ぼくの名を呼んでほしい【Please, Call my name……,】
この作品はピクシブ【立花嶺】名義で書いた作品です。<m(__)m>
+第1話+ 「君のファンになった」
佐藤涼は、栗名のことが好きだ。
栗名の名前は紅葉という。男にもみじなんてつけるか親の馬鹿野郎、なんていつも口にしているけれど、男だろうが女だろうが、栗名は「もみじ」の名を授かる子どもだったのだと思う。なぜなら、彼は本当に紅葉のような、鮮やかで華やかな髪色をしていたからだ。
栗名の髪は赤い。人工的には出せない天然の赤だ。葉が色づき始めてから完璧な紅になるまでの薄い赤。それは一見赤毛にも見えるが、太くてコシのある日本人の髪質に不思議と合い、独特なスタイル美を醸し出している。
涼は自分の席で本を読みながら、ちらりと栗名の人気ぶりを拝見する。今日もやつは華を振りまき、みんなを惑わせている。男も女もやつの虜で、みんながやつに恋い焦がれているのが分かる。ほかならぬ涼も栗名と同じクラスになれたおかげで、一年の時みたいにまずい空気を吸うことはなくなった。その点においては非常に感謝している。
問題なのは、涼の栗名に対する気持ちが、ほかの同級生たちの憧れや思慕ではなく、もっと大きな愛情とか羨望とか欲望に似た感情だということ。
涼は栗名に欲情しているのだ。
描きたい。
こいつを描きたい。
こいつの美しさ素晴らしさを芸術に昇華するとしたらどの表現がふさわしいだろう。絵か、音楽か、文章か。
一番ほかのやつらにもすぐに理解できそうなのは人物画だろうが、この学校の美術部の顧問は涼と気が合わないタイプの人間だ。それにあそこで描いているやつらの絵が優れているかといえば、決してそうではないと思ってしまうのが事実だし、自分の描く絵が、美術部レベルには収まらないほど激しくて個性的だということを、自意識として涼は持っている。
しかし、涼はいまだに、どの芸術分野も心が削れるまで取り組んだことはない。
ここまで考えて、涼は自分のみすぼらしさに行き当たってしまう。一度も染めたことのない髪を校則通りに整えているだけの、平凡な見た目の自分。ただ中身が激しく燃え盛っているだけの未熟な己。
涼はとにかく描きたかった。栗名という男を。
その日の授業が終わり仲間と一緒に帰る栗名を、涼は堂々とつけていった。本を片手に持ち、隠れるでもなく、真後ろにくっついて歩いた。さすがに怪訝に思ったのだろう、栗名と仲間たちが涼の方を振り返った。
「佐藤、俺らに何か用?」
栗名の仲間1号がでかい身体で涼を見下ろした。涼も一七〇センチはあるので、上目遣いに1号を見上げた。
「栗名くんを貸してくれませんか?」
単刀直入に言うと、1号は言われた意味が分からなかったみたいできょとんとした。涼はもう一度言った。
「君たちの友達、栗名紅葉くんを僕に貸してください」
「おい、栗名はモノじゃねーぞ。てかお前誰だよ」
涼より小柄な体型の仲間2号が割って入った。今にも掴みかかりそうな険しい顔だ。
「僕は君たちと同じクラスの佐藤涼といいます。よろしくお願いします」
「そんな人間いたかよ」
「スズ、ちゃんとクラスメイトの顔は覚えないとー」
仲間3号の声が、少し可笑しそうな意味を含ませて聞こえた。
「うるせえ、お前も覚えてないだろ」
「俺は女子と男子十名は覚えたぞ」
「半分もいってねーじゃん」
2号と3号の凸凹コンビがじゃれ合いを始めて、仲間1号の方は「どうする?」と栗名に意見を求めた。
「佐藤、俺のこと借りてどうすんの?」
守られるようにして立っていた栗名が言った。率直な疑問を口にした風だった。そこに訝るような、気味悪がるまなざしはなかった。単純に涼のしたいことを聞いている目だった。
「栗名の肖像画を描きたい」
「しょうぞうが?」と栗名は涼の言葉をくり返した。
「古くは国を治めた王や皇帝の権力を表したもの。自分の信じる絶対的な人物を己の技法で書き表したもの」
「ふ、ふうん」
栗名は話の先が見えないようで、涼に合わせながらも引いた目をし始めた。
「君はすごい存在だから、後世に残すために僕が描かなければいけない」
ここでやつを逃すわけにはいかない。涼はきっぱりと言い切った。
栗名と仲間たちはいよいよ分からないらしく、互いに視線を合わせだした。
「つまり君は芸術的なまでに華やかで素敵だから、何としても僕が作品として残さなければいけないんだ。美しい人を一生涯描き続けるのが僕の使命なんだよ」
ここまで言えばさすがに分かるだろうと高をくくった時、栗名が一言「こわい」と発した。
「え?」
「何か、お前、こわい!! 嫌だ!!」
栗名の顔は引きつっていた。いっそ泣きそうな目で涼から猛スピードで離れた。一目散に逃げていった栗名を仲間1号が追って、2号と3号が何やら罵詈雑言らしき言葉を涼にぶちまけながら二人一緒に走り去っていった。
ぽつんとその場に残された涼は、
「取り逃がしたか……」
ボソッとつぶやいた。
+☁+
翌日、栗名は休みだった。
無断欠席だった。
確実に昨日の件が影響しているだろうと踏んだのか、仲間たちは放課後に涼を取り囲んで吊し上げた。
「てめえみたいなのが栗名に近づくんじゃねえ」
小さい背の仲間2号が噛みつく。
「告白しただけなのに」
さらりと返す。
自分のあまりに泰然自若な態度は、かえって彼らの反感を買ってしまうらしい。三人とも目を吊り上げて口々に怒鳴り出した。
「気持ち悪いんだよ!!」2号。
「人には態度というものがあるだろ」1号。
「根暗人間がでかいこと言ってんな」3号。
涼は言い返した。
「それは違う。僕は根暗グループではなく芸術家グループなんだ。根暗はただの根暗だけど、芸術家はそこから生まれ変わった『誇りの一匹狼』の属性なのさ。僕はそこの生まれで、弱者同士で傷の舐め合いみたいに縮こまっている根暗グループとは違う。君たちは部外者だから難しいだろうけど」
「話が長ぇ!!!」
2号が怒鳴り散らした。
「つまりお前は自分が芸術家だと信じて疑わないわけか?」
1号の低くて重い声が、あきれた意味を含むように吐き出された。
「うわー、すげえ選民思想」
3号が嫌味たっぷりに言った。
このまま話していても埒があかない。涼は鞄からいつも携帯しているA4サイズのスケッチブックを取り出した。三人は不穏そうな目つきで見張る。
ページを開き、鉛筆を持って、涼は描いた。
目の前の三人を。
いったん手が動いたらあとはもう楽だった。本能の従うままに、脳の中の神様が「描け」と命じるままに描く。ラフスケッチだから仕上がりは簡単だ。涼はほとんど手元を見ずに目の前の彼らを目に焼きつけ、それが目を通って脳に伝って頭からつま先までを駆けめぐって外に出されるのを待つだけだった。
手は武器だ。絵は手段だ。脳は司令塔だ。人は芸術だ。この社会で生きていくために何も欠かせない。
手の中の鉛筆は徐々にスピードを緩め、最後の細かな修正を終えるとぴたりと動かなくなった。
三人は呆然としていた。
涼はページ三枚分をはがして三人に配った。
「うまい……」1号。
「くっそ、うまい」2号。
「そもそもなぜこんな線が描けるのか分からない」3号。
涼はスケッチブックをしまい、彼らの目を見据えた。
「僕は真剣に栗名紅葉を描きたいんだ」
三人は押し黙った。
どれくらい睨まれていただろう。
1号が沈黙を破った。
「栗名の自宅はここから三駅目にある」
ほかの二人が1号を見上げた。目がこれ以上ないほど飛び出ている。
「……京王線沿線?」
「ああ。各駅停車で行って三番目の駅から徒歩十五分くらいだ。市民バスも出ている」
「そうか」
「バスに乗れば十分くらいで押立町団地に行く。そこが栗名のマンションだ」
「教えてくれてありがとう」
涼はすぐに踵を返し、廊下を速足で進んだ。後ろから凸凹コンビが「馬場ちゃんの阿保!!!」と叫んでいるのが聞こえてきた。あの大きな男は馬場ちゃんというのか。涼はついでに覚えた。
+☁+
調布から三つ目の駅に着いたものの、肝心のバスが三十分に一本だった。ひまでしょうがないので絵を描いて時間をつぶそうと思い、下書きをしていたら思いきり集中してしまって三十分をとうに過ぎてしまった。また三十分後だ、と反省して少し時計を気にしながら丁寧に色を塗り始めた。色鉛筆とクレヨンで色を足すうちに、本気で仕上げたいと気合が入り始めて、結局完成させてしまった。
はたと気づくと、周りに年配の方々が集まって「絵描きさんだよ」「若いのにすごいねえ」とにこにこ話しかけてきたので、涼は適当に笑ってそそくさと逃げた。
ちょうど時間だったらしく、小さな明るい緑色のバスが到着していたのでそこに飛び乗る。
運賃を払ってほっと一息つく。座席はまたお年寄りで埋まっていたので吊革につかまった。小型の市民バスは見かけに似合わず豪快に道を走り、車内はがたがた揺れた。『武蔵野台地』と呼ばれる坂道の多さに少し酔いそうになったところで、栗名の住む団地にたどり着いた。
降りると、もう夕方近かった。
結局一時間半近くかかってしまった。
四月の暖かな日差しはすでに暗くなり、橙色の空が雲を淡く染めあげている。ここはとても落葉樹が多いな、と涼は感じた。まるで森の町のようだ。木々とコンクリートの建物と、車二台ほどが通れるくらいの道路。大人一人分の遊歩道。周りはほぼ、レンガ色をしたマンションだった。
「すごい団地だな……」
どうやって栗名の居場所を突き止めようか考えていると、当の本人が両手にゴミ袋を下げてすぐ近くの家から出てきた。
「あ……」
鉢合わせになった涼と栗名は、一瞬ふぬけたように目を合わせた。
「……佐藤?」
「うん」
「……なんでお前がここにいんの?」
「住所を突きとめた」
とっさに身を構えた栗名に、涼はさっとスケッチブックを差し出す。
「この絵を見てほしい」
栗名は嫌そうにしながらも、袋をゴミ収集所の箱に入れて、手を払ったあと受け取った。
どうか伝わりますように。
涼は、祈りを込めた。
ページを開いた栗名の目が、見開かれる。
そのまま栗名は、まるで電池がショートしたロボットみたいに静止してしまった。
彼の身体の時間が混乱しているのか、栗名の顔は赤くなり、次に青くなり、最終的に泣き出しそうな表情になった。
唇が、ひどく震えている。
栗名は目を奪われていた。
スケッチブックの中の、自分の微笑みに。
「……これ、俺なの?」
栗名はそっと顔を上げて、涼の目を見た。
深い感銘を受けた表情が、彼の顔にある。
「君だよ」
涼は強くうなずいた。
あの時間、一心不乱に筆を走らせていた自分を思い出す。
手が止まらないほど描ける喜びに浸っていくのは、本当に久しぶりだった。
「僕は、栗名のことを描きたい」
強く言った。
涼は、自分の残すべき作品を見つけたのだ。
「僕は画家になるべき人間なんだ」
音楽でも小説でもない。
涼は、この世のすべての美しさを伝えるために、絵を描く人間として生まれてきたのだ。
涼は絵しか描けないのだ。絵のために生きるのだ。
これはすべての始まりだ。
腹の中でくすぶっていた、悩みとも鬱憤ともつかない何かが、すとん、と身に落ちた。
代わりに、何か熱い塊が押し寄せて、全身を駆け巡っていくのも感じ取った。
(たとえ茨の道でも)
涼は胸の奥で、誓いを立てた。
栗名が、ふっと笑う。
「これだけうまいなら、すさまじい執着心持つ野郎でも、しょうがないかな」
「栗名、絵が好き?」
「好きっていうほど見てない。でも、ド素人だってこれは分かるよ。プロでも、いや、日本中でもいないよ。こんな激しい線」
涼の描く線は荒々しかった。
栗名を描いた、人物画。
そこにある人間の顔は迫力に満ち、絶対的な自信にあふれた見事な美丈夫だった。その絵は栗名の今現在の年齢ではなく、もっとずっと大人になった、青年の姿だった。
「僕は人の未来が見えるんだ」
「だから年齢を変えるのか。これ俺だけど、俺じゃないもん」
――よかった。彼に伝わって。
涼は胸のうちで深く安堵した。
「君の仲間が、ここを教えてくれたんだよ」
すると栗名は、ぷっと吹き出した。
「ばーか、あれはお前を試したんだよ。俺の家、めちゃくちゃ分かりにくいもん。バスもほとんどないし、自力でここに来たやつは、お前が初めてだよ」
涼がきょとんとすると、栗名はますます笑った。
「今日休んだのは、妹が熱出したから。うち母親しかいないから、俺が父親の役をやるの。あの学校、口うるさくなくてよかったよ。バイトもやっているけど内緒な」
栗名はニッと笑った。その笑顔が素敵で、涼は思わず口走った。
「必ず画家になって、君をスターにさせてあげるからね」
「先取りしすぎだ。馬鹿」
日が落ちようとしていた。
四月はまだ空気が寒く、徐々に身体が冷えていく。青を塗り重ねるように、少しずつ夜になっていく空を、涼はそれでも美しいと思った。
(つづく)
+第2話+「悲しい顔はやめてよ」
佐藤涼は、栗名のことが好きだ。
彼を描くようになってから、ますます好きになった。
何て素晴らしい作品なのだろう。
「おい、帰る時間だぞ」
小さい男が何か言っても気にしない。涼は芸術を愛し、芸術に愛される人間だから。
「おーい」
馬鹿っぽい男の声が聞こえても、涼は逸る心を抑えられない。栗名はちょっと悲しそうな顔をしている。
「泣いてるぞー」
馬鹿男の声は決まって乱れている。耳障りなノイズだ。
「生まれつき持った身体を笑うな」
イケメンが渋い表情で涼を見ている。
「こっちを描こうかな」
涼は、栗名から視線を外した。
途端、何かがすごい勢いで飛んできた。
学生鞄だ。
頭に衝突音が走る。
涼は、
「栗名……」と言いながら、ゆっくりと果てた。
「死ね!! てめえマジで死ね!!」
「生きてる価値がねえ……」
「お前ら、それは言い過ぎだ」
「どうしよう、涼が起きない……」
「帰ろうぜ」
佐々鈴蘭は栗名の腕を引っ張り、強引に引きずっていく。
「スズー、鞄」
『スズ』は、彼の愛称だ。茶色く染めた頭に、可愛らしい見た目で女子に人気がある。もちろん彼を嫌う女子もたくさんいるが。
男たちは「スズ」よりも、「ミイ」と呼ぶことが多い。「ムーミン」の意地悪で皮肉屋な小さい女の子を、そのまま彼にあてがった名前だ。つまりは、揶揄である。
どいつもこいつも馬鹿にしやがって、と、鈴蘭は毎日ぶち切れている。しかし身長が低いので、どれほど怒鳴ろうが暴れようが、誰にも本気にしてもらえない。鈴蘭はそれが悔しかった。チビがそんなに悪いかと、一度栗名に食ってかかったことがある。八つ当たりだった。栗名は、絶対に怒らなかった。どれほど挑発しても栗名は動じず、にこりと笑っていた。ただそれが、女子の言う「爽やか系」とは程遠い表情だったのが、鈴蘭は気にかかっていた。
あの時の彼の顔は、「虚無」。
栗名の目は死んでいた。
鈴蘭の顔を見ながら、全く別の何かを透けて通したように、薄く微笑んでいたのだ。
怖かった。
不気味だった。
あの日から、鈴蘭は誰彼構わず怒ることを、やめた。
+☁+
「出たー! 『幽霊』が来たー!」
昼にもなっていないのに騒がしい晴希の声で、鈴蘭は無理やり起こされた。
「うるせえな……」
「今日は『幽霊』見れたんだよ!」
「どこにでもいるだろ、霊なんて。大体あれは脳みその仕組みから出来る、一種の思い込みなんだよ」
「ほら、スズ! あいつ今日も餌やってるよ!」
首をグキッ、と回された角度で見てみると、なるほど確かに、『幽霊』はいた。
「なぜ傘を持っていない……」
さすがに鈴蘭も呆然とする。
『幽霊』は、土砂降りの雨の中、中庭にしゃがみ込んでいた。もちろんずぶ濡れだ。
「今日はゲリラ豪雨だぞ……?」
「雷に打たれて死ぬかな、あいつ」
「いや……、その前に、誰か先生呼べよ……」
「あっ、栗名だ!」
大ぶりの傘を持った栗名が、同じくあわてて傘を持ってやって来る飼育委員の顧問と一緒に、『幽霊』に向かってダッシュしている。
「あいつ本当に優しいなー」
晴希が感心したように呟く。
「……そうだな」
いつだって、栗名は優しい。
+☁+
上で様子をうかがっていると、栗名は、『幽霊』と一緒に校舎の玄関口まで戻って来た。
とりあえず出迎える。
「お疲れー」と晴希。
「そいつ、どうすんの?」
鈴蘭は頭のてっぺんから足の先まで水に濡れている男子生徒に一瞥をくれた。
「お前、名前は何て言うの?」
栗名が優しく問いかける。
「……溝ノ口」
男子生徒はボソッと言った。
「誰?」
「知らない」
鈴蘭は晴希と値踏みを始める。
「暗いなあ、お前」
「誰にいじめられてるの?」
「……いじめじゃないです」
溝ノ口は蚊の鳴くような声で返した。
「……傘を置いてきたんです」
「ゲリラ豪雨の中?」
鈴蘭は顔をしかめた。この男は精神的に大丈夫なのだろうか。
「栗名、こういうのと関わったらいけないんだぞ」
「スズ、またお前の悪いところが出てる」
栗名は諫めるように鈴蘭の方を見た。
少しイラッとする。
「いやいや、お前お人好しだからさあ」
吐き捨てるように言って笑うと、栗名が一瞬、あの時の「目」をした。
薄い微笑み。
(……何でそこで黙るんだよ)
鈴蘭は居心地が悪くなる。
「多分、君が子どもだからじゃないかな」
「うぉっ!?」
佐藤! と、晴希が変な声を出した。
「いつの間に出現したんだよ!」
「栗名が見えたから追いかけてきたんだ」
佐藤涼は堂々と言い放つ。
「変な行動ばかり起こしてると、女子がいろいろ騒ぐぞ」
せめてもの嫌味で、鈴蘭は冷たい目を涼に向けた。
佐藤涼はまったく動じない。
「僕は女子も好きだ」
「聞いてねえ!」
我慢できなくなり、鈴蘭は怒鳴った。
「大体お前、何だよ!? ストーカーみたいに俺らのグループ入りやがって! 周りから仲良し五人組って見られてんだぞ!!」
「僕にとっては好都合だ」
「俺にとって不都合だ!」
なぜこいつは、これほど会話を理解しないのだろう。言葉のキャッチボールがなってない。まるで違う惑星に住む某ゆうこりんだ。
何だろう、この感じは。ゴーイングマイウェイを通り越して、サイコパス、いや、もっと、こう……。
「佐藤って、友達とかいなかったの?」
晴希が聞く。
「ああ! そうだ、『ぼっち』だ!」
頭の中に電球があるとしたら、こういう感覚だろう。鈴蘭は、パッとひらめいた。
「お前、『ぼっち飯』とかやってただろ。友達いなさそうだもんな」
「スズ!!」
びくっ、と、鼓膜を震わせる声。
栗名が険しい顔をしていた。
鈴蘭は、硬直する。
「……あ」
晴希が空気の変化を敏感に感じ取り、おろおろとあわて出す。
栗名は、きつい目つきで、こちらを窘めるでも罵倒するでもなく、睨んでいた。
鈴蘭は声が出なくなる。
栗名を見ていると、とても長くそばにいて見ていると、分かる。
栗名は優しい。穏やかな人間だ。
けれど彼の中には、誰にも触れない、ある種のボーダーライン(、、、、、、、)が引かれている。
それは栗名自身も自覚していない、本人の「聖域」だった。
『人を悪く言うな』
『人を無意味にからかうな』
『間違ったことをするな』
栗名紅葉は、とても正しい。
正義感の強いまともな男である。
だからこそ、鈴蘭は。
(…………うざい)
時々、猛烈に彼が、うっとうしくなるのだ。
「その表情、いいね」
佐藤涼はスケッチブックを広げていた。
「絵を描くのかよ」
晴希が呆れている。
「今、鈴蘭君がもどかしい表情をしていたから、紙に写しておこうと思って」
その場の空気は、一気に間の抜けたムードになった。
栗名の顔つきは、優しくなっている。
「お前、本当に面白いよな」
「そう?」
栗名と佐藤涼は、談笑を始めた。
前はそこに、鈴蘭がいた。佐藤涼は部外者のはずだった。
女々しい感情は、嫌いだ。
ウジウジ悩む自分など許せない。
腹の内で暴れる負の感情を、鈴蘭は八つ当たりにして返した。
「そもそも溝ノ口は何してんだよ。濡れるのが趣味なわけ? 最初から傘が無かったわけじゃねーんだろ?」
ギロリ、と、下でしゃがんでいる男子を見下ろす。
溝ノ口は、青白い顔をして、再び細い声を出した。
「通学途中に、猫と犬を見つけたんです……。捨てられたペットみたいで……。雨の中、寒さをしのぐ屋根もないのは、あんまりだと思って……」
「え、それギャグじゃないよね」
「この学校、電波系多いよな」
鈴蘭は晴希と顔を見合わせて、冷や汗を浮かべた。
『木立学園高等部』は、こんな変人揃いの学校だったのか。
ここは元々、女子校だった。
平成に入った頃に別の学校経営グループと合併して、男子を多く取り入れ始めたのは、記憶に新しい。と、教師たちはいつも授業中に語っている。
ここは『木立女学院』という名前の、いわゆるお嬢様学校だったと。
だからか、入って来る生徒も、大人しくて物腰の柔らかい人が多い。それなりに自由で、校則は厳しくない。特に荒れた生徒も見かけない。ただし電波がいるとは思わなかった。
「あと……、これを、渡そうと、思って。あ、濡れちゃった……」
溝ノ口が細々とつぶやく。
「雨だからね」
佐藤涼は真顔で対応する。
溝ノ口は言葉を続けた。
「あ」
「あ?」
言葉のリレーがなってないぞ、と鈴蘭は言おうとして、
「……あ、あの、ば、ば、ばば」
「ん?」
栗名が聞き取ろうと、顔を寄せた。
「馬場、直純君、に、渡したかった……」
溝ノ口がブレザーの内ポケットから、何かを抜き取る。
それは手紙だった。
「馬場直純君へ。かねてより、馬場君の部活に頑張る姿をこの目で見届けてきました」
「あの、読まないでください……」
手紙をひったくった鈴蘭に、溝ノ口は抵抗する。鈴蘭は素早い身のこなしで溝ノ口の手を簡単に振りほどき、
「馬場ちゃーん」
中庭を逃げ去った。
+☁+
鈴蘭は、悪戯が好きなわけではない。
ただ、荒れてる人や内向的な人を見ていると、なぜもっと上手く世を渡れないのか、イライラしてくるのだ。
その点、直純は立ち回りも器用だし、理性で動く性格だから感情を曝け出すような真似もしない。鈴蘭にとって、直純は中学一年時からの付き合いだ。もはや精神安定剤である。栗名とは少し違う。あれとはもっと後になって出会った。
鈴蘭は溝ノ口を冷やかしながら、さっそく二年一組の教室へ戻った。溝ノ口は抵抗することに諦めたのか、途中からぐずぐずした態度で鈴蘭の後ろをヒヨコのようにくっついて歩いている。飼育委員の顧問は「お前、服を着替えなさい!」と怒りながら溝ノ口の頭を拭いて、並んで歩いている。間抜けな絵だと思う。自分でも何をやっているのか、鈴蘭は自分自身で呆れていた。
「いたぞー、溝ノ口」
鈴蘭ははしゃぐ。直純はちょうど教室の窓ガラスから顔を覗かせたところだった。
「何やってんだ? 群れみたいなの作って、すげえ目立ってるぞ?」
「こいつが話あるんだってよ」
ドン、と溝ノ口の背を押して、鈴蘭はにやついた。面白くて仕方がないからだ。他人のラブレターほど見ていて楽しいものはない。
溝ノ口はおろおろと怯えている。
「用があるんならはっきり言えよ」
鈴蘭はわざと強い口調で言った。栗名が目の端に映る。栗名の目は、悲しんでいる。鈴蘭の胸はざわ、と一瞬、揺れた。
(何だ、こりゃ)
またイライラする。
溝ノ口が言った。
「好きです」
「…………ん?」
直純の両の眉がクイッ、と上がる。
「好きです。僕と、付き合ってください」
溝ノ口が言った。
…………え。
今、何が聞こえたの。
鈴蘭は空耳を疑った。
「まあ、別にいいけど」
は。
おい?
「すす、好き、ということでしょうか?」
溝ノ口の声が上ずっている。
「そこまでは付き合ってみないと分からない」
直純が言った。
直純は憮然と、クラス全員の見ている前で、ふむ、とうなずき、
「……友達から始めるか」
一人で納得していた。
少しかすれた彼の低い声が、鈴蘭は好きだった。
馬場直純よ。
「お前、スマホのアドレス持ってる?」
「は、い」
悪い夢なら覚めてくれ。
鈴蘭は気絶しそうだった。
「これが俺の連絡先。後で送って」
「……はい」
溝ノ口の目はもはやハートだ。
女子たちが、「うおおおおおっ!!」と雄叫びを上げて死んでいっている。
「ああいう男になりたい」
晴希が呆けている。
「なりたくはない」
鈴蘭は言い捨てた。
佐藤涼は鈴蘭のそばで、栗名の横顔のデッサンをひたすら描き殴っていた。
つづく。
第3話 「追いかけてほしかったのに」
岡崎永美は、今日も手を繋いで登校する馬場直純と溝ノ口当の仲睦まじい様子を眺めていた。
「いや、あれはないでしょ」
永美は半笑いを浮かべた。隣には大親友の藤木結花。二人は腕を組んで二階の窓から下を覗いている。
「それじゃあ栗名はどうなんの?」
「佐藤君にアプローチされた人よね?」
永美と結花の後ろから、女子二人組が話しかける。神崎梗と、速水薫である。
「俺は信じねえからな!!」
金切り声を上げたのは佐々鈴蘭。彼は最近、五人組という奇数の人数のせいであぶれがちなのだ。そして、なぜか女子のグループに入っている。
「あんたのクラス、一組でしょー」
「二年なんてどれも一緒じゃねーか」
鈴蘭は全く可愛げのない台詞を吐き、堂々と女子の輪に入り込んで、売店の焼きそばパンと牛乳を食らっている。
「まあ、一、二、三組までは普通科だからな」
梗は笑って、桜色のネクタイを締め直した。ここは男女両用の制服が用意されてあるから、自分みたいな性別の半端者には都合がいい。と、梗は毎日軽い口調でみんなと接している。
鈴蘭は梗のことを気にかけている。
永美には、それが分かっていた。
+????+
昼休み。
永美は部室の扉を開けて、旧友に助けを求めた。
「理衣子さん、お願いします。あなたの学級委員長能力であの忌々しいチビ男をやっつけてください」
「何言ってんのよ。私にそんな力あるわけないでしょ。大体、佐々君は成績優秀、品行方正ではないけれど学期末テストにはなくてはならない存在なんだから。私はあの人をライバルと認めてるの。下から数えて七番目のあなたの相手をしてる暇ないわよ」
「ほら! そういう可愛くない文句垂れ流すから男子が寄ってこないんだ!」
「私に男なんていりません。佐々君がライバルだったらいいの」
「佐々鈴蘭は男だから!」
「私の中では彼の性別は中性です」
綾本理衣子は少し妄想が行き過ぎる女の子だが、一応、これでも長いこと親友をやってきた仲である。強気で勝ち気で生真面目な彼女なら、どんなに憎たらしい男子でもその達者な口で黙らせることができるのに、今、理衣子は永美の天敵に恋心――なのかは不明だが――夢中なのだ。
「ひどい。誰もあいつを倒してくれないなんて……」
「他力本願が一番みっともないわよ。成績でぶつかり合いなさいよ」
「それこそもっと駄目でしょうが!」
「何よ、男子と女子が成績以外でぶつかり合えるものなんて、ほかにないでしょ」
永美は理衣子に言われて、口をつぐむ。本音を言うなら鈴蘭と昭和の漫画レベルの殴り合いをしたいと思っている。だが、ああ見えても力は強いに違いない。自分なんか一六〇センチにも届かないというのに、鈴蘭は五センチ高い。不満だ。男女の差は不公平だ。身長も、体格も、筋肉の量も。
「そうだ」
永美はいい案を考えついたというように目を開いた。
「結花ちゃんを使って栗名を誘惑したらいいんだわ」
「何でその発想で栗名君に行くの? 彼は佐藤君とお熱でしょ」
理衣子が白い目をこちらに向ける。
「違う、違う。佐々の永遠の友人は栗名だよ。美少女ランキング二年連続一位の結花ちゃんが迫ってくれれば、栗名も落ちるって。あいついい人そうだし、簡単に騙せそうだし、そしたら佐々のデリケートなハートは傷ついて、理衣子、あんたのもんになるじゃん」
「女って怖い」
「私たちは悪魔の双子よ」
双子、というのはもちろん比喩である。永美と結花はたいへん意地の悪い性質で有名なのだ。
(もはやどっちが嫌われてるんだか)
むろん、理衣子も人のことは言えないが。
+????+
永美は行動を起こすのが早い。言葉を選ばずに言うとこらえ性がない。昼休みの時間に理衣子を訪ねた後は、さっそく結花と共謀を図っていた。
「栗名君よりは佐々君の方が扱いやすいから、そっちにしよう」
結花は花冠が似合うようなお顔で、目をキラキラと輝かせている。悪戯したくてしょうがないのだ。男はみんなこの子に騙されていく。
「栗名君はよく分からない人だから」
「結花ちゃんでも無理っぽい男子がいるんだ」
「まあね」
ふうん、意外だな。理衣子はそう思い、永美に目をやる。永美もまた理衣子に同じ視線を送る。
「栗名君はミステリアスな人だよ。目が語ってるもん。俺の心に入らないで。てね」
「結花ちゃんすごいなあ。私なんか全然考えなかったわ」
「あんたは男に興味がないだけでしょ」
理衣子の言葉に、それもそうねー、と永美は答える。結花は体育館の開放口から見える男子の球技を観察している。ただいま午後の六時限目だ。時刻は三時過ぎで、空はすでに赤の色を濃くしている。
「栗名、行け!! 君の情熱を空に爆発させるんだ!!」
「お前はなぜ体育の授業に出ない!?」
小さな第二グラウンドでは佐藤涼と体育教師が大きな声で怒鳴り合っている。永美と結花と理衣子の三人は「それにしてもあいつは不思議よね」と口を揃えた。
きゃー、と今度は体育館に女子の黄色い声が上がる。「ああ、神崎ちゃんがサーブ決めたんだ」「バレーボールは彼女の独壇場ね」永美と結花がはしゃぐ。最後の対戦をしていた二チームは神崎梗のグループに軍配が上がったようだ。
「薫さん、負けたの……」
理衣子は誰にも聞こえないように声を押し殺し、つぶやいた。
+????+
理衣子は永美と結花の二人を好きだ。
もはや愛していると言っても過言ではない。
綾本理衣子は女の子が好きだ。
女の子の甘い匂いが好きなのだ。
+????+
ゴールデンウィーク、と聞いて嬉しがる人間もいるけれど、理衣子にとってはただのいつもの休日である。ちょっと古書店でも覗いてみるか、そんな程度だ。
理衣子はほぼ毎日書店で小説や詩を物色している。学校帰りの駅ナカ書店など、理衣子にとってみれば大宮殿だ。大人から見れば大げさ過ぎるかもしれない。けれど、理衣子はまだ親から保護されなくてはならない。十七歳。大人になるには、少し早い。
(目ぼしいものはないわね……)
木立学園からのスクールバスを降り、理衣子は多摩センター駅の啓文堂書店へ出向いた。多数の小説が並んであったが、今一つ自分の心にピン、と引っかかる琴線のような輝きを持つ物語がない気がする。あまり大好きな作家ばかり追い続けるのも、同じ話のネタが生まれるばかりで脳の刺激によくないと、著名な誰かが言っていた。
(多摩センター、もう少し頑張ってほしいわ……)
地元であるだけに、ほかの都心部より蔵書数が足りないのを、理衣子は密かに気にかけている。
「あ」
と、理衣子は声を上げた。学年一位の「爽やかイケメン君」が、見知らぬ女子を連れて漫画コーナーにいたからだ。
(家族かしら……)
栗名の隣にいる女の子の髪は赤かった。栗名は赤毛だ。そこまで目立つ赤色ではないが、日本人は黒髪だらけなので毛色が違うとそれだけで目立つ。
(私は気にしないんだけどね)
本棚の陰に隠れ、理衣子は連れの女子をじっくりと観察する。栗名の髪より少しオレンジの色合いが強いな、と思った。光り輝く赤毛である。しかし「赤毛のアン」の作中で出てくる「ニンジン色」と呼ばれるほどの色ではないなと思った。
理衣子は栗名と彼女を見続ける。栗名の赤毛と、彼女の赤毛。
(やっぱり栗名君の方が「いい」色だわ。赤って目立つけど、惹きつけられる強さがある。今度の新作は栗名君を題材に使おうかしら)
じっと眺めていたおかげで、理衣子は栗名たちがとっくにこちらの無遠慮な視線に感づいていることを失念していた。
「あのー、綾本」
栗名がパッと振り返り、苦笑いを浮かべながら近づいてくる。理衣子は少しだけ身をすくめる。
「あら、栗名君」
背筋を正し、理衣子はよそ行きの口調で返した。
「ええと……、部活?」
「そうよ。演劇部」
栗名の隣の女の子は、理衣子の顔をちらちら見上げ、恥ずかしそうに視線をさまよわせている。
「ぶしつけに見ていてごめんなさいね。演劇部の脚本づくりに苦労してるのよ」
「はあ」
「何しろ、うちには岡崎永美と藤木結花がいるからね。あの性悪女ども、まだあなたに悪さをしていないかしら」
「悪さ?」
「いえ、こちらの話」
理衣子はふいっ、と顔をそらした。ということは、結花たちはまだ作戦会議中なのか、あのコンビにしては手を出すのに時間がかかっている。
「ところで、妹さんかしら。かわいい子ね」
「おお、サンキュー。ほら、褒められてるぞ、お前」
女の子はまたちらっ、と理衣子を見上げる。すると蚊の鳴くような声で「……ありがとうございます」とつぶやいた。
「人見知りが激しくて、こいつ」
栗名は困ったように妹の頭を撫でる。
「何歳差?」
「七歳」
「それは大きいわね。ほとんど父親の気持ちでしょう」
栗名の顔が一瞬、スッと影が差したように曇った。あら、どうしましょうと理衣子が対応を考えている間に、栗名はさらっと話題を変えた。
「演劇部の去年の演目よかったよ」
「あら、どうもありがとう。最近はネタが枯渇してしまってね。軽いスランプかも」
理衣子は演出家だ。『木立学園』を選んだのも、ここが芸術ごとに強い学校だからだ。
「そうか? 去年のやつ、完全オリジナル作品なんだろ? 迫力あったよ。お前、才能あるんじゃないか?」
「そんな風に言われると、調子に乗るわよ」
「綾本は少しくらい調子乗った方がいいかもな」
(……さすがに栗名君は言うことが違うわね)
高校二年になると、男子は急に大人になる。いつまでも成長しないやつがいる一方で、教室の箱からすでに将来を見据え、羽ばたく準備を始める彼らがいる。自分たちよりずっと大きな背中を見るのが理衣子は好きだった。
「栗名君、あなたはどこへ行くの?」
理衣子は栗名の理知的な目を見て、言った。
「え」
「進路の話」
「ああ、そっちか」
栗名の目はほんの少し怯えた色を持っていた。
「俺は……、俺はまだ明確な目標が見えてないんだ。大学行けるかどうかも曖昧で。学費の件で」
「そうなの」
貧乏な学生は山ほどいる。木立学園だって、就職する道を選ぶ生徒が一割弱いる。今の時代に演劇を目指す理衣子につらく当たる連中もこの先出るだろう。
「栗名君は、模試の結果、佐々君と競っていたでしょう。何も不安に思うことはないんじゃない?」
「うん」
「私は演劇学を学べる大学を片端から調べてるの」
「綾本らしいな」
「栗名君は、何を目指してるの?」
彼の目が再び動揺する。
「目指しているものが、あるんじゃないの」
理衣子は強く出た。彼をずっと見続けていたこの数か月。栗名は「秘密」を持っている。
栗名は、夢を、持っている。
理衣子が想像する限り、おそらく、途方もない大きな夢。
誰にも言えないほどの切実な思い。
この人は持っているはず。
理衣子はそう思った。
栗名の腕にくっついている妹が、帰りたそうに彼の服の袖を引っ張り始める。
「……もう行かなくちゃ。じゃあな、綾本」
「……ええ」
ぐずる妹の頭を撫で、栗名は理衣子に背を向けた。
彼が去っていく。
理衣子のそばから。
「俺は、詩人になりたい……」
(……ん?)
空耳のような気がして、理衣子は自分の耳に手を当てた。普段妄想ばかりしているこの頭はとうとうおかしくなったか。いや、違う、これは。
(……出てきたんじゃない?)
理衣子はにやり、と口角を上げた。
鞄からスマホを取り出す。
三回目のコールで相手は出た。
『……何? 綾本さん』
「柳。出番よ」
物語が降りてきた理衣子に怖いものは何もない。
「今やってるやつ、全部なしにするわ。一日で書き上げるから、役者陣にそう伝えて」
『…………はあぁっ!? 脚本ボツにするってこと!?』
「ほかに何があるのよ。ゴールデンウィークあと三日あるし、大丈夫でしょ」
『永美と結花がまたヒステリー起こすわよ!』
「その相手はあんたにしかできないわ。この伝統校の演劇部に泥を塗るような真似は絶対にしない。すごい大作なのよ」
あんたに才能がなかったら今頃殺してやるんだからっ! と、電話は唐突な勢いでぶち切れた。スマホをしまうと、理衣子は今までにない高揚した気分で、本屋から改札口を抜けて新宿行きの電車に滑り込んだ。
つづく。
ぼくの名を呼んでほしい【Please, Call my name……,】