水溜り

大人になったら幸せになれると思ってた。

僕は今、大人と扱われる歳だ。
しかも大人時代の中で、一般的に楽しいと言われる時期だ。
世の同世代に「今幸せですか?」
と訪ねたら、80%の人は幸せだと答えるかもしれない。
それくらい、学生の時とは違う輝きがある歳だと思う。
僕はというと、残りの20%の人間。正確にいえば、その内の10%の「どっちらでもない」分類に入る。

僕は輝きがない大人だ。



「ありがとーございましたー」

小学校高学年くらいの女の子とふくよかなその母親が、夕飯の話をしながら去っていった。
幸せそうな後ろ姿。

…しね



「逆真君、もう上がっていいよ」

「わかりました。お疲れさまです」

「はい、お疲れさま」

店長は優しいが、あまり他人に興味がないタイプだ。他のスタッフもそう。仕事上の仲だけで、プライベートまで一緒にいたくないという人種の集まり。


帰宅途中、コンビニに寄りパンとお菓子と烏龍茶を買う。
300円で済む夕飯。


外から見るアパートはどの部屋も真っ暗だ。
このアパートはここら辺の家賃相場より相当安い。その分、傷みが激しい。鍵の回りがスムーズに行く事なんて、ここに住み始めてから1度もない。


…ただいま

いつから声に出さなくなったのだろう。
と時々考えるが、いつの間にか忘れてしまう。


テレビをつける。

…つまらない

流れる映像を見ながら、買ってきたパンを口に運んだ。味はしなかった。



布団に入り、目を閉じる。
忘れたい記憶や感情が毎晩込み上げてくる。
僕は鬱なのだろうか?

…いや、違う

隣人の笑い声が壁越しに響いて、毛布を深くかぶった。



夢の中は楽しい。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、感情をぶつける事ができる。現実ではまずできない事も沢山できる。
時々怖い夢を見ることもあるが、目覚めた時の憂鬱感よりも、息を殺して生活するよりも全然ましだ。



そして明日が来る。



濁った朝の空気が、肺に入り吐き気がする。

…慣れないな

仕事に向かう途中、コンビニでパンと烏龍茶を買う。200円の朝ご飯。
急いでいる人々とは対照的にゆったりと歩く僕は、きっと邪魔な存在だろう。



「ギャーーーーッ!!」

頬に生暖かい何かがついた。
先ほど小走りで僕を追い越して行った女性が、うずくまっている。地面には赤い液体が、水溜りとなって煌めいていた。
…眩しい

女性の目の前には、ボロボロの服を着た、いかにもホームレスっぽい感じの男がたっている。手に持ったナイフには赤い液体が伝っていた。

「あ”ぁぁぁぁーーーー!!」

静まった空気に、男の声が響き渡った。それを合図に周りの人間達が叫びたし、走り出し、逃げ出した。
女性は動けず、小さい声で助けてと言っている。
男がまた叫びながらナイフをつきあげた。

「やめろーーー!!」

僕の後ろを歩いてたであろう、スーツの男がナイフ男に怒鳴った。
正義感あるそのスーツ男は、落ち着くようにと説得し僕の隣まで駆け寄った。
「君も速く逃げなさい!!」
荒い息使いで囁いた。
…お前もな

「ナイフを降ろして下さい」
「あ゙ぁぁー」
「話しましょう」
「あ゙ぁぁ」

会話が成立してない感じもするが、正義感スーツ男は説得を続ける。

目の前で繰り広げられるカオスな状況に、まだ夢の中なのかもしれないと思った。

…顔、洗いたい

「私が力になります!!」

正義感スーツ男がそう言うと、ナイフ男はナイフをおろし俯いた。その間に女性は素早く逃げた。赤い水溜りはまだ煌めいている。

「…お、おまえに、何がわかるんだーー!!」

叫んだナイフ男は正義感スーツ男にナイフを向け、迫ってきた。


身体に電気が流れた。
実際には流れてはないし、今までの人生で流れた事もないけど。
そんな感覚だった。
不思議と痛みは無かった。

状況を整理すると正義感スーツ男は迫ってきたナイフ男の迫力に圧倒され、思わず僕を盾にしたみたいだ。
正義感スーツ男改め、口先だけの偽善者スーツ男だ。

ナイフ男は少し驚いた顔をしている。隣で偽善者スーツ男が「ごめんよぉぉ」と言いながら腰を抜かし涙を流していた。
お腹に刺さったナイフを僕は抜き取り、ナイフ男に渡した。

「ナイフを持ってないと、お前はただのホームレス男だ」

間抜けづらのナイフ男。

「偽善者スーツ男を刺せよ」

「…え?」

「だから、あいつの脚でも腕でも腹でもいいから死なない程度に刺せって言ってんの」

喉の奥から鉄臭く熱いモノが溢れてくる。

「あ゙ぁぁぁー!!」

ナイフ男は偽善者スーツ男の太腿にナイフを突き刺した。
何度も何度も、太腿だけを狙って。
叫び狂う偽善者スーツ男の高そうなスーツは赤黒くボロボロになった。


…烏龍茶飲みたい


駆け付けた警察がナイフ男を取り押さえ、偽善者スーツ男は気を失ってしまった様だ。
僕も立ってるのがやっとだった。脚が震え、手にも力が入らなかった。持ってたパンと烏龍茶が入った袋が地面に落ちる。
下を見ると赤い水溜りが出来ていた。女性の水溜りより、艶がある様な気がする。太陽に反射して煌めいていた。

…僕も輝いていたのか

笑みが溢れた。
心から楽しく思えた。
こんな気持ちは初めてだった。
きっと同世代の人間達はこんな気持ちで今を生きてるのだろう。
何て美しく儚く素晴らしい感情なんだろう。

「大丈夫ですか!!今救急車来ます!!」

隣で警察官が話しかけてくる。


…僕は今、人生で1番楽しいのです


そう伝えたいのに声が出なかった。でも伝わらなくても良かった。この水溜りを見れば、誰だって僕が輝いてるとわかってくれる。僕は残り20%の人間ではなく、80%側の仲間入りをした。
という事は、一般的に普通の人間になれたのだ。

「しっかりしてください!!」

警察官の声が遠くなっていく。
それに混じり、微かに水滴の音が聴こえた。


……。

水溜り

水溜り

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-27

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