服屋の店員たちはこういう友達のいない不細工な子供になんかどうせ分からないやと思って、今季の売れ残りや粗悪品を売りつけた。そういう売れ残りや粗悪品だって、そういう店のはえらく高いものだ。店員たちのノルマのかわりに、岩男は派手すぎたり大きすぎたりするお洒落な売れ残りの洋服を両手一杯に抱えて帰った。
「そうね、岩男くん。頑張ってるのは分かるけど。やっぱり、どうしても駄目なところは、美咲が生理的に無理だと思うところは、その不気味な顔なんだと思う。その変てこな体つきなんだと思うわ。それをなんとかしてくれなきゃ、恋人にはなれないわよ。ほんとうに、ごめんなさい。もうあきらめてね」
美咲さんが教室を飛び出すと、美咲さんが窓から飛び降りた時に喧嘩をしていた、美咲さんの彼氏が待っていた。サッカー部のキャプテンで勉強が出来るし顔も男前で、ただ多くの若い男と同じで女の子に対して我慢が足りないところがあった。しかし美咲さんは飛び降りたりして、彼氏の気を惹くことにすっかり成功したし、このサッカー部のキャプテンは美咲さんのことが気になって気になってしかたがなくなって、すっかり夢中で彼女のためなら何でもしてあげる気になっていた。
「美咲、愛してる。可愛いね、ほんとうに大好きだよ」
「ありがとう、私も愛してる。他の誰よりも、あなたのことしか考えられないわ。ほんとうに好きだわ、愛してる」
「こら、岩男。制服も着ずに、なにしとるか!」
生活指導の体育教師が岩男の私服を見咎めて、竹刀で頭をぶん殴った。それから乱暴に胸倉を掴んで、生活指導室に連れて行った。たいていの体育教師がするのと同じように、生徒の話も聞かずに、反省しろ反省しろ、と、下校のチャイムが鳴るまでずっとずっと怒鳴っていた。
☆
体育教師の説教が終わると、岩男は号泣しながら学校の裏山まで走っていった。生い茂る木立の中を駆け抜けた。鋭く尖った木の枝は岩男の肌を傷つけた。枯れ葉に隠れた穴ぽこに足をとられて転んだ拍子に手の平や頬を擦りむいた。それでも悲しみは止まらず足は止まらず崖から落ちても落石に打たれても岩男と涙と叫び声は止まらなかった。そのうち岩男は裏山で一番大きな木に頭からぶち当たって気絶した。しばらくしてから気がついて、まだ自分が生きていることを知ると、また顔面から大木に突撃していった。食いしばった歯が折れても、体中の筋肉が悲鳴をあげても、何度も何度も顔面からドシン、ドシンとぶつかっていった。何度も何度も気を失っては倒れて、目を覚ますとまたぶつかっていった。何度も何度も、一生懸命に死んでしまおうと、醜い自分の顔をこの世界から消してしまおうとした。それでも岩みたいに頑丈な岩男は何度やっても何度やっても死んでしまうことができなかった。顔は血だらけでグチャグチャに潰れてしまっていたが、その真ん中にあいた穴がモグモグと動いて、風が岩の間を通り抜ける時みたいなヒュウというような寂しい音で独り言を呟いた。
「おお、俺は今まで真面目に生きてきた。この名前の通り、ひたすら耐えて耐えて、いつかいい目が見れると思って、幸せなことが人生に待っていると思って、頑張ってじっと静かに生きてきた。美咲さんに出会って、やっと楽しく暮らせるようになると嬉しく思っていたのに、何だ。最初っから、何にも問題にならなかったんじゃないか。こんな姿に生まれて、幸せになれるわけがなかったんじゃないか。どんな髪型にしたって、どんな洋服を着たって、この俺の醜い顔はなおらない。頑張れば頑張るほどみんなに笑われて、今まで聞いたことがないような酷いことを言われて、世界がもっと悪くなってゆくだけじゃないか。俺は顔が悪くて、頭が悪くて、もう何も分からない。ああ、神様。神様、他に何も望みませんから、どうか正しいことだけを選択できるかしこさを俺にください。どんなに人に笑われてもいい、どんなにみじめでもいい。だけど、俺のことを馬鹿にする人たちを俺が恨んだり、憎しみの心で悪く思わないように、俺に正しいことだけを考えることができるようにしてください。人に憎悪を抱いて疲れてくたくたになってしまうような、悲しいことを俺にさせないでください。そうでないと、俺は美咲さんのことを悪く考えてしまう。俺は美咲さんのことがこんなに好きなのに、何でもしてあげたいと思っているのに、俺のことを醜いと軽蔑して馬鹿にしている美咲さんのことを憎んでしまう。神様、どうか美咲さんのことをほんとうに好きでいさせてください。最期まで、俺に生きているということを好きでいさせてください。神様、神様。どうかお願いいたします、人に何も望みません。ただ、俺の心を救ってくださるだけでいいのです。お願いいたします。どうかお願いいたします」
☆
そのとき、遠くから声が聞こえた。美咲さんやクラスメイトたちが岩男を呼ぶ声だった。
「オーイ、岩男くーん」
「岩男お、どこにいるんだー」
「どこー? おおい、岩男くうん」
岩男はいっぺんにたくさんの人に、そんな風に自分の名前を呼ばれたことがなかったから、もうろうとした意識のなかで切ない気持ちで、小さい頃に何度も何度もお父さんやお母さんに岩男岩男と呼ばれたのを思い出しながら、自分を呼んでいる方へと歩いていった。
☆
あの、美咲さんが空から落ちてきた学校の中庭で、みんなが岩男を待っていた。みんな岩男のことを見て、岩男のことを待っていた。岩男はこんなたくさんの人に待たれたことがなかったから、夢の中にいるようなフワフワとした気持ちで美咲さんの前に進み出た。美咲さんは整った顔立ちの女の子だけが出来る上手な笑顔でこころよくむかえた。
「岩男くん、今までのことを謝るわ、ごめんなさいねえ。たくさんひどいこと、言っちゃった。でも、不安だったの。岩男くんがほんとうに私のことを好きなのか、たしかな証拠が欲しかったのよ。
だからね、クラスのみんなに相談してみたの。みんな色々考えてくれたのよ。岩男くんと私のために。ほんと、うれしい。みんな、ほんとうに優しい人たちだね。私もいつか誰かのために、一生懸命になれたらって思った。他人のために頑張れたらなって思った。
岩男くんは窓から落ちた私を受け止めてくれたね、命の恩人だよ。ほんとに、岩男くんは力が強くて、たくましくて、えらいね。みんな言ってるよ、すごいことだよ。私だけじゃなくて、みんな、岩男くんのそういうところが好きなの。だからたまに、いじわるしたりして、からかっちゃうけど、いつもすごいナア、って思っているのよ。みんな照れて素直になれない。ほんと、恥ずかしいね。本当のことって、素直に言えないものだね。でも、素直に言うことが、言いにくいことをなんでも素直に言うことが、一番大切なことなんだよね。
だから、今日は勇気を出して素直に岩男くんにお願いするね。私たち二人のためにどうしても必要なこと、お願いするわね。岩男くんの気持ちを確かめたいの、本当に。私のためにお願いを聞いてくれるか、頑張ってくれるか、私のことを本当に愛しているか。
そのお願いごとっていうのはね、岩男くん。私が落ちたときみたいに、教室の窓から物を落とすでしょう? それを、岩男くんに受け止めて欲しいの。力の強い岩男くんにぴったりの方法でしょう? 岩男くんが一番得意なことよ。これしかないって、思ったわ。
良かったね、みんなが岩男くんのために一生懸命考えてくれたのよ。こうすれば、岩男くんの本当の気持ちが分かるって。みんな優しいね、涙が出ちゃう(涙を流すフリ)エーン、エーン。ありがとう、ありがとうみんな。きっと岩男くんなら私のためにやってくれるわ。どんな物だって受け止めてくれるわ。だって、私のことが好きなんだもんね? ありがとう、本当に、人に愛されるってなんて嬉しいこと。全部、受け止めてね。頑張って受け止めてね。全部受け止めることができたら私、岩男くんの恋人になるわ。ほんとうの気持ちをたしかめたら、あなたの恋人になるわ」
☆
岩男はお洒落な洋服はボロボロ、髪型はもう無茶苦茶で、顔面は真っ赤に血で汚れてぐしゃぐちゃになっていた。指の爪は半分も剥がれていたし、強烈な痛みで汗がたくさんでて臭かったし、それにくわえて気絶したときに漏らした小便と糞の臭いがしていた。
それでも、みんな誰もそういうのは気にならなかった。岩男はみんなから同じ人間だとは思われていなかったから。虫けらをいじめたり小さい動物をおもちゃにするのと同じことで、苦しんでいる岩男を見ても、面白いことになってるなあ、ひどく愉快だなあ笑えるなあ楽しいなあ夢中になるなあ、としかみんなは思っていなかったから。
岩男のことを岩と同じ、自然の風景だと思っていたから。自然の風景の変化を楽しんでいた。このような風景はどこにでもある。学校にも職場にも住宅街にも、どこにでもあってみんなが楽しんだ後は、一人が傷ついたり苦しんだり、死ぬだけ。
☆
岩男は本当に頭が悪かったから、美咲さんのことが本当に好きで、美咲さんが言ったことは全部本気にした。美咲さんのことをすごく愛していて全部真に受けて、本当に嬉しかった。
☆
「おーい、岩男、いくぞー」
顔の見えない誰かがそう言うと、四階の教室の窓から黒板消しが落ちてきた。落ちてくるときチョークの粉が空中で円を描いていて、まるで火のついた爆弾が回転しながら落下しているみたいだった。半分潰れた目で必死に追いかけて、黒板消しは岩男の顔面で受け止められた。チョークの煙幕に岩男は包まれたのち、粉だらけの岩男が意識を失いそうになりながら心だけで突っ立っていた。
「あははあ、いいぞお、大成功」
☆
「岩男くん、いくよお。頑張れえ」
心のこもらないそういう悪ふざけの言葉が聞こえると、大きな三角定規が落ちてきた。何度も回転してスピードがついて、その勉強の道具は刃物のように鋭くなった。たくさん回転してるから、どうやって受け止めたら良いかわからなかったけど、岩男は三角定規の真下で泣きながら待ってた。三角定規は岩男の肩と首のあいだに突き刺さって、止まった。思ったより痛くないじゃないか、思ったよりいたくないじゃないか、岩男は自分にそう言い聞かせて三角定規を引き抜くとき血が出てまた涙を流した。
「あっは、やったねえ。大成功、良かったねえ」
☆
「岩男お、今度はどうだあ。そおれ」
思いやりのない中身がスッカラカンの言葉が聞こえると、野球部の金属バットが落ちてきた。太陽の光を反射してキラキラして、人殺しロケットが落ちてくるみたいに、見ていて最悪な気分がした。岩男は死にたくないなあ、と思いながら、空に向かって両手を突き出した。金属バットは岩男の両手をすり抜けて、岩男の股間のバットを直撃した。でも実際の野球とは少し違って、二つのボールは砕け散った。面白いなあ、面白いなあ、みんな面白いと思った。面白いなあ面白いなあシャレが効いてるなあ。少しでも笑ったり面白いと思った奴はみんな人殺しとおんなじだ。
「面白いなあ岩男、大成功」
☆
「だいじょぶかあ、岩男。しっかりしろよお」
……な言葉が聞こえると、重くて硬い勉強机が落ちてきた。ああ、もうなんか気分が悪いや。悲しい、辛い、気持ち悪い。吐き気がする、気持ち悪い。くそばっか、くそばっか。書きたくないけど、ほんとうに、岩男お
……
「あはは、岩男、頑張ったなあ。大成功」
☆
……
みんなは興が乗ってきて、
みんなは興が乗ってきて、ふざけてエスカレートして、教室の窓を全部はずして一番大きくて重いものを地面へ放り投げる準備をしていた。みんな人殺しで、人殺しの子供たちだ。親も、その親も、その親もその親もみんなみんな、みーんな人を殺して生きてきた生き残ってきた、弱い奴を殺した。
美咲さんの友達の女子も、剣道部の主将も、モヒカン頭のパンクスも、その他みんな、みんなで殺せば恐くないといった人殺したちがグランドピアノを運んでいって、窓から岩男に放り投げた。グランドピアノは重くて堅くて真っ黒で、それは目に見ることが出来る死神だったのだ。それは死神を祀るお神輿だったし、お祭りだったのだ。楽しい楽しい、みんな笑っていた。
美咲さんの彼氏のサッカー部のキャプテンも笑いながらグランドピアノを放り投げた、
しかし死神の鍵盤のあぎとがサッカー部のキャプテンの制服の袖を噛んで、
サッカー部のキャプテンの顔から笑みが消えて、落下する感覚が魂を冷やして、
その冷気が目玉にあたると涙が流れて、
赤ん坊のような絶叫が口から飛び出して、
グランドピアノと美咲さんの彼氏は一緒に落ちていった
☆
みんな笑っていた。そうなのだ、みんなからしたら、誰が死のうが同じことなのだ。そのうち自分も死ぬのに。
☆
だけど美咲さんだけは泣いていた。いや、美咲さんと彼氏だけが泣いていた。いや、美咲さんと、彼女の彼氏と、岩男だけが泣いていた。
☆
「岩男くん、受け止めてえ。お願い、受け止めてあげてえ」
美咲さんは無駄だって、分かってたけど、叫ばずにはいられなかった。
「岩男くん、受け止めてえ。お願い、受け止めてあげてえ」
本気で岩男にお願いした。
☆
岩男は美咲さんに初めて、本気のお願いをされて嬉しかった。岩男は美咲さんのことをほんとうに愛していたから、彼女のためならなんでもしてあげたかった。好きな人のためならなんでもしてあげたい。それが可能かどうかは分からないけど、そのために死ぬくらいのことをしてあげられたら、ほんとうに嬉しいと、つねひごろから考えていた。
グランドピアノが地面に叩きつけられると思った瞬間、岩男は両腕と頭とをピアノに向けて突き出した。ぎゃらぎゃらとピアノが鳴って同時に岩男の骨や内臓が潰れる音がしたが岩男は負けずに唸り声をだすと地面に踏ん張った。地面には血だまりができていて岩男は血まみれでまるで血がグランドピアノを支えてるみたいに見えたしじっさい岩男の熱い血がそれをしていたのだ。ピアノに引っかかっていた美咲さんの彼氏は岩男に助けられた、ピアノの上で気を失っていたが意識を取り戻すと鼠みたいにおびえて岩男に礼も言わず美咲さんにも何も言わずにみじめに地面にうずくまっていた。
岩男は凄いことだが、校舎の四階から落ちてきたグランドピアノを受け止めたのだった。
「岩男くん」
美咲さんは岩男に走り寄って抱きかかえた。岩男はピアノが流した血みたいになって下に横たわっていた。
「岩男くん、ありがとう。ほんとうに、ありがとうございました」
美咲さんは出会ったときみたいに、泣いていた。岩男のほうをちゃんとみて、ちゃんと岩男に話しかけてくれていた。美咲さんに恋をしてから、はじめてちゃんと岩男に向き合ってくれていた。「美咲さん、お願いです。笑ってください」岩男が頼むと、頑張って笑ってくれた。美咲さんは泣きながら笑ってくれた。それを見て岩男も泣きながら笑った。
それから岩男は死んだよ。
岩男