椿-その首、枯れに墜つる夢ー
かなしみとあいはいつだって、
となりあわせだったんだ。
序章の序章、独白
ーーーこれは「会話」ですーーー
陽炎が揺らぐ夏の午後、
在る筈のない水溜まりを見つめながら、彼は言った。
「あのさぁ!
ほっぺつねって、いたかったらユメじゃないらしいぜ!!」
夏でも冬でも元気いっぱいの彼を恨めしく思いながら、げんなりと私は返す。
「どうしたの?いきなり…」
「なんか、だれかがいってたんだ!!
きゅうに、おもいだした。」
「ふーん。…ユメかもよ。
…ゆうくん…やってみれば?」
「…えっ」
しまった、と顔に書いてある。
いつもの様子の彼を見て、
私は少しだけこの熱気を愛した。
「やってみてよ。」
「お、おれか…。おれがやるのか…」
2人で見つめ合うこと、数秒。
彼は、顔を歪めながら勢いよく自分の頬を抓る。
そのあまりの思い切りの良さに多少は狼狽えながらも、私は目一杯笑ってやろうと思った。
「ふっ、ふふ、あはははははっ!!
いまの、ぜーったいにいたいって!!
ふふっ、バカじゃ………」
………小さな水溜まりが、見えた気がした。
「えっ……ないて」
「ぇだろ………ッ」
「……え…?」
その視線に、完全に捕まる。
アブラゼミが鳴いている、と私は思った。
遠くで。
近くで。
…耳元で。
鳴き声が最大に感じられた次の瞬間、
静寂の
中
で
彼
は
ハッキリ
と
言った
。
「夢な訳、ねェだろ?」
序章 早春の朧月
…声がした。
私の声。
私………の?
いやいや、そんなまさか、
まさかそんな、ね!
だってほら私、まだ14だし!
カレシ募集中、なんてのは噓で、
やっぱり好きなのはあいつ…だし?
こんな会釈した位の記憶しか無い、
倍以上はありそうな年齢の男に
犯されてる…?とか、あり得ないよね!
だってだってこんなこと、
好きな人とだって想像でしか…
…だし、夢、だよね?
ね?
……ね?
ネ
ネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネネ
ー
ゼッ
キョウ
ー
誰かの声がした気がしたが、
誰のものかなんて、知りたくも無かった。
誰だってよかったのだ。
きっと誰にだってそういう風に善がったのだ。
全人類がそれぞれの時間を淡々とこなしていた時、
私もダレカにナニカされながら、己の時間をこなした。
それだけの話だった。
それだけ、の話。
両腕を交差して己の顔面を隠す。
それだけが赦された自由であった。
もうとにかく必死だった。
醜い醜い生き物。欲望の塊。
それは、私の反応に呼応するように呻き声を上げた。
快感に震えるような奇声。
悍ましい。
愛とは命とは人間とは自分とは。
…なんてモノに浸ることができたのは随分後の話だが、その時間は私にとって確かに最低最悪なものだった。
そしてそういう時間ほど、
ゆっくりと、人生を、這うように、
蝕むようにして進むことを、
私は知っていたのだ。
しかしその時間が、
後の人生にどれ程の影響を与えてくるか、は…
…未だ知る由もなかった。
……どのくらい経っただろうか。
少し遠のいていた意識を取り戻しつつあるのは、
悪夢が最初の佳境を迎えていたからだった。
掻き鳴らされる痛みの戦慄は上へ上へと転調し、
その瞬間を待ち侘びたと言わんばかりに
私の身体から勢い良く引き抜かれた。
「ナ、オレウマイッテ イッタダロ?」
…相手の言語を理解するのに少し、
時間がかかった。
馬鹿言うな、自称ヤンキー校をナメるな。
100%の保証が無いことくらい、
教育なんて待たずとも常識だ。
だからうちの中学は毎度毎度ゴムの落とし物で
学年集会になるんだぞ。
落とすやつよりも馬鹿がいたとは。
それもこんないい歳こいて。
そんな奴に、私は…。
…お医者さんに、行かなくちゃ。
そう思った。
家の金庫は、鍵なんて有るようで無い、ただの箱だということを、私は知っていた。
瞬間的に思考が駆け巡る。
数秒で最善の策を練り終えることが出来たのは、
皮肉にもこの凄まじい痛みの功であって。
……痛み?
…いや、痛いという次元の話では無かった。
自身の状態を的確に表す言葉を、私は持ち合わせてはいなかった。
イタイ、イタイ。
…溢れ、撒き散らされた液体が、両脇腹に穢らわしく伝う。
激痛部から、自分の一部も流れ出ていくのが解る。
愛車を汚すまいとご丁寧に敷かれたバスタオルは今、私の色で染まっているのだろう。
…可哀想なタオル。
やがて私は、この狭い空間で起こっていることを明確に伝播してくる音、に意識を向けていた。
そういう自分に、気が付いた。
目を覆っているので、仕方ないと言えばそうだった。
荒い、鼻息の混じった息遣い。
脳がグチャグチャになりそうな雑音。
うるさい…うるさい、
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!
当時の私が「五月蠅い」を知っていたなら、全くそうだと思ったに違いない。
いや、それよりも、と思ったかもしれない。
こんな奴、死んでしまえばいいんだ。
………死ね。
そんな殺意と裏腹に、身体は溶けていく。
それを見抜いたかのように、
どっぷりとした重い肉塊がのしかかってくる。
顔の前で交差されたままの私の腕は、がさついた手によって遂にこじ開けられた。
饐えたような味の唾液と、生ぬるい舌。
(あ、寒い。足の先、冷たい。)
そんなことに意識を向けようと試みながら、
私はされるがままに虚空を見つめていた。
「夢な訳、ねェだろ」
…不意に彼の言葉が響く。
愛おしかった日々。キラキラしていたあの瞳。
彼は王子様で、私はお姫様だったのだ。
しかし、それもまた夢。
その一言は、もう彼の声ではなく、ただの圧となって私の上に重く響く。
何度も、何度も、何度も。
そう…そうだ。
これは悪夢という名の現実なのだと。
痛み、と捉えたその感覚が、全てを物語っていた。
そしてこの現実に抗うには、
自分はあまりにも非力であると。
完全に悟った時、私は、
身体と心に込めていた全ての力を抜いた。
ーーーこころなんて、なくて、
……いいんだ
虚ろな思考を完全に停止させる為に。
…静かに、静かに。
私は、目を閉じた。
全てを視ていたのは、早すぎた春に霞む月。
それだけだった。
それだけで、よかった。
第一章 捨子花は蜩と
「……………イ……」
「……スイ…」
「……スイ。起きて。」
祖母に名を呼ばれ、私はふにゃぁ、と目を覚ます。
「……んん………?」
「ママよ。ママから電話。」
ひぐらしの声。短い生命がただ愛を叫んでいた。
遥か昔から人々を魅了し続けてきた、その鳴き声。
当時の私も無意識に、ただ無防備に。
心を溶かされていた。
つい3日前、妹を出産したばかりという母。
父親が海外出張中ということもあり、里帰り出産をしていたのだ。
長女の私…スイは、父方の祖父母の家に預けられて1週間。慣れない環境に疲れ、昼寝をしていたところだった。
愛する母と早く話したくて、私は霞む視界を懸命に擦った。ぺちぺちと裸足で走って行き、勢い良く受話器を受け取る。
「ままっ!!」
― 少しの沈黙。
「…スイ?」
「…ま、ままなの?げんき?
…あっ、あかちゃんもっ!!げんき?
あのねあのね、スイね、ままにあえなくてとってもさみしいの。
おじいちゃんとおばあちゃんはね、とってもやさしいの。
でも、でもね、スイはままがいないとやっぱりさみしいんだなぁってね、おもうの。
それでね、きょうのあさごはんのぱんがとってもおいしくってね、
あ!あとね、スイの…いもーと…?がね、
スイみたいにかわいかったらいいねぇ~って
おばあちゃんにいったら、
おばあちゃんがわらってくれたの。
それでね、えーっと」
「スイ。」
― 笑いを含んだ母の声。
「う、うん。どうしたの、まま。」
「スイは、本当に元気で、いい子ね。」
「うん。スイは、げんきで、いいこだよ!
まま、いっつもいってくれるじゃん!」
「……スイ…大好きよ。
ママはね、パパも、スイも、ここにいる赤ちゃんも、みんなみんな大好きなのよ。
……それを、パパと、赤ちゃんに伝えて。
愛してるわ、スイ」
「まま!スイもね、ままがだいすきだよ!!
わかったよ!ぱぱとあかちゃ…」
ツー ツー ツー ツー ツー……………
「………えっ、きれ……ちゃ………」
その晩、母は自ら命を絶った。
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-1年後-
ひぐらしが鳴き乱れる早朝。
不安と物悲しさを掻き立てるその鳴き声は、
いつものように強く私の胸を打った。
「おばあちゃんっ!!!ねぇ!!おばあちゃんっ!!」
不意に叫んでしまう。
祖母は、妹を守るような姿勢で眠っていたが、
私の声で目を覚まし、背を向けたまま言った。
「静かに、しなさい。」
小さな小さな妹。
壊れやすくて、大事にしなくてはいけないもの。
…私よりも、大事なもの。
世界は、彼女を中心に回っていた。
幼い自分にも、祖母の大きな背中がぼやけていくことで理解できた。
…ホームシックになることがある。
例え其処が自分の家であっても。
ほぼ毎日。
ホームシックとは…と自分でも思うが、
大人になった今でもその表現が一番しっくりくる。
不安や寂しさで呼吸が苦しくなり、
どうしようもない孤独感に苛まれるのだ。
叫んでも、もがいても。
それは容易に取り除かれることは無かった。
何年経とうと、血の気のない凍り付いた笑顔で。
…私が息絶えるまで。
永久に追ってくるらしかった。
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母親は、いわゆる良家のお嬢様であり、
少し歳の離れた妹と弟を持つ三人姉妹弟の長女であった。
人に聞いたところによると、控えめで、進んで人の役に立とうとする優しい人であったらしい。
和のもの…特に盆踊りを好み、
町内の小さな夏祭りなどをこよなく愛していた。
普段、はにかんで顔を赤らめて他人と会話をする彼女も、踊る時だけは人が変わったように生き生きと、美しく舞ったそうだ。
彼女は大学2年生の冬休み、星空の写真を撮る行事で、他大学の写真部であった父と出逢った。
騙されがちな恋愛しか経験しかして来なかった彼女は、真面目な性格で、少年のような笑顔の父に次第に惹かれていった。
大学を卒業して3年後。彼女と父は結婚し、
間も無く子を授かった。
それが私、スイの誕生の経緯である。
仕事が忙しかった父。帰りを待つ母と私。
素朴ながらも幸せな生活を送っていた。
滅多に感情を荒げることの無い母であったが、
自らの両親と会話するときだけは別人のように怒りで震えていたという。
彼女は幼少時、妹弟のお世話係は勿論、家事を全て独りでこなし、
さながら住み込み使用人のような生活を送っていたらしい。
怠惰で金に困っていない両親にとって、長女である彼女は格好の雑用係だったのだ。
愛され、やんちゃに育った妹弟に対して、控えめな彼女は散々にこき使われた。
半ば逃げるような形の結婚。
それを知った彼女の両親は、老後の世話係を無くしたことに怒り、
毎日のように私達の家に電話を掛け続けた。
…ただの腹いせである。
母は通話中、見た目こそ形相を変えていたが、決して声を荒げることは無かった。
まだ小さかった私が大きな瞳で見つめていたのだ。
無理もない。
妹の出産時、父がどうしても仕事で海外に行かなくてはならなかった。
母は何を思ったか、私を父の両親…私にとっての父方の祖父母の家に預け、里帰り出産に臨んだ。
母がいつ死を決めたのかは誰にも解らない。
ただ、事実として残っていたのは…
彼女の実家の風呂場で、
出産後3日の母が死んでいたこと。
私、スイにとっての母は、仏壇、そして黒い額縁の中の写真と化したこと。
母の両親が何かを恐れ、大量の札束を置いて行方を晦ましたこと。
帰国後、死んだように床に伏していた父が初めに手にしたものが、食糧ではなく、残された札束であったこと。
そしてそれらを全て使って、母の墓を新規購入したこと。
私と生まれて間もない妹は父方の祖母に引き取られ、めったに帰らぬ父、そして他4人、計5人の歪な新生活が始まったこと。
…父方の祖父母の家は、夏の早朝と夕暮れに
ひぐらしが沢山鳴く森と隣接していたということ。
蜩は、嫌いだ。
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そしてまた1年が経った。
次の悪夢が淡々と迫っていることを、私は何も知らなかった。
「スイちゃん、スイちゃん。
ほら、可愛いスカート、買ってみたのよ。」
ある朝、祖母が私を手招いた。
「ん~おばあちゃん、どうしたの…あれっ、うわぁ!!そのくろいすかーと、とってもかわいい!!
でも、スイ、ぴんくがよかったなぁっ。
ねぇねぇ、それ、スイにかってくれたの!?
きても、いいの??」
初秋の風にカーテンが揺れる。
遠くで雷の音が鳴ったような気がした。
「スイちゃん、今日はね。」
祖母の顔が一瞬だけ光る。
(あ、きょうは、あめなのかしら。)
テレビ画面に、台風の様子をひっきりなしに伝える気象予報士がいたことは、今でもハッキリと覚えているのだ。
…少し生ぬるい雨の匂い。
「今日はね、結婚式なのよ。」
「え…………」
「今日はね、パパとママの結婚式なの。
よかったわねぇ、スイちゃん。
あなたに、新しいママが………………」
祖母は何か話し続けていたが、私はただただ混乱していた。
今思うと、私の周りの大人達は私の年齢を、そして記憶力を、なめすぎていたと思うのだ。
だってほら、あの時の感情は今現在でも手に取るように覚えている。
「ワタシ、ソンナコト、キイテナイヨ」
カーテンが揺れて、一層強い雨の匂いがした。
(もうすぐ、あめがふる。)
そう、思った。
椿-その首、枯れに墜つる夢ー
小説というよりも散文詩なのでは疑惑ぅ!