月の名の樹の油
月の香油
初めて指に絡めたその液体は少しだけ温かく、思った以上に良い感触がした。
香油、だと言っていた。髪につけて、手入れをするためのものらしい。
良い香りがするから。そういわれて、恐る恐る濡れた指先まで鼻を近づける。
確かに、どこかで覚えがある良い香りがした。ああこの香りは、そうだ。
あの時にあの場所で出会った、あの木の香りじゃないか。
香油、手伝って。そういわれてその子に手を引かれ、寝室まで半ば強引に連れてこられた。
確かに何度か寝室にお邪魔したことはあるものの、こんな夜更けに入るのは初めてであり、
いつもとは違う様子に、少しだけ胸が弾んだのを覚えている。
その子の寝室は、いつも良い匂いがする。あの雨上がりのあとの月桂樹の下の香りが、
そのまま部屋の中を満たしているような、居心地の良い空間だった。
暗い木目の寝台は白いシーツが整えられて、かすかな色合いの薄布で覆われている。
窓はない。正確には、窓の場所さえもわからないように木板で打ち付けられている。
その理由は知らない。知らされてもいないし、聞こうとも思えない。
でもその子の部屋の空気は、不思議と清浄なものだった。
「香油」
差し出されたのは小さなガラス瓶。
透明なその中には、少しだけ粘度のありそうな淡黄色の液体が入れられていた。
これは? そう尋ねようと顔を上げる。
「何度も言わせないで。香油」
それは何度も聞いた。聞きたいことはそんなことではないのだけれど……。
そう思いながら顔を下げる。
何に使うのだろうか。もちろんこんなものを見たのは初めてのことであり、
聞いたこともなければ、もちろん使い方なんて知るわけもない。
どうやって使うの? そう尋ねようと顔を上げる。
「髪」
いつものように一言で、説明ともいえぬ説明をされる。
これで察せといわれるのだから、たまったものではない。
でも不思議と、いつもわかってしまう。
今回もそうだった。これで髪の手入れをしているのだろう。
でも手が届かないから、手伝え、と。もう少し説明をしてくれても。
そう思いつつ、ガラス瓶を受け取った。少しだけ触れたその子の指は、少しだけ濡れていた。
さっきまで湯の中で暖められていたのだろうか。わずかに濡れていて、ほのかに温かい。
両手で包み込める程度のその瓶の入り口は、コルクで封がされている。
中の液体は、傾けるとただの水よりはゆっくりと、その水面を動かしていた。
これが香油。髪を手入れするためのものなのだろう。さて、どうしたものだろうか。
あけて良いのだろうか。まさかこのまま使うものではないと思うが。
「貸して、遅い」
最初は手を伸ばしてきた程度だった。その白い手を見て、顔を上げて、首をかしげる。
その仕草の少しあと、その子のもろ手が瓶を握る手と触れ合う。
柔らかな指先が手と瓶の間に入り込み、剥離させ、間もなく瓶を取り上げられた。
彼女の指についていた水滴が、さっきまで瓶を握っていた手のひらを濡らす。
やがて乾いてしまうだろうか。だからこそ拭くことさえもせず、またその子の顔を見た。
もう瓶のコルクを開けて、そこに少しだけ付着していた中身を指先でなぞっている。
粘り気があるらしく、その子の指先に絡めついている。
強く、けれども良い香りが部屋の中いっぱいに広がった。懐かしい香りだった。
「月桂樹」
指先が近づいてくる。拭け、とでも言うのだろうか。
けれどもあいにく、今は手ごろな布切れなどは持っていない。
だから仕方なく指先か、もしくは手のひらで艶やかに光る指先をふき取ろうと、
恐る恐る腕を伸ばして、その子の指先に触れた。香油、だから油なのだろうか。
わずかな温かさはさっきまでお湯に温められていたからか、それともその子の体温か。
触れると滑り、絡まるように。お互いの指先が滑りあい、絡む。
一直線に延ばされたその子の白い指は動かず、爪先からは香油が滴りそうになっている。
その雫を零さないように、手のひらで包み込む。全体を滑らせて、拭きとるかのように。
前後に動かし、気づけばそのヌメりは自分の手のひらまで広がってしまう。
その子は動かない。とすればこれで良いのだろう。しかしいくら拭きとっても、
指先に絡まる油は、ただその子の指、または手のひらにかけて伸びていくだけだった。
気づけばこちらの指先も手のひらも、その子と同じように濡れて、艶やかに光って見えた。
「良い匂いがするよ」
その子は笑って、そう言った。
「月桂樹。あの時の」
いつの日の、雨上がりの月桂樹の下。濡れた指先を鼻元まで持っていく。
あのときのような匂いが、いっぱいに広がった。
銀の艶髪
白い背が金まじりの銀の髪で隠されている。いつも手入れしているのだろう。
触れてもその感覚をほとんど感じず、まるで絹糸に触れるかのように、指の間を流れた。
この距離でさえも、やはりあの匂いがする。いつも彼女を包んでいる、月桂樹の香り。
部屋中に広がり、香り立つ。自分が勝手に抱いている、彼女のイメージの香りだった。
彼女の背はあまり大きくはない。むしろ小さい、と言えるのかもしれない。
触れると折れてしまうだろうか。もしくは黒ずんでしまうだろうか。
そう躊躇してしまいそうなぐらい綺麗で、その上をヴェールのように髪が覆っている。
この背を、この髪を、今は自分だけが堪能している。そう思うと、少し嬉しく思えた。
「どうしたの?」
なんでもない。そう応えて、片方の指先で背中に触れる。
見た目どおり、もしくはそれ以上に白い背は滑らかであり、何にもつっかかることはない。
それは髪についても同じだった。
もう片方の指先で挟み、そのまま巻きつけても、何も触れていないような錯覚に陥る。
細いからだろうか。それとも軽いからだろうか。考えながら、彼女の髪を弄り続ける。
「……気に入った?」
首は動かず、しかし髪を弄り背に触れていた指先でその声の震えを感じた。
何も言わずに髪から指を離し、背から首元へと向けて手のひらを滑らせる。
滑りが良いのは、さっき手のひらに香油をなじませたからだろうか。
ほのかに温かさを感じる。
少しの出っ張りは、しかし手のひらの動きを阻害するほどではない。
ゆっくりと、彼女の感触を確かめるように、ゆっくりと、両手のひらは首筋を目指す。
呼吸をしている、その小さな振動が伝わる。
リズム良く弾んでいるのは、心臓の鼓動だろうか。両手のひらは、ゆっくりと上を目指す。
手の甲に流れるそれはやはり軽く、艶やかで、次第に両手が包まれていく。
嫌がるような素振りはない。
それはうなじに触れても、わずかに吐息の音が漏れただけで、ほとんど変わらなかった。
そのまま手を正面に回したくなったが……それはやめておくことにした。
今は髪の手入れが目的なのだから。
両手をその背から離す。もういちど、羽音のような呼気を漏らした。
「もっと触れていて良いのに」
その意味を理解しようとしたが、目的を優先することにした。
楽しみたい気持ちはある。
けれどもこれ以上、彼女に触れるのは、なんだかイケナイことのような気がした。
月桂樹の香りのする香油に濡れた彼女の背は、蝋燭の影に照らされていた。
「じゃあ、髪。おねがい」
小瓶は封をされて、すぐ横の黒っぽい木目のテーブルに置かれている。
それを手にする。さっきよりも温かさはないが、しかしちょうど良いぐらいではあった。
彼女の背と同じぐらいだろうか。水面がまた少しだけ揺れた。
コルクの封を開けて傾け、中の淡黄色の液体を手のひらに広げる。
小さな液溜まりができるぐらいで、瓶を元に戻す。さっきよりも水面は下にある。
ここで、風ができないことに気づいた。零すと、やはり怒られてしまうだろうか。
だから零さないように、テーブルの少し向こうへと、封をせずに置いといた。
「やりかた、わかる?」
なんとなく……。向こうを見たままの彼女の言葉に応える。
「ん。適当で良いよ。つけすぎるのはアレだけれど」
適当がいちばん難しいんだけれど……。
なんて口答えしつつも、手のひらに広がる香油を、もう片方の指に絡める。
このまま髪に塗れば良いのだろうか。迷っていると、彼女の顔がこちらに向いた。
「両手」
そういわれても意味がわからず、首をかしげる。
「量はそのぐらい。でも両手で、髪を包み込むの」
ああ、つまり……手を伸ばして、彼女の横髪に触れる。
綺麗な銀の髪は、香油を塗られるといつも以上に艶やかに光って見えた。
月の名の樹の油