飛べ飛べ鉄人!

「のである。基礎存在論的問題設定が―存在問題全般を準備しつつ―志向しているもっとも根源的な、根拠設定的な、実存論的真理性とは、関心の存在意味の開示態で、」
「やだあ、おもしろおい」
 「文学」とアパートの住人から呼ばれている着物を着た男前の男子大学生が、同じ一階に住む女性に向かって色々な小難しいことを喋りかけていた。女はビスクドールが笑っているみたいに美しくて、話の内容は理解できなくても相槌を打つのが楽しくて仕方がない様子。青い瞳、金色のおかっぱ頭、磁器のような白い肌、彼女は流暢な日本語を話すロシア人だった。
(顔が良ければ、女ってやつは、何でも良いのかよ)
 文学の部屋のドアの前で楽しそうにしている二人を眺めながら、小学校から帰ってきた鉄人は心の中で毒づいた。少年は愛用している金属バットを肩にのせて、野球帽を目深にかぶりなおし、半ズボンのポケットに片手を突っ込んだ。文学は黙っていれば男前だし、喋っていても男前だ。女性にとっては難しいことばかり喋る彼と会話するのは簡単で、ただ熱心に話す綺麗な顔の男を眺めているだけで楽しいのだった。
 文学は有名な国立大学の文学部に通う学生で、あだ名の通りに本ばかり読んでいる。しかし小説ばかりではなく、哲学、社会学、経済学、心理学、文化人類学、博物学、法学、歴史……文系の全てのジャンルの本に囲まれて生活していた。周りの男はめったに話しかけない、彼が何を喋っているのか意味不明だから面白くないし、劣等感を抱いてしまうから。楽しいのは女ばかりというわけ。
(おばちゃんは、文学みたいな変人にだって、キレーな顔で笑いかける)
 鉄人がおばちゃんと呼んでいるロシア人は三十路前の人妻で、名前は斎藤ハダリーという。掃き溜めに鶴、メゾン・ド・リラダンという、名前だけは立派な木造ボロアパートに咲いた一輪の花。
鉄人が小学三年生の時に、部屋の向かいに引っ越してきたおばちゃんとはすぐに仲良くなった。外国人が日本語を喋っているのは珍しかったし、母親がいない彼にとっては話しかけることが出来る数少ない大人の女性だった。子供のいない夫婦で、夫はいつも外出していて、彼女も寂しかったのだろう。そのうち鉄人にとって、甘えることが出来る唯一の女性になった。
 六年生になり春機発動期を迎えるにつれて、だんだんと世の中のことが分かるようになってきた。おばちゃんは美人であるということ、彼女は人妻であるということ、自分は小学生で子供だということ、文学のようなイヤラシイ男がいること、その他にもイヤラシイ男は世間にたくさんいるということ。
 最近、おばちゃんと文学は毎日のように二人で一緒にいる。ドアが閉まる瞬間に見えた男女は夕陽に照らされて、テレビ・ドラマのワンシーンのように見えて、鉄人にはそれが悔しかった。苛立ち紛れに振り回したバットには、モヒカン頭をしたロボットのテレビ・ヒーローのシールが貼ってある。

                ☆

 ブゥゥーンン! モヒカン頭の巨大ロボットと怪獣が戦っていた。鉄人は夕飯のカップラーメンを一人ですすりながらそれを観ている。クラスで流行っているテレビ番組で、彼はそのロボットの筆箱を誕生日に買ってもらった。ろくでもない父親からの数少ないプレゼントで、彼の宝物のひとつだった。その中から鉛筆と消しゴムを取り出し、宿題の算数ドリルを解き始める。
 正義のロボット、ハズバンド号。AIを持つロボットを操るのはワイフ夫人で、地球の子供たちを悪い怪獣から守るという話だった。その名もズバリ、「飛べ飛べ鉄人」。彼らは子供たちの理想的な父と母であり、全国の小学生の間で大流行のテレビ・アニメである。番組の脚本家は本当に主人公のロボットに出会ったことがあり、それを元に物語を書いているという。その言葉に子供たちは想像力の翼をはためかせ、良識のある大人は良質の比喩であると頬を緩める。教育とエンターテイメント性が奇跡的にひとつになった、親子一緒に楽しめる作品だった。
 ロボットの必殺技が炸裂したのと同時に、爆発したかのような勢いで部屋のドアが開け放たれた。そして入り口から強烈なアルコールの臭いが吹き込んできて、そこにはウィスキー瓶を持った小汚い酔っ払いが仁王立ちをしていて、鬼のような真っ赤な顔で絶叫する。

「鉄人ォ! お父様のお帰りだゾォーッ!! ラヴ・アンド・ピースッッ!!!」
 父の鉄太郎は毎日毎日、酒ばかり飲んでいた。昼間はいったい何をしているのか鉄人も知らず、朝の学校へ行く時間にはいつも寝ていて、夜には必ず何処からか酔っ払って帰ってくるのだった。仕事をしているのだろうか? しかし、バンダナを巻いた長髪に伸びっぱなしのヒゲ、丸いサングラスにパンタロン、タイダイ染めのTシャツと二本とも抜けた前歯というヒッピーの格好をした鉄太郎が、まともな仕事をしているようには思えなかった。
 鉄太郎の話はいつも要領を得ない。はぐらかされているのか、頭がイカレているのか。鉄人の物心がついた時にはすでに母親はいなかったが、果たして父に愛想をつかして出て行ったのか、それとも早くに亡くなってしまったのか、それすら彼には知らされていなかった。何回も聞き出そうとしたが、そのたびにあやふやにごまかされてしまう。甘い匂いが漂ってきた、鉄太郎が紙で巻いたマリファナに火を着けたのだ。酒と麻薬のちゃんぽんでゴキゲンになって、見えないギターを弾くふりをしながら鼻歌を歌っている。
 鉄人はサッと身構えた。父親には酔っ払った時に必ずする悪い癖がある、今日こそ止めさせるのだ、と思った瞬間、プルルルル、と携帯電話が鳴った。一体何事だ!? と彼が考えたのは、お金が無くて代金が払えず、とうに使用不能になった携帯が着信音を鳴らしたからだ。手にとって画面を見ると、なんのことはない、父がいたずらでアラームを設定していただけで、バーカ、と表示されていた。
ジョロロロロ、と背後でおぞましい液体が流れる不快な音がした。やられた……鉄太郎は酔っ払うと、便所と間違えて台所で小便をするのである。毎日毎日、彼は流し台に小便を垂れた。どんなに鉄人が努力しても止められないので、もしかしたらわざとやっているのかもしれない。部屋にくさい臭いが充満して、父親の呆けた笑い声が聞こえた。

なにやってやがんだ、このクソ親父! 怒りの声と共に鉄人のバットが振り下ろされる。鉄太郎の三本目の歯が抜ける日も、そう遠くないかもしれない。しかし名は体を表しているようで、かなり頑丈な体の作りをした父親だった。

 フルスイングと同時に鉄人の体から、歯車が回って仕掛けがきしむ音がしてきて、ギイ・バタンと場面が変わる。

                ☆

「んとモンゴル相撲たる「ボフ」のなかに組み入れられているのだ。モンゴル相撲が原始宗教、未開宗教と関係深いのには驚かされようが、それはモンゴル相撲がいかに古くからの」
「うふふ、やだあ」
「の物語の「最も単純な全体のシノプシス」を作成することができる。それは以下のようなものである。ドキンちゃんは欲望し、バイキンマンは汚濁する。アンパンマンは一度撃退さ」
「そうなの、文学さん。たのしい」
「記的事実の解釈から自然に導かれたものであるが、儒教の組織者としての孔子を考えるとき、このことはまた、必要にして不可欠の条件であったと思われる。古代の思想は、要約す」
「ほんとにい? きゃはは」
「ンは、三次元空間に等身大の大型化石動物をよみがえらせるという仕事に取りかかった。この計画は1854年、ロンドン郊外シドナム公園内の、クリスタル・パレスの開館とともに」
「ええ、そうなんだあ、うふ」
「へと向かうことは、ヒップホップや黒人音楽にかぎらず、大戦後のサブカルチャー総体を突き動かす基本的衝動だった。とすれば、まさにこの「現実」の外を体現するのが、合衆国の」
「きゃあ! なにそれえ、あん」
「べての形態の統治において、社会によって立法部に寄せられた信託と、神と自然の法とが、あらゆる国家の立法権に課したいくつかの制限である。これを要約すれば、第一に、立法部は」
「へええ、うふ、あはは」
「はレヴィと同様、タロットとカバラを結びつけることに賛成はしていたが、他の人間が書いたタロットの解釈には批判的かつ軽蔑的な態度を取っており、特にパピュスを槍玉に挙げて」
「はあ、ほんとうに、文学さんっておもしろおい」
「父との差異、力なき息子の露呈は、サンプリングという、オリジナルとコピーとの差異をなきものとする文字どおりの機械的戦略にもかかわらず、驚くべきことにピドロの絵画」
「え、そうなんだ? きゃはは」

                  ☆

 鉄人が夢から覚めても、おばちゃんと文学はまだ喋っていた。廊下にいる二人の声がドアごしに鉄人の部屋まで聴こえていて、彼は目をこすりながら万年床から起き上がる。
 隣には鉄太郎がダッチワイフと一緒に寝ていた。その下品な空気で膨らむ人形の顔には、鉄人が会ったことのない母の顔写真が貼り付けてある。最悪の父親だと思う。せっかくの日曜日なのに、朝から最低の気分になった。
 鉄人は、自分はやっぱり母親似なんだと思った。母は写真の中で、黒いおかっぱ頭に和服姿、日本人形のような柔和な顔立ちをして微笑んでいる。良家のお嬢さんといった印象で、なんで父親のような不良と一緒になったのか分からなかった。真理子ォ……という父の未練がましい寝言が聴こえてくる。
 おばちゃんと文学の話し声が止んだ。二人がそれぞれの部屋に帰っていく気配がする。やるなら今日しかない。朝ごはんと着替えを素早く済ませて、鉄人は準備を進めていた計画を実行に移すために、勉強机の鍵付きの引き出しを開けた。
 机の引き出しの中には、からくりボールとたくさんの「ある虫」が詰め込まれた瓶が入っていた。鉄人は理科と工作がとても得意で、驚くことにテレビほどの複雑な構造の機械でも自作できた。不思議なことだが電波を受信するみたいに、自分でも知らないはずの知識や技術を使ってパソコンやバイクを作ったりして、担任の教師を驚かせたこともある(クラスメートは単純に笑ったり、羨ましがったりしていた)。からくりボールも彼が自分で作ったもので、手榴弾のように中に詰まったものを一定時間の後に炸裂させる仕掛けの球体の機械である。このボールの中に、「ある虫」をいっぱい詰め込んで、飛び散らせようという計画だった。この虫は学校の図書館や、近所に住む老人の本棚や、古い家の倉庫に忍び込んで鉄人が一生懸命かき集めたものである。
 文学を、懲らしめるために。

                  ☆

しみ【衣魚・紙魚・蠧魚】

(体形が魚に似ているので「魚」の字を用いる)シミ目(総尾類)シミ科の原始的な昆虫の総称。体は細長く無翅。体長約一センチメートル。体は一面に銀色の鱗におおわれ、よく走る。衣服、紙類などの糊気のあるものを食害。ヤマトシミ・セイヨウシミなど、世界中に分布。しみむし。きららむし。〈季・夏〉。

                           広辞苑より

                  ☆

 アパートの裏側には駐車場があって、鉄人はいつもそこでバットの素振りをしている。そこからは各階のベランダが見えていて、たくさんの本が積んである一階の文学の部屋も見えた。
この日のために毎日毎日、何回も何回もバットを振り回してきた。いよいよ本当にあの部屋にボールを打ち込むことになる。唇を舐めて野球帽を被り直す。何度もイメージしてきた、練習通りにやれば良い。ボールを窓に打ち込んで、サッと逃げればバレない。ボールをちょっと上に放り投げて、カキーン。ボールをちょっと上に放り投げて、カキーン。ボールをちょっと上に放り投げて、カキーン。

 カキーン、バリーン、ドタドタ、バタバタ。どこのどいつじゃボケ窓ガラス割れてもたやないかクソボッコ出てこんかいクソダラ虫がいっぱいなにすんじゃクソッタレ本が駄目になるかかってこいやあタコ野郎どこにおるんじゃダホ!
「文学てめえ・ふ・つ・う・に・喋れる・じゃ・ね・え・か!!!」
 難しいことしか喋れないはずの文学が、普通の日本語で罵っていた。
 すぐ逃げるつもりだった、でも、それは予想外のことで鉄人は自分でも知らないうちに絶叫していた。そしてベランダに突進して、文学の部屋に割れた窓から飛び込んだ。金属バットを持って、ロボットみたいに、高速で宙を切って。

               ☆

 キーン、ドカーン。ガラガラ、ボロボロ。バーン!

 これは、テレビの音。それから痛む、体中の悲鳴。

 鉄人は目を覚ました。気を失ったのは人生で初めてだった。

そうだ、文学にコテンパンにされたんだっけ。ボコボコに殴られた、やっぱり大人には勝てない。しかし普通、大人が子供相手に本気になるか?……いや、それは言い訳で、自分が弱かったから。人生では何だって起こり得るものなんだ。大人が子供を本気で殴るし、信頼してたバットも敵に当たらないものだ……どうすれば勝てたんだろう? でも、次に顔を合わせたときに、どうしようか。文学は何か文句を言ってくるだろうか……
 言葉が頭の中でグルグル廻って、その渦は涙となっておばちゃんの太ももの上に落ちて弾けた。おばちゃんは鉄人を膝枕して、赤チンを塗っている。ベージュのショートパンツから伸びる長い脚を丁寧に折りたたんで、涼しそうな白いTシャツにはワイズ・ワイフというウィリアム・モリス風の装飾的な文字。鉄人が看病されていた場所は、彼女の部屋の中だった。
 珍しいことに居間には彼女の夫である斎藤さんがいた。多忙な斎藤さんだったが、たまの日曜日にはお休みを取るようだ。ソファーに座った大きな後姿はリラックスしきっていて、その肩越しにロボット・アニメを映している大きなテレビ画面が見えた。どうやら眠っているようである。彼は古美術商をしていて、テーブルの上には円空や木喰、ジャコメッティやキリコなどの彫刻美術の図録が平積みになっていたのだが、それらは美術の作品集というよりも素敵なデザインの玩具のカタログに見えた。鉄人は急に恥ずかしさがこみ上げてきて、弾かれたように飛び起きた。
「まだ消毒、終わってないよ」と、おばちゃん。
「消毒なんて、いらないよ。俺は負けたんだよ!」そう言うと鉄人はバットを引っ掴んで、喋りながら素振りを始めた。ブン!
「だから消毒するんだって。いたずらも度が過ぎると、酷い目にあうよう」
「酷い目が、なんだい。俺は文学が気に入らないんだ、でも負けちゃったんだよ」ブン!
「相手は大人なのよ。大人ってのは腐っても大人でどんな人にも、子供はなかなか勝てないように世の中は出来てるのよ。そういう仕組みで」
「知るかい! 大人が、なんだい。文学がなんだい。顔が良ければ良いのか? 本たくさん読んでれば良いのか?」ブンブン!
「そういう表面的なところしか見れない、あなたは子供なのよ、八つ当たりね。自分が負けた理由が分からないからって、負けた相手がいない所でせいぜい女の子相手にバット振り回してるのがお似合い」
「なにが女の子だよ、おばちゃんは大人だろ? なんで子供相手にそんな酷いこと言うんだよ!」ブーン!
「自分が子供だって分かってて、それを利用するんだ。みんな知ってるよ、あんた達はずるいんだって。教育とか考えて、みんな黙ってるだけ。子供らしく大人しくしなさい、消毒するよ」
「おばちゃんは大人なんだ、だから文学の味方なんだろ? いっつも一緒で、大人の話してやがんだ」ブブン、ブン!
「あらあら、嫉妬してるの? ごめんなさい、私はあなたの恋人じゃないし、お母さんでもないのよ。まあ、仲の良いお友達ね」
「文学はなんなんだよ、それってフリンじゃんか。いけないことだよ、それ、大人が作ったルールだよ」ブンブンブン!
「仲の良いお友達よ。そんな大人のお友達とは、色々するわね。そういうルールは余白に、読みにくい小さな手書きの文字で書かれてるものよ」
「キツイことばっか言って、大人って普通、子供相手でそんなに本当のこと、言わないんじゃないか?」ブン
「日本人はそうなのかしら? 私はロシア人だから」
「ロシア人で、大人だろ。でもさ、本当はさ、おばちゃんには俺の……俺はおばちゃんと一緒にさ……」ブン、ブン、ブーン! スポーン! ゴチーン! バリェーチッ!(痛ッ!)
 鉄人の両手から離れたバットは真っ直ぐに飛んでいって、ソファーで寝ていた斎藤さんの後頭部を直撃した。冷や汗が見合わせたお互いの顔全体に流れて、二人とも黙り込んだ。斎藤さんは衝撃を受けた時の姿勢のまま全く微動だにしなくて、テレビの暢気なCMの音だけがやけにうるさかった。
 そして、いきなり斎藤さんの首が30㎝ほど伸びて、180度回転した。その顔は目がピカピカ輝いていて、口は人形のように顎からパックリと開いていた。そこから唇も動かさずに、機械的な音声だけが流れてくる。
「緊急事態! 緊急事態! 侵入者発見。タダチニ休止モードカラ迎撃モードニ切リ替エマス。管理者ハコントローラデ指示ヲ出スカ、速ヤカニ安全ナ場所ニ避難シテクダサイ。緊急事態! 緊急事態! ラディカルナ判断ヲヨロシクオ願イ致シマス」
 斎藤さんの体は倍くらいに膨らんで、ジェットで宙に浮かんで移動した。完全に鉄人の方に向ききり、両腕は機関銃の形に変形させている。歯車とエンジンが爆音をたて始め、斎藤さんの人間を殺す準備が出来てくる。そして、大人しい勤め人の髪型だったのが、槍のようにとんがったハード・モヒカンになっていた。
「ハズバンド号が戦闘態勢に入ったわ! コントローラは修理中だし、もう誰にも止められない。バレちゃう、もう全部お終いよ……」
「え!? なんだコレ……ロボット? ハズバンド号って?」
 バババババッ! 銃弾が閃光と共に発射されて、すかさずおばちゃんは鉄人を抱きかかえて跳び上がった。部屋は穴だらけになって、焦げ臭い空気で充満し、埃が舞い、炸裂音で耳が聴こえにくくなる。さっきまで斎藤さんだったハズバンド号が弾を装填している間に、おばちゃんは鉄人にバットを持たせて、破壊された部屋のドアを指差し大声で叫んだ。
「走りなさい、お父さんを連れてアパートから逃げるのよ! じきにここは戦場になる!」
「おい、これはいったい何なんだよ! 旦那さんロボット!? え、いきなり? これテレビ?」
「説明してる暇ないわ! 大丈夫。私は後始末してから行くから、とにかく」
 瞬間に二人の間を雨のような弾の連射が通過した。彼らは本当の雨に降られたみたいに汗でびっしょりになる。行くのよ!! おばちゃんが叫び、鉄人はよろめきながら部屋の外に飛び出した。振り返るとおばちゃんは、ハズバンド号を相手に消火器で目くらましをしていた。すぐに爆発で煙が噴き出して、部屋の中は全く見えなくなった。おばちゃん……建物全体に非常ベルが鳴り響き、住人たちの悲鳴や逃げ回る足音が聴こえる。とにかくオヤジを助けなければいけない。あんな父親でも唯一の肉親なのだと呟いて、鉄人は自分の部屋に向かって駆け出した。

                ☆

「おいオヤジ! 大丈……夫……ア、アレ?」
 ハジメマシテコンニチワ。あまり急なことばかり起こり、気が動転してしまった鉄人は、思わず声の上擦った挨拶をしてしまった。部屋のドアを開けると、見知らぬ外国人が立っていたのだ。部屋を間違えたのだろうか? その外国人は高そうなスーツを着ていて、土足で部屋の真ん中に立って鉄人の方を見ていた。キーン! と部屋の窓から飛行するハズバンド号が横切るのが見えた、そして爆発音。
「びっくりしたかい? 鉄人よ、お前のお父さんデースヨー」
 金色の髪をポマードで固め、ツルっとした頬をして、一流企業のサラリーマンといった風情の外国人だったが、その声には聞き覚えがあり目は良く見知っていて、確かに父のものだった。そうするとカラー・コンタクトがポロっと外れて、青い瞳が顕になる。足下には長髪のカツラと付け髭、丸いサングラスが落ちていて、ニッとした笑顔は空きっ歯では無く、前歯は金の差し歯でそれぞれに「自」「由」と彫られていた。
「……オヤジ!? どうしたっての、その、外国人。え、なんで?」
「詳しく説明している暇はナーイ。今までのヒッピー・スタイルは変装ヨ。ほんとはワシ、自由の国の出身なのデスネー」
「本当だオヤジ、すごく外国人っぽい……喋り方も、すごく外国人っぽくなってる」
「見たところ、あの斉藤さんの部屋から出てきたのは、大戦中に旧ソと合衆国が共同開発していたアンドロイドを雛形に造られた、調査対象のハズバンド号ダヨネー。こんな近くに潜伏していたとはオドロキー」
「ん、何の話だ? 調査対象?」
「ソウデスネー。実を言うとネー、ワシ合衆国の工作員やってんだヨネ、ナイショにしててゴメンナー。終戦後に行方がうやむやになってた人工知能に関する研究資料集めやノウハウを用いた技術開発を、どうやらロシアが日本で秘密裏に継続して行っていたというね、そんなハナシー。その調査に派遣されたのが、ワシってトコロ」
「なんか良くわかんねえけど」
「ところがドッコイ、アメリカだってコッソリ研究してたネ。日本で度々目撃されていたロボットであるハズバンド号対策に、こっちも新兵器投入……ダケド、日本政府に気付かれたら、あまり良い顔はしてくれんダロウ。ってなわけデ、カモフラージュして日本に持ってきたワケ、しかも燃料は日本で自力で調達してこいって言わレテ、焦ったヨ、トホホね」
「……」
「ワシ、毎晩毎晩、台所におしっこしてたデショ? ビールばっか飲んで、ただ飲んだくれてた訳じゃないノヨ?……あれ、最もバレにくくて手軽な方法なのよネ。嫌気性アンモニウム酸化細菌を利用した最先端科学技術……つまり、ワシの小便が我らがアメリカチーム・アルコホリックが開発した秘密兵器の燃料になるってこと、エコだよね? 何度も試運転してきたからバッチリよ、あのロシアのボロ人形を倒すネ。南極一号「真理子」出番ダヨ!」
 部屋に置かれていたダッチワイフには台所から引かれたコードのプラグが差し込まれていて、鉄太郎の掛け声と共にエネルギーが注入される音がした。ルービックキューブが高速回転で組み合わさっていくように、ダッチワイフは目まぐるしく変型して完全体になった。その姿は黒いおかっぱ頭で和服を着ていて、日本人形のような柔和な微笑みを顔に湛えて……それは、その女型アンドロイドの姿は……古い写真に写っていた、鉄人の母親「真理子」そのものだった。
「母さん!!」
「ああ、母さんネ。ソレ違うよ、お前にお母さんはいないヨ。これはお前の母親じゃない、お母さん自体お前にはいないノヨウ」
「……なに言ってんだ!? 母さんじゃないか! さっきからワケ分からないことばっか喋って、いきなりさあ」
「細かい話は後、イッテキマースッ!」
 鉄太郎は南極一号「真理子」の背中に飛び乗った。スケート・ボードみたいに体全体を使って操作すると、アンドロイドは口から破壊光線を出して部屋の壁を破り、父を乗せて敵のロボット目掛けて飛んで行った。

                 ☆

「鉄人君。もしあなたが今このメッセージを観ているとしたら、もう全てが取り返しのつかないことになってしまった後なのでしょうね。来るべき日のために、この映像を残します。あなたは本当に私の家族みたいな存在だから、日本に来てから唯一あなたと居る時間だけが私の心休まる時でした。
 難しいことを言っても分からないと思いますが、私はロシア政府の下で働く諜報員兼科学者で、日本のテクノロジーのレベルの調査に来ています。アンドロイド研究もしているけれどそれは瑣末なことで、主な目的は日本が独自で開発に成功したという球形宇宙船を探すことです。私の所属する特殊部隊「ロシア人団地妻団」からの情報では、その鍵となる人物がこのアパートに住んでいるということでした。その人物というのが、私たちと同じ一階に住む文学君だったのです。
 私は彼から何度も情報を引き出そうと苦労しましたが、結局彼の喋っていることからは何も分かりませんでした。レコーダーに記録した彼との会話内容は全て本国に送付しましたが、暗号解析しても何の結果も得られません。彼の名前の通り、これは暗号や数学ではなく『文学』なのかもしれませんね。論理を超越した、詩の領域に本当の意味が隠されているのでしょうか。占のように卦から霊感に導かれて判断を下さなければいけないのかもしれませんね。それを解き明かすことが出来たら、人生の意味や世界の運命までが分かることになるでしょう。
 だから、これはお仕事なので、君はやきもちを焼かなくたって良いのですよ。別に私はあなたの恋人でも母親でもないけれど、あなたには優しくしてあげたいと、いつも思っていますよ。たぶん恋人や母親なんてただの役割の名前で、本当に大切な人は鉄人君のような、心に触れてくる人のことなのでしょうね。その感覚は言葉で表現するのが難しいです。「アハレ」「ヲカシ」……これは日本人特有の感情なのでしょうか? 私もあなたと同じ日本人になれたのでしょうか。
 私が人生のピンチに陥った時、何度あなたの笑顔に救われたか。あなたは私を救ってくれる最終兵器、私にとってのヒーローです。いやそのうち、みんなのヒーローになるかもしれません。いつもバットを持っていなさい、それはあなたが戦うのを助けてくれます。世の中は海千山千のピッチャーで溢れ返っていて、彼らはあの手この手で攻めて来ます。ストレート、フォーク、スライダー。見極めなさい、対応しなさい。球を良く見なさい、そしてどんな球が来ても恐れずに、フルスイングをしなさい。
 鉄人君を見てるといつもからかいたくなっちゃうけど、最後だから、真面目に褒めたり励ましたりします、本当のことを言います。いつかはバレることだけど、一応、私からも説明の映像を残しておきます。けれど、鉄人君がこの映像を観る日が来ないことを願わずにはおれません。もしその日が来たとしたら、私はもう死んでいるかもしれないから」
 ビデオがそこまで流れた時、木片が崩れ落ちておばちゃんの部屋のテレビはぺしゃんこに潰れてしまった。部屋は破壊しつくされ大きな穴が開いて、そこからは空中で殺し合いをしているハズバンド号と真理子が見える。鉄人の涙と哀惜の叫び声は、瓦礫の山と夕陽の中へと輝きながら消えていった。

                ☆

 文学は本を床に叩きつけて、鉄人が解き放った数百匹もの本を食べる虫を一匹ずつ殺していった。煙で駆除するタイプの殺虫剤の使用も考えたが、部屋には和本や拓本などの貴重な古書もあるため、それが痛むのを嫌ったので自分の手で処理することにした。それに、自分の目の届かないところに虫の屍骸が転がっていることを考えただけでも寒気がした。
 だから文学は、日本文学全集(濫造され数が多過ぎるため古本屋も投売り価格でしか売らない価値の殆ど無い全集、なので主に虫などを殺すのに使われる)の横光利一集を手にしていた。虫の体液で汚れきった横光利一集を捨て、岡本かの子集を手に取ろうとしたまさにその時、ハズバンド号がおばちゃんの部屋の壁を壊して外に飛び出た爆発音が聴こえた。しばらくしてまた大きな音がして、今度は鉄太郎が操る南極一号「真理子」も飛び出てきて、二つのアンドロイドは空中で激しい白兵戦を繰り広げた。流れ弾や衝突の震動でアパートは少しずつ壊れてきて、一階の文学の部屋まで潰れるのも時間の問題に思えた。
 文学は床に積んである「康煕字典」と「国訳本草綱目」、「大蔵経」、「人形訓蒙図彙」、「風流三十六佳撰」、「牧野信一直筆原稿」、それから本棚の「大津絵」、「欧陽詢書譜」、「古寺巡礼」、「重力の虹」、「南天屋敷」、「恋空」を秘密の順番に並べ替えた。すると床にチベット密教のマンダラ「生死輪廻図」が大きく浮かび上がり、六道とそれぞれの円が操作ボタンであるタッチパネルになった。アパート「メゾン・ド・リラダン」というのは仮の姿、文学の部屋こそ、日本が開発した球形宇宙船のコックピットなのである。文学はこの最新宇宙船の操縦に日本政府から抜擢されたパイロットなのであった。だから彼は文系ではなく、本当はバリバリの理系なのである。文系の語彙ばかり使っていたのはカモフラージュだったが、この緊急事態によりつい普段の理系言葉で独り言を呟いてしまった。
「な、創造的オートポイエーシスの閾を踏み越えることで、自らの一貫性を奪取するのだ。ここで拡張することが望ましいのは尺度の概念であって、それは、フラクタルの対称性を存在論的観点から考えるためである。フラクタルな機械が横断するのは尺度。それはアレンジメントをエネルギー的・時空的座標の外へ逃がして」
 相変わらず何を言っているのかは分からなかった。
 文学はロボット達の戦いによって宇宙船が破壊されるのを避けるため、宇宙船を発進させてこの場所から避難しようと考えた(要約すると)。マンダラのパネル上で高速で操作をして、離陸する準備が出来る。原子力とウルトラニウム燃料を利用したジャイロシステムを動力とした大甲子園式硬球型球形宇宙船「大リーグボールV2号」は、文学の「プレイボール!」の掛け声と共に上昇を始めた。

                  ☆

 おばちゃんの部屋でボールのように頭を真っ白にしてグルグルさせていた鉄人だったが、その白球が地面に落ちて我に返った。アパートの真の姿「大リーグボールV2号」が飛翔した時の加速によって、鉄人は床に押し付けられ立っていられなくなって、頭からぶっ倒れたからだ。強烈なGにより全く身動きが取れなかった。重力の見えない手がいたずらをして、鉄人の顔は白く目を剥いたカエルのように引き伸ばされてブルブル震えた。
 状況は全て変わってしまった。全ては不安定になった。そういった時にまた生活のバランスを取り戻そうとするのはエネルギーがいることで、子供も大人も関係無く、にわかに出来るようなことではない。世界が崩壊したとき、たぶん脳味噌の中身も破壊しつくされるのだ。鉄人は全部放棄することになんとなく同意した。そして宇宙船が上昇するのに身を任せ、国語の授業で習った諸行無常の響きを噛み締めていた。学校も、オヤジも、おばちゃんも、ロボットも、バットも、野球も、全部壊れろ。全部壊れて、全部壊れてしまえ!
「あきらめちゃ駄目ーッ!! 駄目だーよーッッ!!」
 おばちゃんの声だ! 眼球だけを動かしてそちらを見ると、生きていたおばちゃんが空を飛んでいた。月の光に照らされた、木造アパートを偽装していた建築素材を撒き散らしながら上昇する宇宙船の有り様はアブストラクト・アートのようで、おばちゃんは構成主義の絵画の直線を空中に引くみたいに、パラグライダーで鉄人に向かって真っ直ぐ飛んできた。
 物凄い速さで鉄人の体を持ち上げると、おばちゃんは燕返しで部屋から空へと脱出する。耳元でゴオッと風を切る音。目もくらむような高さ。点滅しながらジャンボジェット機が二人のすぐ側を横切る。空高く見下ろした、キラキラ光って動く街の夜景は、ロボットと宇宙船とバットの形をしていた。

                 ☆

 球形宇宙船はグングン空へと昇っていって、その周りではハズバンド号と真理子が花火みたいに派手な火花を散らしているのが見える。鉄人とおばちゃんは無事着陸した野球場のバッターボックスからそれを見上げていた。かなり大きな球場で超満員、ちょうど試合が終わったところだった。片方のチームがあっけなく負けてしまって、盛り上がりに欠けた試合に不満を言い合っていた観客たちが、この空からの闖入者たちへと新しい興味を向け始める。警備員と両チームのマスコット・キャラクター、それからフェンスをよじ登ったお調子者たちが二人のいるホーム・ベースへと駆けて来る。
 いきなり閃光が世界を包み、それが爆発する。視界に唐突な光が溢れてこぼれ出す。目がくらんだ人々は何が起こったのか分からない。自分たちが爆発したのか、野球場が木っ端微塵になったのか、真っ白なここは天国なのか。爆風が地上の人たちに吹き付けて、炸裂以外は全てが沈黙している。そして炸裂した過剰は静謐のひとつであり、静謐は死のひとつである。その場所は時を止め、空間を失い、人々は死について想う。
 上空の球形宇宙船が爆発したのだった。周囲で戦っていた二体のロボットたちが絡み合って、宇宙船に激突した。その衝撃でデリケートな動力部が破壊され、強大なエネルギーが一気に放出されたのである。しかしその爆発は地上に被害をもたらすまでには至らず、強烈な光と衝撃波を放ったのみであった。その発光が落ち着き、ホワイト・アウトした光景の画用紙に段々と色が描き込まれ輪郭が戻ってくる従って、火の玉となった宇宙船が野球場に向かって墜落しているのが見えてくる。静止していた人々は徐々に、この状況に相応しい自分が出すべき音を思い出した。悲鳴、絶叫、憎悪、諦念、錯乱、阿鼻叫喚。

                 ☆

「おばちゃん、落ちてくる! あんなに大きいのが……みんな、死んじゃうよぉ……」
「大丈夫だよ、大丈夫。死んじゃったりなんか、しないよ。ね? 良い子、良い子」

 首が長くて優しい顔は、白い花が笑っているよう。金色の柔らかな肩までの髪の毛。細くて長いツルツルの手足。小さくて格好良い形のお尻に、花瓶みたいに持ちやすそうで綺麗なくびれ。おばちゃんは鉄人を体全体で抱き締めた。こんなに完璧な形をしているのに、触れればマシュマロみたいに柔らかいおばちゃん。お菓子みたいな甘い匂い。

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「大丈夫だよ」
「……嘘だよ。みんな死んじゃうんだ」
「大丈夫、あなたなら何とか出来る」
「……何言ってんだよ。誰にだって、どうしようもないよ。逃げ場なんて何処にも無い」
「逃げるんじゃなくて、戦うのよ」
「誰が?……」
「あなたが」
「だから、何言ってんだよ……どうしようも無いじゃんか……俺が? もう全部駄目なんだって!」
「私はね、あなたのこと、いつも信じてるの」
「……何なんだよ……」
「いつも一生懸命で、あなたに出来ないことは無いわ」
「……」
「あなたは私の、最終兵器ですもの」
「……ワケわかんないこと、言うんじゃねえよ……」
「驚くかもしれないけど、あなたはロボットなの」

「……ん?」

「あなたは、アメリカが開発した、最新式子供型元気印アンドロイド『鉄人』だから」

「え?」

 おばちゃんは鉄人の首にまわした手で、そのまま耳の後ろにあるボタンを押した。

 ウィーン、ガコン、ガガガ、ガコガッコン!
 いきなり、鉄人はロボットの形に変型し、ハード・モヒカンになった。

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 機械というのは真面目すぎるので、どんなことがあっても入力された指示をまっとうしようとする。日本や地球の危機が迫っているというのに、野球場のスコアボード下の大型映像表示装置では、スポンサーの企業のテレビCMを暢気に流していた。
 ロボットのハズバンド号、コントローラーを持ったワイフ夫人、それを見守るたくさんの少年少女。『飛べ飛べ鉄人』を起用した、新しい試合用バットのコマーシャル。
 原色を多用したポップな映像。BGMはテクノ・ミュージックを子供向けにアレンジしたリズミカルなもので、観ているうちに購買意欲が刺激される! 悪の怪獣が大きく振りかぶって、豪速球! ボールはピカピカ光っていて、とても危ない印象。負けそうな感じ。諦めムード。でも、「鉄人、鉄人、フルスイング!」「かっ飛ばせ、鉄人!」子供たちが叫んで、ワイフ夫人がスイッチを捻ると、ハズバンド号がバキバキ強そうな絵柄になって、金色のバットでボールを打ちぬく! 打球はピッチャー返しで怪獣の体を貫き、宇宙へと打ち上がる。星になったボールの形がバットのデザインになって、隣にはハズバンド号とワイフ夫人のナイス・ポーズな絵。かっこ良し。新登場、新素材のスーパーバット、明日から君もロボットのフルスイング! 飛べ飛べ鉄人! 三色から選べます、今なら特製ストラップ付き、続きはWEBで。 ジャーン(終了)

 悪態をついたり、懇願したり、放心したりして、大人たちがそれぞれ忙しく死に対するリアクションを取っている間、子供たちはこのCMを観ながら楽しい気分になっていた。大人たちが騒げば騒ぐほどその無様な姿は子供たちを笑わせるし、この小さい友人たちには立派なヒーローがいて、ちゃあんと自分たちが助かるって分かっているから。彼らの目にはバッターボックスでロボットの姿になった鉄人が映っていた。
 鉄人の体は三倍くらいに大きくなり、表面を覆っていた皮膚状の金属はパズルみたいに切り離されていて、それぞれの部位をつなぐ強化骨格と人工筋肉が外から見えている。グレーの金属製肋骨はアンテナのように広がって、中心の心臓部にあるエネルギー回路がゆらめきながら青白く燃えている。脚部からは錨状のストッパーが出て地面に食い込んで、とてつもない衝撃に耐える準備が出来ている。パッと見ちょっとグロテスクだ。バットは広範囲打撃モードとしてビーム・バットとなり20M×10Mの範囲に対応出来るよう変形した。鉄人の上半身が伸びて、360度回転する。さらにスピードを上げて2回転、3回転、グルグルグル。凄いバットを握って、高速で何度も大回転してゆく。
 鉄人だ、あれ鉄人だよ。一人の子供が言い出すと、つられて他の子供も騒ぎ出す。鉄人! 鉄人! その声が野球場全体に拡がっていく。お父さん、あれ鉄人だよ。なんだぁ? もうすぐみんな死ぬってんだよ! 違うよ、鉄人が助けてくれるよ。しらねえよっ! 助かるなら何にでも祈ってやるってんだ! 神様仏様鉄人様! 鉄人! 鉄人! 頑張れ鉄人! 大人たちはやけっぱちで、子供たちは純粋に心から応援するつもりで、鉄人の名前を叫んだ。やがて野球場を巨大な鉄人コールが包む。

 火の玉となった「大リーグボールV2号」が墜落する。

「鉄人、鉄人、フルスイング!」
「かっ飛ばせ、鉄人!」

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「おばちゃん、俺、なんか、凄いことになってんだけど」

「喋らないで、今は集中しなさい! フルスイング!」

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 カキーン!

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「ゲーム・セット!」

 審判が叫んだ途端にドン、ドンと大きい音。そしたら赤・青・黄色の花火が空に咲き乱れて、爆発でバラバラになった文学の本のページの紙吹雪。空中を舞うページにはそれぞれ歓喜や安堵やビール掛けの言葉が並んでいて、地球最大のゲームを観終わった観客たちの心の中を代弁しているかのよう。
 打ち上がった「大リーグボールV2号」は夜空の彼方で強烈な光を放っていて、朝日のように町を赤く照らした。その機械の太陽の下を少年の形をした飛行物体が、ロシア人の美しい女を乗せて飛んでいく。鉄人はフライト・モードになり人工知能は一時停止をして、おばちゃんの手動で操縦されながら上空を飛行していた。
 夏の終わりの空に吹く風は、とても良い匂いがして、良く冷えていた。氷菓子のような、甘い気分になる。金髪を風に靡かせるおばちゃんの微笑んだ横顔、無表情に前を見据える鉄人の人形の目玉。彼らはロシアの方角へと飛ぶ。

                  ☆

 「大リーグボールV2号」は宇宙空間へと飛び出した。赤く燃える宇宙船に真っ青な地球、黒い宇宙の余白に星星のキララ。
 文学は必死にパネルの操作をしていたが、宇宙船は全く言うことを聞いてくれない。その横ではポンコツになったハズバンド号と真理子の上で、鉄太郎が頭を抱えて座り込んでいた。後は仲間の助けを待つしかない。しかし、大変な失敗を犯してしまった二人の為に、わざわざ救助が宇宙まで来る可能性は絶望的に小さかった。投げやりになった文学は、着物を脱いでふんどし一丁になって寝転んだ。それから爆発で滅茶苦茶に飛び散った蔵書の中から、小栗虫太郎の黒死館殺人事件を取り出して読書に没頭することにして(この小説にも自分で動く人形が出てくる)、全てを忘れた、ページをめくると、そこは人生の向こう側だった。

                  ☆

 一番宇宙に近い所で、おばちゃんは鉄人を撫でながら優しく呟く。
「女の子は真理である、って仮定するとどうなるかしら? すべての男は、彼らが哲学者みたいに賢ぶってるかぎり、この命題をうまく理解できなかったんじゃないかなあ。不器用で無様なその手つきは乱暴で、優しくてデリケートな女の子たちに嫌われるわ。深層、厳粛さ、本質よりも、私は鏡、笑い、化粧を愛するもの。去り行くものは全部嘘、明日来る、鬼だけが本当よ」

 文学は虫太郎の本から数行を引用して、うなだれる鉄太郎に言い聞かせた。

「けれども、大体が真理などと云うものは、往々に牽強付会この上なしの滑稽劇に過ぎない場合がある。しかも、極って何時も、それは平凡な形で足下に落ちているものではないか」

 鉄人は何も語らず、何も考えず、ただただ、モヒカンで大気を切り裂きながら、機械の体を軋ませるだけ。

                 ☆

「飛べ、飛べ、鉄人くん。わたしはあなたの恋人でも、母親でもないけれど」

飛べ飛べ鉄人!

飛べ飛べ鉄人!

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-06

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