人形島

第1話「不気味な島」 ジェラールは不気味な現象を起こすという島にやってくる
第2話「青い石の島」 友人が住む島に呼ばれたジェラールは島の探検に出る
第3話「鏡の泉」 ルクサールと共に宴に呼ばれた先で貴婦人から不思議な泉の話を聞く
第4話「幻の声」 人形博物館に招待されたダルクール夫妻。彼らは人形を手土産に贈られた
第5話「呪いの人形」 国王に呼ばれたジェラールは呪いの人形の真相を調べに向かう
第6話「子供の罠」 罪の無い子供のすることにジェラールは苦笑い
第7話「人形」 ジェラールとルクサールの15歳の息子ジルベールは美しい人形で空想を描き過ぎた

第一話 「不気味な島」

 髪で目元の隠れた一人の女が擦り切れたドレスの裾を引きずりながら歩いていた。
「ダリタリ…… タリタリ…… ララララ……」
 ふらふらとして、その嗄れた声の口元はそれでもまだ若いお嬢さんの風もある。
 手に提げるのはボタンを目にした古めかしい女の子の人形で、やはり綿は飛び出し布地はちぎれ微笑んでいるけれど哀しそうな顔もしている。
「シルヴィー様……。シルヴィー様」
 木霊の様に響く声は流れ始めた霧にこもるようで、柔らかな草地に裸足をぬらし歩く。白煙る霧に兎が跳ねて気配をさぐると、大木や木々の向こうから聞こえる動物たちの鳴き声に耳を動かし走って行った。女は蔦の這うかのように歩いていく。
 時々空から聞こえる音。巨大な金属かクリスタルが風に煽られ音を立てる。ゴオンと鳴ったり、チリリリリと高く鳴動したり、ボオン、リーンと美しい音をそれぞれが立てるのだ。
「木の神
 魂
 森の神」
 女は首をのけぞり回転させ髪が流れて行き、包帯で片方覆われた目元が覗いて閉ざされた片方の目のまつげが震えた。
 その場にふらりと立ち止まり、目を開く。瞳には森が映り、ぼうっと見つめては、ふと笑った。

 霧蒸せる深い森は続き、様々な生命たちをはぐくむ。薄暗い先を行くと、少し開けた場所に石でできたルネサンス様式の城が現れる。随分と古い時代に建てられたその城は今はひっそりとした歴史を秘めている。
 枝垂れる木々の先に現れるそれは威厳があり、まるで魂の集まる場所の様だった。
 白灰色の壁に暗い窓がぽっかりと浮かぶようで、そして灰水色の屋根にまで一部蔦が蔓延っている。
 その窓に近付くと、何体もの人形が見え、来るものをじっと見ているようだった。
 その城へと近付く馬車があった。蹄と車輪の音を引きつれ森から現れファサードへと流れ込む。
 御者がドアを開けると一人の紳士が降り立ち見上げた。
「………」
 よく確認すると窓の淵を埋め尽くすように飾られる人形。どれもが違う人形だがどれも同じ瞳をして思えた。
「これはこれは……。噂通りに気味の悪い」
 男は言うと白いグローブを外し意外に綺麗な指にはめられた指輪をいじり階段を上がっていった。
 ステッキで扉を叩く。背後の森は鬱蒼としていて、奥は闇を称えている。深い霧に閉ざされた今のこの島にいきなり現れるこの城こそが不思議に思えた。
 滑らかに扉が開けられ、一気に何かの空気が彼に押し寄せた。ステッキの手に力を入れ口を閉ざす。まるで保たれていた不動のものがあふれ出したように。
 黒いドレスの女が佇んでおり、暗い目元で男を見上げた。
「ロランス」
「これは公爵……よくいらっしゃいました」
 今にも微風にも負けてしまいそうな声で言い、奥へと引いていった。
「灯台はしっかりと機能しておりましたでしょうか? この時期は突如として濃霧に包まれます」
「ああ。波も静かなものだったよ」
 崩れそうな声の彼女に元気付けるように彼はしっかりと安定した声で言った。
「それはよろしゅうございました」
 ホールを見回す。蝋燭が各所から荘厳な構造を照らしつけるが、彼らの揺れる影が幽霊の様に彼ら自身に語りかけてくる風である。
「男爵から伺ったが、一層の不可解さを見せているようだね」
「ええ」
 暗黒がすぐ横に迫ってちょっとしたことで転がり込んでしまいそうなほど不安定な影が蠢いている。その陰はこの城の者達であり誰もが窓に見た人形達と同じ瞳に思えた。なので快活な顔立ちの紳士がいけにえにも思える。
「あの子が今は出ておりますので、そのうちに」
 元々この城は百五十年前からとある男爵の家系が所有し続けてきた。だが五十年ほど前から呪われた島として一時航路が絶たれ、ずっと何年間もひっそりと管理だけが続けられていた。
「その彼女がこの島へ移住してどれほどになるかな」
「はい。五年ほどになります」
 扉が開かれ、空間を進むと明かりが灯された。彼は座るように促され、窓から森を見る。違う方向の窓からは流れる霧の幻想的な古めかしい庭園が広がり、石造や蔦が見え隠れする。噴水は水気は無い。寂れた全ては時間が止まって思える。
 室内に飾られた絵画だけが、五十年前まで百年続いた素晴らしかった記憶を残しているようだった。優しげに微笑む貴婦人、城での楽しげな宴、緑の庭で遊ぶ子供達や子犬、乗馬をする勇ましい若者、楽器を楽しむ夫婦など、暗がりのなかでも活き活きと切り抜かれていた。
 この婦人は男爵夫人であり、二十五年前に見初められ婚姻を結んだ後に一人娘を授かったのだった。
「シルヴィーが七年前、突如として気を狂わせ頻繁にこの島のことを口走るようになり、数年前に私も共にこちらへ移り住むようになったことは夫からお聴きになったと存じます」
「ああ。若い娘が何故この呪われた島に引き寄せられるか彼自身が困惑の色を見せていたが」
「それまでを挨拶も叶わずに失礼をいたしました」
「いいや。理由も理由だったんだ。いろいろと大変だったことだろう」
「ええ……」
 彼女は静かに頷き、まぶたを伏せた。
 シルヴィーは元々とても恥ずかしがりやで可愛らしい少女だった。その記憶が強くいまだ生きたままだ。
 公爵は立ち上がり、窓際まで来ると掃きだし窓の周りには人形は置かれておらず、そちらまで行くと庭を見渡した。振り返ると、室内は暗がりで見えなかったが慣れた目に蝋燭の影に揺れる窓際の人形たちを認める。
「魂を吸収する人形たち……と伺ったが」
 霧の庭園を背後に公爵は言い、婦人ロランスは頷いた。
「公爵殿の目でどうか確かめてもらいたく思うのです。五十年もの間、この島は空気が彼らの呪縛により閉ざされたままと言っても過言ではなく、それを乱すものは悉く排除されてきたのです。シルヴィーがこの舘で生活し始めると気味の悪い現象は収まったと聞きましたが、それも嵐の前の静けさだったのでしょう」
 公爵は相槌を打ち、扉窓を開けて庭園へ出た。
 崩れた羽根をつける悪魔の石造は意地悪な顔をしており、茨と化した薔薇の磔にでもなっておもえる。悪魔でさえも魂の砦に捉えられたかのように。露が降りるその小さな薔薇は蔓となって今に公爵やこの屋敷の者達さえも雁字搦めにしようとする人形達の魂が宿って思えた。
「もう少し詳しく伺ってもいいかな。王が真相を聞きたがっている」
「はい」
 小さな窓際の下にはベンチが置かれており、その上には所狭しと人形が置かれている。婦人はそれをぼうっと見ながら頷いた。

 人形を手に女は土の出た場所まで来る。そこからは森の端から潮騒が響いた。
 その場所に来ると膝を付き座り込んで、土を爪をたてて掘り始める。片方嵌められたレースのロンググローブも土にまみれさせて。そして掘った穴に彼女は人形を置いた。
 口元は微笑み、首を傾げると髪から目元が暗く覗いた。重い土がかぶされていく。
「ららら……
 たらりり……
 らたたら……」
 まだ一部が覗いた状態で女は立ち上がり、裸足で歩いていった。ドレスは土がぽろぽろと落ち染まり、長い髪が揺れる。また彼女は少し歩いたところに座り込むと、土を掘り始めた。黒く泥に塗れた人形を引っ張り出し、それをうれしげに手にするとその細い足を持って歩いていった。
「人の魂……
 消え果て……
 彷徨うなら……
 宿を探し……」
 ドレスを着た人形を逆さに持ち歩き、流れる霧を行く。
 霧立ち込める海の臨む崖を横に歩き、岸壁を駆け上がる風が長い髪や裾を翻す。頭部からひらめく包帯もゆらして。湿った風は彼女を包む。優しく。
 島全体が、鎮魂の彼女を。


 「それまではこの島は五十年間、城を乗っ取ろうとしたり島に押し込んできたりする輩が変死したり病になる状態で排除され続け、それ以外では静寂が保たれてきました。なかには使用人達でさえ森に迷い込み二度と帰ってこなかったり、洞窟に迷い込んで帰らなかったりということもありました。それも全ては五十年前に起きた舘での秘密の儀式に起因します」
「秘密の儀式」
 婦人は室内の絵画を示した。それらの奥の奥、光りの届かない方向を指の先が流れて行き、そしてそちらを公爵も目で追った。
 小ぶりの絵画が飾られている。それは暗い目元をした男であり、その横には前主である男爵と息子であり現在の男爵の少年が記されていた。
「あの男は突如この島に現れ、多くの者達を生贄へと捧げた崇拝の教祖でした。この島は元は王族が手に入れるまでは彼らの神聖なる場所であり、その陣地を略奪されたのだと。なのでその土地に眠らされた魂を癒すためには同じ数だけの儀式が必要なのだと。その話を知らなかった前男爵はその男に儀式を開かせ、その男は契約を結ばせたと共に無理な条件を下しました。その癒されるべき魂と同じ数の生贄が必要になるのだと」
 婦人は人形の飾られた窓際へと進んだ。
 一体の人形を引き上げ、四肢と首を垂れる。
「五十年前、大量の犠牲者を出したその儀式の事実は報告を受けた王により闇に葬られ、前男爵は教祖と共に打ち首、少年だった夫は犠牲を免れましたが城の者や多くの貴族達は犠牲になり、一時その城を誰もが離れました。数年後、管理が続けられるさなかも城の事を知らないものたちや無法者は島を訪れ呪いに遭い、成人後に当主となった夫は島に戻り管理を引き継ぎました」
 婦人が顔を上げると、庭園の公爵を見た。今にも彼を暗がりが包み込みそうである。森へと迷わせて魂を栄養にするかのように。
「これらの人形は、いまや全て娘のものです」
 古めかしい人形達は空虚では収まらない目を向けていた。
「人形達には犠牲となった生贄たちの魂が浮遊された島全体から集められ、収められているのです」
 婦人の暗い目元はじっと公爵を窓際から見ている。人形達の様に。
「私は……男爵と婚姻を結ぶ前は母と二人で生きておりました」
 婦人は人形を細い腕に抱え、髪を撫で始めた。
「きっと、夫は少年の頃の思い出を脳裏に釘付けにされ続けていたのでしょう。それですから、尚の事私を見つけやすかったのだと思うのです」
 彼は彼女の言葉に首をかしげ、ロランスは俯き人形の髪を撫でながら、その横顔はあまりにも美しかった。
「もしかして……」
 ロランスは口を閉ざしたままで、公爵は暗がりの絵画を見た。恐ろしい事件を巻き起こした人物の絵画は、暗い目元が人形にも、ロランスにも重なったのだから。
「ロランス」
 彼は屋敷へ戻ることを躊躇い、暗い目元をあげた彼女は彼を見た。
「私はあの邪悪な教祖の娘です。五十年前、儀式の日に貴族の女は一人教祖により身ごもり、一斉に王族軍が城へ押し寄せた際に捕らえられた教祖達の姿を確認すると城から逃げていったのだと」
 ロランスは哀しい目で人形達を見た。
「私はこの島の初め民族の末裔であり、娘もその血を受け継いでおります。あの子は特異な自身の血を知らず、そして能力に自己をきっと抑えきれなかったのでしょう。そして、だから発狂せざるを得なかったのでしょう……それを私は身代わりになる事さえ適わずに。哀れな子……」
 やつれた顔は生気がどこかへ浮遊している。
「シルヴィーは末裔の犠牲となった魂を再び鎮める力があってこの島へ来ると、事実を悟り始めました。魂たちの声があの子には聞こえるのです。何があったのか、何が起きたのかを知って行ったのです」
「そのさなかに一体何が起きて」
 ロランスは立ち上がると、庭園の先、森を指した。彼は横目で森を見る。
 ゴオン、リリリリ……
 向こうから音が聞こえる。美しくも荘厳な。
「教祖はこの島の森の出口となる場所で儀式を行いました。その時に設えられたのは、支柱に吊るされた巨大な楽器で、銅やクリスタル、鈴などで出来上がったものです。最近、それが……」
 一気に強い風がいきなり吹き荒れ、音が島に響くと共に公爵は腕で顔を覆い庭園に膝を付いた。

 三体の魂が入った人形を下げた女は疾風に髪を乱し見上げ、包帯の裾が乱れ吹かれた。遥か頭上を見上げる。
 様々な音が鳴り響き、それは魂たちをこの場へと留まらせるための呪いの音なのだと誰もが恐れた。教祖は魂の開放を願ったのではなく、永遠の魂の定着による島奪還を目的としたのだと。呪いが掛けられた事により。
 霧が流れに流れて行き、うず高い支柱が見え始める。そして、まるで巨大な陰の様に頭上の霧の先に現れる。幾つもの吊るされた器。それが風に煽られ鈴の原理で音を鳴らしている。既に古ぼけて色あせた長い帯を幽玄に風にばたばたと靡かせながら現れた。
 晴れた時期には一切風にそよぎもしない大小種類様々な釣鐘の数々は、それは見事なものだった。緑さんざめく森や木々、果てには向こうの青い海を見渡す場所に立てられたそれは実に美しい。青空を背景にしてよく日時計の様に見つめながら何時間も過ごすことも、季節の花の薫りを風が乗せてきたり、潮騒を聞くこと、森の動物達の声を聴くこと。それらのできる素晴らしい島だ。
 だが今の時期は、儀式の開かれた季節。潜んでいた魂が安堵を願ってうねっている。それらの魂が巨大な塊になって鐘を鳴らし始めたというのか、末裔の彼女が来て漸く島で浮遊していたのを鎮魂され始めた頃から彼らが土へと帰化されることを願って彼女が人形を埋め始めて始まった現象だった。
 巨大な風が吹き荒れ鳴らすのだ。
 そうすると人形達は一気に声を潜めて黙り込む。誰もが人形でしかないかの様に。
 女は段々と霧の晴れ始めたなかを見上げ続けた。
「恐ろしい魂……
 それは幻でなく
 誰をも震わせ……
 私も震える」
 空が覗き初め、あの支柱から吊るされた楽器が見え始める。そして、黒い影となって、釣鐘に重なる巨大な何がしか……。こちらを見て、微笑んだ。
 彼女はふっと倒れて気を失った。

 「邪なものを感じるのだとあの子は言います。鐘が鳴らされるその時が。魂たちは一気に落ち着かなくなり惑っては人形の陰や森の神に加護を求め騒ぐのだと。事件後五十年間、鐘を鳴らすものはおりませんでした。故意には」
 どこかしら明るくなり始めた。音もなく霧は流れて行く。森の情景を現しながらも。
「あれらは取り付けた紐を数人がかりで引かないことには鳴る事はありません。その紐はすでに撤去され、そしてどんなに風が吹こうが動くような代物でも無い。それが、最近になって鳴り始めたのです。聴こえますでしょう……あれは、魂の唄でしょうか。無念の罪の無い魂たちの。それとも、もっと違う、他の何か……」
 ロランスは震えて顔を覆った。公爵は婦人のところへ駆けつけ肩を支え、目元が覗く。美しいオッドアイを。それは彼女の娘も同じだった。片方は水色だが、もう片方はよく分からない色味をしている。その事について娘のその片目はあまり視力がよくないらしく、暗闇では利くのだと聞いた。まさか、その娘の目には通常見え無いものが見えていたのかもしれない。
「邪なもの……それが雁字搦めにしようと足掻いて、天への路を分からなくさせようと鐘を鳴らしているのではと。音は方向性を失います。霧が晴れると鐘は止む。本当は誰がその鐘を鳴らしているのかなど、風かなのかなど、分からないのです。その場所へとお向かい願いたいのです。儀式の行われた場所へ……」
 公爵は教祖の絵画を見た。
「ええ。もちろん」
 彼らは馬車へ乗り込み、森を走らせていく。晴れ始めた霧を斜めに裂いた陽が幾重にも降り注ぐ。美しい森だ。生物の声も響き渡る。鳥も駆け巡った。
 森を進み、だんだんと風が強くなり始める。その先は海を臨む崖があるのだ。木々の間から、何かが見え始めたことに気づく。
「………」
 高く鬱蒼とした木々の森がだんだん出口へと差し掛かるごとに大きくなっていく。
 それは、巨大な太い柱だった。それがどれほどか立っているのだ。真っ直ぐではなく、半円の弧を描くかのような柱が。
「あれが……」
「はい」
 四本の弧を描く支柱に吊るされるものが見え始めた。それは、見事に様々な鐘だった。それらがそれぞれ鎖で繋ぎ吊るされている。支柱にはそれぞれうっすらと色味の残る布が長く垂れ下がり青い空と海を背景に棚引いている。まるでそれらの吊るされる鐘の数々は、宇宙の星を見上げているかのようだった。
 公爵はいきなりの婦人の叫び声に一気に顔を戻した。
「シルヴィーが!」
 馬車が停まったと共に婦人が駆け出して行ってしまい、彼もすぐに走って行った。
 支柱に囲まれた広場はそれらの楽器の陰が黒く降りている。その地面には幾つもの、無数の土盛がされていて、そこから小さな手が足、髪などが見え隠れして土に埋もれていた。それが人形達なのだと分かった。
 鐘の影になったところに、ロランスの娘シルヴィーが倒れていたのだ。真っ青な顔をして。
 彼らは駆けつけ、足元に三体の人形を落としたまま気絶するシルヴィーを抱き上げた。
「目を覚まして。シルヴィー」
 婦人が頬を撫で続け、公爵は驚きを隠せずにいた。シルヴィー。あまりに美しくなっていたのだ。包帯の嵌められた片目は母親と同じあまり色味のよく分からないほうの瞳で、やつれてはいるが極めて繊細な顔立ちだった。少女の頃はいたいけな風が強く、いつでも父の足元に隠れてははずかしそうにはにかんでいた。
 髪が風に煽られ、潮騒が響く。森の生物達の声も重なる。
「見えたのです……」
 シルヴィーが魘されながら顔をゆがめた。
「教祖が、巨大な教祖の陰が鐘を操って……あの教祖の魂はまだ同じく彷徨い続けていたのです。いいえ、いいえ。この島に残って彼らの魂を引き止めていたのです。音で偽物の宇宙を形作り、惑わせて天だと思わせようと」
 はらはらと涙をこぼしながら細い手が目元を覆う。
 そして瞳が片方開かれ、水色の瞳が空を見た。
「私がこの天へといける広場に人形の魂と身を供養するごとに、影は大きくなっていくのです。あの鐘を下ろさなければ、彼らは報われはしないでしょう……」
 シルヴィーは目を閉ざし、再び眠りへと落ちていった。
 公爵は支柱から吊るされた鐘の数々を見上げ、風の音を聴いた。あんなに鳴っていた鐘は、今の強い風が海から吹き荒れていても不動の態である。

 まだまだ人形達は埋められることを待っていた。屋敷は今は霧が晴れて陽に包まれている。その時でも、人形達の暗い目元は変わらない。
 シルヴィーの唇。それは薔薇の咲いたように甘く、今は硬く閉ざされていた。気絶から眠り続けている。

 百年前、静かなこの島は少ない民族が住む以外に人間はいずに、他の島との交流も無かった。そして民族内は儀式に生きていたらしく、それは生命を天へと繋げる血と肉の儀式であった。
 彼らの間には『ルブレダ』という色の瞳を持つものが稀に生まれたらしく、その瞳を持つものは神とあがめられ一族の長になってきた。それはロランスやシルヴィー受け継いだ片目のことだが、教祖は両目ともこの色だった。彼は不思議な魔力めいた雰囲気を持っていた。その彼が生まれたことで、彼らの一族は島奪還の計画に乗り出した。
 しかし、その彼らの儀式は邪なものでしかなかった。だから教祖は王から制裁を受けたのだった。
「我等は彼らの魂が安心を迎えたときに、この島を離れるつもりでおります」
 男爵は多くの下ろされていく鐘を見ながら公爵に言った。
「まさか妻や娘がこの島の末裔でもあったのだとは知る由もありませんでした。少年の頃の記憶はあの教祖の瞳の色までのものは残ってはおりませんでしたから」
 王に公爵から報告がいき、しばらくすると兵士達が島へ来て鐘の撤去が始まったのだった。
「今日もシルヴィーは人形達を島の土に埋めているのだな」
「はい……」
 彼は頷き、今はどのあたりでそれを行っているのか、あの覚束なげな娘の姿は見かけない。
「今に、動物達と自然と人形たちの島へとなるのでしょう……」
 暗い目元をした男爵は在りし日の記憶を蘇るごとに震えた。
 貴族達の悲鳴。悪魔共の儀式。教祖の打ち首にされたあの顔。父の墓。
 乗っ取ったものはただでは済まされない。
 そして殺人の罪は消えない。必ずや。

 シルヴィーは色褪せたドレスを引き釣り、ふらふらと歩いていた。
 ただただ魂の安静を求めてあげては、人形を土に埋めていく。
 今日も一つ、二人……土から人形の手や足が見え隠れ……。

第二話 「青い石の島」

 公爵はサファイアの様に深い色の海を進んでいた。
 心地よい風が全身に吹き、とてもすがすがしい。本国から二時間は海の上を船で進んでいる。
「しばらくすれば青の島に到着しますよ」
「ああ」
 快活な顔立ちで船長に返事をし、衣服をバタバタと風に靡かせる。天候にも恵まれ、追い風なのでこれは順調に到着する。
 招待状を受け取ったのは一週間前のことだった。随分といきなりの宴だとは思ったが、それも毎度のことでもある。それが友人であるダミアンでなければ都合もつけられないのだが。
≪僕は先日、とても美しい島をとある貴族仲間から譲り受けた。
 その島へ君を招待すると共に、宴を催すつもりだ。
 ぜひ君に来ていただきたい≫
 一瞬その招待状を読んでいるときに、まさかあの『人形島』なのではないだろうなといぶかしんだものだが、方向は全く違うのだと分かった。男爵夫妻は娘と共に今もあの魂の砦である人形島で魂たちの救済と鎮魂を行っている。ひっそりと、静かに……。
「旦那! 見えてきましたよ!」
 彼が見渡していた海から船長の指し示す方向を笑顔で見て、望遠鏡を渡され覗き込んだ。
 海に浮かぶ緑の島。鳥達の黒い影が飛び交っていた。
「本当だ」
 船は一気にその島へ向けて進む。南風が心地良い。
「これは楽しみだ」
 彼は舌をなめて望遠鏡を外し、まだ肉眼では見え無いその島のある方向を見つめた。
「あの島には元々ドゥ・ヴァン一族が別荘を建ててましてね、冬の間だけ寒い地方から来てたんです」
「その別荘をもらったのか」
「ええ。大自然が広がる島に一棟だけ城がこじんまりとありましてね。一族でのんびりと過ごしていたらしく」
 船は帆に風を受け、どんどんと目で見るごとに近付いてくる。穏やかな波は透き通る青さで、たくさんの魚達も泳いでいた。
「確か自然好きの主だったな。ドゥ・ヴァン様は」
「ええ。別荘地でも本当質素な暮らしを好んでいるらしいので」
 ダミアンもそれは同じで、若い頃から無謀をして野宿やらをしていた。変わった所があるのだが、そこもドゥ・ヴァンの気に入ったところだろう。
 緑の迫る島へとつき、ボートに移ると浜へと降り立った。
 野生動物たちの声が聞こえる。
「ああ。美しい島だ……」
 公爵は言い、笑顔で見回した。

 船長に案内されながら歩いていくと、小さな建物が見え始めた。
 歩いている間にあつくなってきてジャケットや帽子を外して腕をまくっていた。何がいるか分からないので靴は脱がないように気をつけて歩いている。
 その建物というのは、本当に質素なのだと分かった。そしてその横には大きな檻に囲まれた果樹園と畑も見つけた。野生動物たちから自給自足の食べ物を守りながらも生活してきたらしい。ドゥ・ヴァンの好々爺顔を思い出し、微笑んで歩いていく。井戸の横に、変わったものが設けられていた。それは巨大な黒い皿であり、鏡が斜めにくくりつけられている。首をかしげて公爵はそれをいていたのだが、いきなりの友人の声に笑顔で顔を上げた。
「やあ! 来てくれたんだね! はるばるとどうもありがとう!」
「やあダミアン! 久し振りだ!」
 お互いに挨拶をしあって背をたたきあった。
「美しい島だ」
「ああ。僕も初めは驚いたよ。本国からも二時間で行って帰ってこれるし、それに住みやすい。まあ、自然の力は侮れないけれどな。それもまた良い」
 前にも増して日に焼け逞しくなった友人は大柄に笑い、船長に感謝をしてから報酬を渡し、公爵を促した。
「僕もまだこの島の探検は済んではいないんだが、だから君を呼んだのもある。共に回ろう!」
 無数にある島はそのほとんどが無人島であって大自然が広がっている。この島も十年前にドゥ・ヴァンが上陸するまでは無人だった。
「この島は面白い動物がいっぱいいるよ。それに昆虫や見たことの無い生物がね。星も素晴らしい」
「ああ。ここへ来るまでも変わった昆虫がいたよ」
 小さなドアから入ると、必要最低限以外のものは何一つ置かれていなかった。調理をする場所が無いことに気づき、宴と言っていたがどうするのだろうと思った。
「料理は魔法で出すのかい?」
「良いところに気づいたね。さっそく君にも手伝ってもらおう」
「任せろ」
 彼らは荷物を置いて外に出ると、何かを渡された。
「強めの虫除けだ。ハーブを使ってつくった。蚊とかには利くが、基本的に虫に近付いたり攻撃はしちゃだめだぞ」
「わかった」
 井戸の横の先ほどの大掛かりな道具の前に来た。
「これはね、鏡で太陽の光りを集めてこの鉄板で調理をするものなんだ」
「え? 太陽で調理を?」
「ああ」
 幾つもある鏡をダミアンが一つの方向に光りを集めさせた。今は時間が懐中時計では昼前。ダミアンは彼を連れて檻の畑へ促した。
「裏には家畜の檻もあって肉はそれを食べるんだ。果樹園にオリーブもあるからオイルも取っているよ」
「相変わらずなんでもできるんだな」
 公爵が友人に関心しながら野菜取りを手伝う。ダミアンだけが畑の折から出て行き、しばらくして肉を手に来た。鶏らしい。
「さあ。調理できる時間は決まっているんだ。一番の日照時だよ。それにじわじわと時期によったら時間が掛かるけどね」
 大皿の鉄板で彼は調理を始めた。驚くべきことに、本当にじゅーじゅーと音を立て始めているではないか!
 彼は楽しくなってきていた。
「ワインをあけよう。祝いの酒を持ってきたんだ」
 彼らは宴を始めた。

 夜、星を見上げながら数を数える行為ができないぐらいの星屑に空は埋め尽くされている。明るいほどに。木々の陰の先に光っている。
「とても幻想的だ」
「ああ」
 ハンモックを揺らしながら唄を口ずさむ。
「へえ。男爵って、あの美人妻の」
「ああ。娘もたいした美人になっていたよ。驚いた。今度、元気付けに一緒に会いに行ってやろう」
「それがいいな。そんな大変なことがあったのか」
「この島で元気を取り戻させてやるのもいい。娘も気を取り戻すかもしれない」
 幾つも星が流れて行く、透明な夜空は星の音さえ聴こえそうだ。夜風は涼しく、野生の声が響き渡った。
「明日の朝早くから探検に出かけよう」
 ダミアンが言い、彼も頷いた。
 小屋に入るとランプを灯す。静寂と共に聴こえる様々な動物の声。
「これがこの島の簡易的な地図だ。まだドゥ・ヴァンさんも全ては回ってないらしいから、何があるか分からない」
 ぼうっとした明かりに照らされるそれは島の形によく彼らが使ってきた周辺のくわしいところや、小屋の場所、近付かないほうが良い場所、嵐のときの非難場所が記されているが、それも島の前面に集まっていてその奥地はまだ足を一切踏み入れていないらしい。
「さあ。何があるかな」

 透明な朝日を背に進む。朝起きの鳥達の声が高く響いたりしている。
 その彼らは岩場がそびえた場所の麓を歩いていた。緑が迫り来て、幾重にも重なる。それも坂のように上がって行き、向こうに木々に囲まれた泉を見つける。そこへ行くことにする。変わった花が咲いていたり、手を足を使ってよじ登ったりと高い位置に来ると元来た方向を確認しながら進んだ。
 泉に来ると、動物がいて水を飲んでいた。透き通っていて大きな魚が泳いでいるのも見える。綺麗な鳥も泳いでいた。そこで休憩をして水を飲む。
 彼らはその場を歩いていくと、滝があるかもしれないと水脈を辿るように歩いていった。草や枝を被る岩場を水が何本も流れ光っていたり、木の間を縫うように水が土と落ち葉のなかを流れたりしている。湿った蔦が蔓延ってその下を水が流れている。時々動物の気配がすると静かに離れていった。昆虫も多くいる。
 島自体の広さはかなりのもので、いきなり全てを回ることは出来ないだろうとわかっていた。
「………」
 ダミアンが立ち止まって横を見て、彼を呼んだ。
「おい。こっちに来い」
「ああ」
 歩いていくと、そこには岩壁に亀裂が入っていた。
「洞窟だ」
「行ってみよう」
 頷き、彼らは注意深く始めは入り口から伺った。どうやら広い作りの洞窟で、なかは随分と涼しい。何かの動物が住処にしているかもしれないので慎重に進んで行った。
「……?」
「おい」
 彼ら二人は驚いて、その先を見た。
「人がいる!」
 公爵が笑顔になった瞬間、ダミアンが腕で制した。
「静かに。もしかしたら、知らぬうちに海賊か何かが住処にしているかもしれないだろう。僕等は島の裏側へは行ったことが無いわけだし、向こうにしたら僕等のいる側が島の裏にもなる」
「確かに」
 彼らは背後から近付いていくが、もちろんダミアンも自分達以外で人を見かけたことは無いと言っていた。
「……え?」
 彼らはそれが人では無い事を知った。
「これ……人形か?」
 怪訝な顔をして近付くと、完全に動かないし灰色と白と青、それに黒だけの三色だと気づいた。思い切って前まで行くと、それは確かに人形……銅像だった。
「おい。あっちにもあるぞ」
 そちらは同じ配色の女の石造だった。
「なんで無人島のはずの洞窟に石造があるんだ?」
「おい。こっちにも男の石造がある」
 岩場に紛れて全部で五体置かれていた。そのどれもが若者で、遺跡探訪で見るような古めかしい格好をしているわけではなかった。探検をするときや航海をするときの格好をしているのだ。
「おいおいおい……。まさか呪われた洞窟なんじゃないだろうな」
「まさか!」
「じゃあなんでこんなに人形ばかりなんだ。しかも生々しいぐらいに現実的だ。息でもしそうに思える」
「精巧だな」
 ランプに照らされる範囲は全て見回すが、何か気配があるわけでは無い。生活の雰囲気も無い。ただ忽然とあるのだ。遺跡でもなさそうだということは、何処かからか奪ってきたものを一時保管している犯罪の場所というわけでもなさそうだった。
「奥を探ってみよう」
「ああ」
 不気味な等身大の人形たちの置かれた場所を通り過ぎていく。
 公爵は肩越しに振り返った。
「………」
 一瞬、女の石造が動いた気がした。灯火と影のせいだろう……。

 「おお! これは凄い!!」
 彼らはなかば興奮して洞窟で辺りを見回した。
 天井は穴が開いていて光りが差し込み、そしてその開けた洞窟の場所はとても美しい。
 真っ青な奇石が壁にびっしりと光りを受けて輝いているのだ。それが壁から染み出る水で地面に広がる水面に鏡となって映り、その水面には天穴から漏れる緑が青石と共に揺らめいていた。地面の一部にまで青い石は続いているので、倍増して美しい。細い滝が上部の壁から落ちている場所があり、それは青を透かして滑らかに落ちていた。色の綺麗な鳥が長い尾と首で進んで水を飲んでいる。どうやら上の穴から来るらしい。鳥が飛んで行き、それさえも美しく映る。
 彼らはしばらくただただ呆然と美しい青を称える岩場を見つめていた。
 だが、ダミアンはあまりに動かない公爵を見て肩に手を置いた。
「おい。そろそろ腹が減らないか。持ってきたパンでも食べよう」
 だが公爵は動かずに、ずっと瞬きも忘れたのか青い石の壁を見続けている。
「ハハ。冗談よせよ。それか何か毒虫にでも刺されてたのか?」
 心配になってきて腕をまくったりして確認するが、動かない。いつも冗談をかましてくる友人なのでダミアンは初めやれやれ笑っていたが、段々と真顔になっていった。
「おい。ジェラール」
 頬をバシバシ強めに叩く。
「おい。もしかしてお前まで洞窟の石造になんかなるんじゃないだろうな」
 あの灰色の肌で白いシャツ、黒いパンツに蒼い上着の石造たちを思い返して、ダミアンは背筋を震わせて同じ青の石の壁を見上げた。
「いい加減に応えろ!」
 ダミアンは仕方なしに重い公爵を担ぎ上げて今はこの美しい洞窟を離れるに限ると思った。それとも自分は幻想でも見ているのだろうか? この洞窟に何か幻覚を見る霧が出ていたとか。
 息を切らして洞窟から逃げると、草地に公爵を放って意識確認を始めた。
「おい! 目を覚ませ!」
 だが目は開いている。何かを見続けたままなのだ。あの深く青い石をいまだに。今は目に緑の木々を映してた。
 ダミアンは思い切り公爵の頬を叩いた。
「こら!!」
「うあ!!」
 いきなりの事に驚いた公爵は瞬きを続けながら衝撃を受ける頬を押さえ、何故いきなり友人にびんたをされたのかが分からなかった。
「何だ、一体どうした」
「こっちのせりふだ!」
「え?」
「青い石の壁を見ていたら動かなくなったんだぞ。驚くじゃないか」
 だが、しかし、そういえば帰ってくるときにあまりにも必死だったこともあるが、あの五体の石造はあっただろうかと思った。確かにランプを掲げながら公爵を担いで不安定ななかを走って行った。夢中になっていて石造を観ていなかったのだ。
「青い石の壁……?」
「え?」
 彼は首をかしげて友人を見て、とぼけているのかと思ってまたびんたした。
「いた、いたい、なんで一体……びんたするんだ」
 ダミアンは首をかしげながら背後を振り返った。
「え?」
 走って逃げたからか、先ほどの泉は比較的近くになっていたが、見渡した限り洞窟のある方向の岩場は明らかに遠い。
 ダミアンがいきなり走り出し、驚いた公爵も走った。
「洞窟のなかに石造と青い石の空間?」
 何故友人がそれを覚えていないのかが不明だった。何か忘れさせるような空気でも流れていたのだろうか。自分はこの島にしばらくはいるので慣れているのかもしれないのだが、あんなにはっきりとしていた。
「ここだ」
 ダミアンは再び洞窟を見つけ、ランプを掲げて進んでいった。
「あれ」
 だが、あの石造は見当たらない。
「夢でも見てたのかな。一人で暮らしてるからなあ」
 ダミアンは首をかしげ、奥へ進んでいく。路は単純な一本道であり、ごうごうと音が鳴っている。風の音だった。
 奥に来ると、いつのまにかまた洞窟の入り口に戻っていた。
「他の洞窟なんじゃないのか?」
 公爵が言うが、ダミアンは首を傾げるばかりで、彼は石造とか妙なことを言い続ける友人が心配になってきた。
「おい大丈夫か?」
 逆に変な目で見られる前にダミアンは「戻ろう」と言った。
 彼らは洞窟から緑の氾濫するなかを歩いていき、その背後の洞窟の奥では、あの青く輝く美しい石の壁が今もこれ以上誰に邪魔されること無く存在していた。木漏れ日を水面に映し、鳥達が時々水を飲みに来る……。

 昼下がりは小舟で島の周辺を回ってみることになった。サファイアの如く蒼い海は本当に蒼い。
 島の裏側は崖になっていて、その崖には鳥達が巣をつくって群れをなしているのが見える。あまりそちらへは小舟ではいけないとわかり、引き返していく。きっと岩礁もあるだろうと思われた。
 そこから離れて迂回し、低い岩壁の横を進むと上に緑がひさしになって覆いかぶさっている。蔦が枝垂れていて、きっと満潮時には海に沈むだろう岸壁の裂け目を見つけた。
 大降りの船で充分進んでいける幅だ。小舟で進んでいく。その海水につかる岩場に落ちて生えている木々が高くそびえていて、カニだとか小魚がいる。岩の裂け目を見上げながら進む。青い水が続き、しばらくして突き当たった。
「奥まで来ると波の音が反響して綺麗だ」
「ああ。まるで母親の胎内のようだな」
「落ち着く」
 彼らはしばらく小舟に寝転がり、その音を聴き続けた。
 だが、どれほどかして水位が上がり始めたことに気づいた。
「そろそろ引き上げよう。潮の高さが変わり始める」
「ああ」
 彼らは小舟を戻らせて行った。
「今回は妙な石造は見なかったみたいだな」
「ああ」
 ダミアンは肩をすくめ、海を小舟で進めさせていった。ぐるりと回ると、細い木が立ち並ぶ場所に来た。その間から海蛇だろうか、泳いできては向こうへ行く。見上げると大きな葉を連ねてつけていてまるで生き物の様に揺らめいている。小舟をその細い木にくくりつけ、蛇や虫に気をつけながら進んでいった。
 水場を歩き、しばらくすると木々がどんどん幹を太くしていく。
「誰だいあんたら」
 いきなりのフランス語に彼らは咄嗟に振り返り、腰を落とした。
「………」
 そこには美しい女がいて、焦げ茶色の長い髪の頭部を布で縛り、パンツ姿の鋭い目で立っていた。手にはナイフを持っていて明らかにぎすぎすしている。
 彼らはフランス語が話せるので咄嗟に言った。
「俺は島の北側に住んでる者だ」
「何?」
 女は怪訝そうな顔をして、そしてすぐにダミアンは気づいて驚いた。
「人形になっていたはず……」
「………」
 女は口を閉ざし鋭くダミアンを見た。公爵は友人を見てから女に言った。
「君は何者だい」
「あたしはこの島から西に行った方向から来た。まあ、島流しみたいなものさ」
「他に四人の連れが?」
「あんた、あの洞窟に行ったの」
「ああ」
 女は相槌を打つと短剣を下げた。
「一ヶ月前にあたし等は五人でここに置いてきぼりにされた。別に戻れる距離だが、帰ったら命は無いと思えって言われててね」
「何で島流しなんて」
「まあ……」
 女は罰が悪そうに顔を反らしてから二人を見た。
「浮気さ。その四人の奴等とね」
「ああ……なるほど」
 それで主人に怒られて追い出されたわけか。それ以上二人は何も言わなかった。
「人形って言うのは?」
「さあ……一ヶ月前に頻繁に男共が言ってたね。洞窟で老夫婦と若い男の石造見たとかどうとか」
「老夫婦と若者って」
 それはドゥ・ヴァンたちの事だ。だがあの夫婦がまさかあそこまで奥地を出歩けるわけも無い。いろいろと危険でもあったのだから。
「だがあたしはその洞窟にたどり着けないし、男共も一度見たきりだって言ってたよ」
「他の者達は近くにいるのかね」
「ああ。崖の上にね」

 彼らは巨大な木々の間を歩いていく。
「圧巻させられるな……」
「あたしもこの場所が好きさ」
 うず高い木々の幹は近付くことも躊躇われる神聖さがあった。その間を歩いていくのだ。下は水場で透明でありところどころから湧き出ている。
 それを崖を這う蔦を掴みながら昇っていく。
「時々棘が生えた蔦もあるから気をつけな。ムカデもいるから」
「ああ」
 慎重に進んでいく。そうは高くない壁なので、上まで来ると見渡す。木々が柱のように立ち並んでいる。時には宿木もあって違う種の木々が芽吹いていた。
 しばらくすると日の暮れになる。彼らは急いだ。
 崖の上に来ると海を見渡した。
 その時には紅と紫が交互になった夕暮れへと空が染め上げられていった。海もその色へと染まりきり、ガーネットの様な透明度の高い夕陽が暮れていく。南側からは東から昇る朝日は見える。夕陽は見えなかった。
「そいつ等は誰だ」
 青年の声に彼らは振り返り、テントから出てきた男を見た。
「向こうに住んでるんだとさ」
「え?」
 ほかに三人の若い男が出てきて夕陽を背にする美しい女に一度キスをする。
 四十代前半だろう二人の男達を見た。
「僕はダミアンだ。彼は友人のジェラール」
 若者達は頷いてから崖に座った。
「なんだ。流されたのか。あんた等」
「いいや。好き好んで住んでるのさ」
「へえ。俺らは三ヶ月、あと二ヶ月この島にいることになってる」
 よく争いが起きないものだと関心しながらも、それでも男同士は殺伐とした雰囲気があるのでやはり争いごとはよくしているのかもしれなかった。
 今は沈んでゆく美しく壮大な夕陽があれば、これ以上誰も言葉を発さずに肌を紅と紫に染め上げ見つめていた。瞳をガーネットに光らせながら。
 女が美しい声で歌い始めゆったりし始める。二人の男がそれにコーラスを乗せ始めた。
 夕陽の色味と共に昇り始め輝く星。どんどんと天体は美しく移り変わって行く……。
「青い石の洞窟で」
「ああ」
「緑の先を進んでいくと忽然と現れて、入っていくと君たちとそっくりな石造と、その奥に美しい青い石の空間があった」
 彼らを夜風が吹いていき、気温も下がり始める。夜行性の動物の行動する音がする。
「……島の記憶……」
 数多の星を見上げながら女が言った。
 歌声は高かったが、話声はハスキーで、風の様に話す。青年達もそうだった。
「島の神の記憶か?」
「かもしれないと思ってさ。心臓部の洞窟にそれらが形作られて現れては消えてさ……」
 流れ星が幾つもきらきらと流れて行く。青い星や色のある星、星雲や……それらも今は、あの青い石の水面に映っているのだろう。
「それで思ったら浪漫があるな……神秘的だ」
 彼らは星を見上げながら、だんだんと眠りへ落ちて行った。
 今、夜の洞窟には二人の男の石造が粉の様にきらきらと形作られている。忠実に、精巧に……。

 真夜中、目を覚ますとダミアンが見当たらないことに気づいた。
 公爵は辺りを見回し、潮騒に海を見渡す。
「………」
 月明かりが降り注ぐ向こうで、小舟が夜を進んでいる。
 凪の時間なのだろう、ゆったりと進んでいた。黒い影は二つあり、一人はシルエットが友人であるのだとすぐに分かった。だが、もう一人はどうやら女、マリアだった。ダミアンがオールをこぎ、マリアは風を読み取ってでもいるようだった。
 まさか浮気でもするつもりでは無いだろうな。女好きのダミアンだ。ここに女を連れていないもの少し愕きでもあったのだが、本業の絨毯卸業もあるのだから年がら年中この島に滞在しているわけではないのだから、女を見つけるならば実家のある本国で見つけることだろう。危険もある場所へは女は連れて行かない性格だ。
 どうやらただ夜のボートを楽しんでいるだけのようだが、公爵は見ていてはらはらした。血気の盛んな若者達四人もいるのだから。
「マリアのやつ……」
 声に気づき、彼は青年を見た。
「心配ないさ。マリアは若い男が好きで、十七の自分からはあんたらは父親みたいなもんだ」
「若いな。それぐらいだとは思っていたが」
 そのマリアは安堵感をもって海に浮かんでいた。ダミアンには気を張らずにいれる雰囲気があり、時に男達の張り詰めた空気感に耐え切れなくなるときもあるからだ。落ち着いた大人の感じもある。
「へえ。エジプトに……。それは素敵だね」
「ああ。それにペルシャもね。中東は素晴らしい地を行く文化があるよ。エキゾチックな風雅がたまらない」
「あたしもいつかは行って見たい」
「この期間にどうせなら行っては駄目なのかい」
「時々偵察が来るのさ。面倒なもんでね。でも、まだ先があるんだ。いけるときが来たら島のあんたを訪ねる」
「待ってるよ。仕事があれば島にいないがね」
 マリアは頷き、夜風に目を綴じた。少しだけ凪は風に寄って波を作る。
 今は夜の陰となる。
 一瞬、ダミアンの脳裏にあの美しい石造が蘇った。目の前の美しい女は石膏のような肌であり、夜の色に染まっている……。このまま、本当に彼女が幻なのだとしたらここで石造へと戻って共に沈んでいくのだろうか。音もなく、ただただ無心に。オールを漕ぎながら、その考えは夜風が浚っていく。

第三話 「鏡の泉」


 「あなた」
 妻が姿鏡の並ぶ前を颯爽と歩いてくる。
 公爵はスカーフを直しながら「うん」と言う。鏡に映るように背後に来た妻が彼の肩に微笑み手を掛けた。
「本日もとても素敵です」
 彼は微笑み振り返り、妻ルクサールの腰を引き寄せた。
「お前もとても美しい」
 ルクサールも微笑み、軽くキスをかわしてから離れていった。
 本日は王族に御呼ばれしており宴があった。人形島のことを報告してからはダミアンの暮らす島へ行ったりとしていたので陛下への挨拶はご無沙汰だった。
 二人で品格良く身だしなみを整えると、執事が現れ馬車の用意が整ったと報告を受け、廊下を進んでいく。
 舘の者達に見送られ、御者が馬車を走らせて行った。
 城へは夜の林を越えていく。甲高い動物の声がときに響く。
 森を越えると下町に来て、段々と城が近付いてくる。馬車が並んでファサードから貴族達がエスコートされていく。
 彼らも順番に降りては馬車が走って行き、城門を笑顔で進んでいく。
 宴のホールに到着した。宴が始まると王が現れ、みなが順番に挨拶に向かう。
「陛下。お招きいただき、有り難う存じます」
「ああ。公爵。先だってはご苦労だったな」
「ええ。次回、頃合を見て再び様子を伺いに参りましょう」
「ああ。そうしてやってくれ」
 公爵は王にあの不可思議な現象を起こした先日の休日についてを報告しようと思ったが、やはりそれは止めた。なぜなら管轄外でもあるし、それに島の空気を保ちたいからだ。
「本日は良く楽しんでいくように」
「はい」
 彼らは深く頭を下げ、後ろへと引いていった。
 グラスを受け取り歩いていく。
「ご機嫌麗しく」
 妻ルクサールの友人であるアレクサンドラ夫人が夫と共にやってきた。
「ご機嫌麗しく。お久し振りね」
 妻も挨拶を交わし、軽く近状報告をしあった。
「それであなた、あの話はご存知?」
 アレクサンドラが何か御伽噺でも始まる口調で悪戯めかして言って、ルクサールは首をかしげた。
「『鏡の泉』の噂なのですけれど……」
「いいえ。初耳ね」
 低い声のアレクサンドラは人を安心させる声をしている。特別なことを聞かせてくれる風で彼女が微笑んだ。シックな色合いを好むアレクサンドラは片方に流す黒髪を一度艶めかせた。
「ルクセント伯爵の奥方はサラマンデのご出身でございますでしょう? そのご実家のお屋敷には背後に深い森が続き、離れた場所に別館がございましてね。そこが奥方のお気に入りの場所。別館のお庭は立派なネムの木があって、泉に季節になれば青い泉に白とピンク色の糸花をふんわりと映しますのよ。ケヤキや柳、それに雲を乗せる空や小鳥も共に映るものですから、素敵でしょう? 果ては森とその先の連峰まで鮮明に移しこむんですもの」
「それは一度はお呼ばれして見たいものですな」
「ジェラール様方も絵になることでございましょう。泉の横には人憩う場所もあります。蔦の這う白石のベンチや白い薔薇ばかりの蔓の柱など、とても素敵よ」
 ルクサールはルクセント伯爵と耳にして、あの魔女の様に魅惑的な、だが実に静かな女性イヴェット夫人を思い描いた。彼女は蒼い顔を漆黒の髪に覆わせよく黒紫や祖紫などの色合いのドレスを白に合わせ身につけている。生まれはフランスだが血筋はスペインだ。見た目は迫力があるのだが口数が少なく、社交には頻繁には出ない。ルクセント伯爵も彼女を大切にしている風だ。
 魔女のようと言うのは、やはりイヴェット夫人から醸される雰囲気からだった。とにかく彼女の光る黒い目が深いのだ。
「その泉はあるふとした時に、思いもかけないものを映しこむというのですから」
「思いがけないもの?」
「まあ……恐いわ」
 彼らは顔を見合わせ、アレクサンドラ婦人を見た。
「わたくしはルクセント夫人が少女の頃から過ごし、婚姻を結んだ後もよく故郷に帰る毎に立ち寄るというその別館の泉は、魔法の泉なのだと思います」
「もしよろしければ、ご招待致しますよ」
 彼らは背筋をさらに伸ばし、声のした方向を見た。
 そこには線が細く小さく口元を微笑ませる伯爵がいた。
「まあ。お恥ずかしいわ」
 ルクセント伯爵と挨拶を交わし、彼はどこか含みのある微笑みをしてから肩越しに微笑み、去っていった。
「珍しいこともあるものね。はるばるご出席なさっていただなんて」
「ああ」
 地元の宴などには出るし、王室の行事も大きなもの以外はあまり顔を見せないのだが。だが、どうやら夫人は見当たらなく彼だけで出席したようだ。彼の付きのものが後ろを歩いているのみだ。

 ここはサラマンデ。イヴェット夫人の実家バルモード家の別館だったはずだ。
 確かに彼らはその泉を眺め見つめていた。近付くほどに繊細に映りこむ鏡面は巡る自然を細やかに映していた。葉の一枚一枚、幹の細かい違いや山々の白い頂の陰と光の加減さえも。あの大きなネムの木はゆらゆらと愛らしく風に揺れていた。
 だが、今ルクサール夫人とアレクサンドラ夫人がいるのは夜の世界だった。
「?」
 ルクサールが突如の暗転した夜の世界から眩しい泉を見た。その泉には夫ジェラールとアレクサンドラ夫人の愛人グラジエロ青年が同じ体勢で見下ろしてきている。彼らの背景の青空や泉を囲う岸辺の草木や苔、木々は先ほどまで彼女達が見ていたものだった。柳が枝垂れる場所まで同じ、ただこちらは星も輝く夜になり、連峰は巨大な陰と化している。不気味な風が彼女達の首筋をさらって行った。
「お二人とも、ようこそいらっしゃったわ」
 二人が振り返るが、そこは闇を称える夜があるのみだった。だが泉を見ると、美しい風景を背にあのイヴェット夫人が男二人と挨拶を交わしている。下から見る形になるイヴェット夫人の顔立ちは、どこか魔が居つくようにも思えた。男が一度騙されては一生抜け出せはしないような。
「あなた!」
 ルクサールは夫の身を案じて夜露にぬれる草地に膝手を付き水面に細い指を差し伸ばした。
「まあ!」
 鏡面だった水面はいとも簡単に波紋を広げて誰の事も映さなくなった。
 アレクサンドラは彼女を立たせた。
「もし彼女が魔女なのだとしたら、彼らは食べられてしまう」
 ルクサールはアレクサンドラの狭い肩に泣き付いた。ルクサールの夫は確かにどこででもどんと構えているが相手が正体も不明な魔女だとかなのだとしたらと思うと……。
 その公爵は美しく青白いイヴェット夫人を認め、微笑みその手の甲にそっとキスを寄せた。
「相変わらずお美しい」
「まあ。どうもありがとう」
「先ほど、ルクサール夫人とアレクサンドラ様がおられた筈だが」
 グラジエロそれを言うとイヴェットは彼の瞳を見た。
「まあ。あたくしはあなた方お二人しかご招待してはおりませんが、伯爵の思い違いでしょうか。殿方のみの秘密の宴であったのだとおっしゃっていたようにも」
 グラジエロはイヴェット夫人の深い瞳を見続けていてぼうっとし、無言で頷いた。公爵は愛する妻の肖像が何故かぼやけ始め、頭がぼうっとしてきて額に手をあて目を綴じ俯いた。暗くなった視野で一度目を開き、指の間から見えた泉の情景にはたと視線が止まった。暗い闇を称える泉を……。はっとして額から手を離す。だが、昼の泉に戻っていた。その時には、彼はイヴェットを見て彼女の歩いていく背についていっていた。
 泉が落ち着き始めたが、彼らの姿が見え無いことに気づく。ルクサールが覗き込むと自分が透明にうつり、その先に夫が背を向け歩いていく姿が見えた。
「あなた! あなた!」
 だが、夫は宴の前、室内で姿見の彼女に振り返り微笑むのではなく、彼女がスカーフを正すことも無いままに、歩いていってしまう……。
 彼女は一気に泉へと飛び込んでしまった。
「ルクサール!!」
 アレクサンドラが叫んだ声もむなしく、ルクサールは夜の泉へ消えていった。
「………」
 そのアレクサンドラの目は泉を無言で見つめ、そして深い色味のルージュの口元が妖しげに微笑んだ。そして、闇へと歩きゆらゆらと消えていく。
 その時、ハッと我に返ったのは公爵だった。どこかで女性が自分を呼んでいたのだ。だが、誰の声だったのか……。別館へ入っていく二人の背を見ていたが、彼はどうしても気になって旨がざわつき、二人に何も言わずに庭を引き返していった。公爵が走っていくと、先ほど彼女に声を掛けられた泉が見えてくる。
「!」
 女性が背を上に浮かんでいる。黄緑の藻を手足に絡ませて光り差し込む透明な水に。
「大変だ!」
 ゆらゆら揺れる女性をみた途端、彼は泉に飛び込み飛沫が舞った。イヴェットはそれを目を細め扉から見ては、青年だけを連れて行き扉を閉めた。鍵をかける。
 公爵は女性を泉から引き上げ、その美しさにはっとしてしばらく見惚れてしまっていたが、気を取り戻して即刻人工呼吸を始めた。
 その頃、グラジエロは暗い色味のレンガ積みの別館の食堂にいた。
「さあ。どの部分を頂こう……」
 イヴェット夫人の背はシャンデリアから吊るされた硝子の器を見上げていた。その大小さまざまな硝子の器は筒型で蓋も付き、その頂点部から鎖で繋がれている。
 液体につけられた人の体の部位が吊るされていた。内臓、手、目玉、耳、足首……。それを意識の混濁したグラジエロはただただ見上げていた。イヴェットは振り返り、進んできた。ほんのりと頬に色味がさして思える。いつもより唇は紅く、瞳もあでやかだ。どこか悦とした微笑みだ。彼女の美貌がどんと心に迫るほど押し寄せる風でその場のアームチェアに彼は腰を下ろしていた。
 サーベルが何処からとも無く銀の弧を描き現れ、ぼうっとその剣の穂先を彼は見つめた。
「……その美しい首だ。私だけの人形を形作るのは……ね」
 闇だった背後に大掛かりなからくりがぼうっと現れ、それが作動しはじめた。黄金の光りを受け、何かを製造するためのそのレトロな機械が……。
 ぎらりと剣が乱暴に光った。
「どこだグラジエロ!」
 バタンと食堂の扉が開けられ、ぎっとイヴェットは睨んだ。
「ここは……」
 公爵は驚いてシャンデリアから吊るされた様々なホルマリン漬けと、その背後の不気味な巨大カラクリを見た。そしてサーベルを向けられているグラジエロを。公爵は走り彼を背後に行かせ、切っ先を視線だけで見るとイヴェットを見た。途端に彼女がサーベルを振りかざし、咄嗟に彼は椅子を投げつけるが彼女が回転して避け鮮やかにこちらに低い大勢でやってきて彼はのけぞり避けて彼女の足元を蹴り掬おうとしたが飛んで免れたイヴェットはテーブルに乗り、しりもちをついた彼に剣先を向け見下ろした。その彼女の背後に揺れる硝子の器に納められたもの。公爵は青ざめて口元を引き下げ、くるっと身を返して起き上がり彼女を見た。そして一気にその足に突っ込んでいった。
「きゃ!」
 サーベルが弧を描きながら飛んで行き、かんっと音を立てて突き刺さった。硝子の筒に。何かの部位を貫いて……。途端にホルマリンが彼女の上にざあざあ降って来て、そして硝子の器がゆれストンとサーベルが彼女の真横に落ち突き刺さった。
「………」
 イヴェットはそのサーベルの柄を取った公爵を見た。
「人攫いの魔女かい。美しの君は」
 ホルマリンの甘い薫りが鼻をつく。咽るような。
「ふふ……夫よ」
 公爵は片眉を上げばらばらの器を視線だけで見上げ、夫人を見た。
「あたくしはこれらで造る人形に伯爵の魂を入れているの。時々、憑依の本体を取り替えなくてはね……」
 危うくあの伯爵の一部にされるところだった公爵は目を丸く眉を引き上げ、背後で目覚めたグラジエロを一瞬視線だけで振り返り、また視線を戻した。
「………?」
 辺りを見回すが、そこは妻が彼を覗き込む顔があった。その横では宴が続けられている。
「あれ」
「あなた。どうかなさって?」
 人々の向こうには王もいて、彼らは会話を楽しんでいた。
「アレクサンドラ夫人は……」
「え?」
 妻ルクサールは首をかしげた。
「それは誰?」
「え? 先ほどまでイヴェット夫人の別館についてを……」
 公爵は口をつぐみ、瞬きをした。誰だ? イヴェット夫人というのは。それに、アレクサンドラ? そんな名前聞いたことは無い。それに、サラマンデ? どこのことだというのだろう。
「どこか気分でも優れなくて?」
「いや。問題ない。何かの白昼夢でも見ていたようだ……」
「まあ。今は夜だというのに」
「ああ。本当だな……」
 彼らは笑い、公爵はグラスでも傾けて正気を取り戻した。夫人はいつもの様に彼の肩に手を乗せ、顔を覗き込み微笑んだ。
「………」
 宴のうつる鏡。現実には映っていない影が一つ。アレクサンドラ夫人だ。獲物を逃がした彼女は暗い鏡のなかで人々の間を抜けていく。そして鏡にさえも映らなくなった。

第四話 「幻の声」

 ルクサールは室内で背後を振り返った。
 季節は宵の涼しい晩。星の出る時間になると澄んだ夜空が輝きを見せる。
 だが、彼女を振り向かせたのはそれらの静かな夜に見せたなんらかの幻なのかもしれない。
 一体の人形。それは馬に銀の甲冑を乗せた女性のものだった。その女騎士は凛として剣を構えている。先ほど、声が聞こえたのだがそれも気のせいだとはにかみ、宿泊施設の寝台へ入るために薄衣の寝具を調えた。
『Hvor ble det av deg? Hvor ble det av deg? 』何処におられるのです。どちらへいらっしゃるのですか
 再び涼やかな声に振り返り、髪を耳にかけた。何語なのかはあまりよく分からない。
『Dronning av kjarlighet.』我が愛の女王……
 彼女は歩き、人形の口元を見つめた。しっかりと引き締められている。
「ルクサール」
「あなた」
 扉から入ってきた夫を見ると彼女は人形を示しながら言った。
「この人形が……」
 公爵は進み、彼女に微笑んでから女騎士を見る。
「やはり綺麗だな。模造品とは思えないよ」
「喋ったのよ。さっき」
 公爵は可笑しそうに微笑み手に取り上げ、見回す。だが何も聴こえなければ動きもしない。
「気のせいさ」
 海の見える窓辺へ歩いていき、彼は不安げな彼女を見た。
「おいで」
 彼女も小さく微笑み彼のところへ行く。海の音はここまでは聴こえないが、この島はホテルの建つ小さな島だ。星空はルクサールの気持ちを和ませた。横にいてくれる彼の存在も。彼女は安堵として彼の肩に手を乗せこめかみをつける。微笑みながら目を綴じた。
「気のせい……ね」

 それは数多の人形達が展示された博物館でのことだった。
 公爵夫妻は一体一体を隅々まで眺めながら進んでいた。ビスクドールがあったり、ぬいぐるみ、陶器や真綿、様々な素材と歴史を持ち合わせた人形達であり、それぞれに名前と由来が記されていた。
「どれか気に入ったお人形のコピーを頂けると聞いたわ」
 妻のルクサールが言い、公爵は心に留まっている人形を振り返る。カーブを描く階段の左横に展示されているもので、女性の人形が甲冑を装備しているものだ。目元は冑に隠れ見え無いが、ルージュとほんのりとした頬、それに長い黒髪が流れているスタイリッシュな人形。名前はリヴ・ビヤークネスというらしく、六十年前にとある兵隊好きの体が弱い少年が所望したものらしい。製造はノルウェーだ。展示品には触れることは出来ないので、妻の話に彼は相槌を打った。
「君はもう決めたのかい?」
「二階を観てからにするわ」
「ああ」
 階段へと進み、彼はリヴの人形を見る。どこか、舞っているように思える。剣を手に。誰かをモデルにしたのなら、それは一体どんな女性だったのだろうか。その時代のノルウェーや周辺国の王政や英雄などを思い返す。だが、何故北欧の人形で黒髪なのだろうか。だからといえ特に珍しいわけでもないのだろうものの……。
 二階は今だ所有者のいる人形のコレクションだ。
 ミニチュアドールもあったり、コレクションハウスもある。
 ルクサールはある一点の人形を見つめ、やけに長い間その前にいる。白馬の人形で、前足を高く掲げて勇猛にいななく姿だ。
「迫力があるわね。なんだか見入ってしまうわ」

 彼らは人形を手に入れて三日目。公爵は甲冑姿の女。ルクサールは馬だ。お互いはまだどの人形を頂いたのかは聞いていなかった。
 彼らはレストランのために船に乗り込んだ。海を渡った島にある。それに他の島に宿泊施設、他の島に憩いの島、それらが比較的それぞれが近い列島で集まっている。この博物館があるのは本国だ。
 レストランでは彼らの友人が数名いて食事と会話を楽しんでいる。彼らも挨拶をしてテラスの席へ加わった。潮風が吹き、青い海が美しい。そして海鳥たちが羽ばたいている。遠くには船が走っていた。帆に風を受けている。
「話す人形? それはまた、珍しいものをお持ちなのね」
「博物館に招待された時の贈り物よ。何体も同じ人形があるの。本物を模して作られたはずなのに。今も部屋にあるわ。どうやら、ノルウェー語らしくて、自身の君主を探し求めている声でね、ほらあなた、見せてさしあげて」
「ああ。どうやら病弱な少年が作らせたらしい」
 彼らは箱からその問題の人形を出した。
「あら。これは有名なリヴじゃない? 『薔薇の女王~Dronning av roser~』という物語の挿絵での一場面で、馬に乗って死神に浚われた女王を救い出すまでの物語よ」
「あなた、童話にはお詳しいのね。娘さんに毎晩読み聞かせてらっしゃるの?」
「ええ。きっとその坊やも外に出られない状態ならよく聞かせて貰っていた物語なのかもしれないわね。誰かに自分の境遇を重ねていたのかもしれないわ」
「でも偶然ね。馬は別の作者なのよ。時代も。これも模造品」
 誰もが馬に乗る女騎士を見た。

  けたたましい音に驚き誰もが本国を振り返った。青い空の下、美しい旧市街の街並は昼下がりだった。
 この島は宿泊施設があり、レストランのある島も視野に入る。ほかにも様々な小さな島が緑色に点在している。カモメ達が音に驚き一斉に飛び立っている。
「何かしら」
「船で向かおう」
 すぐにどこにでも行きたがる公爵が彼女の腕を引っ張りあっという間に常に用意の整っている船に乗り込むが、船長が許可を出さなかった。
「今何が起きたのか分からない本島へ向かうのは危険です。渡航を許可できません公爵殿」
 止められている内ににわかに街が騒ぎ出したのが分かる。いくつかある大きな建物には博物館も含まれ、その建物に何かが近付き、凄い勢いで去っていくのだ。同じ服を着た男達が小さくその後を追って走っていく。
「何の騒ぎかしら。博物館からたくさんの人が」
 公爵が船長をじっと見て、船長はその目を見て舵を取りに行った。
 陸が近付くと博物館で警備をする男達の馬が駆け抜けて行くのがわかる。
 彼らが港に着きホテル契約の馬車に乗り込むが、博物館行きはやはり許可を出さなかった。なので彼は妻の腕を引き走っていく。彼女は息を切らしながら勘弁してくださいあなたと言い走るが既に彼の耳には毎度の事届いていない。
 博物館は近付くと物々しく、厳戒態勢が敷かれていた。なので入り口で真っ青になった館長が彼らを見ると急いで駆けつけてきた。
「博物館で一体何が」
「怪盗です」
 館長が声を小さく言い、汗をハンカチーフでぬぐった。
「何だって?」
 玄関ホールを通り、走っていく。
「………」
 人形達の展示されていたはずの場所が、ものけの殻になっていた。

 「実は、数日前にこの予告状が届けられたのです」
 彼らは室内に通され、妻は既にへとへとになっていた。年齢も年齢だ。普段運動などしないのだから。公爵は今更ながら彼女に扇子を仰ぎ続けて背を撫でてあげ続けている。
「拝見します」
 それは美しい文面の怪盗の予告状だった。
「しかし……」
 館長が辺りをまた気にしながら言った。
「本物は信頼されたお客様がたに」
「それよ」
 妻がソファ背もたれから背を起こした。
「では、予告状を見て急遽元から用意されていた精巧な模造品の贈り物と擦りかえることを思いついたんだね」
「ええ……。今怪盗たちが連れ去った方が模造品の人形達です。今、招待したお客様がたは全員あのホテルの島に」
 公爵は頷き、話を切り出した。
「それでは秘密裏にまたその人形を保管できるように手配することが大切ですね。それで……人形が喋ると知って?」
 館長が公爵の顔を見た。
「僕に人形達のことは任せてください。怪盗もまさかホテルにあることは全く知りもしないでしょう。あなたが行動すると目立つ。僕等二人で戻って彼らに人形を一室に集めることを言います」
 今度はすんなりとホテルに戻ることが出来たが、現在島で過ごしているものは半分だった。他のもの達は様々な場所に行っているのだが、二日に一度ホテルやレストラン、本国で開かれる宴にも揃って招待されているので夕方には絶対に戻ってくることは分かっていた。ホテルの宴、それが今夜だ。
 やはり早々に戻ってきた者たちが宴の準備に取り掛かる。その彼らに声を掛けていった。
「なんですって?」
「確かになにやら騒ぎが起きていたが……」
 誰もが用件を飲み込み、準備の部屋部屋での移動に紛れて人形が公爵の借りた部屋に集められた。
 やはり誰もが模造品といわれていても大切に扱われ、人形達の目がこちらを見ている。窓から見える夜の海は静かな音を鳴らしている。
「良かったわ。あんまりにも古めかしい感じまで再現しているものだから、まさか本物だったなんて思わなくても大切にしておいて」
 ホテルは横に岩窟と共に木々がもたれかかり涼しく警備もしっかりしている。コレクションを管理するにも適していた。
「王国軍が盗賊を捕まえてから博物館に人形は戻されるのだと聞きました。それまでを各屋敷にコレクションとして保管するのだと」
「では、不可思議な体験もそれまで続いて。この二人が夜にままごとを始めるんだ。目を疑ったが、夢と思ってばかりいた」
 女の子と男の子の人形を所持する一人の紳士が言い、他の牧羊犬と神話の女神アルテミスの陶磁器を持つ夫人が言った。
「夜は女神が角笛を吹き、そして犬が吠える声が聞こえます」
「僕はこの猫のぬいぐるみが夜に逃げ出すみたいに壁を引っかく音がするんだ」
 誰もが顔を見合わせた。

 怪盗が国境で確保され、騎士に連れて行かれた。どうやら目的は闇オークションだったらしい。今は檻のなかだ。
 博物館に本物の人形たちが集められた。
「配置を変えることになりました。由来や種類で分けてね……」
 館長が言うと、馬の横に女騎士。その彼女の横に女王。動物だからと同じ場所においていた牧羊犬から猫が逃げたがらないように離れたところに置くなどして人形達に配慮した。
 それでから人形達の声が聞こえることがあったのかは今は分からない。それとも、あの島だったから聞こえた幻の声だったのかもしれない。人形といえ魂の込められ一人の人から愛され必要とされてきたもの。それが涼しい岩窟から地底へと続く霊魂がふつふつと湧き出て蘇り、声を発させたのかもしれなかった……。

第五話 「呪いの人形」

 公爵は自身の領土に戻り管理業務を一通り済ませると、上半期の報告の為に城へ赴いた。
 国王は報告を受けた後に会議室で公爵を一見した。
「それで、実は今、我が王家内で騒ぎになっていてな」
「はあ。一体どのような?」
 国王は一度背後にいる家来に手を出すと、彼はお辞儀をして出て行った。しばらくすると小さな姫がやってくる。その腕には愛らしい人形が。
「これは私の姪であるジュリアン王女が娘に贈った人形でね。この贈り物が来てからというもの、妃がよく気絶をしたり弟王子が夢遊病を発症させたり、私自身も妙な夢に魘される日々で、この前は乳母がこの人形に噛まれたとかよく分からない事を言ってくるようになった。
 ジュリアン王女は公爵に預けられている土地に一軒別荘を持っており、今の時期は夫であるカゼイル将校と共に訪れることが多い。
「まさか王家に呪いでもかけているのではないかと実しやかに囁かれはじめた。申し訳ないが、それとなしに偵察を入れてくれはしまいか」

 公爵は馬車で草原を走らせているときもあの美しいジュリアン様を思い返していた。年のころは公爵とあまり変わらない位なのだが、唄と楽器をたしなむ他はやはり少女趣味があり多くの人形を所持していて、ドールハウスがある。いつでも花に囲まれ庭で過ごすことを好み、将軍とも取り分けて仲も良いので今まで何か話題に上げられる上で悪い点などは無かった。
 よく緑系統の衣装の似合う方で、頬の薔薇色の具合が年齢によらずいつまでも若々しい。将軍の場合はほとんど屋敷を空けているので、時に帰ったときはより仲がよく、別荘に来ることの出来るのもワンシーズンと決まっている。
「まさか彼女がそんな」
 彼はさっそく今領地にいるジュリアン様のところへ向かうことにした。手土産は国王から預かっていた。
 別荘に到着すると、早々にジュリアンを見つける。白馬に乗り林からやってきたのだ。
「ジュリアン様」
「まあ。ジェラール殿ではございませんか」
 彼女は微笑みながらうれしげにやってきた。
「ただいま夫は出ております。さあ、どうぞおあがりになって」
 彼は促され、明るい白樺林の横を共に進んでいく。
「本日は城へ向かわれた日ですわね」
「ええ。いやあ、姫が愛らしい人形を手に、ジュリアン様から頂いたのだとおっしゃっていましたよ。彼女も玉の様に愛らしく成長なされて私もうれしいかぎりだ! 彼女もいたく人形を気に入っておられましてね」
「ええ」
 彼はうれしくて笑いながら言ったが、ジュリアンは背を向けたまま進んでいき、公爵は笑顔のまま居間に促された。
 居間には人形のコレクションはなく、もっぱら夫である将校の趣味である美術品が飾られている。
「最近の将校は忙しいことでしょう。怪盗騒ぎもありましたね」
「ええ。それも済めば暇もいただけて共に過ごせるのでしょうが」
 彼女達には子供がいない。王位継承からは外れているので問題は無いのだが、やはり何か心つもりがあるのだろうか。ジュリアンは人形趣味に明け暮れ、将校はお国のために日々働きかけ、以前の男爵の島での鐘の撤去や怪盗の捕獲などありとあらゆる場面で王に依頼されたことを大から小まで請けては防衛のため騎士達の鍛錬に勤しんでいる。まさかその妻であるジュリアンが問題を起こすとも思えないのだが。
「久し振りに人形コレクションを拝見しても?」
「もちろんかまいません」
 ジュリアンは黒い扉を開け、彼を促した。今日は珍しく茶色を貴重としたドレスで金の模様が光沢を受けている。彼は廊下を進んで行きながら異変を感じていた。どこかそれは霧掛かる感覚であり、彼女の腰まで流れる巻かれた黒髪を見ながら進み、ドレスの裾に視線がさがり、そのままどっさりと倒れてしまった。

 公爵が目覚めるとそこは暗がりだった。髪をかきあげると立ち上がり、あたりを見回す。なにやら巨大な陰に囲まれており、空気は落ち着いていた。だが気持ちはまだ落ち着いていない。どうやら、この薫りからして屋敷だと思われる。ジュリアンは様々な精油が好きでありよく屋敷内を薫らせているのだ。食事のときはそれは避けられダイニングや宴のホールは何の薫りもしない。彼女はにおいに敏感なので、屋敷にはシガールームが無く将校も別荘では禁煙をしているという。
 彼は歩き回ろうとしたがいきなり跳ね返って尻餅をついた。その時、月明かりが滑ってやってきて、彼は事実を知った。
「人形達の部屋……か」
 自分の体が小さくなっているのだ。
「うわ!」
 いきなり真横にいた人形が動き、大きな目で公爵を見た。そして突然腕を掴んできてその場を走り去って行ったのだ。テーブルからソファーに飛び降り、そして絨毯に飛び乗って他の人形達も一斉に走り始めて公爵は目を見開き引っ張られるまま走らざるを得なかった。どんどん人形は速度を速めて行き壁に向かっていくのだ。刹那その腰壁部分に暗い穴が開き、ふっと体が軽くなりそこへ走って行った。
「一体なんなんだ!」
 見上げるが暗闇では人形も見え無い。だが彼らは目だけが不気味に光っていた。人形は夜行性だったのだったかと不可思議に思うほど誰もが目を光らせ闇を駆け抜ける。だんだんと地面が柔らかくなり始め、気がつくと草が視野を埋め尽くす野外に変わっていた。見上げると、月が枝垂れて影と光りになる草の向こうに細く挙がっている。どういう事だろうか。
「ジュリアン様は王家に呪いをおかけになるために、わたくし共の仲間のポーリャを遠くへやったのです。あの城へと生贄に献上されたポーリャは不本意ながら王家の者達に様々なことをさせているのです」
 人形は誰もが公爵と同じ生きた人になっていた。だが、大きさはやはり人形だった。
 彼らは草地を歩き、そして巨大な河に来ると小舟に乗り始めた。だがそれは元の大きさならば庭園を流れる小さな水路だった。滑らかな水は月光を映して流れて行き、ゆったりと舟は進む。岸では何体かの者達が袖を押さえ手を振っている。月に明るい草地の間に。舟が向かうのは元の世界ならば白い石に囲まれた泉のはずだった。だが、どんなにしてもたどり着かずに草地は生い茂っていき、そしていつの間にか夜でも透ける水面の先の底は苔が蒸し始める。森へと入って行き、時々小川を夜行性の動物たちが飛び越えていって公爵は身を低くしては誰もが息を潜めて彼らの下を通り過ぎる。
 次第に小川の先に巨大な木の陰が見え始めた。その木はところどころに祭りの日の様に明かりが灯されかけられており、ぼんやりとした光りをなげかけ広げている。よく見ると、その夜で暗い葉の向こうや枝には小さな人……きっと人形たちだろう。座ったりしているのだ。大きな木は下方の根っこが持ち上がっており、その間に扉が幾つも取り付けられている。太い根っこの下に住まいがあるらしいのだ。
「我等は人形の魂です。殻の身だけは部屋に残り、我等はこうして外に出ることが出来るのです。しかし、この次元は我等に導かれたものたちしか見えません」
 人形が小舟を蔦の垂れる岸につけ、彼らは降り立った。
「ジュリアン様も同様でした。少女の頃、われわれのこの場所に誘いいつも一緒に遊んでいました。しかし、大人になるにつれこの次元の事を忘れて行きました」
 この人形はきっとジュリアンの小さな頃から大切にされてきたのだろう。他の人形たちもそれらが多いに違いなく、年齢を重ねるごとに思い出と共に増えていったのだ。
「わたくし共の間で一体、魔女の製作した人形がおりました。それをジュリアン様は知らずにオークションで競り落としました」
 そして彼女はその晩から夢を見るようになったのだという。呪いのかけられた人形と知らずにベッドに飾り眠り、深夜になると寝覚めの悪さで起き上がり日々彼女は憑依されて行った。人形達は何度も彼女を助けようと腰壁の暗い影から彼女を少女の記憶と同様に呼び続けたが、既に彼女の耳にはそれらは聞こえずに魔女の呪いに心が蝕まれていく。そのオークションは人形好きを知る魔女の末裔が仕掛けさせたらしく、その魔女は既に王家によって罰を科せられていた。ジュリアンは夢で日々王家の悪夢を見続け、そして魔女の思う様に彼らを呪うようになってくる。そしてそそのかされたままその呪いの人形を王家へ献上たしたのだった。
「わたくしはジュリアン様のもとのお優しいままに取り戻したいのです。彼女は我等の髪を優しく梳かしてくれて、ドレスの綻びも見つけると直してくださり、毎日語りかけてきてくれました。よく明るいお庭へ連れ出してくれもしました。夜は我等は彼女をもてなしてこの木の下で時間も忘れて回って踊りあかしました」
 公爵は幾つも輪になって回る花冠の少女の人形達を見た。明かりが影を伸ばし彼らを照らして回転する。
 時々、不可思議な黒い影が木々の向こうから見え隠れした。
「あれは魔女の影です。彼女の怒りは強いのです。王家にとって古くから王家の行く末を暗示する魔女は大切に扱われてきました。しかし、謀反となる家来の名前を言ったとたん、王は怒りに触れてしまったのです。魔女は連れて行かれてしまいました。それが王の信頼するものだったのですから、その後見事に裏切られたことを知ったというのに彼らは魔女の存在を禁忌としたのです。そのために魔女は檻で呪いを掛けた人形を作り、彼女の懇意の男にそれを預けてオークションにいつか掛けさせることを言い残しました。時代も流れると魔女の娘はそれを伝え聞いたのです」
 月が傾き始め、その細さが向こうの木々の先へと沈んでいった。辺りは闇も暮れて木々は静寂の暗がりへと包まれていった。夜がしんしんと深まっていく。

 目を覚ますと、ジュリアン様の夫である将校がいた。
「将校殿……」
 彼は起き上がると室内を見回した。
「私が帰ってくると廊下で倒れていたので驚いたよ。ジュリアンも見当たらずにいるままで、どこへ行ったのやら」
「お忙しかっただろうにとんだ災難でしたな」
「いや。問題は無いさ」
 彼らは部屋を出るとジュリアンを探し始める。やはり外は夜になっており、彼は一度人形達の部屋へ向かうことにした。
「おや。人形の部屋に鍵が掛かっている。将校殿。鍵を持って?」
「この部屋はジュリアンしか開けない。鍵も彼女しかもってはおらんだろう」
「蹴破っても?」
「致し方ない」
 公爵は息を吸い、思い切りドアを蹴り散らした。するとそのドアが開けられ乱暴に開き、公爵は足を下ろして暗がりを見た。
「ジュリアン!」
 彼女は人形達を抱きかかえて絨毯にうずくまっていた。夫が駆けつけると抱え起こした。その目元は酷く疲れきり、虚ろだ。ジュリアンとも思えない。
「また何か悪夢でも見て魘されたのかい」
 夫婦間で話した事があったのだろう、優しく将校が彼女に聞き、ジュリアンはソファーに座った。
「人形達が公爵を連れて行く夢を……不思議な夢でございます。私が……私が騙されているのだと。そんなこと……」
 彼女の目が変わり、いきなり怒鳴り始めた。
「そんな事はございません!! そのような事が!!」
「ジュリアン!」
 将校が抑え、公爵は人形達を見回した。だが何も動くことは無い。ジュリアンが茶色の衣装を抱え込んで丸くなり、少女の様に泣き始めた。まるでそれはあの大木の幹のようだった。安堵を与えるような色味に思えた。ジュリアンが将校に泣きつき彼はなだめ続けた。
 ジュリアンは泣きつかれて眠り込んだらしい。

 彼女は黒い糸の束ねられた流れを見て、咄嗟にそれを掴んでいた。
「お待ちになってください」
 その糸は闇に艶めきながら流れて行き、彼女を連れて行く。そして、その間にも恐ろしい窓が空間に幾つも開けられて目の前に広がる。
 魔女が牢屋のなかでだんだんと弱っていくさなかに一針一針刺して行くあの人形。手は既に血豆が出来て痛々しく、床に落ちる手鏡に映る姿は恐ろしいほど青白かった。ずっと呪いの言葉を呟き続けている。どれもが魔女自身の記憶らしく、開いては綴じ、綴じては開いていくまぶたの様に続く。だが、向こうから懐かしい声が聞こえていた。
「その魔女の髪から手を離してジュリアン様。そのままではあなたは連れて行かれてしまう。一生、連れて行かれてしまう……」
 ジュリアンは指や手に既に絡みつく黒髪を見てはうろたえ、目を綴じて願った。その声のする方へ向かうことを。
 どしんと尻餅をつき、彼女は辺りを見回した。髪をかきあげ、茶色のドレスを正してすぐに思い出した夢の場所に包まれていた。
「あなたが古い記憶に繋がるように茶色のお召し物を着てくださって助かった」
「あなた達……」
「緑の色は新しい記憶の色。どんどんと生まれていく生命の色。それは以前の記憶から離れて行って成長する希望の色」
「茶色は木の幹ともなる古の記憶の色。過去の色。生まれたときから変わらずに空気と成長していく空気に触れ続ける色」
 少女の人形達が弧を描きながら回り踊る。
「知っている。その唄……ああ、なぜずっとあなた方を私は近くにいながら忘れていたのか……」
 彼女は膝を付き人形たちを抱きしめた。
「怖い夢を見るのです。そこから開放されるにはあの人形を手放さなければならなかった」
「彼女自身も恐れているのです。魔女の呪いを掛けられてしまい生み出された自身の身を憐れにも思っているのです。あなたは彼女を手元に戻し、魂を浄化しなければならないの。魔女の魂と共に、可哀想な魔女……」
 人形達は涙を流しながら言った。
「我等は浄化された後の我等が仲間の人形を我等が内へ招き入れとうございます」
「ええ、ええ。私も心よりそれを祈ります。あなた方、ずっといてくれたのね……」
 ジュリアンは微笑み、そして何かの黒い影に気づいてはっと顔を上げた。
「………」
 この森のなかへは入ることが出来ない魔女の魂が木々の間から見つめているのだ。それはそれは、寂しそうな顔をして、すでに泣き暮れた顔をして。美しい顔をしたその魔女は若いうちに刑罰を与えられ檻に閉じ込められた。その美貌は怒りに塗れているころは怒りに隠れていた。しかし今は深い哀しみにとりつかれたままにさめざめと泣いている。
 ジュリアンは夢に見たいた人物だと認めると、彼女をそっと手招きした。
 木々の間から陰が伸び始める。今日は新月。月は何処にも無いというのに不思議なもので、彼女は何かの光りに照らされ始めた。それは木々の先から見え始めた。彼女がまた王家の魔女として大切にされてきた記憶の日々だった。現在の王がまだ子供の時代は魔女の部屋に忍び込んでくる彼とよく遊んであげていた。その子供時代の現在の王が子猫を拾ってくると一緒に餌をあげたりもした。しかし王子がまだ六歳になったばかりの頃、魔女は連れて行かれたのだ。美しい庭で竪琴を爪弾いた日々も、光る泉と小川に小鳥達やそよぐ柳を見てきた日々も。
 それらの記憶が怒りと哀しみに勝って魔女の心にやってくると、いつの間にか魔女は人形達の秘密の砦にいた。
 魔女は美しく透き通る瞳でジュリアンを見ると、ジュリアンはその若い娘さんを思わず抱きしめていた。ジュリアン自身は夢を見ていてもどれも断片的で言葉も切れ切れだったので魔女自身が何者だったのかはずっと分からないままだった。先ほど人形達が言うまでは。
 魔女はジュリアンの幼少の頃からの思い出の場所と記憶に包まれて安堵として目を開いた。
「わたくしは何十年も昔、あなた方の仲間を作りました。それはジュリアン様の家系である王家に復讐を果たすため。もう、あの人形を開放してあげなければ……」
「それであなたが心の闇から開放されるのです」
「あなたはわたくし共の一人の仲間をつくって頂いた方なのです」
 だんだんと暗闇は木々の向こうから朝日が見え始めた。
 魔女は横顔を照らされ、そして微笑んだ。
「ええ。あなた方の仲間の人形を受け入れてやってください」
 さらさらとした声が流れて行き、ジュリアンはだんだんと深い眠りへ降りていった。
「緑の色は新しい記憶の色……。 茶色は木の幹ともなる古の記憶の色……」
 耳に優しげな人形達の声が響く……。

第六話 「子供の罠」

 地面から草を二束、束ね拠っては先を繋げ編みこんだ。
 少年は得意げにそれをたくさん草地に作って行き、その周りには蝶やバッタなど様々な昆虫が飛んでいた。
 その草地に座る少年の周りにはたくさんの騎士の人形が置かれており、一部は四升に整列し、一部は一列に剣を掲げ整列し、一部はてんでばらばらに彼を囲っていた。まだ午前の涼しい気候。影もゆるく斜めに伸びている。
 少年は周りを見回すと立ち上がり、その場から走って行った。
 ぬいぐるみをたくさん持ち寄るとそれを騎士たちの周りに置いていった。しばらく砦となる草の塔を取り合う戦いごっこをしていた。
 十時になると少年は眠くなり始め、人形を抱えたまま眠り始める。

 五才の少年ジャメルは翌日も人形遊びをするためにそれらの入った籠を両手で持って走って行った。
「うわ!」
 ジャメルは叫んで柔らかな草地に転がり、足元を見た。昨日自分で拠った草の塔が罠になって足に引っかかったのだと分かった。
「う、うう、ジェロームおじさーん!」
 大して痛くなかったがジャメルは大泣きし始め、その声に大木の下で妻のルクサールと共にくつろぎ彼女の唄を聴いて和んでいた公爵は驚いて顔を向け、草原に転がる甥っ子を見ると走って行った。
「どうした坊主」
 抱き上げてやるとすぐに泣き止み、籠から大量の騎士たちが溢れかえっていた。二人でそれを籠に入れる。
「これでね、戦いごっこするんだ!」
「へえ。おじさんも加えてくれ」
「いいよ!」
 ジャメルはなにやら難しい名前を騎士一体一体につけているらしく、それを言いながら人形遊びを始めた。ルクサールはくすくすと微笑んで木漏れ日に揺られながら夫と甥っ子を見ていた。
「やあ。ジャメルが申し訳ないね」
 公爵の弟であるマティスはルクサールの横に座ると彼女に微笑んだ。ルクサールも挨拶を交わすと、すぐに変わり者のオドレイ夫人がやってくる。彼女はルクサールがお気に入りでいつでも彼女に色目のようなものを使ってくる。息子のジャメルはやんちゃだが女性に関してはシャイな性格でルクサールを前にすると一切喋れなくなった。オドレイ夫人はだいたい乳母に子供を預けているのであまりルクサール自身はオドレイ夫人の生態なるものを分かってはいなかった。
 今度はジャメルは自分たちで戦いごっこをしようと言い始め野原を駆け回り始めた。
「よし捕まえてやるぞジャメル!」
「僕はアルトロメイス・ヴァン・フィルマン・ロレンツォ・カルレ・ジュール・エルキュール=ダンブレシオ候から命を受けた名誉騎士マルタン・エディ・ルシアン・モリス・ジャン・ティエリー・スタニスラス=デフラミンク大佐であるぞ! ボリョボリョ・ポニャーロ・ペカペケ・プニャリャン・ケフーバ・ディオニュレンチュ・チュッチュ=パキョーヌめ!」
「なんで俺だけ妙な名前……。ま、待てマルタン・エ……ティエ、モ……、……? デフラミンク大佐め! うわ!!」
 パキョーヌ……、ジェロームはその場に派手に転んで何かにつっかかって足元を見た。向こうで草地に塗れて甥っ子がけらけら笑っていてころころ転がっている。
「大丈夫か我等が好敵手ボリョボリョ・ポニャーロ・ペカペケ・プニャリャン・ケフーバ・ディオニュレンチュ・チュッチュ=パキョーヌ!」
 と心配した笑い声を掛けてくれはするもののやはりジャメルはけらけら笑い転げていた。
「全くこれにジャメルの小僧も引っかかったな?」
 公爵は足元に絡まる草に手を伸ばし、何かの影に気づいて顔を上げた。
「………」
 そこにはジャメルの無口な姉が立っていて、その十一歳の少女アルテミシアは腕に草にまみれたぬいぐるみを抱えていた。公爵は今だに姪っ子でもあるアルテミシアの喋った声を聴いたことが無く、いつでも無表情の彼女に微笑むと逃げられてばかりいた。すぐに父親であるマティスの足元に隠れてじっと上目で見てくるのだ。だからといえ、喋ることができないわけでもないらしい。時折彼らの屋敷に行くと美しく高い歌声が幻想的に聞こえるが、その正体が彼女なのだとおぼろげに思っていた。だが実際確認したことは無い。
「やあ。アルテミシア嬢」
 彼は転んだままはにかんで、彼女はいつもの服装、白のネグリジェの様なドレスでそのまま他のぬいぐるみも抱え込んで走って行ってしまった。ジャメルはそんな姉が走っていくのを「せっかくぬいぐるみも遊んでたのに!」と地団太を踏んで姉の部屋から勝手に持ってきたことも忘れて足をばたつかせた。
 遠くから背を向け肩越しにじっと無表情で伯父である公爵を見てくる。だがすぐに前を向いて屋敷のあるほうへと走って行ってしまった。いつでもオドレイはそんな娘にすら気を向けないので、ルクサールがその後を追って行った。
「うわ!」
 今度はジャメルが彼の背にのっかって来てわいわい騒ぎ始め、公爵はくすぐり攻撃を始めてきゃはははという笑い声が響き渡る。
 ルクサールが屋敷の廊下を歩いていくと、その先には落ち込んで歩いていくアルテミシアの背中があった。そっと歩いていき優しく声を掛ける。
「ぬいぐるみ、一緒に拭きましょうか」
 彼女は涙をぽろりと流したままルクサールを見上げ、こくりと頷いて共に歩いていった。
「でも、ジャメルがいると楽しいでしょう。暇しないわね」
 アルテミシアはこくりと頷き、ルクサールは微笑んで彼女の髪を撫でてあげて二人でハンカチーフで草や露のついたぬいぐるみを拭き始めた。
「アルティね……」
 ルクサールははたとしてぬいぐるみからアルテミシアを見た。とてもあどけない声が姪っ子のものだと分かると、驚いたがそれを出さずに優しく聞き返した。
「ん?」
「いつもいつもジェロームおじさんが英雄なの」
「え? そうなの?」
 ルクサールは彼の若い頃の無鉄砲さや最近は随分治ったものの歯に衣着せぬもの言いに困らされてきたので首をかしげ続けていた。
「ふ、うふふ」
 そんなルクサールに初めてアルテミシアがくすくす笑い、その時の顔は実にあののんびりした母親オドレイ夫人にそっくりだった。その声でよく聞こえる歌声が本当にこの子の声だったのだと分かった。
 彼女はぬいぐるみの手を動かし見つめながら言った。
「アルティ、大人なるのが怖いの。だって、そうしたらジェロームおじさんはもっと年上になっちゃうでしょ? そしたら、お話しする勇気が出る前にアルティは他の男の人と結婚しなくちゃならなくなるの。それが怖いの」
「アルティ……」
 髪を撫でてあげて肩を抱きしめてあげた。
「あなたにはまだ時間がたくさんあるわ。ね? おばさんともこうやってお話できたんだもの。もうちょっとしたらジェロームおじさんともお喋りできるようになるわ」
「うん……」
 アルテミシアがぬいぐるみを抱きしめてから目を綴じた。
 草原では再び縦横無尽に作られた罠と化した草の砦がどんどんパキョーヌの足を狙いデフラミンク大佐のくすぐり攻撃にあって少年を勝利へ導いていきもう勘弁と彼は叫び笑いながらぐだぐだになっていた。
「いつまでもお元気ねえお義兄さんは」
「はは。小さな頃からジェロームは僕とは違って機関坊だったからね。体のつくりが違うよ」
 もう何度引っかかったか不明なほど草に塗れたあと、公爵はまくっていた腕で汗をぬぐって草原に寝転がって青空を流れる雲を見た。その横に騎士の人形を手にジャメルも寝転がる。
 ジャメルの目には騎士が闘う姿が見えていた。島から島に渡るには船の交渉が必要でアルトロメイス・ヴァン・フィルマン・ロレンツォ・カルレ・ジュール・エルキュール=ダンブレシオ候の手形を持ち空を小鳥の背にのりかけぬけていく真っ最中だった。小鳥では海を渡ることは出来なかったので船が必要だった。その船は草舟で手配され、将校引き連れる一隊は乗り込み向かう。
 ジャメルはうとうとと午後のお昼寝に入っていた。

 オドレイ夫人はぬいぐるみに塗れてアルテミシアと眠るルクサールを見つけると、その横に座り髪を撫でた。
 ルクサールは目を覚ますとにっこり微笑むオドレイを見た。
「こちらへ来て」
 オドレイはアルテミシアに掛け布団をかけてあげてからルクサールに言い、彼女は着いて歩いていった。
 アルテミシアが目覚めると、ルクサールおばさんはいなくなっていた。
「どこに行ったのかしら……」
 彼女は起き上がり不安げに見回した。しかしルクサールは見当たらない。
「あなた知ってる?」
 アルテミシアはぬいぐるみに呼びかけ、その灰色のウサギのぬいぐるみはまぶたが綴じ開きをし、そして青い目が彼女を見た。
「僕はさきほどアルティの母上がルクサールおば様をお連れする姿を見たよ」
 おどけた顔のウサギのぬいぐるみが言い、音もなく寝台から飛び降り可愛い様態で歩いていく。キリンのぬいぐるみとクマのぬいぐるみはいつもの様に窓際へ歩いていき星空を見始めた。フラミンゴのぬいぐるみは昨日原っぱで草の砦で救い出されるお姫様役をデフラミンク大佐からおうせつかっていたので、今でもその役に酔いしれて自己を姫と思い込むオスのフラミンゴぬいぐるみで、いつも仲の良いバッファローのぬいぐるみに追い掛け回させて乙女に成り切っていてお姉さん言葉が響き渡っている。ライオンのぬいぐるみは子猫のぬいぐるみに毛繕いをされていて大きなお口をあけてフェルトで出来た牙に挟まる草を子猫が取ってあげていた。その向こうでは花瓶の花をオオカミのぬいぐるみが薫りをかいで大きな尻尾をふらふら揺らしている。オオカミは昨日ぬいぐるみ隊では王子様であり騎士長の役を授かっていたので、今はオスのフラミンゴよりも花の薫りを楽しむメスのオオカミのぬいぐるみでもあった。ジャメルにはぬいぐるみのオスとメスは分からないのだ。
 ぬいぐるみと話すことが出来ることをはじめアルテミシアは不思議なこと、変わったことだとは知らなかった。お友達の誰もぬいぐるみと話しているところを見たことが無い。だが実際ぬいぐるみは彼女の前で動いて自我を持ちそして時々泣くアルティをいいこいいこするのだった。
 ルクサールは動くぬいぐるみ達を向こうから見て大いに驚いていた。しかも彼らは姪っ子と話をしているのだ。彼女も小さな頃はお人形ごっこをしていたが、それは実際は自分が人形役やぬいぐるみ役の声まで再現して手で彼らを動かしていた。それを自分のお友達だと思い込んでいた経験は誰にでもあることだ。だが、シャイなアルテミシアのぬいぐるみ達と彼女は違う。ぬいぐるみはまさか妖精や小人でも入っているのかと勘違いするほど、元気に動き回って今はもみくちゃになっているのだ。
「あの子、あたくしと一緒」
 どこか掴みどころの無いオドレイ夫人が言い彼女はルクサールの細い手を撫で続けている。どこか、これは分かった。オドレイ夫人は子供なのだ。少女のままの様な感覚であって、こうやって甘えてくるのも女友達の幼い子達のような感覚のままなのだ。ぬいぐるみ遊びをまるでいつまでも双子でし続ける感覚のように。
「あなたも人形やぬいぐるみと話して?」
 オドレイ夫人は微笑みながらルクサールを見て、衝立向こうのドアから出て行った。ルクサールも静かに出て行く。その背には「アルティ。お背中を掻いて」という子猫の声が聞こえていた。

 アルテミシアは翌日、ぬいぐるみ達を車輪付きの箱に入れてヒモで引っ張っていき、草原の向こうにある湖につれてきた。
 いつもの様に小舟に自分とぬいぐるみ達を乗せてオールを漕ぎ始める。
 ぬいぐるみ達は視野の低くなった湖面で、深い緑の森を見上げたり岸の黄緑の草地に囲われたり青空を撫でて吹く風を受けたりしていた。湖面からの森は実に迫力がある。オオカミのぬいぐるみは外に出ると意気揚々としてりんとした声で言い始める。
「今助けに行くぞフラミンゴ姫!」
「まだ浮島に姫はたどり着いていないわ。真横にいるわよ」
「たあー!」
 言いながら小舟の上を跳んだり跳ねたりしており、ウサギのぬいぐるみはやれやれ言って花の冠をつくり続けていた。キリンのぬいぐるみは首が長いので浮島が見え始めていた。
 湖を一周、二周ゆっくりと回りながら過ごしてから、湖にいくつかある草地で小さな浮島に上陸する。そこで皆でのんびり過ごしてお昼ねしたり、サンドイッチを食べることが好きなのだ。
 ライオンのぬいぐるみは大きなあくびをして草原のうえで眠り始め、耳だけはいろいろな方向に動いている。子猫のぬいぐるみは水面をゆく小魚を見続けている。
 アルテミシアはうとうとと眠りについて、野花がそよそよと風に吹かれる。
「あ! いたいた!」
 また小さな弟のジャメルがぬいぐるみに囲まれる姉を岸から見つけた。しかしジャメルは小さすぎて舟を漕げないので行っては駄目だと父と乳母から言われていた。ジャメルは辺りを見回していて、腰には三体ほど騎士の人形をくくりつけている。
 ぬいぐるみ達はアルティの前以外では喋ったり動いたりしないようにしているので、また黙り込んで動かないようにした。ジャメルは向こうにいる公爵を見つけて手をぶんぶん振っているので、きっとここまで来るつもりだろう。アルテミシアはいつでも眠りたいときは背中をばしばし叩いてきても狸寝入りをするので結局はまたぬいぐるみ達だけをさらっていき人形遊びに加えるつもりなのだろう。
「どうしたジャメル。またお姉さんのところに行きたいのかい?」
「うん!」
「分かった分かった」
 公爵はもう一艘舟を出してやり、ジャメルも乗せて湖面を進んでいく。
「湖の上はやはり涼しいなあ」
「うん!」
 またアルテミシアは眠っていたのでジャメルは公爵に言った。
「アルティはよくここでお唄を歌うんだよ。隠れてると歌うんだ。誰かいると歌わないんだよ。それで夜もおねむの前に歌ってるんだよ」
「へえ。やっぱりアルテミシアだったのか。歌姫の正体は」
 いつでも人形遊びをするときはまるで入れ替わったかのように驚くほどかつぜつよく大人の口ぶりで細かい設定を叫びまくるジャメルだが、普段の口調はやはり幼いし興味があること以外はあまり覚えもまだよくない。そこが子供の不思議なところだと思う。公爵の子供は今は十四歳であり寄宿舎に通っており実家から離れているのでそんな時代も懐かしかった。
 浮島は全部で八つ湖に浮かんでいて、三つが細い橋で繋がっている。どうせいつもアルテミシアは眠っていると起きないので、橋で繋がる浮島を二人で渡り歩いて森を見たり飛ぶ鳥の種類を当てあったりしていた。水鳥がやってきて湖面に停まったり羽ばたき始め、岸にも何羽か集まってくる。一番大きな浮島に来ると、ジャメルはそこに持っていた人形を外して遊び始めた。
 何か気配がして公爵は視線を向ける。ここはアルテミシアが眠る小さな浮島も近いのだが、なにやらたくさんの視線を感じずにはいられないのだった。それもその筈で、先ほどまで皆がアルテミシアを囲い見ていたはずのぬいぐるみ達がみんな公爵のほうを見ているではないか。
「………」
 これもアルテミシアの悪戯か、ぬいぐるみの方向を眠ったふりをして変えているのか、こちらを愛らしい顔をして見て来ている。動きもしないはずのぬいぐるみ達は風にそよがれていた。子供のすることはよく分からないのでジャメルの悪戯好きも分かっていることだし、公爵ははにかみながら顔を戻そうとした。
「え」
 ライオンのぬいぐるみが欠伸をして公爵は二度見し、すでに不動の態だったので瞬きをした。
「おかしいなあ」
 ジャメルは騎士ごっこではしゃいでいて気づかない。公爵は首をかしげながら向き直った。ぬいぐるみ達はくすくす笑ってまた寝そべった。
 ばっと公爵が見ると目を見開き明らかにぬいぐるみの形体自体が姿勢から変わっているので口をあんぐり開き、その彼の目の前で浮島にぬいぐるみ達がアルテミシアを囲いとんとん飛び跳ね回っているのだ。
 公爵はぶったまげて倒れてジャメルは振り向いていきなりボリョボリョ・ポニャーロ・ペカペケ・プニャリャン・ケフーバ・ディオニュレンチュ・チュッチュ=パキョーヌが騎士の攻防に加わったので人形でぱしぱしと攻撃をしながら例の難しい設定を叫び始めた。
「女王アルテミスに捕らえられた我が薔薇色の姫を同盟を組んで救い出そうぞ! おぬしが働いた我等王国への謀反をそれで撤回してしんぜよう! こらこの腑抜け者め起き上がれ! 共に行こう! これ!」
 本日もぬいぐるみと人形たちの世界は平和に過ぎ去っていくのだった。

第七話 「人形」

 ジルベール・ダルクールは寄宿舎に通う十四歳の少年である。両親は王国からどれほどかの領土を任されているダルクール一族の主ジェラール・ダルクール公爵とその妻ルクサール夫人だ。
 七歳から寄宿舎で過ごすジルベールは行動的な両親の性格をあまり引き継いではいない。静かな少年であって成績は良く乗馬やポロにも長けているが自身からはしゃぐ事も無い性格だ。
 ジルベールは切り揃えられた前髪から黒い目元が覗き、白いシャツの首元を飾る黒いシルクのシンプルなリボンに黒のカーディガンと膝丈ニッカポッカ姿で静かに学園の廊下を歩いていた。漆喰で固められた廊下は黒い窓枠とドアが続き、今日も窓から透明な陽が斜めに射していて、各所に飾られる花瓶の花弁を透かしている。
 その突き当たりに花の描かれた絵画、そしてその下には小さなテーブルが置かれている。
「………」
 彼は影を引きながら歩いていくと、その突き当りのテーブルに置かれた人形を見つめた。
 それはとても綺麗な人形で、とても静かな態をしていた。彼はこの人形に只ならぬ想いを寄せるようになっていた。その人形はよく彼の空想に現れては宇宙を飛び回る感覚にさせてくれて、幻想的に夢をみさせてくれる。つまらない授業も眠るときもふとした友人との会話の間も。
 彼はその人形に心で名前をつけていた。
「レケンドラー」
 すでに表情が無いながらも光る彼の瞳は陶酔の色を見せ、その背はどこまでも隙があった。
「ジルベール」
 友人が彼を見つけ近付き、ぼうっと学園の人形を見ているジルベールに声をかけた。レケンドラーという名前も聴こえていた。
「誰だ? レケンドラーって」
「………」
 ジルベールは耳に入っていないのかただただ人形レケンドラーを見つめるばかりで、その前に手をひらつかせた。
「ああ、何? アルベルト」
「そろそろ食堂に行こうぜ」
「そうだね。行こう」
 二人はその角を曲がって食堂のある建物へ向かう為に回廊を歩いていった。
 レケンドラーはずっと廊下の床を見つめ続けている。

 深夜、アルベルトは痺れを切らして起き上がってジルベールの横に来て見下ろした。
 このジルベールの寝言でこの二ヶ月間はずっとこの時間に起き上がって朝まで眠れない。
「レケンドラー……」
 誰なのかわからないが、学園にも寄宿舎にも先生にもレケンドラーはいない。
「レケンドラー!」
「勘弁してくれよ!」
 壁に飾られたピンクのカップ咲の薔薇をばしっと起きないジルベールに叩きつけて花弁と大量の薔薇が彼の白いシーツに舞った。
 毎日毎晩に近くどんなにゆすり起こそうとしても頬を叩いてもその目や口を無理やりこじあけ起こそうとしても、仕舞いには寝台から引っ張り引きずりまわそうが深い眠りに落ちているのか、あまりに深い眠りに囚われ過ぎているのか一切目覚めずに目を冴えて彼を睨み朝ぼらけに明るくなり始める空も落ち着くまでは目覚めもしないのだ。
 それでもアルベルトはジルベールにそのことを言ったことも無い。一時は友達の仲を絶交したいと思うほど悩んだが、結局は言えないのだ。いつでもジルベールはアルベルトを細かいところでもフォローしてくれるし色々な相談に乗ってくれて静かな性格だが良い奴なのだ。
 薔薇を引き連れて寝返るジルベールはまた寝言を始める。何度その内容を解釈しようとしても要領を得ない。
「だからここに居るのに……出してくれ」
 檻にでも閉じ込められているのか、その囁き響く声はまるで宇宙の砦にでも響くような声なのだ。
「出せないよ。お前はいつでもそうやって夢に悩んでいるのか?」
 ジルベールが何も言わなくなり寝息も聞こえなくなった。
 アルベルトは廊下を出て最近覚えた場所で丸くなって眠ることにした。とはいえ、ただ目を綴じているだけなのだが。身体だけでも休ませたい。寄宿舎の階段踊り場にはテーブルとソファが置かれており、この所は三日間目覚めるとこのソファーで眠るようになっていた。初めからここで眠っていればいいとは思うが、夜眠ったばかりでは二時間ほどは先生が見回りをしているのだ。一層の事部屋を移してもらえれば友人として何の支障も無く接することが出来るのだがそれは許されない。
 また彼は寝転がりながらテーブルに置かれた人形を見た。学園や寄宿舎には何体か人形がある。この踊り場の人形、まるで双子の様に学園廊下突き当りの人形と同じ顔と同じ装いだ。それでも色が異なった。学園の人形は金髪に青い瞳と黒い衣装だが、ここにあるのは黒髪に茶色の瞳で白い衣装を着ている。だから雰囲気が違って同じだとはしばらく気づかなかったのだが、こうやってここ数日夜の暗がりに小窓の月に照らされて見る人形は同じだと分かった。
「まさか人形をレケンドラーって呼んでいたのか? ただ夢を思い出してふと言っていたんだと思ってた」
 その女性の人形は実に美しい。まるで女神の分身のようだった。実に冷たい顔立ちをしておりミステリアスさがある。レケンドラーという名前よりも、むしろもっと崇高な名前が似合いそうだった。だから結びつかなかったのだが。あの時のジルベールの横顔は何も映していないかの様にもおもえた。目は何年間も見慣れてきた人形を見ているようで心は違うところに行っていた。今に、感覚どころか全てを奪っていこうとする誰かがいるのだ。それがレケンドラーなのだ。出来れば彼の相談に乗ってやりたいとは思うのだが、何しろ普段無口なジルベールは言ってこない。それに毎朝普通に目覚めるので夢も忘れているらしかった。
 だが、明日こそは聞こう。それでなければ今に首でも絞めてしまいそうだ。なので何か起こして塔にでも閉じ込められる前に決意してアルベルトは息をつき目を綴じた。

 レケンドラーは魅力的な瞳でジルベールに微笑んだ。
 だんだんと力を失っていき目が霞みレケンドラーの群青色の風を受けて透ける衣装も頬をなで眠くさせてくる。
「目覚めたくない……」
 銀色の星が大群になって押し寄せて流れて行き、銀の彼女の装飾品がしゃらしゃらと繊細な音を立ててゆく。太陽は容赦なく彼女に押し寄せてジルベールの身も包もうとする。太陽の光りの檻に閉じ込められた彼はクリスタルの太い鎖に引かれる舟に乗って太陽の方向へ引っ張られていくほか無くなるのだ。
「出してくれ。夜の君のところに居たほうが良い……」
 どんどんと深い夜の底へと海の様に沈んでいくレケンドラーは黒い闇に染まっていき薄く色付いてきた空の色の瞳をした彼女は真っ白の瞼に閉ざさせていき長く尾を引く金髪をゆらめかせて夜の世界へ沈んでいく。そこにいたいというのに。
 羽根のついた白い冑を被った黒髪に白い衣装の槍を持つ女が威厳をもって太陽を背に現れ、彼を連れ去っていく。銀の馬車に乗せて夜の女神がはるか手の届かない場所まで。レケンドラーはいつでも何も言わずに、そして流れて行くのだ。
 夜の夢は悪夢だった。空想で昼に見るものとは違う。追いかけても去っていくレケンドラー。だからこそ恋焦がれて追ってその関係に病みつきになっているのかもしれない。昼の彼女がどんなにレケンドラーに素晴らしい幻想と愛を見せてくれても、また悪夢を見るために眠りたくなってしまうのだから。名も分からない白い衣装と黒髪の女神は黒馬が引き壮大な白い朝日の天を翔けさせる銀の馬車から押し落とし、彼は眠りの出口へと落ちていく。その出口では無い。その出口では無いのに、目覚めていく。
 ジルベールは目を覚ますと、甘い薫りにしばらくして気づいた。
「……?」
 起き上がると辺りを見回す。また今日も早起きをして窓でも拭いたりしているのか、同室のアルベルトは見当たらなかった。それよりも、何故か薔薇に塗れている乙女のようななりになっていて一輪手に取り芳しい薫りをかいだ。これがレケンドラーの残していった足跡ならどんなにいいだろうか?
 彼は朝の支度を始めると早々に部屋を出た。
「あれ」
 今日は朝の庭に行ってみようと思い階段前を通ったが、そのソファに何故かアルベルトがいる。上がって行き、ふとテーブルの上の人形を見た。
「朝陽の女神」
 今始めて気づいた。小窓の朝陽に照らされるその白い衣装の人形は、夢に出てきてジルベールからレケンドラーを奪っていく女神に似ていた。彼はアルベルトを見ると腕を叩いた。
「おい。こんなところで寝ていたら風邪を引くのに」
「うーん」
 目を覚ますと不眠の原因ジルベールがいて、彼は起き上がってジルベールを見た。
「どうしたんだ?」
「レケンドラーって誰だよ」
「………」
 昨日も聞いてきたことだとすぐに思い出した。その時も今と同じ顔をしていた。どこか鋭くて問い詰めてくるような、アルベルトらしくない表情で。
「何で?」
「毎日夢に魘されてレケンドラーって言い続けて」
「え?」
 ジルベールは途端に顔を染めて押し黙ってしまった。
 アルベルトはテーブルの人形を持ち走って行ってしまった。
「おい!」
 階段の上からその腕を振りかぶり、恐い顔のアルベルトが人形を投げつけようとした。だが、しばらく手を振るわせたまま動かずにいてジルベールを見ると人形の手を下げた。
 男女別棟の寄宿舎には女生徒も入らない。
「まさか人形相手に恋して?」
「!」
 ジルベールは俯いて口を噤んだ。背を向けて走って行き、アルベルトはすぐに後悔したが追いかけることが出来なかった。どうやって声をかけろというのか。まさか事実だったなんて、恋の叶えようも無い。

 美術室でジルベールは溜息をついて暗い目元をした。生きたように動くレケンドラーの油絵が彼により描かれている。ただ座っているだけの人形ではない。銀河を背に黒い舟に乗る深い青をした瞳のレケンドラー。こちらに微笑み、冷たい瞳をしている。シイタゲルコトヘノ……ジルベールは目を綴じてアルベルトが怒っていたので戻るのを躊躇っていた。たしかにそれは人形相手に本気になるような友人なんて不気味で仕方が無いだろう。だが胸をあつくするほど愛しくなってしまっているのだ。既に人形のレケンドラー以外目になど入らないほど。
 だがそろそろ教室に行かなければ先生が来てしまう。彼は諦めてキャンバスに布をかけて美術室を出た。
 アルベルトはジルベールを見ると顔を反らした。ジルベールは俯いて席に座る。窓の外を見ると、青空を彼女が白馬に乗り気持ちよく翔けて行く。その青空には薔薇星雲も浮かび回転し、流星群も青く駆け巡り幾重にも青い空に溶け込みきらめいて流れて行く。幻想の泉が波紋を広げて全てを透明にすかして行く。レケンドラーはここまで花の絡むブランコでやってきては彼の頬を指で撫でて離れて行き甘い薫りを乗せ花を舞わせてはまたやってくる。彼は蔓の支柱に手を伸ばし、途端に体が浮いて駆け出していった。
「ジル!!」
 ジルベールは群青から水色に変わって行くレケンドラーの薄衣の腹部に頬を寄せすでに彼女の実在しない世界から出て行こうと目を綴じた。
 アルベルトはいきなり窓から身を乗り出したジルベールの腰を他の男子と共に掴んで引き込み、彼は気絶をしていた。緑の木々から白い花を高木につけて、その花弁が風に乗って教室に舞いやってくる。女生徒は驚き泣き顔になっていた。
 彼はベッドのある所へ連れて行かれた。
 目を覚ますと歌声が聞こえる。それは去年会いに行った従姉妹のアルテミシアの声にも似て思えた。どこかからか美声が聞こえ、行ってみるとベランダから歌う従姉妹を見つけたのだ。出て行くと、驚いたアルテミシアはすぐに部屋へ入っていってしまいカーテンも閉ざしてしまった。だが、その声よりももっと大人びていて、それがレケンドラーでは無いと分かった。
 辺りを見回すと、女生徒の背があった。
「………」
 長い髪は腰まで届き、金髪だ。彼女は泣いているらしく、声をかけた。
「あの……」
 少女は振り返り、青い瞳で彼を見た。途端にジルベールは息が止まりかけて驚いて声を失った。レケンドラー。
 だが紛れも無く少女はまだ成熟しきらない乙女であって、そして泣き濡っているのだ。
「君が唄ってたの……?」
 少女は頷き、ジルベールから顔を戻した。
「気分は落ち着いたかいアンナベル」
 先生が進んでくると目覚めているジルベールを見た。
「ああ。良かったよ。目を覚ましてくれて。何かあったのか」
「いいえ。ごめんなさい」
 先生は肩を叩いてあげてから女生徒を見た。
「これから教室へ連れて行く予定だったんだがな、今日から学園に入ることになったアンナベル・クラークだ。アイルランドから来た子でな。フランスの地に来たばかりで緊張をしすぎたようだ」
 ジルベールは頬を耳まで染めて俯いて頷いた。まさかレケンドラーが実在するなんて思わなかった。夢が叶うだなんて。

 「アンナベル」
 ジルベールは庭園を歩く彼女を呼び出した。その彼には既に今まで見つめてきたレケンドラーの人形の姿を映すことは無くなっていた。
「もし何も分からなかったら、僕に聞いてくれれば助けになるよ。それに、とても会ったばかりには思えないんだ」
 アンナベルは頬を染めて俯いて頷いた。
 アルベルトは向こうからそれを見ていて、口を閉ざし続けた。
 アンナベルが駈けて行きジルベールは口元が微笑んでいた。だが、その彼の目がだんだんと一点を見上げ、凍りついたようになっていくのをその場を去っていこうとしたアルベルトは知り足を止めた。まさか、また朝の様に何かやらかすのではないのだろうかと。だが、その場にジルベールはへたり込んでしまった。
 ジルベールはレケンドラーが怒ったのだと思った。漆黒の天空に青空が渦を巻いて飲み込まれていき、それは既に彼の空想の枠を超えて恐怖しか残らなく鋭い目をしたレケンドラーが黒い衣を広げて彼を襲おうと猛烈な勢いでやってきた。暴風を伴って銀の装飾を鳴らし彼女がやってくる。
「レケンドラー!!」
 ジルベールが叫んで倒れこんだ瞬間、幻想は消えて彼の目に青いのんびりとした空だけを映した。
「………」

 「え? 息子が?!」
 公爵は手紙を握り締めて走って行き、すぐに馬車の手配を取って妻と共に寄宿舎のある地方へと走らせて行った。
 数日してその村に到着すると、すぐに病院へ通された。
「ジル……」
 ジルベールはうわごとを言い続けていた。手にはレケンドラーを持ち髪を撫で、目は天井をただただ見ている。友人として顔を知るアルベルトと、金髪の外国人の女の子がいた。
「アルベルト。申し訳ないね。息子がこんなことになってしまって」
「いいや。俺はいいんです」
 公爵は進むと、妻のルクサールはジルベールの髪を撫でて口元を押さえて公爵に泣きついた。
「レケンドラー……僕だけだったんだ……君には……レケンドラー……」
「レケンドラー?」
「人形の名前みたいです。三日前、いきなり庭でレケンドラーって叫んで倒れこんで、目を覚ましたらずっとこういったうわごとを言ってるんだ。夢でも同じように寝言を言っていたけど」
 医者が来ると両親に小さく微笑んだ。
「息子さんは多少精神的に疲れているようです。話によると二ヶ月前から同じ夢を見ていたらしく、昼間もぼうっと空を見ていたり人形を見つめていたりとして、何か現実から逃れたいことでもあったのかもしれません。それももしかしたら落ち着けば戻ってくる可能性が高いので、様子を見てみましょう」
「Bhi se chor leis an diabhal……」
「………」
 女の子、アンナベルがアイルランド語で言い、誰もがアンナベルを見て彼女は言った。
「悪魔に憑かれたのよ……彼は」
「何を言ってるんだアンナベル。ご両親に失礼だぞ」
「でも、彼のあの様子はおかしかったわ!」
 アンナベルはガタガタ震え始めて公爵が彼女をなだめた。
「今は静かにしていよう。こいつもきっと今は静かにしてもらいたいかもしれない」
 彼らは病室を出ると医者が続けた。
「一応、あの人形をもって行こうとすると魘されるのでそのままにしておいているんです」
「あの人形が悪魔なのかもしれないわ」
「アンナベル。君の国では悪魔がそこまで頻繁に信じられて?」
「悪魔ばかりでなくて、妖精も信じられているわ。フランスにはそういう伝承は無いの?」
 公爵は困って気を落ち着かせたルクサールと顔を見合わせ、ドアから眠るジルベールを見た。目覚めている状態なのか分からない。何しろ目を開いて喋り続けているが、一切こちらに気を向けないのだから。悪魔なんて言葉か聞こえていたら取り乱すのではないだろうか。
「美しい人形に恋をしていただけです。きっとずっと彼女とのことを思い描いていたんだ。そうしたらそのレケンドラーに瓜二つのこの子が現れたから混乱したのかもしれない。だって、その前までちょっと取り込んでたから」
「なるほど……」
 公爵は無口な息子とは何を聞いても一つ返事だけしか帰って来ないし、それでも乗馬の話やポロの話になると花も咲くしいろいろな所へ連れて行くと最後には子供らしくはしゃぐ子だったので特に普通に育ってくれているのだと安心していたのだ。親戚の子達もだが、どうもダルクールの子供達はシャイな子が多い。公爵の弟にしても同様だ。
「ね。あなた……この事は言わないつもりだったんだけれど……」
 ルクサールが公爵を連れて行き、この前の事を言った。
「ぬいぐるみと一緒にアルテミシアが喋っていたの」
「本当か? 確かにあのぬいぐるみ達、動いた気がしていたが」
「あなたも以前から人形に関わることによく巻き込まれているし、もしかしたらダルクール一族は人形と何か深いかかわりが元からあるのではないかしら」
「妙なことを言うなあ。君も」
 公爵は再び入って行った。
「しばらくはこういった状態かもしれない」
「私はこの子としばらく一緒にいるわ。お願いあなた。許可を出してもらいたいの」
「お医者様がそれを許してくださるなら」
「ここは精神病棟なので、ご家族の看病は出来ないんです。優秀な者達が揃っているので、どうかそれを踏んでいただきたい」
 実際はいきなり暴れだす患者もいるし、危険でもあるのだ。ルクサールは不本意ながら頷いた。ジルベールの髪を撫でてから席を立つ。
「あの子のこと、よろしくお願いいたします」
「はい。あまり気を落とされずに」
「ええ……」
 彼らは一時病院の城を後にした。
「君達にも本当に申し訳なかったね。とても驚いたことだったろうに。どうか元気を取り戻してほしい」
「俺心配です。あいつは親友だから。確かに最近はちょっと喧嘩っぽくなってたけど、大切だからこそなんだ。ずっと一緒にいて、それなのに人形とかに気が行き始めて嫉妬してたんだ」
「あまり根を詰めすぎるな。な? 私もあの子にアルベルトがいてくれてうれしいんだ。一緒に見守っていこう」
「はい」
 アンナベルは公爵の腕の裾を引っ張って彼は振り返った。
「私、絶対に人形を作った人に聞くべきだと思います」
 公爵はアンナベルの青い瞳を見て、ただただ怯えている彼女を抱きしめた。
「分かった。安心できることが得られるなら調べてみよう」

 人形職人のバリドウ・ケニャンはフランス語が分からないので紹介をしてきた学園の理事長を見た。人のいい感じの表情は壁に様々な女性の絵画が飾られていた。
「彼女たちは?」
 なので理事長が間に通訳に入った。
「ああ、彼女は僕の妻です。既にもう年齢はかなり上になっていますが、若い頃はそれは美しい女性でね。今でも美しいけれど、それはそれは若い頃は美しい女性ねで、今でも美しい女性で」
「その女性はこの子に似ていて? 彼女はアンナベルと言う少女で、アイルランドから来た子です」
 アンナベルがやってくると椅子に座り、老人は丸まった背中のまま顔だけをまじまじと上げてアンナベルを見た。
「おやおや! これは若い頃の妻じゃないか。元気にしていたか。不憫は無いかね。それはね、私は何十年もお前を見てきてまた若く戻るなんておもわなんだ」
 公爵は横目で通訳している理事長を見て、理事長は横目で見てから顔を戻した。何も通訳がまずっているのでは無い。相当年が行っているのは一見してわかってはいたのだが。
「この人形と同じ顔で黒い衣装を着た金髪の人形はいつ製作を?」
「懐かしいなあ。これは双子の人形でね、私が四十代の頃に作ったからもう五十年も前かな。よくこんなに綺麗なままでいるよ」
 まさか公爵自身が生まれる以前からあった人形だとは思ってもみなかった。
「元気かいローザや。お前の姉妹のイザベルはどこへ行ったの」
「実はそのイザベルは私の息子を惑わしましてね」
「またか!」
「え?」
 公爵は首を突き出し瞬きして見た。
「美人だろうこの双子は!」
「はあ……」
 公爵はこれ以上は調子を狂わされると思い、しばらくは休憩をとることにした。

 アンナベルは廊下をおぼろげに歩いていた。ここは人形を製作した老人の館であり、ジルベールが眠り続ける原因になったのかもしれなく、そのご両親と共に来たのだった。
 先ほどまでの彼女ではなくなっていた。明るい色の瞳は何かの写しているかも不明で足元は頼りない。廊下は短く、その先に導かれていた。
『あなたが来れば分かる……』
 声は続いていた。まるでその声を聴いてはアンナベルの魂がどこかにつる下げられたままになったかの様で、自覚は無かった。
『ジルベールの元へいざなって』
 ドアノブに手を掛けた。彼女の影がうつり、その背後にぼんやりと他の影。ノブを回して暗がりの室内に入った。その途端、目の前は違った風景に包まれた。どこかそれは懐かしい、草原であって春の陽気。風が流れて行く。
 明るい草原にはいろいろな色や種類の野花が咲き、とてものどかだった。その先には長い髪の女性がいる。何か竪琴をかき鳴らし、なめらかな高い声で歌っていた。この声はアンナベルを導いた声だった。そして、思い当たった。似ている。アルベルトが言っていた『レケンドラー』という人形に似ている。人形を作った老人の妻の絵画とはまた異なる顔だった。
 彼女は歩いていき、それごとにその肖像は変わって言った。顔立ちが少しずつ。レケンドラーはアンナベルを見て、それはまるで鏡を置いたかのようにそっくりになった。レケンドラーに似たアンナベルよりも、アンナベル寄りの人形だった女性に。そしてゆらゆらと変わり戻って行った。
 アンナベルは自身の頬に触れた。レケンドラーは立ち上がり、彼女の肩に触れた。その瞬間、アンナベルの視界が倒れてレケンドラーの白いエンパイアドレスの足元が映し出される。その姿は視線を上げるときらめきとなって風に消えていった。視線を向けると、自分がいた。顔がレケンドラーになっていた。先ほどの変化は彼女の身体を人形が乗っ取った瞬間のゆらぎだったのだ。彼女は声が出ない。実態さえなかった。自分の身体は歩いていく。草原に一つだけあるドア。アンナベルは草原に残されるのだと思い、目を綴じた。だが目を綴じると、レケンドラーの記憶だろうか、草原の草花の陰に隠れていたかのようなそれらの記憶の陰がそっとアンナベルに迫ってきた。
 ジルベールがいた。だが面影があるぐらいで、十歳にも満たないと思われる小さな子供で、草原で一人遊んでいる。その向こうには髪の長い女の子がいた。その子も同じ年齢ほどと思われる。レケンドラーに似ている。彼女は男の子を見つけ、無表情になって歩いていった。背後まで来るとジルベール少年が振り返って女の子を見る。二人はにっこり微笑み合い、手を取り合って走って行った。夕暮れが草原を染め上げるまで遊んだ。明るい林の先の泉だったり、さらさらと細い滝の棚だったり、青い花だけが咲き乱れる不思議な白い石の丘だったり、苔の蒸す緑の洞窟に入って行ったりした。レケンドラーは喋らなかった。声が出ないのかとジルベールは思ったらしかった。レケンドラーの記憶はどんどんジルベールだけになっていく。草原に戻って夕時を迎え、空は色味をワインレッドにしていく。ジルベールはレケンドラーのおでこにちゅっとキスを寄せ、彼女の頭に花冠をかぶせて微笑み、夕陽の方向へと走って影になっていった。その時レケンドラーは不安を感じてもっと彼と共にいたいと思った。
 光りが落ちていくと、共にレケンドラーは光りの精霊の力を眠らせて草花の陰へと落ちていった。雫の様に。そして、蝶が羽根を綴じるかの様に彼との楽しかった想い出の影も翌朝の光りに照らされ忘れてしまうのだと思うと悲しくて悲しくて仕方が無かった。その日一日の光りの記憶しか留めることができない彼女は夜の星と月の光がいずれ出るまでに眠りに落ちてしまおうと願った。彼の元にいけたらどんなに良いだろうか。何も話すことは無いけれど、ただただ光りに照らされるところで彼と少しでもいられたら、彼の≪日常≫が欲しかった。
 アンナベルが目を開くと、それは夜だった。視線を上げると、夜色の棚引くエンパイアドレスを着た女性が銀の弓矢を引いている。そしてその銀の矢は夜の流れ星となって射られ、線を描いていく。夜の草原は虫の音が美しく、リンリン、リリリリ、リリーンと響く。星光りで山々の陰となった地平線へと向かっていった。
 光りの精霊の願いを乗せた銀の矢はどこかへ向かっていったようだ。彼女は睡魔に負けて目を閉ざす。重いまぶたを閉ざして、小夜曲を聴く。誰が歌っているのだろうか。光りの精霊の記憶だろうか。夜の女神の歌声だろうか。
 アンナベルの魂はレケンドラーが首から提げたネックレスのビンに詰められていた。そのなかは今夜の草原。
 人形に憑依したそのレケンドラーの魂は寄宿舎のジルベールの目に留まるようになる。だが一日の特別な記憶はジルベールは忘れていたのだろうか。
 ジルベールの両親が老人と話している。アルベルトは人形を見ていた。似た顔が多い。レケンドラーは喋ることは無く彼らの横に座った。
「今日は一度戻りましょう」
 彼女は頷き、自分の納まっていた人形をつくった老人を初めて見ては微笑んだ。それは、どこまでも妖しげな微笑だった。
 老人は不可思議なものを感じずにはいられなかった。だが言葉が出ずに、少女は背を向け歩いていく。

 学園に戻った彼らは寄宿舎へ向かい、眠ったままのジルベールのところへ来た。気の良い老人はなにも怪しい所などは無く手がかりは無いようなものだった。
 レケンドラーが歩いていくと、ジルベールのところへ来る。眠ったままの顔は嗄れの夢で会っていた。馬車に乗せたり、小舟に乗せたり、光りを駈けた夢。彼女の操る光りを彼は虜になっていたものだ。
 レケンドラーが彼の額に触れた。さらさらと黒髪が流れ、白い額が覗いて触れる。
 すうっとジルベールが目を開いた。
「………」
 彼は驚いてレケンドラーを見た。夢に見続けた女性だ。太陽の女神であって夜の月の女神とは異なる彼女が。焦がれていた人形の彼女。人形相手に本気の恋だなんてどんなに笑われても馬鹿にされても気持ちは変えられなかった。白昼夢にまで見た彼女が目の前で微笑している。その長い髪に触れ、そして狭い背を引き寄せていた。
「逢いたかった……」
「あたしもよ」
 アンナベルの声で言う。光りに声や音は無い。物質的な衝突が無いからだ。固体を得て初めて声が出た。
「ジルベール。あたし達、婚約をしましょう」
 レケンドラーが底の無いような声で言い、妖しげに微笑んでジルベールの髪を見る。
「ああ」
 ジルベールが頷いた。レケンドラーはずっとずっとジルベールの髪を細い指で撫で続けた。ジルベールは彼女の正体を知らない。ビンは今満月が強く光り輝いた。レケンドラーの感情が満ちたかの様に。
その日からすぐにジルベールとアンナベルの噂は広まった。寄宿舎は別の場所だが、学園内では仲良く共にいて夜の寝言や白昼夢も止み、アルベルトの不眠も解消されていた。二人が恋人同士だということはすでに誰の目から見ても明らかで、ジルベールの両親も安心して既に戻っている。
「将来の婚約を?」
 まるで人形が動いているかの様なアンナベルが向こうにいる姿を遠目から見てアルベルトは驚いて友人を見た。どうやら目が本気で、最近アンナベルは初めて会った頃と顔立ちが変わってきているように思えていた。ふっくらしていたかわいらしい顔が細くなってきたからだろうか。女子特有のダイエットでも始めたのだろうか、不明だが痩せていくとどんどんレケンドラーとジルベールの名づけた人形にそっくりになっていった。だが違った。確実にレケンドラーがアンナベルの容貌さえも乗っ取ってきているのだった。それでも首から提げた小さなビンだけは大事にし続けていた。割れないように銀の百合のピアス加工細工に囲まれたペンダントになっている。昼の今は草原が見えていた。それは遠くから見ると昼の明かりなどで光っているペンダントの様に見えた。夜になればそれは暗くなった。
 ジルベールは時にそのペンダントを不思議に見つめた。だがそれはレケンドラーに思いを馳せていた頃の視線ではなかった。ただただ不可思議なペンダントを見る風の目にレケンドラーは微笑した。
 彼女の目には夜になれば夜の精霊の行いが目の前に広がり見えた。レケンドラーは人形の身体からジルベールを手に入れ、じっと腕を取り寄り添った。誰に知られることも無い夜の光りを、秘密を抱えながらも……。ビンは銀の星が光る……。

 宵の深まった先の夢幻。そして白昼夢……。それはジルベール・ダルクールにはなくてはならないことだった。陶酔する世界にはレケンドラーがいて彼を誘うのだ。白い肌に黒髪の女神は群青の薄衣を月光になびかせ、神秘の瞳で彼を見つめ微笑を称えた。その愛情は泉の様に深く透明で、湧き出るふつふつとした心は止むことは無い。
「ジルベール」
 緑にそよがれるジルベールは白い頬に白い陽を受けていた。その顔は繊細なものであり、母ルクサールにとてもよく似ていた。フランスの片田舎にある寄宿舎の庭にいた。豊かな緑に囲まれたその場所は太陽が降り注ぐままに降り注ぎ、若い彼らを照らしているのだが、彼の心だけは他所へ行っていることをどこかしらジルベールの友人アルベルトは勘付き始めていた。
 ジルベールは木々を見つめていた。切り揃えられた前髪から黒い目元が覗き、白いシャツの首元を飾る黒いシルクのシンプルなリボンに黒のカーディガンと膝丈ニッカポッカ姿だが、それは制服である。
 庭には寄宿舎で飼っている白い孔雀がいる。小学舎から高等舎まで生徒を受け入れているこの寄宿舎は学年毎に階や棟で生活の場が分けられているが、十三ある庭の内でもこの庭には比較的彼らの中学舎の生徒達が来る。女生徒達の棟はレンガの壁を隔てた向こうにあるので場所によったら声や合唱、友人同士で楽しげに歌う声や恋の話などが聞こえた。ここは静かな場所だ。小学舎に通う児童達の声も届かない。だが、騒がしい場所でもジルベールは時折ぼうっとしている。
「ジル!」
 腕を多少乱暴に引き振り向かせると漸く驚いてアルベルトを見る。
 先ほどまでレケンドラーはペガサス達の飛ぶ青空に浮かぶ巨大な金枠の姿鏡に彼女を映し彼は天を駈け彼女に腕を差し伸べ息せき切って走っていた。どうも銀色の玉やペガサスから舞う白い羽根が足を絡めて彼女には近づけずに虹が空を駆け巡ってはその輝きで目を綴じ腕でかばって真っ逆さまに急降下していく感覚だった。それを雲に乗って気絶したように揺らめいていた。その雲をペガサスが悪戯に飛び出して彼をあたたかな背に乗せいなないた所でくすくすと笑うレケンドラーの声が微笑み、その声は鈴のように遠ざかっていき、実に現実的な声、「ジル」というアルベルトの言葉が羅列となって彼の感覚を占領して目覚めさせたのだった。
「レケンドラーは」
「どうした」
「鏡に閉じ込められた様に僕を惑わして」
 友人を連れて行くとアーチに蔦が絡まるベンチに来た。
 彼は座るとただただ空を寂しげに見つめた。
「また僕を頭がどうかした顔で見るんだね……」
「アンナベルが聴いたら怒るぞ。またあの人形の事を言い始めるんだな」
「レケンドラーのことだ」
 ジルベールはアンナベルのことを時にレケンドラーと呼んだ。アンナベルはそれを何を言うでもなく受け応える。
「寄宿舎はどうせ大学に入って村から出るまで変わらないんだ。まだまだ先だ。学園で会うんだからそんなにレケンドラーレケンドラー言うなよ」
 アルベルトは背もたれにもたれて腕を組んだ。
 それでも悪戯なレケンドラーは昼のジルベールに幻想を見せた。それをジルベールは以前の白昼夢の様に目に見ていたのだ。
 レケンドラーは光りになってアンナベルの身体から離れて溶け込んでいった……。
 既にジルベールには元の恋を寄せ合った少女アンナベルの姿の記憶は見えなくなっていた。人形が具現化したレケンドラーの存在しか……。

人形島

人形島

1882年。冒険好きの変わり者ジュラール・ダルクール公爵は国王に命じられ、不気味な島を訪れる。全七話からなる人形絡みの不可思議を、ダルクール夫妻は解決できるのでしょうか。全話読み切り。ちなみにジュラールの外見イメージはブロンドにした俳優ジョー・マンガニエロです。 ※この作品は2015年にpegasusとしてサウンドノベル作品の登録と発表をしたものです。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-27

Copyrighted
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  1. 第一話 「不気味な島」
  2. 第二話 「青い石の島」
  3. 第三話 「鏡の泉」
  4. 第四話 「幻の声」
  5. 第五話 「呪いの人形」
  6. 第六話 「子供の罠」
  7. 第七話 「人形」