ヘミングウェーの黒い猫
黒猫のの幻想小説 PDF縦書きでお読みください。
「じいちゃん、こんなんもらった」
六歳になった孫の満望(まんぼう)が持ってきたのは、手の平より少し大きい程の真っ黒い猫の子だった。
「誰にもらったんかい」
「船長さん」
「どこの」
「外国の船長さんがくれよった」
「外国の船長さん? どこでじゃ」
「あっちじゃ」
満望は漁港の方を指差した。
伊里の港は瀬戸内海に面した小さな港である。入り組んだ大きな湾の一角にあり、波は穏やかで静かである。毎週日曜日に行われる獲りたての魚介類を売る朝市は全国的にも有名で、朝早くから買いに来る人々で賑わっている。その中でなんといっても牡蠣である。ここは全国でも有数な牡蠣の水揚げを誇っている。
「その猫をどないするんじゃ」
「飼うんじゃ」
「母ちゃん嫌がるぞ、猫嫌いだろうに」
「平気じゃ、船長さん言っちょった、この猫を見れば誰でも好きになるって」
「ほーか、どれ、見せてみい」
満望が抱えていた猫は、目が開いてまだ数日の真っ黒な子猫だ。母猫がいなければ育たないだろう。
「ちっこいな、ミルク呑むことができるんかわからんな」
黒い猫はくりっとした目を、じいさんの朝治にむけた。確かにめんこいと朝治はうなずいた。
「母ちゃんに見せてくる」
満望は黒い猫をひったくるように朝治から取り上げると、抱えて家に走って行った。
「母ちゃん、これ飼う」
台所で煮物をしていた母親の葉(よう)が振り向いた。
緑色の髪留めで纏めた髪が揺れた。
「猫か」
いいともだめとも言わずに、また鍋をかき回し始めた。
満望は冷蔵庫から牛乳を取り出すと皿に入れ、子猫の前に置いた。
黒い子猫は小さな口をミルクに近づけると、赤い舌をだしてぺちゃぺちゃ舐めた。
満望は生き物はなんでも好きだった。魚や蟹をもらってきては、甕に海水をいれて飼った。数週間飼うと、海に行って放し、また新しい蟹やらを捕まえてくる。だが、猫を飼いたいといってきたのは初めてだ。猫は港に行けばごろごろしている。わざわざ飼わなくても、かわいがりたければいくらでもいる。
母親の葉はいずれ飽きたら港の猫の仲間入りだろうと何も言わなかったのである。
「どこにいたんね」
「船長さんにもろた」
「どこの」
「外国の」
「外国の船がきちょったのか」
「うん、でっけえ船がいよった」
「そんなんおらんじゃろ、大きな船なんか、港に入れんよ」
「でも、いた、英語しゃべっとった」
「おまえ、英語はわからんじゃろうに」
「うん、でもわかった、帽子かぶった外国の船長さんだった」
葉は火を止めると満望のところにきて黒い猫を摘み上げた。
「ふーん、外国の猫ね」
猫の子は葉を見上げた。
黒目が多い。
足をダラーンと下げて葉の指に抓ままれている。そんな猫を見て、葉は、
「ネズミとらんね、この猫は」
と床に降ろし、また煮物にもどった。
葉も決して猫が嫌いなわけではなかった。むしろ好きなほうかもしれない。ただ、亭主の櫂(かい)が漁の最中に死んでから、女手一つで満望を育てなければという気持ちが強く、余裕がないだけである。
葉は漁港の手伝いで何とか生活を立てている。それに、近くにすむ義父の朝治の助けは大きかった。
こうして黒い猫は満望に飼われる事になった。
満望の毎日は黒い子猫が中心になった。
「黒スケ」
満望が子猫を呼ぶと猫は首をかしげて満望を見た。
満望は抱き上げて頬ずりをした。
黒スケは抱き抱えられていると、すぐに満望の手の中で寝てしまう。
満望が歩くと、畳の上を半分転びながら後を追う。
葉にもよく懐いた。台所に立っている葉の足にも擦りつき、魚の柔らかいところをもらって舐めた。
よろよろと危なっかしい歩き方をしていた黒スケは一週間もすると、しっかり歩くようになった。
「黒スケ」
満望に呼ばれると、ぴょこぴょこと駆けてよってくる。満望が外に出ると、その後を一生懸命ついていく。
満望は時々抱き上げながら、黒スケがついて来ることのできる速さで歩いた。
「あーらかわいい」
八百屋のおばさんが黒スケに声をかけた。
「うん、もらったんだ」
「よかったなあ、名前はなんちゅうのかい」
「黒スケ」
八百屋のおばさんが抱き上げると、黒スケはふふんといった目でおばさんを見上げる。クリッとした黒目がおばさんの心臓をきゅんとさせる。
満望が先に行こうとすると、黒スケはおばさんの手から抜け出そうともがいた。
おばさんは黒スケを道に降ろした。
黒スケは跳ねるようにして一生懸命、満望に追いつこうとする。
「かわいい猫だねえ」
おばさんは笑みをこぼした。
満望が漁港に来ると、網を直していた甚平さんが黒スケに気付いた。
甚平さんはもう八十歳に近い。このあたりでは一番の物知りの漁師さんだ。
「満望、その猫どしたんじゃ」
「船長さんにもろた」
「いつじゃ」
「こないだ」
満望はまだ一週間という単位をよく知らない。
「どこの船長さんじゃ」
「知らない、外国の船」
「外国の船など来よらんじゃろに」
「来た、英語しゃべっちょった」
「ここには、そんなんこないんじゃが、まあいいじゃろう」
黒スケが甚平さんの直している網にじゃれついた。
「ちっこくってかわいいの」
黒スケは甚平さんのあぐらの上にのった。
「ほーお、なれちょるの」
「うん」
「どこにいくんじゃ」
「じいちゃんのとこ、蟹もらいに行くんじゃ」
「なんかとれったっていうのっか」
「平家蟹じゃと」
「そうか、そりゃええ、飼うんか」
「うん」
「ちと難しいかもしれんけどな」
「でっかいやつだって」
「そりゃ、キメンガニかもしれんじゃ」
「いこー」
満望は黒スケに声をかけて、朝治の待っている漁業組合の建物に向かった。
黒スケは甚平さんのまたぐらから飛び出すと、満望を追いかけた。
「ほーかわいいこっちゃ」
甚平さんは後を見送った。
漁業組合の事務所に行くと、朝治がバケツに入った平家蟹を取り出した。生きている。
「三匹おるが、もってくか」
「うん」
黒スケが朝治の足元に来た。
「おー黒スケもきたんか」
満望がバケツの中を覗くと大きなのが一匹と、小さいのが二匹隅で寄り添っている。
朝治は蟹たちを小さなビニールバケツにうつすと満望に渡した。
「あとで、海の水をもってってやるからな」
「うん」
満望の家に来るとき、朝治はいつも満望の飼っている生き物のために新しい海水を汲んできてくれていた。
「ありがと」
満望はバケツをつるすと家に向かった。
甚平さんはあぐらをかいてまだ網を繕っていた。
「甚平さん、平家蟹」
満望は甚平さんの前でバケツの蓋をとった。
「ああ、やっぱり、でかいのはキメンガニじゃ、ほら、背中に怖い顔が付いているじゃろう。他のは平家蟹じゃ、ふつうのやつじゃ」
「うん」
満望はビニールバケツに蓋をすると家に向かった。
黒スケは一生懸命後をついていく。
実(み)世(よ)ちゃんが学校の道から出てくると手を振った。実世ちゃんは近くの家のお姉ちゃんで、中学校三年生だ。とても勉強ができて、東京の高校に行くんだ。
「満望、また魚もらったんか」
「蟹じゃ。じいちゃんがくれた。網で獲れたやつ」
満望が答えると、
見せてくれと、実世ちゃんが近づいてきた。
蓋をとると、
「アー平家蟹か、飼うん」
満望はこっくりうなずいた。
黒スケが実世ちゃんの足元にまとわりついた。
「かわいい子猫ちゃん」
「うん、もろた」
実世ちゃんが、黒スケを抱き上げた。
「あー」
いきなり、実世ちゃんが大きな声を上げた。
「この猫、足の指が六本だ」
満望には実世ちゃんの言っていることが分からなかった。
「ほら」、実世ちゃんは黒スケを抱っこしたまま、足の裏を満望のほうに向けた。右足の指が確かに六本ある。今まで誰も気がつかなかった。
「ヘミングウェーの猫じゃね」
満望は首をかしげた。黒スケの足の指が六本あることはわかった。
「なに、ヘモングワーって」
「あはは、ヘミングウェーよ、アメリカのお話を書いた人の名前。猫がとっても好きでね、猫をたくさん飼っていたんだって、だけど、足の指が六本ある猫が多かったんだって、幸運をまねくんだってよ」
「こうふんをまねるの」
「あはは、幸せをもってくるのよ、この黒スケちゃんは、よかったね、もしかしたらこの平家ガニも黒スケちゃんがよんだのかもね」
二人は一緒に歩き始めた。黒スケも後についた。
「ヘミングウェーはその猫ちゃんを船長さんからもらったんだって」
「黒スケもそうだよ、外国の船長さん」
「へー、ヘミングウェーと同じ船長さんかもね」
家の前で、実世ちゃんとバイバイして家に入った。
「じいちゃんから蟹もろた。あとで海の水もってくるいうてた」
と、母ちゃんに言った。
「そうか」
葉が台所から返事をした。
満望は庭に回ると、口の欠けた備前焼の甕に蟹を入れた。ひらいていたイソギンチャクの触手がしゅるっと縮み、小海老が石の陰に隠れた。
葉は若いときに備前焼の窯元にいたことがある。その時作った大きな甕である。理由は分からないが、上のほうが欠けていた。それを満望がもらったのだ。
「母ちゃん、烏賊の足くれ」
冷蔵庫から、烏賊の足をちぎってもってくると、甕の中にいれた。
蟹の甲羅の上に人の怒った顔がゆらゆら揺れた。
どうしてそんなものがあるのか分からなかったが、ずーっと見ていると、怒っている顔がふにゃっと笑ったように見えた。
平家蟹たちはゆったりと甕の中を歩いていた。
黒スケが足元にこすりついてきた。満望は甕から顔を上げ、黒スケを抱き上げた。
「かあちゃん」、黒スケを葉のところにもっていった。
「実世ねえちゃんが、この猫、ヘミングモーの猫だって」
「なんだい、それ」
「ほら」
満望は黒スケの右の後足を葉にみせた。
魚を煮ていた葉が振り向いた。
「おや、指が六本あるね、ヘミングウェーの猫じゃね」
「かあちゃんヘミングウェーって知ってるん」
「読んだよ、その本なら。ヘミングウェーは猫が好きでね、船長さんからもらったんだよ、幸運の猫なんだとね」
「おいらと同じだ、黒スケも船長さんがくれたんだよ」
「そうじゃったね。でもヘミングウェーの猫は前足が六本だね」
葉は若い頃どこかの大学にいっていたらしい。たまたま備前に来たときに有名な窯元に居ついてしまったということであった。その窯元に出入りしていた櫂人と知り合ったそうである。
葉の部屋の鏡台の脇にはその窯元の高名な作者の杯が桐の箱に入れられて置かれている。まだ櫂人と知り合う前にもらったものだそうだ。
夕方、家の前に自転車を立てる音がした。
「きたよ」
じいちゃんが海水を大きなペットボトルに入れてもってきてくれた。
裏庭の甕のところにいた満望が「こっちだよ」と、声をかけた。
朝治がペットボトルから海水を注いだ。蟹たちがわさわさと甕の底においてある貝殻や石の間にもぐりこもうとした。
「元気じゃな」
満望もうなずいた。
「この蟹、どして背中に顔があるの」
「むかしな、海で死んだ人をな、この蟹の先祖さんが食ったんじゃ、そしたらな、食われた死体の顔が背中に浮かんできたんじゃ」、
「どうして」
「蟹は死んだ人が陸に上がって景色を見たいだろうと思ったんじゃ。そう思ったら背中に顔ができたんじゃ、背中の顔は蟹が海の上に浮かぶと、空が見える、雲が見える、太陽が見える、月や星が見えるじゃろ。そうすると、蟹の背中の顔が喜んで、笑うんじゃと。満望が見ていると今に蟹の背中の顔が笑うじゃろ」
「でも、怒っているよ」
「そうじゃな、食べられたときは死体が怒ったんじゃ、それで顔は怒っているんじゃ、だから、蟹は何とか笑ってもらおうと、海に浮かんで顔に空を見せるんじゃ」
「じいちゃん、夕ご飯食べていきなされ」
いつの間にか葉も来て、そばで蟹を見ていた。
朝治はつれの浅茅が死んでから、この家をでて海岸脇の小さな家を借りて住んでいる。一人暮らしのほうが気楽でええと言っているが、ときどき満望の家に夕ご飯を食べに帰る。
満望はじいちゃんの家に遊びに行くことがあるが、朝治はほとんどいることはなく、漁港にいるか、釣り仲間と海岸にいることが多い。知り合いに頼まれてときどき船に乗ることもあるが、今では海に出ることは少なくなった。
「ビールがええですか、それともお酒ですか」
葉が台所から声をかけた。
「ビールがええな、今日は」
「ちょうどよかでした、メバルを煮ときましたで」
葉の味付けは死んだ櫂人の好みだった。このあたりでは珍しく甘みを押さえた、どちらかというと、薄い醤油の味付けである。朝治の妻の浅茅は料理が上手であったが、味醂がきいていて甘味が強かった。それはそれで美味いのだが、朝治の舌にも葉の味のほうが合うようであった。
「そりゃ嬉しいの」
食卓が整うと葉が二人を呼んだ。
満望もじいちゃんとご飯を食べるのは嬉かった。じいちゃんはいろいろな生き物の話をしてくれた。
葉も半分お伽噺のような朝治の話を楽しんでいた。
「この、メバルは美味いの」
「よかったです」
「メバルはな、贅沢者なんじゃ、海老ばっかり食うとる、しかも美味い海老を探して、海の岩の間をいつも覗いているんじゃ、そんでな、目が出てきて、眼張というんじゃ」
「ほんとですか、満望が本気にしますよ」
葉は笑顔でビールを朝治についだ。
「ははは、まあええや、なあ、満望」
満望はこんなときとても嬉しかった。黒スケにメバルの身を削って少しやった。
「じいちゃん、黒スケはヘミンウェーの猫なんじゃ」
「ほー、どしてじゃ」
「指六本じゃゃ」
「どれ」、朝治は黒スケを抱き上げて足を見た。
「ホーほんまじゃ、ヘミンウウェーかい」
「うん」
「でも黒スケはかわいいの」
朝治もメバルの身を箸でつまんで黒スケにやった。
葉は四角張った櫂人の顔とは違い、丸顔の舅の顔に、眉毛だけ櫂人の面影を見ていた。
食事をすませた朝治は自転車にまたがると自分の家に帰って行った。
満望は毎日のように朝起きるとすぐに裏庭に行った。長い間あくことなく平家蟹の動きを眺めていた。いつか蟹の甲羅の顔が何か言うのではないかと楽しみにしていたのだ。黒スケはその周りを跳び跳ね、満望の足に擦りついた。
朝ごはんを食べて、葉が働きに出ると、満望は町の公園や港にいって友達と遊んだ。黒スケは必ず付いて行った。友達たちにもよくなれた。
誰にでも愛想がいいのでみなが黒スケを抱っこしたり頭をなでたりした。おかげで、黒スケを連れて歩く満望も町の人気者になった。
足の指が六本であることも実世が言いふらしたせいで有名だった。ヘミングウェーの幸福の猫であることも町の人たちに広まっていた。
漁港にいくと、帰ってきた漁船から魚をもらおうと集まっている野良猫たちも、黒スケが来ると喧嘩をやめてそばによってきた。三毛猫がもらった魚の柔らかいところを黒スケにもってきた。黒スケは喜んで食べた。このあたりの親分顔をしている大きな茶トラの猫もよってくると黒スケの頭をなめた。黒スケのおかげで満望にも猫たちが擦りついてきた。
満望と黒スケは毎日のように港に来て猫たちと遊んだ。魚をもらってよく食べた。ところが、黒スケはなかなか大きくならなかった。同じ年の猫の半分ほどであった。
港にいるとじいちゃんの朝治も満望のところによくやってきた。
「黒スケはこまいままじゃなあ」
「でも、いっぱい食べてるよ」
満望は、黒スケの鼻の上をさすった。黒スケは気持ちよさそうに目を細めた。
黒スケがきて一月ほど経ったある日の朝早くに、満望が甕の中を覗くと三匹の平家蟹が忽然と消えていた。一緒にいた海老やヤドカリは元気に動いている。
「かあちゃん、蟹がいなくなった」
満望は台所で朝食の用意をしている葉に言った。
「どうしたのだろうね、カラスかね」
「カラスなんかいないよ」
膨らんだ胴の甕から逃げ出すことはできないはずである。庭の大半を占めている葉の作っているトマトやキュウリの間を探したが裏庭にはいない。
満望は小さなバケツをもって家から出た。家の前の下水溝や商店街のお店の角などを探し回った。漁港にも行った。黒スケもついていった。だが、蟹は見つからない。
朝治のいる組合の建物にも行った。入り口の戸をあけると、朝治が、事務所の机の前で茶を飲んでいた。
「おや、満望、どうした」
「蟹がいなくなった」
「今日はカモメが多かったから、カモメかもしれんじゃ」
「うん」
「また、獲れたらもってってやるから、家に帰りなさい」
「うん」
満望は仕方なく家に帰った。
その夜、ひどい雨が降った。
あくる日、雨はあがりよい天気になった。珍しく黒スケが先にたって家をでた。満望はバケツをもつと後をついて行った。逃げた蟹がいたら捕まえるつもりだった。
黒スケは港に行く途中の脇道に入った。
その山すその道沿いには神社への入口がある。海の安全を守る神が祀ってある。
しばらく歩くと、山の中腹にある神社の鳥居が見えてきた。鳥居の前で黒スケは立ち止まって上を見上げた。石段の先に神社の社が見える。
黒スケは石段を登り始めた。満望も後をついて行った。
神社の境内に入ると、すーっと冷たい空気が満望を包んだ。
社の周りには大きな木が茂っており、薄暗く、ちょっと気味が悪い。
石畳の道を歩いて社の前にきた。
社の右手には赤い椿の木が、左手には白い椿の木が植わっている。紺侘と白い侘すけで、花の時期には半開きにしっとりと咲く紅白の椿を見に訪れる人が少なくない。
赤い椿の木の前には昨日降った雨で大きな水溜りができている。水面に木々が映っている。
黒スケが水溜りの際に行って中を覗き込んだ。
満望もそばに行って覗いた。
水溜まりはとても深そうである。
「こわいなあ」
水はきれいに透き通り、水底がよく見える。まるで水の中に町があるようだ。
動くものがいる。満望は目を凝らした。
「あ、キメンガニ」
水たまりの底にキメンガニと平家蟹がゆったりと歩いている。
水に手を突っ込んだ。とても満望の手が届くところではない。
「取れない」
そのとき、水溜りの底から大きな塊が満望の目の前に浮かびあがった。その固まりの上にキメンガニと平家蟹がとりついている。
満望はあわてて手を伸ばすと、キメンガニと二匹の平家蟹をつかまえてバケツに入れた。
バケツを脇において覗くと、キメンガニの背中の怒った顔が笑ったように見えた。
満望は嬉しかった。
きらりと満望の目に光があたった。満望がみると、蟹がとりついていた塊が木の間から射した日の光で輝いている。
それは氷の塊であった。水面に浮かんでゆらゆらと輝いていた。
「氷」
満望は落ちていた木の枝を拾ってくると、氷を近くに引き寄せた。しかし、大きくて水の中から持ち上げることができない。
黒スケが近くにきて手を伸ばした。爪をかけてひょいと引くと、氷がぽんと水たまりから飛び出して草の上にころがった。
「黒スケすごいね」
満望は草の上に転がったものを見た。
ただの氷の塊ではなかった。中に黒いものが入っている。
黒スケが氷を爪で掻き始めた。
日の光で氷が溶け始める。黒スケは一生懸命に氷を掻いた。
中の黒いものがだんだん見えてきた。
満望はまた驚いた。
「猫ちゃんだ」
氷が溶けるにつれて現れたのは真っ黒な大人の猫の顔であった。
黒スケは出てきた黒猫の顔をなめた。目がかすかにあいたように見えた。
胴体がでてきた。
黒スケは一生懸命舐めた。
大きな黒い猫が現れ、草の上に横たわった。
黒スケがその上に乗って飛び跳ねた。
その拍子に氷からでてきた黒い猫はぴくっと動いた。
「生きてる」
満望が氷からでてきた黒い猫の頭をなでた。黒い猫はピクピクとからだを震わせると、よろっと立ち上がった。しばらくそのまま立っていたが、やがて、からだを揺すった。水飛沫が飛んできた。黒い猫は伸びをすると、ゆっくりと蟹の入っているバケツのところにやってきて中を覗いた。
満望も黒い猫の後ろからバケツの中を見た。
キメンガニの背中の顔の口が動いた。
「疲れただろう」
黒い猫はうなずいた。
平家蟹の背中の顔の口も動いた。
「早く食って、元気になれ」
黒い猫はまたうなずいた。
もう一匹の平家蟹の背中の顔が満望を見た。
「満望いいな」
と言った。
驚いた満望は、あわててうなずいた。
それを見た黒い猫は、右手をバケツに突っ込むと、キメンガニを爪に引っ掛けて持ち上げ、バリバリと食べた。二匹の平家蟹もあっという間に食べてしまった。
黒い猫は舌を出すと口の周りをなめ、身づくろいをはじめた。自分の尾っぽの先を丁寧になめると、黄色い目で満望を見た。
黒スケが黒い猫によっていった。黒スケが黒い猫にこすりつくと、黒い猫は黒スケの頭をなめた。黒スケは口先でお腹のところを探って黒い猫の乳首に吸い付いた。
黒スケは前足で黒い猫のお腹を押しながらお乳を飲み始めた。どっくんどっくんと音が聞こえるほど勢い良く飲んだ。
黒スケの母ちゃんだ。
満望は黒猫の右足の指を見た。六本あった。
ヘミングウェーの黒い猫の母ちゃんだ。
黒スケはしばらく飲むと乳首から離れた。
黒い猫は黒スケの頭をなめると神社の裏に向かって歩いて行った。
満望が追いかけようとすると、黒スケが足元にからみついてきた。
いっちゃいけないのかな、と思い満望は立ち止まった。
お乳を飲んだ黒スケは顔を洗うと石段に向かって歩いていく。満望もバケツを拾うと後についた。
家に帰ると黒スケは部屋の隅で丸くなり寝てしまった。
満望は葉に黒スケの母親が氷から出てきたことをとても詳しく話した。
「ふーん、よかったな、黒スケはお母さんに会ったんじゃ」
葉は野菜を洗いながらそれだけ言った。
満望も急に眠くなった。黒スケの脇で横になると丸くなって寝てしまった。
あくる朝、黒スケが家を出て行こうとしたのを見て、満望も後を追った。やっぱり、神社にやってきた。黒スケは石畳をちょこちょこと社のほうにむかって駆け上がっていく。社の脇の大きな水溜りはまだあった。少し小さくなったようだが水面がざわざわと小さく波打っている。
神社の賽銭箱の上に黒スケのお母さんは座っていた。
黒スケがにゃあと鳴いた。
黒い猫は賽銭箱から石畳に急いで飛び降りた。
そのとたんあたりの空気の動きが止まり、今まで聞こえていたざわめくような木々の枝の擦れる音が消えた。差し込んでいた日の光は漂う光になり、辺りはぼんやりとした明かりに包まれていった。
満望は立ち止まって黒い猫を見た。黒い猫は満望に向けた黄色い目を細めた。
黒スケは黒い母猫に擦りついた。
母猫も黒スケの頭を舐め、ごろんと横になった。
黒スケは乳首に吸い付いて乳を飲んだ。
満望は二匹の猫にのそばでしゃがんだ。お乳をあげている黒い猫に触ると黒い猫はまた目を細めた。黒スケをなでたが、乳を飲むのに夢中である。
黒スケが飲み終わると、黒い猫は立ち上がって水溜りに行った。水をぺちゃぺちゃ音を立てて飲むと、水溜りから平家蟹がぞろぞろと上がってきた。黒い猫はそれをはじからばりばりと食べてしまった。
満望は黒い猫のそばによって水溜りの中を覗いてみた。
水溜りの底はたくさんの平家蟹で埋め尽くされていた。蟹たちは悠々と歩きまわっている。
黒い猫は陸に上がった平家蟹を食べつくすと社の裏に消えて行った。
神社から出ると、黒スケのからだは大きくなっていた。もう普通の猫の大きさだった。
それから一週間、黒スケは毎日のように朝になると神社にやってきて、黒い猫のお乳をもらった。満望も一緒に神社にやってきた。
黒スケのからだが日に日に大きくなっていった。黒スケは立派な大人になっただけではない。ノラ猫大将のトラより大きくなり、柴犬ほどにもなった。
そうなっても一日中黒スケは満望の後について歩いた。
「大きな猫になったねえ」
会うたびに町の人はそういった。
小さな犬は黒スケを避けて通った。
葉が使いで他の町に朝早く出かけた日曜日、いつものように神社で黒スケが黒い猫からお乳をもらった後、真魚(まな)市にやってきた。
市のまわりは牡蠣や獲れたての魚を目当てにした観光客や、近辺の町から来た人たちの車でいっぱいになっていた。大きなオートバイを脇に、割り箸に差したアナゴやタコの天麩羅をほおばっている若いライダーたちがいる。手に手に買った魚を入れた大きなビニール袋をさげて、自分の車にもどろうとする人たち、これから入ろうとする人たちで市の前は混雑している。
満望はちょっとびっくりしたが、近所のおじさんやおばさんが中にいるはずである。市に入っていくと組合のお兄さんが声をかけてきた。
「朝治さんちの満望、よく一人できたな。母ちゃんどうした」
「今日は日生(ひなせ)にでかけとる」
「そうか、一人で遊びにきたんか」
「うん」
後についてきた黒スケに気がつくと、
「でっかくなったなー」と言った。
その声に周りの客たちも黒スケを見た。
「あー、犬じゃなくて、猫なんだ」
若い娘たちが集まってきた。大学生のようだ。
「エー、これ猫」
一人の娘が黒スケの頭を恐る恐るなでた。
黒スケがニャーと甘えてその娘に擦りついた。
「かーわいいー」
あっという間に黒スケは客たちに取り囲まれ、なでられ、抱き上げられ、頬ずりをされた。
組合のお兄さんはその人ごみにまたびっくりして、
「朝治さん、今日はきてないね。気をつけてなあ、満望」
と言うとその場を離れた。
満望は女子大生たちに、
「これヘミングウェーの猫」と言った。
「ぼおやいくつ」
「六つ」
「ヘミングウェー知ってるの」
「指が六本」
一人の女の子が、黒スケの後足を見た。
「ほんと、六本指だあ、ヘミングウェーの幸運の猫だ、頭なでると幸運くるよ」
それを聞いたお客さんたちが集まってきて、黒スケの頭をなでた。
猫好きは猫が大きかろうが、小さかろうが関係がない。近寄ってきては黒スケの頭をなで、小さい子など自分のからだとたいして違わない大きな黒スケを思いっきり抱き上げようとする。
黒スケはなされるがままになっていた。
満望はもみくちゃにされそうで、あわてて真魚市からでた。黒スケも犬のように走って満望の後をついた。「アー言っちゃうの」、女の子たちの声が後ろから追いかけてきた。なごりおしそうに女の子たちがバイバイと手を振っている。
満望は人のいない漁港の端に行った。ここはいつも漁師のおじさんたちが大きな魚を黒スケにくれる場所だ。黒スケはもらった魚をほんのひとかじりすると、集まってくる他の猫たちに残した。いつものようにノラ猫たちが黒スケの周りに集まってきた。ノラ猫とひとしきり遊ぶと、満望は網を直している甚平さんのところにやってきた。日曜日も甚平さんは仕事をしている。
「おお、満望と黒スケ、きおったな」
「うん、真魚市みてきた」
甚平さんもしわのよった日に焼けた顔をしわくちゃにする。
「そうか、母ちゃんはでとらんのか」
「うん、日生にいっとる」
ほかの猫の二倍にも成長したのに黒スケはのそりのそりと甚平さんのまたぐらの中に大きなからだをねじ込ませると丸くなった。
甚平さんはそれでも手を休めることはなく網を繕った。
「黒スケはなんとしてこんなに大きくなったんじゃ」
満望は何度となく甚平さんにも、母猫が氷から出てきて黒スケに乳を飲ませていることを話して聞かせるのだったが、甚平さんは、そうか、そうかとうなずくだけである。母親の葉もじいちゃんの朝治も一向に信じている様子がない。
その日、午前中は港で遊ぶと満望は家に帰った。葉はお昼を用意してでかけていた。卓袱台には満望の好きなハンバーグがあった。満望はご飯を電気釜からよそって、ハンバーグを食べた。食べた後は黒スケと一緒に葉が帰るまで昼寝をした。
あくる朝も満望は黒スケについて神社に行った。少し小さくなった水溜りを覗いてみると、平家蟹はいつものようにわさわさと水底を歩いていた。
賽銭箱の上で待っていた黒い猫は黒スケにお乳を与えた。いつもより長く黒スケはお乳を飲んでいた。黒スケのからだは、黒い母猫より三倍ほど大きくなっていた。
どんなお乳の味なのかな。
満望はしゃがんで黒スケがお乳を飲むのを見ていた。
黒スケはお腹がくちくなったと見えて、黒猫から離れて身づくろいをはじめた。
黒猫の乳首から白いお乳が流れている。
満望はしゃがみこんで、黒猫の乳首を口に含んでみた。ほんのり甘くて、口の中に懐かしい香りが一杯になった。昔こんな飲み物があったような気がした。牛乳とは違う。満望はチュチュ吸った。やがて乳はでなくなった。
満望は立ち上がって黒スケを見た。
黒スケは満望に擦りつくと黒い猫のそばによった。
黒い猫は立ち上がると黒スケの頭を舐めた。黒スケも鼻を黒い猫の鼻にくっつけた。
黒い猫が「にゃ」と低い声で鳴いた。
黒スケも「にゃああ」と鳴いた。
黒い猫はゆっくりと水溜りに向かって歩き始めた。後ろを黒スケがついていく。水溜りの縁にくると、黒い猫は振り返って黒スケを見た。満望を見た。そして、水溜りに入り、静かに沈んでいった。
「あ」満望は水溜りに走っていき、水底を覗いた。
黒い猫がゆっくりと歩いていた。黒い猫のあとを平家蟹がぞろぞろと付いて歩いていく。
それもすぐに消えた。
満望は黒スケに言った。
「お前の母ちゃんいっちゃった」
母乳の最後の一滴を、黒スケは満望にわけてくれたのだ。その時は、満望にはそのことがまだ分からなかった。
その次の日から、黒スケは家から出かけようとはしなくなった。庭を歩いたりしたが、ほとんど家の中で丸くなって寝ていた。満望は元気に遊びに出かけたが、黒スケはいかなかった。
「あの大きな黒い猫はどないしたん」
友達や町の人がよくたずねた。満望は、「寝てるねん、このごろ寝てばかりじゃ」
と答えた。
近頃は満望も背が高くなってきて、サッカーの仲間に入れてもらったりしていた。
しかし、満望が夕方になって家に帰ると、黒スケは玄関先に出て必ず待っていた。夕ご飯は黒スケも一緒に食べた。
時々、朝治もやってきて、相変わらずいろいろな生き物の話をしてくれた。
黒スケはどてんと満望に寄りかかって寝るようになった。
八月八日、満望は七歳の誕生日を迎えた。来年は小学生になる。ここの所ずいぶん急に背が伸びた。同じ年の子どもより頭一つ分とび出ている。
朝治が夕方やって来た。
「満望、誕生日おめでとう、ずい分背が高くなったものだな、父さんみたいに大きくなるぞ」
朝治は、満望に海の生き物の図鑑をもってきた。
「いろんな海の生き物の名前が分かるぞ」
じいちゃんは子どものころから生き物が好きで、大学に行って勉強をしたかったそうだ。
満望は図鑑というものをはじめてみた。
図鑑には満望もよく知っている貝や、蟹、海老、魚、クラゲの絵がみんな載っていた。
「よかったね、満望」
葉も満望が開いた図鑑を覗き込んだ。
「あ、平家蟹がいる」
寿司の出前がきた。
「まいど、今日はお祝いかね」
寿司屋のお兄ちゃんが、三人前の握りを入口の上に置いた。
「満望の誕生日じゃ」
じいちゃんが答えた。
「そりゃおめでとうさん、一番上がさび抜きじゃ」
「ごくろうさん」
葉が海老の味噌汁をよそってきた。葉は髪留めをはずし、いつもは束ねていた髪を肩に垂らしている。
満望はさび抜きのお寿司をほおばった。
「よかったね、満望、サイダー飲むか」
「うん」
葉は満望に栓を抜いたサイダーを渡し、冷えたビールを朝治についだ。
「今日は泊まっていきなさるか」
朝治はビールをうまそうに飲み、
「満望の誕生日だからそうするか」とうなずいた。
「それじゃ、お酒にしますか、冷やしてあります。刺身は私がつくりますで」
「そうだなあ、でもビールでええわ」
朝治は嬉しそうに葉のほうに顔を向けた。
「満望にはケーキがあるよ」
葉は冷蔵庫から箱に入ったショートケーキをだしてきて皿に乗せ、満望の前に置いた。
満望はケーキを食べ終わると二階の自分の部屋にいって早速図鑑を開いた。
魚や貝やクラゲに面白い名前がたくさんつけられていた。。
黒スケがいつものように、のそのそと、満望の足元で丸くなった。
その夜のことだった、いつもはぐっすり寝ている満望は、ふっと布団が軽くなるのを感じて目を開けた。真夜中である。真っ暗だけれども、黒スケが毛布の上にいないのはわかった。満望は大きくなった猫が夜中になると遊びに外に出ることを聞いていた。きっと明け方にはもどるだろうと再び目を閉じた。
しかし、朝目が覚めて布団の上を見ても黒スケはいなかった。
満望が二階の隣の葉の部屋を覗くと、葉はすでに台所に立っていていなかったが、黒スケが毛布の上で丸くなっていた。葉のところで寝ていたようである。
満望は一階に降りて顔を洗い歯を磨くと葉に聞いた。
「黒スケが行ったの」
「ああ、夜中に布団の上に来よったで」
「ふーん」
じいちゃんが起きてきた。じいちゃんは一階の前からの自分の部屋で寝ちょった。
「おはよう」
「おはようございます」
食卓にはいつものように干物と海苔と卵が用意してあった。
「眠れましたかの」
「ああ、よう眠れた。昨日は意外と風が入ってな」
「そうでした」
朝食がすむと朝治は自転車で組合に出かけていき、葉も勤めに出た。
満望は図鑑を持って一人で漁港に行った。
防波堤に腰掛けて海を見た。前島が目の前に見える。
海にはごみと一緒に先っちょが青いビニール袋のようなものがいくつも浮かんでいる。図鑑を見たらそれがカツオノエボシという水母であることがわかった。刺されると痛いとある。
カモメが満望の近くによって来た。満望はカモメに図鑑を見せた。カモメは驚いて飛んで行ってしまった。
家にもどると黒スケがいない。
お昼を食べに葉が帰って来た。
「母ちゃん、黒スケがいない」
「珍しいなあ、どこぞ遊びに行ったんじゃろ」
そこへ、黒スケが開け放たれた玄関から家に上がってきた。
「どこいっとったん」
満望がいうと、黒スケは葉の足に擦りついて、ニャーと鳴いた。
「腹減ってるんか」
葉が魚のあらを黒スケの器に入れた。黒スケは顔を突っ込んだ。
その夜も気がつくと黒スケがいなかった。満望は起き上がって葉の部屋を覗いた。黒スケは葉の脇で長々と寝そべっていた。
満望は自分の部屋にもどって布団の中で丸まった。なんとなく寂しかった。
それから黒スケは一日中葉の部屋で寝ているようになった。葉がでかけてもなかなか葉の部屋から出てこなかった。
腹をすかすと下に降りてきて満望がいれば満望に餌をねだった。しかし、食べるとすぐに葉の部屋へ行ってしまった。
満望は黒スケを家に残して外に遊びに行くようになった。近くの友達やお兄さんたちの仲間に入れてもらって、広場でサッカーボールを蹴って遊ぶようになった。お兄さんたちの中では、満望は小さかったが、足も速くボールを上手に蹴ることができた。
黒スケはとうとう満望の部屋で寝ることはなくなった。満望にはどうして黒スケが自分の部屋にこなくなったのかわけが分からなかった。
ある日、満望は朝治の家に行った。その日は珍しく朝治が家にいた。
朝治は居間でタバコを吸っていた。
「どうした、満望」
「サッカーボールがほしい」
「そうか、買ってやろう」
「本当、ありがとう」
「黒スケはどうした」
「母ちゃんのとこばかりじゃ」
「そうか、母ちゃんが餌をやるからじゃろ」
「おいらもやってる」
「きっとな、満望が大きくなったからじゃ。友達もおるじゃろが」
「うん、サッカーしてる」
「そうじゃろ、それにな、来年の四月に小学生になると、学校に行くんじゃよ」
満望は朝治の座っている脇の畳の上に緑色の髪留めが落ちているのに気がついた。
夕方、朝治がサッカーボールをもってきた。
満望は、「ありがとう」というと、ボールを持って近所の広場に行ってしまった。
「あれ、すみません、食事していってください」
葉は朝治に食事をしていくようにすすめた。
「今日は、ええわ、黒スケはどうしてるね」
「私の部屋で一日中ごろごろしています」
「そうか、またくるから」と、朝治は帰って行った。
秋の気配が感じられるある朝、その日は珍しく、黒スケが玄関の前で満望を待っていた。サッカーボールをもって満望が靴を履くと、黒スケが前を歩き始めた。なんだか、いつもと違うなあと思って満望はサッカーボールを玄関に置いた。
学校に行く実世ちゃんが通りかかった。
「おや、黒スケ、久しぶりね。やっぱり大きいな、犬みたい、ヘミングウェーの猫ちゃん」
実世ちゃんは黒スケの頭をなでて学校に行った。
黒スケはちいちゃい頃のように、満望の前を歩いて神社に向かった。
満望も「どうしたん」と黒スケの後をついて行った。
神社の石段を上がると、射していた日の光が淡い輝きになった。
椿の花が満開である。白と紺の侘すけが一面に咲いている。満望は綺麗だと思うよりも、まだ秋なのにどうしてだろうと不思議に思った。
もっと驚くことがあった。黒スケが歩いていく社を見ると、賽銭箱の前に、和服姿の葉がいた。
「かあちゃん」
葉は口元ににこっと笑みを浮かべた。
黒スケが葉の前に行くと、葉のからだがすーっと縮んで、黒スケの背中に横すわりになった。
社の脇にはまだ水溜りがあった。
葉を乗せた黒スケが満望を見た。黄色い目が微笑んでいるように見えた。いつの間にか黒スケの目が黄色になっていた。黒スケの母ちゃんと同じ色だ。
黒スケは葉をのせたまま水溜りに向かって歩いて行く。
「かあちゃん」、満望はあとを追った。
葉を乗せた黒スケは水溜りの中にはいると沈んでいく。
満望は水溜りを覗いた。水溜りの底で、黒スケはゆっくりと葉を乗せて歩いていた。水のそこから葉が顔を上げて満望を見た。微笑んでいた。黒スケの前を大きなキメンガニが一匹ゆるゆると歩いている。
満望はもう一度「母ちゃん」と呼んだ。
葉はもう振り返ることはなく、黒スケと消えて行った。
満望は長い間、水溜りの前で葉と黒スケがもどってくるのを待っていた。
日の光が急に強くなった。
母ちゃんと黒スケは帰ってこない。
満望は水溜りから離れると、とぼとぼと石段を降りた。
家にもどると、玄関で朝治が待っていた。
「母ちゃん、黒スケと行っちゃった」
朝治はうなずいた。
「黒スケは船長さんのとこに帰ったじゃ、だけどな、母ちゃんは半年するともどってくるから、じいちゃんと待っていよう。満望が小学生になるときは必ずもどってくるからな」
満望は母ちゃんも黒スケもいない家に上がった。
それから、朝治と満望の生活がはじまった。
春になり、桃の花が終わり桜が咲く時期になった。
朝治が満望に言った
「今日母ちゃんが帰ってくるからな」
「黒スケは」
「黒スケはもどってこないな、船長さんのところに帰ったのだよ」
満望の部屋にはじいちゃんが買ってくれたランドセルや、届いた教科書が机の上においてあった。机もじいちゃんがデパートで買ってくれたものだった。
夕方になるとタクシーが満望の家の前で止まった。
葉がタクシーから降りた。
「かあちゃん」
満望が走りよった。
「満望、元気だった」
いつもの葉の声だった。
葉は満望の頭をなでた。
満望の目から少しだけ涙がこぼれた。
朝治が言った。
「満望はよく我慢したよ、えらかった」
満望は葉が抱きかかえているものを見た。
葉はかがんで抱えているものを満望に見せた。
「満望の妹よ」
「あかちゃん」
満望は小さくてすぐつぶれそうな熟れたさくらんぼのような生き物を見た。
葉は家にあがると、朝治が敷いておいた布団の上に赤ん坊を寝かせた。
「名前はなんていうの」
満望が聞いた。
「つばき」
葉は朝治の沸かした風呂に入りに行った。
満望は赤ん坊の顔を長い間見ていたが、足元に行くと掛け布団の裾をそうっと捲っった。
赤い小さな足が出てきた。
指を数えてみた。
指は五本だった。
(「黒い猫」所収、自費出版 2015年 33部 一粒書房)
ヘミングウェーの黒い猫