黎明のチェイス
男は萎びた花束を片手に、夜の繁華街を彷徨っていた。通りすがる男女は一人残らず男を振り返ったが、それは花束と千鳥足という不釣合いな取り合わせの為だけではなかった。
男は容姿に恵まれていた。今やほつれて額にかかっているウェーブ気味の前髪や整った鼻筋、意志の強そうな瞳を囲む形の良い眉毛などがバランスよく配置された容貌から、俳優と間違えられる事もしばしばであった。
男が生業としていたプロ野球界においても、男は試合記事よりもその合間に依頼を受けた写真週刊誌のモデルやファンとの記念撮影に姿を晒すことの方がずっと多くなっていた。道行く女性達は誰も瞳に乙女のような恋心と憧れを込めて男を振り返った。男性は反対に嫉妬と羨望を込めてであった。
今夜の男はしかし、いつもの晩の様にすれ違う女達にちょっとした笑顔を投げかけたり、これ見よがしに額の髪を掻き上げてみたりはしなかった。男の心にはある女の去り行く小さな背中だけが映っていた。それが彼女の最後の言葉とともに、折れた釣り針のように心に深く刺さり繁華街のネオンの光や街の喧騒を葬式のように暗く憂鬱なものに感じさせていた。
彼女はあの忌まわしい八百長スキャンダルの渦中にあって~それも男の関与が事実であることを確信しながら~男を見捨てずに傍で支え続けてくれた女だった。
今まで女というものを自分の人生の枠組みの中の存在として捉えた事は一度もなかった。
それがこの失意の半月の間にまるで大きく変わってしまった。女は決して器量が良いというわけではなかった。肌の色は白く、大きく切れ長な瞳は確かに女性としての魅力に富んでいたが、体型はやや太り気味で、男が進んで話す機会を持ちたいと思うような容姿ではなかった。
それが今では男にとって彼女こそが唯一で全ての存在となってしまった。彼女は男の人生そのものだった。
“それなのに何故、今になって俺から去っていってしまったのか”
もう数百回繰り返した同じ質問を、男は胸のうちに再び繰り返した。
男の流行の形のスポーツシャツはこぼした酒と飛び散った調味料の飛沫で薄汚れて惨めに見えた。男は狭い路地に入ると、雨に汚れたレンガの壁にくしゃくしゃになった花束を叩き付けた。舞い散った桃色の花びらを酔っ払い独特の焦点のずれた視線で追っているうちに、薄暗い路地の先に二人の男が並んで立っている事にようやく気がついた。
年配の方が大きな頭の上にくたびれた中折れ帽を載せていて相方が無帽だという以外は、暗い色の背広からその上に羽織ったベージュのレインコートまで殆ど同じような身なりだった。
中折れ帽が此方に一歩近づくと、手の中の黒い警察手帳を開いて見せた。
「手間かけさせやがって。ほら、大人しく両手を前に廻すんだよ。」
若い方が上着の前をはだけると、ベルトから手錠を取り出してゆっくりと近づいてきた。
男は迷っていた。男の”特技”をもってすれば、この状況を切り抜けるのはそう困難なことではなかった。だが今さら逃げ出してどうなると言うのか。この場を凌ぐことができたとしても官憲の手から永遠に逃れ続ける事は出来ない。そして何より彼女が去ってしまった今、娑婆に何の未練があるというのか。
若い刑事がもう一歩近づいた。通りの角から漏れた街頭の光が男の顔を照らし出した。頬に醜いギザギザの掻き傷の跡が走っているのが、官憲というよりどちらかというとヤクザ者のような雰囲気をかもし出していた。
ぼんやりとした妙に現実感の無い感覚の中で、男の目は若い刑事の背後に立つ中折れ坊の男が奇妙に身をよじるのを捕らえた。背後から絡みついた太い腕が中折れ棒の喉に巻きついており、その奇妙な動きは喉を締め上げる腕から逃げ出そうという必死のもがきなのだと気付くのに一瞬かかった。
刑事の帽子が脱げ落ちて、ぐったりと意識を失った身体が帽子の上にどさりと倒れた。若い刑事が背後の異変に気付いて振り返り、倒れた中折れ帽とその前に立つ第三の男を見つけた。
とにかく目立つ男であった。まず身長が高かった。優に180cmはあるだろう。だがそれをただの長身に見せないのは、黒革のライダースジャケットの生地を下から盛り上げている男の分厚い胸板だった。体格と釣り合いの取れたやはり大きなスキンヘッドの脇には幾つかの古い傷跡が薄っすらと爪あとを残していた。そして駄目押しが角ばった鷲鼻の下からピンと跳ね上がった見事なカイゼル髭だった。
その大男が悪戯小僧の通せんぼうのように胸の前に太い腕を組んで、だらしなく気を失って倒れた刑事の上に立ちはだかっているのだ。
慌てた刑事が反射的に腰の拳銃に手を伸ばした。が、一瞬遅かった。その大きな身体から想像できない程の身軽な動きで、大男は刑事の腰めがけて飛び込んだ。まるで猛牛のような体当たりだった。
掴み損ねた拳銃が刑事の指先から吹き飛び、コンクリの壁にぶつかって床へ滑り落ちた。大男は港湾で荷運びをする人夫のような格好で刑事の腰を軽々と抱え上げ、そのままの勢いで路地の隅に積み上げられたゴミ袋の山の上に叩き付けた。
仰向けになった刑事の胸から、しゅ~ッという音が漏れ、そのまま動かなくなった。大男は大きな両の掌をはたき合わせながら、気を失った刑事達の顔を覗き込んだ。
「・・悪く思わんでくれよ。こっちも仕事でね。」
低いしゃがれ声に幾分ユーモラスな響きが含まれていた。
かがみ込んで中折れ帽の様子を調べ終えた、「世界」という不思議な渾名を持つこの大男がようやく男の方に振り返った。
「失恋か?色事にかかずらっていられる事態では無いと思うがね。」
世界は薄汚れた路地に飛び散ったピンク色の花びら達を顎で指した。男が半日前に取調室を無断で抜け出したことを話しているのだ。取調室から脱走した足で恋人に会いに行き、振られた傷心に夜の街を飲み歩いているなど、確かに常軌の行動ではない。それは男が一番よく判っていた。
容疑は男がピッチャーとして所属する球団への背任及び詐欺と野球賭博への関与だった。『黒いストライク』・・疑惑の発覚から男の逮捕までのこの二週間というもの、新聞記事の一面はこの見出しと男の名前と写真とのさまざまな組み合わせで派手に彩られ続けた。
賭け主の都合に合わせて自らの投球をバッターに打ち取らせることは確かに八百長といえるだろう。しかし一体、自らの望むまま相手からストライクを奪う事が、果たして八百長の定義に当てはまるのだろうか。この点が疑惑から実際の立件、逮捕までに時間がかかった理由でもあった。そもそもストライクとヒットをピッチャーが好きなように選ぶ事が技術的に可能なのであろうか?法律家と野球解説者、特別に組まれた緊急討論番組の席上で双方の喧々諤々の議論が繰り広げられたものだった。
やがて賭博組織の解明が、某球団の後援会に名を連ねるある大物代議士の足下まで及び始めるとマスコミの報道は俄然熱を増し、反対に記者会見での警察による発表は何故かとたんに歯切れが悪くなった。
男が「無断外出」を決行したのはそんな混乱のまさに真最中であった。男の特技を駆使すれば取調室からの脱走などはわけなかった。取り調べの担当刑事は無用心に男の目をまともに見つめすぎたのだ。
だが、男の脱走については、売店の店先に差し込まれた夕刊の紙面には載っていないようだった。政治的な配慮から一時的な報道管制がかかっているとみてまず間違いあるまい。にもかかわらずこの大男は男の脱走を明らかに知っている様子だった。
“・・という事はこいつ、刑事なのか・・?“
世界が皮肉な笑顔のままゆっくりと一歩歩み寄ると、男は黙って同じだけ後ずさった。世界は口元に笑みを浮かべながら、傷ついた獣を宥める獣医のような仕草で開いた手の平を左右に広げて見せた。
「まあまてよ。俺はあんたの敵じゃない。もちろん・・」
そこで路地に横たわる刑事の太り気味の身体に、ぎょろりとした大きな瞳を落とした。
「・・警察でもない。厳密にはね。」
最後に付け足した一言が、幾分意味深長な響きを伴っていた。
「一杯おごりたいんだ。あんたにとって、悪くない話がある。」
「・・これ以上悪くなりっこないさ。たった今お前自身がそこに二人分の問題を持ち込んできやがったんだぞ。」
二人の刑事を荒っぽい手つきで指し示しながら、男が初めて口をきいた。艶のあるやや低めの声。リズム感さえ備えていればそのまま歌手としても通用しそうな響きだった。
“なるほど、球界のドンファンと呼ばれていたのもまんざら根拠の無いことではないんだな。”世界はニヤリと笑った。
世界もこの色男の顔は野球の試合や、時々男が顔を出す週刊誌の表紙などでよく見知っていた。だが、眼前で世界の顔を訝しげに睨みつける実物の男は、写真で見るより少し老けて見えた。それは荒っぽい取調べによる疲労と、官憲の手を潜り抜けて逃げる緊張感のせいかもしれなかった。
「細かいことは気にしないタチでね。・・さあ。」
世界は顎で路地の先を示し、身構える男の前をゆうゆうと横切り先に歩き始めた。
男は振り向きもせず汚れた路地を進む世界の背中を見ながら、混乱した頭で考えていた。“この大男は一体何者だ?なぜ刑事から俺を救ったのだ?”
男は暫くその場で逡巡していたが、無様に横たわる二人の刑事の姿を見て心を決め、足早に世界の後を追った。
“いずれにしてもこの期に及んでは俺に選択の余地はない。“
路地の入り口で世界に追いつくと、世界は横目でちらりと男の顔を覘き見て、小さく笑った。
「・・来てくれると思ってたよ。」
男はその横顔を無言で睨み付けると、世界の先に出て歩き出した。
石造りの階段を下りて重い扉を開くと軽快なスウィング=ミュージックと紫煙を含んだひやりとした空気が二人を包んだ。バーの店内は薄暗かったが貧弱な入り口ドアからは想像できない程の奥行きがあり、カウンターの背面には革張りのソファーで囲んだボックス席が三、四席設けてあった。店にはカウンターに一人客が数人と入り口傍のボックス席に若いカップルが納まっている他に客はいなかった。
世界はカウンターから挨拶するバーテンダーに小さく手を上げて応えると、入り口から一番遠い角のボックス席へと進んだ。
「I.W.ハーパーのロックと、この旦那にはコーラだ。」
ウェイターへの注文を聞いて男は鋭く世界の顔を見やった。世界は直ぐにその視線に気づくと微笑を返し、懐から取り出したパイプを並びの良いいかにも丈夫そうな歯の間に咥えた。
男が見かけから受ける印象とは異なり酒が苦手で、その反面甘い物に目がないという意外な一面を持っている事を、世界は事前に渡された調査書から知っていた。
路地で見つけた時には大分乱れた様子だったが、実際には大した量は飲んでいないはずだ。アルコールの量よりも寧ろ嫌いな酒を無理に重ねた事が悪酔いを招いたのだろう。
「・・俺の事は何から何までご存知のようだな。」
「経歴や身長体重から飲み物の好み、それに女の趣味までね。」
男は最後の一言にピクリと反応し、一瞬何か言いかけたが思い直して言葉を飲み込んだ。
ウェイターが飲み物をテーブルに置いて立ち去るのを待って男は本題に切り込んだ。
「それで、俺にとって悪くない話というのは・・?この薄汚いバーでコーラを好きなだけ飲んでもいいという事か?それとも警察に追われている俺を映画の主役にでも抜擢してくれるのかい・・?」
冗談めかした口調の裏に、かすかな焦りが隠れているのを世界は感じ取った。
男の頭はもはや酔いや傷心からの混乱から覚めていた。自分がのっぴきならない状態に置かれていることに疑いはなかった。この窮境から抜け出すための、何か。世界の思わせぶりな口調や自信にあふれる態度にその何かの匂いを感じはじめていた。
「・・俳優か。確かにお前さん、役者向きかもしれないな。マウンドでボールを握っている姿も男前だがあんたの顔は寧ろスポットライトの陰影の元で映えるつくりだぜ。」
「へえ、おっさん。あんたが役者出身だったとは思わなかったよ。さぞかし女共を泣かせたこったろうね。」
世界はその皮肉を無視し、パイプの柄で自分の胸を指して言った。
「“世界”と呼べよ。そいつが俺の名だ。」
「・・世界、だって?」
「そうさ、それに俺のルーツは役者じゃない。まあそう的外れではないがね。
舞台に立つことには変わりないが、俺の演技は地上20メートルのブランコの上で演じられたのさ。」
世界は過去の栄光の懐かしさに目を細めるようにしてパイプの煙をゆっくりとくゆらせた。話が本題から逸れはじめていることは自覚していたが、記憶の奥底からあふれる出る思い出に、つい言葉が止まらなくなってしまう。サーカスの話に及ぶといつも出てしまう悪い癖だった。
「俺はサーカス団の中でも花形中の花形、奇跡の空中ブランコ乗りだったのさ。
パリにロンドン、アムステルダム・・双子の兄貴と一緒に世界二十カ国以上の宙を“飛んだ”よ。アメリカでは一年以上かけて全米ツアーを巡ったものさ。」
男は路地裏の私闘で世界が見せた、大きな図体に似合わない敏捷な動きを思い出していた。なるほど、それで納得できる。
「それでそのおかしな名前は自分で付けたのかい?それとも自分の子供に名前をつける時あんたの親父さんは相当酔っ払ってたのかね。」
世界は自嘲気味に短く笑った。グラスのバーボンを一口あおり、喉を温めるアルコールの心地よい感触を味わうと、おもむろに自らの奇妙な名前にまつわるルーツを語り始めた。
「ロスでの公演の時だった。俺は広告代理店の日系二世の男に“世界一の軽業師”と広告を打つよう伝えたんだ。その下に俺の芸名を馬鹿でかく入れろとね。
当日はもちろん大入りだった。サーカスの連中ってのは皆繊細な職人揃いでね。やっていることは演技ではなく、本当は絵画や彫刻なんかよりよほど緻密な芸術なのさ。」
「あんたを見ているとどうもそういう感じはしないがね。」
男の横槍を無視して、世界は先を続けた。
「その日のどの演技も連中は一切手を抜かなかった。もちろん大当たりの大受けでね。嫌が応にもメインイベントになる俺の演技に皆の期待が集まるってものさ。それで俺が空中ブランコの取っ手を掴む瞬間には観客は皆ほとんど奇跡に近いものを見るつもりになっていた。」
劇的な効果を狙うかのようにここで世界はわざと言葉を止め、ゆっくりとパイプを咥えなおしてから先を続けた。
「ところがどっこい、連中が実際目にしたのは”奇跡に近いもの”なんかじゃなくて、奇跡そのものだったのさ。
俺がブランコから踏み台に飛び降りて足下の観客に深々と頭を下げると、テントが裂けんばかり、嵐のような拍手喝采さ。その後テント中の皆が狂った様に名前を叫んで俺を称えたよ。
ただ残念ながら呼んだのは俺の芸名ではなく、あのいんちきなアドバルーンに誤植された『SEKAI(世界)』という名前さ。おかげでそれ以来誰もが俺をその名で呼びやがる。今では俺自身も自分の本名を忘れちまったよ。」
「なるほどね、あんたが世界中を廻ったということと、見た目以上に身軽だということはよく判ったよ。・・だが、それが一体俺とどういう関係があるというんだ?」
「おっと、俺としたした事がずいぶん無駄なおしゃべりをしちまった。」
世界はちらりと、此方に背を向けてカウンター席に腰掛ける灰色の背広の男の方を覘き見た。
「本題に入ろう。」
世界は唇からパイプを抜くと、テーブルに身を乗り出した。その身体の重みでテーブルの脚が小さく軋んだ。
「俺は現在ある政府組織に所属している。いや、これから所属する、といった方が正確かな。・・まさにこれから立ち上げ、ってところでね。」
政府組織だって?男はその言葉の違和感に戸惑いを隠せなかった。
世界の容貌や態度はどう考えても役人には見えないし、外で刑事を締め上げた遣り方も政府筋の人間の処理にしては荒っぽすぎる。そもそもどうして政府の人間が警察から追われる身の俺を逮捕から救ったりするのだ?
といって、この差し迫った状況で突拍子もない嘘をつく理由も思い当らない。
「俺達・・いや、少なくとも俺の上司はお前さんの特殊な才能に非常に興味を持っている。」
世界はここで意識的に男の目から視線を外した。話が男の特殊能力に及ぶに至って、男の目を正面から覗き込むのは危険だと教えられていたことをようやく思い出したのだ。
報告書に記載された男の特殊能力については正直言って半信半疑だった。それでも用心に越したことは無いだろう。なにしろ実際に男は取調べ中の警察署の正面玄関から白昼堂々と脱出したのだから。
「一方お前さんは今、ちょいとばかり厄介な状況に置かれている・・いや、こいつは控えめな表現だったな。」
ここで世界は大きな肩をすくめてみせて、男に愉快そうに笑いかけて見せた。
「そこで俺達はお互いの為に少しばかり取引ができるんじゃないか、と考えているわけだ・・」
話を聞いていた男の顔に苛立ちの影が差した。世界は男の表情の変化に気が付くと、巨躯を小刻みに揺すって椅子の中に座り直し、男の顔を正面から覗き込んだ。その顔から笑みは消えていた。
「・・単刀直入に話そう。あんたの能力が是非とも欲しい。あんたが俺たちの組織に加わってくれるなら、あんたの罪状は全て帳消しになる。」
「なんだって・・?」
「できるのさ。俺たちには、な。」
男はそれを聞くと無表情のまま身体を背後に倒し、ソファに凭れた。頭が混乱していた。沈黙が続いた。
男の無言に焦れた世界は舌先で唇を湿らせると、ゆっくりと言葉をつづけた。
「・・それともお前さんを外の連中の手に引き渡すか、だ。」
そう続けると、世界はパイプを唇から引き抜いてその柄で男を示した。
突然、男の整った顔立ちが怒りに歪んだのを見て、世界は最後の一言が余計だったと知った。
男は身体を起こしてパイプを握った世界の右手を荒々しく払い除けると、世界を睨めつけた。
「冗談だか頭がおかしいのか知らんが、俺には関わりない話だ。自分の問題は自分で解決できる。それにな・・」
はき捨てるように続けた。
「・・俺は人から脅しを受けるのが何より嫌いなんだ。」
世界は心外だというように手を身体の前に大げさに広げて見せた。
「脅しだって?よせよ、こいつはビジネスだぜ。」
だが、男のこわばった表情は変わらなかった。
「断るね、ピエロのおっさん。俺はあんたのサーカスであんたと漫才を演じるつもりはないんでね。」
男が他意なく口にしたこの一言が、世界の表情に劇的な変化を与えた。その大きな顔から愛想の良い笑みは消え失せ、顔の造作の一つ一つが怒りに固くこわばった。まるで顔全体が一つの擦り切れた岩石のようだった。
「・・・俺はピエロじゃない。宙空の芸術家、空中ブランコ乗りだ。」
怒りを抑える努力の為、低く絞り出した世界の声にはほとんど抑揚がなかった。
「同じさ。俺に言わせればどっちもね。」
男は世界を挑発する為に鼻で笑う真似をした。プライドの高い者ほど自制心を失いやすい。そして男が放ったその一言はまさに効果覿面だった。テーブルを挟んだ距離からでも世界の坊主頭に青筋が浮き上がるのをはっきりと見る事ができた。
「・・サーカスというのは芸術だ。そいつを侮辱する野郎は・・・」
後半は言葉にならず怒りの低い唸りの中にまぎれてしまった。世界は背後へ椅子を押し出しながらゆっくりと立ち上がった。その岩の塊のような大きな拳がテーブルの表面で憤怒の震えを刻んでいた。
「いやいや、随分ご立腹のようだが、そんなに大きな拳を俺の顎まで届ける事が出来るのかな。」
男は椅子の背を後ろに傾けながらからかうような口調で言った。怒りに上気した世界の頭からは、男の瞳を直接見るなという忠告などとっくに消えうせていた。
大きな拳さ、確かに人並み外れて大きい。こいつがお前の顎を打ち抜いたら、ぺらぺらと気楽に冗談なんか飛ばしてはいられないんだぞ。世界は憤りに歯を噛み締めながら握り締めた拳にちらと目を落とした。そうとも、大きな拳さ。とても大きな・・?
世界は突然我が目を疑った。拳が妙なのだ。気のせいか?確かにひと回り大きくなっている。いや、気のせいではない。現に手首から砂袋をぶら下げられたように拳の重さが増してきているではないか。
世界は急いで手を目の前に上げようとしてみたが、その重さの為に断念せざるを得なかった。奇妙な重力に堪えかねた両の拳がテーブルの上に落下し、小さく跳ね上がったグラスや灰皿が、がしゃんと賑やかな音を立てた。世界にはそのままへたるように椅子に腰掛けなおすしか選択の余地はなかった。
テーブルの音を聞いてウェイターが不審気な顔でテーブルに近づいてきた。男は椅子に寄りかかったまま笑顔でそのウェイターをカウンターへ戻した。
目の前で大男が机に貼りついた両手を真っ赤な顔で引き剥がそうとしている様子は確かに見物だった。男はコーラのグラスに手を伸ばすと、半分ほど一気に呷った。
「どうだい、大将。ウェイトリフティングってやつはなかなか骨が折れるもんだろう。」
世界は額に滲んだ汗を拭うこともできず、何度も瞬きをして振るえる両手を見直した。大きさは元に戻ったようだが重さは相変わらずで、両腕の筋肉を引きつらせてもテーブルの表面から持ち上げる事ができなかった。
世界の頭から怒りの炎が消え、代わりに冷静な思考が戻ってきた。そうか、これが隊長の言っていたこの男の特技、催眠術というやつなんだな。世界は大きくため息をつくと、諦めて体の力を抜いた。
「・・わかったよ、坊や。こうなれば俺の負けだ。だからこの両腕を早いとこ何とかしてくれ。」
男は椅子の背によりかかりながら暫く皮肉な表情で世界の様子を見ていたが、心を決めたように突然右手の指を弾くと、グラスに入ったコーラの残りを一息にあおった。
「いいだろう。」
男が椅子を引いて世界の背後へと歩み寄った。世界は一瞬身を強張らせ振り向きかけたたが、両手が使えないことを思い出してあきらめた。男は世界の両肩に手を乗せると、静かな声で暗示を唱えた。
「・・まず右手を見るんだ。気持ちを楽にして・・。大きさは元の通りだ・・。そして重さもだんだん弱くなっていく・・・・」
男の暗示の通り少しずつ軽くなってゆく手を信じられない気持ちで見つめながら、世界はゆっくりと右手を持ち上げた。男が世界の肩に手を置いてから20秒ほどで世界の両手の重みはすっかり消えた。自分の両手を目の前で曲げたり広げたり繰り返しながら、世界は背後の男を振り返った。
「・・まったく、自分の目が信じられん・・。」
「あんたがそのでかい図体で空中ブランコを飛ぶのを見たら、俺も同じ事を言うかもな。」
男は皮肉な笑みを浮かべながらそう言い捨てると、振り向き店の入り口へと歩み去った。
世界は席に腰掛けたまま震える手でパイプにマッチで火を入れた。
「どうだ・・」
カウンターの端の暗がりの席でキリマンジャロを飲んでいた、灰色の背広に黒縁眼鏡といういかにも役人染みた身なりの男がいつの間にか世界の傍らに立っていた。世界はその問いかけに振り返りもせず、ただ肘を突いて握り合わせた拳の上に不機嫌な顔を載せ、先ほど男が去って行った店の入口階段の方を睨んでいた。手の痺れはいつしか消えていた。
「・・ものになりそうか、800番は。」
黒縁眼鏡の男、草波検事が世界の肩に手をかけて続けた。テスト候補者には全て三桁の番号を付け、採用が決まるまでその番号で呼んでいた。番号の振り方は最年少ながらその頭脳と腕前で既にリーダー候補に内定していた少年、飛葉大陸に任せてあった。八百長で人生を棒に振った男に800番を振るというのはいかにも飛葉らしいユーモアの表れといえよう。
「ああ、例の特技は噂以上に冴えていますよ。・・たった今この身体で体感した。」
世界は無意識に自分の太い手首を撫でさすっていた。
「800番・・八百と呼びましょうか・・戦闘能力の程は未だわからんが、どうにもあの性格は酷いな。」
「次期ローマ法王の候補者を選べといっているわけではないぞ。腕さえ立てば性格などは考慮する必要は無い。」
草波がにべも無く断じた。世界は黙って分厚い肩をすくめると、氷が半ば溶けてしまったロックのグラスに手を伸ばした。生ぬるくなったグラスに唇をつけると、水っぽいウイスキーを一息で飲み干した。
八百がバーを出て路地から表通りに向かって歩き出したその時、路肩に駐車したトラックの陰から中折れ帽の刑事が姿を現した。泥に汚れたコートの前で油断無く警察拳銃を構えている。先ほど世界に締め上げられた喉の辺りを空いたほうの手でさすりながら、憎悪に憎んだ顔で八百をにらみつけた。
「ずいぶんゆっくりとお楽しみだったじゃねえか。え?もう一匹の野郎はどこに行きやがった。」
たった今上がってきた階段を指差せば答になるのだろうが、何故か八百にはそれができなかった。かわりに小さく肩をすくめて、さあね、と無愛想に答えた。
突然、潜在意識が何かおかしいと八百に告げた。この刑事は今なんと言った?“ずいぶんゆっくりと”と言ったのではないか?俺が店内にいると知っていながら何故この刑事は応援を呼んで店内に踏み込まなかったのか?何故パトカーが入り口を包囲していないのか・・?
「しかし、奴さんも相当苛立っていますよ。あの金魚の糞みたいな刑事達をどうに追っぱらえないもんですかね。」
世界が路地裏で締め上げた間抜けな二人の刑事との経緯を簡単に説明した。話を聞くうちに草浪の顔が怪訝な表情へと変っていった。
「・・何を言っているんだ。成沢さんの筋から警察関係の追跡は一切止めさせているはずだぞ。」
怪訝な表情をするのは今度は世界の番だった。
「だって、実際俺はあの路地裏で・・。」
下ろしかけたグラスを宙で止めて世界が草波の顔を覗き込んだ。
「それじゃ、連中は・・」
眼鏡の奥で鋭く睨み返した草波の眼が、世界の言いかけた事が思い過ごしでないのだと答えていた。
中折れ帽がトラックを回りこんで此方にゆっくりと近づいてきた。不気味な笑いが男の頬の傷跡を歪ませた。
八百が思わず一歩後退すると、その背中に硬い物が押し付けられた。二人目。無意識に振り向きかけたその瞬間、右側頭部に強烈な打撃が加えられた。
崩れかけた身体を背後の男が片手で掴み上げ、さらにその腹へと右の拳をめり込ませた。腹筋に力を入れる隙も与えない見事なタイミングだった。呼吸が止まった。
“偽刑事・・”薄れゆく八百の意識の中にその三文字がぼんやりと浮かび、やがてゆっくりと闇へ落ちていった。
「うまいっ!」
草波がはたと手を打った。その嬉々とした顔を世界は怪訝な顔で見返した。
「・・これで実戦テストを組む手間が要らなくなった。飛葉を例の新田のヤクザ屋の調査に廻すことができる。」
「どういうことです!?」
世界は椅子から立ち上がると、草波の肩を掴んで黒縁眼鏡の奥を睨みつけた。自分の頭に急激に血が上り始めているのを感じた。草波は咎めるような冷たい目で世界をにらみ返した。
「八百を追っているのは警察だけではない。今回の賭博スキャンダルとの関わりを陰で噂されながら、唯一未だに挙げられていない男、赤庭剛三。この男が証人の口封じの為に『六文銭』と特別契約を結んだという情報が入っている。」
草波の肩を掴んだ世界の大きな手の平が無意識に引きつった。
「あの赤ワニが絡んでいるんですか!」
『赤ワニ』・・それがギャンブル界のドンとして知られる富豪、赤庭剛三の、裏社会における渾名だった。
ダブルのスーツに包まれた肥満体に短い手足。鼻梁の折れた大きな鼻に(なに、昔健闘を嗜んどったころの勲章ですわ)、その渾名を連想させる爬虫類のように黄ばんだ大きな瞳。
”ワニ”とは赤庭の名前をもじっただけの呼び名ではない。大きく広げた獰猛な牙でごっそり獲物の肉を噛み千切る強引な事業運営~表、裏を問わず~のイメージに基づいて付けられた名である。
所有する遊技機関連の企業に毎期最高益を更新させ続けさせる実業家の仮面の裏で、殺人・傷害・脅迫を手段として、闇賭博、詐欺、売春の各事業を地道に展開し続けていた。
その一方、赤ワニは官憲の目を欺くために社会福祉法人まで設立し、表社会ではあくまで善良な市民を演じていた。財団の寄付による孤児院の着工式で鍬入れをする姿が新聞の一面を彩ることもしばしばであった。
そしてその「赤ワニ」が雇った連中がまた最悪だった。『六文銭』・・世界もその殺人組織の名前は一度となく耳にした事があった。
六文銭の噂は日本国内に留まらずアジア全域と東ヨーロッパの一部にまで広がっていた。実際に最近ではアジアの某社会主義政権での政治闘争の道具として雇われ、その血塗られた技術と引き換えに莫大な富を手にしたと言われていた。
「取調べ中の八百は見方を変えれば警察に保護されていたとも言えよう。さすがの殺人組織も取調室の内部まで殺し屋を差し向けることはできないからな。それが赤庭の頭痛の種だったんだ。
ところが今朝の脱走劇で状況が全く変わった。」
草波は世界の向かいの椅子を引き、斜めに腰掛けるとテーブルの灰皿を引き寄せた。
「連中にとって見れば八百の逃走は、天から降って沸いた最大にして最後のチャンスだ。八百の首には今や組織の威信がかかっている。奴の抹殺に連中は満を持して臨むだろう。
・・それにしてもまさか連中がここまで迅速に動くとは予想外だった。」
そう言いながら煙草を取り出し、薄い唇に挟んでゆっくりと火をつけた。
「六文銭といえば指折りのプロ組織だ。テストどころじゃない。殺されちまいますよ。」
世界は握り締めた大きな拳を机に叩きつけた。灰皿やグラスが小刻みに震えながらカタカタと音を立てた。
だが草波は全く動じる様子を見せなかった。煙草を唇から引き抜くと、その間からゆっくりと紫煙を吐き出した。
「我々が求めているのはどんなに困難な状況でも生き残る術を身につけた、猟犬のような男だ。
もし八百が自分の頭上の蝿すら追えない様な軟な男なら、それまでの事だ。我々が係わるまでも無い。」
世界は目の前の男の表情の無い顔をまじまじと見た。一体この男の心の中には優しさとか思いやりといった類の感情がひとかけらでも存在しているのだろうか。飛葉をはじめとしてこの男に狩り集められた俺達は確かに皆悪党ではある。だが、それでもこの機械のように無機質な表情をした男の心の冷たさにははるかに及ばない・・。
伝票を取り上げ入口に向かいかけた草波の進路を世界が大きな身体で遮った。俯いたその顔は内心の苦悶にかすかに歪んでいた。世界は手を草波の肩にかけてその場に留めようとした。
「・・なんだこの手は。」
「隊長、俺はあんたほど頭の回転が良くないかもしれんが、人生経験ならあんたに決して劣らないつもりだ。
あの男一人では無理だよ。奴の特技には確かに魅力があるけれど。」
その巨躯から出たとは思えない、絞り出すような苦悩のこもった声だった。
世界は叱責を覚悟していた。だが、世界が頭を上げて草波の顔を見ると、そこには不敵ともいえる笑みが浮かんでいた。
「それはどうかな。・・世界、お前の欠点は人を見かけだけで判断しようとするところだ。
そして、六文銭の連中が若しもお前と同じように奴をあの甘ったるいマスクだけで判断するならば、必ずその事を後悔する羽目になるだろう。これは 寧ろ奴にとって有利な要素かもしれんぞ。
ま、いずれにしても結果は直ぐにわかるわさ・・。」
(「黎明のチェイス」前編 完)
黎明のチェイス