オリオン座は怯えた自分を教えてくれる
気分が沈んだ時に見る夜空は、時に美しく、時に不気味に思えます。
ある冬の夜。僕はたまらなくなって外に出た。夜明け前だった。
ふと空を見上げると、そこにはオリオン座があった。
オリオン座は僕が唯一知っている星座だ。「見てしまった」と思った。
この星座を眺めていると、自分の不安定さに頭がヤられてしまう。視線を地面に向けながら、僕は坂をおりて街の方へと向かっていった。
高校生の頃、僕には空という恋人がいた。
空は非常にかわいらしい見た目で、おとなしく思われることが多かったが、心はいつも劣等感にまみれていて激しい性格の女の子だった。
空はよく勉強をしていた。「私は頭が悪いから人の何倍もやらないとダメなんだ」と言って、塾に通い、部活もやらずに高校生活を送っていた。彼女の右手はペンだこだらけで、中指・親指・人差し指の関節は変形していた。他の人より頭が悪かったとしても、他の人より出来が悪いことを空は許せなかったのだ。
僕が空と会うのは僕に予定がない休日と毎週水曜日の夜だった。なぜそういうルールになったのかは覚えていないが、彼女の塾の都合が大きかったように思う。毎週水曜日になると、僕は部活後の閑談から身を隠し、ひっそりと彼女の元に向かったのだった。
平日、僕らが会う場所は決まっていた。街のはずれにある寂れた公園で、僕の家とは逆方向にあった。空はそこを「いつもの場所」と言いたがり、そんなスペースを持っている自分が誇らしいようだった。
吹き出た汗をよく拭きもしないまま、毎週僕は寂れた公園に急いで向かった。早く彼女に会いたい気持ちも確かにあった。だがそれよりも彼女が僕に早く会いたがった。会う時間が短くなるとすぐむくれて、もう本当に手に負えない様子になってしまうことが何度もあった。
寂れた公園で毎週、僕らは身体をくっつけ合って時間を共有した。僕には彼女に話したいことがたくさんあったが、一方で彼女には特にないようだった。あんなに騒いで「早く会いたい早く会いたい」と言っておきながら、空は特に僕と何かをしたかったわけではなかった。僕がそばにいることばかりを望んでいたのだ。話も大してせず、ただ体温を感じて、においを嗅いで、手をつないで、ゆっくりと過ごした。
そして空は、きっと僕自身を好きなわけではなかった。黙って僕に身体を預ける自分が好きなだけだった。
空は「私は冬が好きなの。あなたのことをよく感じられるから」と言っていた。そして確かに他の季節にも増して僕にくっついてきた。単に寒かっただけかもしれないが。
空はたまに僕の胸の中で眠った。まだ地面に雪が残っているような日の凍えそうなベンチの上でさえも、眠った。
眠ってしまうほど僕が好きなのだと彼女は主張していたが、僕は相手にしなかった。というより彼女の発言を僕が信用することなど、ほとんどなかった。そんな関係だった。
ある冬の水曜日、空は珍しく口数が多かった。クラスでの同調圧力、気に入らない先生の名前、勉強のこと、あらゆることを語った。僕は少し嬉しかった。ほんのティースプーン一杯分くらいだけれど。
その日はそれ以外にもいつもと様子が違った。手を握り、抱きつき、キスをしてすごく甘えてくる。不安な様子だった。手が冷たかった。
「ねぇ、知ってる? あれがオリオン座って言うんだよ」
空は指をさした。
「知らないよね。あなた、星座のことには興味がないもんね。私もそんなに興味があるわけではないのだけど、お父さんがよく教えてくれるの。私ね、昔、星が出てくる絵本が大好きだったんだって⋯⋯。なんていう絵本だったかもう忘れちゃったんだけどね」
空はオリオン座を見ている。
「お父さんね、私にはすっごく甘いんだ。お願いしたらなんでもしてくれる。料理もしてくれるし、お金があれば欲しいものも買ってくれる。でも私を放って、見守ることができないの」
「オリオン座はね、サインを送ってくれるんだって『あなたは今、自分がよくわからなくなっていますよ。何かに怯えているんですよ』って」
空が僕の腕にしがみついてくる。
「私ね。いつもオリオン座が目に入るの。冬でも、夏でも。見えるはずなんてないときでも⋯⋯。お父さんが言ったことがデタラメなんだってことは、頭ではわかっているんだ。でも真実に思えてならないの。オリオン座が本当に私にサインを送ってきているような気がしてならない。自分が怯えて不安定になっているって」
空は震えながら僕の胸に顔を埋めた。
「でも、あなたとこうしているときは別。こうしているときだけはオリオン座が見えてこないの。私、あなたが好き。あなたは私のヒーローなの。真っ暗闇にいた私を救い出してくれた。あなたがいるときだけ、私は確かな自分を持っていられる。怯えた自分を見ないで済むの」
「だから、私とずっと一緒にいて。ずっと一緒だと言って。ずっとこうやって時間を共有していたい。自分は自分なんだって確信していたい。私は私なの。何も怖がることなんてない立派な人間なの」
そう言って、空は僕にぎこちなくキスをした。いつもは瑞々しい唇が、そのときは何故か少し乾いていたように感じた。
このことがあってから、どうしてなのか空は自分の身体、特に胸を僕に触らせたがるようになった。冬の空気に染まってアイスみたいに冷たくなった僕の手を、自分の制服の下に滑り込ませ、強めに動かすように言ってくる。僕は男としては非常に喜んだが、恋人としてはどんどん悲しい気分になっていった。そんな冬の日が何度もあった。
季節が巡って、ある春の日、体育館の点検により部活が突然中止になった。僕は友人たちと遊びもせず、何気なく街をぶらついていた。そして、空が僕の知らない誰かと手をつないでいるのを見てしまったのだった⋯⋯。
それ以来、僕は自分の心に予防線を引くことにしている。そうしないと、自分の存在を他人に委ねることになるからだ。自分がひどく不確かで怯えたものになってしまう。
僕が思うに、空は不安だったのだ。本当の自分を初めて人にさらけ出したことで、受け入れられなかったらどうしようかと身構え、悩んでしまった。そして、自分で僕をオリオン座にしてしまった⋯⋯。きっとその責任を取りたくないから、彼女は僕の手を離したのだ。
でもそれは仕方のないことに違いない。僕は、空が自分の父親をオリオン座にしてしまった責任をずっと取らされてきたのだから。
夜明け前のオリオン座はよく輝いていた。上を向いたら必ず目にはいってくるほどに。
僕は街を背に家に帰って、お香を焚き、日が高く昇るのを待った。
僕はもう怯えてなどいない。はっきりとした自分を持っている。
オリオン座は怯えた自分を教えてくれる