Fate/defective Extra edition
馬鹿にも作れるケーキ、そして巨大なテディー・ベア
最初は、自分には何ら関わりのない―――いや、この界隈の人間全員にとって、全く関わりのないものだと思っていた。
だって非合理的で、無駄で、余計なものだ、これは。間違いなく。
ところがどうやら、そうはいかないらしい。
私が非論理的と切り捨てたはずのものは、周囲にとっては大事なことらしい。不思議なもので、一度不必要と思っても、周りが「そうではない」という雰囲気を帯び始めると、途端に自分の決意など簡単に揺らいでしまうものだ。いわゆる「空気に流される」ということだろう。
しかし迷っている暇は無い。決断の時は迫っている。
そう、すなわち――――バレンタイン・デー。
二月十日。
窓から朝日の差し込む早朝、読んでいた紙束から目を上げて、深くため息を吐いた。ロンドンに来てから丸一年、アリアナは御代佑の名目上の弟子として時計塔に在学することを許され、このアパートメントの一室を借りて生活している。車椅子の生活にもやっと慣れ始め、一人で行動することも出来るようになり、何かにつけて時計塔の魔術師たちとの交流も少しずつ増えてきた。それはいいのだが――――
「おはよー! アリーいる~~??」
扉をガンガンと殴るようなノック音と共に、明朗な少女のけたたましいことこの上ないモーニングコールに、アリアナは一層深いため息を吐いた。
「おはよう、ニーナ。開いてるわよ」
「マジでか」
ガチャリ、と扉が開き、モスグリーンのやぼったいコートを羽織り、紙袋を抱えた少女が姿を現した。黒い絹糸のような髪を背中まで伸ばし、額で切りそろえられた前髪の下には特徴的な緋色の瞳が瞬きをしている。彼女は入ってくるなり、大げさに肩をすくめてみせた。
「女の子が一人暮らしで鍵もかけないとか、ちょっと不用心すぎじゃない?」
「どうせあんたが来るから開けておいたのよ。夜は七時に締めてるから」
「門限早いな~、夜に人恋しくなったら会いに行こうと思ったのにな~」
「うるさくて仕方ないだろうからお断りするわ」
「うわ~、アリーの冷血~。あ、またなんか難しそうな紙見てるし。なに、それ?」
「何でもいいでしょ」
アリアナは読みかけの紙束を片付けた。
ニーナは抱えていた紙袋をテーブルの上に無造作に投げ出し、コートを脱ぎ捨て、適当な椅子の背に掛ける。けして広くはないアパートメントの一室が、ニーナが来ると更に狭く感じる。
そういうわけではないが、アリアナは渋い表情で言った。
「ねえ、別にもう朝食くらい一人で作れるし、こんな朝早くから来なくても……」
「いいのいいの。あたしが好きでやってるんだし。あ、もしかしてうるさくて迷惑とか? そりゃゴメンだわ、アハハ! でもあたしも一人で朝ごはんなんて寂しくて死んじゃうし、アリアナに何かあったら大変でしょ? アリアナ友達少ないからな~」
機関銃のように喋りながら、ニーナは慣れた手つきで紙袋からパンと卵を取り出し、「しまった、割れてる!」と叫んでキッチンに立った。
アリアナは「友達が少ない」と核心を突かれたことに苦い顔をしつつも、「じゃあお願いするわ」と言ってテーブルの上を片付け始める。
二人で使うのがやっとの大きさのテーブルの上があらかた片付き、読みかけの新聞や本や脱ぎっぱなしの服をまとめて窓際のベッドに放り投げた時、ニーナがボウルの中の卵をフォークでかき混ぜながら「あ」と声を上げた。
「何?」
「もうすぐバレンタインデーだねぇ」
「……それがどうかした?」
ニーナは目を輝かせてアリアナに詰め寄る。
「ねえ、もちろんあの二人に渡すんでしょ、チョコレート!」
「……は?」
アリアナは本気で素っ頓狂な声を上げた。ニーナは、何を今さら、とニヤニヤする。
「だってロンドンに来た時からいつも一緒だし、あの二人、何かにつけて君の事しか見てないしぃ、まるで物語の中の王子と姫みたいじゃない! バレンタイン、逃す手はないと思うよ? ん?」
「………」
アリアナは呆れてものも言えなくなった。王子と姫? 私と彼らが? もし例えるとしたら、暴れ犬二匹に振り回される哀れな飼い主、もしくはアブに刺された馬二頭が牽く馬車の悲運な御者だ。それに―――
「ニーナ、そんな自虐を言ってる場合かしら」
「……へ?」
アリアナは今日三回目の溜息をついた。この善良な田舎者の魔術師は、少々周囲に対して鈍感が過ぎるのが弱点だ。
「だから、あんたは―――――」
「おはよう、アリアナ……っと、メルベールさんもいたんだね」
ガチャ、と扉が開いて、何ともしがたいタイミングで御代佑が顔を出した。メルベール、と姓で呼ばれたニーナは、佑の顔を見た瞬間にキュウリを見た猫のように飛びのき、固まる。アリアナはうんざりとした顔で彼を出迎えた。
「朝だってのに次から次へと、まあご苦労な事ね。朝食ならニーナが用意してくれるから大丈夫よ」
「そっかあ、じゃあ僕は自分の家で食べるよ。また後でね。メルベールさんもありがとう、よろしくお願いします」
「……は、はい!」
ニーナの返事を聞くと、佑はあっさりと手を振って引き返していった。バタン、と扉が閉まる。
数秒の沈黙の後、アリアナは硬直しているニーナを見上げて言った。
「……だから、佑のことが好きなのはあんたの方でしょう」
「そ、そんなこと!」
ニーナは慌ててボウルの中の卵をかき混ぜはじめた。黒髪の隙間からのぞく耳は真っ赤だ。明らかに動揺するニーナを見るのが少し愉快で、アリアナはさらに畳みかける。
「初めて会ったときはそれはもう、王子を見たような顔をしてたものね? ああ、あれは時計塔の中庭で、あんたが研究用の資料を大空にぶちまけて半泣きで座り込んでいた夏のあの日―――」
「もうやめてー! 無理! いじわる! うわーん!」
ニーナは顔を真っ赤にしてボールの中の卵をぐしゃぐしゃに混ぜる。ボウルの中はもうすっかり混ざりきっていた。
*
「じゃあ、ニーナは佑にチョコレートを渡すのね」
砂糖とバターがたっぷり入った甘いスクランブルエッグを口に運びながら言うと、向かいに座ってホットミルクを飲んでいたニーナが「ゴフッ」とむせた。
「……え? 何? なんて?」
「だから、今言ったとおりよ。あんたは佑にチョコレートを渡すつもりなんでしょ」
「そ、そんなことないよ」
ニーナはそばかすの少し残る頬を微かに上気させ、目を泳がせる。アリアナは眉を寄せた。
「なんで? この機会を逃す手はないってあんたが言ったんじゃない」
「そ、そうだけどぉ……」
ニーナはまごまごとパンを千切る。
「なに、私には秘密にしたいのかしら。佑に喋るから?」
「それは違うよ! 違うん、だけど」
煮え切らないニーナの態度に、アリアナは首をかしげる。好きなら、どうして好きと言わないんだろう。思ったことは何でもすぐに態度にも口にも出る直行便みたいな少女なのに、これだけを言いよどむ理由がアリアナには分からなかった。
「そんなことより、ほら、そろそろ時間だよ! 早く食べないと遅れちゃう」
時計を見て、げ、と声を上げる。アリアナは慌ててコーヒーを飲みほした。
「っていうことがあったんだけど、どういう事だと思う?」
昼食をとるために教授や魔術師が出払った研究室のソファーに座り、アリアナは尋ねた。尋ねられた相手は本棚に寄りかかりながら不機嫌そうに答えた。
「……どういうも何も、お前に分からないのに僕に分かると思うか?」
「それもそうね。那次は恋愛経験なんか無さそうだし。ていうか、あったら面白―――驚きだわ」
「いま面白いって言いかけただろ」
「別に? 聞き間違いじゃないの」
那次はやれやれと首を振った。
「あいつの色恋沙汰なんかどうでもいいな。それよりお前、さっき僕のこと本名で呼んだだろ。誰かが聞いてたらまずいから、人気が無くても偽名で呼べ」
「ああ―――はいはい、そうね。『キイチ』くん」
ロンドンに来る時に知ったことだが、那次の家は相当面倒な事情を抱えているらしく、他の魔術師に本名を知られるだけでも『命のにかかわる』ほど危険らしい。アリアナも時計塔に来てすぐの頃は『アッカーソン』と名乗るだけで年上の魔術師達に奇異な目で見られたので何となく事情は分かるが、それでも命に関わるほどじゃない。ともかく、三人の約束に、『那次の事は偽名で呼ぶ』という取り決めが出来るのにそう時間はかからなかった。
「ところでキイチ? そこで突っ立ってないで、私の仕事を手伝うのはどう?」
だいぶ慣れてきた笑顔をにっこりと浮かべ、 キイチを見上げる。彼はうんざりとした顔で肩をすくめた。
「お前、その顔をすると悪魔みたいだな」
「誰が悪魔よ。失礼な暴言をレディーにのたまってる暇があるなら、さっさとこの報告書まとめなさい」
「……これ、一年前の資料じゃないか。何だってこんなもの……」
那次はやれやれといった様子でアリアナの向かいに腰を下ろし、テーブルの上の報告書を適当にかき集め始める。アリアナは机の上に積まれた資料の文章に目を通し始める。
その時、バン! と激しい音を立てて研究室の扉が開いた。二人が大きな音に驚いて飛び上がると、ドアの向こうには一人の女が立っている。
「キイチ―――! ここにいたのね、嗚呼、探したわ!」
やけにキンキンと響く嬌声を上げるその女は、ずかずかと研究室へ入ってくる。アリアナは唖然として彼女を見上げた。
歳はアリアナと同じくらいか、それ以上に見える。滑らかにウェーブした豊かな銀髪をなびかせ、陶器のように透き通った白い肌によく映える青いワンピースを纏っている。その女性を見た瞬間、那次の表情があからさまに嫌悪感を帯びた。そうしているうちに、銀髪の乙女はそそくさと扉を閉め、那次の隣に勝手に腰を下ろす。
「嗚呼、本当に探したわ。貴方いつも何処に居るか分からないんだもの! お昼、まだでして? わたくし、もちろん用意してきましたわ! さ、さ」
アリアナが呆気にとられているうちに、彼女はさっさと持っていたカゴからサンドイッチやら果物やら肉やらを取り出す。その途中ではたとアリアナを見て、初めて気付いたという風に目を見開いた。
「あら、まあ、ごめんなさい。わたくしとしたことが……貴女にご挨拶もしていなかったわ。わたくし、鉱石科のスネグラチカと申します。以後お見知り置きを」
「あ、はあ……キイチの友人なの?」
「見て分からないのか、友人でも何でもない、少し前から勝手に付きまとわれてるだけだ」
那次は不機嫌そうに言った。スネグラチカはむっとわざとらしく頬を膨らませ、反駁する。
「つきまとっているなんて、ストーカーみたいに言われる所以はありませんわ! わたくしはただ貴方をもっと知りたいのです。その為には、少しでも多くの時間を共に過ごすことが何よりの近道ですわ。さ、お食べになって! 全部食べたら貴方の好物の桃を剥いて差し上げますわ」
さあ、と差し出されるサンドイッチに顔をしかめる那次を見て、アリアナはニヤリと笑う。好みまで把握されているとは、案外彼は尻尾を出しやすい性格らしい。
それにこの光景はなんだか新鮮で、面白かった。
ロンドンに来てから火傷痕を隠す包帯は巻かなくなった那次は、それでも人目をはばかる癖が抜けずに、いつも人通りの少ない場所を選び生きてきたように見える。研究室と自宅の間を行き来する以外は殆ど外出することは無かったし、『命に関わる危険』を避けるために他人と交流を持つことも少なかった。マーケットに買い物に行く時に付き添ったのはいつも佑かニーナで、まさか那次にこんな少女と交流があるとは思いもしなかったのだ。
アリアナは目の前で、——ほとんど無理やりに近い形ではあるものの——スネグラチカの昼食を食べる那次を見て、安堵にも近い表情を浮かべた。
「なんか、満更でもないでしょ、キイチ」
「な」
那次は硬直した。スネグラチカは分かりやすく、ぱあっと嬉しそうな笑みを浮かべる。
「本当!? 嬉しいわ! そうだ、お茶が無かったわね。わたくし取ってくるわ、少々お待ちになって?」
意気揚々と立ち上がり、研究室からひらりと出て行ったスネグラチカを目だけで見送って、アリアナは笑って、読みかけの紙束を手に取りながら言う。
「なんだ、普通の良い子じゃない。少し変わってるけど」
「普通なもんか」
不満げにそっぽを向いた那次は、ぼそりと呟く。
「スネグラチカはロシア語で『雪娘』……童謡の中の存在を意味している。言っている意味がわかるか?」
眉をひそめ、軽く首を横に振ったアリアナに、那次はため息混じりに言った。
「あの女も偽名を名乗ってるんだよ」
*
結局、そのあとなんだかんだと作業に追われ、ニーナとまともに話せる機会もあまり得られず、気がつけば三日も日が過ぎていた。相変わらず彼女は研究室やマーケットに付き添い、アリアナの部屋にも度々訪れたが、あの話題については一切口を開くことはなかった。意図的に避けているようにも見えたし、単にあの会話など忘れていただけにも見える。
今日も朝の七時には玄関の鍵を開けておいたのだが、あのけたたましいノック音が聞こえることは無かった。代わりに、静かで遠慮がちなノックが二回、部屋に響く。
「おはよう、アリアナ。起きてる?」
思った通り、扉の向こうから佑の穏やかな声が聞こえた。アリアナは、ええ、と返事をする。
少し間を開けたあと、ガチャ、と扉が開いて佑が姿を現した。白いシャツにアイボリーのセーター、紺色のスラックスという、いつも通りの落ち着いた出で立ちだ。
「やあ」
「おはよう。一人?」
「うん、那次はまだ寝てるし、メルベールさんも見かけてないよ」
「そう」
ベッドに座りながら、そのまま当然のようにキッチンに立つ佑を見ていた。パンをトースターに入れ、その間にフライパンでベーコンと卵を焼く。
「コーヒー?」
「うん」
佑が来る朝はすごく静かで、ゆっくりとした時間が流れる。会話も必要最小限だ。アリアナは頬杖をついて佑を見る。確かに、彼は一年で背も伸びたし、同い年の男性と比べて独特の雰囲気を持っている。気遣いが出来るし、物腰は柔らかで、傍目に見ている分には非の打ち所がない。ニーナが佑に惹かれるのも、まあ分からなくはない、とアリアナは考えた。
「ねえ」
「うん?」
アリアナは尋ねた。
「スネグラチカの事を知ってる?」
本当はニーナのことを聞こうと思ったのに、口から飛び出たのはそんな言葉だった。言葉を発する寸前に唇が反射的にそれを避けたことに驚きながらも、あくまで平静を装って佑を見上げる。佑は「ああ」と言って苦笑を浮かべた。
「知ってるよ。すごい女性だよね」
「那次はどう思ってるの?」
「さあ、どう……だろうね。顔では嫌がってるけど、本当に邪険にしているところは見たことがないよ」
佑はトーストを皿に置いてから、マグカップにコーヒーを注いだ。アリアナは重ねて尋ねる。
「佑はどう思うの、スネグラチカのこと」
「……うーん、別に……素敵な女性だと思うよ? スネグラチカさんの料理は美味しいし」
「ふうん……じゃあニーナは?」
聞いてから、アリアナは佑を注視する。だが佑は特に変わった様子もなく、アリアナの顔を見て困惑したように軽く首を傾げただけだった。
「……素敵な女の子だと思うよ? どうして?」
「ふうん」
別に聞いてみただけよ、と会話をさらりと流して、アリアナはテーブルの前の椅子に移動した。湯気を立てているコーヒーに口をつけ、殆ど手癖でテーブルの上の紙束に手を伸ばし、それを読み始める。その様子を見た佑が言った。
「それ、資料室のデータのコピーだよね」
佑は僅かに声色を落とす。
「まだ、探してるの?」
アリアナは目を伏せた。
「……万が一、よ」
二月十三日。
いよいよ明日が本番という事もあって、どことなく男も女もそわそわと落ち着かないように感じられた。アリアナはその静かな空気の動揺から一人外れたところに居るつもりだったのだが、どこもかしこもそのおかしな空気で満ちていて落ち着かない。よく通る大通り、昼食をとる中庭、通い詰めた図書館、果ては研究室でさえも、チョコレートの甘い囁きで揺れているような気がしてならない。
アリアナの張り詰めた緊張の糸は、夕食後、カードゲームを持ってニコニコと自室を訪れたニーナを見た時に限界に達した。
「こんばんは、アリー! 今夜は付き合ってもらうからね!」
そう陽気に声を上げたニーナを、アリアナは不敵な笑みで迎えた。
「そうね、私も今夜はあんたに付き合ってもらうわ」
「……アリー?」
異様な気配を察したのか、ニーナが引きつった笑いで後ずさる。アリアナは車椅子に座ったまま、キッチンの棚を指した。
「開けてちょうだい」
ニーナはおそるおそる戸棚を開ける。出てきた中身を見て、げっ、と可愛げのない声を上げた。
「卵、バター、砂糖、薄力粉、ペーキングパウダー、それから……長方形の箱!」
「そう。その引き出しにはドライフルーツ、なんとテーブルの上にはラッピングまで用意されてるの」
アリアナの言葉を聞いたニーナは眉尻を下げ、半泣きで訴える。
「無理よ! あたしは……いいの、そういうのは」
「なあに? 肝心なところが聞こえないわ」
アリアナは真顔ではねのける。意地が悪いことくらい分かっていた。他の友人なら、もっと違うやり方でニーナを励ませたに違いない。
それでも、こうして彼女を試すほかに、自分で納得のいく答えが得られるとは思わなかった。
「ねえ、どうしてかしら。ニーナは佑の事を本当に慕っているじゃない。それがどうして、今さら気持ちを伝えることを戸惑うの? いいじゃない、お祭り騒ぎの便乗だって、あなたが佑のことを思う気持ちがあるなら、それは恥ずかしい事じゃないわ」
車いすの車輪を押して、キッチンに立ち尽くすニーナに近づく。白熱灯の無機質な明かりが、僅かにそばかすが残る彼女の頬を白く照らしていた。
「……だって、あたしは部外者だもの」
俯いた彼女の黒髪が、やけに目に沁みた。
アリアナは虚を突かれて言葉を失くす。
ニーナは不安げに両手の指を体の前で絡ませながら、ぽつぽつと語った。
「時計塔に来た時から、アリアナ達は三人で一つみたいだった。……そう、本当に、あなたたちはおとぎ話の中の王子と姫みたいに、絶対に隙が無かった。二人はずっとあなたのことしか見ていなくて、あたし―――こんなこと、思っちゃいけないのに……足が不自由なアリアナが本当に羨ましいと思ったの」
ごめんなさい、とニーナは小さく謝った。アリアナは首を振る。別に、彼女は謝らなければならないことなんか何もしていない。
「ニーナは部外者なんかじゃないよ」
アリアナは言った。
「だって私の友人でしょう? 知ってのとおり、私たちは友達が少ないの。キイチは根暗なくせに意地っ張りで子供だし、佑は臆病で優柔不断で敵を作るのが怖いからああやって愛想を振りまいているだけだし、私はこの通り底意地が悪くて、人間不信で不器用だし。でもニーナはこんな私たちでも明るく笑って受け入れてくれたじゃない。ここではもう誰も特別じゃないわ、だから私を羨ましがって、勝手に自分をのけ者にしないでよ」
アリアナの言葉に、ニーナは伏せていた眼を上げた。瑪瑙のように赤い目が微かに揺れている。
「……いいの? あたしでも」
「あなたじゃなかったら、誰が毎朝七時にモーニングコールをしてくれるの?」
ニーナは固まっていた顔をやっと崩して、えへへと笑った。アリアナもその顔につられて微笑む。ニーナは黒く長い髪を後ろで勢いよく束ねて、「ようし!」と気合を入れた。
「パウンドケーキは馬鹿でも作れるの。田舎魔術師の本気を見せてあげるわ!」
「なるほどね。ちなみに錬金術は禁止だから」
「ええ~!? 手で作ったら何時間かかると思ってるのよ!」
「逆にパウンドケーキ一つに何時間かかると思っているのか知りたいわ……」
*
二月十四日の朝七時半、アリアナは一人でベッドの上に座り、散らかっていた紙束や本を片付けていた。
今頃、ニーナは佑にバレンタインデーのプレゼントを渡しているだろう。ニーナからケーキを貰った佑はどんな顔をするだろう。いつも通り穏やかな顔で笑うだろうか。それとももっと特別な反応をするだろうか。お願いだから一緒に来て、と最後まで懇願したニーナに、私がいたら車椅子が邪魔でそれどころじゃなくなるから、と無理矢理突き放したのを思い出して、アリアナは苦笑した。そもそも、ニーナはちゃんと逃げ出さずに佑に会えたのか?
それから那次のことを考えた。昼ごろに研究室にいたら、きっとスネグラチカが訪ねてくるに違いない。彼女は那次にどんなプレゼントを用意するんだろう? 感情を少しも隠さない、真っ直ぐすぎる彼女は、あのひねくれ者にどんなチョコレートを渡すんだろう。考えていたらこっちまで楽しくなってきてしまう。アリアナははっとして、止まっていた手を再び動かし始める。
窓から差し込む金色の光がその古い資料を照らした。一枚一枚穴が開くほど見たデータだが、最後にもう一度確認する様に眺めてから脇に積み上げ、ある程度溜まると紐で縛って資源ごみに出す用意をする。ほとんど丸一年探していた要件は、結局見つからないままだった。
それでも、もう一度だけ。見落としがあってはいけない―――アリアナはそう言い訳のように心の中で唱えて、一枚を膝から拾い上げる。
『神代の魔術と神霊召喚についての研究成果とその記録』
―――ロンドンに来て、時計塔に来て、まず手始めにありとあらゆる情報を調べた。
一年前、私が神霊を召喚したという事実がどこかに残っているはずだと。
聖杯のバックアップがあったとはいえ、ほとんど魔法に近い所業を成し遂げたのだ。それを、この魔術協会が見逃しているはずがない。アリアナは必死になって探した。あの夜発現した魔術刻印は綺麗に消えてしまった。ビーストとあの魔術師がいた大聖堂は跡形も無く、聖杯が二つあったという記録さえどこにも残ってない。……これでは、あの夜のことを証明するものが何一つない。
手柄を立てたいわけではない。自分の力を知らしめたいわけではない。ただ、ただ―――どうにかして、彼のことを、夢や幻ではないと証明したかった。
あの時、他の誰でもない、私と彼だったから今があるのだと。
「でももういらないわ」
今はもう、昔の私ではない。
相変わらず不器用で、意地っ張りでどうしようもないけれど―――それでも、前よりは、人を信じる方法を知っている。誰かを好きになるという事が、少しだけど分かるようになった気がする。あの夜が嘘ではないという証明なら、今まさに、この脚がそれを成している。私にはもう、過去に縋りつく暇は無いのだ。
それを肯定するかのように、部屋にノック音が響いた。軽やかに、二度。
「ハッピーバレンタインデー!」
頬を上気させた黒髪の友人が、弾んだ息と共にドアを開けた。その後ろには、何故かたくさんの紙袋を抱えた佑と、何故か巨大なテディベアを抱えて不機嫌そうな那次の姿が見える。私は可笑しくって、思わず吹き出した。
最初は、自分には何ら関わりのない―――いや、この界隈の人間全員にとって、全く関わりのないものだと思っていた。
だって非合理的で、無駄で、余計なものだ、これは。間違いなく。
ところがどうやら、そうはいかないらしい。
そう、すなわち――――バレンタイン・デー。
Fate/defective Extra edition