さようならを言うために

【前置き】

 自分にけじめをつけようと思ってこの文章を書いている。
 私の体質、環境、そして「あの人」。私のこれまでの短い人生全てに、色濃く影を落としたそれらを、私は心のどこかで恨んでもいた。
 どうして、私だったのかと。
 どうして、こんなにも苦しまなければならなかったのかと。
 私は、実は狂っているのではないかと。
 私のことを信じてくれていた彼を、私の勝手で切り捨てた私には、今、何も残っていない。
 失って困るものは何も残っていない。
 だからこそ、今、この文章を書くことができると思う。書かなければならないと思う。
 彼との関係性が戻ることはないけれど、戻りたいとは思わないけれど、いつかこの文章を彼が読んでくれることを願って。
 何よりも、「あの人」の存在を、きちんと思い出にするために。

 ありがとう。さようなら。
 私は誰よりも、あなたが好きでした。


【体質なのか、呪いなのか】
 
 私の体質、と仰々しく言ってはいるものの、実際は一言で事足りる。
 私は霊感体質のオカルト少女である。
 ただ、無駄に黒魔術やイタコのようなものに傾倒している中二病の入ったオカルト少女ではなく、幼い頃から「実際に幽霊が見えている、そこにいる」と認識して、そんな自分と格闘を続けてきたオカルト少女である、とまずは主張したい。
 ちなみに、家族には霊感はない。よって、自分の体質を話したこともない。母親あたりは気付いているのかもしれないけれど、恐らく一生家族には知られないままだろうと思う。
 信憑性をあげるために、いくつか過去の心霊体験を挙げておく。
 幼い頃、恐らくは私が幼稚園くらいの頃。「あの人」と出会ってしばらく経っていただろうか。私は、夕方に公園で女の子と遊んでいた。
 見たことのない女の子だった。とても可愛かったと、覚えている。
 その頃の私はとても体が弱く、年の半分を風邪を引いて家に引きこもっているような子供だったから、知らない子供と遊ぶことに抵抗感はなかった。
 彼女と遊んで、ふと公園の時計を見上げて、あぁもう帰らなければ母に怒られる、と思ったのだ。
「わたし、そろそろかえるね」
「もうちょっとあそぼうよ。まだだいじょうぶだよ」
 そんな他愛もないやり取りを繰り返しながら、しかし彼女は執拗に私を家に帰してくれなかった。困ったな、と、振り切って帰ることもできずに遊び続けていると、その頃には聞きなれていた「あの人」の声が私を呼んだ。
「帰るぞ、×××」
「でも、かえしてくれないよ」
「帰れるよ。公園から出るんだ…早く」
 その声に従って、引きとめる彼女を無視して公園を出ると、突然、それまで必死に私を呼んでいた彼女の声が聞こえなくなった。
 振り向いたが、大して広くもない公園のどこにも、彼女の姿は見当たらなかった。消えてしまっていた。
 幽霊だったのか、と、そこで私は初めて気付いたのだった。
 もう一つの体験は、狐に関するものだけれど、これは後々語ろうと思う。あまりにも複雑で、私の記憶が半ば失われているからだ。無理矢理思い出そうとするとどこかで歪む。これが狐のせいなのか、私の脳みそが防衛本能で忘れてしまったのかは分からない。
 ただ、一つだけ言えることは、私は狐のせいで「あの人」を失ったということだ。
 そして「あの人」を失った頃から、私の体質は少し変わった。
 それまでの、生きている人と死んでいる人の区別もあやふやになるほどにはっきりと網膜に彼等を映し出していた目は、少しぼやけて見えるようになった。おかげで区別がつきやすくなったので、悪い事ばかりでもないけれど。
 それに加えて、私はどこか千里眼めいた感覚を覚えることが増えた。先輩がなくした携帯を探している場面が見えて、それが現実であったり。友人がコンビニに入って二人組のヤンキーに絡まれる様が見えたり。…これは、「あの人」の体質だったはずなのに。
 霊感体質は、うつるものなのだろうか。それとも私が、「あの人」を慕うあまりにあの人によく似た体質を発現でもしてしまったのだろうか。
 それとも、狐は今度こそ私を呼んでいるのだろうか。
 呼ばれている気がしないでもない。「あの人」が死んでからこちら、悪いことが起きる時はたびたび狐が夢枕に立つ。
 狐は、まだ怒っているのだろうか。まだ、私を呪っているのだろうか。
 そう言えば、直近に付き合った彼と狐の所に行く話をしていたけれど、実現はしなかった。しなくて良かったのだろう。
 こうしてキーボードを叩きながらも、狐という言葉を打つたびに、背筋に冷や汗が滲んでいるのだから。
狐はきっとまだ私を呼んでいる。「あの人」を取り殺して、それでもまだ足りずに私を呼んでいるのだろう。
 狐。そう、次は狐について語ろうと思う。
 何故だか、急に眠気が襲ってきた。まだ十八時なのに。


【狐】

 ここで私の語る狐は、動物ではなく神様だ。一般にはお稲荷様と呼ばれている、神社にいる真っ白な狐様。それが、ここで私の語る狐の正体だ。
 昔、小学三年生まで住んでいた家の近くに、狐の社があった。小学校の隣に位置していて、学校帰りにそこを通ることもよくあった。
 最初から、その場所に対する印象はあまりよくなかったと思う。何故だか空気の通りが悪くて、境内はちゃんと掃き清められているのに淀んでいた。汚かった。怖かった。
 それでも不思議と、そこをよく通った。昼間に通ることが多かったから、怖さも半減していたのかもしれない。今となっては正直、昼間であっても行きたくはない。
 一度、行かなければならないのだろうけれど。
 来年、就職を控えている。卒業するまでに、行っておかないといけない気がする。そんな気がずっとしている。
 それはともかく、ただ学校の隣にあるちょっと気味の悪い神社という印象だったそこが、決定的に変わってしまったのは、確か小学二年生の夏のことだった。
 夏休みになる直前位だっただろうか。神社が悪戯されたのだ。…否、素直に書こう。少しばかり支離滅裂になるかもしれないが、我慢して読んで頂ければと思う。
 あの夏の日、小学校の帰りで、私は両手にたくさん荷物を抱えていた。よくある小学生の夏休み直前の光景だ。絵の具セットやら籠やら抱えて、いつものように神社の境内を通り過ぎようとした。
 境内に男の子がいた。クラスメイトの、悪戯ばかりしているガキ大将タイプの男の子だった。
 彼が、何故か神社の社の前にいた。私は、そこには近づいてはいけないと思いながらも彼を止めることはしなかった。その男子があまり好きではなかったということもあったし、いつもよりも神社が怖かったということもあった。
 その子が何をしているのかは分からなかった。ただ、社の前で、何かをしていた。
 通り過ぎようとして、何気なくその子の斜め後ろから社を覗きこんだのだ。
 
 社の扉には、南京錠がされていた。いたずら防止のためだったのだろうか。錆びた南京錠だった。触ったら鉄錆の感覚がするような、南京錠だった。
 それが、緩んでいた。緩んで、中にあるお神酒をお供えするお猪口や供物の皿が見えていた。真っ白な陶器で、触れば割れてしまいそうな小さなものだった。その後ろにはやっぱり真っ白な狐様がいた。尾が三本。
 書きながら鳥肌が止まらない。
 私はその時、とにかく怖かった。帰りたいと思った。でもどうしてか帰らなかったのだ。
 ここから、大分記憶があやふやになっている。
 
 気が付いたら、お猪口が割れて地面に転がっていた。
 近くの御神木のしめ縄が引き千切れて風に揺れていた。
 扉はやっぱり緩んでいた。
 そして私は一人だった。男の子は逃げてしまったのか、分からない。お猪口を割ったのだがどっちだったのかも、どうしてしめ縄が千切れていたのかも。
 ただ、三本の尾を揺らした小さな狐が木の陰から私を見ている様子は、鮮明に記憶に残っている。

 次の日、私は熱を出して寝込んだ。
 一緒にいた男の子も、一週間近く寝込んだらしい。
 
 あの時、私は狐に呪われたのだろう。
 誰にも言えなかった。特に大人には言えなかった。神社で悪戯したなんて、いくらそれに立ち会っただけとは言えどれだけ怒られるか分かったものではなかったから。
 それに、もしかしたら私がお猪口を割ったかもしれないのだ。
 覚えていない。一切覚えてはいないけれど、でも、最後に社の正面に私は一人で立っていた。
 誰もいなかった。
 見ていたのは狐と「あの人」だけだった。


【「あの人」について】

 「あの人」は、物心ついたころから私の一番近い所にいた。
 前にも述べた通り、私は両親にすら自分の体質を話したことはなかった。話せなかった。話したら気持ち悪がられるだろうと、幼心に分かっていた。
 でも、私は幼い頃、幽霊と普通の人間の区別がつけられなかった。
 私から見たら、彼等はごく普通に存在しているように見えた。信号だって守っているし、空を飛んでいる訳でもない。空気椅子で座っている訳でもない。どこが違うのか分からないことの方が多かった。
 当時の私が一発で幽霊だと判別していた幽霊は、それこそ大分性質の悪い幽霊だっただろう。
 覚えているだけでも、体の一部がもげているもの、目が真っ赤で黒目のない女性、ずっとニタニタ笑っている上半身だけの男性などなど、バラエティーに富んではいたが総じて気持ち悪かった。
 ただ、それ以外の一見普通に見える彼等に、特に私は好かれていたようなのだ。
 彼等は決まって私を連れて行きたがった。どこに連れて行かれるのか分からない。でも、どこかに連れて行こうとしていた。手を引かれたこともある。囲まれていたこともある。逃げられないように、あの手この手を尽くされていたのだろう。
 悪意に気付かずに連れて行かれそうになっていた私を引きとめるのは、決まって「あの人」だった。
「×××、それは幽霊だよ。家に帰ろう」
「ほら、よく見ろよ。あれは違うんだ。ついて行っちゃ駄目だ」
 帰ろう、と、「あの人」はいつでも笑っていた。私のことを気持ち悪がらなかった。守ってくれていた。怖いものから守ってくれるのは「あの人」だった。

 初恋、なんて生易しいものではなかった。
 他の男の子を好きになることはあったし、私自身、気に入った子にバレンタインチョコをあげてしまうようなませた女の子でもあったけれど、それらの相手の男の子と「あの人」の差は明白だった。
 男の子たちは、私が日常で何を見ているのかを知ったら嫌いになるかもしれない。でも、「あの人」は違う。「あの人」はきっと私の側にいてくれる。そういうものだ。そういう存在だ。刷り込みのように、私は盲目的に信じ込んでいた。
 そして「あの人」も、私を決して裏切らなかった。
 
 私は「あの人」が大好きで、大切で、恋人とかそういうことではなくて、「あの人」とは一生一緒にいれるものだと思っていた。

 私は「あの人」の存在があっても彼氏を作った。キスもした。それとこれとは別の話だと思った。

 「あの人」を失ったのは、高校二年生の秋のことだった。
 
 詳しい死にざまは語りたくないし、語る必要もないと思う。

 私はその時、一度死んだ。

 確証はない。ただの思い違いかもしれないけれど、「あの人」は狐に連れて行かれたのかもしれないと思った。
 私を連れていけないから、代わりに「あの人」を連れていってしまったのではないかと。
 狐が夢枕に立つようになったのは、「あの人」が死んだことを知った日の夜からだったから。
 
 胸から背中まで貫通する穴をあけられたような気分だった。
 息が出来なくなった。
 代わりがほしかった。

 夜寝る時には、枕元に山と積んだぬいぐるみを抱きしめないと眠れなくなって。
 心の隙間を埋めるために、私は、浅ましくも別の男にすがるようになった。

 「あの人」の場所を塗りつぶすために。


【嘘と本当】

 結果として、高校二年生当時付き合っていた彼氏との関係はその後すぐに切れてしまった。
 依存し始めた私をうとましく思ったのか、それとも単純に付き合うことに飽きてしまったのか…恐らくは後者だろうと思うのだけれど。
 その彼は、別に良い。今思い返しても、いい思い出だった位の感想しか浮かばない。

 私は第一志望の大学を落ちて、現在通っている大学に入った。言い訳にも近いけれど、高三の時は全く勉強する気にならなかったのだ。とにかく疲れていた。息をするのもおっくうになるほどに。
 淡々と授業をこなし、サークルに入り、ほどほどに人を好きになって、秋。大学祭。
 この文章を書くきっかけになった彼と、付き合うことになった。

 癖のある人だというのが最初の印象だった。取っつき辛くて、人付き合いが苦手そうで、実際苦手だった。
 でも不思議と、話が合った。会話のリズムが丁度良かった。
 高校以降、「明るくておしゃべりでノリのいい」キャラクターを作っていた私にとって、素のキャラクターで話せる人はとても貴重だった。
 大学祭が終わり、二人で夕食を食べに行き、カラオケに行って…気が付いたら私は、「あの人」のことを彼に話していた。
 「あの人」が死んで三年余りが経ち、割と自然に話せるようになってもいたのだろう。話したことを、彼はただ淡々と聞いてくれた。
 彼と付き合ってもいいと思ったのは、多分この時だ。
 彼も私となら付き合ってもいいと思ったらしく、次の日から、私達は付き合うことになった。

 初めて彼と衝突したのは、「あの人」の命日の時だった。
 その日は大学でこっそり焼きイモをやってしまおうとサークルの人達で集まった日で、私は楽しみながらも、命日だからと喪服を着ていた。真っ黒なワンピース。今でも尚、この日は黒以外の服を着る気にはなれない。
 どうして怒らせてしまったのだったか、詳しい事はもう思い出せないのだけれど、私が「あの人」のことを想っていることに、彼はとても腹を立てたのだ。
 まだ好きなら、どうして自分と付き合っているのかと。
 そう怒られては、返す言葉がなかった。

 私にとって「あの人」の代わりは、やっぱりどうしてもいないのだと。
 その頃には私は、そう感じてしまう自分と折り合いをつけていた。
 これから先誰と付き合っても、「あの人」が占めていた場所を他の人が埋めることはない。喪失感に慣れることはあっても、消えることはない。
 だから、私は、怒る彼に嘘をついた。

「でも今は、あなたが一番好きだ」

 優劣をつけられる話ではないと、自分が一番よく分かっていたのに、そう言った。宥めた。
 「あの人」は「あの人」という枠の中でずっと一番で、決して誰にも取って替わることはないのに、そう言った。
 別れたくなかった。同じくらい、傷つけたくなかった。
 それから私は、彼に「あの人」の話をすることをできるだけ避けるようになった。時折話題に出ることはあっても、軽く流せるように。言葉を選んで、受け流して、何でもないように。
 小さな嘘をつくことは、何よりも得意だったから。

 そうして過ごしている内に、いつの間にか私の中でも、「あの人」は少しずつ過去の存在になっていって、彼が一番大事になってきていた。
 小さなことで傷つけられることは多くて、それが悪意がないために余計に傷つく結果になってもいたのだけれど、あえてそれを語るのも愚痴のようになってしまうのでやめる。
 ただ、そうして小さなことが澱のように積もっていくうちに、私は同学年の男友達にも心を惹かれるようになった。我ながら惚れっぽいとも思う。いつも私の愚痴を聞いてくれた男子だった。話が合って、友達の元彼だということを除けば申し分ない相手だったけれど、私はまだ彼と別れる気にはなれなかった。嫌いにはなれなかったし、一緒にいて一番心が安らぐのは彼の方だった。傷つけられても、誰かに愚痴を言えている間は大丈夫だろうと思った。
 それでも耐えきれなくなってきた時に、その相談相手だった彼から告白された。
 
 嬉しく思う反面、ついに選択しなければいけなくなったことに心底恐怖した。
 それでも私は一度、告白を断った。まだ別れられないと。でも、可能性はまだあると。半分逃げ口上の、ずるい断り方だった。
 家に帰って、彼に、友人に告白されたことを電話で告げた。
 彼は、その時何故かいきなり、
「別れよう」と言い出した。
 意味が分からなかった。パニックになりながら説得して、聞いてもらえず電話を切られ、泣きながら考えた。大泣きしていたら両親にも心配されて、流石になんとか泣きやんだ。
 そして考えた。
 このまま彼を引きとめようと頑張るべきか、告白してくれた彼に改めてOKを出すべきか。
 悩んで、すぐに出た答えは、「やっぱり別れたくない」というもので。

 次の日から、数日後にあった二度目の大学祭まで、私は粘りに粘った。
 結果としてまた付き合うことになったのだけれど、そこで安心しながらも、私は考えずにはいられなかった。

 次は、いつ振られるのだろうか。

 前と変わらないように接しながらも、心の底が冷えていることに気付いてしまって、私はどうしようと思った。
 また付き合いたいと思ったのは本当だったのに。
 それでも、一度切り捨てられた恐怖は、警戒心を抱かせるには十分すぎた。
 元々、人を信じるのが得意な方ではない。
 一度でも信用を裏切られたらそれっきり、見限ってしまうし、関係を続けても一線を引く。
 考えたくはなかったけれど、彼に対しても私は同じ反応を示してしまっていた。
 裏切られるのが怖いから、信用は心半分。いつ裏切られても良いように予防線を張って、心を決めて、隙を見せないで、でも態度はあくまでも前に付き合っていた頃と同じように。
 歪んでいると思いながらも、私にはそうすることしかできなかった。

 薄れかけていた「あの人」のことがまた心に上るようになってきたのは、この頃からだった。


【嘘と嘘】

 また付き合い始めてからの彼は、それまでのどこかクールぶっていた態度が嘘のようだった。まるで幼子。母親に甘えるように、猫が飼い主に甘えるように寄せられる絶対の信頼。
 それは、私にはとても重たかった。

 私はあなたを信じられないんだよ。
 だから、あなたも私を信じないでよ。

 何度口に出して言いそうになったか分からない。それでも言えなかったのは、重たいと思うと同時に、甘えてくる彼が愛しかったからだろう。
 苦しく思う気持ちを押し殺してでも、彼に応えたいと思ったし、応えられていたとも思う。
 周りからは公認カップル状態で、先輩達からはセットで扱われる。それを笑って受け入れながらも、私は彼の彼女と言われることが嫌だった。
 そう言われる度に、扱われる度に、少しずつ、溜まっていく負の感情。
 一度別れる前から嫌だと思っていた彼の態度も変わることはなく、やはり変わらず少しずつ心が傷ついていく感覚。
 彼に対する時の私の態度が、徐々に冷たくなっていったのは、今思えば致し方ないことだったのかもしれない。
 私は余裕を失っていた。彼に傾ける心の度合いが大きくなり過ぎて、それ以外に心を割くことができない。

 彼との関係を維持することに心の全てを使わないといけないような錯覚。
 気が付けば私は、学外で彼以外の人と会うことがほとんどなくなっていた。

 そんな私の心を知らぬまま、彼との関係性は少しずつ深まっていく。
 両親に紹介され、彼の誕生日は彼の家族と過ごした。長期休暇に彼の実家を拠点にして旅行した。彼の姉の結婚式に出席した。
 後輩から「夫婦」と言われるくらいに彼と一緒に時を過ごして。

 小説が書けなくなったことに気付いたのは、彼の実家を訪れた後のことだった。

 それまで、触れれば溢れだしそうな程に心の中いっぱいにあった世界がなくなっていた。
 少し手繰り寄せればいくらでも文章を書くことができた、その気力がなくなっていた。

 小さい頃からの私の経ったひとつの夢だった、「物語を作る人になること」。それを考えられなくなるほどに、彼の存在が私を圧迫していたのだと、私は初めて気がついた。

 もう彼とは一緒にはいられないと思い。
 それでも、やはり私はズルズルと別れられずに。

 彼に、言葉をぼかして相談した。
「言い辛いけど、×××には才能がないと思うよ」
 愕然とする前に、何も考えられなくなって泣き出したくなった。実際泣いた。それでも書けなかった。
 書けなかった。

 …そんなある晩、夢枕に狐が立った。久しぶりのことで、一瞬戸惑うくらいには私は狐のことを忘れかけていた。
 そして、「あの人」のことも。狐の姿を見た瞬間、時間が一気に巻き戻ったかのようだった。
 鮮明に浮かんだのは、高校時代、真っ白なルーズリーフに時間を忘れて文字を書き込んでいた自分。「あの人」に読ませたかった物語。友人達に捧げていたおふざけの小説。色づいていた世界。
 狐は何も言わなかった。それでも、私は、責められているような気がした。
 ずっと私を見ていたはずの狐に、「何やってるんだよ」と怒られているような気がした。
 このまま狐に殺されるならそれでもいいのかしれないと、思い。思わず笑ってしまった瞬間、狐は消えていた。

 そのまま置きだしてパソコンを起動した。ゆっくりと、途切れ途切れに書いた小説の出来はひどかった。
 それでも、少しだけ、私の中に世界が戻っていた。

 彼と別れることを、これまでにない真剣さで考えだしたのはここからだった。
 決心したのは、夏休みを間近に控えた頃。色々な人に相談した。話せないことはたくさんあったけれど、保健室の先生、友人、先輩、後輩…色々な人に相談した。私と彼が付き合っていることを知っている人は多かったから、様々な意見を聞くことができた。
 実際、彼等の意見を私は受け止めただけで自分のものにはしなかった。そういう意見もあると思い、納得し、妥当だと思い、彼と別れようとしている自分の気持ちを整理する手助けにしていた。

 そして、彼に別れを切り出した。
 夜、学校の廊下で、既に帰宅していた彼に電話した。
 開口一番、笑い飛ばされるだろうと言うことは予想していた。でも、彼の続けた言葉は私の予想を超えていた。
「それ、誰の考え?」
 私の考えではないだろう、と、言いきられた。怒る前に笑えて、泣けてきた。あぁそうか、と、諦めにも似た気持ちが生まれた。
 彼は、私を理解できていた訳ではなかったのだ。
 私が他人の意見を気に入ればそれをそのまま採用する性格だと、こんな場面においてもそうだろうと、彼は考えていたのだ。
 私は、納得しなければ決して他人の意見を受け入れはしないのに。
 受け入れても、それをそのまま使うことなんて、ほとんどないのに。口では受け入れるフリをしても、それを実行に移すことは、余程のことがない限り有り得ないのに。
 私は我が強い性格だ。長所でもあり短所でもあるそれを、それくらいは、彼も理解してくれていると思っていた。

 私はすっかり忘れてしまっていたのだ。
 彼が、自分以外の人間のことをほとんど理解できない性格だということを。

 私が彼に、嘘を積み重ねてきた結果だった。
 小さな嘘を積もり積もらせて、結果、彼の中の私はどんな人間だったのだろう。
 今となっては確認のしようもないけれど、きっと、それは「私」ではなかった。本当の、なんてつけるまでもなく、きっと、私ではなかった。

 ここから先のことは語らない。電話だけでは別れ話は出来ないと、後日実際に会った彼とのやり取りを、最後の会話を晒すのはいささか露悪趣味が過ぎると思う。

 ただ、彼と別れて私は思ったのだ。

 別れたことは、私の為にはきっと正解だった。あのまま一緒にいれば、心が潰れていた。
 でも、私は彼のことを少しは考えていたのだろうか。
 最後のメールで、「私の語った「あの人」の話をずっと気にしていた」と言った彼。私はごまかせたつもりでいたけれど、彼はやはりどこか、私の中に根強く残る「あの人」の面影を気にしていたのだろう。私に悟らせないままに。
 戻りたいとは思わない。それでも、何か他に道はなかったのかと、今でも時折思う。
 もう少し優しい関係性を、優しい別れを、作ることができていたなら。
 
 私は、最後の最後まで本当の気持ちを伝えることはできなかった。
 
 


【…これから?】

 そして時は、現在、こうしてキーボードを叩いている私に戻る。
 彼と連絡は取っていない。ツイッターも、気が付いたら彼の方からフォローが外されていたため、いい機会だと思ってアカウントを削除してしまった。

 先日、ずっと相談していた先輩に言われた言葉。
「まだ好きなの?」
 メールでその文を見た瞬間、咄嗟に否定することができなかった。
 
 私は、彼のことが嫌いだった訳ではない。
 一緒にいると苦しくて、笑えなくて、心が壊れてしまいそうで、別れを切り出すしかなかったけれど。
 それでも決して、嫌いだった訳ではない。
 彼に救われていたことは事実。好きだと、可愛いと、繰り返し言ってくれた彼に助けられていたことは、本当だったのだ。
 大切だと思っていた気持ちに、嘘はなかった。
 こんな別れ方をしたくて、好きになった訳ではなかった。

 ずっと、へたくそな恋愛をしてばかりだ。

 「あの人」に依存していた過去。「あの人」を失い、代わりを求めて、こうして終わりを迎えてしまった五年間。
 私は、きっと何も成長していない。変わっていない。変われなかった。

 だから、変わらなければいけないのだろう。
 少なくとも、これまでの自分を終わらせるために、今こうして文章を綴っている。
 初めて、自分のことを文章にした。予想以上に苦しかった。何度も手が止まって、書くのをやめたくなった。

 それでも、ここまで書いた。

 明日いきなり自分が変わっているなんて夢物語は信じていない。でも、少しだけ…誰かを大切にする生き方をしてみたいと思う。

 自分ではなく。自分を守るためではなく。

 今年はきっと、私は喪服を着ないだろう。
 学校で彼に会っても、笑える自分になろう。

 そして、小説を書こう。

 私が好きでいられる私でいるために。

 「あの人」と彼に捧ぐ。

 ありがとう。さようなら。
 私は誰よりも、あなたが好きでした。


<了>
 

さようならを言うために

さようならを言うために

とある女の手記。 幼少時から現在までを辿る、これからに向かうための手記。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-12

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