幻の楽園 Paradise of the illusion(五)
幻の楽園(五)Le soleil 夏の日の小さなコーヒーショップ
街の目抜き通りを、少し入った小さな路地の南側に、小さなコーヒーショップがあった。
入り口の右側に透明のプレートがあり黒いフランス語の文字でLe soleilと書かれている。
小さなスペースに、L字型のBARカウンターで仕切られていた。入れても七名ぐらいの、コーヒーショップだ。
入り口は、両方から外に開く観音開きの扉になっている。扉は木目のドアで、二つともアンテーク調のドアノブが取り付けられている。
二つのドアは、コーヒーショップの幅全体に面して設計してある。ドアの上半身から上は、ガラス窓を取り付けてあった。
道路側から中の雰囲気がよく見えるようになっているのだろう。
二階部分もドアの位置と同じ位置にガラス窓が取り付けてある。
小さなスペースだが、天井が吹き抜けになっていて高く開放感を感じる。
白い漆喰の壁が、室内を明るく自然な雰囲気で居心地がいい印象だ。
内装は、極めて簡素な作りで居心地のいい空間だ。
小さな調理作業スペースの中に、
青山健二がいた。
淡い色の半袖のアロハシャツに、色褪せたブルージーンズを身につけて、腰の辺りに黒いエプロンを付けている。
店内は、窓から差し込む夏の日差しで明るい。
夏の始まりの午後。曖昧な時間。
誰もいない店内は、静かで空調が冷たいくらいに涼しかった。
彼は、小さな椅子に座り本を読んでいた。
カウンターの上の棚に、彼のお気に入りのCDが何枚かオーディオに立て掛けてある。
今は、FMラジオが流れている。
*
Welcome to the afternoon lounge. Ocean Bay FM.
皆さん、こんにちわ。オーシャン ベイFMの七海 理央奈です。
午後の微睡みの時間に、音楽を添えてお送りいたします。
さて、今日の一曲目。
昔の映画サウンドトラックから
夏の日の恋
The Theme from"a Summer Place"
Percy Faith Orchestra
曲名が紹介されて穏やかな曲が流れてくる。
彼は、座ったまま目を閉じて曲に合わせて口笛を吹いた。
曲とハーモニーを奏でるように上手くメロディラインを口笛でなぞっていった。
*
曲が終わった頃に、向かって右側のドアが開いた。
川崎 慶と南沢 遥が入って来た。
二人と共に、熱をはらんだ夏の匂いが入ってきた。それは、室内の冷えた空調に負けるように室内の中に消えていった。
遥は、ラフィアのハットに淡いベージュのサファリシャツのワンピースを着ている。足元の華奢なベージュのフラットサンダルが可愛らしい。
慶は、いつもの洗いざらしの白いオクスフォードの長袖のシャツを二の腕までロールアップしてボタンを二つ外して着ている。ボトムスは、色褪せたブルージーンズをカットオフしたショートパンツを着ていた。スニーカーはいつもの白いテニスシューズだ。
二人は、健二を見て挨拶した。
「ども」
「こんにちは」
青山健二は、顔上げて二人を見た。
親しみを込めた笑顔になった。
「いらっしゃい」
と、優しく言って立ち上がった。
二人は、カウンター隅に座ると
エスプレッソコーヒーを注文した。
Le soleil は、エスプレッソコーヒーを大きめのマグカップ一杯に入れる。
彼は、二人に氷の入ったミネラルウオーターのグラスと、お絞りを渡した。
「暑いね」と、静かに健二が言った。
「暑いですねぇ」
「ほんとに暑い」
二人が口を揃えたように応えた。
「夏らしい日だけどね。カンカン照りの青い夏空。いい時間だね」
「いい時間ですね」
「二人とも休日かい」
「はい」
二人は、笑顔で答えた。
「またとない休日に、素敵な夏の日の午後だね」
「そうですね」
「お昼寝してたら勿体ないくらい」
遥の応えに健二が少し揶揄うように言った。
「二人で、お昼寝も素敵だと思うけどね」
「えっ?」
遥は、少し赤面して小さく驚いた。
「やだ、揶揄わないでくださいよ。もう」
「ハハハ......。ごめん。暑いのに慶くんは、長袖のシャツだね」
慶は、白い長袖のシャツをを見てから応えた。
「あ、僕は半袖のシャツがあまり好きじゃないんです。半袖で着るのは、アロハシャツだけかなぁ。特に白いシャツは、長袖をロールアップして着ますね」
「男性の白いシャツのロールアップは、ちょとセクシーで素敵なんだよね」
「へぇ?そうなんだ」
「ねぇ」
また、健二が遥に揶揄うように促した。
「えっ?。もう、健二さん。私のこと、揶揄ってるでしょ」
「そんなことないよ」
健二はジョークを言うように応えた。
三人は、穏やかに笑った。
健二は、エスプレッソをマグカップに入れ始めた。
カウンターを囲んで三人の周りにコーヒーのいい香りが漂い始める。その香りは、やがて小さい室内へと広がり充たされていく。
「お借りしていたCD返しにきました」
遥は、小さなモノグラム柄のバッグからCDを取り出して、カウンターに置いた。
ブレッド&バターのベストアルバムだ。
彼女は、何曲目かに収録されている曲を人差し指で示して微笑した。
「私、この曲が好きよ。何回も聴いていたわ。」
「あの曲いいよね。ちょっと切ない夏の海の雰囲気が出てる。」
二人はブレッド&バターのアルバム が、気に入っているようだった。
健二はエスプレッソコーヒーを、マグカップへ入れながら微笑した。
健二は二人の前に、マグカップを置いた。
慶が先にマグカップを持って一口飲んだ。
「あぁ、今日は一段とほろ苦い」
彼の言葉に青山健二は微笑した。
「エスプレッソだからね」
「エスプレッソて普通は小さいマグカップに出てくるんですよね」
「そうだね」
「何故、Le soleil は大きめのマグカップに入れるんですか?」
「あぁ。ほら、Le soleil は普通のブレンドコーヒーを入れないんだ」
「あぁ。メニューにないですよね」
「オーナーがね。他の喫茶店とはちょっと違う嗜好にしたくってね。エスプレッソだけ提供する事にしたんだ」
「そうだったんだ」
「最初は、普通のブレンドコーヒーサイズのマグカップだったんだけどね。小さいマグカップのイメージを払拭させたくて、それならもっと大きなマグカップで提供しようて事になった訳さ」
「へぇ。そうなんだ」
三人は、しばらくコーヒーの話をした。
*
左手のドアが開いて、澤田奈津子が入って来た。
「あぁ、涼しい」
「いらっしゃい」
健二は奈津子を見て、微笑した。
奈津子は、黒いノースリーブのワンピースを着ている。ブレスレットとピアスが、スタイリッシュな雰囲気の中に、大人の色気を感じさせる。
魅力的な女性だ。
彼女は、角のカウンターに座ると、メンソールの煙草に火を付けた。
健二は、彼女の前に氷の入ったミネラルウオーターのグラスと、お絞りを置いた。
彼女は、アイスティーを注文した。
奈津子は、遥の服を見た。
「あら、貴女のその服いいわ。サファリルックね。南沢さんに、よく似合って可愛い」
「リネン素材で、涼しいです」
「あぁ。リネンなのね。生地の色合いと風合いがいい雰囲気ね。メークと調和してて素敵よ」
「ありがとうございます」
奈津子と遥は、しばらくファッションやメークの話をした。
健二は、アイスティーを奈津子の前に置くとカウンターの中で洗い物を始めた。
慶も、彼女達の話を黙って聞いていた。
次に、彼女達は憧れの男性に対して女性はどうあるべきかとゆう話をした。
「私だったら、憧れの男性にアプローチしてもらうまで待ってます」と、遥が言った。
彼女らしい答えだ。
奈津子は、笑いながら。
「それは、辞めた方がいいわ」
「なぜですか?」
「そんなに憧れの男性なら、
男と女の関係になったとたんに失望するわ」
「そうなんですか」
健二と慶は、苦笑いしながら話を聞いていた。
「待っていたら、憧れの男性のままで別れてしまうでしよ。その後、貴女の中で憧れの男性は素敵なままなのよ」
「えぇ。そうですね」
「彼への想いが、募って苦しくて耐えられないわ」
「そうかもしれませんね」
「だから恋人同士になってみるの。少しずつそんな雰囲気を見せて彼から告白させるのよ」
「待つんじゃなくて」
「そうよ。女性がサインを出すのよ。そして応えるのは男性なの。女性が、先に好きと言っては駄目なのよ」
「何故、先に言ったら駄目なんですか」
「先に言ったら、男性優位の関係になるはずよ。この女は自分を好きなんだ。と、勝手な妄想の元に、自分にとって都合の良い関係を始めるわ」
「都合のいい女ですね」
「そうなのよ。そうなったら関係を変えようがなくなる」
「男性から告白した場合はどうなんですか」
「そうね。男性から告白して恋人同士になるでしょう。それでも、男と女の関係になるたびに失望して行くの。いずれ、素敵な男性のメッキが剥がれ落ちるように、憧れの男性が唯のちっぽけなつまらない男になるのよ」
「つまらない男にですか」
「恋なんてそんなものなのよ。魔法にかかっただけなのよ。現実に引き戻されれば、別れた時に貴方は苦しくなくなるのよ」
「それは、そうですね。一理あるわ」
慶は奈津子の話を聞きながら、何と無く納得した表情をした。
健二は洗ったコーヒーカップを、拭きながら、遥を見て苦笑いを浮かべた。
奈津子は、さらに付け足す様に言った。
「私なら、そんな男を好きにならない。それに、男なんてどれも似たようなものだわ。ピュアな心は、いずれ本能にすり替わるのよ。
口先だけで優しくして、女性を騙しているのよ。男とゆう生き物は、自分が満足すればいいのよ。仕方ないのよ。所詮は、男も女も動物なの。本能を捨て去ることはできない。哀れな動物なの」
先ほどまで黙って聞いていた慶が、彼女に応えた。
「男性を好きになれないんですか」
奈津子は、慶を見て微笑した。
「少なくとも、今の私にとって男は必要ないわ。私、男に興味がないの」
「興味がないんですか......」
「そうね、私はね」
慶は、奈津子の説明がある意味を持っていることに気がつかなかった。
奈津子は、更に男性への嫌悪感を露わにしながら。何故、男性とゆう生き物は駄目なのか話し始めた。
三人は、奈津子の話を聞くともなく聞いた。
*
健二は、さりげなく慶に意味を気づかれない様に、優しく遥に話しかけた。
「君はいつもいい香りだね」
「そうかしら?」
「うん、ふわっと甘く香る瞬間があって惹かれるなぁ」
遥は、少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「ありがとう」
「香水?」
遥が薔薇のモチーフが描かれたパッケージが貼られた練り香水の缶を、モノグラム柄のバックから取り出してカウンターへ静かに置いた。
「これ使ってるの」
「ふーん。こんなタイプの香水もあるんだ」
「パッケージが可愛いの」
「うん。綺麗な色で洒落てる」
「時間をかけてふわと香る甘い感じが好きなの」
「うん、そうだね。この香り惹かれるね」
遥は、微笑した。彼女の頬は恥ずかしげに高揚してピンク色に見える。
「三年前に、父がフランスに行った時に買ってきてもらって気に入ってるの」
「フランス製だね」
「今は、銀座に輸入販売しているショップがあるわ」
「ふーん。そうなんだ。フランス製か」
健二は、それ以上興味がなさそうに応えた。
「いつも、二人で来るけどひとりでお茶したりするの?」
「彼か女友達としか行かないの。一人で飲むなら自分の部屋が落ち着くし」
「そうなんだ」
「そう」
「一人で入ってくる時は、待ち合わせなんだね。珍しいなひとりで来た。と、思ったら後で彼か女友達がくるしね」
「ここは、待ち合わせ場所で使ってるんだね」
「うん、いつも健二さんがいて居心地がいいし。コーヒーも音楽も素敵。それに午後は、日差しの自然光で、室内がいい感じに明るいから落ち着くの」
「それは、ありがとうございます」
健二は、オーバーなアクションでお辞儀した。まるで滑稽な執事の様に。
それを見て遥が微笑した。
「ふふふ。健二さんて面白い人ね」
「お褒めにあずかりました。ありがとうございます」
「あっ。もう健二くん。ねぇ、人の話聞いてるの?遥ちゃんにモーションかけちゃってぇ」
「えっ?別に話ししてただけだよ。変に誤解されると困るなぁ」
「本当?怪しいなぁ」
「遥ちゃんには、隣に彼がいるじゃない」
「あっ。二人は恋人同士なの?」
「はい」「そうですよ」
慶と遥は、奈津子に微笑して応えた。
「なーんだ。そうなんだ」
奈津子は、嬉しそうに方杖をついて微笑して仰いだ。
慶の微笑は、少しニュアンスが違う表情だった。
あの雨の日から二人は、少し微妙な雰囲気になっていた。元に戻す為に、会う回数は増えている。けれど、何か気持ちが空回りしてる様な気がして落ち着かなかった。
「あぁ。もうこんな時間」
奈津子は、時計を見て慌てた様に立ち上がった。
健二の前のカウンターの上にアイスティーの代金を置いて支払った。
「休憩時間が短すぎるのよ。本当あっとゆう間なんだから」
「ありがとうございます」
健二は、代金を回収しながら奈津子に微笑した。
「じゃあね。二人ともこれからデートなのね。いいなぁ。仕事、この時間は暇なのよ。アーァ退屈」
「お疲れ様です」「いってらしゃい」
「はいはい。健二くん。じゃあ、またね」
「奈津子さん。ありがとう」
奈津子は、うんざりした表情で暑い夏の午後の外へ出てLe soleilを後にした。
彼女が出た後、しばらく経ってから二人も立ち上がった。
「じゃあ、僕達もそろそろ......」
「あ、デート?」
「これから、映画観に行くの」
「そう」
「古い昔の映画」
「あぁ、名画座でやってるんだね。あぁ、そうそう夏の日の恋。さっきFMでテーマ曲がかかってたよ」
「そうなんですか」
「うん。あの曲、好きなんだよ」
「それじゃあ、観て来ます」
「はい、いってらっしゃい」
二人は、エスプレッソコーヒーの代金をカウンターの上に置きLe soleilを後にした。
Le soleilは、青山健二だけになった。彼は窓の外に視線を向ける。
幾分、黄昏の時間に差し掛かった夏の日差しは、向かいの白いビルの壁面をオレンジ色に染めている。
健二は、夏の日の眩しい光を目を細めて見た。
「いろんな意味で、いいんじゃない。自由でいいじゃない。愛は障害を乗り越えられるかどうか。ハッピーエンドかアンハッピーエンドのどちらかさ」
と、独り言を呟いた。
*
夏の日の恋
The Theme from"a Summer Place"
Percy Faith Orchestra
Songwriting Max Steiner
幻の楽園 Paradise of the illusion(五)