ラブ&ヘイト 見習い天使と見習い堕天使の物語(7)
第七章 天使へのステップⅢ
俺は、背中の羽をはばたかせながら、公園の一番高い所に上がった。この公園は、昔、天守閣があったが、火事で焼けてしまったそうだ。今は、再建に向けて、様々な調査や資金集めが行われているらしい。もちろん、この話は、ガイドからの受け売りだが。
昔、天守閣が建っていたところはお堂が建立されていたが、天守閣の再建の調査や、崩れ出した石垣の修復のために、今は、なにもない。十メートル四方の空き地となっている。俺は、そこに舞い降りると、世は満足じゃ、の気持で、下界を見る。誰か、困っている人はいないか、仲たがいをしている人はいないかを探す。本当は、俺が一番、困っているのだ。本当は天使になりたくて、俺はこうしているわけじゃない。大天使様が怖くて、やっているだけだ。今更、大天使になって、わっかが、金メッキから、本物の金メダルになったところで、嬉しいわけじゃない。
だけど、やっぱり、なれるものなら、大天使になってみたい気もする。誰でも、新たな位置に立つことで、大物になることができるのだ。仕事が、職責が、その者をつくるのだ。これまで業績を成し遂げた人は全てそうだ。うーん、アンビバレンツ。
そう思いながら、公園をみると、保育所の園児たちが、桜の馬場と言われる広場に集まっていた。名前のとおり、桜の木が広場の周りに植えられている。花は既に散り、新緑の葉が、子どもの成長に負けまいと背伸びをしている。今日は、遠足か?仲良くさせるのは、別に、大人だけでなく、子供でもいいだろう。あんまり遠くに行くのは面倒だから、この際、近場ですまそう。それに、子どもの方が、喧嘩をしやすいし、仲好くもなりやすい。安易な方法だが、このノートの力をいろんな人の試してみることも大切だろうと自分で勝手に納得した。
早速、広場に舞い降りた。子どもたちは、先生からいくつかの注意点をうけると、仲のいい子同士が二人から三人のグループになって、芝生に座り、弁当を食べ始めている。俺は、松の木の下の日陰に座っている二人の女の子に目をつけた。
「こんにちは」
俺は、最大限の笑みを浮かべ、できるだけやさしく話しかけた。二人は、お互いの顔を見合ったまま、顔を下に向けた。恥ずかしいのか。俺は、もう一度、犬の頭を撫でるような声で、または、猫のあごの下を撫でるような声で、
「こんにちは」
と、声を掛ける。返事がない。もう一度、試してみる。
「こんにちは」
女の子たちは、急に立ち上がると、他の場所に立ち去った。そう、逃げたのだ。向こうの方で、しゃべっている声が聞こえてきた。
「だーれ、あのひと」
「知らない」
「知らない人と話なんかできないよね」
「ねーえ」
こまっしゃくれたガキども、いや、お子様たちだ。東の空を見上げる。まだ、LとOの文字はくっきりと見える。その横をジェット機が横切った。一瞬、OがQに変わる。
「何しやがんだあ、俺の大事なOに。この腐れジェットが」
我を忘れて大声を上げてしまった。向こうの方で女の子たちがこちらを見て笑っている。知らない人とは話をできないけれど、知らない人は笑えるのか。
気分を害した俺は、再び、空に舞い上がる。やはり、別の場所で探さないといけない。立て続けにうまくいったものだから、つい調子に乗って、近場で何とかしようとした俺が、あかさたな、じゃなく、浅薄だった。苦労は、もうひとつ重ねてこそ、十労になる。なんのこっちゃ。
だが、空から見る景色はすばらしい。目の前の青い海。近くには島々が見える。行き交うフェリーや連絡船。一幅の絵画だ。いあや、一服するどころか、つい、腰を落ち着けて、お茶を十杯も飲み過ぎ、満腹になりそうだ。港には海浜公園が広がり、ベンチや東屋が設置されている。そこにいるのは、誰だ。そう、次の獲物を見つけたぞ。ベンチに横たわるホームレス、君たちだ。君と言っても、潮風に吹きさらして、赤茶けた顔は七十歳過ぎに見える。不幸を全てしょいこんで、あちこちのゴミ箱に空き缶を投げ込んでいる彼らに愛の手を。俺は、直滑降で向かう。
「やあ、こんにちは」
東屋には、ベンチに横たわっている男と、反対側に寝そべっている男が二人いた。あきらかに、仲がよさそうにない。これはチャンスだ。再度、あいさつする。
「こんちには」
わざと言葉の順番を間違えて、笑いを取ろうとしたが、相手からのリアクションはない。やはり、この二人も。知らない人とは話せないのか。教育の力はすごい。半世紀近くたっても、脳に刻み込まれているのか、小学校の時の教えを忠実に、着実に、見事に、頑なに、どうでもいいぐらいに、守ろうとしている。恐れ入りの、天使の羽だ。なんのこっちゃ。
俺に近い方の男が薄眼を開けた。よっぽど眠いのか、体はやせこけているのに瞼だけが肥満なのか。
「やあ」
おっ、返事をしたぞ。生きている。生きている。生きていることはいいことだ。
「何か、喰わしてくれ」
男が返事した。
「俺にも、くれ」
もう一人の反対側に寝そべっている男も続いた。俺は、ポケットをまさぐった。あるのは、鯛の餌。鯛の餌と言っても、駄菓子屋で売っているビスケットだ。何かに役に立つんじゃないかと、さっきの公園で落ちていたのを拾っていたのだった。
「それ」
俺は、ベンチで寝傍っている男と、東屋にもたれかかっつている男に一つずつ手渡した。
「あ、ありがとう」
「ご、ごぜえますだ」
いまどき、こんな返事する奴はいない。二人で、一人か。と言うことは、実は、二人は仲がいいのか。俺が妄想している間に、二人は鯉の餌を食べつくした。
「もう」
「ないのか」
まだ、力のない声だが、先ほどよりは、言葉がはっきりと聞こえる。俺は、今度は、左のポケットをまさぐった。ポケットを探せば何かが出てくる。種も仕掛けもある当り前のポケットだ。おおおっ、あっつた。飴玉がちょうど二個。先ほど、駅前にいたときに、もらったものだ。それを二人に渡す。
「あ、ありがとう」
「ご、ごぜえますだ」
二人は、飴玉を口に投げ込む。急に元気になった。糖分の力はすごい。目に見えて、効果を発揮する。人間は、意思じゃなくて、食い物のエネルギーで生きている存在なんだとあらためて実感する。その点、俺たち天使は、幸せを掴みたいという意志のエネルギーで存在している。二人は、寝転がったままから、ゆっくりと体を起こすと、ベンチに腰かけた。横になったままでも疲れるとは、病院で入院している患者から聞いたことがある。人間は適度に動かないとダメな動物なんだ。俺たち天使も、人間のどもの幸せのために、こうして適度に動き回っている。
「ふあわああ、助かった」
「ふあああ、生き延びた」
だが、二人は、一緒に座ることなく、反対側を向いている。一方が海を見て、もう一方が海と反対側の市街地だ。やはり、そうだ。俺の直観は当たった。二人は、仲が悪い。間違いない。俺の獲物だ。そう、確信した。
「二人は、友だちですか?」
返事はない。眼も、耳も、口も、鼻も閉ざしたままだ。俺は、更に、確信を深めた。こいつらを何とか仲良くさせてやる。何だか、意地になった。別に、大天使になれなくてもいい。この腑抜けた奴らを俺の意のままに動かしてやる。
「まだ、お腹は空いていますか?」
「はい」「はい」
自分の都合のいい時だけ、返事が重なる。俺は、ポケットをもう一度、まさぐった。何もない。あるのは、先ほどのビスケットのかけらぐらいだ。これじゃあ、戦力にならない。
「ちょっと待っていてください。すぐに、何か、美味しい物を持ってきますから」
「お願いします」「お願いします」
低音と高音のハーモニーだ。絶対にいける。Vはもらったぞ。勝利のビクトリーだ。大天使は、もうすぐだ。右手の指でVサインをする。あれっ。さっき、俺は、大天使なんて、どうでもいいと言ったけれど、眼の前に手が届く距離になると、やはり、賞状やメダルが欲しいらしい。所詮、俺もただの天使かと思ったけれど、いや、欲望こそ、向上心こそ、生きる価値を見出すものなんだと、胸を張る。胸を張る前に、財布のひもを緩めないといけない。
俺は、近くのコンビニに飛び込んだ。コンビニは、レジが二つあった、従業員は、二人。一人はレジの前に立ち、もう一人は棚のお菓子を並べ替え、それが終わると、冷蔵庫の中のペットボトルを詰め替えしている。よく見る光景だ。俺は弁当コーナーに進む。梅、シャケ、コンブなどのおにぎり。ハム、卵、チーズなどのサンドイッチ。とんかつ定食、やきそば定食、日替わり弁当。喰い物は豊富だ。うーん、目移りする。
だが、問題は値段だ。金がない。天使の見習いでは、まともな給料が入らない。大天使様からもらうお金は、小遣い程度だ。徒弟制度は厳しい。ふくらみのない財布を取り出す。人間円にして、千円余り。あのホームレスたちに弁当を買う余裕はない。
しかし、なんでも先行投資が必要だ。眼先の金をけちって、鯛をつる予定が、めだかじゃ話にならない。へたすれば、ぼうずだ。俺は、すぐ近くに見えるシンボルタワーから飛び降りるつもりで、(俺が飛び降りても羽根があるから、命には別条はない。この点、安全性は確認している。抜け目がないと言ってくれ)金を出すことにした。四百円のシャケ弁当だ。ごはんと梅干、シャケにわずかばかりの千じゃなく、一万ぐらいに細く切り刻まれたキャベツに、あまりの小ささで、申し訳なさそうに、赤い顔と青い顔を見せているミニトマト。おおおお、きんぴらごぼうが付いているぞ。しけた弁当だが、あのホームレスたちにとっては、きっと、豪華な食事だろう。二つで、八百円。残金、二百円。厳しい、だが、大天使はもうすぐだ。豊かな生活が待っている。俺は、意を決し、レジの前に立つ。大学生風の男が商品を預かった。
「ありがとうございます。このお弁当、温めましょうか?」
「そのままでいいです」
今日、何十回目かの挨拶にも関わらず、元気のいい返事。俺はこの若者に好感を持った。
「八百円になります」
若者がピッと光線をあてると、ガシャンとレジスターが開いた。若者は弁当を袋に入れようとした。その時、何げなくシールに眼をやった。若者が笑顔から怒りの顔に変わった。
「少しお待ちください」
そう言うなり、若者はシャケ弁当を持って、商品棚を整理している同僚(多分、同じ年ぐらいだろう)に、足早に近づいた。そして、眉をしかめ、マシンガンのように唇を動かしながら、同僚の男を怒鳴りつけている。何があったんだろ?。俺は、少し気になったが、早く俺の獲物の所へ行きたい一心だ。そうしないと、あの二人はどこか別々の場所に行ってしまう。握りしめつづけたせいか、俺の汗のせいか、千円札がぺこりとお辞儀をした。だが、男は、引き続き怒鳴っている。
俺は少し気になった。二人の会話を聞いてみたいと思った。ひょっとしたら、俺の獲物かも?伸びろ耳。天使の体は自由自在だ。ダンボのように大きくなって、空を飛ぶこともできるし、キリンの首のように長く伸びて、人の話に聞き耳を立てることもできる。どうだ、便利だろう。俺は、誰に自慢しているんだ。早速、聞き耳を伸ばす。
「お前、一体、何度、言ったらわかるんだ」
「何のこと?」
「この弁当見ろ。賞味期限まで、後一時間しかないじゃいか。オーナーに何度も言われただろう?弁当は、新鮮さが一番だって。このまま売ったんじゃ、この店の信用が失われるだろう。商品を片付けるか、値段を訂正して下げるかどちらかだ」
「いいじゃん。賞味期限を見ない客が馬鹿なんだから」
「馬鹿はお前だ。だから、いつまでたっても、オーナーから信用がなく、レジに立てないんだ」
「割引シールを貼らなかったぐらいで、そこまで言うか」
「俺は、オーナーからこの店を任されているんだ。俺の言う通りしないんだったら、この店やめてもらうぞ」
「ああ、わかりました。店長どの」
「なんだ、その言い草は。オーナーには、俺から報告しておくからな」
会話が終わった。俺は、聞き耳を急いで引っ込めた。あまりにも勢いよく引っ込めたので、耳がぼよよん、ぼよよんと何回もトランポリン状態となる。こんな姿を人間に見られたら、俺が天使だと見破られてしまう。慌てて、両耳を押さえる。叫ばないムンクだ。
若者が意気揚々と戻って来た。もう一人の商品係は、何もなかったかのように、ただし、レジにはそっぽを向いて、新しい商品を奥に、古い商品を前面に入れ替えしている。
「大変、お待たせしました。あれ、お客様、どうかしたんですか?耳が痛いんですか?」
さすが、賞味期限の時間をチェックする男だ。俺の様子が変なことに気がついたらしい。俺はすぐさま返答する。こういう時は、早めがいい。
「いあや、あまりにお腹がすき過ぎて、耳からエネルギーが漏れるのを防いでいるんですよ」
我ながら洒落た答えだ。
「そうですか。それで、同じお弁当を二つも買うんですね。大変お待たせしてすいません。お客様、実は、このお弁当、賞味期限まで後一時間です。本来ならば、割引きにするか、商品を取り除くかのどちらかです。私どもの商品担当者のチェックミスです。大変ご迷惑をおかけしました。もし、よろしければ、他のお弁当に変えていただくか、もしくは、このお弁当でよろしければ、一個に付き五十円値引きいたします」
何と、親切な店員だ。確かに、弁当に張られたシールを見ると、賞味期限まで一時間だ。それを確認しなかったのは、こちらのせいだ。もちろん、自分が食べる弁当ならば、事細かくチェックをしただろう。だが、他人にくれてやる弁当だ。早く買わなければ、と気がせいたため、賞味期限なんか気にしていなかった。俺は店員の親切に感謝した。他の弁当に変える気はない。少しでも値段の安い弁当がいいのに決まっている。お金は自腹で切り、弁当は他腹に入るのだから。
「この弁当でいいですよ」
「ありがとうございます。大変、ご迷惑をおかけしました。それでは、値段を訂正して、七百円になります」
笑顔がこぼれている店員。マニュアル通りの顔だろうが、見ている者としては、嫌悪感はない。俺は、一人では立っていられない、ふにゃふにゃの千円札を出した。
「千円をお預かりします。お釣りは、三百円です。お確かめください」
完璧だ。何も言うことはない。だが、完璧すぎるがゆえに、俺は気になった。レジの男とケースに商品を詰め替えしている男とは、明らかに不仲だ。つまり、俺にとってチャンスなのだ。レジの男の名札を見る。「岡」だ。姓だけでは、ラブ・ノートに記載しても効果がない。日本人ベストテンの姓には入っていないものの、日本全国の「岡」さんだけで、何千人、何万人、ひょとしたら、何十万人もいるだろう。フルネームが欲しい。俺は、相手に疑問を抱かれないように尋ねた。
「岡さん。今回は、親切な対応ありがとう。私の方からも、オーナーに礼を言いたいので、岡さんの下の名前も教えてもらえませんか」
どうだ、これなら、不審がられずに済む。
「そんな。大げさな。私としては、ごく当たり前のことをしただけですよ。でも、お客様がどうしてもと言うのなら、申し上げます。いかなる台風や嵐にも毅然として直立している木が立っている岡の「岡」で、真実とは何か、常に自問自答しながら、生きている誠の心を持った「誠」です。すなわち、「岡 誠」です」
お前は、講釈たれか。最初から、自分の名前を言いたかったんじゃないか。とりあえず、レジの兄ちゃんの名前は聞いた。後は、商品ケースのアンちゃんだ。
「それじゃあ、岡 誠さん。あえて、フルネームで呼ばせていただきますが、あの商品係の方の名前は、誰ですか?」
「ああ、あいつですか。語るに足りない名前ですよ。お客様がどうしてもと言うならば、言いますけど。でも、今日のことは、オーナーには内緒にしてあげてください。あいつも可哀そうな奴なんです」
余裕のよっちゃんの誠ちゃんだ。改めて、真実一路の「岡 誠」を見つめる。
「では、申し上げます。山賊がうようよしている「山」に、本当のことなんかこれぽっちも言わない「本」に、生まれてから親孝行なんてしたことがなく、親を泣かすような不孝ばかりをしてきた「孝」、合わせてもばらばらになってしまいそうな「山本 孝」です。ホント、名は体を表すとは、その通りですね」
さっきのフリーペーパーの女たちも、同じようなことを言っていたけれど、よくもまあ、これだけ他人の悪口が言えるものだと感心する。こんなコンビニなんか、二度と来るもんか。
「ありがとう。彼は、「山本 孝」さんですね」
「ええ、そうです。山賊がうようよしている「山」に、本当のことなんか・・・」
同じフレーズは二度と聞きたくない。ホームレスも腹をすかして待っていることだろう。早々に、仕事を終えないと。俺は、カバンからノートを取り出すと、「岡 誠」、「山本 孝」の名前を書きつけた。
「本当に、いいんですよ。僕のことはオーナーに話さなくても。でも、失礼があったことは、どんどんと申し出てください。それが、このお店のサービスの向上につながるんですから」
新撰組の第一隊長のような顔をして、岡 誠が立っている。その傍ら、野良犬のような、山本 孝を余裕の表情で眺めている。俺は、二人の顔を交互に眺める。俺にとっては、鴨ネギだ。天使への道が更に一段階進むチャンスだ。さあ、二人の名前を書いたぞ。ラブ・ノートの化学変化は起こるのか?もう一度、二人の姿を見る。岡の方は、もう俺の存在なんか忘れたかのように、次から次へと訪れる客に向かって、仮面笑いを続けている。山本の方は、パン棚の一番下で、かごに古い商品を入れ、新しい商品に入れ替えている。状況は変わらず。この二人は、あまりにも仲が悪過ぎて、ラブ・ノートの効果も期待できないのか。俺は残念に思いながらも、今眼の前の獲物から、次の、ベンチに座っている獲物の方に関心を移した。
「ありがとう」
と一言、いかなる台風や嵐にも毅然として直立している木が立っている、エトセトラの岡 誠に礼を言うと、袋に入った一個五十円円引きの弁当が二個入ったレジ袋を指にひっかけて、店のドアを押した。
急がないと、あの二人が、ホームレスどころか、東屋レスになっているかもしれない。店から見える青空。ビルと歩道橋とホテルに囲まれ、三角形の空だ。その一部に、白い雲が見えた。方角は東。何かしらの文字のようだ。まさか。俺は、道路沿い窓ガラスからコンビニの中を覗く。先程まで、しゃべることのなかったあの二人、岡と山本、地形的によく似ている二人が、同じレジの中に入って、客の商品を袋に入れる係とお金を清算する係に役割分担し、仲良く談笑しながら仕事をしている。
やったあ。俺は、ビルの陰から急いで、港の公園に向かう。あそこなら、何にもじゃまされずに目いっぱい空を見上げることができる。急げ、急げ。振り向いたら、空に、俺の期待する「V」の字が出ているはずだ。だが、どうせならば、完璧な形で空を仰ぎたい。おかずが右往左往する弁当を片手にダッシュをかます。もういいだろう。昔、子供の頃、お正月に近所の空き地で凧揚げをした。その時、父親に凧を持ってもらい、俺は後ろを振り向かずに、糸を持って走った。後ろは気にせずに、とにかく思い切り走った。たるんでいた糸が引っ張られる。それまで、何の緊張感もなかった糸にある抵抗を感じた。
「それ」。父の声だ。俺は、まだ、走る。まだ、振り返らない。後ろを振り向かなくても、糸が上に引っ張られているのがわかる。もう、いいだろう。それでも、スピードは落としながらも、走ることはやめない。左肩越しに空を振り返る。見えた。俺の凧だ。ようやく、走ることをやめ、立ち止り、大空高く、浮かんでいる凧を見つめた。その下には、父が、大天使の父が、笑って立っていた。
いかんいかん、何の感傷に浸っているんだ。俺は、つまるところ、空に浮かぶ「V」の字を見る気持が、子供の頃の凧上げの時の感動と同じだということを説明したいだけだ。誰に?俺に。それだけ、俺は、自分を誉めてやりたいわけだ。見た。確認した。はっきりとこの二つの眼で。「V」の字だ。信じられないのならば、ひとつの眼を閉じればいい。右目を閉じる。左目で見えるのも、「V」の字だ。左目を閉じる。
一瞬、眼の前が真っ暗になった。「V」の字が消えた。だが、俺は慌てない。かすかだ、頭の中に「V」の字の残像がある。消えないうちに、右目を開けた。やはり、空には「V」の字が見えた。安心して、左目を開けた。両方の眼で、「V」の字が確認できた。片目だけで見た時よりも、奥行きのある「V」の字だ。俺は空に向かって指をさし出した。「V」の字だ。空に浮かぶ「V」の字と俺の指の「V」の字。二つ合わせて、ダブルV。VとVを並べれば、Wだ。Wの奇跡。Wの真実。俺は、空高く浮かんだ雲への新たな見方の発見に有頂天になり、二人のホームレスのことは忘れ去っていた。
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