金魚

プロローグ

 なんで、昼下がりはこんなにも光りが透明なのだろう……。
 あたし、ずっと、ガラステーブルの下に仰向け。
 移ろう視線は金魚を捉える。
 尾をひらめかせて、身を返すその美しい金魚は、大振の鉢に三尾泳ぐ東錦。
 それは透明テーブルに置かれたガラスの金魚鉢。
「だから あたしも 泳いでるの
 忘れたふりして 貴女去ってった姿
 その尾で優雅に 掻き消すように
 気泡でそっと 包み込むよに
 だから 貴女も 泳いでるの
 帰ったふりして あたし残ったここで」
 泣き嗄れた声よ。突如、前触れも無しに恋に破れた。頬は涙を流しすぎて痛いのよ。
 この拙い歌もそのまま金魚が食べてくれたらいいのに。それで翌日排泄されれば掃除しておしまい。
 そんな都合良くいかない。既に終った恋心は、金魚のお腹で完全消化されてしまったことでしょう。
 そして体内を巡って、気泡の唱歌を聴かせるんだ。あたしに。『もう終ったのね……』と何度も呟いて、慰めてくれるような金魚の舞い。
 テーブルの下、床にずっと転がっているあたしは、きっと今に金魚にも呆れられるでしょう。金魚は彼女のだから。
 彼女が別れを告げて部屋を出て行った二日前。世界が三色金魚のように点滅するような眩暈を覚えた。白、黒、紅色、三尾の丸い体に描かれた模様は恋模様のキャンバス。どう足掻いたって一色には収まらない複雑な心境と同調した。
 白だけなら二人の世界。黒だけならうすら悲しい失恋の世界。紅ければ声を出して泣き崩れた一人っきりの世界。紅と黒、似てる。それは、混ざり合ったらいけない感情になる。
 だから、水を漂う金魚達がなんとも羨ましく映ったの。
 だから、こうやってずっと眺めつづける。
 今や、三色の想いに親近感を覚えて見つめ続けた金魚の姿は、落ち着いてくれば癒しを与えてくれるもの。
 頬の上を、顔の上を、金魚の影は滑っていく。閉じた瞼に、唇に、撫でるように滑ってゆくのだろう。それはあたしが彼女の手腕に、耳たぶにふれた指と同じ。
 目を綴じて、ひりひりする頬に手の甲を当てた。冷たく濡れる手の甲は、いつしか他の誰かがあたためてくれるのだろうか。
 揺らめく金魚。彼等だけがあたしの心と共に踊ってくれてると思えば、今は寂しくはないかもしれない。
コンコン
 あたしは部屋のドアを見た。
「カナエ」
 澄んだ声。
「え……」
 愛しい、声。
 あたしは肘をついて、危うく天板に打ちそうになった頭を下げた。だから、まるで何かに狙いを定める格好になっていた。
 ドアが開けられて、彼女が姿を現した。
「ナミコ」
 彼女は罰が悪そうにあたしを見て、いつもの下駄を脱いでやって来た。
 あたしはテーブル下から出て来てナミコに抱きついていた。泣き顔なんかとうに互いが見慣れていたから、どんなに泣きはらしていても構わない。辛い事があるとあたし、いつも泣いてた。ナミコは一緒になって泣いてくれる人だった。ナミコの紅い耳を見て、あたしはまだ彼女の気持ちがここにあると期待した。なのに、ナミコは全てを無かった事にするかのように抱擁するあたしの腕を掴んで、引き剥がして来る。
「いやよ」
 あたしは首を横に振って、ナミコがロングヘアを揺らして顔を見て来た。
「戻って来たんじゃないの。金魚……よ」
「何故? あたしだって連れてって」
 ナミコは巾着からビニール袋を出して、水と金魚を移してしまう。
 あたしはそれを視線を揺らし見た。この唇をふるふると戦慄かせながら。
 ぽた、ぽた、と白い手から、透明のビニールから光りを伴って滴る水滴が、あたしの心の涙みたいにテーブルを塗らす。さっきまで見上げてたガラス面に。手馴れたナミコがタオルで吸い取る。ナミコは涙なんて流さないのに。あたしの涙を拭ってなんかくれないのに。
そして残りの一尾も掬おうとする。
「だめ、駄目よ。ナミコとの記念なのに」
 三尾目も入れてしまったそのレトロな帯の結われる背を見て、ふと、湿ったタオルに目を移した。
「………」
 あたしは背後から、タオルでナミコの口を覆っていた。あたしの腕にじゅわっと水が流れて冷たさにビクッと震えたけれど。
「!」
 ナミコがビニール袋を持ったまま、抵抗する。
 なんで?
 金魚の入った袋はナミコの着物の袖元にずれて、白い腕に食い込む。背後のあたしの腕に手を回して引っ掻いてきた。
 なんで、そんなに逃げようとするの?
 理由も言わずに「別れたいの」だなんて言わなければ、こんなにはしなかった……。しなかったわ。
 そうよ、しなかったのに!
「う、うう……っ」
 あたしはあまりにも悔しかった。悲しみが強まって、行き場がなくなると怒りになってしまうのだわ。怒りで歯を噛み締めていた。怒り、悲しみ、怒り……そして残った深い悲しみは、あたしの瞳から熱い涙を流させる。
 しばらくして、ゆるゆると手が下がる。ナミコの腕に掛かった金魚の袋を、あたしの指に引っ掛けて、それで力を失ったナミコは長い髪を引き連れたままあたしの胴を崩れて行った。左右にしどけなく崩れて行く足袋の爪先。その態は美しくも、色香を感じて……。

 「ええ。だから、ナミコさんのご家族にはなんと言えばいいか」
 私は妹のカナエの様子を小窓越しに見ながら連絡を取っていた。
 一ヶ月前から連絡が取れなくなっていたけれど、私がカナエの部屋を訪れる為にエレベータを降りるとすぐに異常に気付いた。
 カナエのいた階は他に誰も利用者がいなかったし、エレベータ式で上がる場所。誰かが通るわけではない。
 それで、発見に遅れたことになる。
 ハンカチで口を覆って、鍵をあけて進むと、異臭は人の型をしていた。
 宵の室内。まだ開けられたカーテンから外の薄明かりが広がる室内。変色した人、それは黒い髪が長々とした人だった。
 テーブルの下に、痩せ細って動かないカナエがいた。
 金魚だけが、活き活きしていた。
 ぎょろついた目をするカナエは何かを歌っていた。しゃがれ声で、金魚だけ見ながら。周りは金魚の餌袋だらけ。
 震え続けていた私の足は、とうとう耐え切れずにガタガタ震えた。そして、妹から視線をしっかりと横たわる人に移した。
『だから ふたりで 泳いでるの
 忘れたふりして 貴女笑った姿
 その尾で優雅に 包み込むよに
 気泡でそっと 包み込むよに
 だから あたしも 笑ってるの
 笑ったふりして あたし笑ったここで』
 生きた声だけのカナエ。形容しがたい人の横で、手だけを繋いで。
 耐え切れずに部屋を出た私は全てを口から出していた。しばらくその場に膝を着いたまま動けなかった。それで、しばらくして警察に連絡をした。
 極度の栄養失調のカナエは、胃には金魚の餌しか入っていなかったらしいことが検査で分かった。今は病室で金魚の縫い包みを抱えてずっとゆらめくカーテンを目で追いながらあの歌を歌いつづけている。まるでそのカーテンが金魚の尾かのように。
 カーテンが金魚に見えるというの? 金魚とナミコさんと踊っている夢でも見ているの?
 ナミコさんのご家族は随分離れた県に住んでいて、連絡は大して取り合っていなかったみたい。カナエとはバイト先の料理店で知り合って、そこから付き合いだした。
 カナエもここには実家から離れた県に一人暮らしをしていたから、たまに私とは行き来しあって姉妹でショッピングやカフェでお茶をする程度だった。だから、二ヶ月連絡が無い事は割とあった。けれど、私が一度でも連絡をすればその日の内に返信が来るのがカナエだった。
 一ヶ月間は私もあれこれと忙しくて。
 ナミコさんから以前聞いていたご両親。なんと言えばいいのか分からない。カフェで美しく微笑んだナミコさん。
 けれど、ナミコさんのスマホには自宅連絡先が無かった。
 それで、今は警察の人が本籍を調べてくれている。免許も持っていなかったし、履歴書のナミコさんの住所はカナエのマンションから二駅離れたマンションだったから。そこから付き合いだしてカナエの部屋で暮らしていた。

 「おかしいなあ」
 俺は殺人課のパソコンの前で唸った。
 やはり先日遺体で発見されたナミコという少女の身元は分からず仕舞い、全てデタラメ。以前住んでいたマンションを借りるときの住所もデタラメだった。それに、仮名だったのだろう、阿咲ナミコという名前で調べても実在しない。
 指紋など既に取れる状態では無いが、部屋に残っていた指紋は二種類だった。その片方で調べても犯歴は無い。綺麗な歯型は治療の痕は一つも無く、医者がよいしていた記録もなさそうだ。薬も一切見つからなかった。保険証も持っていないようだった。料理店でもバイトは社会保険では無かったらしい。でも、何か病気で阿咲ナミコが休んだりしたことも無い。
 奈美子、浪子、那美子、波子、なみこ、何にもヒットしないまま、今は毛髪をDNA検査に出していた。簡易的な検査では薬物反応は無く、やはり何らかの薬の常用も見られない。栄養素は健康的だった。一ヶ月前までは。
 共に、気が触れている相加カナエも毛髪や血中から薬物反応は無い。
「愛情の縺れってやつは怖いね。若い女の子同士なんていうのは全く」
 先輩刑事が電子ファイルを流し見ながら顔を歪める。ナミコは生前相当の美形女子で、カナエも健康だった頃の写真では可愛い子だ。料理店でもそれは見栄えがしただろう。その二人の恋仲というのは、どこか儚げにも思える。
「じゃあ、俺等は生前の写真を手がかりに身元捜索だ」
「ええ。行方不明届けもこの顔ではヒットしませんでしたからね」
 一体この子はどこの誰だったのやら。
 まずはナミコが言っていたという出身県に行くことにする。その街の名前が本当ならの話だが、いろいろデタラメだから期待は出来ない。
 車両を降りて小さな街を見渡す。被疑者の姉からの聞き込みでは、〇〇市××町にある▽▽公園で子供時代から遊んでいたという。その周辺から聞き込みだが、やはり住所録を調べてもこの一帯に過去と現在、阿咲姓は住んでいない一軒家ばかりだ。
 だが、この辺りには大きなバスターミナルがあり、方々からこの大きな緑地公園に家族連れや子供が来ている。駐車場も設けられており、県外ナンバーも見られる。
 やはり写真で聞き込みをしてもヒットせずに、この地区の学校を一通り回っても卒業生にはヒットしなかった。
 俺達は公園のベンチに座って電子ファイルの少女を睨むように見た。綺麗な子だ。純和風にして二重、上品な唇が紅い。
 きっと、和装で金魚でも提げていれば、様になっていただろう……あの、例の金魚……。
「……?」
 俺はふと顔を上げて、林の先に見える小屋を見た。横の池から水車が回っているのだが、蕎麦屋か何かだろうと思っていた。周りは何人か人が行き来している。山の紅葉を映す池も奥と手前にアシが生える河が繋がり水流があるのだろう。何種類課の水鳥がいた。
「行ってみましょう」
「茶屋か」
「分かりませんが、なんとなく」
 俺達は歩いて行った。
 林は奥は常緑樹らしく鬱蒼として、手前は広葉樹林で明るい。その内に小屋はあった。
 俺達が入って行くと、そこは茶屋や蕎麦屋では無いと分かった。
 水車が巻き上げる水路が屋内を回っている。そして、各水筒が大きさや形もそれぞれに設置され、綺麗だった。模様障子を一部張られたもの、建具先のもの、それらはまさに……。
「金魚だ」
「ええ」
 子供や大人もそれを鑑賞している。古民家を移築して再生したのか、実に洒落ている。
 俺は三色の金魚のいる水槽前に来た。
 先輩刑事がスタッフに聞く。
「ここのは販売してる?」
「ああ、この子達はここでは売ってません」
「養殖もして?」
「ええ。森の奥ですが」
 先輩が俺を見て、俺は頷いて電子ファイルを見せる。
「彼女はこの店に来ましたか」
「………。アミコ。場字アミコですか?」
 スタッフは言い、先輩を見て続けた。
「二ヶ月だけいましたよ。去年ですけれど、森の方から現れて、店に入って来てしばらく見回すと、声を掛けて来たんです。ここで働けますかって。それで、人手にも困っていた頃だしすぐに雇って、その時は綺麗な子だし店に出そうと思っていたのに、彼女自身は養殖の方をやりたがって裏方ばかり」
「履歴書は?」
「いいえ。住み込みのようなものだったので。始め森のハイキングコース方面から現れた以外では養殖所の二階にある住居で共に暮らしていました」
「彼女、他の街で阿咲ナミコと名乗ってたんだが、誰か他の人間を連れてこの店に来たことは」
「いいえ。去年の夏辺りに三匹可愛がっていた金魚を連れて、他に移ってからは一度も見かけません。家族の話もしなかったから、地元も知らないし」
 俺達は金魚を眺める。長く綺麗な尾を棚引かせて、友禅かのようだ。
 養殖所はやはり古い民家をリフォームした小洒落たつくりをしていた。周りに何箇所か蜜蜂用の箱があり、蜜蜂養殖所。と書かれている。それに尾がとても長い鶏も高い場所に停まっていた。いろいろとやっているようで、錦鯉もいる。
 玄関から入ると、綺麗なビードロが色とりどりで並んでいた。
 一階部分の土間は金魚の養殖所だ。何人もの若者がいる。
 先ほど川が背後を流れていたが、そこから水を循環させているらしい。
 思いもかけぬほど幻想的な場所で、巨大な筒型の水槽があったり、水路が張り巡らされて泳いでいる。平面の水槽もあったし、巨大なシャーレのような水槽も目の高さにあり、通路の上や下から様子が見れるようになっていた。
「これは圧巻だな」
 俺はしばらく見惚れた。踊るような金魚達を。
「え、」
 俺は目を疑って、大振の筒型水槽を目をこすって見た。
 さっき、黒髪を翻させて、阿咲ナミコが金魚達と共に泳いでる姿を錯覚した。
 だが、その向こうから女の子が現れて、見間違えたのだと思う。
 その子は普通に餌袋を抱えて他の若者の所に行って共に会話をしながらカップに餌を分け始める。
「……」
 ナミコは金魚だったのか? ここで生まれて、愛を探しにあの街まで泳いできた、正体不明の美しい少女。

 俺達は一時街に戻り、へんてこな結果をDNA鑑定士から聞いた。
「人のDNAじゃ無い?」
「まさか金魚か?」
 俺の横で先輩が口許を笑わせた。DNA鑑定士が言った。
「それだよ」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
 丁度ドアから入って来た警部補も言った。
「金魚」
 俺達はその結果をまじまじ見た。

 「東錦……」
 やっと反応したカナエは、金魚のぬいぐるみを抱えたまま、病院の芝生に座っていた。
東錦が大量に飼育されている巨大な水槽は、刑事さん達がナミコさんの故郷と思われる街のとある場所で撮影したという。
「ナミコ」
 写真をいきなり手に取って微笑む。目が危険な程光っていて、すぐに顔を覗き込んだ。栄養失調と筋力低下で顔が青い。だから膝に乗せた丸々太った朱色の金魚のと対比が病的で心配だった。
 ずっと歌っているから、唇なんかはかさかさになって、舌にも何か食べさせるとはじめはスプーンがくっつきかけて危なかった。まさかずっと、金魚の餌で生きてたのだから。
「ナミコ」
 夢見るように写真を抱える。
「ナミコさんの三尾の東錦は、私の部屋で元気よ。近所に熱帯魚屋さんがいてよかった。いろいろと難しい事を分かり易く教えてくれていたの」
 あのとき、暗がりで水槽だけが鮮やかに美しく光っていた。カナエは自分で箱から餌を掴み食べて、金魚にも餌を与えて、時々トイレに行く以外は動かなかったようだった。
 そして、ナミコさんは……。着物鮮やかに、髪もしなやかに、彼女自身だけが肉塊と化していた。腐敗の様相は、思い出したくないし、あの匂いはまだ鼻腔にこびりついて、あれから私は毎日アロマオイルをハンカチにたらしてかいでいる。
「カナエ」
「ナミコ」
 写真を見て金魚をナミコさんに例えているのか、それとも写真にはナミコさんが見えるのか、分からない。そこにはスタッフだという人間は映っていない。
「ね。あなた、ナミコさんから聞いていなかった? 彼女自身と金魚のこと」
「ナミコ」
 ずっと今度は歌の変わりにナミコしか言わなくなってしまった。
 私は髪を撫でてから、立ち上がった。遠く、ケヤキの木の横に刑事がいる。
 そちらへ歩いた。
「DNAが?」
 私は瞬きを繰り返した。
「金魚と、ナミコさんがですか?」
「はい。似ているのでは無く、同じだったんです。それに、僕等経験してるから分かるんですが、ナミコさんを発見した時のにおいは、人のそれとは異なっていた。もっと生臭くて、違った匂いだったんですよ。なんとも言えないものだったのは同じですが」
「魚の腐ったにおいだったとでも?」
「まあ、それでしょうね。解剖結果も、骨が継ぎ合わさっていて、魚のような骨だったんです」
「そんなばかな」
 人魚ならぬ、金魚女だったのだと?
 カナエを振り向く。同じく精神病棟の服は前合わせの白い長衣で、その下にゆるいズボンをはいている。今はカナエが出ているだけで、窓からは興味深げに笑って窓に張りつく患者や、ずっとくるくる廻っている患者、ベッドで動かずに布切れになっているような患者や、出歩いて椅子に座ったり立ったりしている患者がいる。
「僕等も異例の自体に驚いています。もう少しナミコさんの過去を調べてみますが、状態がよければ妹さんにも聞きたい」
「ナミコさんの名前をつぶやくばかりで」
「そうですか……」
 金魚を抱えて、丸まり転がって眩しい芝生の上で眠り始めたカナエを見た。

 私達は刑事さんから聞いた場所に、カナエを連れて来ていた。私服の婦警さんもついていた。
 腐敗が激しすぎて、ナミコさんの死因は謎のままだ。鍵が掛かっていたから外部から誰かが来たわけでも無いし、発作があったのかも不明だ。ただ、カナエは起きた事がショック過ぎて記憶を失っている状態で発見されたとされている。
 それでも、金魚に餌を与え、自分もスナックのように餌を食べていたから、記憶喪失か、それとも最低限のことしか出来ない幼児返りに陥っていたのか。あんなに仲が良かった二人がもめあう理由も無い。
「悲しかったでしょうに、カナエ。ナミコさんのことが分かればいいんだけれど」
 車を降りて、カナエを連れて行く。すぐに疲れるので、公園にはベンチが置かれていて助かった。
 カナエは少し歩くと、白くなってすぐにベンチに座った。それでしばらくしてまた歩き出す。
「話では、この奥の湖の先に水車小屋があるというの」
 女刑事は言う。本当にどこかで服を買おうとしている街人のようで、刑事だなんて思えなかった。けれど、一瞬でまとう何かのオーラは覗かせることもあった。
 カナエのリハビリも兼ねて歩かせると、しばらくして湖が見えて来る。緑が多い公園は、山々や森を背景に、自然の一部だった。
「……ああ、ちえさん」
 緑揺れる風景に映える風車を見ると、カナエが人の名前をつぶやいた。
「ちえって、誰?」
「ねえ、タカエさん。ちえさんをご紹介します」
「え?」
 カナエを見て私は驚いた。ナミコさんの口調で、カナエが私を名前で呼んだなんて、初めてだったから。いつも姉さんと呼んで来ていたのに。
「川野ちえは、ナミコさんが働いていた場所の人です。水車小屋が高級金魚を扱っているお店で、そこの店長だと」
「あなた、誰? 何故、知っているの?」
 カナエが女刑事、舞さんを見て、その時頭痛を抱えたように頭に手を当て背を倒した。そんなカナエの肩を持って覗き見た。
「大丈夫?」
「カナエ、……ああ、ナみ、……こ、あずま、」
 すぐそこのベンチに座らせる。頬が冷たい。真っ青だ。腕をさすった。
 発見当時から伸ばしっぱなしの髪。ずっと綺麗なボッブヘアを貫いていたカナエは、目元だけ前髪から覗いていつも光っていた。それが、肩につくまで伸びて発見された。また少し伸びて来ていて、前髪の無いカナエは、思った以上思慮深い顔をした大人になっていた。今は頬もこけているからかもしれない。発見時よりは丸くなっている。
「駄目よ、もう、泳げないわ、私は、だから、離れたの」
「カナエ」
 まるで、ナミコさんが乗り移っているみたい。
「……ねえ。ナミコさん」
 私は舞さんを見上げた。舞さんは私を視線だけで見て、続ける。
「ここで、あなた何があったの?」
「私は、ここで……」
 カナエは湖を見て固まったまま、手を固まらせている。頭を抑えていた手を。
「石碑を、山の、入り口の」
 そこでカナエがふっと意識が途絶え、私は支えて頭を抱いた。

 「ええ。ハイキングコースには石碑があります。古いもので、苔も蒸していて、後で行ってみるといいわ」
「はい」
 美しいお店には金魚が泳いでいて、その店長、ちえさんは写真で見た養殖所の古民家に連れて来てくれた。カナエはその端のベンチで横にさせてもらっている。男のスタッフが運んでくれた。
「この水槽の金魚は、珍しいんですか?」
「東錦は昭和初期に交配が成功した品種だったんですけれど、オランダ獅子頭と三色出目金を掛け合わされた金魚だよ。紅い肉瘤が綺麗なのばかりだろう? 餌のたんぱく質も脂質の瘤に回る様に考えてるんだ」
 それだから金魚の餌だけでカナエは大丈夫だったのだろうか。しばらくはずっと藻のにおいがきつかった。
「ううん……」
 時々寝返るけれど、カナエは眠ったままだった。
 私は首を傾げて、先ほど「タカエさん」と言った言葉や、刑事さんから聞いたナミコさんと東錦のDNAの一致についてを思い返していた。そして、水槽をただ餌を食べるとき以外は悠々と泳いでいた、東錦の姿を。
「まさか」
「どうかしたか?」
 スタッフが餌のバケツを持ちながら、私を見た。
 既に部屋で発見された時はカナエはナミコさんでもあって、東錦でもあったから、金魚の餌を食べつづけていたというの? カナエであって、金魚であって、ナミコさんであって、あの閉ざされた部屋という水槽で、ただただ漂い生きていたカナエと、東錦たち。
 カナエではなくなって、金魚になって。
「石碑って……」
 カナエを見ながら、呟いていた。
「何の石碑なんですか?」
 スタッフを見ると、ちえさんが言った。
「慰霊のためらしいです。昔、多くの女子供が山を登った村から花街や奉公に売り出されていたそうで、それ毎にその村娘達は金魚の装いのように着飾って、湖を舟で渡っていったそうです。その時、変わりに金魚を村娘の分だけもらってきていたらしいのですが、その金魚も寿命が来たらそれを売った娘達と思って埋めて、そこに石碑が立ったのだと。村娘達は二度と村の故郷に帰ることは許されなかったのだと」
「その村は今は?」
「いいえ。もうすでにありません。しかし、昔から金魚に関しては歴史がありましたから、ここはその名残でもあって、最後の村人が山から降りて来た時に金魚養殖を続けたのだそうです。それが元々は水車のある小屋の場所だったのですが、代が何度か変わるごとに森へ来たり、建て替えたりと。今はその古民家を養殖所にして、水車小屋のほうをお店にしたのですが。ただ、私はその村の関係者の末裔ではないので、資料を見た限りの話しかわかりません」
 舞さんが金魚達を見回すと、私に言う。
「カナエさんが目を覚ましたら、やっぱり向うべきね」
「はい。でも、何故東錦なのかしら。だって、昭和になって掛け合わされたんでしょう」
「場所が重要なのかも」
 舞さん自身もDNAの件を信じられずにいる。もし、金魚塚からナミコさんの魂が生まれて、人となってカナエと出会ったのだとしたら、何故カナエと出会ったのか、養殖所から町へ降りて来たのか。それは、村娘達同様に出稼ぎに出ることが彼女達の存在意義だったからなのかしら。
「金魚……」
 カナエを振り向くと、起き上がっていた。
「起きたのね」
 顔を覗き込むと、幾分顔色が良くなっていた。
「石碑があるところ、行きましょう」
 名前は呼ばなかった。どちらなのか分からなくて。

 ハイキングコースは、緑が鮮やかだ。平坦な路で、どこまでも森が続く。不思議とカナエは森に入ると速足になって、それまでとは違って森を見回しながらずんずん歩いて行く。まるで路が分かるかの様に、何度か分かれ道があってもすんなりとためらわなかった。
「タカエさん」
 カナエが指し示した先に、大きな石があった。
 そこは大きな木の間に石が飲み込まれそうな勢いで、そしてその横に大きな湖が広がっている。山に囲まれた湖は、公園の湖とはまた違って、遠くには緑の山から滝も注いでいた。
 縦長の石は、苔がやはり蒸している。文字は古い文字で難しい。
「こっちよ」
 ふらふらとカナエが歩いて行く。湖では無い、路が続くほう。舞さんも歩く。まさか山を登るなんて思わなくて、靴のセレクトに多少後悔した。カナエはどんどん歩いて行く。何度か路を曲がって、滝の裏側を通って、それでまた上がって行く。木々が深い。
 いきなり、視界が開けた。私はぜえぜえ息をして汗を拭う。
「……野原」
 山に囲まれた開けた場所。岩が所々ごつごつしていて、そして特徴的な石と大木があった。石碑を包んでいた木と同じ種類。古めかしい石は、石碑とまではいかなくても、それらしかった。
「村が……あった場所?」
 カナエは頷き、風に吹かれた。
「カナエと別れなければならなくなって、最後はここに来たかったの」
「……え?」
 私は風に翻るカナエの髪を見た。
「私たち金魚は、人より寿命が短いの。だから、ここで生まれて、摂理のままに村を出て、町に売られて、金魚となって帰って来る……ここで、魂が眠るために」
 木を見上げた。
「木も長生きよ……。人よりも長生き。ここで、いろいろ見守って来てくれた」
 木の幹に触れて見上げるカナエ……今は、ナミコさんであって、金魚たちに乗り移った村娘達の魂なのね。彼女は、微笑んでいた。
「帰ってこれた……本当は、カナエと、別れること、辛かった、けれど……」
 声が途切れ途切れになって行く。
「けれど、もう、分かったの。カナエの横で最後にいれたなら、いいかと……愛していたから」
 幹に手を当てたまま、頬を当てて髪を引き連れてカナエの体がずるずると幹に寄りかかり下がって行く。
「楽しかった……意地悪な下郎もいなかった……カナエは優しかった……遊女にあたる男達なんか目じゃないぐらいに、綺麗だった……何も痛いこと、してこなかった……カナエが好きだった……恐い旦那様に木刀で殴られることも無かった……カナエといれて幸せだった……井戸に連れてかれて脅されることも無かったし……逃げて下男が追ってくることも無かった……カナエの柔らかい笑顔だけが……私たちの……望みだった」
 いきなり、糸が切れたようにふつっと倒れて私はカナエの体を背から支えた。舞さんがすぐに確認すると、大丈夫と言った。
「……眠っているわ」
 舞さんが言い、私はカナエの体を強く抱きしめた。

 カナエはあの後、正気を取り戻した。
 いきなり自供しはじめたから私は驚いてしまって。
 カナエがナミコさんに手をかけたんだって、言った。別れ話をいきなり切出されて、理由も教えてもらえずに、ついカッとなって、悲しくて、別れたくなかったんだと。
 刑事さんはその展開に、頭を抱えていた。
 確実に人の形をしていた検死体は、だんだんと日を追う毎に小さくなって行って、最後には小さな金魚のなきがらだけが残っていたのだと。
 カナエは罪を償いたいと言って、異例の状態で逮捕をどういう形ですべきかを法律上で検事が調べているらしい。写真には証拠となる写真も、物的証拠だというタオルもある。
 私はそれらのことを、あまりに現実離れしていて、どう受け止めていいのか分からずにいた。
 カナエは、至極冷静に受け答えを続けている……。

エピローグ

ゆらゆら
ゆらゆら揺れる
カナエという
水槽で私たちの魂は
ゆらゆら揺れるの

緑の木漏れ日受けるよに
その尾を翻すよにして……
カナエとずっと
一緒にゆれる
つらいことなど無い世界で
ゆらゆら
カナエのものに
なれたから

金魚

金魚

数年前のライトノベル研究所での重複作品。不可思議な正体不明の少女は一体何者だったのか。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. エピローグ