A4用紙よりも小さな惑星

A4の侵略者。

 Tは何処にも居る一般的な会社員であった。今日も六時半に起床して食パンにハチミツをたっぷりと塗りつけて食った後に、洗面所に行って顔を洗い、髭を剃り、レモン的な味がする歯磨き粉を選んで昨日新調したばかりの歯ブラシに、これもまた塗りつけて、ゴシゴシとU字に整列した歯を磨いた。口の中に溜まった白い液体を吐き出して水道水で濯いで、Tは満足そうにニンマリと笑った。そうして寝室に戻り、ごく一般的に普及している収納ケースを開けて、寝巻を脱いで白いシャツに着替え、黒いスラックスに足を通し、青いネクタイを締め、黒いジャケットを羽織った。それで玄関の扉を開けてアパートから出た。
 Tが会社に到着してパソコンの電源を押した時だった。奥の部屋に設置されているコーヒーメーカーから出来立てのコーヒーをマグカップに注いだモグラが、中身をこぼさない様にゆっくりと近づいて来た。まるでカツオ節が揺れて歩くみたいだった。冷房機のスイッチを入れていない事で確かに社内の温度は高かった。それでもホットコーヒーを入れてやってきたモグラの上司にTはただただ関心と理解の出来ない眼差しを向けた。モグラ上司はTの座るデスクの前に立ち止まり言った。実は今回も君に頼みたいのだ。と軽く咳をはらった後に、間を置いて小さな口を動かした。今日の十時から娘の授業参観に行って欲しい。勿論、本来ならワタシが行くべきだとは思っている。しかしながら、今日は非常に大切な会議が九時から予定が入っている。娘の授業参観に前もってから計画に入れ休暇の願いも入れておいたのだが、急遽、どうしても外せない予定が入ったのだ。最近の我々の勤める会社は本当に忙しい。この忙しいんだと言う言葉が言い訳になると思っている。確かに、授業参観くらいすっぽからしても良い。それ『くらい』なら良いと思えるかもしれない。でもそう言った事柄はワタシとしては大切にしたいのだ。だが、現実はこうなってしまった。光が真っ直ぐに直進したいと思っていても何かの原因と問題の所為で時たま屈折してしまうようにモグラにだって回避できない事だって毎日起きるんだ。今日は君の仕事は置いといて良い。悪いとは思っているし、娘にも悪いとも思っている。それでも言って欲しいのだ。娘の居る学校に。
 Tはスグに首を縦に振った。仕事をサボれる。まず、その様に思った。Tは会社を出て白いミニクーパーのドアを開けて乗り込んだ。エンジンを掛けてハンドルを握って駐車場から出た。前回、モグラ上司の娘の授業参観に行ったのは一年前だった。年若いTが教室に入ると、会釈と何かしらの会話を楽しんでいた親共と赤のチョークで数式を書いていた教師がギョッとした表情でこっちの方を見た事を覚えている。親ではない年齢の若者が授業参観に来る事は、そんなに珍しいのかと少しムカついた。それでもTは如何にも椅子に座って黒板を眺める生徒の中に、兄弟が居るかの様な雰囲気を出し、教室の隅っこに立った。授業参観を進めていく途中でTは気づいた。そう言えばモグラ上司の娘の参観に来たのに肝心なモグラ上司の娘の姿形を知らないのだ。結局、授業が終わって生徒の親がぞろぞろと退散していくと、Tもそれに続いて退散した。モグラ上司には娘さんは大人しく授業を聞いていて良い生徒さんでしたよ。と伝えた。翌々考えてみるとモグラ上司の娘はTの顔も知らない筈なのに教室の一室に立っている必要があるのかと思ってみたが、考える事を辞めた。もう校舎の姿は見えていた。Tは駐車場に入り、バックで駐車した。グランドでは生徒たちがサッカー行っていた。それと何処からか下手くそなクラリネットを鳴らす音が聞こえた。
 駐車場を歩いて校舎の入り口向かって進んでいると去年、Tの顔を見て驚いた親の一人の姿をがかけた。親の一人はTに会釈をして校舎へと進んで行った。Tは会釈を返さず教室へと向かった。Tが教室へと入ると生徒たちが何やら製作を行っていた。図工の授業なのか美術の授業なのかTには分からなかった。ただTの他には親一人と居なかった。黒板の方を見ると教師も居ない。Tは授業参観が行われている教室を間違えたのか、それともモグラ上司が間違った時間帯を教えたのかと疑問に思った。Tは教室の外に出ようと思って扉を開けようとした。しかし扉は一つの大岩の様に頑として動かない。ベランダの扉を開けようと思ってTはカーテンを捲った。すると、さっきまで晴れていた青空は消えていて、変わりに、一面の闇が広がっていた。闇には針で刺した、点という点の小さな白い穴が開いており、奇怪な風景であった。Tはこの不思議な状況に心臓が唸った。それで、教室でモクモクと作業を続ける生徒たちに寄って行く。この異常を問いてみたかったからである。しかし誰かがTの肩を叩いた。振り向くとアヒルが愉しそうに笑っていた。アヒルは戸惑っているTを愉快そうに見ている。
 Tはそれで言った。「やぁ。何だかとても楽しそうに笑っているね。まるで僕を馬鹿にしている表情ともいえる。そうそう、僕は授業参観に来たんだ。或る心優しくて、忙しい会社の上司に頼まれてね。ところが、授業参観に来ている親たちは居ないし、おまけに教師も居ない。生徒たちはシステムが稼働開始したかの様に工作物の製作を続けている。一つ言えるのは僕が空間的な落とし穴。空間的な蜘蛛の巣に引っ掛かった様に思えるんだ。君はどう思うかな?」
 アヒルは鼻を触ってTの顔をジィーと見つめ、親指で前歯を擦った。アヒルはセーラー服を身に着けた女生徒で一ミリも身に覚えもない顔の少女であった。
「どう思うか? 興味をそそらない質問をするのね?」 
「なら、君がそそる質問とは何かい? 汚い貝をほじくり返して綺麗な真珠を見い出す質問なんてものは僕には出来ない。僕が出来るのはバッティングセンターのネット覆われた席に立って投入したコイン分の軟式が110キロの速度で迫って来るのを打ち返すことだ。当たり前だが、何度も空振りもする。バットに掠る程度のしか当たらない場合もある。でも何度か振ってれば一度くらいはミートする。それが僕みたいな凡人のやり方の質問なんだ」
「回りくどい事を言うのね」
「直球的に言うなら僕はこの場所から出たい。この場所が何だって構わない。それは僕にとってはどうでも良い。あと僕にはモグラ上司からの約束を守らなければならないんだ」
「モグラ上司? 貴方、モグラの上司が居るの?」
「ああそうだ。僕にはモグラの上司が居る。歩行の仕方がカツオ節が揺れる様に似ている。身長が低くスーツの色は毎日が茶色。それでスーツから顔を出すモグラみたいなんだ。序に手がグローブみたいに大きい。何かを掻き分けるには最適な筈だ」
「ふうん」とアヒルは興味をそそらない様に言った。アヒルは椅子を引いて座って脚を組んで話し始める。「良い事? ある種の答えを貴方に言うとミカンの中にリンゴの成分が混じる事なんてないじゃない? 故意にそれを行なわないならね。でも貴方は混じった。酸素のない地の上で、生物が歌って生きる事は出来ないわね。良い? 此処は貴方が住む重力の十分の一の世界なの。勝手に入っこないでくれるかしら」
 Tは呆れた表情になって「勘弁してくれ。僕は何も望んでこんな場所に来たんじゃないんだぜ? ハッキリ言わせてもらうが此処はどうも、かび臭いし、陰気臭い、僕には合わないね。小さいんだよ君の住んでいる惑星は、生徒数が三十八名程度と机と椅子。僕には合わない」
「なら貴方の素晴らしいモノって何?」
 カーテンの向こう側から昔、フィクション映画で聞いた事が或る雄叫びが突如として鳴った。それと同時に巨大な鱗がびっしりと付いた腕が教室の窓を叩き割った。それは名前も知らない恐竜の腕だった。Tは生徒たちの安否を確認してその方向を見たが、規則正しい生徒たちは何時の間にか消えていた。最初から居なかったと思えた程、灰の残りカスさえも残さず。そこには居なかった。崩壊したベランダの方向を見ようと目を凝らすが視界を奪われる。匂いがした。甘い匂いで直感的にアヒルの少女が僕の瞼を覆ったと思った。声がTの耳元で囁いた。陶器を指で撫でた音みたいな声だった。「とても卑怯で、インチキで、横暴ですね。貴方の惑星は」

 次にTの瞼に光が入ると同じ位置に立って居た。親共のざわめきと教師の解説の声。生徒たちが教科書を開いてシャープペンシルを動かし、ノートに一生懸命に図形と数式を書いていた。うたた寝だろうか? Tは不可解な夢を見ていたと解釈した。でなければ、あれは一体なんだと言うのだろうか。Tは取りあえずモグラ上司の娘を探そうと思った。だが中々モグラ上司の娘は見つけきれない。そうするうちにTは一人の少女がA4用紙の紙切れに丸っこいペンで恐竜の腕を描いているのを見つけた。

A4用紙よりも小さな惑星

A4用紙よりも小さな惑星

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-28

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