平凡
私、平凡です。
小太りの平々凡々な女が映っている
「いってらっしゃい。」
朝、8時、にこやかに夫、金弥を送りだしてからが、私の一番好きな時間だった。
まず湯を沸かし香り高い紅茶を淹れる。
この時間がとても幸せに思える。
朝、5時に起きて朝の家事は全て済ませている。
パートは10時出勤なので、一人の時間はまだまだ余裕が有った。
金弥は自転車通勤だ、会社まで約20分かかるから、
まだまだ、ペダルをこいでいる最中だろう。
私はスマートフォンを手に取り、
送り出したばかりの金弥に愛情溢れたメールを送る。
「金弥くん、自転車気を付けて、今日も一日頑張ってね」
送信ボタンを押す。
そして、それから、確認をする。
金弥は毎晩お風呂に入りながら酒をのむ習慣がある。
その日によって、焼酎だったり、洋酒だったりするが、
金弥の希望でなるべくアルコール度数の高い酒と、
カシューナッツとくるみを切らさないようにしている。
今日は酒もカシューナッツもくるみも十分足りている。
100%のオレンジジュースがあるからあの人の好きなウォッカかな。
お風呂で楽しそうに飲む金弥の姿を思い浮かべる。
「たまには、私も一緒に入ろうかしら」
考えて見たりした。
「でも、恥ずかしいからやめておこう」
金弥は心臓が弱かった。
「心臓に負担のかかることは避けて下さい」
主治医には言われているけど。
「お酒は控えて」
と言ってもまったく聞かないのが金弥だった。
私は極端に争い事が嫌いな性格だから、それ以上は何も言わない。
金弥の病状を詳しく知ろうとしないのも、
「楽観的だ」と人には咎められていたけれども。
それでも金弥が心配な私に出来る事と言えば
、朝のメールと夕方のメールくらいだろうか。
「お疲れ様。今日も気を付けて帰ってきてね」
私は、金弥を大切に思っていたし、
金弥も私との生活を楽しんでいた。
金弥と私は再婚同士で子供もいなかったが、とても仲のいい微笑ましい関係だと、
私は思っていた。
「知らなかったんです」
私は刑事に泣きながら言った。
「心臓が悪いのにお風呂に入りながら、
あんなキツイ酒飲むなんて自殺行為ですよ、奥さん。なんで、止めないの?」
「しかも、キツイ薬まで」
「薬の事も、言ったんです。でも、聞き入れてくれる人じゃなかった」
ある日、心臓麻痺で金弥はあっさり死んでしまったのだ。
「事件性がないとは言えない」
との理由で私は任意で事情聴取をされていた。
「奥さんね、ご主人がペースメーカー埋め込んでること、
当然、知ってたんでしょ」
「はい。知ってます」
「じゃあ、なんで毎朝と毎日夕方、メールを送っていたの」
「メールですか?メールが、何か」
「携帯電話、ご主人の心臓に悪いの」
「…はあ」
「ご主人が携帯電話を左胸のポケットに入れる癖があるの…知らなかったの。
普通、気が付くでしょ。
ご主人の同僚はみんな知っていましたよ。
奥さんね、一歩間違ったら、殺人容疑で引っ張られるよ」
「殺人なんて…違います」
やっと、それだけ言った。
「保険金入るんだってね、5千万」
「…はい」
「奥さんね、疑われても仕方ないからね。
また、話聞かせてもらう事になるかも知れないけど。今日はもういいよ」
「帰っていいから」
刑事はもう一度言った。
何時間拘束されただろう、すっかり夜になっていた。
「ああ、疲れた」
帰って調理をする気になれなかった。
「一人分のご飯なんて作る気ないわ」
私はスーパーに寄り、
半額に下がった鳥のから揚げとトマトのサラダを買って帰り、
一人で簡単な夕食を済ませた。
「酒、薬、風呂、携帯。俺の言った通りだろう」
克也が電話越しに自慢気に言った。
「ええ、そうね」
克也は私の若い恋人だった。
「深雪、保険金はいつおりる?」
「まだ、聞いていないわ。このタイミングで、
いつかいつかと聞いたら、ますます疑われてしまう」
分かっている、分かっているのよ。
この男が、私に近寄って来たのは、
一昨年、旦那に掛けた生命保険の5千万円が目当てと言うことくらい。
私に惹かれてくれている訳じゃない。
この男は保険の知識が豊富だった、
保険の外交をしているのだ。
「金はいったら、しばらく海外いこうぜ。
ほとぼりなんてすぐさめる。俺が保証するよ」
「考えておくわ」
克也から逃げなければ。
とりあえず、今日は眠ろう。
ホットミルクに少しお砂糖を入れ、飲み干し、
私は深い眠りについた。
5千万、独り占めしたい。
金弥の事は嫌いではなかった、でも、愛してもなかった。
愛情…そんな不確かなものにすがるより、
お金の方が魅力的だっただけだ。
若い男を信じる気持ちも到底なかった。
毎日、毎日、お酒とつまみを用意する時のあの時間が楽しかったこと。
罪悪感はとうに消えていた。
スーパーの買い物袋を下げている自分をガラス越しに見ていつも私は笑ってしまう。
そこには、小太りの平々凡々な女が映っている。
今日は私も帰ってお酒を飲もう、
そう考えると自然と口元が綻んでしまうのだ。
「さあ、これからどうしようか」
パスポートの準備は出来ていた。
平凡
でも、人生はバツゲームなの。