ラブ&ヘイト 見習い天使と見習い堕天使の物語(5)

第五章 天使へのステップⅡ

 駅前には、この都市自慢のタワーが建っている。いわゆるシンボルタワーだ。オフィスに、レストラン街、コーヒーショップ、グッズショップ、千五百人規模の大ホールや三百人規模の小ホール、同時通訳の設備が整った国際会議場など、人が集まれるハード面は整備されているが、人と人との触れ合いはない。みんな、他人をすり抜けて生きている。最高階は三十階。レストランの中に展望室がある。見習い天使の俺は、羽をはばたかせ舞い上がる。エレベーターや非常階段なんて使わない。地上百五十メートルの屋外から非常扉をこじあけ、中に入る。そこでは、この地を訪れた観光客か、仕事に疲れたサラリーマンが、街並みをぼんやりと見つめている。
 俺も、他の人間と同様に、高いところからさっきまでいた広場や道路、オフィス街を見下ろす。窓の位置を変える。北側には海が広がり、港では、対岸の島や他都市を結ぶ定期航路のフェリーなどが、頻繁に出這入りしている。その南側には、かつてお城があった公園がある。堀に海水を引き込んだ珍しいものだそうだ。先ほど、駅前の観光案内所の前で拾ったパンフレットに目を通す。
 ふーん。納得するような、しないような頷き。目をもう一度凝らす
「おっ、早速、カモじゃなく、目当ての人間がいたぞ」
 俺から見えたのは、堀で餌をやっている男性。距離が遠いため、はっきりとわからないが、初老の男性だろう。
「何に餌をやっているのかな。ここは海水だから、コイじゃなくて、海の魚だな。仕事よりも、そっちが気になる。今晩のおかずになるかな。早速、近づいてみよう」
 俺は、独りごとを言い終えると、再び空中に飛び出し、ホバリングしたまま、公園の餌やりおっさんの元に向かう。突風が吹く。右の羽が大きく開く。バランスが崩れる。海に近いことや、こうした高い建物のせいで、風が強くなるのだ。俺は、体を大きく傾むけたまま、公園に飛んで行った。
「回って、回って、目が回る。愛よりも、酔い止めが欲しい」
 俺は、風に流される竹トンボのようにふらつきながらも、何とか公園の池の付近に降り立った。目の前では、おっさんが一人、堀に向かって餌を投げ続けている。俺は、おっさんの横に並んだ。
「何の魚に、餌をやっているんですか?」
 疑問形で聞く。尋ねられた方は、振り向くことなく、ただ、ひたすら、餌をやり続けている。かなりの間があいて、返事がきた。
「鯛だよ、鯛」
「鯛ですか?」
「何だ、あんた、鯛も知らないのか?」
「いや、鯛なら知っていますけど、お城のお堀には、普通、鯉でしょう。ここの鯛は、鯉が進化したんですかねえ。きっと、池底の石臼を回し過ぎたんじゃないですか」
 俺は、少し、場の雰囲気を和ませようとジョークを交えながら、池の中を覗き込む。赤い魚が泳いでいる。確かに、鯛の形をしている。しかし、スーパーでは一匹まるごとの姿よりも、刺身となって、舟形のトレイに入れられているから、お祝い事でもない限り、全体像を見ることはまれだ。魚ってのは、最初から捌かれたままの刺身の状態で泳いでいるんじゃないかと、馬鹿げたことを考えてしまう。
「何を言っているんだい、鯉がいくら鯛に恋い焦がれても、鯉になんかんるもんか。へたに海水に飛び込めば、浸透圧の影響で、体中から水分が逃げ出し、痛い(い鯛)目に遭うだけだ」
「うまい、座布団一枚」
 俺は思わず叫んだ。人間の機嫌をとるのも大変だ。
「ありがとうよ。だけど、ここは、公園だ。座布団をもらっても、地面に座るわけにはいかないから、また、今度にしよう」
ジョークが通じるのか、通じないのかわからないおっさんだ。
「それじゃあ、どうして、鯛が堀で泳いでいるんですか?」
 知っていて、あえて聞く。聞いて、相手に喋らせる。これが会話を一分間続けるコツだ。人間関係を築く常とう手段だ。
「ここの堀は、海水なんだ。ほら、あそこに門があるだろう。あの門から海水がはいってくるわけだ。その先は、海につながっている。ここのお城は、誰が名付けたか知らないけれど、日本三大水城として有名なんだぞ。だけど、他の二大水城のことは、俺も知らないし、誰も知らないけれどな」
 自分の事のように胸を張るおっさん。
「ほら、見てみろ。堀の中の鯛を!餌を放り投げると、水面に浮かんだ餌めがけて、水の中から、空中に飛び出さんばかりに、口をつき出し、がつがつと喰いついてくる。生命感が溢れているよ。喰うことがこいつらの命なんだ。見ているだけで、こちらも元気になる。そう、思わないかい、あんた」
 おっさんの言葉に頷く。言う通りだ。餌がばら撒かれている辺りを、鯛が、何十匹も、行ったり来たり泳ぎ回っている。物音しない静かな掘だが、おっさんの餌やり場だけが、賑わっている。商店街で言えば、行列のできる繁盛店と、シャッターを下ろした店ぐらいの違いだ。鯛が、食べると言うことに、これだけ、一生懸命になっているのか。生き物にとっては、まず、食うことが何よりも先決なのだろう。この鯛の仲間も、おっさんの仲間の人間に食われているわけだ。食べている側がやがて食べられる側となり、ガツガツという音が、肉体を通して、伝達されていくわけだ。だけど、人間の笑顔という、実体のないかすみのような物を食っている天使の俺には、あまりピンとこない。
「ほら、すごいだろう。こいつら」
 おっさんは、手に持っている食パンをちぎって、池の中に放り投げた。水面にパンが落ち、波紋が広がる。その中心部に、鯛たちの、口、口、口。ろ、ろ、ろじゃないぞ。口、口、口だ。その勢いに驚く俺の口が、ろ、ろ、ろだ。
「なんだか、こいつらを見ていると、生きていることが素晴らしいと思えてくるよ。わしなんか、今、六十五歳。定年退職の後、同じ会社で、何年間か働いた。だが、ただ、惰性で仕事を続けただけだ。かつての部下が上司となり、その指示に従わなければならないからな。退職しても、変なプライドだけは退職できなかったわけだ。だけど、今は、こうして、この公園のボランティアガイドとして、やりがいを持って、県外や市外のお客さんを案内している。そして、こいつらに餌をやり生きる糧を与えてやっているとともに、こいつらからは生きる元気をもらっている。持ちつ、持たれつとは、こういうことだな」
 おっさんの口から、しんみりとした言葉が出た。
「それで、あんたは、一体誰だい?」
 ようやく、俺の顔を見る。口がぽかんと開いている。今、食パンを渡せば、そのまま食ってしまいそうな口だ。物真似ならぬ、口真似。鯛の元気さが、おっさんの口に以心伝心している。飼い鯛に飼い主が似たわけだ。
「見かけない顔だな。ボランティアガイドの新入りかい?それとも、刑事か探偵か。ひょっとしたら、殺人犯か?」
 おっさんの顔がひきつる。
「まさか、テレビの見過ぎですよ。心配しないで、そんなんじゃないですよ」
「じゃあ、なんなんだ」
「俺は、天使の見習いですよ」
「天使?」
「「そう、正式には、まだ、天使じゃなくて、天使の見習いですけど」
「それじゃあ、俺の仲間だ」
「俺の仲間?」
「そう、仲間だ。俺は、今は年金暮らしだ。収入はわずか。わずかな金で生活している。遊ぶ金もないから、毎日、ここにやってきている。人呼んで、「貧乏天使」と言われている」
 それも言うなら、貧乏神だろう。勝手に、神様と天使を一緒にしないでくれ。それでも、ここで相手を怒らしたら、次のステップに進めなくなる。我慢、我慢。人間も、天使も、神様も、この世に生きとし生けるものは、全て我慢が大切だ。
「その神様が、ここで何をしているんですか?」
「お前も、天使のくせして、馬鹿な質問をするな。神様っちゅうものは、何もしないから神様なんだ。神様が、あくせくして、一分一秒を争うような仕事をしてみろ。それこそ、堕落してしまう。わしは、嫌だね。折角、手に入れた自由を手放したくない」
 再び胸を張るおっさん。
 誰が神様だ。何が自由だ。お前なんか、鯛に喰われて死んでしまえと思いながらも、先ほどの、「がまん」の三文字が瞳に浮かび上がる。上から読んだら、がまん、下から読んだら、んまが、なんだか、マンガの親戚みたいだ。
 そうか、わかったぞ。天使にしろ、人間しろ、我慢すること自体が、無意味で、お笑いであるマンガの世界なのだ。もちろん、マンガだって、様々な分野がある。一般的に言えば、現実から逃避した世界のことのように思えるが、実際はそうじゃない。少し、大げさに表現しているものの、現実に根ざしている。現実に依拠している。この俺様だって、天使の見習いなんて、まさしく、マンガ以外の何物でもない。
「それで、その天使の見習い、つまり、わしの遠い親戚が、一体全体、何の用だ、おっ、わかったぞ、そうか、そう言うことだったのか。それならそうと、早く言ってくれればよかったのに」
 自称貧乏天使は、一人で、悦に入って、喜んでいる。俺には、全く、思い当たる節がない。こう言うときは、相手をそっとしておくか、なんでもいいから、うなずきマンになるしかない。一秒間に、何回、顎を首の下、喉仏の下につけるかを競争しなくちゃいけない。おっと、イエローカードがでたぞ。神様の分際で、仏様の名前を出すなんて、許されないだって。そう言う、閉鎖的な考えだからこそ、信者が増えなくて、団体の財政が困窮してくるわけだ。人類は皆兄弟ならば、人類が生み出した、神様、仏様だって、親戚みたいなものだ。仲良くやろうぜ、人生なんて。
 話がかなり脱線したけれど、とにかく、俺は、この貧乏天使を助けてやらなければならない。天使の見習いを卒業して、天使になるための第二関門なのだから。俺は、満面に笑みを浮かべながら、貧乏天使にやさしく語りかける。
「何か、困っていることがあれば、いつでもおっしゃってください」
 俺は、ラブ・ノートの対象者を間違えたと思いながらも、つい、おせいじをかます。これが、天使の見習いたるゆえんだ。困っている人(?)を見つけると、つい助けたくなる。もちろん、天使になるための、第二ステップのためだが。それでも、このおっさんと話をしていると、遠い道のりか、迷路を歩いているのか、道草を食い過ぎて動けなくなるのか、そのうちのどれかになるように思える。どれにしたってろくなものじゃない。折角の、背中の翼が、何の役にも立たない。
「そうじゃなあ?」
 おっさんは、頬に手をやり、考えだした。困っていることを考える人。そんなの、彫刻や絵画などのモデルにはならないだろう?
 その時、団体の客がやってきた。添乗員が一人。お客さんは四十人ばかり。よくある観光バスツアーの一行だ。
「すいません、ガイドの方はいらっしゃいませんか?」
 添乗員が俺たちに話かけてきた。
「わしが、ボランティアガイドだ」
「以前、電話でお願いしたように、この公園の案内をお願いしたいのですが」
 ガイドのおっさんは固まっている。思考停止状態。鯛の餌でもやれば、口からでも動き出すか。
「そんなの聞いていないぞ」
 怒った口調で言い放つ。
「そうですか、確か、吉田さんという方にお願いしたのですが・・・」
「吉田?吉田なら、今日は、まだ、来てないよ」
「本当ですか?吉田さんから、今日のガイドについて、お話を聞いていませんか?」
「聞いていない」
 そっけない返事だ。俺は、少し気になった。
「それじゃあ、代わりにと言うことではありませんが、ガイドをお願いできませんか?」
「今、急に、そんなこと言われても困る。わしにだって、他に仕事があるんだ。吉田に頼んだのならば、吉田に連絡すればいいじゃないか」
 おっさんの言う仕事とは、何の仕事か?鯛の餌やりか。それとも、俺との知的な会話か?
「それは、そうですね」
 添乗員は、これ以上、おっさんと話をしても埒があかないと思ったのか、ポケットから携帯電話を取り出すと、俺たちに背を向けてしゃべり始めた。
「もしもーし。もしもーし。吉田さん、吉田さん!」
 添乗員が困っているにも関わらず、冷たい態度のおっさん。さっき、ガイドはやりがいがあると言っていたのに、この急変した態度はどうしたんだ。絶対に何かあるぞ。いくら感の鈍い、天使にまだ遠い、見習いの身の俺でも、そんなことぐらいはわかる。くんくん、くんくん、匂うぞ、臭うぞ。憎しみの感情が、俺の目にも見えるし、耳にも聞こえる。舌にも苦みとして感じるし、皮膚の体毛が逆立っている。俺の五感全てに迫って来ている。今こそ、ラブ・ノートの出番だ。
「もしもーし。もしもーし、吉田さん聞こえますか?」
 添乗員の声が、池に波紋を呼び起こすぐらい大きくなっている。それを上回る観光客の「ここの案内はどうなっているんだ。早くしろ、時間がないぞ」の騒がしい声。
「もしもーし。もしもーし。いえ、すいません。もうしばらくお待ちください」と、客に謝りながらも、耳には携帯電話を離さない添乗員。
「吉田さん、吉田さん、聞こえますか?」
「はいはい、聞こえますよ」
「よかった、ようやくつながった。それよりも、約束の案内の件はどうなっているんですか?あなたはいないし、別のガイドの人は、つっけんどんだし、お客さんは怒りだすし、早く、なんとかしてくださいよ」
「はい、はい、わかりました」
「わかりましたじゃないですよ。吉田さん、あなたは今、どこにいるのですか?」
「どこにって、あなたの後ろにいますよ」
 慌てて振り向く添乗員。後ろにはにこにこ笑っている男が立っていた。
「吉田さん、そこにいるのだったら、声を掛けてくれたらよさそうなものじゃないですか。笑っている場合じゃないですよ。早く、ガイドをお願いします。予定よりも、五分も遅れてしまいましたよ。お客さんは怒りだしたし、ホントに、お願いしますよ」
「金返せ、金返せ」
 バスツアーの一団が、声を合わせて、合唱しはじめた。添乗員は、合掌して、吉田さんに頭を垂れる。その様子を見ていたおっさんは、鼻先で、ふふふふふんと笑う。振り返った吉田さんの顔には、幸せの印はなく、鬼の形相だ。
 まさしく、この二人こそ、ラブ・ノートのお客さんだ。俺が二人をラブ・ノートまで案内してやる。俺は踵を返した、吉田さんは、
「いやーすいません。大変お待たせしました。私は、こう見えても、実は堀の鯛でして、服を着替えるのに少し時間がかかってしまいました。皆さん、どうも、ごめんたい」
 どっと笑う観光客。唾を吐くおっさん。冷たい視線を飛ばす吉田さん。二人の間には、見えないパンチが、フック、ボディ、顔面、フック、ボディ、顔面と飛び交っている。俺のラブ・ノートには、その影が映し出されている。
ツアーの一個師団をつれて、吉田さんは公園の案内に行ってしまった。添乗員は、冷汗をかきながら、最後尾に付く。後に残ったのは、自称ガイドのおっさんと、見習天使の俺の二人だけ。おっさんは、何事もなかったかのように、堀の鯛にエサをやっている。俺は話掛けた。
「吉田さんとは、何かあるんですか?」
 おっさんは、俺の声を聞いたか聞かないか、知らない素振りで、反応がない。これは間違いない。無視と言う名のリアクション。俺の獲物だ。
「すいません。御主人さんは、佐藤さんですよね」
 俺は、はったりの名前をあげた。日本人の多い名字を十ぐらい上げれば、どれか当たるだろうと思ったからだ。まずは、ナンバーワンから繰り出してみた、
 おっさんは、「さとう」には何の関心も示さず、相変わらず、鯛にえさやりを続けている。時には、腹が減ったのか、腹が立ったのか、餌を口の中に放り込んでは、吹き出している。おっさんの唾液でやや固まったパンは、池の中に落ち、鯛がほおばる。おっさんと鯛の間接キッス。俺との間には、風が吹きすさぶ。それなら、次の作戦はこうだ。
「鈴木さん、高橋さん、田中さん、渡辺さん、伊藤さん、山本さん、中村さん、小林さん、加藤さん」
 どうだ、これだけ続ければ、どれか当たるも八卦、当たらなくても九人分の姓を言ったぞ。俺の声に驚いてか、公園に来ていた入場者が振り向いた。そして、はい、はい、はい、はい、はいと十人以上が返事をしてくれた。さすが、日本人ベストテンの姓だ。先ほど、駅前観光案内所のインターネットで、「日本人のうち、人数の多い姓ベストテン」を調べていてよかった。どこまで信用できるかが不安だったが、これで実証できたぞ。何でも、受け売りの知識ではなく、実際に使ってみることが大事だ。うーん。俺にしては、いいことを思いついたぞ。今後、俺に仕える見習い天使ができたら、訓示を垂れてやる。そのためにも、メモっとかないと。ラブ・ノートの端にでも書いておこう。
 だが、肝心の餌やりおっさんは、振り向いてくれない。確か十一番目は、吉田だから、違うはずだ。それなら、十二番目の、「山田さん」と耳のそばまで近づいて、大声を発した。これなら、姓が間違っていても、いやでも返事をするだろう。
「はい、はい。やかましいわ」
 一体、どっちだ。正解か、はずれか?
「山田さんですね」
「そうだよ」
 とりあえず、安堵。人と話すにしても、何らかの取っ掛かりが必要だ。さっきは、池の鯛で話をつないだ。今、この不機嫌なおっさんには同じ手は通用しない。今度は、山田という言葉で、おっさんの心の扉を開かなければならない。開け、山田。
「それで、山田さん、どうして、吉田さんと仲が悪いんですか?」
 俺は、いきなり、問題の核心をついた。さあ、相手はどうでるか?
「・・・、別に」
「そうですか、それなら、いいんですけど」
と、一旦、素知らぬ振りをして、もう一度、尋ねる。
「でも、仲よくはないみたいですね」
「・・・、生意気なんだよ、あいつ」
 とうとう出た。おっさんの本音が。
「ここのボランティアには、俺より後から入ってきたくせに、全部仕切りやがる」
「はい」
「それだけじゃない。一番気に食わないのは、俺よりも、姓の数が多いということだ」
「はあ?」
「はあじゃないだろう。あんたも、さっき、日本で多い数の姓を順番に連呼しただろう。十番目までの姓は許せるが、吉田は十一番目で、山田は十二番目。俺よりも一番先というのが気に食わない。だから、吉田ってやろうは、山田の敵なんだ」
 なんだ、おっさんは、俺が多い姓の順番で呼び掛けていたのを知っていたのか。
「そこをなんとかなりませんかねえ」
 俺は、ラブ・ノートの標的をこの二人に最終決定した。本当のところは、再び、他の人を探すのが面倒くさいだけなんだが。
「ならぬものはならぬ。なるものもならぬ」
 おっさんは、そう言うと、引き続き、掘りの鯛に餌を投げ始めた。こんなときだけ、強情になるんだから。ホント、人間ってのは困る。特に、この年代のおっさんは扱いにくくていけない。おっと、それなら、この扱いにくい性格を利用してやろう。
「それじゃあ、少しでも、山田さんの気持ちを和らげるために、このノートに、吉田さんの名前を書いてみましょうか?」
「なんでなんだよ。吉田の、よ、も思い浮かべたくないのに、なんで、吉田の名前を書かないといけないんだよ。ふん、俺の今の気持は、五十音でいえば、四十六音しかないんだよ。吉田義夫。何が、義理人情に、偉丈夫の夫だ。俺の辞書から、やゆよの「よ」と、さしすせその「し」と、たちつてとの「だ」と、あいうえおの「お」の文字が消えているね。できれば、この言葉を使わずに、一生暮らしたいものだ」
 ここまで徹底的に嫌うとはたいしたものだ。いや、いや、感心している場合じゃない。相手の名前がわかったぞ。次に、この吉田嫌いの山田の名前だ。ラブ・ノートの二ページ目の相合傘の下に、二人の名前を書き込めば、二人は仲好く、手をつなぎ、親友となる、予定だ。それは、さっきのフリーペーパーを配るバイトの女の子で証明済みだ。
「それじゃあ、山田さん。山田さんのフルネームを教えてもらいませんか?」
「なんだ、なんだ。なんで、俺のフルネームを、見知らぬお前になんか教えないといけないんだ。俺の名前は、個人情報だ。知らない奴に教えるわけにはいかない」
「でも、吉田さんの名前は、教えてくれたじゃないですか」
「他人の名前は、個人情報じゃない。単なる記号だ。言葉が不規則。不器用にならんでいるだけだ」
 それは屁理屈だと思いながらも、少し頷く。
「でも、山田さんとは、こうして何十分間も話しているじゃないですか。もう、見知らぬ仲じゃないですよ」
「それもそうだな。それじゃあ、記念に教えてやろう。聞いたら、幸せになるかもしれんな」
 何が記念か、何が幸せかわからないが、うまくいきそうだ。こういう人間は、高い、高いお山に登らせるに限る。あおげ、あおげ。登れ、登れ。初登頂記念だ。
「ありがとうございます。是非、拝聴つかまりたいです」
 頭を垂れ、地面に向かって満面の笑み。そして、舌を出す。あっかんべーだ。向かいの相手には見えない。
「俺の名は、山田義夫だ」
「はあ?」
 俺は、もう一度聞き直した。
「すいません。もう一度、お願いできませんか?」
「山田義夫だ。何回も、自分の名前を言わせるな。名前なんてものは、自分が言うんじゃなくて、人から呼ばれるものなんだ。それぐらい奥ゆかしさがあったほうがいいんだ。選挙カーみたいに、何をするかなんて公約を示さずに、ただ、ただ、立候補者の名前しか声高に叫ばないなんて、みっともなくていけない。おらっちは、そんな生き方は望まない」
 なんだ、急に、おらっちと言い出して。そうか。姓が違っていても、名前が同じだから、よけいに反発を感じるんのか。でも、さっき、よ、し、お という言葉は、おっさんの辞書にはないと言っていたぞ。それは、自分で、自分を否定しているのかな。それとも、自分の辞書にはないから、人から呼ばれることを待っているのかな。どちらにせよ。名前は教えてもらった。後は、ラブ・ノートに、二人の名前を書き記すだけだ。
「や、ま、だ、よ、し、お さんですね、よしおは漢字で書くとどうなりますか?」
「義理人情に厚い、義と、困っている弱者を助ける偉丈夫の夫だ」
 さっきの吉田義夫とえらい違いだ。もう一度、おっさんの名前を呼ぶ。
「山田義夫さん!」
「はい」
 山田さんは、大きな声で返事をした。
「不思議なもんだな。小学校や中学校の時、名前を呼ばれたら、大きな声で返事をしなさいと先生から指導を受けて以来、頭にしみついているのか、口が、喉が、勝手に反応して、この年齢になっても、つい、大きな声をあげてしまう。あはははは」
 山田さんは、頭を掻きながら照れて笑った。本当は、いい人なんだ。俺は、ラブ・ノートの二ページ目を開いた。一ページ目には、先ほどの、田中洋子と山本純子の名前がある。その隣のページに、会い合い傘の絵を描く。その絵の中に、二人の名前を書く。「山田 義夫」と「吉田 義夫」だ。そう言えば、二人とも、漢字で書くと、山と吉の一字違いだ。この一字違いだけど、二人の間には、越すに越されぬ大きな山がある。一人、変に感じ入ってしまった。そんなことより、さっさと、名前を書かないと。
 俺は、会い合い傘の右側に「山田 義夫」、左側に「吉田 義夫」の名前を書いた。果たして、その効果は?
 俺がおっさんとノートを交互に見る。おっさんは、相変わらず鯛に餌やり。化学反応はまだおこっていない。そこに、さっきの観光客を引き連れた吉田さんが、ひとりで帰ってきた。案内が終了したのだ。
「あーあ、疲れた」
 言葉とは裏腹に、吉田さんの顔は満ち足りた喜びでいっぱいだ。吉田さんの声を聞いて、おっさんが立ち上がった。そして、山田さんに近づいた。二人の間に緊張が走る、と俺には思われた。だが、おっさんから発せられた言葉は、
「お疲れ、吉田さん。しゃべりすぎて、喉が渇いたんじゃない。さあ、お茶でもどうぞ」
 おっさんは、いつからか隠し持っていたお茶の缶を懐から出す。冷めないようにお腹で温めていたわけだ。さすが、元サラリーマン。気がきく。
「あ、ありがとう、山田さん」
 戸惑いながらも、礼を言う吉田さん。やった、ラブ・ノートの効果だ。なんか、今回も、うまくいきそうだ。さすが、大天使様だ。俺は、二人の様子をじっと観察する。
「そうそう、さっきのグループの人に、お菓子をもらったので、山田さんも、一緒にどうですか。休憩タイムにしましょう」
 吉田さんは、上着のポケットから袋を取り出すと、おっさんに差し出す。
「そうですね。次のガイドは、まだですから、そうしますか」
 しらじらしいのか、うまくいっているのか、俺にはよくはわからないが、二人がコミュニケーションをとっているのは事実だ。
「この方は?」
 吉田さんがおっさんに尋ねる。
「入園者の方で、私が掘りの鯛や公園の歴史について、話をしていたんですよ」
「そうですか。あなたはよかったですね。山田さんは、ここのボランティアガイドの大ベテランですよ。私も、いろんなことを教えてもらっています。まさに、私の師匠、ボランティアの鏡ですよ。そんな人に説明してもらうなんて、光栄ですね」
これほどいけしゃあしゃあと相手を誉めると、他人の俺でも、背中がむず痒くなってくる。これに対し、おっさんは、
「いあや、年を重ねてきただけですよ。それに比べて、吉田さんは、まだ、ガイドになって日がたっていないにも関らず、よく勉強されていますよ。それこそ、私の方が教えてもらいたいくらいですよ」
 ついさっきまでの、言動と百八十度異なる。これが本心なのか、それともラブ・ノートの力による、うわべだけのお世辞なのか。真意を測りかねるものの、人間同士が笑顔を絶やさず、話しかけている様子をみるのは、気持ちがいい。やはり、俺は天使なんだ。いやいや、そんなことに構っているわけにはいかない。俺には、大天使になるという、野望があるのだ。こんなところでとどまっているわけにはいかない。だけど、人間の笑顔が俺たち天使の栄養源だ、うーん、一体、どちらを選ぶべきか。
 俺が俺の頭の中で、ああでもない、こうでもないと悩んでいる間にも、おっさんと吉田さんは、すっかり意気投合したのか、肩を組んで歩き出した。
「こんど、一杯、飲みに行きませんか」
「そりゃ、いいですね。是非、つきあいますよ」
 ただ一人残された俺。東の空を見る。「L」文字は、くっきりと浮かんでいる。尾の横に、今、生まれたばかりの雲、「O」の文字が浮かんでいた。ミッションは成功だ。だけど、簡単すぎるくらいに二人が仲良くなったぞ、と訝りながらも、残りの二文字を目指す。おっさんと吉田さんが、喧嘩をしないうちに、「L」や「O」の文字が消えないうちに、俺は次のターゲットを探すことにした。

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見習い天使と見習い堕天使が、天使と堕天使になるための修行の物語。第五章 天使へのステップⅡ

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-11

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