名医の手

名医の手

黒猫幻想小説です。PDF縦書きでお読みください。

 手首接合の名医といわれた澁澤龍一郎は引退して真鶴の自宅で悠々自適の生活を楽しんでいた。海の見渡せる高台の家には、子どもたちが孫を連れてくることはあるが、あとは、エッセイなどを頼みに来る編集者がほんのたまに来るだけである。かなりの執筆依頼があるのだが、ほとんどはメイルで依頼してきて、メイルで原稿を送る作業で終わってしまう。
 彼の腰掛けている古い長椅子の手かけに、真っ黒な大きな猫がお行儀良く座っている。椅子の下には二匹の真っ黒な子猫と一匹の真っ白い子猫がたわむれている。子猫たちを見ている彼の目は、まだ駆け出しの医者であったあのときを思い出していた。

 その日の朝、いくつかの手術が入っており、外来患者もいつもより多いと聞いていた。私は少し早めに家を出て勤務先に向かった。家には仕事のものはほとんど置いていない。弁当を作ってくれる人間もおらず、きままな一人暮らしだから、こうやって、手ぶらで仕事場に向かうことができる。
 勤めは家の近くのバス停から十分ほどのところにある市営の病院である。
 大学病院での研修期間が終わって、市立病院の外科医として今年の春に就任したばかりで、まだ一月経たない。
 時間通りにバスが止まった。中には七、八人の乗客しかいなかった。私は運転席の近くの席に腰掛けた。
 バスはいつものように、ゆっくりと進んでいく。今日の手術の予定をなぞる。足の静脈瘤の除去が最初だ。この手術は比較的簡単で、外科医の初心者でもそんなに失敗はしない。今日の三人目の老人の股関節の手術は注意が必要である。麻酔医の責任がかなり重くなるが、それにも増して外科医の技術は回復の良し悪しに大きく響いてくる。
 バスが急ブレーキを駆けて止まった。前につんのめりになる。窓の外を見ると若そうな黒猫が歩道の脇まで飛ばされていた。
 急に横切ったのだろう。運転手は、やっちまった、と小声でつぶやくと、マイクのスイッチを入れ乗客に状況を説明して謝っている。
 しかし、死んだように見えた黒猫は生きていた。いきなり起き上がり、血を滴らせながら、片手をぶらんとさせて家と家の間の路地に逃げて行った。
 バスの運転手は安堵の様子を浮かべると、マイクで再び乗客に謝り、エンジンをかけた。
 黒猫の倒れていたところには黒いものがころがっていた。バスは再び動き出し、それが何であるか確かめることはできなかった。

 その日の手術はわれながらうまく行った。老人の股関節の痛みは無くなるだろうし、杖も要らなくなるだろう。九十歳を越しての足の手術はその後の生活にかかってくる。あの老人は本人だけではなく、家族まで幸せになる。そう思うと嬉しくなる。私は外科医としてまだ駆け出しである。
 「今日は嬉しそうですね、先生」
 帰る前に、医局の自分の机の前で一休みしていると、婦長の帽子をかぶったふくよかな看護師さんが入ってきて声をかけてきた。気分が良いことは確かだが、そんなに嬉しそうな顔をしていたのだろうか。それよりこの婦長さん誰だったか、着任したてのためもあるが名前を思い出せない。
 「仕事の明けた子たちが、これからお食事するのですって、一緒にどうです先生」
 「何かのお祝いですか」
 「いいえ、特にないのよ、みんな都合がいいとき、たまに一緒に食事して帰るの」
 外科のナースは総勢何人になるか、交代制でもあるし、パートの者もいるので正確な数は把握していない。
 「たまたま先生をお見かけしたから声をかけましたの、大げさなことじゃありませんの」
 「それじゃ、一緒させてもらいましょうか」
 家に帰っても食事があるわけではなし、いつもどこかによっていくので、ありがたい申し出でもあった。
 「裏の出口で待ってます」そう言い終えると婦長は医局を出て行った。
 着替えをすませ、守衛に挨拶をして、職員用の出入り口から外に出た。その前には職員用の駐車場が広がっている。すでに、婦長と三人の看護師が駐車場のほうを向いて話をしていた。
 「お待たせしました」
 声をかけるとみなが振り返った。三人とも見たことのあるような顔だが、名前がはっきりしない。
 「先生、食べるのは何が好きですか」
 「嫌いなものはありませんから、どこでも」
 「それじゃ、いつものお店に行きましょう」
  婦長さんがそう言うと皆は歩き出した。
 歩きながら婦長さんが皆を紹介してくれた。三島さんと塚本さん。二人は五年いるのよ。種村さんは十年選手、私はもっと古いの、婦長さんは大柄なからだを揺らして笑った。皆にこやかで感じがいい。
 駐車場に面した道を街中のほうに向かい、十分ほど歩いていくと私鉄の駅の近くの繁華街に出る。私もよくこのあたりの適当な店で食事をとる。
 彼女たちは私の入ったことのない小さな路地に曲がると、こざっぱりした洋食屋の戸を押した。入口に掲げてあるメニュウからすると洋風家庭料理店のようである。
 店内はそんなに広くはなく、木の柱の間に大小いくつかのテーブルがあった。素朴な木のテーブルには白いランチョンマットが敷かれ、ナイフとホークがセットされている。飾り気はないが料理に期待ができる雰囲気の店だ。少し時間が早かったので客は一組の男女しかいない。
 我々は少し大きめのテーブルについた。
 オーナーらしき中年の女性が厨房からでてきた。
 「いらっしゃいませ、あら、中井さん」
 オーナーは婦長の顔を認めると笑顔になった。そのとき、はじめて婦長は中井という名であることがわかった。
 「こんにちは、いつものをお願い、五人よ」
 婦長はオーナーに五本指を広げた。
 「秋田の高校の同級生なの。東京のこの市に勤めることになって、このレストランにふと立ち寄って、偶然再会したんです、オーナーの塔さん」
 中井婦長はそう説明して、私を紹介してくれた。
 「澁澤先生、外科よ」
 「よろしくお願いします。塔です」
 オーナーの女性は私に向かってお辞儀をした。背の高い端正な女性だ。
 私もよろしくと頭を下げた。
 「お飲み物は何になさいます」
 オーナーに言われ、婦長は即座にビールといった。皆も私もうなずいた。
 「それではすぐお持ちします」オーナーは厨房にもどって行った。
 フランス系の西洋手料理をだす店だった。店の名前を見落とした。ナプキンに名前は入っていない。たしか、入口のメニュウには白い猫の絵が描いてあった。名前を婦長に聞こうとしたところにビールが運ばれ乾杯をとなった。
 冷たいビールが気持ちよく咽を潤した。
 彼女たちは病院の話をはじめた。看護師の三人は先輩の外科の先生方の手術のことを口々に下手だ下手だと言って、失敗した例を引き合いに出した。私がいるのにこんな話をして良いのだろうかと思い、ビールを口にした。
 婦長さんが「澁澤先生はお上手よ」、と他の看護師に言うと、
 「そうよ、今日の九十歳の患者さんあっという間に手術しちゃったもの」
 種村さんがうなずいた。確かに大変な手術ではあるがこれしきの手術でほめられているのは、やはり若造ということだろう。
 そこに、網笠茸のスープと少し固めのフランスパンがでてきた。フランスのルアンでの学会に出席しとき、乾燥した網笠茸をマーケットでみつけて料理好きな友人に、土産として買ってきたことがある。おいしい茸でフランス人にはとても人気がある。
 網笠茸のスープはなかなかいい味にしあがっていた。
 「おいしいですね」
 「そうなの、塔さんは高校のころから料理が得意だったの」
 サラダは地元でとれたと思しきレタスやらトマトやらを配したオーソドックスのものであったが、ソースはこの店独特のものである。不思議な香りがした。ウイキョウが少し混じっている。
 「先生は料理をしますか」
 「私はしませんね、友人に好きなのがいますけど。そいつは大学の精神科に勤めています」
 メインディッシュは子牛のシチュウだった。柔らかく煮込むのは当然として、シチュウの味ととろみは表現ができないほど個性があり美味い。それにも網笠茸が添えてあった。
 「おいしい」
 シチュウに集中していると、ぞくっと背筋が寒くなった。
 誰かに見られている。視線に気がつき顔を上げた。
 四人の看護師が食べる手を止めて私を見つめている。あれ、四人とも同じような顔つきだ。
 私が神妙な顔をしていたのであろう、婦長が笑顔になって、「おいしいでしょう、このシチュウ、ここの最も得意の料理なんですよ」と言った。みんなもシチュウを口に運び、再び楽しそうに話を始めた。
 私はなんとなく恥ずかしくなり、ハンカチをだそうとジャケットの左ポケットに手を入れた。その時である、
 なんだ?
 ポケットに入れた私の左手が誰かの手でつかまれた。
 ポケットの中でなにやら蠢き、私の指に絡み付いている。そんな馬鹿なといわれるだろうが、外科をやっていなくても絡んでいるのがヒトの手とわかる。右どなりにいる婦長に気がつかれないように、テーブルの下でジャケットから手を出した。見ると、私の左手に手首から先の手が、指をからませしがみついている。
 あわてて、もう一度左手をポケットいれた。左手で絡み付いている指をなんとか振りほどき、ジャケットから手をだした。ポケットがもそっと動いた。
 何なんだ。冷や汗が出てきた。
 「どうかなさいました」婦長が怪訝な顔で私を見た。
 「お疲れですか」
 「いや、シチュウがおいしくて」
 私はナプキンの端で汗をぬぐい、残っていたビールを飲み干した。
 「そうでしょう、最後はおいしいシャーベットとコーヒーなの。その前にビールをもう一つ飲まれますか」
 婦長が聞いた。
 「いや、結構です」、本心は飲みたかったがそう答えていた。
 看護師たちはシチュウを食べ終わって水を口にしていた。
 そこにシャーベットが運ばれてきた。洋ナシのシャーベットはこくのあるシチュウのあとにはさっぱりする気の利いたデザートである。
 コーヒーはブレンドであったが、これもおいしかった。
 ここの料理は気取らず、比較的さっぱりとしており、そのものの味を生かしたおいしいものであった。しかし、私はポケットの中が気になっていた。
 「おいしかったですね」
 私の声は上っ調子になった。
 婦長が微笑んだ。
 「本当はね、今日は先生の歓迎会だったの。いらして一月になりますわね。手術もお上手ですし、頼もしい先生として今日はお招きいたしましたの」
 他の看護師も笑顔で私を見ている。
 「それは、お世辞でも本当にありがとうございます」
 なんだか気恥ずかしくなってきた。
 「みんな本当にそう思ってるのですよ」
 三人が口を揃えた。ますます恥ずかしくなる。
 「先生、そろそろでましょうか」
 婦長さんの声で皆立ち上がった。ここは、私が払わなければと思い、あわてて立ち上ってレジに行くと、塔さんが「御代はいただいています。またいらしてください、ありがとうございました」とお辞儀をした。いつ払ったのだろう。
 「いいんです今日は」
 婦長は私を出口に促した。
 「ごちそうさまです、申し訳ありません」
 私はあらためてお辞儀をした。
 「いえいえ、こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
 四人から深深とお辞儀を返されてしまった。
 レストランの外に出るとき、真っ白い猫が厨房に入っていくのがチラッと見えた。
 ポケットの中ではまだごそごごそと手が動いている。
 私たちは駅まで歩いた。彼女たちは電車だそうである。私は彼女たちを駅の階段まで見送って、あわててタクシー乗り場に行った。

 家に帰ると、キッチンに行き、ジャケットの左ポケットを広げて中を覗いてみた。女性の手首が隅で丸まっている。
 恐る恐る右手を左ポケットに入れ女性の手首をつかもうとした。そのとたん、女性の手首は私の右手に飛びつき、指を絡ませてきた。
 ポケットから右手を出し、左手でからんだ指を解こうと試みたが女性の指は力強く私の手に絡み、とてもとれる状態ではなかった。
 手を目の前にもってきた。私の右手から女性の手がぶらさがっている。振ってみても落ちない。
 明らかに女性の左手首から先で、指が五本きちんとついている。爪には無色のマニュキアが施され、手入れの良い色の白いきれいな若い女性の手である。私の短い指に比べるとはるかに長く形が良い。暖かく手首の血管は脈打って生きている。
 手首の切り口を見た。
 いつでも繋げてほしいといわんばかりに動脈と静脈が飛び出し、骨もむき出しになっている。血はついていない。
 ともかく、女性の手首を私の手から解かなければいけない。引っ張ってもだめであり、机の上に押し付けてみた。
 ギャーともグギャーともいえない女性の大きな悲鳴がおきた。それどころか、女性の人差し指と親指の爪が自分の右手に食い込んだ。
 こんな女性の叫びを誰かに聞かれたれどうしたらいいのだろう。自分の手も痛んでしまっては手術もできない。
 大変なことになった。
 水道水に手をさらしてみた。
 また、ギャーと大きな声が起きて、女性の手首は爪を出して自分の右手にさらに強くしがみついた。
 どうしようもない。
 流しの上にあった布巾で女性の手をぬぐうと、椅子にかけておいたジャケットの右のポケットに手を突っ込んだ。すると、女性の手はするすると私の手から離れ、ポケットの隅にうずくまった。
 ほっとした。
 
 その夜はなかなか寝付けなかった。
 朦朧としたまま目覚ましが鳴った。朝六時を示している。起きなければならない。混沌とした夢を見ているよう状態でさっぱりしない。
 朝食をとり、洋服ダンスを開けると、昨日着たジャケットのポケットを見た。膨らんでいる。覗いてみる気にはなれず、昨日とは違った上着をとった。
 
 その日は、細かな怪我の治療が多く、大きな手術とはまた違った疲れを感じる一日であった。医局にもどって、自分の服に着替えると机の前に座った。そういえば、今日は昨日一緒に食事をした婦長さんや看護師さんたちには会わなかった。非番なのだろうか。
 さて、帰ろうかと思い、左手をポケットに突っ込んだ、そのとたん、また、左手に指が絡みついた。ジャケットを変えたのにそこには手がいた。幸い医局には誰もいない。左手をポケットから出してみると、昨日と同じ女性の手が私の手に絡まって引き上げられてきた。
 「何してるんだ」
 いきなり背中のほうから声が掛かった。先輩の須永先生が医局に入ってきた。
 私はポケットに左手を突っ込んで、あわてて右手で机の上に立ててあった本を引き出し、机の上に開いた。解剖書であった。
 彼は後ろにくると、机の上を覗き込んだ。
 「ほー、手の解剖か、そっちに興味があるのか」
 彼はロッカーにいき白衣を脱ぐと自分の上着を着た。
 本は偶然にも手の解剖のところが開かれていた。
 「ええ」
 私は心にもない返事を返していた。
 「ここには、手の専門家はいないし、そちらをやるには、大学にもどるしかないな、君の大学に平井先生がいるじゃないか」
 平井先生は私が出た大学の外科の准教授である。上肢の研究で学位をとった人であった。
 「それじゃお先に」
 須永先生は跳ねるよう帰って行った。外科の先生は皆元気である。
 私はポケットから手を出すと、自分の左手を机の上にのせ、女性の手首を机の上に横たえた。手首の切り口が見える。大きな血管はおよそ判別できるが、確実ではない。解剖書のページをめくってみた。解剖学を教わった大学三年生のときは、血管の走行を一生懸命覚えようとしたものであった。しかし国家試験が終わると、自分の手術に大きく関わる部分意外はきれいさっぱり忘れてしまった。
 手首を切り落としてしまう事故はかなりある。それをうまく繋ぐには、落ちた手首の保存の良さと、手術に入るまでの時間が勝負になる。太い動静脈の縫合と、神経の接合、皮膚の縫い合わせ。条件さえ良ければとりたてて難しい手術ではないが、回復の早さや患者さんのつないだ手首への違和感除去はやはり上手な医者ほどいい結果になる。指などの接合はもっと細かな手術である。
 私は女性の手首の切り口にある血管に針を通してみたくなった。一たん女性の手をポケットにしまうと、隣の準備室から縫合針と縫合糸、それにピンセットやカンシをもってきて、机の上に女性の手を再び載せた。女性の指は私の手を握りしめたままだ。太い血管の壁に曲がった針を通した。
 はっと気がついたときには針は血管壁を通ってしまっていた。しかし何もおきなかった。昨夜の家での絶叫を思い出したのである。
 糸はきれいに血管壁を通った。血管の切り口に幾針か通してみた。いい感触である。女性の手はおとなしく私の手につかまっていた。
 明日から手の解剖と手術の本を読んでみよう。
 それが私の一生を決めることになったのである。
 それから時々女性の手をポケットから出し、観察をしながら、手の手術の本を何冊か読んだ。手の筋と血管、それに神経の関係がしっかりと頭に焼き付いていった。こんなに勉強をしたことは大学時代もなかった。
 最近は上着を変えようが白衣になろうが、必ず女性の左手が左のポケットに入っていた。
 さらに私の試みはエスカレートしていった。
 夜、医局に残って机の上に自分の左手をのせ、絡み付いている女性の手にメスを入れた。血管にそってメスを走らせ、神経の走行とともに手首の血管を指のほうに追いかけていった。ポケットに手を入れると手は何事もなかったように、ポケットの隅にうずくまった。女性の手は切り開かれて、血管と神経が浮き出ていった。私の指に絡まっている女性の指は皮膚が開かれ、細い血管と神経が露になっていたのである。
 
 それから数週間たったある日、外来の診察室で子どもの切り傷を消毒していたところへ中井婦長がとんできた来た。そういえばあのレストランで一緒に食事した以来久しぶりに顔を合わせたのではないだろうか。
 「澁澤先生、緊急オペです。先生にお願いするよう、部長から言われました。ここは他の先生にお願いしますので、すぐ来てください」
 かなりあわてた様子で私に告げた。私は子供の傷に絆創膏をあて、母親に塗り薬をもらって帰るように指示して立ち上がった。
 中井婦長は早くして欲しいという面持ちで私を待っている。
 「お待ちどうさまでした、何です」私は後をたのんで手術室に向かった。
 「手首を切断した患者が運び込まれました」
  それは早く手術しなければならないだろう。手術着に着かえ手術室に入ると、
 若い男性が運び込まれていた。手術台に寝かされている男性の頭の脇には発泡スチロールの箱が置いてあった。男性にはすでに麻酔が施されている。それでなくては痛みで大変だろう。
 手術室にはこの間一緒に食事をした三人の看護師がスタンバイしていた。
 「先生、電動の草刈機にまきこまれました。男性三十五歳、特に持病はありません。切断されてから四十分経っています。手首はビニール袋に入れられ氷で冷やしてあります。ただ、冷やしたのは病院についてからです。それまでは冷やすような処理はしてありません。
 切断された腕の止血と消毒は済ませてあります、本人への痛み止め、鎮静剤投与ずみです」
 種村看護師が一気に報告した。
 「麻酔は誰がしたの」
 「院長の池内先生です。ここまでなさって、あとは澁澤先生に頼むようにとのことでした。院長先生は第三手術室で行われる手術の麻酔を見に行っておいでです」
 院長先生は麻酔の専門医である。
 三島看護師がすでに用意されていたレントゲン写真をシャーカステンに挟み込んだ。手首と腕の切り口のところで、骨が少しばかり複雑に壊れていたが、あとはさほど問題がなさそうだ。
 「それじゃ、はじめよう」、
 と言って、看護師たちに指示を与えた。手首の縫合の準備は整っていた。肉に食い込んでいる骨片を取り除き、きれいにした上で、上腕と手首に金具をつけ、両者が離れないようにした。顕微鏡を覗きながら切断部の中心に近いところの太い血管から縫合を行い、神経もわかるものは接合した。ポケットの手を解剖した感触はそのまま、自分の指が覚えていて、手さばきを滑らかにしてくれた。肉に食い込んでいた骨の破片もつかえそうな大きさのものは元に戻すようにした。
 皮膚を縫い合わせ終了である。塚本看護師が包帯をきれいに巻いてくれた。
 すべての指がうまく動くとは限らないが、かなり良い状態に復帰できるだろう。自分にとっては、初めての手の縫合手術である。うまく行ったことは自信につながっていく。
 「お疲れ様でした」
 婦長の声で、三人の看護師が笑顔で私を見ているのに気がついた。相当緊張していたのだろう。肩の筋肉がすーっとほぐれ、笑顔を返すことができた。細かな手術ほど筋肉を使う。
 「ありがとうございました」
 みんなに頭を下げた。
 患者は感染予防の注射を打たれ集中治療室に運ばれていった。
 その日、家に帰り、改めてポケットに手を入れ、絡まってくる女性の手を机の上に乗せた。解剖されている女性の手は痛々しいほどになっていた。指の先まで皮膚が切り開かれ、筋肉が切り裂かれ、血管と神経が露出していた。それでも生きて私の左手の指に絡まっていた。血液はないのにほんのりと暖かく、かすかにピンクがかった白いきめの細かなきれいな手であった。
 女性の指先が、時々、ぴくんと動く。
 なぜ、ここに、誰の手なのだろう。この手のおかげで手術を無事終わらせることができた。元のようにしなくては。そんなことを考えた。

 次の日、私は外来を終えると、誰もいない手術室に入った。
 縫合の器具をひとそろえ用意すると、白衣のポケットに自分の手を入れ、女性の手をつり出して手術台の上に置いた。元の手に戻そうと思ったのだ。スポットライトを当て、解剖とは逆に、指先から順番に浮き立たせた血管と神経を筋肉の間にうめ込み、筋肉を縫い合わせ、皮膚を縫い合わせて前の状態に戻した。縫う練習の際に血管に通したままになっていた糸もすべて取り除いた。
 かなり時間がかかった。もう夜中である。
 女性の手を見た。縫い目も目立たないように細心の注意を払って縫合した。その甲斐があってきれいだ。
 そう思って女性の手を見ていたとき、いきなり後ろから女性の手が伸びてきて、私の目の前に白粉の入ったビンが差し出された。
 どきっとして、後ろを振り向くと、中井婦長と三島、種村、塚本の三人の看護師が真剣な面持ちで私を見ていた。ビンをもっていたのは婦長の手だった。
 私は声が出なかった。婦長の顔は女性の手にその白粉を塗るように言っている。
 私は差し出された白粉を、私の手に絡み付く女性の手に塗った。女性の手は元の美しさを取り戻した。
 種村看護師が私のそばによって来た。彼女はマニュキアビンの蓋をとると、絡みつく手の指の先の爪に慣れた手つきでマニキュアを施した。五本の指先は桜色に甦えった。
 その時、手術室の入口に、白いスーツを着た女性が立った。
 「お入りなさい」
 中井婦長が声をかけた。
 女性は手術台の前に来た。あのレストランのオーナー、塔さんだった。
 塔さんは私に向かってお辞儀をすると、
 「よろしくお願いします」と言った。
 中井婦長が塔さんに手術着を渡した。塔さんはスーツを脱ぐと手術着をきて手術台に横たわった。
 私の目の前になげだされた塔さんの左腕には手首がなかった。
 中井婦長が言った。
 「澁澤先生、その手を塔さんの腕につけてくださいな」
 私は声が出なかった。
 「先生ならできるわ」種村看護師が言った。
 「しかし、他人の手が接合できるはずもない。しかも新しい手ではなく、時間の経ったものだからなあ」。
 私は搾り出すようにつぶやいた。
 「この手は生きているの、大丈夫、やってみてくださいな」
 中井婦長は看護師たちに準備をするように言った。看護師たちの動きは早かった。手首縫合に必要なものはあっという間にそろった。
 「麻酔は要りません」塔さんはそういって私を見た。
 それを聞くと、少しばかりギクッとした。しかし、自然とからだが動いていた。女性の手がしがみついている私の手を手術台の上にもっていき、塔さんの腕に近づけた。絡んでいた女性の手は私の手からするりと離れた。
 私は女性の手首を塔さんの上腕と金具で固定した。それからは慎重にマニュアルどおりに縫合手術を進めた。一昨日行った手術の再現であった。時間はかかったが、血管と神経の接合は全く問題なかった。
 手術中一言も発しなかった塔さんは、終わると起き上がって「ありがとうございました」と言った。
 包帯を巻かれた腕の先から指がのぞいている。
 塔さんは手術台に腰掛けると指を動かした。それはかすかに動いた。
 塔さんの顔が綻んだ。
 「よかーった」中井婦長も駆け寄った。
 中井婦長は、こんなことを言った。
 「塔さんは、若いころ、事故で手首をなくしたんです。それ以来、幻肢に悩まされていたのです。私の娘が事故で死にました。自動車事故です。その時は手首を切断するだけで一命を取り留めたのですが感染で死亡しました。この手は私の娘の手です。それを先生が塔さんにつけて生かしてくれたのです」
 私は眩暈を覚えた。
 「先生をお送りして」婦長の声が耳の奥のほうで響いた。

 婦長の声を聞いた後はなにも覚えていない。朝、気がつくと自宅のベッドの上であった。昨夜のことはすべてはっきりと覚えている。だが、本当に起きたことなのかどうか自信がない。しかし、なぜか頭はすっきりとして気持ちが晴れ晴れとしていた。
 私はいつものように、軽い朝食をすませると病院に行く支度をし玄関を出た。
 上着のポケットに手を入れた。何も入っていない。
 あの、女性の手の指が自分の指に絡みつく感覚を思い出していた。
 物足りなさ、一抹の寂しささえも感じていた。
 玄関を出て脇を見た。
 白猫が一匹、足をそろえて姿勢を正してこちらを見ていた。前足の片方の先が真っ黒だった。その後ろには大きな小太りの黒猫が一匹と子供の黒猫が三匹、同じようにこちらを見ていた。猫たちは私が玄関から出てきたのを見ると、ゆっくりと庭の奥に歩いて行った。白い猫が振り向いた。左側の前足は黒かった。その左足を少し引きずるようにしていた。その猫がお辞儀をしたように見えた。
 私は、バスの時間を気にして門をでた。
 それ以来、レストランのあった駅の近くの路地を見つけ出すことができなかったばかりか、手の手術を一緒に行った婦長と看護師たちとは二度と会うことはなかった。

 それから一年後、澁澤は大学にもどった。平井准教授の指導を受け、手首の縫合の研究を始めたのだ。研究は信じられないほどとんとん拍子に進み、亡くなった人の手首を他の人に移植する方法に成功した。黒猫のおかげでこの道に足跡を残すことができたのである。彼はそのことを思い出すと、いつも夢の中のような気持ちになるのである。
 長椅子の袖に座っていた大きな黒猫が振り向いて黄色い目で澁澤を見た。

(「黒い猫」所収、自費出版 2015年 33部 一粒書房) 

名医の手

名医の手

黒猫の幻想小説です。登場人物の名前に注目してください。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-16

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著作権法内での利用のみを許可します。

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