想対性理論

秋村有意

  1. 第一話
  2. 第二話
  3. 第三話
  4. 第四話
  5. 第五話
  6. 第六話
  7. 第七話
  8. 第八話
  9. 第九話
  10. 第十話

第一話

0
人生とは鍋で何を煮詰めるかだ。無論、中身はそれぞれ違うし、中身を他の者がひっくり返したりするのはタブーだ。

1
僕が煙草を吸う時、大抵ベランダに出て吸う。アパートは狭いのでリビングで吸うと、寝室にまで臭いが広がるし、何しろ担当者が嫌がるのだ。
ベランダの眺めは、大通りがすぐそこにあるので空気は最悪で、景色は近くのビル群に阻まれ何も見えない。立地条件は酷かったが、その分安いので僕は気に入っている。ビルとビルの隙間から覗かせる太陽や、青空はそれはそれで風情があると、あくまで僕の観点ではいえた。一階だと垣根だけのつまらない景色だが、二階は二階で改装があまりされてなく、今にもどこか壊れそうな勢いだ。
セブンスターの最初の一口を味わったその刹那。大きな音を立てて、一号室と二号室の仕切りが壊れた。どこかに引っかかり斜めに僕の部屋の方へ倒れかかっている。
やはりな、と何故か僕は確信めいたことを思い、ため息を吐いた。
波乱の予感というやつだろうか。
僕は立ち上がり、その仕切りに手を伸ばす。無理矢理嵌めて直そうとしたが、軽快なバキバキという音と共に、僕の方へ倒れてきた。まるでドミノ倒しのように僕自身倒れた。いくらプラスチックといえど、推定二メートル程度あるものは、それなりの重さだ。並の人間ならわからないが、非力な僕だ。この世の理の如く体制は崩れる。
「大家さんに言うしかねぇな、こりゃあ」
倒れたまま毒を吐くように、独り言をする。
煙草を雨樋に捨てて、力を込めて仕切りと共に立ち上がる。
「どうしたんですか?」
二号室の女性が音に気づき、ベランダに出たようで、わざわざ声をかけてくれた。
「仕切りが壊れましてね。いきなり突然」
「あらら。私、大家さんに連絡してきますね。それは私の方に立てかけ…」
彼女が振り向くとそこは、観葉植物が鉢植えに何個も埋まっていた。
「あー、僕の方へ立てかけておきます。気にしないでください。ベランダは煙草を吸う他、用途はないんで」
彼女はお礼をして、部屋に戻っていった。一階にいる大家さんに言いに行ったんだろう。
僕は、二本目の煙草とジッポを取り出して、セブンスターに火をつけた。
紫煙を空へ放ち、そのまま空を見る。どんよりとした雨模様で、なんか嫌な感じだった。やはり、冬の空は突き抜けるような青空じゃないと。
まぁ、僕みたいに外の仕事じゃない人には、天気など関係のないことだ。けれども、空模様は心を表すとはよく言ったもので、僕の心には今にも雨が降り出しそうだった。
僕は意味もなく、大通りの渋滞している車群を眺める。腰を手摺に預け、ただただ眺める。そして、二号室の女性、隣人さんに思いを馳せる。
とても端正な顔立ちをしていて、すごく細身で、それは病的なくらいだった。なんだろう、少ししか見ていないし話してもいないが、すぐにわかる心の影。言葉を悪くして言うのなら、闇とでも言うのだろうか。 僕はあまり人間付き合いが豊富ではないし、ましてはあのタイプの女性は初めてだ。もちろんこれは僕の勝手な判断だし、本当に正しいかどうか、真偽は不明だが。だけども、彼女にはなにか特別な、人を引き寄せるようなカリスマ性を感じ、僕はそれに惹かれているのではないかと思った。
「今言って来たんですけど、まだちょっと時間がかかるようで」
部屋からベランダへ出てきた隣人さんは、そう告げた。
「わざわざすみません。しょうがないですよ。待ちましょう」
「ええ。私は特に問題はないので」
「僕も特に、あー、煙とか大丈夫ですか? 臭いとか」
「あー、仕切り関係なく煙も臭いも来てたので、あんまり変わらないですね」
苦笑いされながら言われた。
「それは申し訳ない」
謝る他ない。煙草を左手に持ちながらじゃあ、説得力の欠けらも無いだろうが。
「これを機に、やめてみてはどうですか?」
「これが仕事する前のルーティンみたいになってて」
言い訳めいていたが、仕方がない。ヘビースモーカーであるのは認めざるを得ない。煙草はよくないものだ。身体にも心にも。しかし、吸わずにはいられない。
「仕事ですか、なにされてるんですか?」
「しがない小説家ですよ。それもあまり売れていないね」
「そうなんですか!」
弾ける笑顔というのは、まさにこのことを指すのだろう。それは夜空に打ち上がる花火さながらだった。僕は思わずたじろぐ。
なんだろう。どこか妹に似ているような雰囲気を感じ、懐かしく思った。昔は妹もとても元気に「お兄ちゃん」と僕の後ろをついてまわったものだ。今ではそんなことを思い出させないような厳格な性格になってしまったけれど。
「売れない、ですよ? 人気でもありませんし」
「いえいえ、小説家という職業の人に会えること自体、すごい偶然ですからね」
「確かに、昨今見かけないですね」
いや、昨今どころか昔からあまりいないか。
「僕は、そろそろ部屋に戻りますね。そろそろ打ち合わせがあるんで」
僕は短くなりすぎたセブンスターを雨樋で擦り付けて消し、さっきの吸いかけのを拾い、二つとも携帯用灰皿にしまった。
「だから吸ってたんですね。私も戻ります」
「ええ、じゃあまた機会があれば」
僕はそう言い、部屋へと戻った。
残ったのは嫌な黒い雲を纏った、ビル群から覗く空と、排気ガスを吐き出す車の渋滞した道路だけになった。

僕の担当者は決められた時間の五分前には必ず目的の場所、まぁ僕の家に来る。だから今日も三時五分前にドアを開ける音がした。
「おっし、今日もやるぞー」
担当者である彼女は、やる気に満ち溢れた声と顔つきをしていた。
「そーだな。何かいるか? コーヒーでも入れようか?」
「そーしてくれ。兄さん」
僕の担当者こと妹は笑った。
妹は着ていたコートを脱ぎ、勝手にハンガーにかけた。
彼女は、まだ担当者モードには入ってはいないようだ。担当者モードは、僕のことを先生と呼ぶ。僕としては妹に先生などと呼ばれるのは、こそばゆい。
僕は返事をして、キッチンへと足を運んだ。
「ほらよ」
たっぷりと砂糖とミルクの入った、コーヒーを妹専用マグカップに注ぎ、差し出した。
「どうもどうも。さて、そろそろ始めますか」
妹は眼鏡をかけて、着ていたカーディガンの袖を捲った。
「そうしよう」
僕はパソコンの画面をつけ、左肩をぐるりと回した。骨の鳴る音がして、気持ちを入れ直す。どんなに酷評でも耐えられるように。
「まず、一昨日書いてもらった原稿を読みました」
彼女の声はあまりにもはっきりと、それも元気良くいうものだから、少しだけ期待してしまう。出来栄えが良かったのではないかと。
「どうでしたか」
僕も、もちろん先生モードになるので、彼女に対してだって、敬語を使用する。僕はあんまり、彼女に対して敬語を使いたくない。彼女は、どうも気を使いすぎる節がある。それは良いことなのかもしれないし、悪いことなのかもしれない。
僕と彼女に血縁関係はない。兄妹とは名だけのものだ。僕が当時、十五歳で、彼女が十四歳の時、僕らは出会った。彼女の父親が連れてきたのだ。僕はもちろん戸惑った。僕は一人に慣れていたし、何しろ思春期だった。いきなり家族同様に彼女を受け入れるのは無茶があった。最初は僕に対し、彼女は敬語だったし、僕も彼女に対し敬語だった。こんな家族がいるんだろうかと疑問に思ったのか、両親に止めるよう言われ、やっとの事で敬語ではなくなった。少しずつ僕達は受け入れ合い、僕が十八歳になると、妹は僕について回るようになった。僕達は互いに依存し合える存在を待ちわびていたのかもしれない。僕は妹さえいればよかったし、それは妹も同様だったと思う。だから恋人だっていらないと思っていた。
「んー、まぁぼちぼちといった感じですね。私が評価しちゃうと補正がかかりそうなんで、ほかの編集者の方にも一応見てもらってますけど」
「悪くないのかな。まぁでも気は抜けないな」
「私としては、悪くないと言えますね。ただ、上の人たちがどう言うかですよ」
彼女は曖昧なものが嫌いだ。それも僕だから、駄作なのならそうとはっきりと言うはずだ。なので、割と彼女は僕の作品に好感触なのかもしれない。それはとても喜ばしいことだ。
「なぁ兄さん」
眼鏡を取りつつ、彼女は上目遣いで僕を見た。
「ん? なんだ?」
「私はこのままでいいんだろうか」
妹は僕の方へと寄って来て、僕の肩に頭部を乗せた。
「何がだ? 変わりたいのか? よく分からないが」
「私は時々、嫌な夢を見るんだ。それはふた月前からなんだけどね」
僕は不思議に思った。彼女は、僕の部屋に来る時か帰る時しか妹モードにはならないのに、話の途中で、ましてや帰りもしないのに、なるのは珍しかった。
「どんな夢なの?」
「私が一人ぼっちで、兄さんが女の人と二人で歩いているんだ。そして兄さんとその女の人は二人で私を置いてどこか遠くへ行ってしまうんだ。私は手を伸ばすんだけど、兄さんはそのまま行ってしまう、そんな夢なんだ」 妹は今にも泣き出しそうだった。
「私は、恋人だとか、夫婦だとかに全く興味が無いんだ。私は兄さんさえいればいいんだ。その他大勢に意味も意義もない」
彼女は冗談なんてあまり言う方じゃないし、それは本音で事実なのだろう。
「なぁ妹」
更に発しようとするその口を塞ぐかのように、僕は言葉を紡いだ。
「僕も君と全く同じだ。一語一句そのままね。確かに君以外の者に意味も意義もない。何が不安なんだ。僕の隣って、それは君じゃあないのか?」
僕はどれだけの誇張を、虚偽を、空虚をその言葉に詰めて語ったのだろうか。
「私?」
「そうだ君だ。僕は君とならサハラ砂漠だろうが、南極だろうが何処へでも行こう。僕と君との関係はそんな感じでいいんだよ。共に笑い、共に泣き、共に怒り、共に喜び。喜怒哀楽の全てを君と分け合おう。喜びは二倍に、悲しみは半分に」
僕は。僕は。大嘘つきだ。
「そうか。それでいいのか。私は兄さんといつまでも一緒でいいんだよね」
安堵したのか彼女はそのまま目を瞑った。僕はずっと肩を貸し続けようと思った。こんな白い陶器を割ってしまうのは良くないと思ったからだ。
そのうち妹は寝息を立てた。ここまで安心して寝ているのでこの後、何の予定もないのだろう。僕は彼女を抱きかかえ、僕のベットへとやった。僕はそのままベランダへと出て、煙草を吸った。
空はやはり雨模様で僕の心を憂鬱とさせた。相変わらずの交通状況。まるで僕の心をそっくりそのまま映しているかのようだった。
短くなって、もう最後だろうと思われる一口を吸ってから、僕は自問した。
僕こそこのままでいいのだろうか。

2
冬の朝が僕は好きだ。顔に突きつけられる寒さが生きている証拠だとさえ思う。それは言い過ぎだが。
僕は今、第二章の冒頭部分に困り果て、気分転換でもと散歩に出かけている。僕のアパートは大通りの反対に行けば、密林みたいな森があり、自然公園として楽しめる。僕は小説の執筆につまると必ず訪れる。冬となると、当然足を運ぶ回数も増えるというものだ。
今日は妹が家に来るというので、鍋でもと思い、スーパーに買い物をするという目的もある。妹は寂しがり屋だ。週に二度、妹モードだけの状態で会わないと、不機嫌になる。だから会う。僕は妹にどうも感じていなかった。一週間前、色々と述べたが、本気で言っているわけではかった。嘘も方便なんて言うが、あれは嘘をついた側を庇う嘘つき側が考えた言葉に違いない。でもまぁ、嘘も方便という時だってある。例えば僕。
最近の悩み。それは妹で埋め尽くされていた。八割方妹で、二割は小説でのことだった。妹について更に語らせて頂けるのなら、スキンシップがとても激しくなったことを挙げよう。僕の頬を触る回数が三回から五回に増えた。ハグする回数が零回から二回になった。だからどうという話ではない。ただ、世間体は良くない。本に付帯している帯のように言うのなら、「妹との禁断の恋! 妹が通い妻!?」だろう。……。僕はなにを考えているんだ。恋なんて、双方向からのものだ。僕達は一方通行だ。妹からのみで。
「あれれ? 隣人さん!」
前から手を振られた。顔は僕の隣人にとても似ていて、体型までもが僕の隣人を模していた。
「仕切りもうちょいかかりますってー」
僕の隣人さんだった。
「どうも。まぁ待ちますよ、焦るようなものではないですし」
「そうですよね。こんな時に散歩とは珍しいですねー」
「あー、書き出しに困ったもんで、気分転換にでもと。どうですか? そこのベンチで一緒に気分転換でも」
僕は目線を隣人さんの奥にある、木でできたベンチを見た。ベージュ色のブイネックセーターと落ち着いたモスグリーンのフレアパンツを上手く着こなしていて、とても大人びて見える。実際、僕よりも歳上であることは間違いないのだが。
「そうですね。付き合いましょう」
彼女はとても喜んでいるように見えた。
彼女と話したかった理由はもちろんある。何気なく気になった、左腕の包帯のことだった。手はおろか指全てまで綺麗に肌が露出することなく、白で覆われていた。何か怪我でもしているのかなと思ったが、行動からするに気を使ってなく、右腕と同等の扱いを受けていた。
「たまに見かける女性の方は、編集者の方なんですか?」
ベンチに座り、開口一番そう言った。
「その通りです。厳しい方で、なんとか僕も作家として食っていけるんですよ」
「にしては、仲がとてもよろしいようで?」
「と言いますと?」
「帰り際、いつも抱擁してらっしゃって」
見られてたか。特に問題もないが。
「人が悪いなぁ。まぁ、僕は西洋基質なものでね。これくらいは普通ですよ」
お茶を濁し、僕は空を見る。彼女と目線を合わせられない。
「そうですか、抱擁は構わないんですが、ちょうど私の帰宅時間と重なるものですから。素通りは出来ないでしょう?」
「ええその通りで。次回からは僕の部屋でしますよ」
僕はなんで隣人さんと京都の腹黒い人達と似たような会話をしなければならないのだろう。これは京都の人に失礼だ。
「ところで、その敬語なくしてもらっても構わないですか? 僕、苦手なんですよ。敬語で話されるの」
「理由をお聞きしても?」
「あなたと仲良くなりたいからですよ」
「とても嬉しいですよその言葉。ではやめましょう。私の方が年上っぽいので」
僕はまだ二十代前半だが、 この人は後半だろう。
「ねぇ隣人くん」
「なんですか、隣人さん」
「ベランダで話さない? 私はあそこの方が好きなの。渋滞したきりの交通状況。汚い排気ガスで汚染された空気。少ししか垣間見えない美しい青空。中途半端な私に似ているわ」
随分と詩人的な。
「いいですね。僕も気に入ってるんですよ。あそこ」
僕らはたわいもない話を挟みながら帰路へとついた。
最近の政治やら、世界情勢やら。世界で何万人と死に行く人と、自殺して行く人。それらは全て彼女が語った。僕は相槌をうち、聞き手に徹した。彼女はどうやらこの世に不満があるらしかった。この世に不満のない人なんか誰一人としていないだろう。いるとしたら、諦めている人だろう。
「私は歌で世界を変えられる人になりたかった」
彼女は僕の方には目もくれず、淀んだ空を眺めながらそう呟いた。
「ビブラートなんかしなくていい、ホイッスルボイスで感心させなくていいから、心が感動で震えるように歌いたい」
僕は、横顔しか見れないが美しい。
「世界なんか変えなくていいんじゃないですか」
僕も彼女同様手摺に手を置き、体重をかけた。
「一人が変われば、その変わった一人がままだ他の一人を変えますよ。そうやって世界は変わるんです。世界を変えるのは大変だから誰か一人変えればいいんです。僕の小説だってそうですよ、それが歌であろうと一緒ですよ」
「そうかもね。ならまず、あなたを変えようかな?」
彼女は身体を僕の方へと向けた。
「楽しみに待ってますよ。歌、聴かせてくださいよ」
「それはまた今度ね」
のらりくらりと逃げられた。
「ええ是非。それじゃ僕は部屋に戻りますよ。いい加減部屋にこもらないと職務怠慢ですからね」
「また」
「また」
また。

第二話

0
長い時間、それこそ何年もを費やしても出来ないことはある。ただ、その何倍も出来ることだってある。


1
けたたましいアラームが鳴った。それは僕の寝台の近くの小机上の目覚まし時計からだった。よくもまぁここまで不快な音を立てられるものだと、妙な納得をしつつ、ばちん!と手で叩いて止めた。そして真っ先にリビングへ行き、暖房のスイッチを入れる。電気ストーブは秒速点火で、ものの十秒程度でついた。暖まりながら僕は何故七時にアラームをセットしたのかを考える。
そうだ、隣人さんと出掛けるんだ。と改めて今日の日程を思い出す。
いつもは昼過ぎに起きる僕も、今日だけは数時間早く起きる。今日の集合場所は僕の部屋で、僕の部屋はとても汚く掃除をするために、こうして早く起きたのだった。

「コーヒー入れるか」

ストーブで暖まったのちに、インスタントコーヒーの代名詞、ネスカフェの粉末と角砂糖を一つマグカップに入れて、ポットで注ぐ。マグカップから湯気とコーヒーの匂いで目を覚ます。
いい朝のような気がした。こんなに優雅な朝は久しぶりだろう。

寝巻きのスウェットで掃除するのも気が引けたので、あまり使っていないクローゼットの奥底に眠っていたボアパーカーとジーンズを取り出して、着替えた。そして、掃除機、雑巾、マスク、マイクロファイバー素材のタオルなど、掃除グッズを取り出して、大掃除に取り掛かった。
全てが終わり、蘇ったフローリングはここまで綺麗なのかと驚嘆した。物も要らないものは捨てた。こんなふうに記憶も、いらなくなったものは捨てられたらいいのに。そうすれば。
時間は刻刻とすぎて行く。隣人さんが来るまで、残り時間はあまりなかった。
割と楽しみな自分がいた。中学高校と友達なんかできていない僕は、友達が家に来るという感覚が分からないけど、こんなに浮かれるものなのかと疑問を抱く。
もしかして僕だけこんなに楽しみで、隣人さんは実は、渋々仕方なく来るのではないか。
実にネガティブだ。負の方向へ行ってしまう。僕の悪いくせだ。黒いものを振り消して僕は着替えようと寝室のクローゼットを漁りに行く。こんなに汚くなった服で、出迎えは失礼だろうから。

僕の部屋のチャイムが鳴った。時間は、9時きっかりで隣人さんだろうと思い、玄関に向かう。

「どうもこんにちはー」
「やほー、隣人くんー」

彼女は、ラフに大きめの黒のパーカーと見るからに寒そうな短パンジーンズだった。

「寒くないですか?」
「寒いから上がらせて」

寒いのになぜその服をチョイスしたのかわからないが、上がらせた。

「いい部屋だねぇ。とても綺麗。ガタンガタンいってたのは綺麗にしてたのかな」
「いい部屋って、隣人さんと間取り全く一緒だと思うんですけど」
「ままま。そんなのいーじゃない」

あははと僕の肩に手を乗っけて笑った。
最初はもっとこう、お淑やかな女性だったのにいつから、こんなひょうきんで軽口ばっかのその場しのぎ女性になってしまったんだろう。悪いとは言わないが、疑問だ。

「何か今日はするんですか?」
「んー、何しようか。何かしたいものはある?」
「いえ特にないですね。僕は無趣味なんで」
「あらそう。私がワンマンショーしちゃったり?」

笑顔で尋ねる。とても魅力的な提案だった。僕は歌を聴くことが好きだ。それは作家が詩を書くのと同様、アーティストの思考、価値観、倫理観などを表現しているからだ。僕ら作家は、どれだけ自分の想いをぶつけるかが肝要だけれど、彼らアーティストにはメロディにのせることができる。どちらが優れてるとか優劣をつけたがる人もいるが、それは全て価値観の違いなのだ。


「まぁ、恥ずかしいし、まだ人様に見せられるように完璧でもないしね。お披露目はまだ待っててね」
「そう言って、聴ける日が来なさそうなんで一刻も早く聴かせてくださいね」

僕は苦笑いをした。
僕の目線に行くのは包帯を巻いた彼女の左手だ。いつもしているように思える、その左腕。左手のみなのか、左腕全部なのかは定かではないが、それなりに気になる要素ではあった。

「怪我してるんですか? この間もしてましたよね?」
「んー? 左手は永久欠番なの。もう私はこの包帯を使うことはないの」

妙に引っかかるような言い方だった。まるでボタン付きのカーディガンかなにかのボタンを、一つずつずれて掛けてしまっているような。

「永久欠番って、折れてたりとかですか?」
「折れても治るじゃない。けどこの左腕は違うよ。もう永遠にこのまま。それは私の決めたことだしね」

興味深い話だった。

「その手で人を殺したとかですか?」
「……。狂気的だねぇ。そんなんじゃないよ」

彼女は、ふふと不気味に微笑んだ気がした。けれどもそれは、悪ふざけにも見えた。
僕は、陰りある彼女に驚いた。出会った、彼女が敬語だった時、よそよそしさと共に陰りが見え隠れしていたが、崩して話す時の彼女にその陰りは見えなかったからだ。彼女は太陽のように紅く、いつでも燃え上がり、黒点などないように思っていたが、認識を改めなければならないらしい。そりゃあ彼女は聖人ではないのだし、全てが全て完璧なわけがない。だからこその個性だ。

「コーヒー入れますね? 砂糖とミルクはどうしますか?」
「私、コーヒー飲めないのよー。適当にお茶で」

適当な相槌をうち、キッチンからコーヒーと紅茶を入れて持ってきた。

「いーねー紅茶、私好きよー」
「熱いので気をつけて」
「私は子どもか」

それから僕は仕事について語った。彼女も、作家さんに興味があったのかとても食い付きがよくて少し驚いてしまった。このジャンルだったらこの人が一番だとか。僕との趣味はあまり合いそうになかったけれども。
他にも、愛と平和、天才についてなど他の人では出来ないような話をした。
愛とはどういうことだろう? そんな問に僕らは真っ向から立ち向かった。結論などない、考えるのが無意味なように。彼女は愛を「幽霊」と評した。彼女曰く「愛は幽霊だ。大勢の人から信じられているが、誰もそれを見たことは無い」と。僕は思わず納得しそうになった。しかし僕は愛を「最強の人間の道具」と評する。なににでも使用出来る生涯かけての切り札、ジョーカーであるように僕は思うからだ。愛は幽霊みたいに、非現実的ではない。もっと現実味を帯びていて、現代社会に溶け込んでいるのだ。それは愛の汎用性の高さゆえだ。
僕は人付き合いが苦手だが、隣人さんとならいつでも気を使うことなく、心置き無く話せるのは妹を置いてこの人だけなのではないか。
隣人さんと僕は対極の存在だった。僕がN極で、彼女がS極。だから僕は、出会った当初から引き寄せられていたのかもしれない。

雨が降る。雨は好きだ。嫌なものに靄をかけ、隠してくれる。酒と同じだ。
あまりに土砂降りなもので、本当に冬なのか怪しく思えてくる。そりゃあ、冬だって雨がないと嫌なものが隠せなくて辛いのだから、降るか。煙草も吸えないレベルなので、仕方なくキッチンの換気扇を回し、一本吸った。臭いがつきそうで嫌だったが、ここで吸う他、外に出る以外の選択肢がないので決定した。一本なら大丈夫だろう。僕の甘さが許した。
リビングのテーブルに昨日話したことのメモがまとめてある。
昨日はただ僕の家で話しただけなのに、なぜあそこまで楽しかったのだろうか。妹と話してる感覚とは違う。なんだろうあの、居心地の良さは。

昔、とは言っても中学生時代の頃だ。僕には、友達がいた。彼はいつもも孤独で、何をするにも一人だった。例えば休み時間。彼は、話しかけようものなら、とんでもないことをお前にしてやるからなというようなオーラを出していた。それはまるっきり僕と一緒で、自己防御のようなものだ。しかし、彼は誰よりも孤独でありながら、いや、孤独であるからこそ何でも出来た。顔立ちも端正で、つまりは神に二物を与えられた存在だった。対照的に僕は、全てがそこそこという評価が妥当だった。比べるのなら、孤独と孤高だった。僕は、彼と比べられることを嫌悪していた。しかし、そんなことを知っていても、無神経なクラスメートたちは比較し、勝手な評価を下した。それについて僕は何も言わなかった。言った所で、負け犬の遠吠えにしかならないと分かっていたし、そもそも言える勇気など持ち合わせてはいなかった。ある日、僕はいつも通り一人で下校していて、今日は帰りたくない気分で、ふと近くの公園に寄った。そこの公園は不思議で、あるのは滑り台、鉄棒の二つしかなかった。僕はベンチに腰掛け、滑り台で遊ぶ小学校中学年を見ていた。彼らは当時流行っていた滑り台鬼ごっこを行なっていた。赤っぽい長袖を着ている子が鬼なのだが、段差でつまずき、割と派手に転んだ。僕はベンチから腰を浮かせた。面倒事は嫌だったし、何か手伝いをせがまれたりしても、僕がが彼らにしてやれることなど何一つもないと感じたからだ。すると、そこに例の彼がやって来た。学校に持っていけるような鞄ではなく、小さなショルダーバッグを携えていた。彼は、その現場を見つけると足早に駆け寄った。彼はすぐに鞄から消毒液、絆創膏、包帯を取り出し、素早く応急処置をした。僕はつくづく彼はすごいやつだと感心させられた。思わず、話しかけてしまったくらいに。

「お前、本当にすげーやつだな。僕ではそんなこと出来なかったと思う」
「……」

彼は黙って僕を見つめた。そして、ため息をついて僕に話しかけた。

「ありがとう。君に見られるとはね。まぁ、他の子よりは良かったのかな。こうして喋るのは初めてだね」

僕の想像よりも彼は優しい声をしていて驚いた。

「お前は、賞賛されるべき人間だ。ほんとにすごい」
「それ、やめてくれないか。君もあいつらとレベルが一緒だぞ。君だけは違うと思ってたのに」
「僕は、あいつらと一緒さ。君は一人頭が抜けてるからね」
「僕のこの、仮初の才能がか?」

仮初。どういう意味なのか。

「僕は今から、鉄棒の練習するから」

彼はそう言って、鉄棒の方へ向かう。
見てみると、下手くそだった。逆上がりすらまともに出来ていなかった。

「お前、何か苦手なことがある度にそうやって練習してるのか?」

僕は思わず訊いた。

「そうだ。僕は英語と国語が得意じゃない。だからこそやるんだ。凡人は得意分野を伸ばしたがるが、そこからは得るものは何もない。得意なものは誰だってそれなりにできる。苦手なものをどれだけ苦労して取得するか。これに意味があるんじゃないか? だから努力を重ねるんだ。僕がそこからなにかを得た時、初めて一人前の人間と言えるはずだ」

当時の僕は訳が分からなかった。ここまでは鮮明に覚えてはいても、ここからはぼやける。この言葉は僕にとってかなり印象的だった。それほどにこの言葉は胸に深く刻まれた。
得意分野から得られるものは無い。だからこそ僕は躍起になって、国語を勉強した。唯一の得意分野を。彼があってこその今なのかもしれない。もし、ただ怠惰な生活を送っているだけだったら、もっと違う職に就いていたかもしれない。彼は結局どうなったのか僕は知らない。得意な理科系の職にいったのかもしれない。
彼とはそこから少しずつ仲良くなった。僕はクラスでも彼と話すようになった。高校は彼は偏差値の高い進学校へと進んだ。僕はとくに平凡な高校へと。

友達と呼べるのは、彼ぐらいなのだな。そう思うと、僕はどれだけの狭い範囲で、この人生を過ごしてきたのだろう。狭い、悪く考えがちだが僕はそう思わない。狭ければ狭いほど、過ごしやすい。周囲に気を取られない。妹と生活を共に過ごし、成人して小説家になれて。隣人さんとも仲良くなれて。これでいいじゃないか。両手で支え切れる数でいいのだ。多ければ多いほど、人生という旅路は積荷が重く、辛くなる。だから、このまま、あるがままで。

雨が降った日の翌日。彼女は怒り心頭だった。

「観葉植物が、暴風雨でズタボロになったの!」
「人間は自然に勝てませんよ。人間が勝てるのは、せいぜい同じ人間くらいじゃないですか?」
「そんな話聞きたくない! 隣人くん! フラワーガーデンのお店行くよ!」
「は? 僕もなんですか?」

白い息を、紫煙と共に吐く。今日も相変わらず、酷い交通状況だ。大きなトラック、乗用車、バイク。
彼らはどこに向かうのだろうか。それは多分未来だ。明日に向かって進んでいる。僕はそれを傍観者気取って何してるんだろう。

「行きますか。あいにくの晴れです」
「昨日があいにくの雨だったの!」
「怒ると、すごく子どもっぽくなるんですね。驚きです」
「普段からこんなだよ!」

僕は物語の一部に溶けよう。

第三話

0
どれだけの言葉を重ねても、時間を重ねなければどうにもならないことだってあるんだ。


1
ふと不安になる時がある。それは大抵、冬だ。冬というのは、節目である一年の締めくくりが間近に控えていて、次年度がある春がすぐにでもやって来る。嫌でも来年やらの未来を感じないといけない。
僕は考えなければならない。未来のことを。

「兄さん」

妹が頭を僕の肩に寄りかかる。前にそうしてから、心地が良いのか妹モードになるとすぐ寄りかかる。僕としては特に問題は無い。
そうか、未来のことを考えるということは、妹のことも考えなければならないのか。僕の一人きりの妹。

「兄さん?」

返事をしない僕に妹は寄りかかるのをやめ、僕の方へと身体を向け、その濁りのない双眸で見つめた。

「ごめん、考え事をしていた」
「なにを考えていたの?」

最近のことだ。妹の口調がとても柔らかくなった。それに伴い、性格も少しゆったりと余裕を持ったような感じになった。前までは空元気のような明るさだったが、今は明るさを帯びた落ち着きになった。僕はその変化を嬉しく思う。妹本来の性格が良い意味で表れてきたのではないか。

「こんな、妹と爛れた生活でいいのかなー、とか」
「兄さん」

妹は、真面目な口調で僕を呼ぶ。

「いいんですよそれで。私は迷惑ではないし、それを願ってる節もあるの。だからこれでいいんだよ」

それは、赤子をあやす時の母親のように、慈愛に満ち溢れた声だった。
僕は一刹那、そうかそれでいいのかと思いかけた。

「ねぇ、兄さん。私じゃだめですか? 満足出来ませんか? 私は兄さんのためだったらなんだってします。それが他人に、世間に、社会にどんな影響を及ぼしたって構いません。あなたがいない世界に生きる意味はないと、本気で思ってます」

妹は押し付けるかのように、問に問を重ねた。
これは危険信号が出てるなと、僕は自分が思うより冷静に思った。
妹が僕に敬語を使う。それは確かに担当者としての意味合いもあるが、プライベートなときに敬語は、情緒不安定を表すアルゴリズムのようなものだ。この段階を踏んで更に奥の段階に行くと妹は、死んだかのように無口になり、活力をなくす。一度だけその時があった。その状態からいつもの妹に戻すまで骨が折れた。壊れた妹を治すのに一ヶ月を要した。僕は本当に付きっきりだった。妹の住むマンションにずっと泊まりっきりで、風呂、排泄、食事、何から何まで全て僕がやった。

「妹。何が不安なんだ? 僕がいなくなってしまうことか? それなら心配するにも及ばない。何故なら僕はどこにも行かないからだ」

僕はなるたけ、妹を刺激しないよう言葉を慎重に選び、ゆっくりと諭すかのように話した。

「不安です。私は兄さんが大好きです。けと兄さんはそうじゃない。私にはそれが分かるんですよ。兄さんはあまり、自分以外の人間に興味がありませんから。だから、兄さんがそう言うたび、悲しくなります」
「それは違うよ妹。僕は当たり前だけど、君を大事にしている。興味がないんじゃない。もう知り尽くしているから、君を全て理解しているから、もう君にかける熱はない。それが興味ないように見えるだけだ。けど、熱がない、興味がない。それらを負の方向へもっていくのはナンセンスだろう。僕は、君に対する思いは誰にも負けないと自負できるよ。けど。これも君を思ってだが、僕だけを見すぎて、世界を狭めるようなことはしてほしくない。君にはまだなにか起こるかもしれない。その時間を僕に費やすのは間違いだ。僕を好いてくれることは、僕にとって一生の自慢になるし誇れる。それはわかって欲しい」

僕は早口でまくし立てるように語らった。途中から、自分自信何を言っているのかわからなくなってしまった節もたるけれども。大部分は逸れてない。

「そんなのいらないの。私はそんなことを気にかけてほしくない! ただ永遠に抱き締めてくれればそれでいいのに……」

妹は叫んだ。僕の鼓膜を劈く。そして反響し、耳から脳へ、脳から心へと駆けて行った。

「僕は君に依存しすぎたかもね。君は僕に依存しすぎた。お互いがお互い依存していた。けど、共存とは違うよな」

僕も言い返す。兄弟喧嘩なんかする歳ではないけれど、本音を言わなければ意味はない。どれだけ理解しようとしても心がなければ理解からは遠のく。

「依存でいいじゃないですか……。なにがダメなんですか。私たちはそうやって生きてきたじゃないですか。私たちの両親が亡くなってからも二人で助け合ってきたじゃないですか……。なのに……」

彼女は僕の胸で泣いた。
話はこれでお開きかな、と僕は抱き締めている妹の背中を撫でながら思った。
僕は泣き止むまで妹を撫で続けた。そして静かな寝息を立てたところで、僕のベットへと移動し、布団をかけてからアパートを出た。
どうしようもなく一人になりたかった。コートなど持ってきておらず、淡く色褪せたジーンズにフードの付いたグレーのパーカーだけで、当たり前だが寒かった。ひりひりと外側から徐々に薄皮を一枚ずつ取られるような錯覚に陥ったが、それは疲れと寒さから来る幻覚だ。そんなことも分かっているのに、思考しなければ分からないほど僕は疲弊しきっていた。
宛もなく歩く。寒さを紛らわすため少し早歩きだ。
不安だ。嫌だった。今後、近未来、未来、将来のことを考えたくない。せっかく前を向くことを始めようと思った矢先にこれか。出来ることならこのまま歩き続け、疲れきって倒れてそのまま凍え死にたい。

僕は間違っていただろうか?

自分自身に問いかける。僕は妹のことをどう感じているのだろう。僕の人生のほぼの時間を共に過ごした。いつから僕は、妹に一人立ちして欲しいと願ったのだろう。今、記憶の引き出しを漁っている。ガサゴソとまるで汚い雑巾の端っこを摘んで持つかのように慎重に、トラウマという汚物に触れないよう探す。
そうか、隣人さんに会ってからか。
僕との不思議な関係の隣人さん。彼女は強かで、なんでも一人でやってのける人だろう。そんな姿に僕は憧れている節があった。もしかしたら、僕は妹にもそんなふうになってほしいのかもしれない。
僕の足は、この間隣人さんと会った森へと来ていた。無意識のうちだ。どつやら僕は彼女に会いたいのかもしれない。彼女に暖かく、温もりがあるあの強い信念や理念に触れて、僕の凍てついていて乾燥しきった心にオアシスが欲しい。

「あれれー。隣人くんじゃないかー」

前方から声が聞こえる。とてもわざとらしい声だ。下向いていた僕は頭をあげる。あの弾ける笑顔で、彼女は立っていた。まるで僕を待っていたかのように、堂々と仁王立ちしていた。

「隣人さん」

僕は心から嬉しくなった。会えた。

「どうやら、君が私を必要としていたみたいだからねー。君がどこへ行くのかアパートから後を追ってきましたー」

「絶叫が聞こえましたか……」

僕は苦笑いをした。彼女に僕の弱みを、汚い醜悪な部分を見せたくない。

「絶叫ね。私には慟哭のように聞こえたね」
「その慟哭は僕からあなたへ向けて放ったものですよ」
「なら聞こう、どうしたの? 何かあった?」

僕はありのまま、今日の出来事を話した。彼女は時折、頷くだけで、あとは黙って聞いていた。僕も質問されながら話すよりかは、最初に全てを話して、少しでも気を楽にしたかった。

「兄弟喧嘩だねー。私は兄弟いないから分からないけどね。ねぇ、前言ったこと覚えてる? 世界は変わらないから人を一人変えればいいって」
「ええまぁ、僕の発言ですしね」
「君が妹ちゃんを変えなきゃ。今はそういう時でしょう。君以外の誰が変えるの?」

僕が変える。妹を。

「私が変えてもいいけど、君が悪い。だから君が変えなきゃ」

隣人さんは、詰問するような言い方だった。

「だってそうでしょう? 思春期とか大切な時期を隣人くんとしか過ごしてないのはどう考えても君が悪い。世界に私の味方は君しかいないって錯覚させちゃったのよ」

そうなのだろうか。僕が、妹をダメにしたのだろうか。僕が間違いだったのだろうか。

「でもどうすればいいのでしょう」
「知らないよそんなこと。隣人くんがどうしたいのか決めればいいよ」
「僕は……」

僕は。
僕と隣人さんは随分歩いていたらしく、隣町まで来てしまっていた。あまり馴染みのない街で、方向感覚かおかしくなり、更に迷いを助長することとなってしまった。

「ここ、どこか分かりますか?」
「私、あまりこっち町行かないからわからない。隣人くん寒いんじゃない? どこか店で温かい飲み物買おー」

僕らは古びていて、今にも壊れそうな自動販売機を見つけ、金銭を投入した。
僕はホットココア。隣人さんはコンポタージュだった。歩きながら飲むはあまり行儀のいい行為とは言えないけれど、動いていないと固まって凍ってしまいそうで怖かった。

「なぁ、隣人くん。帰ったら私の歌聴いてよ。変われない人たちが変わらずに頑張ってく歌」
「待ってましたよ。この間、また今度って言われてから割と日にちが経ってたから忘れてしまったのかと思いましたよ」

僕は少しおどけた。けど本当に待っていた。僕と隣人さんを繋ぐのは、アパートの仕切りを除けば、彼女の歌のみなのだから。

「あ!」
「どうしたんですか?」
「こっちの道行けば、あの大通りへ出られるよ」

三十分大通りを歩き、アパートに着く。僕らが話すのはいつも、たわいもない世間話と、アパートの仕切りや、大家さんの悪口くらいだった。
ドアを開けて靴を脱ぐ。緊張が走った。妹に一言何を言えばいいか、検討もついていないからだ。

「兄さん」

「起きたか」

心臓が飛び跳ねた。いきなり出てきた。待っていたんだと理解するのに時間はかからなかった。

「どこ行ってたんですか?」
「買い物だ。今日は鍋にしようと思ってな」

大通り沿いにあるスーパーで隣人さんと夕飯談義の末、鍋に決まったのだ。

「そうですか」
「僕は」

何を言えばいいのか。作家のくせして、起承転結もできていないが、僕は言う。糸が布を織り成すように、言葉が文章を創り出していく。緻密に綿密に。

「妹の心地良さに甘えていた。昔の僕は今の君と同じで、妹さえいればそれでいいと思っていた。人間嫌いな僕は、周囲の目から逃れるために、妹と共に隠れて何年間も過ごした。けど僕は、隣人さんと出会った。僕のお隣さんだ。彼女の名前なんか僕は知らないし、向こうだってそれは同じだ。でも何故か、僕は惹かれた。隠れていたのに見つけられたのさ。隣人さんは太陽のような人で、僕を照らした。だから少しずつ変わっていこうと思えた。隣人さんみたいな人がいるのなら、世の中もまだ、悪くないんじゃないかなんて思った」

僕は、ふぅ、と一呼吸を置いた。妹は黙って僕を見つめ、次の言葉を待っているように思える。


「けど。妹はそうじゃない。何も変わってない。このままじゃだめなんだ。人は変わっていくものだ。君は僕に縋り付いてなんとか場を繋ぎ、時間を止めたままにしている。それじゃだめだ。僕が変われたように、君も歩き出さなければいけないんだ、未来へ。僕ほこれから進む。その先に苦難は確実にあるだろうし、そう簡単にいかないことくらいわかる。けど、人間はそうして成長していくものだ」

僕はそう言い切り、妹を見つめた。

「私は……。それでも、兄さんがそうであろうと、兄さんが好き。そりゃあ家族愛だってあるけど、一個人の男性として好き。けど、世間じゃ許されない。だから逃げた、このアパートに」

妹は途切れながらも、言葉を紡いだ。

「でも、兄さんは私に熱心にはならない。手を差し伸べてくれるくせに、その後の道は何も示さない……」

その後の道。それはなんだ。僕と妹が仲良くじゃれ合いながら、暮らすことなのか。

「兄さんは、中途半端。何しても出来るけど、何もしない。することはあるけど、してそのまま。私は、それが嫌だった。置いていかれたくなかった」

彼女は寂しげに、まるで全てを理解しているかのように、僕に向けて言った。
僕は、中途半端。グレーゾーン。脳天を鉄の棒で叩きつけられた衝撃を感じた。
僕は、これ程にも、頑張ったのに。悩み、苦しみ、もがいたはずなのに。それでも、中途半端なのか。

「僕は置いてかない。僕が悪かったんだ、これは。僕が曖昧なのが悪いのかもしれない」

こう前置きしたうえでだ。

「これからはっきりさせようか。僕は君に、恋愛感情を抱いていない。僕の君に対するこの気持ちは、家族愛だ」

はきはきと必ず、妹の心に響くように、妹の大きな双眸を僕は捉える。

「そう……ですか。そうですよね」

妹はうんうんと頷いた。

「私なんか、ダメですよね」

何故か笑顔だ。それも僕の嫌いな愛想の良さそうな笑顔。心の底から、目の奥は笑っていない、あの笑顔。

「妹。違うんだよ。そういう思考回路から外れろって話をしたんだよ」
「もう私はいいんですよ。兄さんが嫌だと言うのなら、私はもう」
「目を覚ませ!」

僕は久しぶりに大声をあげる。妹も目を見開く。

「お前が好きな男性は、ただのどうしようもないゴミ人間なんだ。お前が居なきゃ何も出来ないし、人間嫌いのくせして寂しがり屋だし。恋愛感情の面でだめなら、全てだめなのか? 違うだろう。兄妹として最も健全な兄妹が残ってるだろう。僕は君に何か制限したか? してないだろう。僕が言ったのは、恋愛感情には答えられないってことを言っただけだ。だったらなぜいつも通りにしないんだよ。いいんだよ、いつも通り僕にくっついて甘えて」

僕は言う。これが正しいのかは判断出来ない。けど、間違ってはいない事だけはわかる。

僕らはこうやって進んで行くんだ。必死に答えを探して、そのために何度も転んで。上手くいかなくてもいくまでやり続けて。いつでも全力の投球を最後の最後まで投げる必要があるんだ。

「兄さん!」

妹は僕の胸に飛び込む。どうやら満足してくれたようだ。僕も久しぶりに心の底からの、屈託のない澄んだ笑顔を見た。


「隣人くんと、妹ちゃん仲直りしたんだー」
「ええまぁ。あれは喧嘩だったんだか、曖昧ですけど」

昨日あった経緯をベランダで話す。僕は煙草を吸うため、彼女は観葉植物に水を与えるためだ。
空は快晴で、青く神々しくそこにあった。

「なら、良かった」

彼女が僕の方をくるりと回って見た刹那、彼女は息を荒らげて倒れた。

「隣人さん?」
「……」

頭を触る。凄く熱かった。

「ごめんよ、隣人くん。私の部屋まで私を連れてって」

息も途絶えながらで、尋常ではないことがすぐに分かる。

「分かりました。んじゃ、失礼しますよ」

壊れた仕切りが元あった場所へと、足を踏み入れそのまま窓から部屋へと入る。ベッドへと運んで布団をかけた。

「ふぅ。無理でもしてたのかな?」

いきなり倒れるなんて、そこまで疲れを溜めていたのだろうか。そんな素振りは見せなかったはずだ。風邪がいきなり発症するなんてありえるのか? 疑問は尽きないが、とりあえず見守ることにした。寝息さえも荒らげている彼女はとても危険な気がした。

「ちょっと待っててくださいね」

寝ていると分かったが、一応報告をする。
自分の部屋から濡らしたタオル、風邪薬を持ってくる。そして、タオルを彼女の頭に乗せ、申し訳程度だが応急処置をする。
改めて、部屋を見てみると、やはり女の子なんだなと感じた。白を基調とした、机、カーペット、小さめのソファ。しかしそれらは、明るすぎない、少し肌色っぽさを感じる白で、目を過剰に
刺激することなく、すんなりも見れた。木でできた本棚もあり、そこには有名な文豪作品、著名人の自伝があった。一冊、一番高い棚に不思議な病気を取り上げた本が一冊だけあった。僕は興味深くなりそれを取り出し、時間を潰した。

「もう……、やめて……」
「隣人さん?」

本を読みはじめてどれだけの時間が経ったか、突然発した声に驚く。
この本は図鑑形式になっており、なかなか読み応えがあった。
風邪をひいた時の夢は変な夢が多い。隣人さんもそうなのか、辛そうにそう言った。

「私が……。私がするから……」
「隣人さんさん……」

僕はそれを見つめることしかできない。ただ呆然とそうするしかない。
お粥でも作るかと僕は勝手に隣人さんのキッチンへと入る。
お粥は質素で、ネギと卵だけで、醤油ベースの味にした。

隣人さんはまだ寝ており、二時間近く経過した今も、まだ辛そうだ。僕は彼女の寝ているベッドに近寄り、彼女の寝息を近くで感じる。

「隣人くん……」
「起きました?」

しかし彼女は目を瞑っており、どうやら寝言のようだった。僕はベッドに寄りかかりながら、布団から出てる右手を僕の左手を挙げて繋ぐ。

暖かく、温もりかあった。傷跡がいくつもあり、頑張ったんだなと理解出来る手だった。
僕はたかが一介の隣人に何をしてるんだかと思った。ここまで仲良くなるなんて、自分自身思ってなかった。
これからも仲良く、末永くできるだろうか。彼女も、僕もわからない。
そうだといいな。

第四話

0
非凡と平凡の違いはなんだろう。多分それは人の価値観だ。どれほどの平凡な人生でも、感じ方次第で非凡に変化していくのだ。

1
隣人さんは、僕の手をきつく握り締めている。
僕はこの手について考える。この手はボロボロで、事故でもしたような傷跡が沢山ついていた。包丁や紙などの擦り傷などでつくようなものではない。いつの間に、こんな傷をつけたのだろう。
彼女の寝息は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。汗ばんだ手を僕は離し、容態を見てみる。
タオルはついさっき交換したばっかなので、冷たく変える必要がないが、どうやら着替えが必要になりそうだった。汗まみれの洋服では、更に事態を悪化させる気がした。医者に見せるのもありだが、ここから近い病院は緊急事態への備えもある大型のものしかなく、この程度の風邪じゃあ、診てくれないかもしれない。

「隣人……くん?」
「起きましたか」

彼女はこちらを目だけを動かして見る。弱々しいその目は、その些細な動きすら辛そうに思えた。

「大丈夫ですか。病院とか」
「大丈夫だよ」

少し慌てた様子で、口早にそう言う。

「風邪がこじれただけ。薬さえ飲めば治る」

なぜそこで確固たる決意をもったように、言い切るのかは謎だったが、彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。

「まぁ、そう言うのならそうなのでしょうね。じゃ、腹ごしらえしましょう。薬を飲むには、腹満たさないとね」

僕はキッチンの鍋を温め直し、大きめの器に多めによそった。なるべくネギや卵の黄身の部分が入るよう、配慮した。そして僕の部屋から持ってきたスポーツ飲料をコップに半分程度注ぎ、お盆で運ぶ。

「作ってくれたの?」
「ええまぁ、一人暮らし歴はそれなりに長いんですよ。だから自炊なんて朝飯前ですよ」
「わざわざありがとうね。私なんかのために」

そういう言い方は好きではない。自分を卑下するのは良くない。

「僕は、あなただからこそここまでするんですよ。そんなふうに言われたら、僕まで貶されている気分になります」
「違うの、そう言う意味で言ったんじゃないよ!」

彼女はお粥を食べるのをストップして、僕に弁明の言葉を取り繕う。

「そう意味じゃ、ないの」

彼女は意気消沈して、俯いた。

「分かってくれればいいんですよ。ただ、僕は本当に心配しました。あなたも心配される立場にある、ということを覚えておいてくださいね」

僕は、宥めるように落ち着きを払った声音で言った。

「みんなそうだよ」
「みんな? なんの話をしてるんですか?」

聞き返すが、返事はなく、スプーンと皿がぶつかる音だけが虚しく鳴り響く。

「私、もう寝るね。まだ辛いみたいで」

半分程度を食べて、彼女は呟く。それはどこか早くこの時が過ぎるのを急かすかのようだった。

「そうですね、絶対安静ですよ。っと、その前に薬飲みましょうか」

立ち上がり、何処にあるのか訊ねる。

「キッチンの戸棚にあると思う。ごめんね、なにからなにまで」
「気にする事はないですよ」

キッチンへと移動し、一つ目の引き出しを見る。白い紙袋に入っている薬を発見した。そこで僕は初めて隣人さんの名前を知る。「雪栗詩音」。それが彼女の名。悪くないと思った。むしろ素敵な名だと。けれど、どこか脳の隅にある疑問は拭えない。なんだろう、このもやもやと雲のように僕の心に浮かんでいる黒いものは。
グラスに水を入れ、薬の袋と共にお盆に乗せる。


「持ってきましたよ」
「ありがとー」
「初めて隣人さんの名前が分かりましたよ」

隣人さんの顔が曇るのが見てとって分かった。
僕の心にも靄がかかるのがわかる。
やはり線引きされているのだろうか。友達と隣人のボーダーが。僕はまだ関係を踏み込めてない。やはり、僕と隣人さんとの間には色濃く線が引かれているのだ。

「あの薬の袋で見たの?」
「え、ええ、まぁ。もしかしてあまりよくないですかね」
「えーとまぁ。出来ればそういうのはやめてほしいな」

僕は、これを言われて僕は。なんとも言えない、形容しがたい、したくない気持ちになった。
もうダメだった。僕の精神はずたずたに引き裂かれてしまった。

「分かりました、すみませんでした」

頭を下げる。僕じゃあだめなのだ。そりゃあ、会って一ヶ月程度の隣人だ。僕でも大丈夫だろうと思うのは、思い上がりも甚だしい。

「良くなったみたいなんで僕は帰りますね。まだ治ってないので、自宅で安静にしててくださいね。さよなら」

僕は彼女が何か言ってるのを無視して、部屋を出て、ベランダを経由して自分の部屋に辿り着く。

僕はこれからどうすればいいのだろうか。もう、何もしたくない。そんな気持ちが全身に駆け巡る。ベッドに倒れて、うずくまる。
この世がひどく、暗く感じる。いや、事実そうなのだ。暗い。人間一人じゃあ生きていけないなんて人は言うが、僕は今、一人で生きていきたい気分にあった。どうだろう、生きていけるのだろうか。
どれだけの言葉を重ねても、やはり無理なものは無理なのかもしれない。

「兄さん?」

いつも間にか妹がそこにいた。いつ来たのかも分からない。

「よぉ」

だらんとだらしなく手を上げる。僕は今、どんな顔を妹へ向けてるだろうか。

「随分とまぁ、ひどい顔をしていますよ?」
「放っておいてくれ。そういう気分なんだ」
「ご飯、作りますよ。兄さんはそうしていてください」

妹は事情すら訊かず、僕にとっての有益なことをしてくれる。本当に一緒にいると楽な存在だと思った。
あれ以来、妹は僕に敬語を使うようになった。気持ちが暴走しないように、だそうだ。僕は、敬語だろうが、敬語じゃなかろうが、妹に対する事は何一つ変わらない。今まで通りと言った感じだ。

「兄さん。ぼーっとして、大丈夫ですか?」
「僕は概ね良好だ。気にすることはないさ」

隣人さんに拒まれた。その事実がひどく心に突き刺さる。とても鋭利で僕の心に貫通していて、どうやら抜けそうにない。

「妹、好きな人に拒まれたらどうすればいいんだ」

たまらず妹に訊く。はっきりとした答えなどないと分かっていてもだとしてもだ。

「私は兄さん以外にそんな人はいませんので、分かりません」
「なんだその、取り付く島もない返答。困るな」

頭を掻く。実際どうすればいいのだろうか。

「事実そうなんですよ。たかが自分と同じ人間に拒まれたからなにかあるんですか? 何もありませんよ。ただあるのは事実だけですよ。代わり映えはしません」

それは違う。

「代わり映えするだろ。大切にしたい人と、どうでもいい人に拒まれるのとじゃ訳が違う」
「私のは極論でしたね。そうやって拒まれて嫌われたのが嫌だったのなら、そうやって考えればいいんじゃないですか?」
「大切にしたい人と、どうでもいい人は、結局同じ人間ってことか」
「つまりはそういうことなんですよ」

僕は落ち込んだ気分になった。本当に隣人さんを思っていたのかどうかすら分からなくなった。
僕は、隣人さんのどこに惹かれたのだろうか。それすらもわからない。性格か。容姿か。生き様か。

「兄さんは、本物と偽物、どちらが良いですか?」
「ん? そんなの、本物の方だろう?」

意図が掴めない。何を言いたいのかが分からない。

「言い方を変えますね。オリジナルとコピーだとではどちらでしょうか?」
「やっぱ、オリジナルだろうよ。模造品は僕は嫌だな」
「何を言ってるんですか兄さん。コピーは代替品だからいいんですよ。また新たにすぐに届きますよ。大切にしたい人はつまり、そう言うことではないですか?」

大切にしたい人が、代替品。そんな発想は僕には到底思いつきもしない考えで、凄く鮮明に、脳裏に焼き付く。

「人は、変わってくんですよ。幼少期は両親が大切で、青年期は親友が大切で、大人になれば伴侶が大切になっていく」
「それらは全て並列じゃないのか。同等の価値を見出しているだろう」
「時の中ではそうではないんですよ。母親はいつだって甘えさせてくれないから、次を求める。親友では満たせないものがあるから、恋人を」
「それだって違うぞ妹。僕はその考えは違うと思う。確かに本能ではそうなのかも知れないけど、僕の気持ちはそうじゃない。それは僕に限らず、そうなんだと思う」

妹は笑った。声を出して。

「兄さん。それだけ思えるんだったら心配はないですよ。人間には、感情があります。それがあれば、浮き沈み激しい時だってあります。兄さんの好きな人がたまたまその時だったんですよ」
「なんだ、僕を試してたみたいに」
「妬けてきますね。腹が立ってきました」

目のハイライトがなくなり始める。

「怖い怖い。なら、僕は妹の美味しそうな料理を食べて寝るよ」

妹は嬉嬉として、料理を運んでくれた。僕は、こんな風に妹を妻とする未来もあったのかなと、しみじみ思う。


2
煙草を吸う頻度が増しているのに気づく。もう既になくなり、コンビニへと出かける準備をする。コートを着て、近くのコンビまで歩く。そんなに時間はかからない。
コンビニには客はいなくて、レジで店員は手持ち無沙汰にぼーっとしていた。

「お、タバコさん」
「あー、どーも」

コンビニの店員さんとは知り合いだ。同じアパートの一階に住む、冴木さんだ。大学生らしく、大抵家にいないので、滅多に会わない。アルバイトをここでしているのは知っていたが、会うこと自体は初めてのことだった。

「久しぶりですねー」
「あのアパートで会うことないですもんね」
「あははー、私だって帰りたいですよー」

彼女はころころと笑った。どこか犬を思わせるような、その姿は見ていて微笑ましかった。僕はこんなふうに大学生に出来ることを何一つとして出来なかったからか、羨望の眼差しで彼女を見てしまう。自由気ままで、やりたいこと、そうではないことをはっきりしている。

「タバコさんは、いつものセッターですかー?」
「そうですね、カートンで」
「おおー、そりゃあベビーですなー」
「赤ん坊じゃないですよ」

このなんだろう。親になったことないが、親の気持ちになれるような。 話してて暖かい。

「もう少しで、バイト終わるんで一緒に帰りましょ。どうせ夕飯ないでしょー? 余り物でももらうんで、食べましょうよー」
「是非そうしましょう。作るものめんどくさいと思っていたんです」
「やったー」

バンザイして、そのまま店の裏へと行ってしまう。

「待ってください、僕のセッターを売ってくれませんか?」
「忘れてたー」

くるくると回りながら、リターンしてきた。
その後、少しすると、私服の冴木さんが店の裏の店員専用出口から、大きな袋を持って出てくる。

「今回は弁当系がメインですねー。唐揚げ弁当は頂くぜー」
「ええ、どうぞ。あ、僕持ちますよ」

袋を手にとろうとする。

「なーに言ってるんですかー。男性アピールですかー?」
「そんなんじゃないですけども」

調子が狂う。反時計回りに進む時計のように。

「タバコさんは、私の中での立ち位置は、赤ん坊なんだから、そんな事しなくてもいーですよー」
「あ、だから、ベビーなんですね」
「あはー。それは冗談だけどー。あんまりイチャコラしてると千結晴ちゃんに怒られますからねー」
「あれは冴木さんは悪くないですからね。僕の妹が弱かったんですよ」

まだ尾を引いてるのか。
僕と妹との関係は、両親が死んでからに遡る。僕らは親戚に預かることを拒否し、共に自立した。妹が友達の伝手で小説の編集の仕事に就き、僕は努力して賞を取り、小説家になった。その後、僕はアパートを借りて、妹は僕から少し離れたマンションを借りた。その方が仕事場が近いからだ。最初は妹と一緒に住む予定だったが、近くに自然公園がなかったので、僕は辞退した。僕らはその時、二十四歳と、二十三歳だった。
僕は初めてアパートの人と仲良くなったのは、冴木さんで、共通点は近くにある大学が同じという点だった。仲良くなんていっても、話す程度だ。あの教授はどうだとか、他愛もない。妹はそれが気に食わなかったのか、僕に怒りを露わにして、冴木さんにもあたった。僕がそれを怒ると、廃人になった。それが冴木さんが妹を敬遠する理由だ。

「冴木さんは、大学でなにか学んだことってありますか?」
「あるともあるとも! それはねー。集団行動」

胸をえっへんと張る姿は、可愛らしかったが言ってることは不思議だった。

「大学生で集団行動なんて、しましたっけ?」
「しますともー。私は、このとーり楽しいじゃん? けど、つまらない人はつまらないと思うよー、集団行動」
「僕は、つまらなかったですよ」
「タバコさんは、面白いもーん。私からしたらだけどねー。だからたまに思うよー。もし私がとてつもなくつまらない人間だったら集団行動ダメだったかなーとか」
「冴木さんは行けそうですよ。我が道みたいのがありそうですね」
「そりゃああるよー。まずその一、ずるいことはダメ。その二、人間助ける。その三、者を奪っちゃダメ。これを絶対守るよ」
「聖書みたいですね、奪っちゃだめとか」
「なーに言ってんのー。人間の基本でしょー」

その通りだが。どれも僕にはハードルが高く難しい。さすがに物は奪わないけども。

「タバコさんはさー、生きてて楽しいー?」
「ええまぁ、概ね」
「私はつまらなーい。集団行動大変だし、生きるのはここまで大変なのかと焦りまくりよー」
「いつか、素敵な人に出会った時、楽しいと心から思える日が来るといいですけどね」
「素敵な人は何人もいるよー。タバコさんとかー、水無瀬さんとかー」
「僕もですか」
「千結晴ちゃんとかー」
「冗談がキツすぎて、右ストレートを打ち込まれた気分です」
「あは。千結晴ちゃん怖いよね。一途すぎて気持ち悪いもん。私は、タバコさんと水無瀬さんをぐるぐると回ってますともさ」

そう言って、歩きながらも、くるくると回る。
可愛い。

「一途ね。僕もそうなりたいな」
「無理ですよー、そんなの。人間である限りねー」

随分とまぁ、旋回しながら、言ってくれたもんだ。

「厳しい。一途は無理ですか」
「だってさー、一人を思い続けるのはきついじゃん? 報われないし、答えてくれなきゃ意味無いし。そりゃ、自分に答えてくれる人に目がいっちゃうでしょー」
「その通りですね。考えを改めます」
「そそ。そんなの気が狂ってるやつがすることだね。でもさー」

彼女は右旋回をして、僕を見据える。大きな雲をバックに彼女は微笑んだ。

「私は、そんなやつの方が好きだったりするのだ」

僕もそんなやつになりたい。

第五話

0
表側には愛が、裏側には憎悪が。それらを括るは感情。


1
冴木さんとの些細ながらも、豪勢なランチを楽しんだ日から二日が経った。唐突にインターフォンが鳴るので、誤作動かと思ってしまった。普段やってくる妹は合鍵を持っているからだ。それの他、こんなボロボロのアパートに勧誘など来るはずもないのでインターフォンなど鳴るのはごく稀になる。

「はーい」

玄関を開けると、眼鏡をかけた作業着の中年が立っていた。

「えーと?」

察しが悪い僕は思い当たる節を思い出せない。

「どうも、仕切りの件でやって来たんですが」

優しい声で、高いトーンで話す。僕的に好印象だった。その声はやるで、好青年のようにも思えた。

「あ、はい」
「明日の午後二時に、修理をしてしまおうと思いまして。大変長らくお待たせしました。不都合がおありでしたら、今言って頂ければ」
「んーと、特に問題はないですね。大丈夫ですよ」
「わっかりましたー。では明日また二時に来ますのでよろしくお願いしますね」

饒舌で、滑らかに話すのが特徴的だ。中年の彼にそこまで興味はないが、印象というのは大事だなと把握した。
そして、第七章を書き終えて次の日が来た。

「はいどうもー」

インターフォンが鳴って、出てみるとやはり修理屋さんだった。無論、そうでなければ困るけど。

「んじゃ、失礼しますね」

そう言って、大きな新しい仕切りと、専用の工具が入ってるであろう、工具入れを運ぶ。
玄関の鍵を閉め、僕もベランダへと向かう。作業も見てみたかったし、煙草も吸いたかった。

「煙草大丈夫ですか?」
「ああ、平気ですよ。私も昔はヘビースモーカーでして」

彼は、古い仕切りを隅に追いやり、外れた結合部分を直していた。

「そうなんですか。今もお吸いに?」
「いえ、妻にストップをかけられましてね。すっぱりと止めました」

専用の工具を取り出して、結合部分を直す。

「それは、強い意志をお持ちで」
「妻とを天秤にかけたら一目瞭然でしょう。私は迷いなどありませんでしたね。やめられないとかは関係ないんじゃないですかね。誰に言われるかなんですよ」
「僕もそんな人に止められればやめるかもしれませんね」

ふぅと、害悪の塊を中へ放つ。僕のこの習慣も、やめられる時が来るだろうか。

「妻に淡々と煙草のデメリットを話されました。そして、煙草を買う時間、吸う時間を全て私に使ってと」
「理責めするほど、嫌だったんですね」
「いつか死ぬ時後悔する、私ともっと居たかったって。そんなふうに言われたら止めるしかないんですよ。そっからですね。後悔したくないと様々なことに挑戦し始めたのは」

素敵な奥さんだ。彼を思っての言葉が、僕の心に沁みる。

「後悔したくない、か」

誰に言うでもなく、いや空に向かって僕は放つ。人生は後悔しかない。

「ええ。あなたも燻ってないで、何事にも挑戦した方がいいですよ。全力でやれば失敗なんて気づかないですから」
「そんだけ、熱を注げることがないですね。僕は小説家なんですが、小説にすら熱を注げませんから」
「小説家ですか。それは珍しい。昨今滅多に見ないですからね。いいじゃないですか、小説。私は羨ましく思いますね。自分の世界を語って共感を得られるなんてことは、すごい事ですからね」
「まぁ、今も昔もいるけど身近には感じないですよね」

彼は嬉しそうにこちらを向いて笑った。その笑顔は僕までもを嬉しくさせた。

「ところで、突然でしたね」
「ん? まぁ、確かに昨日の今日で早いとは思いましたけど、早いに越したことはないと思いますよ、何せプライベートが隠せない訳ですからね」
「あー、いえ、そちらではなくあなたのお隣の方が引っ越すと聞いて」
「え?」

素っ頓狂な声をあげる。
隣人さんなのか? 隣人さんの部屋を見るが、大量に生い茂っている観葉植物はそのままだ。
となると反対側の一〇三号室だろうか。ちらっと仕切りの横から覗く。確かに生活感はなく、しんとした雰囲気になっている。洗濯物もまるで出ていない。
隣人さんは先週まで寝込んでいたはずなので、いきなり引越しはないか。冷静にそう考えることにした。

「大家さんがポロッと零してましたよ。いい人だったのにって」
「そうなんですか。僕はあまり認識がなくて」
「あーそうなんですか。私も一回しかないんですけど、透明な方でしたね。陳腐な表現かもしれないですけど、妖精的なイメージを持ちましたね」

妖精的。それはなんとも面白い表現だ。僕は見たことがない、妖精的な女性。

「女性だったんですか?」
「そうですね。儚げな人でした」

僕の住むアパートは、女性が多いのか。初めて知る事実だ。大家さんは男性だが。

「そうですか」

僕は、胸のざわめきを感じる。まずい気がした。隣人さんがいなくなってしまう。そんな気が。それは憶測に過ぎないけれど。
仕切りの修理が終わると、彼は去って行く。

「これでもう、大丈夫ですね。ちなみに災害時はここを蹴破ることも可能ですからね」
「覚えておきます」

彼はそう言って会釈をし、僕の部屋をあとにした。
胸のざわめきは止まらない。嫌な予感ほど当たる。これは紛れもない事実としてあると信じてきたけれど、こればっかしは信じたくなかった。

2
「タバコさん!」

不安を紛らわすために散歩しようとアパートを出ると、冴木さんにも出くわした。こんな早朝から何してるんだと思ったがあえて触れない。どうせ、「女には秘密があるんだよー」とか言ってはぐらかされるのは分かっていた。
冴木さんは紺のジャケットに、足のすねくらいまでの長さの青い、青といっても褪せたように色素が抜けたように薄い青、のスカートを着ていて、いつもの二倍は大人びて見えた。

「やっほー、おはようございます。こんな朝早くから珍しいですねー」
「そうですかね。ちょっと眠れなくて、散歩でもしようかなと」
「いいねー、私も行くー」

ひょこっと、僕の隣に移動した冴木さんは、僕の左腕に彼女の右腕を密着させるようにくっつく。

「近いですよ。僕の胸の鼓動が、十六ビート刻んじゃうんで、少し離れましょうよ」
「刻んでくださいなー。ドックンドックンしちゃうねー」
「いやまじで」
「そんな言葉使えるんですねー。素直に驚き」

僕らはどこに向かうでもなく、嫌な靄を振り払うように歩く。雑談を交えながら。
僕は彼女の顔を見てると、ある同級生を思い出す。

高校生の時だ。案の定友達なんてものがそう簡単に僕に出来るはずもなく、寂しい日々を送っていた。その頃は、なんとも思っていなかったが今思えば中々寂しい。登校して、勉強して食事して。毎日の単調なリズム。最初はとても長く感じたが、いつの間にか時は早く移ろっていき、高校二年生に進級した。そこで転校生が編入した。とても長い髪で、腰よりも少し上くらいまでのロングだった。こんなに長い髪を持つ人間もいるのだなと感心したのを覚えている。彼女は僕が記憶に残さないような、つまらない挨拶をして席に座った。席が問題だった。僕らの担任は、クラスのことにあまり関心があるとはいえない教師で、席は出席番号順の次からは授業を妨害しないという約束の下、自由になっていた。困ったのは僕で、いつも一番後ろの隣が誰もいない席に決定することを余儀なくされていた。これが転校生の席に関わる。つまり、僕の一人席の隣に新しく席が出来て、その席に転校生が座ったのだ。それが事の発端で、教科書提示、学校案内、教室移動などの様々なことを任せられた。

「教科書見ないの?」

彼女は不安げに聞いてきた。貸しているのは数学の教科書で、僕は数学など勉強する気になれなくて、二人で見るのは効率が良くないと貸してあげていた。国語は得意で、教科書なくとも、物語や論文などは覚えるほど読んでいたし、何を伝えたいか、どんな学習をすべきなのかは把握していたため、貸していた。

「いいよ。好きに使って。僕は数学苦手だからね。二人で見て、二人共出来なくなるより、一人が全く出来なくて、一人が出来るようになる方が望ましいと僕は思うから。これは僕の善意だから、恩を感じる必要はないよ。なんなら、気持ち悪いやつに教科書を貸されたけど、気持ち悪いから断れないと思ってくれても構わないよ」
「あは。ありがとね。私も苦手だから、あなたの分まで頑張るね」

僕は、ちょっとした、母性本能をくすぐられた。小動物のように笑い、振る舞う彼女は、僕にとってとても魅力的だった。特に、あはと笑う時。戯けるのと照れとが混ざった笑い方は僕すらも笑顔にした。

「あなたは国語が得意なの?」
「得意というか、好きだからやってる。数学は特定の分野で使うかもしれないけど、国語はいつでもどこでも、人との関わりがあると必ず使うからね。僕も真面目に勉強してる。僕は人との関わりが少ないけどね。多分、社会に出たら一番使うのが国語だと思うから」

彼女が質問をして、僕が一から十まで僕の考えを言う。これがいつもだった。長々と喋っても彼女は相槌をうって、僕の目を見ながら話す。彼女と話す機会が増えるのも当然といえた。
ある日。それは三年生にあがる春だった気がする。

「私と一緒に映画館に行かない?」
「なんで?」

彼女はクラスでもそれなりの人気を博している。彼女特有の笑い方は、やはり人を集める。そして知的な雰囲気。数学、物理などが得意になった彼女はどこか知的で「出来る女」感があった。それに男子も女子にも優しくしっかりとした対応。人気者になるのは必然ともいえた。転校した時に比べ、話す機会はとても減ったが、僕はあまり気にしていなかった。僕は僕で妹との蟠りのようなものが解け、妹との時間の方が優先順位的には高く、あまり話す気にはなれなかったからだ。
僕の発したなんでには、いくつかのホワイが含まれていた。なぜ僕なのか。なぜクラスで言うのか。なぜ映画館なのか。
火を見るより明らかだった、クラスのざわめきは最高潮に達した。

「私は、あなたと一緒に私の好きな作家さんが書いた実写映画が見たい。その作家さんはあなたがおすすめしてくれた作家さんなの」
「そーか。なんで今なのか疑問だけど、いいよ」

僕は了承した。断っても良かったけど、断らなくてもよかった。つまり、行かないよりは行った方がいいという、割と安直な考えからだった。
クラスの人間がなにか言葉を発してた気がしたが、僕の耳には届かない。届かないようにした。
映画自体は楽しかった。見応えがあったし、完璧とまではいかなくとも原作も忠実に再現されていた。結果としては、散々なものとなってしまった。彼女の人気を僕は侮り過ぎていた。そうそれは、過多といえるほどのものだ。僕なんかと彼女が釣り合うわけでもなく、嫉妬に変わり僕は孤独を更に深めることになり、それに加えいじめられるようにもなってしまった。僕はそれ以来、その子に話しかけなかった。それは卒業まで続いた。卒業式に一言、「また会いに行くから」とそう言われた。僕はそれに対して、やんわりとお断りしておいた。もうこの人と関わってこんな目に遭うのはごめんだった。

「ねー、聞いてるー?」
「あー、はい。聞いてますよ」

過去にトリップしてしまっていた。

「嘘だー。絶対に上の空だったよ」

彼女が、若き日の彼女なのだとしたら。いやいや。似てるのは面影だけだ。それ以外の性格、髪型は何一つとして共通点がない。やはり別の、似た人間なのだろう。そもそもとして、彼女の苗字は、冴木だが、高校生に出会った彼女は西野だった。この時点で違うじゃないか。

「なーんだ」
「何が、なーんだなの?」
「昔に、冴木さんに似た人に出会ったことがあって、その人は今何してんのかなーって」
「なんで。なんでそれが気になるの?」
「ん? まぁ、言いづらい話なんですけどね。僕が間接的にその人に関わったせいで、僕がいじめられたんですよ。それで」
「なんで。タバコさんのせいみたいな言い方なの? その人が悪いんだよね」

僕のプライバシーなどお構い無しにずけずけと、人の家に土足で入るように。

「いいじゃないですか。そんなの。僕が関わらなければよかった話なんだから。僕のせいですよ。第一、冴木さんに話しても過去はどうにもならないし、今はその人自身、どうも思ってません。興味無いですしね」
「そう」

冴木さんはそのまま黙って、僕の二歩後ろを歩く。さっきまで、僕に密着していたのに。

「なにを悄気てるんですか。行きましょう。あなたとの散歩を楽しみにしてるんですから」
「うん、行くよー」

彼女はあは、と笑ってこっちにやってくる。

「私はねー、頑張るよ、タバコさん!」
「頑張ってくださいね。僕はあなたを傍観してますからね」
「あはー、仲間じゃないんだ?」
「ええ。そうしたら僕が大変じゃないですか」
「私は、あなたが好きだよ。全てをさらけ出してくれるあなたが」

全て。これは果たして本当に僕の全てだろうか。

「ならいいんですけどね」

僕は肩をすくめる。生暖かい風が彼女の髪をなびかせる。

「私はこれからも、タバコさんの傍にいますけど、いいですか?」
「いいんじゃないですか? 僕はどちらでもいいですよ」

彼女はあは、と笑った。やはり、昔を想起させるものがあった。けれどそれを上回るほど、素敵だなと感じた。笑顔を見せる女性は大抵美しいのだ。顔の端正さなど関係ない。どれだけ心の底から笑えるのか、これが核となる。

「タバコさん。そろそろ戻りましょう。7時過ぎますよ?」
「そうですね。いい気分転換になりましたよ」
「私もです」

冴木さんと共に帰路についた。
朝焼けは激しく輝いていた。
僕は今、輝けず、色がくすんでいる。

第六話

0
小休止はいつも必要なものだ。


1
雲一つなくて、月明かりが煌々としている。
隣人さんは僕を置いてどこへ行ったのか。それは分からずじまいのままで。

「タバコさん。私とデートしましょうよ」

そう冴木さんに言われてしまえば、折角開けた記憶の引き出しを閉めて、僕は冴木さんにほいほいついて行った。
隣人さんにも、誰にも会いたくない時くらいある。僕はそう言い聞かせて冴木さんと共に、夜の街へと出かけた。

「こんな夜にどこへ行くんですか?」

こんな夜。僕は、徐々に影と同化していく。そんな気がした。

「ディナーをしましょう。もう食べてしまいましたか?」
「食べてませんけど」

冴木さんは珍しく、すごく気分が良さそうだった。いつもはもっと静かに元気な感じだが、現在は元気で明るかった。それは目に見えて分かるほどにだ。例えば、目。いつもよりキラキラと輝いている。化粧では表せないようなキラキラだ。

「いやですか?」

上目遣いを使い、少し切なそうに悲しむ。それは許すしかないような気がした。

「嫌じゃないですよ」
「なら、行くべきですよー、私とあなたの仲じゃないですかー」
「そんな、仲良くないですよ」
「あは、はっきり言うあたり好きですよ」

なんでこんなにも上機嫌なのか。それは疑問だが、本人は楽しんでいるみたいでよかった。
僕と冴木さんは、どんどん街中へと進み、駅前の方まで来た。そんなに距離はないが近いわけじゃない、絶妙な距離にある駅前は、九時を過ぎていても活気はまだまだあった。

「駅前に美味しい寿司屋さんが出来たんだよー」
「え、回る方ですか。それとも回らない方ですか?」
「回るけど、ちょっとお高い。そんな感じの感じ!」
「お財布が心配になってまいりました」

初めて、僕は妹以外の人間と外食をする。普段、人混みが嫌いな僕は絶対に外食という手を取らない。本当に切羽詰まった時くらいのものだ。それに対し、冴木さんはとても手慣れている印象を覚える。

「ここだよー」

駅前から少し離れた場所に大きくあった。人気があるらしく、駐車場は車で半分以上埋まっていた。店の中から出てくる客も多い。

「なるほど。さて行きましょうよ」
「乗り気だねー。れっつごー」

誰かと一緒にいる時、その誰かが笑っていて、自分は笑っていない。それは不誠実なことだと思うのだ。心の底から笑うにはどうすればいいのだろうか。簡単だ、純粋に楽しめばいいのだ。そんなことも出来ない僕は、出来損ないだ。
中に入ると、機械があり、そこで一時的な予約をするようだった。けれど待っている客はさほど多くなくて、二組の家族と、一組のカップルがいるだけだった。冴木さんの方を、何か喋るわけでもなく、ぼーっと見つめていれば、あっという間に店員さんに番号を呼ばれた。

「あっという間だね」
「ええ。冴木さん見てて、気づいたら呼ばれましたね」
「やっぱり、見てたな。そんな視線をひしひしと感じたよ」

悪戯っぽい、ニヤッとした笑いで、歯を見せる。彼女の笑い方は二通りあって、今の悪戯っぽい笑顔と、清楚なあは、という笑い方だ。別に、どっちがどうだとか言うことはないが、どちらも素敵なのは言うまでもない。
肌色を基調とした壁に、青く彩られた波が描かれている暖簾が飾られている。どこの寿司屋でも取り入れてそうな、全国で見られるような、そんな模様だ。
席に座り、僕はおしぼりを二つ手に取り、一つを彼女へ、もう一つを自分自身へと渡す。彼女は明るくお礼を言って、手を拭いた。そして、回っているレーンの中にいる白い格好をした板前さんを呼ぶ。

「マグロの美味しい部分くださーい。あなたは?」
「えー、と。僕もそれで」

板前さんは、返事をして細長く、人間をいとも簡単に貫いてしまいそうな包丁を取り出して、布巾で拭いてから、マグロの柵を取り出して捌き始める。

「ここの雰囲気が好きなの。どう言えばいいんだろう、こう、うるさすぎないし」
「分かりますよ。曖昧な場所は存在すらも曖昧にしてしまうから」
「曖昧な場所ね。全然曖昧なんかじゃないけどね」

曖昧な場所。つまりは、自分自身の存在が紛れる、そんな場所であるのならどこでもいいのだ。個体があるかないかの境目、グレーな地点。僕はそれを望む。そこにいれば何も考えなくてもいい。ただそこにいるだけで、全てが曖昧になる。何も思考しなくていいのだ。そんな場所にずっと居座っていいわけがない。世の中は曖昧に厳しい。つまりは僕に厳しい。

「はい、お待ち」

高級そう皿にマグロが二貫盛り合わせされたものが、二つ運ばれる。皿の黒は赤を目立たせ、自身をも映えさせる、そんな色合いだ。そのうちの一つを、冴木さんの方へとスライドさせる。

「ありがとう

彼女は、まるで慈愛に満ちた聖母のような笑顔で微笑む。それに比べ僕は、今どんな顔をしているだろう? ちゃんと、笑っているだろうか。果てしなく、苦々しい顔をしているに違いない。しかし、冴木さんと一緒にいるのにそんな顔をするのは、どこか不誠実なことだと思った。

「マグロはずっと、進んでないといけないんですよね」
「進まなくても大丈夫なんだよ、本当は」
「あ、そうなんですか?」

お茶を飲む。少し苦い。深みのある翡翠のような色のお茶の味なんて、美しい赤身に比べれば普通の、市販のもののように感じた。しかしそれはそれなりの気品と価値がある、お値段高めのものだと思う。

「海流のせいで、眠っている間も動いているだけらしいよ」
「さぞ迷惑でしょうね。勝手に動いてしまって」
「そうだろうね。置いてかれるようなもんだよ、置いてかれるのは何よりも辛い」

悲痛な顔だった。冴木さんの過去は知らない。けど、それなりの過去を歩んでいたのだろう。

「僕もそうです。ある人に置いてかれたようなもんです」
「お互い、傷ついてるね。中古だー」

笑う彼女はいつもの調子で、僕はそれに合わせるように笑った。素敵な笑みに僕は、惨めな気持ちになる。僕はこんなふうにはなれないのだと。厳しい現実を突きつけられる。

「中古、か。僕はあんまり嬉しくないですね」
「私だってそうだよ。けど、そんなの一々気にしてたらやってられないよ」

冴木さんらしい肯定的な捉え方に僕は、同意は出来ない。中古、模倣品。妹に言われた言葉が脳裏を横切る。代替品なんかじゃダメなのに。

「大将、イカ食べたーい」
「あいよ!」

悩んでいる僕に構わず、自分の好きな物を食べる。こうして、僕が戸惑い、傷付いている間に世間は当たり前のように歯車をくるくると回し、世の中を動かす。僕はその中で止まったままだ。けど、それはそれでいいんじゃないのか。僕一人くらい壊れていたってなんの問題もないはずだ。冴木さん並の肯定的思考は不可能だが、少しだけ前向きに考える事は僕にだって出来る。

「大将さん、僕は昆布締め鯛が食べたいです」
「あいよ!」

何度目かの目標を掲げ、何度目かの挫折の味を嗜み、僕は努力をする覚悟をする。全てのことに遅すぎるということはないんだ。影と同化するのはやめだ。僕は影をより濃くしていこう。

僕は十の皿を積み上げ、冴木さんは八の皿を重ねた。僕にしては食べた方だし、それは彼女とてそうなのだろう。隣でお茶を啜りながら、お腹をさする冴木さんは可愛らしい。

「いっぱい食べたね!」
「そうですね。男としてはもっと食べたいところですけど…」

成人男性にしては、少ない気がする。せめてあと二皿程度食べれればいいのだが、僕の腹が良しとしないし、お財布が軽くなってしまうのは避けたいところだった。

「タバコさんは、趣味とかないの?」
「んー、ありましたね」

お茶を口に含み、喉を湿らす。

「過去形なの?」
「ええ、イズじゃなくて、ワズなんですよ。高校時代、手芸部だったんで、編み物をしてたんですけど、これがまぁ楽しいんですよ」
「あら意外、熱を入れて喋るねー」

高校時代、あんまり思い出したくはないが、それなりに光を放ってたんじゃないか。それは例え、鈍くくすんでいたとしても。

「先輩に優しくしてもらったのもありますけどね。マフラーをずっと編んでましたね。細かくて、単純な作業は何も考えずにできますからね。無心でずっとやってましたね。妹もその影響で始めたんですよ」
「千結晴ちゃんは、家事とか細々とした作業得意っぽいですよねー」
「んー、そのせいでやめたんですけどね。僕より年数やってないくせに、僕よりも上手に出来るって、物凄く苦しいんですよ」

僕はあんまり言いたくはないことを、苦虫を噛み潰したように言う。

「人間みんなそうですよ」

冴木さんは、手を差し伸べように救済してくれた。

「かく言う私だって。劣等感や、自信欠如とかと闘ってるよ」

僕よりも歳下で、僕よりも歳上な彼女もまた、苦しんでいた。

「冴木さん、それを当たり前にしないで、僕に話してくださいね」

僕は、隣人さんがしてくれたことを、冴木さんにもしる。それで僕は助かった。なら、冴木さんも助けよう。

「タバコさんは、優しいよ。でも優しさは常に残酷だよ」

僕は、間違っていたのか。
常に自問自答を繰り返しながら、生きていく。冴木さん、隣人さん同様に。優しさも残酷。なんとも無慈悲な言葉だ。その一言で何も出来なくなる。

「まぁ、嬉しいからいいけどね」

彼女が微笑んだ。僕も嬉しいから、今日は自問自答せずに、いい気分で帰ろう。


2 Side Story

私が、こんな人間だと分かってしまうと、彼は悲しむだろう。悲しむどころか、腹を立てて怒鳴りつけるかもしれない。私はそれだけが怖かった。昔から期待に応えようと頑張っていた。しかし、上手くやろうとすればするほど、完璧を求めれば求めるほど、空回りしてしまっていた。噛み合わない歯車のように、私は回っている。昔も今も。現実はそう簡単にはいかない。もっとこう、漫画みたいに、小説みたいに、上手くいけばいいのに。失敗は成功のもと、そんな戯言に騙され、必死に失敗したことを書いて日記にした。それはいつの日か、普通に日記に変わり、寝る前の習慣として今も書いている。今の今までは薄っぺらく、書いたところで百文字もいかないくらいだったのだが、仕切りが壊れて彼と出会い、必然と書く量も増えた。それは喜ばしいことでもあり、悲しいことでもあった。結局のところ、彼とは別れを告げる運命にあることが、私にはわかりきっていたからだ。
私は日記を読み返す。彼と出会って一ヶ月が経った日のことだ。私はそれを何度も読み返していた。これで何回目かはもはや覚えていない。一回読んでも、二回読んでもこの時の思い出は、鮮明に思い出せる。それほど、大切な日なのだ。

「隣人くん。私と遊びに出かけない?」

私は意を決して隣人くんをデートに誘う。彼はデートだなんてそんなことを露ほども考えていないだろう。一ヶ月で分かったのだが、彼はそういう人なのだ。鈍感で、女の子に好かれるくせにその思いに気付かない。狡い男性だとつくづく思う。

「どこにですか?」

彼は煙草の煙を空へ吐き出しながら、私を見る。その姿がダンディーでかっこいい。普段よりも大人びて見えるし、どこか儚げで私の好みど真ん中を射抜いている。大してかっこよくなくたっていいのだ、好みであれば。隣人くんは私を理解してくれているような、そんな気持ちになる。

「遊園地とかどう?」
「うーん、日にち次第ですねー」

彼は、どうやら乗り気ではないらしい。人混みを嫌がるのはわかっていたが、まさかここまでとは思わなかった。そんな露骨に嫌な顔をしなくても。けど、目線を上にあげて考え込む彼は、少しだけ間抜けで可愛らしかった。今度は、少年に若返ったみたいだ。

「君に合わせるよ。言い出しっぺは私だしね」
「言い出しっぺ、って」

彼は抑揚のない声を、半音程度上擦らせて笑った。そんなに変な表現だっただろうか。笑うのに慣れていないのか、手で口元を隠している。

「なによー」
「その言い方、小説で使おうかなと思って」
「やめてー」

照れてる。年甲斐もなく、照れてる。顔が茹でダコみたいになってしまう。ちょっとだけドキドキしてしまうのは、持病のせいだろう。そう思っておこう。

「隣人さんは、仕事してるんですか? いつも、家に居る気がして…」

またもやドキッとした。私の財源は、稼いでいるとは言い難いものだからだ。説明するのはとても困難で、ほぼ不可能に近い。それは彼だろうが、誰であろうが関係ない。

「自宅で高収入的なものだよ。時代はインターネットだよ」

私は適当に誤魔化して、観葉植物の植木鉢に勝手に生えた雑草を抜くふりをして、顔を合わせないようにする。見合わせたら嘘が露見してしまう。私は嘘が昔から苦手だ。顔に出てしまう。

「そんなのあったらいいですけどねー」

全く信じてもらえていないが、無視をすることにした。収入だとかそんな話を、彼とはしたくない。彼とはもっと、夢のある話をしたい。

「そんなことより」

私は話を無理矢理元に戻しつつ、彼の領域へと入った。いや、侵入した。

「いつが空いてるの?」
「僕が小説を書き終えたら、いつでも平気なんですけど、生憎まだまだ序盤でして」

私はため息をつく。あえて大袈裟にしておいた。

「私と仕事、どっちが大事なの?」
「隣人さんに言われると、嬉しさ倍増、一入ですね」
「嘘つき」

彼はいつも淡々としていて、掴みどころがないから、難しい。

「本当ですよ。僕は感情を表に出すのが苦手ですから、隣人さんにはまだ分からないだけですよ」
「担当の人とイチャイチャしてるくせに」

私は間髪をいれずに答えた。脳裏には少し前に見てしまった隣人くんと女の人のハグを思い出す。
むむ。腹が立ってきた。

「あー、そんなことですか。あれはもういいじゃないですか」
「そんなことって。当事者は責任の重さを知らないとは、真実だったなんて」
「そんなに罪重いですか、あれ」

彼は、やっぱりどうとも思っていないのだ。しかし、女性は敏感だ。

「死刑」
「真顔でやめてくださいよ」

苦笑しながら、彼はやれやれといった感じに手を振った。

「埋め合わせとして、遊園地に行こう」
「あれ? そういう話でしたっけ?」
「そうだよ」

違う気もしたけど、行けそうな気がしたのでそのまま押し切る。恋愛において大切なのは、行動力と積極性に限ると思う。

「まぁ、分かりました。また空いてる日、連絡しますよ」


日記は一旦ここで切れる。そして、一週間後のページを開く。長々と書かれたそのページを、年代物のワインを味わうソムリエのように吟味する。


彼から連絡が入って、私はまず身だしなみを整えようと努力した。髪型も整え、服装もこの日のために購入した。一方彼は、いつも通りの恰好で、拍子抜けだ。

「なーんか、普通だね」
「何がですか?」

駅へと向かいながら話す。足取りは軽やかで、いつもより早く駅に到着する予定だ。

「服装だよ」
「あー、妹に聞いたんですよ。そしたら、背伸びのしすぎは格好がつかない。普段通りで。って言われたんで、その言葉を丸呑みしました」

一応は気を使ってくれたのだと胸がはしゃぐ。

「そう」
「なんか言いたげですけど?」
「いえ別に? いつも通り素敵ってこと」
「隣人さんはいつもと違うからこそ、素敵ですよ」

私はこのセリフを録音して、辛い時聴きたいと切に思った。彼は天然でそんなことを言うから駄目なのだ。
だめだめだ。自分もそうだから本人には言わないけど。
彼は気遣いがそこまで出来はしない。電車の中でさりげなく席を譲ったりだとかも出来ない。けど、謎の安定感と、落ち着き具合は群を抜いて素晴らしい。なんだろう、彼は変われないからこその安定さがあるのだ。これ以上どうにもならない。

「隣人さん、次の駅ですよ」
「ん?」

ついついぼーっとしていたらしく、隣人くんに指摘されて気づく。

「降りる駅ですよ、昨日あなたがそう言ってたじゃないですか」
「ごめんごめん、眠たくて」

目を擦り、伸びをしてから、気合を入れる。
さぁ、今日も一日楽しむぞ。

入場券を二人分購入し、遊園地の中へと入る。やはり、カップルや、家族連れが多い。土日なのもあるが、すごい人の量だ。何かフェアでもやってるんじゃないか。

「隣人さん、僕ギブです」
「早いよ。どうしたの?」
「このおびただしい人間の数に、屈しました」

彼の顔は青ざめて、まるで死人のようだ。人がいなければ、跪いて倒れてしまいそうな勢いだ。

「情けないなー。良いとこ見してよ」
「入場料奢るんで」
「全然良くない!」

分かってない。隣人くんは何もわかってない。

「とりあえず、落ち着ける場所に行こ?」
「付属のカフェがあるって、パンフレットに…」
「じゃ、そこへ行こ」

私が隣人くんを引き連れるように先導して、パンフレットを見ながら進む。
カフェに着くと、軽快なジャズミュージックがかかっていた。人も多くなく、落ち着いた雰囲気だ。ホットコーヒーを二つ注文し、一息つく。

「隣人くん、カフェに行きたいだけ?」
「えー、と。バレました?」

やっちゃったー、みたいな苦笑いを浮かべる彼に、憤りを感じた。

「私とこういうのは嫌?」
「嫌じゃないですよ。ただ、人の目線が…」
「人の目線?」
「男は気にするもんなんですよ。僕と隣人さん、釣り合わないじゃないですか」

彼は珍しく、しおらしくなっていてびっくりだ。縮こまってホットコーヒーを待つその姿は、小動物と重なった。

「そんなの気にしないでよ」
「僕は自分に自信がありませんからね、仕方ないんですよ。昔からのくせみたいなものです」

彼が丸いテーブルに頭をぶつける。がつんと小さく音を立てる。

「お待たせしました。ホットコーヒー二つです。今、カップルフェアを遊園地内で実施していましてー、チョコレートパフェが半額なんですけど、いかがですか?」

素早くコーヒーを私と彼の方へと置き、なぞるように店員さんは言葉を発した。

「どうする?」
「えー、僕は別に」
「お願いします」
「かしこまりましたー」

彼の意見はこの際関係ない。私が満足するかどうかが重要だ。

「僕に聞いた意味を教えてくださいよ」
「体裁」
「にべもない!」

遊園地に来ているのにアトラクションには乗らない。風変わりな遊園地デートだけど、それなりに楽しい。


私はこのページに付箋を貼っている。いつでも見返せるようにだ。けど、そんなことをしなくても心には鮮やかに覚えているのであんまり関係ないかもしれない。
またこんな機会があれば、一緒に出かけたい。
この一文で締めくくる。

第七話

0
神に尋ねてみたい。なぜあの子には十分で、僕には不十分なのかと。

1
世界は変わらず回る。止めた方がよくたって。それは僕も一緒のようで。相も変わらず、僕は隣人さんと会えないままだった。彼女自身、会いたくないのかもしれない。僕はもう一度会って、話したかった。内容なんかどうでもいい。陳腐で、薄っぺらくても彼女を感じていたい。

狭い部屋で妹と対峙する。僕が正座をしてるのは理由があって、大抵大切な話をする時は緊張からくる強張りで正座してしまう。

「妹。僕は小説を書けそうにない。一応、一冊完成したけど、これが良作かと言われたら全くだ。デビュー作の方がまだましだ」
「兄さん。そうですか。それは私から伝えておきますよ。ゆっくりしてください。また戻れる時、戻れる場所を用意しておきます」

あまりの身の引きの良さに驚く。引き止めることを想定していたのに、拍子抜けだ。全てを理解した仏のように思えた。

「随分と、あっさり承諾をするじゃないか。もっとこう、引き止めてくれた方がいいんじゃないのか?」
「薄々気づいてはいたんですよ。文章も良いかと言われれば、そんなにですしね」

妹は優しく微笑んだ。本当によくできた妹だ。それに比べ、僕は出来損ないだ。つくづく感じてしまうのだ。この兄妹の雲泥の差を。

「兄さんが、何を悩んでいるか全てわかっているつもりなんです」
「そうか」
「だから、私が兄さんにどうこう言うつもりはありません。言う権利はないと思っています。振られた女性の嫉妬ほど、醜いものはないからです。振られた人間は舞台袖に下がります。ここからが本番だと私は思います。兄さんが小説を一旦遠ざけるということは、終わらすつもりなんでしょう?」

終わらす。そんな表現でいいのか分からない。蹴りをつけるの方が正しいかもしれない。

「うん? まぁそうだな。隣人さんに会いにいく。僕はこれから恋が出来るとは思わない。振られたらもう終わったも同然だろう。僕は上手くいかないと思っている。何も言わずにいなくなってしまう時点で、僕の思いはダメなのかもしれない。けど、行かなきゃならない」

確固たる決意があった。隣人さんとの関係を不完全燃焼のまま終わらせたくはなかった。まだ出会って半年も経ってない。でも時間の問題じゃないんだ。

「応援しています。成功したら、共に喜びます。失敗したら、共に悲しみます」
「ありがとう」

妹が帰るのを見送ったあと、部屋で考える。
僕は冴木さんにもこの話をしようとした。そして、冴木さんに隣人さんの話を聞きたかった。たぶん、彼女と仲良かった冴木さんなら知っていると思うからだ。
立ち上がり、冴木さんの部屋である一〇一号室へと向かおうと玄関を出た。

「タバコさん。やっほー」
「こんにちは」

しっかりと手を振る彼女を見据えて、不思議に思う。最近、僕が玄関を出ると彼女がそこに立ってることが多いからだ。このアパート最大の謎といっても過言ではない。

「お寿司美味しかったねー。また行こーね」
「ええ是非」

聞いてみようかと思ったがやめた。別にわざわざ聞くようなことではない。僕が聞きたいのは隣人さんのことだ。

「冴木さんは、隣人さんがどこに行ったか知ってますか?」
「隣人さん? えーと、水無瀬さん?」

水無瀬。その名を僕は知らない。それは隣人さんなのか。

「その水無瀬さんは何号室の住人ですか?」
「んん? そりゃあ二○一号室だよ?」

二○一。隣人さんの部屋だ。隣人さんは水無瀬という苗字なのか。
水無瀬。
僕は考える。
以前、看病した時、彼女の名前を見た時、雪栗だったはずだ。なら、水無瀬というのは一体なんなんだ。彼女の名前は、どちらだ。分からない。じっくりと煮詰めて考えたところで僕には、皆目検討もつかないだろう。

「タバコさん?」
「水無瀬さん、なんで引っ越したか分かりますか?」

欠けたピースを埋める作業をする。どう足掻いても、辿り着けそうになかった頂上に手を伸ばすように、彼女に縋る。今は、冴木さんしか頼る人がいない。

「全く分からないなー。ただ、大家さんなら知ってるかもね」

彼女は考える仕草をする。風が彼女の髪を靡かせ、缶ビールが転がる音がする。

「聞いてきます」
「待って」

後ろから冴木さんに手を触られる。

「どうしたの? 私にも教えて。一人ぼっちは嫌だよ」
「えーと、冴木さんにはあまり関係ないことなんですよ」

適当に、あしらう様にあえて冷たく言った。
どうしたの? それは僕のセリフだ。こんなにも必死で余裕もない冴木さんを見るのは初めてのことかもしれない。

「そんなこと、言わないでよ」

僕はその言葉を一語一句違わず言っている人を知っていた。言葉どころか、その言い方、その表情。何もかもがそっくりそのものだ。

それを聞いたのは、高校卒業の時だ。僕が暗く、後ろめたい生活に終止符が打たれようとした、まさにその時だ。
僕の高校時代の卒業式はあいにくの雨だった。けれど僕は達観して、「僕にこの雨は、相応しいな」なんて、大それたことを感じていた。しかし午後には雨は突然姿を消して、雲間から太陽の顔が覗かせていた。水溜まりに浮いた桜を太陽の光が照らすその情景は美しかった。人間関係は何一つとして上手くはいかなかったが、風景写真を取るのは好きで、自分でも上手いなと言えるほど上達していた。もちろん、その桜の写真もシャッターをきった。僕らの学校は卒業式が終わると、午後はフリータイムとなる。個々に思い入れのある場所で、思い入れのある友と、あるいは恋人と思い出の一ページを刻んでいた。そんな中、僕は屋上で感傷に浸っていた。雨で殆どの場所が濡れてアスファルトは黒くなっていたので、あまり黒っぽくなっていない場所に腰を下ろした。
「やっと終わった」。これ以外の言葉が出ない。僕の三年間、一度も心が休まる時がなかった。学校生活は、僕にいじめの手段と国語文法以外は何も教えてはくれなかった。所詮はそんなものだ。そう思うことにした。僕以外のその他が、僕を愛してくれないのに、僕が僕を愛さなくてどうするのだ。僕は僕を好きになろうと努力を重ねたはずなのに、好きになんてなれなかった。どう思考のベクトルを三百六十五度回したところで、僕には嫌な箇所が多数存在している。
雲が動いている。まるで生きているかのようだ。しかしすぐに雲は消え、顔が出てきた。そう、人の顔だ。

「や、やぁ」

彼女はとても気まずそうな顔を取り付けていた。西野だ。

「何か用か?」

嫌な記憶が僕の脳の中を駆け巡る。僕は立ち上がり、西野と対峙した。まるで今から血統でもするかのような雰囲気だ。僕は彼女の双眸を見つめた。
どの面下げて僕に会いに来たのだろう?

「…。卒業おめでとう」

彼女は最初に何か言い掛けたが止めて、そう言った。たかが挨拶をされただけなのに、とても不快になった。

「世間話をしに来たのなら、僕は帰る」

出口の方へと身体を向けて、一歩踏み出した。

「待って。行かないで」

彼女は僕の手を握り、引き止めた。

「用があるのなら早く言ってくれ」

声を荒らげる。さほど腹の虫は悪くなく、冷静を保っているはずだが。

「うん。あの時から疎遠になっちゃってごめんね。私がみんなの前でなんか言うから」

なんでお前が。なんで、被害者の僕なんかより悲痛そうに話すんだよ。ムカついたし、何よりも僕自身も悲しく、沈んだ。

「私ね、みんなの前で自慢したかったの。私は君とこんなに仲良いんだよって。そしたら、裏目に出ちゃって」
「なんだよ、思い出話しに来たかよ。そんな話聞きたくないんだよ」
「違うよ! 聞いて!」

今度は彼女が声を荒らげて、悲鳴のような声を出した。

「私は君のことがずっと好きだった。転校してきて、最初にあなたと仲良くなって。それで、君がとても興味深くなって。君のおかげで苦手だった理数系だって得意科目になるほど、出来るようになった」

彼女は早口で話す。けど、僕は聞きたくなかった。彼女の言葉を、彼女の声を。

「だけど、あのせいで君はクラスのみんなから疎外された。それは私のせいだ。だから、今更許してもらおうなんて思ってないけど、せめて謝ろうと思って」

彼女は涙をぽろぽろと流し始めた。僕は更に二乗されるように、気分が悪くなっていく。

「なんでお前が泣くんだよ。自分のせいだと思ってるんなら、お前から僕に話しかけてこいよ。そうしていたら僕だって救われていたかもしれないし、好きになってたかもしれない。お前は怖かったんだろう? 自分のこの地位が崩れるのを。それで、全て終わった頃に謝罪かよ」

涙を流す彼女に対して僕の水分は枯れたのか、涙はおろか汗すらも出ない。

「ごめんなさい、分かってるの。だから、贖罪をしようと思って」
「贖罪? ふざけるな。お前に出来るのは二度と僕の前に現れないことだ。お前の性格は人を不幸にする気がしてならない。贖罪をするのなら、一生、罪の重さに耐えて生きるんだな。まぁお前はそんなことを言ったところで、忘れてのうのうと生活をするんだろうがな」

吐きそうだ。目眩がする。立つのもやっとで、今にも倒れてしまいそうだ。気持ちを抑えようと空を見る。
雲から覗く太陽が腹立たしいほど神々しかった。
雨降って地固まる。こんな言葉は信用ならない。雨が降ったら、地面は削れて流れるのだ。そしてその地面は中々元には戻らないし、直らない。

「じゃあな、二度と僕の前に現れるな」

僕は彼女に最後の挨拶を交わす。彼女を声を出して泣いていた。

「絶対、会いに、行くから」

彼女は途切れ途切れの言葉を紡いで話す。

「やめろ。もし次会いに来たりでもしたら、お前の目の前で死んでやるよ」

過激な表現かもしれないが、実際に出来そうで現実味がある話でもあった。それ程に彼女を嫌悪していた。

「そんなこと、言わないでよ」

悲しみに打ちひしがれてる、そんな表情と声だった。僕はしてやったりと思った。一生、そうやつまて塞ぎ込んでいればいいんだ。

僕はそんな別れをして、大学に通い、小説家になった。

「そうか」

記憶が蘇る。いや、覚えてはいた。確証を得るために冴木さんにある疑問を投げかける。

「冴木さん、その名前ってもしかして偽名ですか?」
「偽名? 偽名じゃないけど」

僕は今、どんな気持ちなのかが分からない。西野を許すのか。いや、許さないだろう。

「西野、なんでしょう?」

探り探りに、ゆっくりと問い詰めないように気をつけながら、質問した。

「な、なんで、分かったの?」

冷静を取り繕ってはいたが、同様を完璧には隠しきれていない。顔は火を見るより明らかだ。
どこか分かってはいた。理解はしていた。しかし、僕の気持ちが肯定を促さなかった。冴木さんが西野だったなんて。

「やっぱり、そうなんですね。名前が違うし、まだ大学生だから歳も違うのだろうと自分で誤魔化し続けてきましたけど」
「私は、やっぱり償いたかった。けど、君にはバレないように最低限しか関わらず、微妙な距離を保っていたの」

彼女は、雨で濡れたアスファルトのようになっていた。そして、僕に顔を向けて、全てを達観した神のような慈愛に満ち足りた微笑みを浮かべた。

「元々もう会わないつもりだったの。けど、ある日両親の離婚が決まって、西野から冴木に苗字が変わって、もしかしたらと思ったの。それで急いで大学をやめて、あなたのいる大学に受験するための勉強を始めたの。だから一年遅いの」

彼女は全貌を明らかにし始める。その時、ポツリと一滴の雨が僕の鼻に落ちた。

「自慢の長い髪もバッサリ切って、あなたの前じゃ性格をバレないようにひた隠しにして。どうやって償おうか必死に考えてきたの。最初は失敗して、千結晴ちゃんといざこざになっちゃったけど」

落ち着いて話しているはずなのに、僕には叫んでいるように聞こえた。胸に一つ一つが突き刺さるような感覚に陥る。

「私はあなたに幸せになって欲しかった。なんなら、自分でそれが出来ないか、なんて馬鹿げた妄想のようなことを願うようになった」
「冴木さん」
「けど、バレちゃったならもう無理なの。さよなら」

彼女は、徐々に強くなる雨の中を駆け出した。
僕は彼女の目になんとか焦点を合わせる。自殺でもするかのような目だった。生きる気力をなくした、絶望で染まった、そんな目だ。

「冴木さん!」

雨は次第にさらにさらに、欲望のように膨れ上がる。

「冴木さん…」

立ち尽くした。追う気力など既になかった。立つのも精一杯なのだから。
西野を憎んでいる。西野のせいで青春が台無しになったからだ。じゃあ、生まれ変わった冴木さんもとい西野はどうだ。僕の何かを台無しにするようなことを何かしたか。何もしていない。むしろ、助言、負の考えを吹き飛ばすようなことをしてくれた。僕は彼女に与えられてばかりだ。
のなら、僕は。僕らは一度スタートラインからやり直せるのではないか。そう簡単に水に流すことは出来ないけれど、マイナスからプラスまで戻すことは出来ないけれど、ゼロになら出来るんじゃないか。
彼女のおかげで何度、頑張ろうと思えたか。
彼女のおかげで何度、生きようと思ったか。
僕の頬に伝うソレは雨だか、涙か汗だか、もはやなんだか分からない。
彼女なら、隣人さんならどうするだろう。彼女のプライベートに入りすぎた僕を許してくれるだろうか。
彼女なら、隣人さんなら僕が誠心誠意謝れば、笑って許してくれそうだ。
のなら、僕は。彼女に謝らせて、笑って許そう。
僕は足の裏、つま先に力を入れて彼女の向かう場所へと駆け出す。どこに行くか、検討はついていた。以前もあったのだ。こんなことが。


それは冴木さんが僕の部屋にやって来た時だった。彼女が引っ越して来た時だ。

「一○一号室に新しくやって来た、冴木と言います。うるさくなるかもしれませんが、よろしくお願いしますね」
「あ、はい」

輝いた笑みに僕はやられた。光り過ぎて僕にはきつかった。

「これ、タオルなんですけど」

彼女が綺麗な模様と、ロゴが描かれた箱を僕に渡そうとした時、僕はその場に倒れた。
春だとか秋だとか、季節の変わり目は通常の人間は過ごしやすいかもしれないが、僕は違った。偏頭痛に悩まされていたからだ。この偏頭痛は季節の変わり目が最も厄介で、酷い人はかなり酷い。そのせいで倒れてしまった。そして慌てて冴木さんは負い目を感じて、自分の一○一号室でない場所に引きこもった。その場所は、近くの公園のドーム状の遊具の中だ。大家さんが必死に探した結果、判明した。冴木さんは二日間もそこで暮らしていたのだ。しかも女性。
今思えば、西野から冴木さんになってから、初めての会合で、いきなり倒れたから通常以上に負い目を感じてしまったのかもしれない。


ドーム状の遊具の中は、雨だろうが多少、本当に多少だが防げるだろう。けれど入口がある以上、そこから浸水はするだろうが。時間は早い方がいい。
僕は走った。雨だろうが関係ない。大通りに出て走る。それこそ、沈み行く太陽の何倍かほども早く走る。自転車のベルの音が聞こえるが、そんなのは無視。怒声が後ろから聞こえるが、そんなのは無視。僕が今、見えているのは公園のみだ。足がもつれて、地面に全身を叩きつける。僕は必死に、その衝撃を抑えようと手で耐えようと踏ん張る。が、抵抗虚しく、手を嫌な方向へ捻じ曲げてしまう。骨が折れるような、嫌な感触を手に感じながらも立ち上がる。
頑張ろう、前へ向こう。冴木さんが教えてくれたことだ。
公園に到着した。もちろんこの雨の中、遊ぶ子供などいなくて、あたりは雨音だけが聞こえる。割と広い公園で、ドーム状の遊具を探すのに時間がかかってしまう。あまりに動悸が激しいので、一旦落ち着こうと歩くペースを遅める。
色褪せたドーム状の遊具を発見し、僕は駆け寄る。中を覗くと、冴木さんが蹲って泣いていた。
まだ僕が来たことは気付いていないらしい。

「冴木さん」

僕はなるべく優しく、柔らかく名前を呼んだ。

「え?」

来るはずがない。そんなふうに思っていたのだろう。素っ頓狂で、変な声を出す。

「こんな所で奇遇ですね」
「え、え。なんで。君が?」
「偶然ですよ」

僕はなんとか、クールで、かっこいい。そんな主人公の真似を、僕には微塵も似合わないと分かっていても、するのだ。

「僕も、このドーム状の遊具の中に入りたかったんです」
「えと。その」

終始吃りっぱなしの彼女に思わず僕は少し笑ってしまう。

「冴木さん。時の流れは残酷な時もあれば、都合の良い時もあるんですよ。僕はもう、冴木さんに色々してもらいました。だから、プラスにはならなくても、ゼロにはできると思って」
「でも」

彼女は、充血した目で僕を見つめる。

「でもも、しかしもないんですって。嫌なんですか? 折角仲直り出来るチャンスなんですよ?」
「私なんかに。そんな資格は」
「もう! いいんですよ。ほら、アパートに戻りましょう?」

手を取り、立ち上がる。手は相変わらずいたいが、恥ずかしさと照れからいつの間にか忘れ去った。

「うん、戻ろ!」

吹っ切れたように、明るい声を出す。鼻声でいつもとは違うけれど。

「冴木さんは、元気なのが一番ですよ」
「ありがとね! 改めてよろしくね!」

笑顔が素敵だ。それは、今までで一番で、とびきりの笑顔だった。
土砂降りの中、手を繋ぐ僕と冴木さんは恋人のように見えるのだろう。誰かが見ていたらの話だけれど。

第八話

0
不条理と不合理を足して世界が完成した


1
「もう、兄さんったらはしゃいじゃって」

僕は、転んだ時の怪我を妹に治療して貰っていた。随分と派手にやってしまったらしく、手の部分はどす黒い赤で腫れてしまった。その他にも擦過傷が多数出来てしまった。これは勇者の、栄光者の印だろう。そう思い、納得をした。

「はしゃいでなんかないさ。ちょっと長年の喧嘩を、仲直りしただけだ」

ゴホゴホと大きく咳をする。咳をしても、妹がいるので安心だ。一人じゃない。
僕と冴木さんは、あの後風邪を引いた。それもかなり重度の。まだまだ寒い時期なので気をつけねばならない。

「それが、蹴りをつけるって言ってたことですか?」
「いや、これはついでだ。まだやらなきゃいけないことがある」

妹はコロコロと猫みたいに笑った。

「過去の精算は大変ですねー」
「そんな大層なもんなんかじゃないさ。自分でやったことの責任を取るようなもんだ」

僕は隣人さんとの関係に精算なんか付けたくない。隣人さんのプライベート僕がに踏み込み過ぎてしまい、そのせいで隣人さんが忽然と姿を消してしまったのなら責任を取らなければならない。けれど、実はそんな理由ではないと思っている。僕が、隣人さんに少しアピールをしただけでいなくなるような、そんな人には思えない。きっと、訳があるに違いない。それが何か、助けが必要なら助けることまでが、責任を取るということだと思う。

「お粥、食べますか?」
「んー、今は寝たいからいい。ありがとうな」

お礼をして、布団に入る。目を閉じて静かに呼吸をする。
生きていることを意識すればするほど、手の痛みが激しく、火花を帯びるようになる。熱く、尋常ではないほどの存在を主張している。ヒビが入ったか、折れたなと思う。ここまでの痛みなら有り得ない話ではない。
明日にでも病院に行こう。
僕は達成感と不安感を同時に抱きながら眠りにつく。
嫌な夢を見た。隣人さんが僕の目の前で惨たらしい姿の隣人さんを見下している夢だ。生きているのか、死んでいるのかそれすらも理解できない。その中で僕は何もしない。彼女も何もしない。ただ茫然と僕はその様を見るだけだ。ある時ふと僕は視界が暗転し、目が覚める。大量の汗で不快感を催し、シャワーを浴びる。そして、何回も寝返りをうちながらも、もう一度床に就いた。


2
僕は病院へと足を運んだ。近くにある、大抵の治療なら出来る大きな病院だ。たかが骨折程度で行くのもどうかと思ったが、ここ以外の病院を他には知らないのでここにした。しかしまぁ、長い。待ち時間があまりにも長かったので、何回も外へ出て、煙草を吸ってしまう。煙草の頻度は昨日吸っていなかった反動なのか、回数はだんだんと上がっていくばかりだ。
外で煙草に火をつけて、一口味わう。やはり、メビウスよりもセッターの方が好きだ。前は安さからメビウスにしていたが、少し軽いと思ったのでセッターにした。セッターは甘くも辛くもこれといって癖がないので、比較的吸いやすさがあった。それからはセッター一筋だ。こんなことを自慢してもどうしようもないけれど。煙草なんて吸う必要がないものを吸って、必要があるものを取りこぼす。残念で仕方の無い性格だ。
ふと、隣人さんが僕の煙草を取って吸っていたのを思い出した。

「隣人くんの吸ってるの、一本ちょうだい」
「隣人さんには危険なので、あげません」

大きな雲と照り続ける太陽の下、僕らはお決まりのベランダで話をしていた。

「何が危険なの? 私だってもう吸える年はとうに過ぎてるよ」
「身体に害悪ってことですよ」

隣人さんのポニーテールが風で揺れる。

「隣人くんはいつも吸ってるよ?」
「わかりました、わかりました。後悔しても知りませんからね?」

概ね白いパッケージから、細長い物質化した人体汚染物質を渡した。

「ありがとう。こっち側を咥えるの?」

彼女はまじまじと煙草を食い入るように見つめるので、可笑しくなってしまった。

「別にそこまで見なくても。フィルターといって、葉っぱが出てない方を咥えるんです」
「わかった、こっちね」

新しいおもちゃの説明を受ける幼稚園児のようだなと思った。目をキラキラと輝かせるその姿は、子供相応と言える。

「そうです。んで火をつける。はい、ライターです」
「どうもどうも」

彼女はぺこぺことして軽いお辞儀をする動作をする。

「最初は思い切り吸わないんですよ。少しずつでいいんです。先ずは口の中でダムのように溜めるんです」

彼女の口の中が、大きく膨れる。間抜けな顔を僕に向ける。どうやら次の指示を待っているらしい。

「吐いてー」
「ふぅー」
「味はまだ分からないでしょう? そこから少しずつ少しずつ、肺に入れていくんですよ」
「この火はどうするの?」
「まだ吸うのなら、とんとんってやって、灰を落とします。もう吸わないのなら地面でぐしゃりと」

彼女はすぐにぐしゃりとベランダでやった。あんまり美味しいものでもないし、それが吸い始めの正常な判断なのかもしれない。その後、ライターを返されずに没収された。あまり吸いすぎないようにと。しかし僕は予備のために二つライターがあったのだ。だが、言わないことにした。楽しそうにしている彼女との雰囲気を壊したくない。
僕は初めて吸った時をあまり覚えていない。気付いたら吸っていて、当たり前のように量が増えて、銘柄が変わって。法律上良くない歳から吸っていたのだろう。

これからもう一度外へ行こうと足を出したところで、聞き慣れた自分の名が呼ばれるのがわかった。

「こちらでお願いします」

浅はかそうな笑いをしながら案内された場所は、外科治療室の二番だった。そう書いてあるプレートが、無機質な白でより、冷たさを引き出していた。病院自体が真っ白なので、結局のところ、病院から冷たさが放たれていたのかもしれない。

「失礼します」

まるで面接みたいだな、と言ってからわかる。就活生はこんな感じなんだなと安易に思った。

「やぁ」

大胆不敵なにやけ顔をした医者が僕を迎える。白衣を着た男性のそいつは、意地汚いような嘲笑を僕にした。

「えーと、どちら様でしょう」

僕は記憶を探ったが、見覚えがないことを認識することしか出来なかった。

「中学でよく話したじゃないか。俺は印象的だったから覚えているぞ」

脳天を銃弾で撃ち抜かれたような衝撃が駆け巡った。

「あー、思い出した。性格と表情が変わったから随分と思い出すのに時間がかかった」

中学時代の、鉄棒で話をした彼だった。僕は嫌味ったらしくそう言った。

「あはは、そうかよ。俺は名前見て、すぐに分かった」

彼は看護師たちに耳打ちをした。するとその人達は、そそくさとこの部屋から出て行ってしまった。

「つもる話もあるだろうからよ。話そうじゃねーか」
「僕にはない、早く患部を診て、最善策を僕に施せ」

どうも、あまり好きにはなれないような性格になってしまっているらしい。

「いやいやあるだろう。少なくとも俺はあるんだ。俺は医者という世界の中で、この年で成り上がった。その話を聞きたくはないのか?」
「まるでないな。僕はついこの間、休業をしたばかりだからね。仕事の話はごめんだ」

彼は高らかに笑った。

「そりゃ傑作だな。そうか、お前はやはり失敗したか」
「いや、デビュー作は悪くなかったが、次作が芳しくなかった。一発屋みたいなものになってしまった」

彼は白衣をしっかりと正し、首をぐりんぐりんと回して、椅子から腰を浮かせた。

「コーヒーを入れようじゃないか」
「いらない。治療をしろ。職務を全うしろ」
「今は休業中なんだよ」

彼はそう言って奥の部屋に消えた。背後が暗闇に飲まれるのを見て、僕は天井を見上げた。まさかこんな所に旧友が務めているとは。こんな偶然があるものなのだなとしみじみ思った。
旧友か。タチの悪い冗談の延長のようだ。いや、実際に延長なのか。冗談かはさておいて。

「俺はくすんじまったよ。なーんか、生臭い医者の界隈でよ。感覚は研ぎ澄まされたんだよ。教授にも、医院長にもいつでもいい顔してねーと駄目だしよ」

そう言いながら、香り豊かな二つのカップを小さな丸いお盆に乗せて持ってきた。湯気が立ち上り、濃いブラックの液体は食欲を掻き立てられた。

「けど、お前もそうらしいな。小説家だっけか?」
「僕はくすんでなんかないさ。ただ淡い光なだけだ」

彼はひとつのカップに角砂糖を入れた。

「はっはっは。物は言いようだな。俺は淡い光ってのはくすんでると思うがね。お前はミルクか角砂糖は入れるか?」
「なんも入れない」

彼はカップを僕に寄越した。

「小説書くのは楽しいか?」
「どうだろうな。そういう時もあるさ」
「俺は医者になれてよかった。面白いものも発見したしな」

彼はまた笑った。随分と笑うやつになった。そして、話すようになった。中学時代は全くの無口だったのにな。

「面白いものか。僕も発見したさ。面白いものというか、素敵というか。まぁ、ものじゃなくて人だけれど」
「俺も人だよ」
「なら間違えるなよ、お医者さん。人は人、ものはものだ」
「俺に説教垂れんな、それより俺の淹れたコーヒーを飲め。かなり美味いぞ」

そう言われたので、一口飲んだ。確かに相当の美味さで、ダンディーなマスターが営んでいる喫茶店で淹れたような深みがあった。その濃さもさることながら、苦味だけでなく、旨味も凝縮されているように思えた。

「そういやぁ俺は理系に進んだんだが、お前はどうしたんだ?」
「文系に決まってるさ。数学なんか何一つも理解出来ていないからな」
「理解する必要はないんだよ、ただ問に答えるだけなんだから」
「そうやって簡単に言ってのけるあたりが君だよな」

長い時間を待った結果が世間話だなんて、どんな悪夢だ。そう思う反面、嬉しいという気持ちもあった。ここまで乱雑に人と話すのは新鮮で、久しぶりのように感じたからだ。隣人さん、冴木さん、妹に気を使っているかと言われれば、そこまで使ってはいないのだが、こんなに酷くもない。

「俺は苦手なもんに挑戦し続けて感じたのはさ。才能なんてねーってことだな。有数の進学校へ行って、思ったんだよ。もっと高みに行けるってな」
「興味深い話だな」

相槌を打つと共に、コーヒーを飲む。やはり、どう足掻いても美味しいという結論に達してしまうのが悔しかった。もっと不味ければ、コーヒーを淹れるのだけは才能ないな、って唯一の返しが出来たのに。

「留学もして、飛び級もして。留学はきつかった。あいつら俺ら日本人のことを馬鹿にしてやがるんだ。ネイティブの早さについていけないって、高を括ってんだ。悪口ばっかで疎外されまくりよ。その分、勉強は想像以上に捗ったけどな」
「君らしくない、弱気な発言だ」
「自分らしく。それが一番難しいぞ。お前は今、自分らしいか? それは誰かの受け売りじゃないのか?」

僕はその言葉が心に深く突き刺さった。
今の僕は、誰かの受け売りなのかもしれないのだ。だとしたら誰だ。そんなのは分かりきっている、隣人さんだ。だとしたら、僕は自分らしさを見いだせていない。

「なんだよ、図星か? 俺は自分らしさが何なのか分からないし考えたくない。そういうのは、お前ら、小説家、思想家、哲学者がかんがえることだ」
「自分らしくある、僕の自分らしさなんて、分からないよ」
「まだ知らなくてもいいことなんじゃないのか? 人生はコーヒーと同じだぜ。豆から、砕かれ焙煎され、蒸らす時が一番コクが出るのさ。俺らはまだ砕かれてもいないひよっ子だからな。知らなくていいんだと思う」

僕は彼に同意した。
彼はコーヒーを一口、じっくりと堪能したのちに、彼はカルテを机から取り出した。パソコンが置いてある薄汚れた灰色の鉄でできている机だ。

「手を強打、ねー。どれどれ?」
「ここだよ」

僕は右手を出した。腫れは収まっておらず、以前と変わらず変色していた。

「あー、こりゃあ折れてんな。まぁ、レントゲン写真取るから、この部屋出て左に行けばあるから。そしたらもっかい来て」

肩を二度、優しく叩いて彼は立ち上がった。そしてきょろきょろと周りを見渡しはじめる。

「看護師がいねぇ」
「君が追い払ったんだろう」
「はは、江戸時代の異国船かよ」

馬鹿らしい冗談を交わし、僕は室内から出た。言われた通りに移動し、レントゲン写真を取る。意外と注文が多くて、ある料理店を思い出した。食われるのが自分だと気付くのが遅い、兵士たちの話だ。犬がいなければどうなっていたかも分からない。
そこからはエスカレーターのように早く流れが動いた。あっという間にレントゲン写真を取り、ギプスを右手首に嵌められ、会計を待つ。受け付けより少し離れた所にエレベーターがあった。これは入院患者がリハビリ室に行くために設置されたものだと思う。何人か行き来しているのを見た。
一人、エレベーターから全く出ない女性がいて、エレベーター内なのに詰まっている状態になっている。そんなの横目に僕は帰路に着いた。
家に帰ると、妹がいた。最近、常にいる気がする。

「ただいま。やっぱり折れてたよ」

僕は物々しい様子の右手を見えるように、ぶらぶらと揺らす。

「おかえりなさい。そうでしたか。なら当分はここに居て私がお世話しましょう」

それはどこか有無を言わさないような迫力のある言い方で僕は、そうしてくれとしか言いようがなかった。

「仕事は大丈夫なのか?」
「ええ。私、休職しているんですよ。理由は介護です」
「いやいや、そこまでしなくても大丈夫だってば」

情けないの一点だ。妹に養ってもらう兄って非常に危険な状態だ。

「いいんですよ、軽い怪我でもそうするつもりでしたし。兄さんが頑張ってた時、年中無休で働いてきたから、釣り合いが取れるんですよ」

ふふと妹は笑った。屈託のない、素敵な笑い方だ。妹はどんどんと大人になっていく。妹は僕に対しての自分らしさというものがあるように感じれる。けれど、僕は未だに考えているのに、自分らしさがなんなのか分からずじまいだった。

「ありがとう」

妹が居てくれて本当に助かった。
不意にインターフォンが鳴ったので、出てみると冴木さんが立っていた。

「タバコさん。大丈夫でした? 私は風邪なんとか治りましたけどー」
「僕もちょうど昨日治りました。ただ怪我してて」

冴木さんにも僕の右手を見せる。

「あらら。どうしたの?」

心配そうな眼差しは手を凝視していた。

「情けない話なんですけど、転んでしまって」

頭を掻きながら話す。

「あーあー」

呆れたような、そんな言い方だった。

「タバコさん。これからも私は君の傍にいていいのかな? その資格はあるのかな?」
「あるんですよ。安心してください」
「なら、抱き着いていい?」

甘えるように言われたら、僕だって為す術もなく頷くほかあるまい。

「ぎゅぎゅっとしちゃうね」

彼女は、僕の温もりを確かめるかのように、僕の全てを探るかのように、きつくきつく抱き締めていた。

第九話

0
何十回の「愛している」よりも、一回のハグには勝てない。

1
僕は朝、片手で顔を洗い、その後大家さんのところへ話を聞きに行った。
今日も雨が降りそうな黒い雲が上空に存在していて、僕の気持ちを落とさせた。
大家さんの住む、部屋の前でインターフォンを押してから、少々待つ。すると「はーい」と、気だるそうに返事をしながらドアが開いた。

「おー。どうした?」
「隣人さん、水無瀬さんがどこに行ってしまったのか聞きたくて」

彼は今の今までぼけーっとした、やる気のない若者のような顔つきをしていたが、僕が聞いた途端、目の色と顔つきが変わった。

「なんで知りたいんだよ。お前さんには関係の無い話だろう? 恋人とかだったのか?」

その追求の仕方、顔の強張りからして、やはり何かあったのだなと理解した。

「俺はしっかりと理由を聞いて、残念だけど部屋を離れることにしましょうと決まったことだ。それを聞くってことは、お前さん、プライベートに一歩踏み込むってことだからな?」

彼の言葉は鋭く、僕はたじろぐ。確かにそう通りでもあった。

「恋人でもなかったし、ただの隣人という関係だけでしたけど、それでもどこか特別なように、少なくとも僕は感じました」
「それはお前さんからの視点だろう? んなら、水無瀬の視点はどうだか教えてやろうか?」

次々と質問に質問を重ね、僕が何か悪いことでもしてしまったかのような錯覚を起こす。

「ええ、是非」
「多分、隣人くんから私の居場所を聞かれると思うので、その時は適当にはぐらかすか、実家に帰ったことにしておいて下さい。これが水無瀬からの伝言だ」

僕は絶望の淵にいた。そうか、隣人さんは僕に、何も許してはくれないのか。理由を聞くことすらもままならないのか。肩を落として、素直に落ち込んだ。隣人さんは僕をどう感じていたのか、まるっきり分からない。

「お前さん、よく聞け。女の言うことはネガティブなことは大体が反対なのさ。悪口を除いてな」

肩を叩く大家さんを見つめる。瞳の奥に映る僕の顔はぼやけて見えない。

「詳しくは言うと、契約違反だからあんまりは言わねーけど。実家に帰ったことにしておいて、ってのは帰ってねーんだな。ちなみに水無瀬の部屋は全てそのまま残ってる。お前さんも見たろ? あの観葉植物の多さを。つまりは遠くに行っていないってことなんだよ。なんてったって、自分の部屋に物を未だに置いてあるんだからな。離れるって言ったって契約は切れてない。しっかりと家賃は払ってもらっている」

彼は僕に、道しるべをくれた。あとは僕が地図を頼りに進むだけだ。

「ありがとうございます、恩に着ます」
「んなもん着るな。俺は水無瀬との約束は破ってるんだからな」
「だからですよ」

僕は一旦部屋に戻り、隣人さんがどこへ行ったか考えてみた。近くにいるような話し方を、大家さんはしていたので、彼女の所在地は近いはずだ。近くにあり、なおかつ隣人さんが行きそうな場所を片っ端からメモ用紙に書きなぐった。
自然公園、病院、ショッピングモールと映画館。
そして、それらとはちょっと離れたところに、遊園地と記入した。
一度、隣人さんと一緒に行ったから書いておいた。遊園地にいるということはないだろうけど。
そして、病院の文字を二重丸で囲んだ。理由は二つほどある。入院などをすれば、そこにいられるし、例え一時的だとしても、他の場所に住むには費用がかかりすぎる。そしてもう一つが、左腕の怪我のことだ。僕はそれを治しに行ったのではないかと思う。引っ越したというのは、仕切りを工事してくれた人の間違えで、ミスリードなのだ。一時的にアパートを空けるという話がこじれて、引っ越しが突然に行われた、という方向へとなったのだ。隣人さんは引っ越す以前に風邪を引いていたし、部屋に入った時、これといって片付けられた形跡はなかったのも、根拠の一つと言える。
病院とはいっても、左腕の怪我だけで入院などするものなのだろうか。足の骨折や、重度のものなどなら分かるが、隣人さんはこれといって何か、左腕に注意を払うようなことはしていなかった。特に問題ない、もしくは軽度のものでの入院も有り得ない話だ。
いや待て。なんで病院にいるようなことが決定しているんだ。もしかしたら全く違う場所かもしれないじゃないか。例えば、ホテルとか一時的であろうと、長期的であろうと金さえ払えばどれだけでも居ても良い。ましてや友達の家なんかもっと、現実的だ。金を払う必要もない。目的は何か、僕の知らないことがあるとして。けれど友達の家はそう長くは居られないはずだ。もし友達の家が実家だとしたら尚更だし、一人暮らしでも長く居られたら嫌だろう。
だとしたら、同棲はどうだろうか。いや、最も考えられないか。自分の荷物を前の住居に置きっぱなしだなんて、同棲の意味が無いだろうし。
そうなると、ホテルだとかの宿泊施設などが濃厚なのだろうか。しかし、彼女が働いてるという想像がつかない。いつも家にいたからだ。アパートは隣だと生活音が聞こえたりするからだ。僕が小説を書いている時だって、料理をする音が聞こえてきたりしていた。以前聞いた時は、自宅で高収入だとか言っていたが、そんなものは存在しない、というか稀有だろう。
改めて考えてみると、僕は隣人さんのことを何も知らない。知っているのは、歌とギターが好きな心優しい一般的な女性ということだけだ。まぁ隣人という関係でここまで知っていたら、かなり知っている方の部類へ入るだろう。
落ち着かせるために、僕はコーヒーを作った。やはり昨日飲んだ、あのコーヒーには敵わない。あれは絶品だった。

「兄さん、おはようございます」

突然背後から声がした。

「おはよう、遅かったじゃないか。いつもよりも二時間近く遅刻してるぞ」
「嫌な夢を見まして、すごく気分が悪かったので、起き上がれませんでした」

彼女は不快感を露わにして、ソファに横たわった。

「妹がそうやって、だらしない姿を見せるのは珍しいな」

僕は素直に思ったことを述べた。すると返ってきたのは言葉でもなく、ぐすっと涙ぐんだような鼻をかむ音だけだった。

「妹?」
「私は、兄さんが死んでしまう夢を見ました。私は暗闇の中で、倒れた、兄さんをただ見つめるだけで」

妹は途切れ途切れに、夢の内容を話した。
ほぉと感心した。こんな偶然があるのかと。

「僕も見たさ。大切な人が死んでしまっている夢。おいで、妹。久し振りに抱き締めてやろう」

僕は妹の寝そべっているソファに出向き、両手をなるべく大きく広げた。

「兄さん!」

妹は飛びつくように、僕の胸に頭を寄せた。

「私、怖くて…」
「何も言わなくていいさ」

僕は妹をしっかりと抱き締め、頭を撫でた。優しく、動物の毛並みを整えるトリマーのように。情緒不安定になることは、感情を内面から押し出していることだから、良いことなんじゃないかと思う。溜め込んで爆発してしまうよりは、定期的にちょっとずつでもいいから、吐き出すことがいいのだ。

「兄さん…」

妹に庇護の念を抱くのは、良くないことではないと思う。現に僕達はそうやって、僕達だけの世界を構築してきたのだから。けれど時に、離れ離れになって、価値観の違いを理解していないといけない。僕らはそうやってきた。

「妹、僕はここにいるぞ」
「うん、知ってるよ」
「これからもここにいるぞ」
「うん、わかってる」

僕らは何分間か分からなくなるほどに、時間の感覚が麻痺するほどに、抱き締めていた。


2
探しに行こう。僕は部屋を出て、目処のついている病院に行こうと思った。また近々来るようにと言われているし、入院ができる病院といったら、そこしか思い浮かばなかったからだ。しかし僕は、あまり期待はしていない。左腕の病気のことだって、ただの僕の勝手な見解に過ぎない。行くがてら、いたらいいなくらいの気持ちで行く。
病院まではいつも徒歩だが、この大通りを使う度に、隣人さんと一緒に散歩したことを思い出す。隣人さんがいないだけで、世界はすごくモノクロのように感じる。
病院に到着して受付を済まし、待合室にある腰掛椅子に座る。木の感触と、申し訳程度のクッションを感じる。
隣人さんになにがあったのか。どこに行ったのかではなく、こちらを考えることにした。この疑問は僕の中で大きく肥大している。僕がプライベートを踏み込んだだけでいなくなるのだろうか。僕がやったことは、薬に書いてある名前を勝手に読み取り、聞いてみただけだ。それだけの事でわざわざ引っ越すだろうか。けれど引っ越す可能性もある。なぜなら、薬に書いてあった名前と隣人さんの苗字が違うからだ。ここは重要な部分と思う。彼女の名前は水無瀬、薬に表記されていたのは雪栗だった。どちらも珍しい。旧姓とかではないかと考えたが、そんな訳ないと破棄した。あの薬はそんなに前のものではなかった。そして僕がそれをしたことで、彼女は少しだけ動揺と不安を滲ませていたことだ。知られたくはない。そういった感じだった。つまりは何かあるのだろう。
やはり考えれば考えるほど、隣人さんは謎だらけになっていく。彼女が本当に水無瀬なのかも、雪栗なのかも分からない。もしかしたら違う名前になっているのかもしれない。けれど、名前が変わったところで僕にとって、隣人さんは隣人さんでしかなかった。
名前が呼ばれた気がして、いつの間にか閉じていた目を開く。受付の女性が僕の名を発していた。返事をして前回と同じように二番の部屋に入る。

「おー、随分と早く来たな」

旧友の彼は、椅子に座ってふんぞり返っていた。

「君は、入院している人たちも見ているのか?」
「ん? 当たり前だろう。当直だったり、定期検診だったりするんだよ」

ならば、いるとしたら彼に聞けばいいのか。

「水無瀬さん、もしくは雪栗さんはいるか? 女性なんだが」

彼はカルテから僕の方を見つめる。しばし熟考した。

「どちらもいる。ただ、雪栗詩音は男性だ。水無瀬那波は女性だから、そちらを探しているのかな」

彼は記憶を探りながら答えてくれた。

「面会したいんだが、できるのか?」
「知り合いならできるぞ、こちらの受付じゃなくて、奥の方に専用の入口があるからそちらから行くといい」

彼は僕に探っているような、疑っているような、そんな視線を向けた。

「お前に知り合いがいるとはな」
「珍しいだろう。唯一なんだ」

僕はその後、腕の状態を聞いた。そして、受付で会計と診断書をもらい、彼の言っていた専用の入口へと足を急いだ。
まさか、いきなり予想が当たるなんて。嬉しい誤算だ。しかし、会いに行ったところで面会してくれるのだろうか。そこだけが心配だった。会いたくないとそう言われれば、僕はまた無力と化す。それだけがないことを祈ろう。
受付先に着く。広く大きな、ホテルのようなエントランスみたいになっていた。流石にホテルのような豪華な装飾は施されていなく、基本的白色だった。

「誰とのご面会を希望でしょうか?」
「えーと。水無瀬さんです。水無瀬那波さん」
「はい、分かりました。少々お待ちください」

彼女は書類のようなものを一読した。

「水無瀬さんは、五百二十番室に、いらっしゃいます。院内ではなるべくご静かにお願い致します。また、三階に談笑室がありますので、お話などに花を咲かせたい場合、ご利用ください」

事務的に僕に言う。お礼をして、五百二十番室を目指す。
早く会いたい反面、あまり会いたくない気持ちが出てくる。帰ってしまおうか、なんて考えてしまう。
五百二十番室は五階の、かなり入り組んだ奥の方にあった。別に一つだけぽつんとある訳では無いが、なんでこんな所に? と言ってしまいそうなところだ。何回も迷ってしまい、その都度近くの看護師さんに尋ねた。
僕は五百二十番室の前で立ち尽くす。プレートには「水無瀬」と無機質なゴシック体で書かれている。扉の上部に小さな窓はあるが、靄がかかってるようになっていて、中は見れない。ここを三回ほど叩いて、返事を待ち、開けたらご対面だ。そんな簡単には叩けない。勇気がないのもそうだが、怖かった。どうなってしまうのかが分からない。突然怒り出すかもしれない。泣き出すかもしれない。その瞬間、僕は悪者だ。すぐに退出をするしかなくなる。
息を吸う、吐く。これを五回ほど繰り返し、僕はとんとんと弱く自分の胸を叩いた。そしてその勢いで、扉を三回ノックした。

「ん? どうぞー?」

隣人さんの声だ。

「失礼します」

その声と共に扉を開けた。そして、隣人さんと目が合う。

第十話

0
愛と嘘はそっくりだ。それらは行なってから、後悔してしまう。

1
五百二十番室で、見舞いの品の王道と言っても過言でもない、赤い玉の赤い部分を剥いていく。これは僕が持ってきた品だ。体調は悪くなさそうだが、なんとなく雰囲気で持ってきた。先日、初めて行った時、小さな冷蔵庫は何も入っておらず、寂しそうにしていたので果汁百パーセントのオレンジジュースと葡萄ジュースを入れておいた。隣人さんは喜んでいた。

「剥けましたよ」
「おー、料理出来るんだったっけー?」
「林檎の皮剥きが、料理といえるのなら、そうかもしれませんね」

確実に言えないが。

「本当に昨日は驚いたよ。突然だったしね」
「それは、申し訳ないです。僕も必死だったんです」

そう昨日。


「隣人くん!?」

彼女は立ち上がりスリッパを履いて、バタバタとすごい音をたてながらこちらにやって来た。

「ど、どうも」

僕は緊張で吃ってしまう。

「な、なんでここがわかったの? あ、大家さんだな」
「いや、あのまぁ」

煮え切らない態度しかとれない自分にもどかしさを覚える。久し振りに隣人さんを感じて、僕はもう故障をしてしまった。

「まぁいいか。座ってよ。折角来てくれたんだし、話そうか」

良かった。腹立ちも、悲しみも何も無くて。ひとまず安心した。ふぅと静かに息を吐いた。

「ええ」

どうにかこうにか 落ち着きを、冷静を取り戻し始めた。

「私は、はてなマークいっぱいだから、いっぱい質問してもいい?」
「それはもう」

僕は大いに同意した。僕がその立場に立ったなら、そうするだろう。

「ここが分かったのは大家さんに聞いたの?」
「まぁ、ヒントみたいなものを大家さんはくれました。それと、僕の推測からでしたね」
「推測?」
「ええ、他の場所にいるなら、友達の家か、恋人の家か病院だなと」

思考に思考を重ねた僕の仮説を話す。

「ホテルとかに泊まるには費用がかかりすぎる上に、そこまで長期滞在は居れないと思いまして」
「はぁー、なるほどねー」
「僕、転んでしまって、骨が折れてしまったので病院に行ったんですよ。その時、医者に聞いてみたんですよ。雪栗さんか、水無瀬さんはいますか? って。そしたら居たので」

隣人さんは笑った。

「そりゃあ、すごい偶然だ。医者ってのは黒瀬くんかな?」
「あ、彼はそんな名前なんですか」

なんせ中学の頃だし、覚えていなかった。そうか、彼は黒瀬と言うのか。

「そーよ。しっかしバレちゃったかー」

残念そうにもしているが、嬉しそうにもしている隣人さんを見て、僕は安堵を感じた。
これで合っていたんだ。僕の行動は間違ってはいなかったんだなと。

「僕からも質問していいですかね」
「そりゃもちろん。大量にクエスチョンマークがある?」
「そりゃあもうありますよ」

僕も笑った。嬉しかった。ベランダではないが、どこであろうと隣人さんと話せることが。弱った涙腺から汁が零れてしまう一歩手前だ。

「まず一つなんですけど、あの薬には雪栗、アパートでは水無瀬なのはなんでなんですか?」
「んんー、やっぱりその質問かー。説明しづらいんだけどね、簡単に言うと私はその人の薬を使っていたってことだよ」

何故その人の薬を使っていたのかだとかは聞かないことにした。会えたのだし、これからゆっくりと話せば良いことだ。

「なんで、入院してるんですか? 左腕の怪我ですか?」
「いや、全然関係ないよ。私は、えーと、持病、かな」

引っかかったような言い方だ。

「持病? それは聞いてもいい病気ですか?」
「もちろん」
「なら、その病気とは?」
「癌」

癌。それはかなりの死亡率と発症率があるもので、まさか隣人さんがそれにかかるとは。

「が、ガン」

僕はそうやって、馬鹿みたいに同じことを繰り返すしかできなかった。

「そう。そして、結構重度のもの。全身に転移してしまってるの」
「そんな…」

なら、隣人さんは。隣人さんは。僕のダムは決壊した。
おかしい。頬に水が流れる。止まらない。止めようと努力するが止まらない。蛇口から出る水のように永遠と止まらない、そんな気がしてしまうほど、大量の涙が溢れ出す。コップ満杯の水が溢れ出すように。

「泣かないてまよ、隣人くん。わ、私まで、な、泣いちゃうから」

僕は両手で顔を隠した。
見せられないこんな姿。

「だって、隣人さんが…」

僕は無力だ。何も出来ない。隣人さんに何一つとしてやれることはない。それがたまらなく悔しい。だから、涙が止まらない。

「抱き締めてもいいですか? 抱き締めさせてください」
「うん、いいよ。こっちにおいで」

僕は隣人さんに吸い込まれるように抱きついた。

「ねぇ、隣人くん。黙っててごめんね。私、あなたとの関係が楽しかったの。たわから、壊したくなかった。最後はね、特別に外出許可が出るの。だから、その時にでもまた会おうと思ってた。だけど、君が。気、君が…。会いに…、来てくれるから」

耳元で囁かれる。呟かれる。鼻をすする音だって聞こえる。暖かなものと、涙の湿気が僕を包む。それすら愛おしい。

「隣人くん、私が死ぬまで傍にいてね」

いつの間にか、夕暮れになっていて、暖かなオレンジの陽射しが僕らを溶かす。

「絶対居ます」

確固たる決意をもって、大きく頷くと共にそう言った。


「ねぇ隣人くん、林檎を食べさせてよ」
「いいですよ。口開けてください」

僕は隣人さんにベタベタだった。砂糖にミルクをかけたようなそんな甘さ。

「あーん」

林檎のシャリシャリとした噛みごたえある音がする。

「美味しいですなー」

隣人さんは大変満足のご様子だ。

「良かったです」
「今日の日記の内容は決まったね」

笑顔のまま、近くにある戸棚から分厚い本のようなものを取り出す。

「日記なんて書いてたんですね」
「そうそう、昔からずっとね」

ペラペラとめくって、一番新しく綺麗なページを開いて、日記帳の横に付属していたシャーペンを取った。カチャカチャと芯を出して、書き出す。

「今日は隣人くんが、林檎をあーんしてくれたと」
「なんか、恥ずかしいんですけど」
「君は、出会った時からずっとこの日記帳の主人公だよ」
「どんなことが書かれているのやら」

隣人さんと、前のような日常会話をできる。何ものにも変え難い喜びだ。けれど長くは続かない。そう思うと、心が痛い。僕は楽しんでいるはずなのに、心ここに在らずと言った感じになってしまっている。

「那波さん」
「な、なに。なんで、急に名前で呼ぶの」

かなり珍しく、隣人さんが照れていた。頬を赤らめる姿は、高校生のような初々しさがあった。

「隣人なんて、よそよそしいなと思いまして。今は隣人じゃないですし」
「じゃ、私も隣人くんじゃなくて、本名で呼ぶね。えーと」

考えて十数秒。

「なんだっけ?」
「さぁ、思い出してみてくださいね、那波さん」
「く、くそー。悔しいぞ」
「僕は、隣人くん呼びでいいですよ」

前のような関係を望んでいたのだから、それでいいのだ。

「那波さん。言いたくないのなら、いいんですけど」
「君がそうやって前置きするのは大抵病気のことだって分かってきたの」

那波さんはふふと笑った。

「その通りです。余命とかって言われたのかなと」
「言われたよ、あと三ヶ月と、そう言われた」

四月は出会いと別れの季節だなんて言うが、まさにらそれが実現しようとは。

「どうにかのばせないんですか?」
「のばせるよ、薬を飲めばね。でもね、すごくきついの。苦しいの。だったらあとの三ヶ月こうして、君と穏やかに過ごしたいの」
「僕は、那波さんがしたいと思ったことを手助けしますよ」

心からの本音だった。何でもしてあげたい。

「ありがとね」
「あ、ただ」

思い出した。

「那波さんの歌が聴きたいですね」
「あー、忘れてたねー」

那波さんは笑った。

「聴かせたげるよー、今はないから特別外出許可が出たらだね」

数少ない予定なんかも立てつつ、僕らは愛を育んだ。
死んでいたような十代の頃なんか覚えちゃいないが、この三ヶ月だけは絶対に忘れないだろう。もう、脳裏に焼き付いて離れない。

僕はずっと、アパートから病院の間を、毎日欠かさず行ったり来たりを繰り返した。那波さんはいつも笑って出迎えてくれた。いつも変わらない笑顔で僕を癒してくれた。
時々、一緒に院内を散歩した。そこで旧友の黒瀬に会って、三人で談笑したり、屋上で外の空気を吸ったりした。談笑室で、オセロや将棋などのボードゲームにも熱中して遊んだ。

想対性理論

想対性理論

ことの始まりは、アパートの仕切りが壊れることからだった。緩やかに変化しつつある僕の人間関係。

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