人の腰掛
茸短編小説です。PDF縦書きでお読みください。
この村の山奥には、人を喰らう茸が生えているという。そういう言い伝えが、いつのことからかわからないがありました。あたしが十になるかならないかの頃、人が喰われたと触れ歩くおばあさんに会ったことがあるのです。
あたしは野原で友達と遊んで、烏が鳴いたので家に帰る途中でした。
山の裾の道を歩いていると、突然、山の中から、頭が真っ白なおばあさんが飛び出してきて、「息子が茸に喰われた」、と叫び、私の脇を通り越して行きました。
あたしはびっくりして、その場でしばらく立ち尽くしてしまいました。
その後、聞いたところによると、そのおばあさんは村中を走り回り、家に戻ったということでした。
花ばあさんといって、もう七十を越していたでしょう。一人息子とそのお嫁さんと一緒に暮らしていて、息子さんは五十ちょっと過ぎた、人の良い働き者でした。
その息子さんが一人で山に鳥撃ちにいったきり戻ってこなくなり、花ばあさんは嫁さんと二人で暮らしていました。お嫁さんも気だての良い人で、お姑さんを大事にして、野良仕事に励んでいました。孫娘が二人いますが、すでにお嫁にいきました。
その嫁さんがいきなり倒れ帰らぬ人となりました。それから花ばあさんは一人暮らしで、山菜採りや畑を耕して日々の糧を得ていました。孫娘もたまに訪れ、花ばあさんの面倒を見ており、決して貧しい暮らしをしていたわけではありません。
そんな花ばあさんが秋のある日、山に茸採りに行ってからおかしくなってしまったのです。息子が茸に喰われたと人に言うようになりました。
詳しく話してみなさい、と村の医師が花ばあさんの家を訪ねて説得したが、山の奥で息子が人喰い茸に飲み込まれているのを見た、ということしか言いませんでした。それはどこか、と聞いても、覚えていない、山奥だとしか言いませんでした。息子さんがいなくなったのは、ずいぶん昔のことですよ、と言っても、茸に喰われているのを見たとしか言いませんでした。
その後、花ばあさんが山に入っていくのを見たという人がいましたが、一方で、川に飛び込んだのを見たという人もいました。それも姿が見えなくなって一月もすると人の噂にのぼらなくなりました。花ばあさんの家は今でも空き家になっていて、嫁(とつ)いだ孫娘がときどき様子を見に来ていました。
それから十年、あたしも二十歳になり、村の医者の息子の嫁になりました。それで、夫の父親、その人が花ばあさんを診た医者だったのです。息子も医者です。
あたしの夫は父親とよく似ていて温厚で、村の人たちの信頼を得ていました。夫は漢方を学んだこともあって、薬の処方は父親よりよく心得たものでした。そのようなことから、私も漢方のことを自然と覚え、薬の作り方も会得していきました。薬草採りのために夫と一緒に山にも入りました。
このあたりは茸のよく生えるところですが、特に猿の腰掛けの類が多くありました。ずい分いろいろな猿の腰掛があるもので、ものによっては、癌によく効くということで高値の付くものもあります。万年茸も腰掛けの種類で、大きいものはお飾りとしても売れますが、それこそ良い薬になります。夫は薬になる茸についてもよく知っていました。毒になる茸でも、それを薄めることで強心剤にしたり、下剤にしたり、強壮剤にして、処方した人々に大変感謝されていました。
大きな町の薬問屋から引き合いがよくきて、そのようなときは、薬屋がよこした人と一緒に茸や薬草を採りに行き、離れにもうけた作業場で薬を煮出しました。
結婚して三年目に子供もでき、私は子供の世話にかかりっきりになりました。それでお医者さんの卵だった人が夫の助手になって、診療室の手助けをし、切り盛りするようになりました。夫は助手に薬の作り方を教え、その施し方を指導しました。
その人は詩郎さんといいます。帝大の医学部生でしたが、卒業間際に胸を悪くして、薬学部に移り薬の勉強をしたそうです。一生懸命よく学ぶ人で、薬草や茸のことは夫より知識が多いほどでした。
夫は患者のことをまず考える人で、医者としてとても尊敬できる人でした。詩郎さんは医者になれなかったこともあるのでしょうが、研究をしたい人のようです。そのころになると、夫と一緒に山に行っても、夫が先に帰ってきて、詩郎さんはもっと探検すると一人で山奥に入っていくことが多くなりました。
「詩郎も立派になった」と夫は口癖のように言いました。
そういうことで、うちの医院から次々と新しい薬が生まれ、評判がますます上がっていったのです。
あたしの子供が三歳になったときでした。
夫が「詩郎もそろそろ所帯を持たせなければな」と私に相談しました。
「村の女性じゃ詩郎さんはうんと言わないでしょう」と夫に言うと、
「それは何ともわからんな、意中の人でもおればよいが」と悩むそぶりでした。
そこで「あたしが聞いてみましょうか」と言うと、夫の顔が輝いて「是非そうしてくれ」と言います。あたしはうなずきました。
その二日後に詩郎さんが台所に水を飲みに来た時です。
「詩郎さん、調子はどう」私は聞きました。
詩朗さんはちょっと風邪気味で、自分で作った薬を飲んで仕事に励んでいたのです。
「大丈夫ですよ、ありがとうございます、奥さん」
いつまでたっても、礼儀正しい。
「実はね、ちょっと聞きたいことがあったの」
「何でしょう、奥さん」
詩郎さんは、私と話をするときは必ず、奥さんと最後に付けます。
「詩郎さん所帯をもつ気はないの」
と言ったら、色の白い詩郎さんの顔がちょっと赤くなったのです。
「おや、どなたか意中の方がいるのね」
と聞くと、黙ってもう一度ちょっとうなずきました。
「夫がそろそろ詩郎さんも所帯を持った方がいいって気にしているの、どなたなの、大学の方」
詩郎さんは首を横に振りました。
そのとき、うちの中を何でもやってくれている、看護婦の春さんがきて、「火傷した患者さんが来ているのですが、火傷の薬が切れたと先生が詩郎さんを探していらっしゃいます」と詩郎さんの顔を見ました。
詩郎さんははっとすると、あわてて調剤の部屋に入って、薬をとってくると、春さんに渡しました。
春さんはこの村のお百姓さんの三女ですが、珍しく町にでて看護の学校にかよい、看護婦さんの資格をとって戻ってきたのです。働きながらの勉強だったそうで、大変だったと本人が笑いながら話していました。
春さんの家がここに近いこともあり、通いで働いてもらうことになったのです。とても機転が利いてよく働くし、容姿だって町でみかける女性よりもいいくらいです。色は少し黒いかもしれませんが、目鼻立ちは整っていて、どちらかというと日本人離れしています。
詩郎さんとの話はそんな形で中途半端に終わってしまったのですが、その日、夕食の準備をしているところに詩郎さんが顔を出しました。
「お水ですか」と訊ねると、おずおずと、
「朝の話ですが、奥さん」と詩郎さんのほうから切り出したのです。
「ああ、もしかして意中の人がいるかと聞いたことですね、いらっしゃるのね」
彼は恥ずかしそうに、うなずきました。
「許嫁の方ですの」
彼は首を横に振りました。
「それじゃ、まだ、お話になっていない方なの」
彼はうなずきました。
「もしかして、私どもが間に入って差し上げられるのかしら」
「はい、奥さま」
彼は、やっと顔を上げて私を見ました。
「町の方」あたしはまた聞きました。
彼はまたしても首を横に振りました。
「どこの方」
「あのお、春さん」と詩郎さんはもごもごと口ごもって言いました。
あたしはかなりびっくりしました。帝大にはいって、お医者にはなれなかったけど、薬のことを学ばれた方がと、あたしは途方もなく間違った考えをしていたのです。
「詩郎さん、それでいいのかしら、ご両親が反対されるのではないのですか」
「いえ、私の家では、自分のことは自分で決めなさいと言われてきましたので、反対はしないと思います」
「そう、それじゃ、主人に話しておきます」
「ありがとうございます」
詩郎さんは顔を少し赤らめて戻っていきました。
その晩、夫にそのことを話すと、
「そりゃあ、いい、とてもいい話だ、春さんに言ってみよう、春さんがいいと言えばこれはよい夫婦になる」
「春さんがいやというわけがないじゃないですか」
「そりゃ、わからんよ、好きな人がいるかもしれない」
「詩郎さんは帝大にはいった人ですよ」
「夫婦になるというのに、帝大も乞食もありゃしないさ」と夫はそんなことを言います。お見合いで親に言われた人と一緒になるのが当たり前と思っていたあたしには驚いた話でしたが、少したつと、それが道理だとわかったのです。
次の日、朝、勤めにでてきた春さんを夫が呼んでそのことを話しますと、春さんは大喜びで「お願いします」と頭を下げたのです。
夫は、詩郎さんと春さんの家を隣に建ててあげることにしました。医院の敷地にある薬を造る建物は小さすぎるので、もっと本格的な、薬の製造所もつくることにしました。そこを彼にまかせて、新薬の開発に当たることにしたのです。
その年の暮れ、二人の挙式がお行われました。詩郎さんのご両親は、それはモダンなお方たちで、横浜でカフェをなさっているということでした。お父様はやはり帝大の経済をでていらっしゃって、お母様はバレエをなさっていたそうです。私には想像がつきません。
春さんの両親はよく知っています。ときどき、風邪を引いた、腰が痛いと診察にきます。とても人の良い方たちです。詩郎さんのご両親が春さんのご両親をとても大切に扱っていらっしゃるのを見て、これが新しい人たちなんだと感心せざるを得ませんでした。
このようにして、二人は結婚をして、とりあえず、我が家の離れに住むことになりました。二人は前にもましてよく働きました。春になれば、二人の住まいもできあがります。
桜がもうすぐ咲くという頃になって、新居が出来上がりました。そのころ、山菜採り、それに薬草採りと、詩郎さんたちは二人して山に行くようになりました。私どもも、二人が採ってきた山菜で毎日の食卓がとても華やいでいたのです。
暑い夏がくると、お腹を壊したり、夏風邪を引く人がたくさんでてきます。詩郎さんの調合した薬はとてもよく効くので遠くから買いにきます。夫はその薬に名前を付けて売るように言いました。町の知り合いの薬問屋と話を付け、日本全国に売る手配をしたのです。
夫が薬の名前も付けました。風邪薬はハルシロン、おなかの薬はナカヨカン。なんだか、外国の薬のような名前で、私はとても気に入ったのですが、詩郎さんと春さんはとても恥ずかしそうでした。
その理由を後で知ったのです。私はなんと鈍いのでしょう。夫は春さんと詩郎さんをあわせて、はるしろう、から名付けたのでした。ナカヨカンはそのまま、二人です。なかがいい、なかよか、なかよかんです。お腹よか、にも通じます。私も笑いました。
二人は本当に仲のよい夫婦でした。山によく行きます。秋になると茸をたくさん採ってきて、夫と一緒に選別をしました。一部は夜の味噌汁の具になったり、お酒につけて薬酒にしたり、粉にして薬にしました。ある日、詩郎さんは変な茸をたくさん見つけてきました。夫がこれは貴重なものだと言っていました。なんと、虫から生える茸でした。虫ごと干して、薬として使うのだそうです。精力剤だそうで、中国ではとても高価なものだそうです。町の薬問屋は、医院で使う残りの虫から出る茸をそれは高値で買ってくれました。詩郎さんと春さんの副収入になりました。
私どもの医院もその恩恵を被っていました。その薬で村の年寄り達が、とても元気になり、ますます、感謝されるようになりました。
詩郎さんは茸さがしに夢中です。虫に生える茸は冬虫夏草というのだそうです。それにもいろいろな種類があるということでした。そのような茸も詩郎さんは好きでしたが、なんといっても、万年茸や猿の腰掛の仲間が好きでした。そのころ、彼のお母様が癌にかかりました。癌は不治の病です。しかし、猿の腰掛の仲間を煎じたり、粉にして飲むと癌がよくなるということでした。史郎さんはせっせと猿の腰掛を採ってきて薬にすると、お母様に送っていました。
半年もしてからでしょうか。正月過ぎた頃です。お母様が東京のお医者様に見てもらったところ、癌が萎びてしまって、治ってしまったということで、大変な騒ぎでした。それから、ますます、私の病院に遠くから患者が来るようになりました。詩郎さんの猿の腰掛で作る癌の薬も、ガンコロリという名で町の薬屋から発売されたのです。
それから、二年、詩郎さんと春さんが結婚してもう五年になります。うちの子供ももう十歳、私が、あの花ばあさんに会った年になりました。
春さんは頑丈で病気一つしたことがないのに、子供ができません。詩郎さんは自分のせいだと思っていたのですが、夫はそうではないだろうと申しておりました。健康でよく働く女性でも子供に関してはわからないものだということです。
詩郎さんは子供ができる薬ができないかと茸や草を探し始めました。よく山奥まで行き、暗くなって帰ってくることが多くなったと、春さんが言っていました。しかし、確かに不思議な薬草や茸を採ってきました。
ある秋も深まった日曜日、お昼頃だったと思います。春さんが、大きな声を上げて我が家に飛び込んできました。
「夫が茸に喰われちまった」
あたしが十歳の時にきいた花ばあさんの叫び声と同じでした。
「どうしたのです、落ち着いて話してごらん」
あたしは春さんにお水の入ったコップを渡しました。春さんは一口で水を飲み干すと、息を弾ませて話し始めました。
「詩郎さんと一緒に茸採りに井守谷に行ったんです」
「かなり遠いとこじゃないか」と夫が口を挟みました。
「はい、谷が深いので面白い茸が採れそうだと、その時初めて行ったのです、二時間歩いてやっと着くと、それはとても不思議なきれいなところでした。流れている水は澄んでいて、不思議な生き物がたくさん泳いでいました。詩郎さんは井守の仲間だろうと言っていました。青いお腹の井守です。きっと、すごい薬になるのではないかとも言っていました」
「ふむ、確かに、井守はよい薬になる」
「流れを挟んで両方の山にはいろいろな茸があったのです、夫は夢中になって集めていました。採ったものをここにもってきました」
春さんは土間においた二つの籠を指さしました。主人は土間に降りると、一つの籠の中をのぞきました。
「こりゃすごい、珍しい茸ばかりじゃないか」
「そうなんです、しかし、あの人は子供を授かる薬になるものはないと言って、籠を背負ってもっと上に向かいました。
中腹に来ると、とても太い大きな杉の木の林にでたのです。そこにはいろいろな猿の腰掛が生えていました。
詩郎さんはそれも夢中になって採りました。そこにある私の籠にはそこの茸がはいっています」
夫はもう一つの籠をのぞきました。中には茶色の猿の腰掛けが詰まっていました。
「たいしたもんだ」
「もう籠が一杯になったところで、帰ろうとした時に、五人で抱えても手が届かないほど太い杉の木が目に止まりました、あんなに太い杉の木は見たことがありませんでした、それだけではありません、そこにはなんと人が二人腰掛けることができるほどの大きな猿の腰掛けが幹から生えていたのです。
詩郎さんは、そばに寄ると、じっくりと眺め、「これはすごい、すごい薬になる、覚えておいて明日にでも採りに来よう」と言いました。
そして、「どっこらしょ」とその茸に腰掛けたのです。
その瞬間、「春、ここへ来てはいかん」とどなりました。
いったいどうしたのだろうと、詩郎さんを見るとあっちにいけと、私を追い払うように手を振っています。
腰掛けた詩郎さんの顔は怒鳴り声と違って、とても幸せそうな顔でした。
私はそばに寄って声をかけました。来るなといわれても、行くしかありません。
「どうしたの」
見ると、詩郎さんのお尻が茸の中に少しずつ沈んでいきます。詩郎さんは何か言おうとしていましたが、声が出ませんでした。
私は詩郎さんの手を握って引っ張りました。そうしたら、詩郎さんの顔がゆがんで痛そうでした。手を離したらそれはとても幸せそうになりました。
私はどうしたらよいかわからず、おろおろしていたのですが、助けを呼ばなければと気がついて急いで戻ったのです。
「そうか、それじゃすぐ行ってみよう、お前も用意しなさい」
そうして、三人でそこに向かったのです。私にとって久しぶりの山歩きでしたのでちょっとこたえました。二時間半かかり、やっとその場所につきました。
しんと静まり返った杉林の中で一段と大きな杉の木が目に入りました。その根本には人の上半身が乗っている大きな猿の腰掛が生えていました。
春さんは走り寄りました。「詩郎さん」と叫びました。
私どもが近づくと、大きな猿の腰掛に詩郎さんがほとんど茸に飲み込まれ、胸より上が茸から出ていました。左手はまだ外にでていますが、右手は半分飲み込まれています。
詩郎さんの顔は春さんが言ったように幸せそうでした。
「こりゃどうしたもんだ」
夫が首を傾げました。「詩郎君、聞こえますか、聞こえたら瞬きでも何でもしてください」
そう言うと、詩郎さんの瞼がかすかですが動きました。
「あ、あなた」
春さんも叫びます。また、瞼が動きました。
「私も一緒に行きます」
春さんは猿の腰掛に腰掛けようとします。夫と私が止めました。
「詩郎さんは苦しそうじゃありません、私も一緒に行きます」
春さんは私たちの手をふりほどくと、詩郎さんの左手を握りしめて猿の腰掛けに並んで腰掛けてしまいました。
すると、あっというまに、春さんも猿の腰掛けに飲み込まれていきます。春さんは「ありがとうございました」と言いました。そして、そのあと、声が出せないようでした。しかし、詩朗さんと同じように幸せそうでした。
「どうしましょう」あたしがおろおろしていると、夫は「いや、これでよかったのかもしれないね」と言いました。
春さんが追いついて春さんの顔が詩郎さんの顔とならびました。とても幸せそうでした。それから二人は少しずつ茸の中に吸い込まれていきました。
やがて顔も手足もすべて猿の腰掛に飲み込まれてしまいました。
夫はふたりに「お幸せに」と言って、私に「戻ろう」と言いました。
私も猿の腰掛におじぎをして、「お幸せに」と言いました。
なんだか空虚な気持ちになって、足が宙に浮いている感じで家に戻りました。
「このことは他の人に言うんじゃないよ」と夫は言いました。「言っても誰も信じないだろう」とも言いました。
その足で警察に行きました。
二人が山に入ったきり帰らないと、警察に届けたところ、何人かのお巡りさんや、春さんの両親、青年団の人たちが山に入りました。ところが春さんたちを見つけることができなかったとのことでした。山奥のどこかで遭難してしまったのだろうということで、詩郎さんのご両親たちに連絡しました。
夫は、「あの二人は幸せなんだ」
とあたしに諭すように言いました。あたしはなかなかショックから戻っていなかったのです。夫はとてもさっぱりしていました。
「さて、新しい人を雇わなければならないな」と言いました。
そうなんです、夫はしばらくの間自分で薬を調合しなければならなくなりましたし、私も看護婦さんの資格はないけれども、夫の補助をいたしました。
次の年の四月になると、東京の詩郎さんと同じ大学の薬学部をでた博士さんが住み込みでくることになりました。詩郎さんと春さんの家は、その博士さんに使ってもらうことにしました。
博士さんの名前は五郎さんと言いました。茸の毒の研究をして博士になったそうです。同級生のかわいらしい、夏さんという奥さんがすでにいました。薬のことをよく知っていましたので、二人して薬の調合の仕方をすぐ覚えてくれました。
秋になると、夫は二人を連れて山に入りました。そうして、なんと、詩郎さんと春さんを飲み込んでしまったあの大きな猿の腰掛けをかついできたのです。
「あっ」と私は声を上げました。
夫は「この茸の脇に子供の茸が三つもくっついていたよ、五郎君がこの茸はきっと婦人に効く成分が入っていると言ってね、薬にしてくれるそうだよ」と言いました。
私はなんだか怖い感じがしました。この茸を切ると、赤い血が出てくるのではないかと想像してしまったからです。
五郎さんは土間でこの大きな茸を半分に割りました。
私は目を背けていたのですが、五郎さんは「ほら、この中ほどの赤っぽいところは、子供のできない人に効く成分が入っていると思いますよ、先生」と言いました。
私も茸を見ました。鉈(なた)で半分に割られた茸はほかの茸と違いがありませんでした。ほっとした私は、食事の支度に台所に行きました。
その後、女性の薬ができました。それは生理不順の女性が飲むと正常になるというものでした。それだけではなくて、生理があっても子供ができない人がいましたが、この薬を飲むと子供ができるようになりました。春さんに飲ませたかった。いや、春さんと詩朗さんが薬になったのです。
世界中の医者がこの薬に着目しました。おかげでよく売れました。夫がこの薬に名前を付けました。ゴロリンカといいます。言わずとしれた、五郎と夏さんの名前を並べただけです。五郎さんはちょっと苦笑いをしていましたが、五郎さんは英語がお出来になりますので、英語の名前を五郎さんがつけました。マンスツールといいます。猿の腰掛けは英国では蝦蟇(がま)の腰掛け、トードスツールというそうです。それで蛙を人にかえたのです。人の腰掛という意味だそうで、夫と私はその茸のいわれを知っていましたので、とても感慨深い思いでした。
その後、あの杉の木のところには行っていません。きっとあの茸の子供が大きくなって、人が座るのを待っていることだと思います。
(「茸女譚」所収:2017年自費出版 33部 一粒書房)
人の腰掛