霧の舞い
1
「メアリー……」
暗がりで振り返る。森の香りが蒸す。ここはアンボワーズの城から離れた鬱蒼とした森林。
「……メアリー」
まるで霧のような声。木々の間に木霊して、小さなメアリーの耳に届いた。
それは小さな男の子の声。メアリーと同じ程の年齢なのではないだろうか。
今日のメアリーは森に溶け込むような深い緑のビロードをふんだんに使ったドレス。真っ白いシルクの部分が白い肌と共に浮んでいる。
闇に残像を残すように動くその白く小さな手は、声の正体を確かめるように彷徨った。
「だあれ?」
しかし、その不思議な声は返ってこなくなった。
「あなたは私の友達になってくれるの?」
その声は、あの快活なアンリ王子では無かった。もっと静かで、それでも気弱なフランソワ王子とはまた違う。それに彼等はアンボワーズの城からここまでは来ない人達だから。
「あなたも森の香りをめいっぱい吸い込むといいわ。そしたなら、あなたも大きな声が出るわ」
メアリー自身の声は、ちょっと今は震えていた。自分を勇気付けるために言っていた。
「もうどこかへ行ってしまったの? 流れる霧と共に」
小さな耳をそばだてる。ふわりと頬にも乗りそうな霧。
「こっちだよ」
「いたのね!」
うれしくなって声のする方へ駆け出す。
「夜の森によく来たね。僕の声についておいで。お転婆さんを外までしっかり導いてあげる……」
消え入りそうな声。青い星明りを透かして、霧は流れていく。
「あなたは霧なのね」
薔薇色の頬を微笑ませた。彼女が回転すると、霧も巻き込んで廻る。
「こうすると、あなたに抱きしめられているみたい」
夢見る様に歌って、メアリーは声に着いて歩いていった。
「本当なのです。わたくし、神秘を目の当たりにしたようでした」
ほとほと教育係は勉強の合間に聞かせてくるメアリーの話しに受け応えることを諦めて、聞き手に回る事にしている。饒舌な分、頭の回転も速いのか学の覚えと来たら良いもので、これで出来そこないだったらいい加減にしなさらんかと喝を飛ばすところだが、本人は憎めない性格と小さいながらに明晰な頭脳を持ち合わせたメアリー。
「<霧の君>と名付けまして、また会いに行きとうございます」
「フランソワ様が聴けば卒倒されるでしょう。どうも彼は貴女様をお気に召して、壁からじいっと頬を染めて微笑み見つめておられますよ」
「王子達の母上メディシス様には内緒です」
シーッと愛らしい顔の前で小さな小指を立ててメアリーがぱちっと片目を閉ざすので、教育係りはくすりと笑った。
メアリー・スチュアートはスコットランドの城から来た小さな王女だった。カトリーヌ・ド・メディシスの三人息子とここで教育を施されるためにフランスのこの地に来たのだった。
「しかし、お目付け役は忘れずに。殿下に何かがあっては大変です」
「心得ております」
そろそろ甘いものが食べたくなって来た。頭を使うとお腹がすく。そして満腹になれば眠くなる前に野でも走り回りたくなってくるのだ。
ここはフランスのロワール地方。ロワール河が横たわり、彼女のいるアンボワーズ城の城下町にはロマンティックな家が並んでいる。
メアリーが草地にやってくると、風をめいっぱい体に受けた。
青い空には雲が線を引いたように幾筋も走っている。上空でも風が強いようだ。弧を描いた猛禽類の羽ばたきを見上げて、メアリーは心地良さを感じて笑った。
じゃじゃ馬なところがあるメアリーは、何しろどこにでも行こうとする。キラリと光るその瞳はまるで草陰からひょっこりと顔を挙げた野生の兎のようで、くすくすと笑ってまた引っ込んでいくかのようだ。
まだ少女のメアリーは、飛び跳ねる様にアンボワーズの城下町からあっちにこっちに駆け回る。
「お待ちください!」
お目付け役は小さな少女に着いていくのもやっとで、ドレスの裾を引き上げて草地を必死で追い掛けて来る。
「本日は森へ行くの」
どんどんと彼女は行ってしまう。身が軽いのか風の様に駆けて行き、そしてメアリーを太陽がさんさんと照らしているのだ。
光りに恵まれた子。それがメアリーだった。
草原の緑も風も味方にして元気に走る。まるで周りの蝶もうれしげにはためくようだ。
ようやく、あの森に来た。
「馬車からあまり離れないでくださらなければ、困りますよ」
遠くから聴こえる声を背に、メアリーは走る。背の高い木々を見上げる。
ここは実は比較的明るい森なのだが、夜と霧があのとき森を鬱蒼とさせていたのだ。
今、遠くまで見渡せる昼の森に、霧の君はいなかった。
「………」
メアリーは立ち止まり、息を弾ませたまま頬を薔薇色に染めて見回した。
勉強が得意といえど、小さなメアリーにはまだ気温の涼しい変化がもたらす霧の現象までは知識にもなく、体感的にも経験が少なかったので、森に来れば霧が蒸しているものとばかり思っていたのだ。
「どこ?」
鈴の様な声が響く。小鳥が驚いて啼き羽ばたいていった。メアリーは見上げて、そして走って行った。お目付け役はせっかく追いついたのにまた走って行く彼女を追いかける。
「お待ちください」
メアリーはどんどんと走って、霧の君の気配を探った。けれど、少年は見当たらない。
メアリーが疲れきったお目付け役の所にしくしく泣きながら帰って来たので驚いた。
「どうなさったのです。お怪我はございませんか?」
「霧がないの。ずっと探しているのに」
「霧……は、この時期に昼にはまず見かけませんよ。雲も見当たらずに、太陽が昇っている時間ですもの」
「そうなの?」
メアリーはぽろりと涙を流しながら見上げた。
「さあ、とにかく、もうそろそろお城へ戻らなければ」
早々にお目付け役はメアリーを馬車に乗せて走らせた。
教育係りはまた聞き役に徹していた。一人でいれば窓からの陽光で眠くなるものを、メアリーが寝させてくれなかった。不真面目な教育係りというわけでは決して無いのだが、冗談交じりに眠い顔をしてもメアリーには通じずに、瞼を小さな指でこじ開けさせてまで聞かせてくる。
「だから、霧の出る夜、森を出歩こうと思ったのです」
それを聞いていた彼の視線がメアリーの頭上に上がり、眉を両方上げて面白い顔になったので、メアリーはくすくす笑って小さな手をお口に添えた。
「そんなにお転婆では、ロワール河を蜂蜜酒(ミード)の河に変えて貴女を沈めてしまいますわよ」
「メディシス様!」
メアリーはフランソワやシャルル、アンリの母上メディシスを肩越しに見上げた。厳しい顔つきで腰に手を当て、彼女を見下ろしている。
「貴女には夜間、お外へ出てしまわないように筋肉ムキムキの看守をつけますからね」
「いつでもメディシス様は表現が大げさでございますこと! メディシス様の魔女!」
「口の減らない!」
メアリーは「きゃー!」と走って逃げて行った。ほとほとメディシスは呆れて息をつく。あれはメアリーをかち割って片方でも貧弱なフランソワとシャルルにぶちこまない事には、三人は普通にならないのではないか。
その夜は筋肉ムキムキでは無い兵隊が一人ついて、扉から一度出て横を見上げると、その兵隊を見て、くるりと回って引き返したのだった。
高い窓の前に置かれたビロードのベンチとクッションに膝をつき、星や夜を見た。
ここからは霧煙る森は見え無い。ずっと、静かに見つめていた。
2
スコットランドの森。
王女メアリー・スチュアートは目も見張るほどの乙女になっていた。
馬で駆け抜けるその姿は誰の目をも引くもので、太陽の美貌と名高い。
「やあ!」
声高らかに鞭払う昼のメアリーは、草原を疾走させて行った。
そして彼女は森へ入って行く。
それは、慣れた筈の森だった。
だが、馬で駆けて行くごとに様相は見慣れない深い深い森へと変わっていき、彼女は馬を常歩にさせた。
「妖精に化かされているのかしら……」
凛とした声でメアリーが息を弾ませ見回す。時に彼等は悪戯をしてくるものだから。何か彼等を怒らせるようなことでもしただろうか? しばらくしても思い出せなかった。
森はとても静かで、ひっそりと息をしているようだ。
馬を降り、歩かせる。ここで主人があまり不安な風を見せるとすぐに馬も察知して、どんな行動にでるか分からない。なので落ち着き払って手綱を引いた。
メアリーの今日は、群青と金を基調とした色味の衣装で、ドレスは先ほどまで白馬を飾っていた。
彼女の足許を、ゆらゆらと霧が流れはじめて、ひんやりと水気を含み始めた。ドレスに細かな露がつき始める。馬の毛並みにも。
「あら……泉」
この辺り、リンリスゴーの城の近くは巨大な湖があるけれど、この森でこの泉を見つけたのは初めてだった。
それは深い木々に囲まれた泉であり、そこから水煙が立ち上って流れて来ていたようだ。昼なのに、見上げる木々は幾重にも折り重なって水滴がきらり、きらりと滴り落ちてきて薄暗い。
苔むした地面を歩いていくと、シダとシダの間からリスが顔を覗かせ、大きな人間を見てしばらくしてすぐに顔を引っ込めて走って行った。蔦(ツタ)の覆おう湿った木の幹を駆け上がって行く。その葉枝から幾本も垂れ下がる蔦のカーテンの先には、流れ行く霧と幹の陰、そして鮮やかに濃い緑の苔むす岩場。
それらはだんだんと霧が優しく包んで、肌寒さを視覚的に和らげた。
彼女が霧を掻き分けるように歩いていくと、いきなり現れた雫を飾った蜘蛛の巣にしばらく見惚れてしまう。完璧なその形は、同じ女がせっせと作ろうものなら自分に真似出来るとも思えない自然界の技術だ。
馬が気付かずに蜘蛛の巣を壊す前に、離れて行った。
「?」
視線の先に、何かが倒れている。少し蠢いて、またうずくまるように丸まった。
馬の手綱を丈夫そうな枝にくくりつけてから、霧がどんどんと流れては現れていく泉の辺を歩いて行った。
「まあ、仔兎ね」
馬の匂いがする手袋を取ると泉で手を洗い手を合わせて温め、そっと仔兎を包み上げた。動物は他の動物の臭いにはことさら敏感だ。つぶらな瞳をあけてメアリーを見つめて来た。
「お前、母はどうしたの」
離れてしまったのだろうか。それとも、何かに捕まったところを逃げたのかもしれない。
そっと見回すその小さく柔らかな軽い体には傷は見あたらない。脚も触るとぴょんっと蹴って来たので大丈夫だと分かった。しかし、お腹でも空いているのか、元気が無い。
普通、野生の兎なら草を食べるのだが、まだ小さすぎるのだろうか?
メアリーは見回すと、高いところにベリー系の実を見つけた。それを手で幾つも摘んでいく。この大きさなら乳のみでは無いだろう。
「お前の母はきっと心配しているよ」
言いながら自分が食べてみて、甘くて美味しかったので実を兎に与えた。しばらく鼻をひくつかせていたが、それを口に含みはじめた。
「お腹が空いていたのね。よしよし」
彼女は微笑んで見守っていた。しばらくすると、ようやく元気を取り戻したのかぴょんっと跳ねると、その仔兎は草花の間に飛んでいった。
「良かったわ」
メアリーはそっと立ち上がり、ドレスの裾を正した。
振り返ると、泉から立ちこめる霧が手招きしているように思えた。
一度兎の去って行った草むらを見てから、泉へ近づいてその霧に包まれた。
「ああ……懐かしい感覚」
目を閉じて腕を広げ、顎を上げた。この優しいさらさらとする感覚。どこかで彼女はこの霧を知っていた。
「また迷い込んだのかい」
メアリーは目を開けた。青年の静かな声音は、霧の壁にまるで反響するかのようにこだました。
「あなたは、霧の君」
メアリーが見回した。まるで踊る様に回って。
「どこ? あなたはあの時の少年なのでしょう。今、はっきりと思い出したわ」
うれしげに頬が薔薇色に染まった。落ち着き払っていた顔立ちが一気に少女のころの様に意気揚々とする。
青年は黙り込んでしまった。まるで、それは息を詰めたかのように。
「どうしたの? また、かくれんぼね?」
「……君が美しくて」
「え?」
「………。僕が外まで案内してあげる」
メアリーは悲しげな声に応えた。
「あなたとしばらくいたいわ。そんなことを言わないで……あまり、城にはいたくないの」
気持ちが塞がりそうになる時は、こうやって思い切り馬で駆け抜けた。誰も彼も大人達は彼女からは込み合って思えてならないので。
「僕に連れ去られてもいいの?」
静かな声。それは、メアリーの心に染み込んできた。あの少女のころのように、ただただ森に迷い込んだ小さな子を送り返すのではない。青年になった霧の君の声は、確かな情念を滲ませていた。独占したい、というその感情が霧の先に隠されていた。
「ごめん。そんなことは出来ないよ」
霧にくるくると回って彼と舞いを踊る気持ちで回転してたメアリーは、ドレスの裾に霧を巻き込みながらも立ち止まり、見回した。
「何故?」
彼の幻の姿を、その先に見たくてメアリーは悲しげに声のするほうを見つめる。
「君は優しい子だ。霧に迷った仔兎を助けた君に、霧のある所では加護がありますように……さあ、こちらにおいで」
メアリーは声のするほうへ歩いて行った。馬は手綱を解かれて、引かれて歩いていく。
「こっちだよ……」
声に導かれていく。幻の彼とまるで踊るように、歩いていく。袖や裾を揺らめかせて。頬を優しく霧が撫でて行く。
「……メアリー」
3
目を覚ましたメアリーは、くしゃみをして見回すと、そこは相変わらず同じ室内だった。
ここはイングランド。
メアリー・スチュアートは現在成人をしていたが、閉じ込められていた。エリザベス一世に。
「………」
彼女は気落ちし、長い髪を整えながら寝台に起き上がる。
「エリザベスには何か考えがあるのよ。彼女はいつでも沈着冷静だから、何かの考えが」
スコットランドのメアリーと、イングランドのエリザベスはライバル同士だった。
この度、メアリーが様々な国の陰謀から命を狙われることになり、スコットランドからエリザベスを頼ってイングランドまで来ると、彼女はメアリーを屋敷に隠した。
それはメアリーへ向けた表向き。エリザベスはメアリーに王位継承権を取られてはいけないと悪代官に唆されて、メアリーを幽閉したのだった。それをメアリーは薄々感づいていた。
自由も許されずに不安ばかりが募る一方で、どんどんと空想ばかりがメアリーの助けになっていた。
少女の頃や若い頃に出会ったあの不可思議な霧の君の存在。それが、人への疑心暗鬼を持ち始めたメアリーにとっては、彼の存在が純粋にして透明な記憶になっていた。
彼女だけが知る霧の君。霧の精霊だったのかもしれない。森に住まう青年だったのかもしれない。
姿さえ知らない。声しか分からなかった彼の、だからこそ誠実に信じられるものがある青年だった。
メアリーは身支度を終え、鏡に向うと髪を整えた。
静かに椅子に座る。ここには霧はない、形だけは整った部屋。見つめた。
既に誰を信じればいいのか分からなくなっていた。それでもあの森で出会った霧の君、彼への淡い恋心がただただ彼女の闇の心をほんのりと優しく包む……。それは霧のよう。
心に思い描けば、森に行けるのだわ。彼のいる霧の森へ。
その心に、安らぎという加護が降りた気がした。
少女のころの様に野を駆け回った記憶。いつでもおっかなかったメディシス様の時に笑った顔。へとへとに追いかけて来て岩に突っ伏して伸びたたお目付け役の姿。教育係の自室で巻物をだらんと伸ばしてぐーぐー眠った姿。それに、森の霧に包まれいだかれた感覚……。
大人になったメアリーの瞼を閉じた微笑みには、それらの涙が美しく光り流れた。
2015.10.
霧の舞い