Fate/defective Extra edition 2

獣月の黙示録(前)

 家とは、それすなわち呪いであった。

 血は、逃れ得ない呪縛。細胞の一つ一つは呪詛との契約。祖先から連綿と引き継がれる、遺伝子という絶え間のない惨劇の祝詞だけが、一呼吸毎に体の内奥に刻まれる。殊更に、魔術師の家とはそういうものだ。呪いが息をして、無念が思考する家。
 脈々と。
 脈々と。
 刻印が成長しきるその時まで、幾代の人間を蝕み、狂わせ、奈落に捨て続ける呪い。
 自分は人間なのか? 
 それとも、呪われた獣なのか?
 魔術という神秘の一端を身に宿したときから、自分が智慧を持つ獣なのか、小我に呑まれた人間なのか、分からないままでいる。獣と人、まるで振り子のように、その間を行き来している。狂気と未来、諦観と希望、そのすべての間で揺れている自分という存在に或る日、差し出された手があった。
 その光の手を夢に見る。
 自分が、人間として二本の足で歩くために縋りついた手。退廃した精神の中で、やっとその手を見つけて、その手に引き上げられた。
 今でも、その光の手を夢に見る。


 ――――引き上げられた先が、奈落の地獄でなければ、こんな悪夢を見なかったのに。




「……!」
 びくりと体を震わせて、キイチは目を覚ました。夕暮れの濃い橙色が、深い角度で研究室の埃っぽい窓ガラスから差し込んでいる。いつも通り雑然とした狭い部屋の中には、自分しかいないようだった。
 と、思った束の間、
「お目覚め?」
 少女の鈴を転がすような声で、キイチは再び肩を跳ねあがらせた。振り向くと、何のことはない、スネグラチカが入り口の近くに立ち、微笑みを浮かべている。
「驚かせてしまってごめんなさい。でもとても良く眠っていましたから、声をかけるのも気が引けてしまいましたわ」
「……」
 キイチはこの少女、スネグラチカが心底苦手だった。
 嫌悪、と一言でまとめるには不十分だ。正確には嫌悪ではない。嫌悪する理由もないほど善良に『見える』立ち振る舞いが、頭の先からつま先まで染みついているこの少女に言いようのない不安や不信感を感じるのだ。ひと月前、新年を迎えたとほとんど同時に青天の霹靂のようにどこからともなく現れ、執拗に自分のことを追いかけ、根拠のない誠意を振りまくスネグラチカを、キイチは内心で酷く警戒していた。
 そんなことは露知らず、スネグラチカはいつものようにせわしなくキイチの身の周りに触れたがる。
「そうだ、喉は乾いてないかしら? それともお腹が空きましたか? ああ、夕陽が眩しいですわ、カーテンを閉めましょうか」
「いい。すぐに出る」
 こんな時に限って、佑もアリアナも教授もいないとは。キイチは座っていたソファーからさっさと立ち上がり、机に放り出しっぱなしだった自分の持ち物をまとめて鞄に放り込んで部屋を出た。ガチャン、と無情な音を立てて閉じるドアを、振り向きすらしなかった。


 斜陽が濃い影を落とす路地裏を歩く。自分と佑が住んでいるアパートメントの部屋までは少し遠回りだが、真っ直ぐ帰る道は人通りが多すぎる。意図的に、人の目のない場所、人の耳の聞こえない場所を判別する癖がついてしまった。そして一度安全とわかった場所から離れなければ、滅多なことは起きない。
 そう、彼女の存在を除いて。
 スネグラチカは、キイチがどんな場所にいても、いとも簡単に見つけてしまう。用水路の傍の細い曲がり角、住宅街の行き止まり、繁華街の隙間の階段、何度彼女の顔を見たか分からない。「探しましたわ、こんなところにいたのね!」の言葉と共に、まるで犬が匂いを辿ってくるようにキイチを見つけてくる。
 今も、公園と道を隔てる高い塀に挟まれた道を歩きながら、研究室に置いてきたスネグラチカがひょいっと顔を出すのではないかと、内心怯えているのに気づき、軽く舌打ちをした。忌々しい。無邪気だから、余計に忌々しい。まるで諌める方がおかしいのではないかと、そんな錯覚を起こすからだ。けれどスネグラチカの意味不明な好意を、そのまま受け取ることは出来ない。僕がおかしいのだろうか? ―――そうに決まっているじゃないか。育ちの良い彼女と、とっくに死んだみたいな人生を生きてきた自分、どちらが正しいかなんて火を見るより明らかだ。スネグラチカの好意を、僕みたいなぶっきらぼうな態度で無下にしていいはずがない。おかしいのは僕だ。そう、僕はいつも―――
 キイチは立ち止まって、高い塀の隙間で深いため息をついた。
 一人になると、こうして考えすぎる癖が戻ってくる。佑、もしくはアリアナがいれば、こんな時に丁度いいタイミングで声をかけてくれるから考えすぎなくて済むのだが。 
 夜の帳が下りはじめる中、キイチは履き古したスニーカーで階段を駆け下りた。早く家に戻りたい、と思ったのは多分、初めてだ。



「おかえり、キイチ」
 冷え切ったドアノブをひねって中に入ると、もうすっかり体に馴染んだ声がキイチを出迎えた。「ああ」とキッチンに立つ同居人、佑に返事をしながらコートやマフラーを脱ぎ捨て、鞄を適当な場所に放り出す。家に帰ると電気がついていて、誰かがいる、そういう世間一般の当たり前に慣れてきたのもつい最近だった。
「また遠回り?」
「まあ、うん」
「本当に君はいつまで経っても用心深いねえ」
 余計なお世話、と言い返してソファーの端に腰を下ろす。その反動でソファーに置かれていた巨大なテディーベアが跳ねて、それはバランスを崩して頭から床に転がり落ちる。
「……これ、いらないって言ったんだけど」
「テディーベアのこと?」
 佑はナイフを動かしながら、こちらを見ずに言った。
「だってそんなに大きいのに、いらないなんて、勿体無いよ」
「大きさなんかどうだっていい、僕はこれを見たくない」
 二週間ほど前、バレンタインデーの早朝にいつものように唐突に現れたスネグラチカから、半ば押し付けられるようにして渡された巨大なテディーベアだ。キイチの身長と同じくらい大きく、はっきり言って邪魔この上ない。佑はキイチを一瞥して、
「じゃあ自分で捨てたらどうかな?」
 と穏やかながらもはっきりとした口調で言った。キイチは頭を抱える。それが出来ないから佑にそれとなく処分させようとしたのに、そういう甘えを佑は見逃さないし、最近はあからさまに突っぱねるようになってきた。恨みがましい視線を向けると、佑は微笑んでさらりと受け流す。
「お前、けっこう図太くなったよな」
「まあね」
 仕方なく、テディーベアを掴んで部屋の隅へと移動させる。ソファーに鎮座されているよりかはまだマシだろう。ついでに視線も気になるので、壁の方を向かせた。そこまでしてようやく一息つけると思ったのだが――――
 カサリ、と微かな音を立てて、テディーベアの首の縫い目から何かが床に落ちた。
 白い、二つに折りたたまれた紙だ。……どうせスネグラチカがロマンチックな妄想を抱いて、渡すときに仕込んでおいたのだろう。キイチはため息をついてそれを拾い上げた。捨てる前に、せめて目くらいは通してやろうと紙を開く。そこには、ゆっくり丁寧に書かれたであろう、女性的な文字でこう綴られていた。
『 FXP RD SFRJ GJKTWJ RFWHM GJLNSX. 』
 
「どうかしたの、キイチ」
 再び頭を抱えたキイチを見て心配そうに佑が尋ねる。キイチは何でもない、というように首を振った。
「まわりくどい問題を、まわりくどい女から出題された」




 家とは、それすなわち呪いであった。

 そこにいるというだけで、そこに生まれたというだけで価値が生じてしまう。自分がどれだけ拒否しても、人間は、生まれる家と親を選ぶことは出来ない。そして、自分は拒否できないくせに、他人からは執拗に執着されるものだ。特に、自分の家が恵まれていればいるほど。望んだ立場でなくとも、『そこに生まれた』ということだけが他人にとっては重要なのだ。
 もしあの親の元に生まれていたら。もし、あの家に生まれていたら。そんなの、生まれてしまった後ではどうすることもできない。
 そう思っていた。
 でも違ったのだ。
 家も、親も、血も、この忌まわしい遺伝子全てを一度に清算できる機構は、この世界に一つだけある。
 そう考えついた時から、もうそれだけを考えることしか出来なくなった。目覚めた瞬間、食事を口に運んでいる最中、友人との会話の一瞬の沈黙の時間、眠る前。 言葉の通り、四六時中それしか考えられない。生活の時間を縫い合わせるように、ただひたすらに思ったのだ。

 ああ、死んでしまえたら、どんなに楽だろう―――と。



 結論から言ってしまえば、スネグラチカにその手紙の意味を直接問いただせば済む話だった。あの意味不明な大文字の羅列は何なのか、と。いや、何を伝えようとしたのか、わざわざ暗号という手段を用いずとも、目の前ではっきり口に出してもらえばいい。
 だから、いつも通り満面の笑みで午前の研究室を訪ねてきたスネグラチカに、開口一番こう言った。
「あの暗号は何だ?」
 しん、とした沈黙が部屋に降りる。部屋には教授や佑を含め数人が作業をしていたが、キイチの声を耳にした誰もが好奇に口を閉じ、息を潜めて銀髪の少女の答えを待った。
 たった一人、窓際の大きな机の上で書類をまとめていたユージナス教授だけは、小さく咳払いをしてこう言ったが。
「ミス・スネグラチカ。君は鉱石科の所属と聞いているが、講義は受けなくていいのかね? それとも、我が全体基礎科にも籍を置くかい」
「いえ、わたくしは……。 ごめんなさいね、少しはしゃいでいたのかしら」
 スネグラチカは気まずそうに髪の先をいじった。普通、時計塔の科どうしは不可侵の関係だ。私兵を置いて研究室を守るロードもいるくらいだから、ここは相当緩い研究室といえる。だが全体基礎を履修し終えているはずの鉱石科の少女が、そう頻繁に顔を出して良い所ではない、と教授は言いたいのだろう。二月十四日以降、いっそう顔を見せる頻度の高くなったスネグラチカに対して、教授も何か思うところはあるようだった。
「皆様、失礼しました。わたくしは、これで」
 俯いて部屋を後にしようとしたスネグラチカに、キイチは焦って声をかける。
「おい、あの暗号は――――」
「貴方の誕生月は?」
 少女は微笑んで、そう答えた。その微笑みは、今までと違う。天真爛漫な少女の顔ではなく、どこか諦観を滲ませたような、疲れた表情だった。
「貴方の誕生月を、指折り数えて待っているわ」
 その言葉を残して、スネグラチカは扉を閉めた。パタン、という軽い音が静かな部屋に響く。後に残された魔術師達は、なんとなくがっかりしたような雰囲気と共に再び作業を始めた。
「キイチ。彼女に何か?」
 初めて見たスネグラチカの表情に唖然としていたキイチは、はっと教授の言葉で我に返る。
「ああ、いや―――」
「困ったことがあるなら相談に乗ろう。彼女の執拗さは、少し目に余る部分があるからね」
 キイチは少し逡巡したのちに、握っていた例のメモをユージナス教授に差し出した。教授は品のある仕草でそれを受け取ると、中の文字列を見て眉を上げる。
「ふむ」
「なんて書いてあるんですか?」
 佑も手を止めて覗き込む。丁寧につづられた『FXP RD SFRJ GJKTWJ RFWHM GJLNSX. 』の文字を見て、佑は首をかしげた。
「何ですか、これ」
「ごく簡単な、シーザー式暗号にすぎない」
 教授はメモをさっさとキイチに返した。そして淡々と元の作業に戻りながら、立ち尽くすキイチを一瞥し、言う。
「その暗号はそれほど難しくはない。彼女がさっき君に伝えたヒントも合わせれば、いとも簡単に解けるだろう。内容も、さして重要なことではない。
 本当に重要なことが何か、君には分かるか?」
 キイチは教授に問われ、目を泳がせた。……本当に重要なこと? こんな悪戯のような気まぐれに、何か意味があるというのだろうか。彼には理解できなかった。
 その様子を見た教授は、たいして興味も無さそうに言った。
「ミス・スネグラチカは、暗号を使わなければならない状況の中で、何かを伝えようとしているという事だ」

「して―――今日は、何日だったかな、佑」




 その日の深夜、佑が寝室に行って寝静まったのを確認してから、キイチは暗号のメモとペンを用意し、テーブルに向かった。この暗号の内容を知らなければならない、という強迫観念にも似た思いが胸に迫ってきている。
『暗号を使わなければならない状況の中で、何かを伝えようとしているという事だ』
 教授の午前中の言葉がやけに引っかかる。暗号を使わなけばならない状況、そんなのは一つに決まっている。
 監視、或いは盗聴されていることに他ならない。
 キイチは不安と無関心がせめぎ合う胸中をぐっと飲み込んで、ペンを取った。


 シーザー式暗号というのは、昔、本で読んだことがある。アルファベットを指定の数だけ後ろにずらすと、平文――元となった文章が読める、というものだ。例えば、apple という単語を一文字ずつずらして暗号化すると、bqqmf という単語になる。a を一文字ずらすと b 、p を一文字ずらすと q になるからだ。暗号を解きたかったら、その文章が何文字ずらされたのか分かれば簡単に解ける。そして教授は、『彼女がさっき君に与えたヒントも合わせれば』と言っていた。つまり、午前中の会話の中で、スネグラチカは間違いなくその数字を暗喩する言葉を言っていた。
『貴方の誕生月は?』
 ―――ならば七月。七文字ずらした、という事だろうか。ならばその逆を辿り、この文章のアルファベットをすべて七文字前の字に戻せばいい。
 キイチはペンで変換していった。だが、すぐに眉をひそめ、書き終わる頃には完全に見当違いだと悟った。
『 yqi kw lykd zcdmpd kypaf zdeglq 』
 これでは、まるで文章にならないじゃないか。念のため逆から読んでみたが、それでも全く意味のない字の羅列でしかない。
 キイチは天井を仰いで呆れた。時計は深夜一時過ぎを指し、日付をまたいだことを示している。僕はいったい、何をやっているんだ。全然簡単じゃないし、意味が分からない。意味が分からない物の為に貴重な睡眠時間を削って、何をしているんだろう。
 馬鹿馬鹿しくなって椅子から腰を上げようとしたその瞬間、唐突にスネグラチカの言葉が翻る。
『貴方の誕生月を、指折り数えて待っているわ』

 数える?
 キイチは上げかけた腰を下ろし、醜いケロイドの残る右の手のひらを顔の前に差し出し、親指を折り曲げた。
 暗号が書かれたのは二月十四日。三月から数えて、四、五、六、七―――
 指は五本折り曲げられた。キイチはそれを見て、半信半疑ながらも結んだ右手を開き、ペンをもう一度とる。
 最初の文字は F。五つ戻ると、A 。順番に、文字を五つ前のアルファベットに変換していく。今度は、書き進めるうちにキイチの手は速くなり、書き終わる頃にはそのメッセージの全貌を白いノートに自らの手で記していた。
 その文章を読んだ瞬間、キイチは顔を上げ、壁に掛かっているカレンダーを見る。今日は何月、何日だ。
 キイチはバツ印がすぐ隣まで迫った、二十八日という日付を見て一瞬安堵する。しかしすぐに思い出した。
 ―――日付はもう変わっている。今日は、三月一日だ。
 嫌な予感がキイチの頭をよぎった。
「いや、まさか。こんなもの―――」
 こんなものに、こんなメッセージに、スネグラチカは何を託したのか。キイチは少しの間やけに焦燥感に駆られたが、やがてすぐに思い直した。
 まあ、明日もどうせ、彼女は僕のところに来る。頼んでいなくても、何度離れても、何故かいつも追い駆けてくるのがスネグラチカという少女なのだから。
 キイチはテーブルの上の照明を消して、寝室に戻った。明日、暗号の内容について聞いてみればいい。
 何にせよ、もう夜は更けていく。



 




 だが、それから四日間、スネグラチカがキイチの前に姿を現すことは無かった。






 (後編へ続く)


 

Fate/defective Extra edition 2

Fate/defective Extra edition 2

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-16

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work