懐に犬の屍を入れている男の話

 時は建歴(1210)の頃。都の鴨川の河原に、懐に犬の屍を入れている若い男がいると噂になった。
 救済すべく訪ねて行った高僧が見ると、それは犬ではなく、黒髪も美しい人の髑髏だった。
 男は高僧に己と胸に抱く髑髏の不可思議な因縁を語り始める……

 
     0

 時は建歴(1210)の頃と言う。
 京の鴨川の河原──六条辺りか──で懐に犬の屍を入れている若い狂人のことがひどく噂になった。
 何でも、死臭凄まじく、周囲に住まう非人仲間でさえこれを嫌って寄り付かないそうである。
 一人の高僧が弟子たちの止めるのも聞かず、その男に会いに行った。
 ちょうど後鳥羽院から栂尾の地を賜り、寺を建立したばかりの僧は、哀れな狂人の仔細を直に聞き、これを諭してなんとか救済したいと思い立ったのだ。
 ところが、行ってみると、川風の吹き抜ける筵の上に衰弱した体を横たえている若者の、懐から覗いているのは噂とは違い犬ではなかった。
 美しくも妖しい黒髪の残る人間の髑髏だったのである。
 薄目を開けて尊い僧形を見留めた若者は、胸に抱いた髑髏と己の不可思議な因縁を語りだした……

     1

「阿字様、あれを……」
 呼び止められて女は男たちの指差す方を透かし見た。朝霧に濡れる草叢の中に黒い塊がある。
 それは血みどろの男の死体───いや、違う。
「生きておるな?」
「今のところは。しかし、時間の問題でありましょう。フム、若いな? どうせ喧嘩かなんぞに巻き込まれたのだろうて」
 近くで滝の音がする。その飛沫がここまで飛んで来るような気がした。
「連れて行こう。誰か、荷と一緒に担ぎなさい」
 女主人の言葉に男たちは一様に驚いた。

「気がついたようだ。阿字様を呼んで来い」
 最初に聞いた声はそれ。それから、久方ぶりの眩しい光が翳って、美しい顔が覗き込んだ。
 男の装束を着けているが女だとすぐわかった。
「命を拾ったな? おまえ、名は何と言う?」
「……名?」
 男はそれに答えることができなかった。
 名前どころか、自分が何処の誰で、何をしてきたか、全てが霧のように霞んで判然としない。
「まあ、いい。ゆっくり養生することだ」
 女は笑った。
「ぼちぼち思い出すこともあろうし───思い出さなくとも別段、支障はないさ」
 だが、やはり名がないと言うのは不便だ。
「どうだ? そのくらいは何か見当がつかないか?」
「そう言えば───」
 己の血の染みた薄い夜具の中で男は首を傾げる。髻(もとどり)が切られているせいで美しい黒髪が肩に零れた。
「……く……ろ……」
「九郎か? よし、それで良い」

「それにしても───何故、あんな素性も知れない男の面倒をみようなどと言う酔狂を思い立たれたのですか?」
 九郎を残し外へ出た阿字に年嵩の男が訝しげに訊いた。
「御名の通り、阿字様の仏心は常日頃から我等は身に沁みて知ってはおりますが……」
「仏心か」
 女は明るい声で笑うのだ。
「それは違う。あの男、使えるぞ。あの体を見たろう? 屈強で鋼のようではないか。それに──まるで獣のような物腰だ!」
 阿字様と呼ばれるこの女は、昨今、都を跋扈する盗賊団の首領であった。

 やがて、傷が癒えた九郎に阿字は自ら手解きして盗みのやり方を教え込んだ。
 女首領が見込んだ通り、九郎は敏捷で膂力強く、その性、勇猛果敢。大いに役立つことがわかった。
 尤もこの頃には、自分たちの首領がこの男を拾ったのは機敏さとか腕力とかのせいだけではないことを手下たちは充分に察知していたが。
 真っ直ぐの豊かな黒髪といい、スラリとした肢体といい、九郎は押し入った邸の庭の暗闇の中のみならず、閨の闇の中に置いても大変絵になったのだ。
 こうして、阿字様の片腕として九郎が重用されるのにさほどの時はいらなかった。

     2

 九郎は阿字の望み通りよく働いた。
 九郎の方も充分な分け前を与えられ、日々は平安に流れていった。
 そんなある日。
 例によって闇の仕事で潤った懐を市中で遊び散らしての帰り、気がつくと九郎はいつしか見覚えのない道に迷い込んでいた。
 崩れた築地塀に沈丁花の香が強く匂っている夕間暮れ。
 先刻、『見覚えない』と言ったが、不思議なことに無性に懐かしい思いに駆られた。
(いつか、何処かで、これと似た風景の内に身を置いたことはなかったろうか?)
 そんなことを思いながら呆然と佇んでいると、ビュッと小枝が飛んで来て肩に当たった。
「ツッ、何処のガキの悪戯だ?」
 足元に落ちた枝を拾い上げたのとほとんど同時に、後で声がした。
「戻って来たのか、クロ!?」
 九郎は吃驚してその場に立ち竦んだ。
 それは、年の頃、一四、五の垂髪の少年。
 少年の方も射抜かれたように九郎を見つめていた。
 どのくらいそうしていたことか。やがて、少年は頬に朱を散らせて詫びた。
「すみません。人違いをしました」
「人違い?」
「いや、正確には、犬違い、かな?」

  少年は名を白月丸と名乗った。白月丸が含羞みながら言うには──
 自分はこの邸に母と、その年老いた乳母と一緒に住んでいる。飼っていた黒犬だけが唯一の友人のようなものだったが、これが半年ばかり前、ふいにいなくなってしまった。
「それで、いつも枝を、こう投げて、とってくる遊びをしていたのを懐かしんで、つい、やってみたのです」
 白月丸は貴族とはいえ気さくで、何処の誰ともわからぬ九郎のような闖入者にも拘るところがなかった。
 さもありなん。よくよく見れば貴族とは名ばかり、零落のほどが忍ばれた。邸の崩れ落ちた築地塀や、傾いだ四足門は言うに及ばず、白月丸自身が身に纏っている青葉色の水干もくすんで古寂びている。
 とはいえ、九郎には却って少年の高貴な美しさが透き通って見える気がした。
 率直に身の上を語る白月丸の傍らで、九郎はちょうど懐に入れてあった市で買った餅を取り出して勧めた。
 そのことさえも少年は大いに面白がった。
「ああ、失礼。実はクロがいた時もあいつが何処かから引っ攫って来た餅などをよくこうして二人で分けて食べたものだから」
「──まさか」
 いくら落魄したとはいえ貴族の若君が犬が拾ってきたものを食すなど信じられなかった。
 そう言うと、垂髪を揺すって白月丸、
「本当さ! そのくらい一時は暮らしに窮していたんだ。今は少しは持ち直しているけど」
 少年は目を伏せて、どこか悲しげに微笑むのだった。

     3

 以来、九郎は盗みで得た物品などを土産に足繁く白月丸の邸を訪うようになった。
 少年の傍にいると九郎はなんとも言えず満ち足りた思いがした。
 ただそこにいるだけで良かったのだ。ほとんど白月丸が喋っていて九郎はそれを聞いている。京師で起こった噂の類……折々の祭りや市のこと……
 それだけで良い。そして、たまに自分を呼ぶその声を聞くだけで。
「それでな、九郎」「おい、九郎」「聞いてるのか、九郎?」「なあ、九郎よ」
 極楽浄土に住むという鳥、迦陵頻迦の声とはこんな風だろうかと九郎は思った。

 九郎のこの頻繁な外出はたちまち盗賊仲間の話題するところとなった。
「そんなに貢物を抱えて……また出かけるのか?」
「愛物(いいひと)ができたな、九郎?」
 皆ニヤニヤ笑って囃し立てた。
「だが、程々にしておけよ」
「我らが阿字様にあんなに可愛いがられているのだから」
「せいぜい気づかれぬようにすることだ」
 九郎たち手下の男らは阿字が用意した家に一固まりになって住んでいたが、首領の阿字は始終一緒というわけではなかった。
 〝仕事〟をする前後、何日かやって来るが普段は別の処で生活していた。そこが何処で、どんな暮らしをしているのか、盗賊仲間の誰ひとり知る者はいなかった。

 その阿字にとうとうある日、呼び止められた。
 まさに今たっても〝仕事〟が終わり、盗み取った金品を仕分けしている、都の北の山中。
 阿字も九郎も真っ黒な装束で、灯りといえば時折雲間から顔を出す一三夜の月くらいのものである。
「九郎、おまえに愛物ができたと聞いたが?」
 九郎は何とも答えなかった。白月丸のことを何と呼べばいいのかわからなかったからだ。
 白月丸は自分にとって何と呼ぶべき存在なのか?無論、〈愛物〉などと言うのではない。かと言って〈友〉とも違う。
 白月丸はもっと──尊くて、大切で、かけがえのないものだ。
 遠く滝の音がした。
 自分が拾われたのはこんな夜明け前だったことを湿った空気の匂いを嗅いで九郎は突然思い出した。

     4

 払暁、仕事を終えたその足で九郎は白月丸の邸へとやって来た。
 少年はいつ訪れようと気にしなかったから。
「また来たのか?」「どこで遊んで来た?」「ああ、戻って来たな!」 等々、その都度掛けられる声が懐かしくて心地良かった。
 ところが、この日に限って、しかもこんな時刻にもかかわらず、先客があった。
 ちょうど客は朽ちかけた門を出て、その先に止めてある牛車に乗り込んで帰るところだった。
 九郎は自身の高い背と黒い髪を朝靄に巧みに隠してじっくりとその男を観察した。
 それは見るからに富貴な壮年の貴人だった。豪奢な狩衣に立烏帽子──
 実は、これこそが最近、白月丸の暮らしが多少なりとも安定した所以であった。九郎は直ぐにそのことを悟った。

 蔀戸を下ろして寝直している白月丸の枕辺に九郎は立った。
 寝所に入ることに微塵の躊躇もなかった。そんなことはとっくの昔に許されている。ふと、〝昔〟とはいつのことだろうと思った。
 だが、突然頭を過ぎった疑問は脇に押しやって、九郎は少年に質した。
「今出て行ったのは何者だ?」
 日頃無口な九郎の、珍しく激した物言いに白月丸は少し驚いたが、例の物憂い調子で教えてくれた。
「ああ? 藤原中納言成顯殿だ」
 元々は母者の昔の通い人とか。
「大路小路をクロを探して走り回っていた時に偶然出食わして──と言っても、向こうがそう言うのだ。牛車から見たと。とにかく、それでここを思い出したらしく、以来また通ってくるようになった」
「母者の代わりに、か?」
「何を怒っている?」
「腹が立たないのか? こんな扱いを受けて?」
 白月丸は笑った。
「おまえだって母君の無残な有様はとっくに知っているくせに。その上──見ろ、ちゃんとした後ろ盾も持たない私は仕官のつても、そもそも元服する資金の当てもない身なのだぞ」
 その日その日を食いつなぐので精一杯だとため息してから、
「せめて、どこぞの寺へでも稚児として入れればと思ってみるが。だが、まあ、詰まる所、やることは一緒だ」
 時代が時代である。白月丸のような美しい少年たちが従事する仕事は限られていた。
 それ故、白月丸自身はこの境遇にさほど屈託がなかった。
「いづれ、成顯殿でも……またその他の誰でも構わないが……後見人になってくれたらいいと思っているのだ。だからせいぜい機嫌を取るさ!」

     5

 腹の虫の収まらないのは九郎の方だった。
 再度訪ねて来た中納言の後をつけて、その邸の場所を知るや、その夜の内に憶えた技術を用いて単身、押し入った。
 自分でも呆れるほど鮮やかな手際だった。
 黒い魔風のように広い邸内を駆け巡って、家司郎党、従者、婢女、諸々、遮る者、邪魔な者、悉く切り捨てた。
 母屋の寝所で、未だ何が起こったのかわからぬ体の中納言本人を捕まえた。
 開けられたままの蔀戸からは月が覗いている。既に黒月のそれだった。
「と、盗賊か? た、た、助けてくれ……」
 漸く事のあらましを悟ったらしい中納言藤原成顯は湖のように冷たく光る絹の夜具の上で、立烏帽子が落ちるほどガクガク震えながら訴えた。
「何でもやる! 私の持つ財宝は全ておまえにやるから……!」
「驕るなよ」
 九郎の頭の内側で白い光が走った。
「俺の欲しいものをおまえは持ってなどいないさ!」
 九郎は存分に中納言を切り裂いた。
 血飛沫は絹の夜具に花弁のように散って、翌日、検視に駆けつけた検非違使たちの目を釘付けにした。音に聞く極楽浄土のお花畑もかくや、と。

 単身だったので大きな物は運び出せなかったが、それでも目ぼしい物は粗方盗み取って来た。
 九郎はそれらを長櫃に詰め、自分の荷物と偽って、預かって欲しいと白月丸の邸へ持ち込んだ。
 もちろん、何も知らない白月丸は快く引き受けた。
「ご覧の通り、どうせ大した道具とてない伽藍洞の邸だもの。私以外には誰もいないし。空いている処、何処でも好きに使ってくれ」

 何食わぬ顔で盗賊団の塒(ねぐら)へ戻ると、意外にもそこに阿字の顔があった。
(近く仕事の予定はなかったはずだが?)
 手下一同を集めると阿字は切り出した。
「昨晩、中納言藤原成顯の邸に賊が押し入ったのを知っているか?」
 女首領のいつもながらの早耳に内心吃驚しながら、九郎は嘯いた。
「フン、今日日、都で盗賊など珍しくもない」
「おや! 珍しいさ。何しろ、主の成顯様を始め家中の者、悉く滅多斬りともなれば……」
「それなら、良かった!」
 一人が真顔で叫んだ。
「間違っても、我らが疑われる心配はない!」
「その通りだ! 〈仏心の阿字様〉は殺生は金輪際なさらない」
「物は奪っても、人の命は奪わないのが我らのやり口だものな!」
 一味の男どもが口々に安堵の言葉を吐いている中、阿字は立ち上がった。
「来い、九郎」

「おまえだな? おまえがやったのだろう?」
 閨の内、夜具の中できつく体を絡めながら阿字が囁いた。
「私にはわかっている。あの押し入り方のやり口は私の技。私がおまえに仕込んだのだ。だが、殺しは──断じて、私の方針ではない」
 柔らかい肌から体を離しながら、面倒臭そうに九郎が聞く。
「どうして、俺だとわかる?」
「わかるさ。もっと言えば──お前を拾った時、こんなことになるんじゃないかと……それさえもわかっていたような気がする。だって、おまえは」
 今となってはきちんと髻を結い、烏帽子の内に隠れている九郎の黒髪を項から優しく撫で上げながら阿字は言うのだ。
「血の匂いがする。獣の匂いがする」
「ならば、何故、助けた? 捨てておけば俺はあそこでくたばったろうに」
「救われたかったかな」
「俺の命を助けて? つまり、善行を施すってアレか?」
「いや、そうじゃない。そういう救われ方じゃない」
 夢見るような眼差しで阿字は妙なことを言った。
「血の匂いがしたから……おまえが獣とわかったから……食われてしまいたかったかな」
 呆れて九郎は声を出して笑った。
「それのどこが救いだ?」
「おまえにはわかるまいよ」
 この頃にはとうに九郎は、この女首領の仏教カブレに辟易していた。
 殺生も、盗みも、凌辱も、罪を犯すことに変わりはない。
(何を今更……)

     6

 この日を持って九郎は阿字の盗賊団から放逐されたが、仲間たちはこのことを別段奇異に思わなかった。愛物を他に作った九郎に女首領が腹を立てて追い出したのだと、解釈したらしい。
 無罪放免、自由の身となった九郎はむしろ小躍りして白月丸の邸に赴くと、言った。
「先の荷物に加えて──俺も置いてもらえないだろうか?」
 縁にいて、母の着古しの白い生絹(すずし)の単衣に、紅の袴と言うくつろいだ姿で鈴虫を聞いていた白月丸、垂髪を揺らして笑った。
「構わないさ。言ったろう? 私の邸は隙間だらけだ、と」
 従者として使ってくれるよう九郎は申し出た。白月丸は友として、と言ったが九郎があまりに拘るので、好きにさせた。
「九郎のような、凛々しくて目にも綾な随身を持つ身になろうとは! 私もこれでやっと貴人らしくなったな?」

 かくして、白月丸の邸で二人の生活が始まったのだが。
 それからそう日も経たない内に都ではちょっとした騒ぎがあった。
「聞いたか、九郎?」
 白月丸は自身が聞き知った話を得意げに九郎に教えてくれた。
「長い間、京師を跳梁してきた〈仏心の阿字〉を名乗る盗賊団がついに捕まったそうだぞ」
 何でも一味の首領が女だった上に、その素性のせいで今、都中、噂で持ちきりらしい。白月丸の語るところに拠れば──
 最近、白河辺りで強盗があった。幸い物は盗られたが人身に被害はなかった。
 却って、盗賊の方に怪我を負った者があったらしく、血の跡が点々と道に零れていた。 *検非遺使・別当=警察長官
 誰か知らぬが、この血の跡をつけた豪気な輩がいて、その血が検非遺使の別当の邸内、北の対屋まで続いていているのを発見した。
 報告を受けた別当は、最初、仕える女房の誰かが盗賊を匿っていると思い、一人一人呼び出して問い質してゆくと、果たして、一人の上臈の部屋で血のついた小袿が見つかった。更に、縁の下から黒い装束が……!
「美しい上臈が盗賊の首領だとは、世の中には奇異な話もあるものよ」
 つくづくため息した後で、白月丸は続けて、
「尤も、奇異な話はこれだけではない。何でも──この血の跡をつけて、別当に進言した男が、別当が後になって考えれば考えるほど死んだ部下に生き写しだったとか。巡羅に出たまま消息を絶った看督長(かどのおさ)が幽霊になって真相を告げに来たと検非遺使庁の別当はいたく感じ入っているそうだ」
「ふうん」
 ここまで神妙な面持ちで白月丸の話を聞いたいた九郎は薄く笑って感想を述べた。
「別当が泥棒を自宅に飼っているようでは世も末だな」
 白月丸も笑って同意した。
「やはり飼うなら犬に限る!」

     7

 こんな風に二人の暮らしは楽しく過ぎていった。差し当たっては生活の心配もなかった。
 かつて飼い犬が食物を引っ攫ってきたように、今は従者の九郎が何処からか必要な金品を工面して来る。
 九郎は惜しげもなく上等な絹など次々買い求めたから、今では白月丸はどこから見ても立派な貴族の若君だった。
 二人連れ立って歩く姿は絵巻から抜け出たよう。儚げな若君と寄り添う精悍な随身である。
 東の市や北野の社前、祇園御霊会、城南宮の祭り……遊び呆けて日々は流れた。

 清水寺に紅葉を愛でての帰り道。賑わう市の端で白拍子の姉妹と出食わした。
 白い水干に達烏帽子。その内の一人は胸に鼓を下げている。妖しげで美しかった。
 白月丸が歩を止めてあんまり長い間見蕩れているので業を煮やした九郎が早く行こうと促すと、蓮の花が咲くごとくパッと髪を振って、
「九郎、あいつらを呼んで来い! 邸に連れ帰って一指、舞わせよう!」

 白拍子の姉妹は姉を青蓮、妹を丹菓と言った。
 九郎のおかげで今はすっかり整えられた白月丸の邸で、姉妹は華やかに舞い歌った。
 夜が更け、九郎が燭を立てて回った際、白月丸は悪戯っぽく双眸を燦めかせて耳打ちした。
「おい、私は妹の方を誘うから、おまえは姉でどうだ?」

「若子様はすっかり丹菓にご執心の様子。でも、私は構わない。私はハナからおまえ様が好みだもの!」
 夜具の中で姉の白拍子はくぐもった声で笑った。
 ところで、この白拍子は何でも知りたがった。
「ねえ、あの端の長櫃には何が入っているの?」
「俺が盗んだ財宝さ」
「素敵! ねえねえ、ここ何か匂わない? 邸中、妙な匂いが籠もっている気がするわ」
「俺じゃないのか?」
 九郎はせせら笑った。
「そう言えば、俺はよく獣臭いと言われるからな」
 青蓮は九郎の上半身に跨って逞しい胸に鼻を擦りつけると、
「違うわ。おまえ様じゃなくて……邸よ。この邸中に染み付いてる匂い……これは何?」
「ならば、香だろう。そもそもこの部屋は昔、白月丸様の母君の部屋だったそうだから。俺たち下臈には馴染みのない唐渡りの香の匂いだろうよ」
「伽羅とかか?」
「多分な」
「ねえ、一体おまえ様たちはどんな関係なの? あの若子様とおまえ様。だって、舎人にしてちょっと……」
「うるさい」
 とうとう九郎は白拍子を振り落とした。
 まとわりつく姉の睦言も、渡殿の向こうから漏れ聞こえてくる妹の嬌声も、総毛立つほど耳障りだった。

     8

 白月丸が九郎に頻繁に金を強請りだしたのはそれからだった。
 今までは自分から催促することはなかったのに。
 白月丸の身の回りの物の為なら九郎は喜んで財宝を出してやるのだが、それらが全てあの白拍子に渡るのだから面白かろうはずがない。
 白月丸は次から次へと──多分、乞われるままに──丹菓に贈り物をした。二人してすぐ寝所に籠ってしまうので以前のように遠慮なくズカズカと入って行くこともできなくなった。
 
 大晦日の追儺(ついな)の夜。
 遂に思い立って、九郎は邸から帰る丹菓を追った。
 その日は、冷淡な九郎に傷ついて姉は早くに帰り妹だけが長居したのだった。
 闇に紛れて、追儺の面を被った者らが行き交う中、鴨川を渡り、六条河原は市堂の辺りで声をかけた。
「待て、丹菓!」
「あら、九郎殿?」
 すぐ隣の神社の社に引っ張り込むと直截に九郎は言った。
「白月丸様と別れろ!」
 もらう物はもう十二分にもらっただろう? この上はとっととこの地を去り諸国を廻って稼ぐほうが賢明だぞ。
 白拍子はまだあどけなさの残る顔をキッパリと横に振った。
「嫌だわ」
 金品が目的じゃないから。私は本気で若子様を好いているの。
「生憎だな。白月はもうおまえに飽いている。惨めに捨てられない内に消えろ」
「嘘よ! 何よ? おまえこそ……従者の身で私たちの仲に口を挟まないで!」
 両者一歩も譲らなかった。
「白拍子風情がいい気になるなよ!」
「それはこっちの台詞よ。おまえこそ自分を何様だと思っているの?」
 フフフ、と丹菓は妙な笑い方をした。
「若子様がおまえのこと、何と言ってるか知ってる? 閨で私に言ったわよ?」
「へえ、何とだ?」
「『九郎は頭がイカレてるんだ』って。『どうも自分を私が前に飼っていた犬の生まれ変わりだと思い込んでるらしい。可笑しいだろう?』」
「当たり! よう言った!」
 今こそ、口に出せなかった全てが明らかになった、と思った。
 そうとも! 俺は自分を白月丸の犬だと思っていた。今も思っている。クロの化身だと。
 何故なら、そう思えばいつも心が安らかだったから。
 白月丸を見る時の、この胸の思いの全てが整然とカタがつく。身の内から湧いてくる昂ぶりや歓喜……至福感……!
 白月丸は〈愛物〉でも〈恩人〉でも、いわんや〈友〉でもなく──ああ、そんな下卑た言葉では到底言い表せない──この身を尽くして、全てを捧げるべき〈御主人〉なのだ!
 白月丸こそ、今生無二の〈主〉……護るべし!
 九郎は、今日ばかりは自分の刀を使う必要がなかった。
 可愛い白拍子が指している白鞘巻の脇差を目にも止まらぬ速さで引く抜くと、その柔らかい胸に突き立てた。

     9

「九郎、おまえ、丹菓の行方を知らないか?」
 蒼白の顔で白月丸が聞いてきたのは七日後のことだ。
「このところずっと姿が見えない」
 九郎は鼻で笑った。
「相手は白拍子だ。また旅にでも出たんだろう」
「白拍子が一人で旅になど出るものか。姉の青蓮も行方が知れないと言って困り果てて探し回っているのだぞ。なあ、ほら、七日前、丹菓はここに来てたろう? あの日以来ふっつりと姿が見えないそうだ。九郎、おまえ、本当に何も知らないのか?」
 九郎は黙った。
「もしや、何かしたのではないだろうな?」
 答えを求める白月丸の声が異様に震えていた。
「ああ」
 と九郎は言った。早く震えを止めてやりたくて。一言で済む。
「俺が殺したさ」
「─────」
 美しい主人の声の震えは止まったものの身体の動きも止まってしまった。その大きくに開かれた双眸……
「俺が殺した」
「……何故?」
「そうだな。だって、俺はあんたの〈犬〉だから」
「何だと?」
 ゆっくりと楽しむように。ちょうど骨をしゃぶって楽しむ、そんな調子で九郎は言った。
「だから、あんたを守る必要がある。ご主人様を守るのが俺の仕事だ」
 御主人様に災いをもたらす何者も許さない。
 御主人様を汚す何者も許さない。
「あの中納言も、そして、あの遊女も、な。だいたいあんな汚れた連中とかかずらわっていたら、おまえ、音に聞く今流行りの極楽浄土へなど永遠に行くつけないぞ」
「────……!」
 声にならない悲鳴を上げて白月丸はその場に崩折れた。

 どのくらいそうしていたことか。
 やがて、白月丸はうっすらと煙のように立ち上がって、か細い声で聞いてきた。
「……何処だ?」
「何が?」
「何処へやった、丹菓を?」
「捨てたさ」
「それは何処だ?」
「今更聞いてどうなる? 白拍子の死骸の在所なんぞ。それとも──」
 ここで再び九郎の胸に意地悪い炎がチロと燃え立った。九郎は言った。
「また、後生大事に傍に置いとくか? そら、母者みたいに?」
「────」
「俺が始末してやらなければ、今もあのままだったんだぞ。忘れたのか?」
 病に伏している母、などとは昔の話。白月丸の母と、その年老いた乳母は、とっく息絶えていたことを九郎は言っている。
 ここに足繁く通うようになってほどなく、それに気づいた九郎が、全く動こうとしない白月丸に代わって邸内に放置されたままの骨片を拾い集めて綺麗に片付けてやった。
「では──」
 突然、白月丸は目を輝かした。
「鳥辺野か? 母君を捨てたと同じところだな? 私の丹菓はそこにいる?」
 言うが早いか、秘色の袖を翻して飛び出して行った。
「あ、待て、白月……!」

     10

 一口に鳥辺野と言っても、古くは六原と呼ばれたそこは鴨川から東山にかけた山地である。
 貴賤を超えて都人の葬送の地とされて来た。
 貴種の血を引くあのたおやかな足で、一体どう走ったものか、白月丸は後を追って来た九郎も呆れるほど、こけつまろびつ、愛しい丹菓を求めて駆け巡るのだった。
 空からはチラチラと雪が落ち始めた。雪はからかうように嬲るように白月丸の額や頬、肩や肘……腰や足を打つ……
 とうとう、積もった雪と立ち枯れた草が斑に残る崖下に見覚えのある白い水干を見つけた。
 むしろ変わらないのは未だ残るその装束の方で、丹菓の身体は見る影もなく腐り崩れていた。
 白月丸はしばし呆然と見下ろしていた。
 勢いを増した雪片が春の桜花のように降る。
 醍醐寺の花見会、清流会でこそこういう白月丸の姿を見たかった。追いついた九郎はつくづく思った。桜の花ならば一枚一枚この指でそっと払ってやれたろうに。
 その白月丸、突っ伏して、溶けた丹菓の亡骸の中に体を浸すようにして泣き始めた。
 かつて恋人だった者を掻き抱き、掻き集めて、声を限りに泣き悶える。九郎は狂態のその様をただ黙って眺めていた。
 九郎の胸に暗い情念の炎が立ち上ったのはこの時だ。
 それはブスブスと煙って喉を炙り鼻腔を塞いだ。目がひりついて涙が滲む。
 火種は、憎しみとも言い、愛とも言うもの。
 殺ってしまえ、と決めた。
 白月を刺し貫こう、と。
 一筋に彼のことだけを慮って、それ故、殺生さえ犯した俺のことは微塵も顧みず、ただ殺されただけの、何もしない、無力の遊女なんぞのために血の涙を流すとは……!
 思えばこの尊い主人を護り通すために既に二人──ひょっとしたら三人と数えるべきか?──殺したが、こんなことではこの先また何人も殺さねばならないだろう。だが、ここで、白月自信を殺してしまえば、それこそ一人で済むのだ。
 ここで終わる。なんと確実で、鮮やかか。
 もうその身をあれこれ心配したり、思い煩うこともない。
 そう言えば──
 九郎は思い出した。愛しいと言って、俺に食われたがったのは阿字だったが。だが、俺は違うぞ? 俺はむしろ……俺なら……食ってしまいたい……!
 その阿字からかつて授かった、今となっては体の一部のように慣れ親しんでいる刀の柄に手を置いて九郎が一歩踏み出した時──
 ほとんど同時に、地に突っ伏して泣き崩れている白月丸の体めがけて襲いかかった臭い影があった。

 それは、飢えた野犬の群れ──
 涎を垂らし、ただならぬ光をその目に宿した畜生ども。
 平生は死肉を喰らってこの山辺を徘徊しているのだろう。只今、新鮮な生肉にありつこうと、熱い息を吐き次々に飛び掛って来た。
「白月丸!」
 抜いた刀で一匹、また一匹……
「九郎……?」
「気をつけろ! 動くなよ! そこに……じっとしていろっ!」
 たった今、白月丸を斬ろうとした刃を翻し、九郎はその汚らわしい塊まりを降りかかる雪もろとも斬って、斬って、斬りまくった。
 爪に頬を裂かれ、牙が腕を削いでも、ものかは。
 宛ら、これら醜い獣どもが、先刻、自分の棟を過ぎった暗い情念。。悪趣の顕現であるかのように・・

 気づくと犬どもは全て赤い血を吹いて雪原に堕ちていた。

     11

 九郎は白月丸を連れて無事、鳥辺野から戻ることができた。
 その九郎が病の床に着いたのはそれから数日後のことだ。鳥辺野で襲って来た野犬に裂かれた傷が悪化したのだ。
 傷そのものより、それのもたらした熱と乾きが苦労を責め苛んだ。
 白月丸は高価な薬を求めたり、加持祈祷、霊験あらたかという御札等々、可能な限り手を尽くしたが全て甲斐がなかった。
 とうとう九郎は白月丸さえ遠ざけて独り部屋に籠ってしまった。部屋からは終日、のたうち回る不気味な音と恐ろしい唸り声が響いて来た。
 と、深更。
 床を引っ掻き、壁にぶつかる身も凍る音が不意に止んだかと思うと、白月丸を呼ぶ九郎の掠れた声がした。
「白月丸様……白月丸様……」
「おう、ここにいるぞ、九郎!」
 襖を開け放って飛び込んだ白月丸が目の当たりにしたのは──
 これがあの精悍だった男かと疑うばかりの、変わり果てた九郎の姿だった。
 目は爛爛として金色の光を帯び、口からは涎が糸を引いている。自分の爪で引き裂いたらしく衣もつけていない尖った裸の体に後から後から油のような汗が吹き零れてきた。。
 唯一かわりないのはあの射千玉(ぬばたま)の髪で、肩に胸に、黒い滝のように降り掛かっている様が却って妖しく、凄まじかった。
「わ、わかっている……」
 引き攣って激しく震える体に抗いながら九郎は言った。
「そうとも……俺は……犬に戻るのだ」
 やはり自分は犬であった、と九郎は繰り返した。
 せっかく人間に成れたのに。だが、これも仕方がない。自分は邪な心を持ったからな。たくさんの人を殺め、挙げ句の果てに、おまえを──
 あれほど、後生大事に護るべきご主人様のおまえをすら殺そうと思った──
「それで……バチが当たったのだ」
「九郎──」
 何か言おうとした白月丸を遮って、九郎は続けた。既に人とは思えぬ吠えるような嗄れ声だった。
「こんな俺が、もはや、どうしたところで救われないのは十分承知だ。ただ、一つだけ、頼みがある」
「な、なんだ、言ってみろ」
「俺は……犬には戻りたくない。せめて、人間の姿で……形なりとも人間のままで今度は死にたい。お、俺を抱いてくれ、昔のように……」
 白月丸がそうすると、九郎は残る最後の力で刀を引き寄せ、己の喉を掻き斬った。

     12

「何とも浅ましい話かな……」
 さすがの高僧も、また、その弟子たちも話を聞き終えた後、暫く身動ぎもなかった。
 しかし、若者がなお、もどかし気に痩せた腕を伸ばして訴えて言うには、
「じばし。まだ終わりではございません。肝心の、私の話はここから──」


「哀れな九郎は最期に臨んで、『こうなったのは全て自らの犯した罪のせいだ』と申しました。けれど、それは違います。
 本当に悪いのは……すべての元を作ったのはこの私なのです。
 そもそも全ては、私の殺生から始まったのですから。
 最初に九郎を殺したのは私だったのです。
 でも、どうしようもなかった。ひもじくて。

 あの日、食おうと思って呼んだ私の膝の上で、その時ですらあれは尻尾を千切れんばかりに振って跳びついて来ました。
 ああ、どうか、そのような嫌悪の御顔をされますな。
 だって、その時の私には他に術がなかった。母と乳母さえとっくに食い尽くしてしまっていたのですから。

 そういうわけで──
 九郎が立ち現れた時、私はクロが私を罰するために戻って来たのだとすぐわかりました。
 私は観念して、九郎が私を責め出すを今か今かと震えながら待ちました。恐ろしかったですよ。生きた心地がしませんでした。
 ところが、九郎は一向に、私がなしたおぞましい行為には触れず昔同様それはそれはよく尽くしてくれた……
 それで、愚かにも私は許されたと思い、安堵しました。
 実際、クロが戻って来てくれて日々がまたどんなに楽しくなったことか……!
 九郎が傍にいてくれて私は本当に幸福だった……!
 でも、結局、クロはわたしのやったことを忘れたわけでも、いわんや、許したわけでもなかった。

 九郎は別のやり方で私の罪を問うたのです。
 私が必要とした者……私が愛した者を悉く私から取り上げるというやり方で。

 ああ、丹菓には本当に申し訳ないことをしました。今も心から悔いています。私に可愛がられなければあたら若い命を散らすことはなかったのに。
 中納言殿だって、私と関わらなかったらあんな風に無惨に死んでいくことはなかった。
 それもこれも、全ては私のせいなのです。
 私から出たこと……

 再び私の腕の中で死んでいったクロを見た時、私は、人は自分の犯した罪から永久に逃れられないのだと、今度こそ身に沁みてわかりました。
 だって、あいつ──
 かつて私がやった通りに、同じ私の膝の上で、今度は自分の手で喉を掻っ切った……!」

 若者の嗚咽の音だけが河原に低く響くばかりであった。
 やがて、顔を上げた若者は、こう言って、話を締めくくった。

「そういう訳で、上人様、今はただ、二度ながら私の腕の中で死んで行ったクロが哀れで申し訳なく……愛しくてなりません。
 供養してやりたくとも、この者、畜生の身なれば──まして殺生まで犯している。そうして、そこまで貶めたこの私……
 一番最初に殺生戒を犯した私は更に罪深い。全く、クロが生前その口で言い切った通り、私は極楽浄土には金輪際行き着けぬ身にございます。
 共に救われることのない一人と一匹なら、せめて今生は離れずに……こうして一緒に漂っていたいと思うのです……」


     *

 高僧が、若者が犬と言い張る懐の髑髏を取り上げ、教え諭してその菩提を懇ろに弔ってやったのかどうかは伝わっていない。
 一説には、この若者を高僧が弟子として連れ帰り、その後、彼が深く仏教に帰依したとも聞くが、今となってはこれも定かではない。
 但し、この高僧の栂尾の寺に運慶に彫らせたと言う犬の像が今日まで伝わっているのは事実である。

 いずれにせよ、末法の世なれば、かくのごとき物狂いの話は後を絶たなかったようである。


                                           

                                          《   了   》

  
 


 


 



 
 

懐に犬の屍を入れている男の話

懐に犬の屍を入れている男の話

建歴(1210)の頃の奇譚。 京は鴨川の河原に懐に犬の屍を入れている若い男のことが噂になった。 だが、実際はそれは犬ではなく美しい黒髪の残る髑髏なのだった。 何故、男はそれを犬と言い張り、片時も離さず胸に抱いているのか? 訪ねて行った高僧に男が語る己とその髑髏の摩訶不思議な因縁……

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-09-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted