黒猫探偵事務所
※本作は内容の一部にグロテスク・残虐性が含まれる場面がございます。充分ご注意ください。犯罪を助長するものではございません。R指定の意味を踏まえ大人として自己責任での閲覧をお願い致します。
本作は2015年6月頃にサウンドノベル(pegasus)として製作したものですが、当時のものから読みづらい文章などを一部推敲してこちらへ投稿しております。
第一章 乙女と薔薇
広大な森林に囲まれる緑の丘に心地よい風が吹き抜ける。遠くの山々は蒼く、大空は澄み渡る。
緑の丘には細長い林が横たわっており、林道を挟んで五棟の清閑瀟洒な別荘が佇んでいる。
<黒猫探偵事務所>を構えているのは、それらの内の一棟だ。
屋敷の蔦這う塀の近くを歩く者たちは、この初夏の時期に鼻腔を掠めた甘い薫りに誘われ、ついその門の鉄柵を越えることだろう。
その門を潜り抜けた者は、まず誰もがこの季節咲き誇る壮麗な薔薇庭園に酔いしれる。
黒猫探偵事務所を構える薔薇咲く屋敷の住人、朱鷺島レイ(ときしま れい)は探偵である。彼は庭園の迷い人が探偵依頼も関係無い者であろうと受け入れ、薔薇庭園の鑑賞を存分に愉しませた。
今、朱鷺島レイが二階窓から見渡す薔薇の苑には、一人の美しい女性が佇んでいた。まるで花に誘われて庭に居残る春の妖精かのように可憐な女性だ。彼女は一つ一つの薔薇から薫りを身体に充たさせ、美しく微笑んでいる。
若い女性は黒髪を長く伸ばし、仕立ての上品な淡い白ピンクのワンピース姿がよく似合う。輝く焦げ茶の瞳にまんべんなく陽を受けて眩い。
優雅な態で歩き、驚く程に透き通るソプラノでハミングを口ずさんだ。
普段、朱鷺島は屋敷の窓から来訪者を見守るだけである。庭園の見慣れぬ子羊には干渉しない性質だ。だが今回ばかりは庭の主である彼自身が、悪戯な妖精に惑わされたかのように窓を開けていた。そして、女性の歩く背を目で追った。
紅茶のカップをソーサーに置くと、たゆたう紅茶の表面に彼の秀麗な顔立ちが白く揺れ映る。
「君」
薔薇に囲まれた女性は、声のした洋館を振り仰いだ。そして、若い男性を見て頬を染めた。
「まあ、この屋敷の方」
勝手に入ってしまったことを恥じてか、彼女は視線を下に向けた。彼は笑う。
「いいんだよ。誰もが貴女の様にここへと迷い込む。まるで初夏の蝶のようにね」
彼女は顔を上げ、青年を見た。
その彼は品の良い装いをし、黒シルクのスカーフにエレガンスな黒ジャケットを着ている。肩を越しまとめられた黒の長髪が彼の雰囲気にはよく似合っている。
そして、どうやら、顔立ちはハーフのようで、その片目には黒の眼帯が嵌められている。それが彼の優雅さを尚、引き立てている。
彼女は胸部に手を添え、美しい男にみとれてしまう安易さに、自己を恥じて顔をうつむけた。
「蜜に釣られてやってくる可憐な蝶のようで」
その言葉に彼女は顔を上げ、彼の微笑みを見上げた。
「薔薇と蝶の乱舞を我々は目で愉しむことが出来る。同じように薫りに誘われる者達の心の麗しさには、何の咎もありはしないよ」
彼女は頬を染め、そっと微笑んだ。
「君もこの薔薇の紅茶をいただくといい。心もほっと和むよ」
「探偵事務所を?」
二階部の居間の窓を開け放つと、爽やかな風に乗せて薔薇の薫りが二人の間に訪れる。
「僕の名前は朱鷺島レイ。君の名前は?」
「わたくしはビアンカ・椿・ベルッティと申します。皆からは椿と呼ばれております」
その名の通り、彼女、椿はラテン系のハーフなのだろう。愛らしくも彫りの深い顔立ちをしている。
朱鷺島レイ自身も、本名をレイヨ・マティアス・朱鷺島といい、紛れもないハーフである。なので、どこかしらハーフの彼女には親近感を持った。
会話を交わすうちにも、椿は時折、彼の眼帯に視線を漂わせてしまう自身の心の弱さに恥入った。白い肌だからこそ浮き出される黒シルクが光沢を受け、彼女の視線を流れ彷徨わせる。
「これは、気になさらないでください」
「わたくしったら」
「この眼帯はね」
彼は細い指を掛け、眼帯を外した。
隠されていた瞳の片側は、驚くべきことにまるで泉の底を映し出したかのような白水色だったのだ。
「……オッドアイ」
彼の左の目は黒い瞳であり、そして右の目は白水色の瞳だったのだ。
右の瞳の白水色が、どこかぬくもりを排除する冷徹さであり、彼の好意的に引きあがる美しい口元さえも悪魔的に思わせた。
「とても……美しい」
椿は思わず手腕を伸ばし、その頬に触れていた。神秘を湛える不思議な色をしている瞳。
ふと、朱鷺島の脳裏に、明るい白樺林に囲まれた美しい泉が浮かんだ。椿の麗しい顔立ちに重なるように。
彼は一瞬を置いて、息を飲んで自身のガードが完全に下がっていたことに気づいた。
この瞳の秘密は、オッドアイ、それだけでは無い。
椿から離れソファに背をつけ、咄嗟に表情が硬くならないように頬に指をあてた。
「まあ、ごめんなさい」
「いや……」
朱鷺島ははにかんで、頬を染めて離れた彼女の細い指から意識を離し、安心した。
彼の右目は様々を見透かす力が秘められているのだ。
母方の祖母の時代から隔世遺伝して受け継がれた能力だった。
朱鷺島は出来るだけ、穏やかな声を取り戻して椿に訪ねた。
「椿さんは何故この辺りを? 見かけない顔だね」
「はい」
椿は朱鷺島が怒っていないようだと胸を撫で下ろし、控えめに微笑んだ。朱鷺島は決して怒ってなどいない。このような個人的なことでまさか椿さんを不安にさせてはいけないと、努めて自身の心を和やかにした。内心では実に焦っているのだ。まさか初対面の女性に自身の秘密を打ち明け、このように屋敷に招き入れている事実に。
「比較的、この辺りは五棟の屋敷が丘と林に囲まれるのどかな場所なだけに、誰かが宴を開き遠くの客人を招いた時などは普段見かけない人を見かけるものだからね」
そのようなときに椿のようにこの庭に迷い込む来訪者を見受けるのだった。だが、ここ数日は宴という宴は開かれてはいない。
「昨日より宇治木邸へと招かれているのです。わたくしは彼の奥方からハープを学んでおります。是非とも、今の時期に丘から臨む夕陽を楽しんではとお誘いを受けました」
「なるほど。宇治木さんのご友人でしたか」
その宇治木主人から朱鷺島は変わり者、と呼ばれている。出来るだけ世俗から離れ、依頼者以外には自らが客人を招かず、自身が宴を開くことはまず無く静かに過している。
庭は開放していても、迷い人に声を掛けることは滅多に無かった。それは、人の心の深くに触れることを避けてのことだ。だが、それも理解されがたいのが常だった。何か困ったときこそはお互いに助け合う結束は強いのだが、それ以外の関わりは本当に少ない。とはいえ、完全に関係を絶っているのではなく、たまに個人同士で屋敷を行き来する程度ならあった。稀にだが。
それなのに、何故自分は今、彼女、椿に声を掛け屋敷へと招き入れ、そして眼帯すらも外したのだろう。何度考えても分からない。自らの秘密、能力の要であり、依頼者以外にはそう見せることの無いオッドアイ。
彼は唇を撫で、ただただ、窓の外を見る椿の横顔を見つめた。
彼女は窓から指す陽の光りに目を向け、微笑んでいる。
やはり、庭の妖精にでも心を惑わされでもしたのだろうか?
リーン……
そこで、澄んだクリスタルの音が心地よく鳴り響いた。朱鷺島は椿の横顔がハッとしたので、彼自身も考えから意識を戻した。
「失礼。客人のようです」
椿は空間に響く美しい音を振り仰ぐと、朱鷺島を見た。
「わたくしはそろそろ失礼いたします。突然お邪魔したうえに、このようなおいしいお紅茶までいただけて、とてもうれしゅうございました。どうもありがとうございます」
「是非、またいらしてください。いつでも門は開いています」
それは、貴女のために、という心なのだろうか、と朱鷺島は思いながらも、自身の自然に出た言葉に途方に暮れながらも自粛しなければと思った。
彼はそっと微笑み、彼女を優しく促した。
「よろしいのですか?」
「ええ。もちろんよろこんで。花は僕だけのものではない。愛でてもらえるのならば、よろこばしい限りなのです。本日はせっかくお招きしたのに、ゆっくりとお構いも出来ずに申しわけ無い」
「とんでもない。とても楽しい時間を過ごせました。それではまた、ごきげんよう」
椿は深々と頭を下げ、薔薇咲く黒猫探偵事務所を後にした。
依頼者は神経質な横顔をした五十絡みの紳士だった。多少個性的で裾の長い優雅な形態の紳士服がよく似合っている。
白い薔薇の横で、その紳士は踵を返した。
立ち去って行った先客の少女を横目で見ると、男は眼帯の青年を見る。
もしかしたら、鋭い棘を持つ白い薔薇を背にするからきつく見えるだけかもしれない。だいたいの依頼人というものは固い表情をしているものだ。
「お待たせを。ご依頼の方ですね」
男は頷き、扉まで歩いてくる。
男は一度も後ろ手を解くことはせずに、静かに朱鷺島をまっすぐと見たままエントランスの段を上がってくる。
「君が朱鷺島レイくんだね」
「ええ。いかにも」
しゃがれた声で初めて男は手を差し伸べた。朱鷺島もその大きな手を取り、握手を交わす。
だがその途端、眼帯を填めたはずの右目の視野が眩しくなり、男の顔を見たまま朱鷺島の身体が固まった。
握手を交わした刹那、何かの映像が朱鷺島の脳裏に一気に押し寄せたのだ。
目の前に浮かんだ場面は次の通りだった。
暗がりの室内で記憶の持ち主であろうこの男が若い声で呻きよろめき、頭を抱えて叫んだ若い女から離れドアから廊下へ走って行った場面。
「分かりましたかな」
重々しい声が聞こえ、驚きに頭を振った朱鷺島は男を見た。
「これは、一体」
「私は触れた者に自分の記憶を覗き見られてしまうのだ。それも、辛い記憶を。考えている物事全てを」
ボーラーハットの陰から男の白髪交じりの黒髪と、神経質な目元が覗き、縦に皺の刻まれた口元が神経の深さを伺わせた。
「私は不思議な力を持つという君の噂を聞きつけ、はるばるここまでやってきたのだ」
朱鷺島の脳裏に先程、一瞬浮かんだ暗がりに現われた男の脳裏。それは今の男よりも随分と若い精神と肉体とを認識していた。
きっと、先程垣間見た女性との出来事よりずっと前から、この能力によって長年苦しみ闘って来たのだろう。青年時代の男の顔立ちも神経が細そうな面もちとして脳内認識されている。もしかしたら、この男も普段は朱鷺島と同じように人とは関わらずに生きているのかもしれない。
「ご依頼内容を伺いましょう。なかへどうぞ」
朱鷺島は男を招き入れ、庭から採ったハーブティーと焼いたクッキーを出した。男はそれをいただく。
幾分頬の緊張がほぐれ、男は初めて微笑みを見せた。
鋭い目が開かれるとため息をつく。
「三十年前、私は先程の記憶がきっかけで許嫁との婚約を解消することとなった」
「暗がりの室内にいた女性ですか」
男は頷いた。
「両親はこの力を知っており、充分神経質に子供時代の私を育てた。人との関わりよりも、植物研究の世界に没頭させることでストレスを軽減させる計らいもしてくれた。そんな両親が与えた許嫁は、父が信頼する精神科医の令嬢だった。私は普段、あらゆる害から守られ人里はなれた別荘を研究所として生きてきたために、私と接する彼女にも何のストレスも無く過ごさせているのだとばかり思っていた」
庭で栽培するハーブがカップから薫る。今は彼はその薫りにすがるように瞼を閉ざし、一気に話した。
「だが、違ったのだ。彼女は私自身も忘れていた過去のトラウマを日常的に見ていたのだ。私に触れるその度に。それを、彼女は私との過去の共有と考え、何も言わずに過ごしてくれていた。だが、それを私は知らなかった。トラウマも、過去も」
男の顔は心なしか白くなって行き、語り続ける。
「ある日、だんだんと触れ合う毎に紐解かれる私の過去に彼女は一人対峙することとなった。淀みなくそのトラウマが彼女の脳裏へと押し寄せ、そして蘇ったのだ。彼女は耐え難い真実に突然悲鳴を上げ、発狂した。すでに私でさえも知ることの出来ないトラウマによって、彼女の心は壊れた」
いきなり朱鷺島は男に手を取られ、先程の記憶が蘇った。振り解くことも出来ずに入ってくる、発狂した彼女の記憶。
一人の青年が叫び続ける少女をどうにか抱きすくめながらも、酷く困惑していた。少女は青年が子供時代に受けた苦痛に叫び続けていた。それを彼女はいやがおうにも享受しながらも飲み込めずに、自身の身体を抱え痛みに耐えるかの如くうずくまった。真っ青な顔をし、身体さえも冷たくわななかせて。
青年は突然の出来事に混乱を来し、部屋を後にして助けを呼びに走り、気絶した許嫁の元に医者を連れて戻って来た。
許嫁はすぐに運ばれていった。青年の耳に残ったのは、彼女がひっきりなしに叫び続けた要領の得ない言葉だけとなった。
「あなたのご両親は、その事についでは何とおっしゃって?」
「いいや」
硝子のカップを手に収めたまま、風に乗って漂ってきた薔薇の上品な薫りに包まれて男は顔を上げた。
「私は五歳の頃から親元を離れ、植物研究の屋敷で付き人や教育係と共に生きてきた。大きな事件など記憶に無い。五歳以前も。それ以前にあるのは両親と過ごした、優しくも、だが触れ合えることもできない寂しい日々のみだ。その後の私にあるのは、植物たちの記憶だ」
「では、トラウマと思われる記憶がいつ頃のものなのかも?」
「分からない……。何も分からないのだ。だから、君の千里眼の噂を聞きつけやって来た。今や許嫁だった女性は精神科医である彼女の父親の病院で精神療養を済ませた。暗示で私との記憶も喪失させた。そして他の男と婚姻を結び、他の地で暮らしている」
「あなたはそれでからずっと、お独りで過ごされてきたのですね」
「ああ」
男は頷き、深くこうべを垂れた。
「私は怖いのだ……」
男は片手で顔を覆い、うずくまってしまった。
「もしもし、大丈夫ですか?」
「私に触れるものは、正体の分からない私の辛い闇の記憶を取り込まなければならなくなる。付き人や教育係でさえ、私に触れる事は無かった。細心の注意が払われ生きてきた。人恋しくて自分の身体を抱きしめても自分のことなど分かりはしない。自分のことなのに。だが、トラウマとなるような物など分からない。よく深く寝入った付き人の寝床を訪れると、子供時代はすがるように人肌に抱きついた。その時でなければ、私は同じ人間と触れ合うことも出来なかった。今では毎日許嫁の心を失わせてしまったあの日の恐怖が私を占領している。ようやく触れ合うことが出来た唯一の女性だった……。待ちわびた愛だった。その大切な女性を、知らぬ間に傷つけてしまっていたのだ。なんと罪深いことか……」
男は片手を離し、静かに膝を見つめる顔は既に蒼白していた。
「触れただけでは、本当の私の過去は探れはしないのかもしれない。彼女の父親の催眠術でさえも、私のトラウマの正体を探れなかった」
ふわっと、風が二人の頬を撫でていき、男は深く、強く目を閉じて、深く、ゆっくりと深呼吸をした。
そよ風に乗せ、女性を表現したような甘い薔薇の薫りは、どうやら男の心を少しずつ癒してくれるようだ。
口調はきついものがあるが、庭を再び見つめた横顔はだんだんと瞳に輝きを受け入れ、光沢を静かに受け始めた。それが、涙がにじみそうなのか、去来する記憶を追ってのことなのか。
「……こちらへ、いらしてください」
朱鷺島を見た男は、サイドテーブルに生けられた紅い薔薇のよく似合う青年をしばらく静かに見つめ続けた。
「私は悩んだよ。自分よりも若い青年に、得体の知れないトラウマを背負わせることになることを思うとね」
「しかし、僕はあなたがこのように自身の苦しみを打破するために、ここを訪ねていらしたことをうれしく思います。人の心が分かってしまう苦しみは、僕らに与えられたさだめ、なのでしょう。あなたが少しでも前を見ることの出来る橋渡しになれるのならば、僕自身がここまできた甲斐があるのです」
男はゆらゆらと揺れる瞳で朱鷺島を見続けたが、深く深く頭を下げた。
「どうも、ありがとう」
朱鷺島は庭で薔薇に囲まれた白い石台に男を招いた。
こういった行為は、朱鷺島自身にも負担を与える事なので、精神統一やロケーションがとても重要なのだ。
男がその場所を見回すと、言われたように彼を前に同じく胡座をかいて座った。そこに二人が等間隔に座っている。
石台の五隅には、蝋燭が。内包の五隅には、それぞれの種類の輝石が置かれ、それが楽器になり音を鳴らしていた。二人の間には透明の水の入ったグラス。それにお香が焚かれて細い煙が上がっている。
朱鷺島は精神統一を終えると、目を開いた。目元に手を掛け、眼帯を外す。
男はその瞳の色に見入り、息を飲んだ。
二人の間には、沈黙という名の静寂と共に、初夏の風が流れていく。
朱鷺島はじっと男の目をまっすぐと見続ける。それは恐ろしいほどの能面であり、ぴくりとも動かない。
固く閉ざされた口元は、常に朱鷺島にあった和やかな雰囲気など払拭されている。
それは男を、そこはかとなく不安に陥らせる。
救いは、朱鷺島を囲うように咲き乱れる薔薇、飛び交う様々な蝶や蜜蜂、さえずる小鳥たちの存在だった。生命の美しい、四季の輝きに癒されながら。
きっと、それは朱鷺島自身も同じ事なのだろう。何かを受け入れることに恐れを抱くのは。
その目が今まで何を見てきたのかは分からないが、知ることを受け止め続けてきた朱鷺島の目の奥は、曇りなき輝きが眩しい。
「………」
刻は流れ、植物たちの影も移ろって行った。
「分かりました」
朱鷺島が静かに言うと、男は息を呑んだ。
そして、彼は男に優しく微笑んだ。昼下がりの白い光りを受けて。
閉じこめられていた記憶を知った男は、館を去っていった。
深く頭を下げ、土産に薔薇の花束とハーブの葉を片手に携えて。
朱鷺島は再び庭に戻ると眼帯を外し、薔薇の一輪一輪に触れていく。
優しく微笑みながら。
浄化を促すクリスタルの音を響かせる。
それは澄み切った水色の空へととけ込んで、薔薇の花弁や葉の裏にも染み込んで行く。朱鷺島の魂も身体も、緊迫から癒される。
「今日もどうもありがとう。薔薇嬢たち」
翌日のこと。
椿はその日も朱鷺島舘を訪れていた。
門から覗くと、やはり変わらず薔薇達が出迎えてくれる。
その洋館に住まうオッドアイの貴公子を探すため、窓を見上げた。だが、その姿は見あたらず、椿は本当に自由に庭に立ち入っていいものかを迷っていた。
「椿さん」
「まあ」
彼女は背後を見て、彼を見上げた。
「出ていらしたのですね」
「ええ。どうぞお入りください」
彼は優しく微笑むと、椿を招き入れた。
「昨日の依頼者の方は、大丈夫だったのですか?」
「ええ。心置きなく帰ってゆかれましたよ」
椿は何度も頷いた。
「何かの事件の関係かとご心配なさっておいでですね」
「ええ。ただならぬ雰囲気でしたので」
「過去見、というものです。過去に起きた事例を記憶から呼び覚ますこと。僕の依頼者は千差万別なのです」
今日は苑にあるテーブルセットに椿は招かれた。彼女の雰囲気によく似合う淡いピンクの薔薇が愛らしく咲き乱れる。
「それはもしかして、片方の瞳の関係でして?」
「ええ。僕の隠されたこの瞳は、人の心を見透かすのです」
「………」
恐ろしい、と椿は正直に思った。
眼帯を填めていても存分に感じ取ることが出来るそれらの感情に、朱鷺島は彼女を怖がらせてしまったと気づき、顔を覗き見た。
「……申し訳ない。大丈夫ですか?」
一体どうしたというのか、朱鷺島は自身の口に反省して戒める。こうも初対面に近い少女に打ち明けてしまっているだなんて。何が彼をそうさせるのだろう?
「……大変なお仕事なのですね」
「この土地が僕を癒してくれます」
「ええ。分かります。初めてこの土地を訪れたとき、どんなに心が洗われたことか」
朱鷺島は柔らかな表情になった椿に微笑んだ。
なんとなく、少し分かった気がする。柔らかな香りが椿からはするのだ。とても、とても安心するなごやかな香り。彼の心をそっと包み込んでくれうるに等しい、安堵の雰囲気が。
自然を愛する者には誰にも浸食され難き光りが宿っている。心を輝きで充たす方法を知っているのだ。椿もなのだろう。植物や、花のように。
「ねえ。椿さん」
朱鷺島は薔薇の群から、椿を見た。
「ハープの音色、聴かせてよ。薔薇嬢達も悦ぶよ」
「はい」
椿は照れて微笑んだ。
夜。
黒猫探偵事務所に、もう片方の主達が軍団で帰ってきた。
朱鷺島は鳴き声に気づき、その黒猫一家を見る。全部で七匹の黒猫たちを。
その内の一匹の雄猫が、昔あった事など忘れた顔で今日も朱鷺島の膝に乗り、毛繕いを始める。彼は「可愛い奴め」と微笑んで頭を撫でた。
それは三年前のこと。
元々空き家だった屋敷のこの庭に住み着いていた雄の黒猫が一匹いた。越してきた三年前は、朱鷺島は毎日のようにこの雄猫に舘を荒らされ威嚇されてきた。そして朱鷺島の黒い雌の愛猫を追いかけ回されていた。雄猫を捕まえても噛まれ引っかかれてしまい、テリトリーを取られた野良猫の攻撃は凄かった。
だが、それもいつしか朱鷺島のペットの黒猫が気に入ったらしく、植えた薔薇の手入れをしていても、威嚇してくる事はなくなった。そして、いつの間にやら番となった黒猫達は、五匹も子猫が生まれた。すると、雄猫は一気に親らしい顔になったのだった。
その親猫二匹。子猫の五匹で黒猫一家は形成されていた。その後、雄猫には去勢を施した。
雌の黒猫は水色と黄緑のオッドアイだ。偶然にも、元野良の雄もオッドアイだった。なので、子猫達もオッドアイだ。
しなやかなボディの雌猫は<婦人>と名付けられている。がっしりした体型の雄猫には<男爵>と名付けた。五匹の子猫はそれぞれ、雌がローズ、薔薇子、ロサ。雄は黒、ネーロと名付けた。
彼ら黒猫達は、朱鷺島の情報収集の役に立つ。
何故なら、動物の目をみても彼の能力は発揮されるからだ。
婦人には元々訓練をしているし、七匹が自然に収集してくる記憶も面白いものだ。
割と猫というものは、根深い記憶が鮮明に残っている。自分と関わりが無いことに関しては知らぬ存ぜぬだが、無意識にも人の発する言葉や状況の把握には長けていた。
なので、猫達も立派な黒猫探偵事務所の探偵なのだ。
心地よさ気にする猫男爵の背を撫でていると、その男爵が朱鷺島の顔を見上げてきた。
じっと見つめて来るので、何かあったのかと首をかしげる。
普段は他所の家庭の事まで見ることを避けたくて、猫の前でも眼帯をはめていることもある。今もだ。
彼ら、猫の記憶というものは、大体が猫の生活だ。獲物を捕らえる臨場感、自然の緑に囲まれて過ごす親子の時間と、子供たちの戯れ。親猫が子猫を躾る方法。それらが占めている。
何か気になって、朱鷺島は眼帯を外すと猫の目を見つめた。
「………」
まず、脳裏に浮かんだのはビアンカ・椿・ベルッティの薫りだった。
猫が朱鷺島から彼女の薫りを嗅ぎ取ったことで、男爵のなかにある彼女の記憶がふと、蘇ってきたらしい。
猫の記憶が流れてくる。
椿は明度が高く広い庭でハープを奏でていた。
それは彼女が滞在している宇治木邸だと分かった。すると、朱鷺島の脳内の記憶と自然と混ざり合い、猫の白黒の視野に色が蘇って記憶は再生される。それも朱鷺島の能力の一つだった。
宇治木邸の庭は植物の種類が豊富でとてもナチュラルな風情をしている。広い庭を有しているので、猫達も過ごし易さを感じているようだ。
のんびり屋のローズが、椿の足元に近づいて行く姿を、男爵が茂みから見ている記憶から始まった。
他のテリトリーでは比較的男爵は静かで、滅多に人間の前に姿を現さないのだ。
気品のある薔薇子の場合は、いつでもローズを目で追っては静かに座っている。ロサと黒は悪戯好きで子供っぽい。ネーロは甘えん坊で、ずっと母猫である婦人の横から離れないで草地の上にいる。木漏れ日が艶やかで柔らかな猫達の姿に揺れている。時々瞳が光って、草花も光っている。
椿はハープを奏でているままに、一向に足元の黒猫には気づかずにおり、ローズは寝ころんで草花にまみれてじゃれ始めた。
男爵は明るい庭を陰から注意深く見ている。
すると、向こうから屋敷の主がやって来たので、さらに低木下に身を潜めた。それは宇治木だ。
まだのんびりしている娘猫のローズに視線を飛ばす。婦人もやって来て男爵の横から宇治木を見た。
宇治木も椿のドレスの裾でローズには気づかない。
その宇治木は椿の背後からやってくると、いきなり彼女の柔らかな頬にキスをそっと寄せた。
彼女は叫んで振り返り、ローズがその事に驚いて一目散に茂みに戻ってきた。
男爵と婦人がローズの毛並みを必死に嘗めて毛繕いすると、その時に椿の薫りがした。
そして、また茂みから二人の人間を見る。
椿は宇治木に腕を引かれて、いきなり連れて行かれた。庭にある離れのドアを潜って行き、見えなくなった。
猫にはそれが人間のどういう知り合いなのかはあまり分からないので、連れて行かれた意味が分からない。なので、一難が去って安心していた。
そこから七匹は庭を離れ、丘まで歩いて行き、昼下がりを過ごし始めた記憶が流れた。
「………」
はっきり言えば、猫の記憶の宇治木の顔つきは恐い物があった。
強引に椿を連れて行ったし、彼女はただただ驚きのあまり、よろよろと引っ張られていったまま。
「椿さん」
朱鷺島は胸騒ぎがして立ち上がると、颯爽と歩いていった。その後ろを婦人が追いかけてきて、背中からとんっといつもの様に慣れた肩に飛び乗って来た。
現在は夜。心配だった。
外に出て、暗がりの路を駆け足で行く。二棟先の路向こうに、宇治木邸が見えてきた、
暗がりの庭が柵と木々の先に広がっている。木々の間に見え隠れする離れには明かりが点いていない。
そちらの塀まで歩いていくと、婦人を放って庭に入って行かせる。
嫌な予感がしていた。椿は大丈夫だろうか?
彼は眼帯を外し、月が微かに白い頬と白水色の瞳に光りを、そして葉陰を落とす。そのまなざしはじっと離れを見ていた。
しばらくすると、暗がりを縫って猫が戻ってきた。
彼は猫の目を見る。
すると、驚いて息を呑んだ。
椿が離れの居間の壁に吊されている映像が、目の前に広がったのだ。ソファには奥方もいた。宇治木夫妻はワインを傾け、拘束された弱々しくこうべを傾け垂れる美しい椿を鑑賞している。それは、まるで本物の冬の椿が如く、人の心をくすぐる風情で。
そこで猫はすぐに戻ってきた。
朱鷺島は他の屋敷連と全く関わりが無いわけでは無い。自分で宴は開かなくとも、招かれれば彼らのホームパーティーに参加するし、夜に会話を楽しみに伺うこともある。
「これは一度、宇治木夫妻に連絡を入れるべきか」
朱鷺島は猫を抱えながら携帯電話を出した。相手はすぐに出た。
「やあ。どうしたんだい」
軽快な口調の宇治木。ワインで気分が良ろしくなっているようだ。
「今晩は。夜半を共に過ごしませんか」
小一時間後に招かれて、朱鷺島は宇治木屋敷の門扉を越える。
草木の薫りが身体を包む素敵な庭だ。アプローチは長いのだが、客人を迎えるために心の落ち着く暖色の外灯が並んでいる。
あの快活な宇治木が裏で何をしていたのかは知らなかったが、奥方にしても、これは信じられないことだ。
汚れを知らない椿の雰囲気が、二人をあのような心持ちにさせたのだろうか? 無垢なほどに、魔を引きつけるのだろうか。
私道を歩く内にも、庭の先には明かりの消えた離れの陰が浮かぶ。先程までの不気味な雰囲気が、暗がりに顕著に浮かんで思えた。
まだ椿は、閉じこめられているのだろうか? あの柔らかな笑顔が脳裏に浮かぶ。緑と薔薇を背にした彼女。どうか無事でいてくれ……。
颯爽と玄関までたどり着いた。
「まあまあ、よくいらっしゃったわ。さあ、どうぞおあがりになって。朱鷺島さん」
美しい奥方に迎えられ、朱鷺島は手土産を手渡しながら微笑み、歩いていった。
リビングに来る。
「………」
彼は胸をなで下ろした。
椿がいる。
スツールにしなやかに腰掛け、そっとうつむいていた。その横にはハープが設置されており、表情こそは見えないが、外傷は見られない。
宇治木が振り向くと、ソファから立ち上がった。
「こんばんは」
「やあ。朱鷺島くん。今、ちょうど君の話をしていたところだよ。椿がお邪魔したのだってね」
「ええ」
椿を見ると、彼女はそっと朱鷺島を見た。だが、すぐに視線を落とした。ひた隠したい苦痛を抱えた表情なのが、ありありと伺える。昨日は感じなかった強い不安感だ。昨日までは、しおらしさから来るうつむき加減だったというのに。
朱鷺島はじっと眼帯側で無い目で宇治木を見つめた。背後の奥方に、座るように促され、椿の横に置かれたソファに腰掛けた。
「本日は、どうも星が見えずに雲も月を隠せば暗い夜です」
「ええ。本当に」
そんな夜だからと、あんな事をしていたのだろうか?
一度や二度の拘束ごっこでも無いはずだ。壁に設置されていたあの鎖と鉄枷が思い出される。普段は絵画が飾られているはずの壁に、ありありと存在していた闇の影を落とす拘束器具。いつもはどうやら、鎖を取り外して絵画で隠してあっただなんて。
「夜に聴くハープも良くってよ。椿さん、お客様に聴かせてさしあげて」
「はい……」
弱々しく返事をすると、椿は一度じっと朱鷺島を見つめた。そして、瞳を反らすと、ハープの弦を爪弾き始める。奥方も、もう一体のハープのイスに腰掛けた。
その二人の姿は実に絵画的で美しいものである。まるで、あの黒猫婦人の見せた姿が、何かの幻、お戯れであったのかと錯覚させられるほどに。
「いやあ、実に良いものですな。ハープデュオというものは」
「ええ。本当に」
「本日は口数が少ないようで」
宇治木の横目は、眼帯側では無い朱鷺島の目を見ると、朱鷺島は宇治木を黒目で見た。
朱鷺島はいつも涼しげに微笑んでいる青年だが、今日と来たら能面のように恐い顔をしている。なので、宇治木は先程までの心地良い酔いも醒めるようで、内心不機嫌になっている。
この辺りの人間は、朱鷺島が探偵事務所を開いていることは許しているが、その特殊な内容までは知らなかった。そんなことを万一知られたのでは、すぐに不気味がられて追い出されることだろう。もちろん、朱鷺島自身にも干渉などという悪趣味など無い。
ということは、朱鷺島が実はもう片目もしっかり見えている事も知られていないし、オッドアイだということも同様に知られていない。今、それをここで知るのは椿のみだ。
ここですぐに眼帯を外して宇治木夫妻を見ることは難しかった。なので、目のことを知る椿の瞳を確認したかった。
彼女自身が嫌がるので無かったらの話だ。一体、何があったのか。
辛い記憶を持つ者は、先日の男も同様なのだが、その感情を他人に知られることを極端に嫌うことが多い。他人を信用することが怖いからだし、打ち明けることに躊躇を覚えてしまうのだ。人に迷惑を掛けたくないという感情もある。
だが、それを聴いてあげられるだけ、聴いてあげることが大切なのだ。
椿は一切、顔を上げようとしない。それを恐れるかのように。目も合わせようとしない。
椿はハープを奏でている。奥方は気分が良いらしく、軽やかな指の運びだった。
びんっと、的外れな音が響き、椿の指が固まって止まった。
奥方は目を開いて椿を見た。固い空気が流れ、それが朱鷺島には痛々しい。言葉を発さずにいる椿の肩は震えていた。指先も。
奥方は元来の優しい微笑みに戻り、爪弾き始めながら言う。
「椿さん。あなた、まだこの演奏はお早いのね。こちらなら、よろしいのでしょう?」
「奥様……」
椿はうつむき、顔を逸らして目がぎゅっと綴じられた。
突然立ち上がり、そして走って行こうとした。ガシッと奥方に椿は手首を掴まれた。
「まだ、演奏しているのよ」
その声は手厳しいもので、つり上がった目は椿の存在を、視線だけで牢獄かのように捕らえていた。
「こんなにも愛らしいあなたをようやく見つけたのだもの。逃がしはしないわ」
掠れる声で呟かれ、椿は一気に奥方の手を振り払って走って行った。
「追え!!」
鬼の様な覇気で宇治木が言い、奥方よりも先に朱鷺島が走り、椿が廊下に逃れた直ぐにドアを閉ざして奥方の前に立ちはだかった。
奥方は冷たく朱鷺島を見て、背を向けてソファに座る宇治木は肩を振るわせ低く笑った。
「今日は何かを嗅ぎつけてやってきたのかな? 黒猫探偵君」
立ち上がった宇治木の手には、ソファのクッションで隠れていたのだろう、手枷が揺れていた。革首輪付きの代物。
「え? 猫君」
それは床に影となって揺れている。
奥方はいつもの彼女の顔立ちに戻り、一歩引いた。そして、明かりが彼女の顔立ちに差し込んだ。
「私ね、時々その全てを見透かしてくる目が気に入らないの」
「椿さんに何をした。あんなに怯えていたではありませんか」
「ちょっとばかり、厳しく教えてしまったのね」
「どうかな。昨日の分では、そんな事は感じなかったが」
宇治木がここまで歩いてくると、手枷を彼に填めようとして来た。
それを避けて眼帯をはぎ取り宇治木の顔を睨み見る。
鎖を掲げ迫ってくる。
脳裏に一瞬にして浮かんだのは、危険なまでの相だった。
それは猫が獲物を捕らえる時の冷静な高揚感とは全く別物の、ただただ人間本意の狂気悦楽の感情。
暗がりに拘束された人間が浮かんでいた。骨、裸体。ふはい、カイライ……。
竪琴を狂ったように爪弾く奥方が蝋燭に揺られ、骨を抱き寄せてばらばらにする宇治木が妖しく笑んでいる。そして、ついには琴の線がバチンと切れて、緊張を失った一本が銀色にゆらりと光った。
長い髪だけを集めたバスタブに、丸くうずくまって眠る二人の姿。
それらが一瞬で脳裏に、高速になだれ込み、朱鷺島は宇治木の横っ面を張り倒して奥方は倒れた夫から朱鷺島を見た。
通常の人がしないような事をしていた彼ら。餌食になっていたのは、皆が椿と同じ程の二十代前後の髪の長い少女ばかりだった。
彼を睨み見てくる奥方の脳裏に浮かぶ少女たちの姿は、誰もが彼女のコンサートに訪れるファンのお嬢さんや、教室に来た子。その彼女たちは、奥方を尊敬して何の疑いも無く近寄り、そして、屋敷に呼ばれて拘束されたようだ。それは例の離れの地下へと。
「驚いたわ。あなた、オッドアイだったのね。美しい瞳」
奥方が緩く微笑み、ここまで来る。
宇治木はソファにうなだれ気を失っていた。
朱鷺島は一気に奥方の動きを封じ、リボン帯を解き手首を十文字に縛り付け動けなくした。鋭く叫んで彼女は睨んでくる。一瞬で断ち切れた弦のような声で。
二人を拘束した後、椿を探す。
「椿さん!」
屋内をいくら探しても見当たらない。
相変わらず、落ち着く色合いの外灯が並ぶ私道。だが、その明かりも様々な高木の立ち並ぶ庭の奥までは届かない。微かに見える離れは不動の態だった。椿は広い庭のどこかの茂みに隠れているのかもしれない。
低木や高木の間を探す。時々ふわっと迫り来るように木の花が薫ったり、それが椿の薫りを惑わせるかのようで、薫りの迷路となって朱鷺島の心を虜にした。
「椿さん」
どこにいるというのか。
そこで朱鷺島は口笛を吹いた。
しばらくしても黒猫婦人は現れない。
婦人は椿と共に朱鷺島舘に逃げてくれたのかもしれない。
「ニャン」
婦人の声がした。
塀を見上げると、出始めた月を背に黒猫がいた。そのしなやかな肢体をくねらせると、朱鷺島の足元まで跳んできた。
「婦人」
彼は猫の胴体を掴み、そのオッドアイを見た。めまぐるしく雲から隠れ覗く月の明かりできらりと光るその目を。
「椿さんは男爵たちと家にいるんだな」
椿は朱鷺島舘二階の居間で執拗に黒猫達を抱き寄せて、頬を寄せていた。がたがた震えている姿が暖色灯に浮かんではっきりしている。猫の視野は暗がりでもはっきりしているので、それがよく分かった。
ひとまず朱鷺島は椿と猫達のいる舘へ戻る。
しばらくして朱鷺島舘に戻ってくると、椿が今の扉が開いた音にビクッと振り返った。
「椿さん」
猫達がこちらを見てくる。
「朱鷺島さん!」
「椿さん」
「眼帯は」
「ああ。見たよ。彼らがしてきた事が見えた」
胸ポケットから眼帯を出しながら言った。
「ああ……」
「全てを見た」という言葉に椿がよろめいて、その彼女の身を支えてソファに落ち着かせた。
「ゆっくりと息を落ち着かせて」
「ええ……。ありがとうございます。この子達は朱鷺島さんの……? 彼らがいてくれて良かったわ。でなかったら、わたくしどうしようもなくって」
椿の涙を拭う。
「助かって良かった。猫達が報せてくれたんだ」
「まあ、この子達が?」
「ああ」
椿は抱きしめていた黒猫たちを驚きの表情で見回し、「どうもありがとう」と頬をうずめた。椿の前にしゃがんだ朱鷺島の横にいた黒猫婦人も、ソファに飛び乗ると彼女の頬を労るように嘗める。朱鷺島は微笑むと、顔を引き締めた。
「あったこと、話せるかな」
時に、怯える者は朱鷺島の瞳に見つめられることを怖がる。話で済むのならば、それが良いのだ。
何度も息をついてから、椿は話し始めた。
「それは昼下がり……、いきなりのことでした。離れの地下に突然連れて行かれたんです。そこでとても異様な光景を見せられて、わたくし、恐ろしくって仕様が無かった。そしたら奥方に湯船に漬けられて、その先には二つの白骨が、鎖と一緒に絡まっておりました。わたくしは叫び掛けて。奥方の旦那さんがこちらへ来て、いきなりわたくしの長い髪を掴んできたのです。そうしたら、奥方が『彼女の髪を切るのはまだにしましょう』と。そして、わたくしは気絶させられて、それでからは目を覚ましたら離れの一階に……」
椿は顔を俯けたまま、何度もつっかえながらも言った。
そこで椿はハッとして、顔をいきなりあげた。それと共に、朱鷺島の脳裏にも椿が思い出した記憶が流れ込んだ。
「声が……声がしたのです。わたくしが髪を掴まれて暴れた時に、何か、言葉は不明でしたけれど、少女の声が」
朱鷺島は立ち上がった椿を見上げて、自分も立ち上がると、焦る椿の肩を持った。
「落ち着いて」
「人がいたんです。きっと、他にも捕らえられた人が。それを気絶させられた時にきっと忘れて」
「すぐ行こう。命がかかっているんだ。君は猫達と留守番をしていて」
本来は誰かに来てもらって、彼女と一緒にいさせてあげたい。だが、あの宇治木が怪しかったのだ。他の誰を信用すべきかが今は分からない。
「椿さんは宇治木住所まで警察と救急車を頼みます」
人里離れたこの場所までは時間がかかる。
朱鷺島は再び宇治木屋敷へ戻ると、暗がりの離れに来てドアの前に来た。
だが鍵が掛かっている。ノブを上着でくるんで何度も踵で蹴り落とし続けると、それがぐらついてきた。しまいにはノブが完全に壊れ、ドアが開く。入っていき、奥方の記憶にある方法で地下に潜って行った。
廊下を曲がった角部屋を開け、仕掛けの順に台の置物をテーブルへ移動させていく。左の燭台、間にある箱。右の花瓶。右の燭台。箱の後ろの横たわる女性の彫刻。右の燭台。そして最後に左の花瓶。全てをテーブルに並べていくと、それらの重みでへこんでいた台のくぼみが順番に浮き上がってきて、からくりが動く音がして枠壁の一つが開いた。
現れた階段を下っていく。そしてドアを開け放った。
「………」
異様な匂いだ。
手探りでスイッチを付けると、露わになった光景は以外と整然としており、朱鷺島は見回しながら歩いた。
この光景は二人の記憶から読みとったヴィジョンと同じ石作りの地下部屋。時に同じ事が嫌になることもあるが、随分と慣れてきた事でもある。心を落ち着かせて一歩二歩と歩く。
奥にユニットバスがある。その手前にカウチソファがあり、奥に髪が収められた化粧箱。カウチの向かいに空間を挟んで石台。比較的整っている。腐肉も白骨も見当たらない。
歩いていくと、ユニットバスの向こう側に、全く動かない少女が二人、いた。どちらも二十代前半と思われる。しかも、二人とも無惨に髪が切られている。持ち主から離れた幾人もの髪が渦巻く箱を見た。
少女たちは息をしていた。
「君たち」
頬を叩くと、一人が目を覚ました。朧気に見てくるが、すぐに目を綴じてうなだれる。もう一人は気を失ったままだ。
上の階から持ってきた毛布を掛けて冷たい肌をくるんだ。
「うう……」
少女がうなり、目を覚ますと朱鷺島を見て短く叫んだ。
「安心を。助けに来た」
少女が彼の目を見たとたん、少女の記憶が脳裏に入ってきた。宇治木に髪を掴まれそれを切られてしまい、そこで気絶をしたのだ。少女がもう一人を見て必死に揺り起こすと、二人で抱きしめあって震えた。
彼は不安がる彼女達を上の階に連れて行き、キッチンからお茶を持ち寄った。時々離れでの宴では奥方を手伝うことがあったので、勝手知っていたのだ。二人とも泣きながらお茶を飲み、顔を一切上げることが出来なかった。
そうしている内に、朱鷺島舘から二時間ほどして警察が到着した。
警察は宇治木夫妻を連れて行き、二人の少女も救急車で運ばれていった。
明るい昼。薔薇の庭。
椿は黒猫達に付き添われていた。
あの事件からハープを奏でていない。とても落ち込んでいるのだ。
「もしもし」
朱鷺島は振り返り、先だっての依頼人の男を見た。
「これはこれは、その後の様子はいかがです」
「ああ。これから心の整理をゆっくり付けて行こうと思っている。この前のお礼にやって来てね」
「それはわざわざ遠いところまでお越しいただいて申し訳ない」
「なに。この自然にも癒されたく思ってね。私は植物が好きなのだ。君の育てる薔薇にも興味があった」
男が歩いてくると、椿はネーロを抱えながら立ち上がって会釈をした。
「ごきげんよう」
「この前の女性だね。ごきげんうるわしく。どうぞお見知り置きを」
「こちらこおそ、よろしくお願いいたします」
「私は植物学者でね。この辺りの植物の在来種にも興味があるので、たびたび伺わせてもらおうと思っている」
「まあ、植物を」
それを聴いて、いくらか椿は表情をほころばせた。
朱鷺島は男をテーブルセットに促し、共に紅茶といただいたパウンドケーキをいただいた。それが実に素朴な味のするもので、屋敷横の菜園で育てられた野菜のパウンドケーキだという。
「何やらパトカーが行き来していたが」
「ちょっとね、奇怪なことがございまして」
男は相づちを打ち、静かに彼らを見た。
「恋人同士かね」
「まあ」
椿は花の如く白い頬を紅潮させ、完全に俯いてしまった。
「よくお似合いだ。雰囲気も似ているよ」
男は遠い目をした。その先には空に雲が流れている。
「人間の一生というものはな、植物によく似ているよ。一番若いときにたくさんを動かしておくべきだ。歳も落ち着けばそれらの輝ける思い出がいくらでも巡り過ごすことが出来る。植物が若いときに光合成をして、果実を生らせて、そしてあとは緩やかな眠りの時を静かに過ごすように」
空には昆虫が跳んでいく。それは限りない生命を感じる。
「特殊な者にも、悦びは与えられるはずだ」
男は自分が感じてきた幸せと辛さの両方を、まるでその場で丸めて収めるかのように言った。それで年を取って、静かに静かに穏やかな時の流れをこれからは行くのだろう。
「いつかは、癒されるのでしょうか」
椿は飛び交う生命や、一生懸命に咲き誇る花々を見て呟いた。
「一人で癒せるほど強くないのならば、誰かに頼ってもいい。それが出来るのだよ。許されているのだから」
それは、まるで朱鷺島に言っていることのようにも感じた。
もちろん、それは男自身にも。大切な思い出を抱き締めながら、植物たちと共に。
頬を染める椿を一度見ると、男はクールなままの朱鷺島の横顔を見た。
「いつかは……それがとても素敵だと思うときが僕にも来るのでしょうね」
椿は更に頬を押さえて、猫が彼女を見上げた。
朱鷺島は椿の横顔を見て、正直胸が高鳴った。その相手が彼女なら、きっと素敵に違いない。
男は微笑んだ。彩る白い薔薇が初めて男を柔らかな印象にする。
第二章 夢見師
「青柳……」
朱鷺島と椿は顔を俯かせて肩を振るわせてしまい、彼らの膝上の黒猫達は伸びをしたり眠ったりしていた。
「猫太郎さんとおっしゃるんですか」
朱鷺島は至極真面目に聞き返すが、眉がふるふる震えて既に眉間には笑いをこらえることに対するしわ寄せが来ていた。
青柳猫太郎は正真正銘、先だっての依頼者の男である、触れられると記憶を他人に見られてしまう紳士の名前だった。
「ははは! 大概が同じ反応をされるのだ。もう笑ってもよろしい」
椿はそれでも笑うまいとして、柔らかい猫の毛並みを執拗に撫でていた。ただただ唇を振るわせ彼を見ていた。
「いや、まさかそんなわけにも」
朱鷺島は何度も咳払いして、ごほごほと俯いて咳をした。
依然、再現されたヴィジョンでの彼は「太郎さん」と呼ばれていたのだ。
「役所へ届けを出した時は『描太郎(びょうたろう)』と届け出たはずが、それを間違えて『猫(ねこ)と書いてしまったらしい。それも気づけば後の祭りさ」
「なるほど……それはまた」
現在彼の両親は元気に暮らしているらしいが、初老を迎えた子供が幼少の頃より深刻な物事を抱えていたので、猫太郎という名付けてしまった役所での親の微笑ましい笑いネタが、唯一の彼等の救いともなっていたのだと言う。
慣れてみると、青柳はほがらかな人間だと分かり、安堵していた。
この前などは、自分を「エコ映写機さ」と言い、わざわざ車を走らせ映画を観に行ったりTVを付けずとも、彼が見聞きしたものなら他人の脳裏にも再現出来ると言って、美しいクラシックや映画やオペラ、歌舞伎や演奏会などの記憶を魅せてくれた。博物館や美術館なども。とりわけ、植物達の記憶は際だって美しいものだ。
なので、寄ってたかってこの紳士に人々が群がって、目を綴じ手を取り合っている光景を見たら、何らかの宗教と取られるだろう。
実は、宇治木屋敷の事件後、宇治木夫婦の娘が来て屋敷管理を続けることになった。だが、彼女も頻繁に来られるわけでは無い。そこで、屋敷管理の名乗りを上げたのが青柳だった。
青柳はこの辺りの植物研究のための場所を構えたいと思っていたし、元々は朱鷺島が「我が家でよろしければどうぞ」と言っていたところでもあったので、丁度良かった。宇治木夫婦の娘も「管理をして頂けるなら、屋敷をお貸しいたします。定期的に庭師が入る他はそうは忙しいこともありませんから」と言った。
現在、拘束事件に巻き込まれた椿は、大学生最後の夏休みをこちらで過ごす為に、朱鷺島の迎えの車で昼前に到着したばかりだった。
椿も時間が経つと、あの現場に近づいても大丈夫になっていた。解決されたのだから。
今の時期、宇治木屋敷には宇治木専属の庭師が草刈りなどに入る以外では静かなものだった。
朱鷺島は自分で庭を管理している。今は剪定をし始める時期の薔薇以外は夏の花が咲いている。子猫達はその庭で遊んでいた。
元々、機能している目を光りに慣れさせる必要もあるし、視力が変わることは避けたいので、ほぼ人がいずに猫も気ままにしている時は眼帯を外している。肩にかかる襟足の長い黒髪も縛り真っ白い項に日が射す。まるで手入れをしようとする白い手までハイブリッティーの薔薇のようだ。シャツとベストになって腕をまくり、グローブを填めて庭道具を持って植物に当たっている。彼自身さえもが白薔薇に思えた。椿は朱鷺島の端正な横顔を見ている。
彼は立ち上がり、彼女を見た。いつもは眼帯を填めていないので彼は意識して相手の顔、特に目を見ない。多少視線を逸らし、唇を流し見るだけだ。だがふと彼は椿を見た。姫椿と見まごう彼女を。淡いピンクの装いがいつでも似合う椿。彼はふとシャベルを手にしたまま歩いていた。椿はガーデンチェアに座ったまま、いつものように頬を染めている。どこか自然に彼の両目を見上げ、影の降りる端正な顔立ちに光る黒と白水色の瞳に、椿の視線は吸い寄せられていた。
それは、ふとした口づけだった。朱鷺島は静かに彼女を見つめ、椿は見上げた。光るそのオッドアイが、たゆまなき水源のようで。
「………」
「………」
「………」
ハッとして朱鷺島は青柳を見た。ハッとして椿は青柳を見た。すっかり、二人の世界に入ってしまっていたのだ。しかも、初めてのキスだ。
「ははははは!」
青柳が青空のように笑い、二人は頬を染めて朱鷺島が離れて行き薔薇の手入れを再開したのだった。
互いに二人は体の奥底に痺れる感覚を耐え忍ばせながらも。
やはり、両目で美しい風景を見ることが一番。
「後から森の散策にでも行きましょう」
朱鷺島は照れを取り繕うように二人に言った。
朱鷺島自身も丘や森を出歩くことが多い。庭や森に猫達がいても目を直に見なければ大丈夫だ。
一通り手入れが終わると、グローブをはずし手を拭った。腕まくりを解いてジャケットをまた羽織り、髪も解き戻した。いつ来客があるのか分からないので、胸ポケットから眼帯を出して填めた。
そう思うときは、だいたい客が来るものなのだ。気配を感じ取るのかは分からないのだが。感覚が鋭くなるのかもしれない。
「ごめんください」
朱鷺島は庭から門を振り返り、若い男を見た。
甘い顔立ちをしており、白いシャツにオリーブ色のズボンをはいた爽やかな青年だ。
「こちらが黒猫探偵事務所だと伺ったんですが」
「はい。間違いございません。依頼の方ですね」
その男は安心した顔でここまで来ると、黒猫達に微笑んでから名乗った。
「私は花河春紀(はなかわ はるき)と申します」
「代表の朱鷺島レイです」
朱鷺島は頭を下げると、庭の二人は立ち上がった。
「我々は余所へ行っていよう」
「それはお気遣い有り難うございます」
「わたくし、先にお茶とお菓子の用意をして参ります」
椿はテラスから入っていき、朱鷺島は感謝した。
しばらくすると、青柳と椿の二人は屋敷の門から出て行った。
青柳が昨日から間借りしている宇治木屋敷へ向かってもいいのだが、せっかくだから、青柳と椿は林を散策することにする。
「実は、大学を卒業しましたら、朱鷺島さんのお仕事のお手伝いが出来ればと思っております」
青柳は椿を見た。育ちが探偵向きとは思えないお嬢さんが言い出すこことは、到底思えなかった。
朱鷺島は見た目は上品な青年だが、身体的に自信があるのは光る眼差しからも伺えるし、先程腕まくりをしていたその腕もしっかりしていた。朱鷺島には白人の血が入るので、日本人とは違う体構造なのだろう。頼りある感じもしていた。
だが椿の場合、やはりハーピストの印象が拭えない。繊細であって、たおやかな。
探偵ときたら、危険が伴うのだ。
「親御さんはなんと言っているんだね?」
「両親は、共に父の故郷におります。わたくしは、一人暮らしをしながら大学に通わせていただいているのです。ハープを習おうと宇治木夫人に出会ったのは、五年前の高校時代のこと。本来ならば、彼女の助手となることに決まっていたのです。両親もまた、その話をした一年前に歓び賛成をしてくれておりました。しかし、先刻の拘束事件が発覚して後、彼等が逮捕をされてからは将来を決めかねております」
「彼とおつきあいしているのかい。探偵の仕事は君にはハードルが高いように見受けるが、女性として彼の身の周りの世話をする事から始めてもいいのではないかな」
椿はいじらしく俯いた。実は遠距離ではあるが、連絡を取り合ったり、月に二度は行き来をしてデートをしている。
「きっと、彼も君という人間を一人の女性としてしっかり見極めないことには、何も言えないだろう。焦ることはない。それに、今回仕事が入ったんだ。この夏休みを利用して、じっくりと彼や仕事を観察することも出来る」
「はい」
一方、依頼者である花河春紀は、爽やかな風が通り抜ける夏の庭で朱鷺島に話をしていた。
「声が聞こえて?」
「はい。初めは総合失調症だとばかり思っていました。仕事はヨーロッパの花を仕入れているのですが、その関係で向こうへ買い付けに行った半年前からその症状が始まって、忙しさが増した頃だったので。しかし、出張疲れが引いても、この症状は続いているんです」
「詳しくは、どういった内容が聞こえるのですか」
「ええ。飛行機では機内で眠っている者達の夢の内容が、それぞれの国の言語で聞こえてきます。普段は横で眠っている恋人の夢も見ていました。初めは何のことか分からずに自分の夢だと思っていたのです。しかしある日、会社の者達との個人旅行でレスボス島へ来た際に夢の話になって、それがどれもこれも僕が垣間見た夢でもあったので、そこで判明したんです」
それはとても美しいことだったろう。朱鷺島も少年時代に、クルーザーで両親と旅行に行ったことがあった地中海に浮かぶ島だ。
それも、折角の旅行にも何かしか忙しく夢を見るとなっては気持ちを察する。
「以前は余りにも不気味で神経質になって、全く他人に他ならない機内の人たちに夢についてを聞き回って確認したこともありました。恋人は僕の行動を気味悪がって去って行きました」
「夢奪い人……」
朱鷺島は幼い頃から北欧の祖母から聞いてきた話を思い出す。
ヨーロッパ人の祖母は、特殊な力を持っている。それは彼の母を越えて朱鷺島に遺伝した千里眼の能力だ。占い師をする祖母の場合は、それに加えて先見の能力もある。彼等の他に、他人の見る夢を同時刻に見ることが出来る能力者もいるのだ。
「あなたはどの国でお仕事を?」
「フィンランドです。普段は何カ国かを回るのですが、その時はあまりにも夢に眠りを妨げられてしまって、他の国には寄らずに帰ったのです」
「フィンランドですか」
朱鷺島の祖母と母の母国だ。
美しい国の情景が浮かぶ。
「それでは、眠っている時はほぼ夢を?」
「はい。なので、以前病院で脳波を測定してもらいました。他の被験者五名にも眠ってもらって、通常のノンレム睡眠と、レム睡眠を計られました。すると、八時間睡眠で六時間も夢を見ていた。眠り薬を飲まされたものなら、もっと長い時間を夢に占領されて脳が眠らずに働き続けていたんです」
「皆の夢の波動を受け取って、小刻みに見ている状態になったのですね。ひっきりなしに。それは飛行機に乗ればたまらないわけだ」
「はい。その時は皆が眠りから起きも僕だけが眠り続け、揺り起こされれば既に到着をしているほどで」
「病院では、眠り薬以外で何か処置はありましたか?」
「薬も駄目となると、電波をある程度遮断する帽子を渡されました。家では一人なので眠ることが出来ます。しかし、出張では移動機に乗らなければならないので。効果は不明です。初めは夢を見なかったのですが」
「力が強くなって来ているのかもしれませんね」
朱鷺島は一度改めてから言った。
「実は、フィンランドで占い師をしている祖母が、あなたと同じような症状を持つ夢見師を知っています」
その彼が他者にも影響を与えるほど力が強いのだと言われても、頷けるものがあった。
例えば横で共に眠っていた人物にまで、短期間なりとも同じ力を与えてしまうほどの。
「あなたの瞳の片方は、占い師の後継者の証なのだと聞いた事があります。鮮明に透視することが出来ると。それがフィンランドの国だったとは知りませんでした」
「電話で確認することも出来ますが、現在向こうは早朝の四時です。夕方になれば昼あたりになっているので、連絡が出来ますが」
「ゆっくり出来るんです。お待ちします」
花河は、明るい日差しに充たされる朱鷺島のまぶしく細める黒い瞳を見た。
「瞳を見ても?」
花河の目元は、日差しが消し去っていたが、少し俯けば不眠の疲れが現れていることが、紅茶や菓子を手に取るうつむき加減の影具合で見てとれた。
「ええ。よろしいですよ。もしも、あなたの記憶に夢見師の顔があるのなら、確実に影響を受けているのですから」
「お願いします」
「では、出来るだけフィンランドで会った人のことを思い出してください。そのことで、最近の記憶よりも古い記憶を特定して見ることが出来ます」
朱鷺島は眼帯を外し、視線を上げた。花村の瞳を見る。
綺麗だ、と花河は驚いた。だが……。
「……怖いな」
不安がって瞳が揺れるが、ただただ無言で見続けた。
様々な顔の記憶が朱鷺島の眼前に、風景をバックに流れ始めている。
花が色とりどりで美しく、緑の揺れる情景がフィンランドだと告げる。その美しい町並みも伺えて、懐かしさを覚える。
その間にも、人の顔が浮かんだり、ところ変わって、飛行機ではキャビンアテンダントや周りの人間の顔が浮かんだ。それらの顔を見続けて行くと、いきなり強い意識が飛び込んできた。
柳の横のベンチに腰掛けていたが、立ち上がった老人。縛られた長い白髪で、髭を蓄えている。どうやらその老人がうたた寝をしていたので、花河が自分の着ているジャケットを脱いで彼の膝に掛けてあげた時ようだ。
それを目覚めた老人が立ち上がり、強力な眼力でまっすぐに花河を見た。
その時は老人が意外に唐突に立ち上がった事に対する驚きが花河にあっただけで、特別な事とは思わなかったらしい。
他にも、ホテルのレストランで女性とぶつかり掛けて支えた時に目が合った事もあったし、花の市場で金髪のグラマラスな美女が何度も彼にバチッバチッとウインクしてくる事もあったのだ。
「柳の横に座っていた老人のことを、覚えていますか。きっと、フィンランドのどこかにある公園でしょう。湖を目の前にした公園です」
「えっと……ええ。ちょっと風が吹いて影場は寒かったので、気になって近付いた老人ならいました」
「座っている全体像と、それに老人の瞳しかあなたの心には記憶に残っていないので確定は出来ませんが、僕の知る夢見師に似ているように思います」
「もしかしたら、その老人に会いに行けば、解決法が見つかるのでしょうか?」
「その可能性はあります」
椿が林から屋敷に戻ってきた。
居間にやってくると、昼の依頼者の青年がいた。黒猫夫人とネーロを膝に乗せている。
先ほど林から出ると、青柳は植物の種や花などを持って宇治木屋敷へ戻っていったのだ。
「こんにちは。先程はゆっくりご挨拶もせずに申し訳ございません。わたくしは椿・ベルッティと申します」
「僕は花河春紀です。本日からこちらの屋敷にしばらくの間をお邪魔することになりました」
「まあ、そうなのですね」
花河は、初対面の時も見惚れていた少女を見た。彼女が目の前のソファに座ったので、彼は緊張してはにかんだ。
とても綺麗な子だ。胸が高鳴る。
それには気づかない椿は、黒猫の薔薇子が来たので頭を撫でてあげていた。
「それでは、本日の夕食は腕を振るいます」
「ベルッティさんもこちらに?」
思った以上にうわずった声で言ってしまい、花河は咳払いした。
「はい」
朱鷺島の恋人なのだという雰囲気を感じると、納得せざるをえなかった。立ち上がった彼女の背を目で追う。
「お飲み物のご用意をいたします。珈琲でよろしいかしら」
「はい。ありがとうございます」
薔薇子は彼女のいた席にお行儀良く座って、じっと花河を見た。彼は黒猫の視線に気づき、頬を染めて視線を戻した。猫の目には、何もかもを悟っているものを感じるからだ。彼の恋心も。
「椿さん。帰ったのかな」
「はい」
朱鷺島が現れると、颯爽と来てソファに座った。彼女は彼の分のカップも用意した。
「椿さんにはもうこれからのことを話しましたか」
「いいえ。まだ詳しいことは。こちらへ少しの間お邪魔することはお伝えしましたが」
椿は振り返り、朱鷺島の横顔を見た。右目は例により眼帯で隠れている。
「実は、彼は他人の夢を見聞きする能力があるらしくてね。もしも気になるようなら、青柳さんのところへお邪魔してもらってもいい」
「夢を?」
椿はしばらく考えてから口を開いた。
「それは場合によれば、花河さん自身が他者の夢に疲れてしまうことでしょうね。負担になってもよろしくないので、もちろんわたくしは青柳さんのところへ行ってもいいのです。ただ、滅多に夢を見た記憶が無いのです。朱鷺島さんは本人の意識しない記憶も探れるのでしょう? 花河さんも同じなのでしょうか」
「僕の場合は、夢を見た記憶のない人の夢は見ることはないようです。きっと、本格的な夢見の人は、本人も忘れている夢を探れるのかもしれませんね」
「ええ。そのようです」
朱鷺島の知り合いの夢見師についてそう答えた。
出来るだけ、椿は朱鷺島と共に過ごしたくてはるばるトランクを提げここまで来たので、本当はここに留まりたかったが、彼の仕事を優先させなければ。
元々青柳も夕食はこちらに来ることになっているので、椿はキッチンへと歩いていった。
花河は何か不思議な感覚にとらわれる夢で揺られていた。
目を綴じて開く。巨大な三日月が天に挙がっている。
自分は何か柔らかなものに頬を寄せて眠っていた。
大きなゴンドラのブランコに乗っている。
それが三日月に吊されてゆらゆらとしている。
耳には海原の音が響いている。
心地よくて、目を綴じた。
……。
………。
目をゆっくり開くと、波間に月光の路が続いていた。
甘い薫りが降ってきて、視線をあげると、薔薇の花弁だった。幾枚もの。
コバルトブルーの夜空。金の星。
なんと美しいのだろう。
下方はサファイアの海が、きらめいている。
これは自分の見ている夢だろうか。
それとも、誰かの夢なのだろうか?
横に誰かが眠っているわけではないのに。
そういえば、眠る前に、朱鷺島は「力が強くなっているかもしれない」と言っていたっけ。
それにしても、綺麗な夢だ。
花河自身が見ることがない幻想的な夢。
彼は今日は心が落ち着いて、ただただ夢の世界でも目を綴じて頬を柔らかなクッションに寄せた。
花河のそれらの夢は淡いピンクの花弁と共に蝶がひらひらと舞う。
次第にあたりは闇に包まれ始め、蝶だけが残ってひらひらと踊る。
それは、花河に気を遣った朱鷺島が瞑想やヒーリングの自然音楽をかけて眠ったからだ。確実に花河の力は強くなっている。
花河は微笑んだ。草の薫りがする。柔らかな……。
眠る花河の真横には、黒猫のロサが丸まっており、そのロサの見る夢が花河に移っていたが、それを彼は気づいていなかった。
ロサはどこにでももぐりこんで悪戯をする。寝床にもぐりこむのも上手だ。黒の場合は、同じ悪戯好きでも眠るときはいつでも一匹でそこらへんで腹を見せて眠っている。
その夢は、花河にしては視野が低くて飛び回る夢を見ており、遠くには先ほどまでのクリスタルの旋律が鳴り響く感覚。先程の幻想を引き連れているかのように。
次第に駆け足になって行く。もうそうなると猫に夢を奪われて花河の視界は忙しく駆け回り始めた。
黒猫の軍団がずんずん現れて、柔らかい体でみんなでもみくちゃになって、遊んでいる……。
花河はふと目を覚まし、頬に当たる何かの柔かさに気付いて横を見た。
黒猫がいる。まさか動物の夢まで見るようになったのだなんて。彼は額の髪を掻き上げてなんともつかなくて息をついた。
その頃、深夜に目覚めた朱鷺島は黒猫男爵と黒猫婦人をベッドに残して寝室から出た。
彼のオッドアイが暗がりの占める廊下を流れ見る。どうやら、花河に夢遊病の気は無いらしい。静かな寝室を覗いた。
「やあ。起きていたのか」
「ええ。先程から」
カーテンが開けられ、長い月光が射す。
「何か夢は?」
「はい。小波の聞こえる三日月の夢と、黒猫がはしゃぐ夢を」
朱鷺島は多少驚き、あまり自分でははっきりと覚えていなかったものの、ヒーリング音楽には海の音が含まれていたので、聞き返した。
「レコードの音がこの部屋まで届いて?」
「いいえ。静かな夜です」
彼は立ち上がると、窓辺へ来た。夏の夜の庭は、落ち着いている。ここは一階なので、確かに二階の音楽が聞こえるとは思えない。
「僕は一度目覚めると二時間ほど眠気が訪れない。もしも、見るに耐えない夢なら目覚めることがどんなに救われることか。わりと皆さんは劇的な夢を見ることもあるし、素敵な夢のときも、リアルな夢を見ることも……そして」
花河は口ごもり、暗い目元をしてそれ以上は言わなかった。
テラスに出て、夜の庭を眺めながら言った。蒼い明かりと影が鮮明に降りている。夜露さえも光っている。
「それなら、林を歩きませんか。夜の森は落ち着く」
彼等はカンテラを持ち、出ることにした。やはり屋敷で眠ることにした椿が一人になるので、鍵を掛けて出る。
「それでは、その夢見師の男性は、他人の夢を食べる事が出来ると?」
「ええ。悪夢などをね。だが、夢という物は得てして見た者の現況を伝える手段でもある。なので、悪夢を食べた後に、夢のもたらす伝言を相談者に伝えることが必須になる。夢を食べられたことで、相談者はそれを忘れることが出来るからね」
「それで、夢喰いと。夢診断師でもあって、人助けなんですね」
「その変わり、食べた者はその夢の記憶が残り続ける」
「道理で。今思えば、フィンランドの公園で出会ったあの老人は、とても思慮深い目をしていた。とてもそれは深い物を湛えていた。それが、多くを飲み込んできた心を映した湖面……目だったんですね」
花河は気になって訪ねた。
「もし、僕が彼に会いに行って、今まで見た夢を食べてもらいこの力を消してもらうのだとしたら、彼自身に僕が見て来た数多の人の夢が取り込まれてしまうんですね。記憶として。それは、思ってみれば酷です」
夜の林は静寂では無い。時々、鳥が飛んだり、ムササビが飛ぶ。フクロウの声も聞こえて、夜の番をしていた。夜にはカンテラに照らされる白いシャツでは多少肌寒い。
花河はしばらく考えていると、静かに朱鷺島を見た。
「僕は老人の後継者になることは出来るのだろうか。夢見と共に、夢を食べる者に」
朱鷺島は暗がりでは繊細な目元をする花河の瞳を見た。
「花を扱っているとね、分かるんですよ。とても繊細な部分と、それにどこまでもしなやかに強い部分を兼ね備えている。影響を受けやすく、また、僕らに影響するもの。夢を受け取る人も、花と同じようなものなのではないかと思うんです」
明朝も過ぎて、緩やかに日差しが天を占めはじめる。
「ええ。一度そちらに向かってもいいかな。うん。分かったよ。どうもありがとう」
受話器を置くと、リビングにいる花河に言った。
「僕の親戚がいるフィンランドで数日お世話になりましょう。その期間に、僕の知る夢食い人を訪ねるつもりです。もちろん、君の夢見の症状を相談できる」
「それは、やはりベンチに腰掛けていた老人ですか?」
「ああ」
頷くと、花河は心持ち緊張した顔になった。その時の目は意を決した顔になっていた。柔らかな印象のある青年は、目に光りを宿しやすい。朱鷺島は微笑んだ。
「大丈夫。僕がついてるから」
やはり、影響を受けただろう老人に会いに行くには勇気がいるのだろう。
老人はすでに凌駕した人間だが、青年はまだ若い。人並み以上に経験は積んでいるとしても、今回の件は常人のなせる事では無いのだから。
「ところで飛行機に乗らなければならないが、君は通常消灯時刻に起きている必要がある。皆が眠っている時に起きていれば、夢を見なくても済むからね。だから、旅に出る前日は眠る時間を調節するんだ」
「それは考えもつかなかったです」
はじめて今日、花河が疲れた目元で笑った。
「あの」
リビングに椿が現れ、朱鷺島は微笑んだ。
ここには今まで女性がいなかったので、椿が現れると彩りの花がぱっと咲いたようで心が和むものだ。
きっと、この子がここにいてくれたら、自分が疲れを感じたときにもとても癒されることだろう。彼女の奏でるハープも実に素敵だ。
「わたくしも、お供してもよろしいでしょうか」
フィンランドのことだ。
きっと、依頼人の手前言えないのだろうが、夢見師の仕事を見たいのだろう。
それは一向に構わないし、女性がいると旅もいろいろと心持ちが変わってくる。親戚の家にはいくつでも客室があるから大丈夫だった。だが、彼女自身が再び件に関わることで、辛い場面を見ざるを得ないかもしれないのだ。
椿の瞳には、少しずつ強いものが根付いていた。
その光りは初対面の頃から、会う度にどんどんと強くなっていく。確固とした弱さを覆うような。しかし、その弱さ自体は、まだ打破できていない。
人の成長とは、段階が必要な時もある。蝶よ花よと育てられたのだろう椿を、生きる上で強くしてあげる手助けをすることも良いのかもしれない。いくらでも様子の見る甲斐がある子だ。
きっと、それを思うのは自分が彼女に好意を持っているからだろう。
しばらく考えていた朱鷺島は、真剣な顔で頷いた。
「もし何かが起きた場合、君を親戚の家に預けることにする。仕事場に来ることはせず、フィンランドの観光でね」
「足手まといにならないようにします。危険だったら、すぐに自分で退避します」
「単独では行動させないよう、出来るだけ危険は及ばないようにするから」
「はい」
花河を見ると、彼は椿に頬を染めて微笑んだ。
「宜しくお願いします」
「こちらこそ……」
朱鷺島が見ると、花河は照れた横顔で椿と握手を交わしていた。
飛行機。皆が普通に起きている時間に花河はアイマスクをはめて眠っていた。頬に指を当て口元を固く締めている。
食事をしている者達は会話をしており、花河の食事だけがキャビンアテンダントに協力してもらい、時間をずらしてもらっている。
睡眠は七時間サイクルで、起きている時間が十七時間だ。人が食事をするのは約五~六時間置きなので、上手に調節すれば、花河が起きている間に皆が熟睡できる。レム睡眠とノンレム睡眠の波を計算しながら考えれば。
とはいえ、誰もが起きているとは言えないわけだし、ちらほらアイマスクをはめて眠る者もいるのだが。それでも花河に異変は見られない。
青柳が食器を置き、咳払いをすると横に座る朱鷺島に静かな声で言う。
「話の老人というのは、若い頃からその症状があったのか」
「どうやら、物心ついた頃からだという話です。きっと、様々な苦労をしてきたことでしょう」
老人、サロモン・ハハリの目元は深刻な睡眠不足による色濃いクマがあり、それは既に彼の顔の一部として長年横たわっているものだ。高い鼻は神経質な尖り方だが、本人の老人は至って落ち着き払っており、優しき人格者である。
以前は、朱鷺島のよき相談相手、理解者でもあった。
椿は食事を終えると、不安げに二人を見た。
「もしかして、その方に触れると力が移って?」
「いいや。きっと、花河くんが敏感だったんじゃないかと思う。夢見の際は依頼者に触れる場面もあるが、そのことで夢を吸い取り、解決して依頼者は帰っていく。まあ、夢に悩みあっての相談だから、夢に悩みの無い者が触れたからといえ何も無い保証は今の僕には不明だけどね。逆流引力の法則で、マイナスとプラスが流れ込むこともあるんだ」
今は夢に悩んでいる花河も、老人に触れてもらえば夢は吸い取ってもらえるだろうが、その分ハハリに負担が行かないかが目下のところの心配事だった。
ともあれ、彼に会わない以上は自分たちでの解決法は見つけることは出来ないだろう。
誰もが寝静まる静かな機内、花河は一人起きていた。
この静寂にいると人間たちのいる内側にただ一人の人間になったようだった。横で眠る三人も決して静物では無く生きた人だというのに、今の寝静まる時刻の静寂の内ではそう思う。それが本来普通のことなのだ。この数ヶ月、夢でも人と関わりすぎていただけで。
だから、この静寂を今は受け止める。安堵として。
時々、歯軋りが聞こえたり寝言が聞こえる。よく夢で人々が話す不可思議な内容。花河はくすりと微笑んで、自分が今夜に安心できているよろこびを感じた。
見ている夢は千差万別だが、まさかその夢を少しは覗いて見たいなどという余裕すら持てるなどとは、きっとこの旅で解決することに期待しているからなのだろう。
確かに恐怖はある。心配でもある。だが今は不安を持たないように努めて、この静けさを愉しんだ。こうやって皆にも協力してもらっているのだから。解決できる結果を自分でも出さなければ。
「うーん、猫男爵……。どこからこんなに種をつけてくるんだ……庭に見ない草が生えると思ったら、森の奥まで行くんだな……。毛づくろいでまたお腹に入って頭の天辺から花が咲いたらどうするんだ……風にそよいでいたら笑ってしまうよ」
花河は前の座席の背をずっと見ていたが、横目で朱鷺島を見た。眼帯で表情は見えない。
麗しい顔立ちをした椿さんは、青柳さんの向こうにいる。横顔までも本当に美人な子だ。
青柳さんは両手をぎちぎちに組んで肩を縮め眠り、アイマスクを嵌めている。
「猫太郎さん……そこにその花の種を植えるときは僕に言って下さい……うるさくてすみません……ああ、また猫夫人は花粉塗れになって……」
相当あの館の猫たちの事が頭から離れないのか、見かけのクールは風からは想像もできない寝言を呟いていた。寝言に猫が三匹も。
猫たちは普段は自分で餌をとるらしいので、近場の屋敷の庭には池もあって水が飲めるので、留守は平気らしい。猫男爵も猫太郎も猫婦人も逞しく野を駆け回ってのんびり過していることだろう。
それからは静まり返って、朱鷺島は寝言を発さなくなった。
二度見すると歯軋りは青柳だった。暗がりでぎしぎしと顎を擦り合わせている。神経質な顔をしているから、日々考え症なのだろう。植物の学者と聞いていたが、その時は優しい顔をしているのではないだろうか。声が割りと快活なときもあるので、それが伺えた。
椿は静かに眠っている。彼女のことは見ているだけで心から笑顔になる。あの柔らかな表情。いつも近くにくると髪からは綺麗な薫りがするのだ。
ずっともう何も考えずに見ていたかった。疲れも癒されていく。
ハッとして、あまりに彼女の寝顔を見すぎていたので、失礼に当たるのではと気付いた。
ふと目を覚ましたのは朱鷺島で、煩わしげに眼帯を取ってしまっている。寝相だったらしく、すぐに眠ってしまった。花河は膝横に落ちた眼帯を膝に乗せてあげた。
朱鷺島は眼帯で顔全体が現われると優雅な顔立ちをしており、愛らしい椿とお似合いだ。心なしか、花河は自分が入る隙は無いと自覚しながらも椿への淡い恋心を秘めていた。
朱鷺島は目を覚まし、暗がりを見ていたがしばらくして視界がはっきりしてきた。
飛行機だと思い出し左右を見ると、花河は静かに前方を見ていたが、横目で朱鷺島を見た。
「起きたんですね」
「ああ。時々この時間は目を覚ますんだ。昼間の仕事には支障はないからご安心を」
花河は安堵として微笑んだ。自分が起こしてしまったと思ったからだ。
朱鷺島は背を落ち着かせると、片目が覆われていないので辺りを見回した。いつもは自室では眼帯を取っているので、寝ているときの眼帯に違和感を感じていたのだろう。
再び膝上の眼帯を嵌めるよりは、アイマスクを取り出した。それなら外さないだろう。
「朱鷺島さん」
「はい」
花河が囁いた。
「僕は思うんです。森で、僕は老人の後継者になれないだろうかと言いましたね」
朱鷺島は頷いた。
「彼に会って話を聞いてからでも構わないと思う。彼が何を望んでいるのかはまだ我々には分からないんだ。逆にこの力を受け継がせたくは無いと思っているかもしれない」
「僕は彼に比べれば短期間でも辛いから、おっしゃることは分かります。いろいろと考えてみます」
「いくらでも熟考することは良いことだよ。人を想ってのことだ。ただ、あまり根は詰め過ぎないように」
さらに囁き声は小さくなっていき、朱鷺島は再び眠りへと落ちて行ったようだった。彼も人の心を見透かせる能力者として、思うことも多いのだろう。
先ほど、胸の内ポケットに仕舞われたオッドアイを隠すための眼帯。
時に、「何も見たく無い」とさえ思わせるものを先ほど一瞬感じた。静かな声でうつらうつら話す彼の声を聞いて。
誰もが同じなのだ。闇を見ることは苦痛を伴い、その先に救いがあると分かっていても辛いものだ。
森に囲まれたあの静かな土地で、普段から人との関わりを避けて生きている彼は、朱鷺島のとる自己防衛であって、それでも人助けが出来るのだと自分の能力を上手に使って悩める者を受け入れてくれている。自己犠牲をものともしない精神が朱鷺島にはあり、それがハハリにも根付いているのだ。
自分もなれるかもしれない。自分が何らかの運命に選ばれたのかもしれないのだ。出会うべくして老人と出会ったのかもしれないのだから。
緊張した面持ちの花河は、森にある土作りの小屋の前に来た。
その小屋を覆いかぶさるように囲う白樺の木々を見回す。リスが見てきている。花河は微笑んでいた。
もうゆうに三百年ぐらいは建っていそうなこの小屋の鎧戸は、重厚な鉄のノックがついていた。そのドアの左右には、いろいろな花の鉢がお洒落に置かれ、園芸の小道具の仕舞われているのだろう箱が置かれている。
朱鷺島は花河の背後に佇んでいた。椿は同じく緊張の面持ちで朱鷺島の横に立っている。青柳はこの辺りの林を散策していた。
花河は手を伸ばし、ノックをする。
コンコン
ノックの後、しばらくするとハハリ老人がドアを開け、彼らを出迎えた。
「お久しぶりです。ハハリさん」
「ああ。随分逞しくなったなレイヨ。さあ、みなも入って。長旅は疲れただろう」
ハーブティーでも淹れよう、と引いていった。
小屋には、いろいろな果物や野菜のコンフォートの瓶、ハーブ酒があり、乾燥した薬草が吊るされている。それに以前、少年時代は五匹だった猫も、今数えると二十四匹に増えている。
ダイニングテーブルセットとは別に、小さな円卓セットがあり、そして窓横には見事なキルトが掛けられたベッド。奥には棚とキッチンスペース。
椿は小さな丸窓の所へ来た。中世から続く厚く歪んだ硝子越しの外に、それでもなおも眩しく揺れる鮮やかな緑を微笑み見た。外を歩くうちにも日本では見かけない鳥が空を駆けよく囀っていた。
お茶を出しながらハハリは日本人の若者を見た。
よく覚えている。優しく声を掛けてくれた日本人の若者だ。
「電話で話は聞いたが、どうやら、力が移ってしまったようだな」
「では、やはり?」
ハハリは頷いてから言った。
「私にとっても、能力が何らかの形で人に移ったのは初めてのことだが、人の能力を吸い取ることはあった。今まで夢吸いをしていたように、君に移った能力を吸い取ることは出来ると思う」
「人の能力というのは」
「夢食い以外にも、時として人は様々な能力を持ちうる。良い力、悪い力、それらをな」
椿は多少納得したように頷いた。
その人といるだけでどう変わったかとか、何が起きたとか、必然的に何かが起きてしまうことを言うのだろう。酷ければ他人の運命的なものに取り込まれてしまうなど。
形を変えた端的なもので例えれば、まだ習得できていないハープで不調和音を奏でれば人は違和感を覚えるし、淀みない超絶技法を紡げば人に大きな感動を与える。
人々は影響しあいながら生きているものだ。
それがもし能力として生まれ持った性質ならいろいろな軋轢が生まれる。
それらをここにいる者も感じ取った内容だった。
円卓セットは、主に悩める者が夢を見てもらい夢を食べてもらう場所。
「さあ、ここへ来なさい。名前を伺おう」
先ほどから朱鷺島が通訳をしている。花河が促された円卓の椅子横に来ると、円卓にいた猫が慣れたように移動していった。
花河は眠っていた猫に「ごめんな」と日本語で言い、頭を撫でてから椅子に座った。ハハリは若者に微笑んだ。
「猫というのは素直な生き物だよ。犬も従順な仲間になってくれる」
ハハリはゆっくりと椅子に座ると、まっすぐと花河を見た。
「僕は花河春紀といいます。花の輸入と卸業を生業にしています」
ハハリは柔らかく微笑んだ。
「君からは優しく透明な空気を感じる。君自身の心と花がもたらすものだろう」
「実は……」
花河は意を決して言った。
「あなたの仕事風景を見たいと思っています。それはつまり」
花河が言葉をとめ、朱鷺島もいきなりの話の切り口に一瞬通訳を止め、どうしたものかと思った。花河がその先を進めなかった。
まっすぐと見てくる静かなハハリの深い目元が、花河に言葉を止めさせたのだろう。
「まだ君は若い。突然備わった力の圧力もこの数ヶ月で重くのしかかっていることだろう。体力もいることだ。正直に言うが、心も何度も壊れる。修復不可能な場所まで行こうが、修復して再び自分から心を壊しに行くようなものだ。体調を崩すこともある。計り知れない闇の深さを全身で感じる。良い夢を持って人はここまで来ない。悪い夢を持ってやってくる者たちばかりだ」
花河はじっと彼の瞳を見続けながら聴いていた。
ハハリの受けてきた苦しみの重みを察し、何度も花河は唾を飲み瞳を揺らしながらも見続けしかと受け止めた。こめかみに汗が流れても花河は目を反らさず、ハハリの言葉を大切に耳に受け止め続ける。
「君は花を愛する人間だ。花のために生きることが出来る者だ。人さえも幸せにできる未来もあるだろう。それを心にしっかり置いて、私の仕事を見たいのなら見るのも良い。それではければ、結局は表面的なものさえも何も分かりはしないのだから。もしも相談者が承諾をしたのなら、君に仕事の場を見せよう」
花河が何も軽率な気持ちで言い始めたのではないと分かっている。遠路遥々やってきた意味を汲み取ってハハリは言った。
花河は椿と共に林を散策していた。その姿が庭の野原から見える。
ハハリは庭のテーブルセットに座り、膝の上で楽しい夢を見ている猫を撫でていたが、ハハリは力を調節できるので猫の良い夢を食べることはなかった。夢で遊ぶ猫は楽しげだ。朱鷺島に聞く。
「最近、お前のほうはどうだね」
「仕事はぼちぼち。先ほど紹介した女性、椿さんも花河くんと同じことを考えているのだと僕には分かります。彼女もある事件に巻き込まれてからの付き合いですが」
「お前を慕っている眼差しをしていたな」
「良い子ですよ。しかし、繊細すぎるのが正直なところです。花河くんも同じでしょう。僕は、花河くんと椿さんが共に幸せに過したほうがお似合いなのだと思う」
「それは結局は彼女自身が決めることだ。その判断に彼らを協力者として受け止めるか、彼らの安静を思ってこそ断るのか、それが最後に我々が彼らにすることだ。仲間を増やすことが本当にいいことなのかは、彼らの懐や生き方にもよることだ」
「それまでは、慎重に判断していくことになりますね」
ハハリは頷いた。
「人の人生を壊してはならない。絶対にな」
「ええ。本当に」
目頭を抑えた朱鷺島が眼帯を外したのを見た。
「疲れないか」
「時々。ただ、館ではだいたい一人でいて嵌めていないので」
「ここでも極力取っているといい。滅多に人は来ない場所だ」
「ええ。ありがたいです」
朱鷺島は微笑んで野原と林を両目で眺める。とてものどかで美しい自然風景で、心が癒される。子供のころはよく透視能力を恐れ祖母やハハリに泣きついていたものだったし、この自然に癒されたものだ。人の心が見える瞳を持ち生まれた少年だった朱鷺島は、ハハリが先ほど言ったようにやはり頼りある澄んだ目元になった。彼のオッドアイが美しく光る。
ハハリの元を訪れた依頼者の男は、花河をじっと見ながらハハリの言葉を聞いていた。何度か相槌を打ち、承諾をしたようで花河はハハリに手招きをされる。通訳の朱鷺島は鋭い目をした男を左目で見て、微笑んだ。
「わがままを言って申し訳ない。プライベートなことなのに」
「いや……構わない」
男は目を反らし、次に日本人の花河をもう一度見た。
「その野郎、じいさんと同じ力みたいなの持ってんだってな」
見かけどおり粗野な口ぶりで、それ毎に嵌められた大量の輪のピアスが揺れて光った。手の甲はシンメトリーの刺青が繊細に施され、フィンランド神話の女神が微笑している。
大きな黄緑色の目がじろりと見てきて、花河は初めてセッションする依頼人が恐い風なので背筋を伸ばして頭を深く下げた。
「宜しくお願いします」
日本人特有ともいえる丁寧な風に男は相槌を打ち、顔を戻した。花河は共にいて心地の良い雰囲気をかもし出す青年だ。男の顔も多少剣を無くしていた。
花河は事前にハハリから説明をされていた。夢見をしている時はハハリの方に手を当て、目を閉じることを。
ハハリの体は夢を食べている時は体温が上がるが、変にいきなり手を離すと夢食いが失敗したり、肩に触れる人間に夢が流れ込んで閉じ込められてしまうらしいので、注意するようにと言われていた。
夢の世界は感覚の世界なので、言語という言語は変換されるらしい。だから国際線の飛行機に乗っていてもヨーロッパ人の言語で夢を理解できていたのだ。
花河はハハリの肩に手を置く。
緊張で汗ばむのが、それが薄手のシャツのハハリにも充分に伝わった。柔らかい顔を一度肩越しに向けると花河の手の甲に手を置いた。花河は安堵として微笑んで、しかし、すぐにハハリの顔が引き締まったので、花河も深く頷いた。
ハハリが言う。
「その悪夢の淵をだんだんと思い出していくように、暗がりを想像するんだ。はじめは幾重にも重厚な幕が何枚もあがって行き、だんだんとその先に小さな蝋燭の灯火が闇に浮かび見えてくる。その灯りに意識を持って行き、少しずつ夢の陰影を紐解いていく……。夢の記憶の尻尾を掴んだら、そこに意識を集中させて自分の体をだんだんとその夢に浸らせていくんだ」
波のようなハハリの声は、目を閉じた男の顔を柔らかくする。夢への誘導が続く。
朱鷺島には見えないので、横の椅子に座りながら彼らを見ていた。相手は言葉が通じない者同士、何かがあった時のために朱鷺島がいると助かる。花河のような未経験者がいる手前、異常時に一人でも正常に判断を下せる者がいるべきだ。花河自身も混乱をする恐れもあるのだから。夢見は何が起こるかわからない。
ただ、花河自身も半年間で多くの人の悪夢を見てきたから、狂乱することは無いと思われる。暴れずとも体と精神がもつか、蝕まれないかが心配だった。
問題は、屈強そうな男がハハリを頼ってくるほどの耐え難い悪夢の内容だ。どんな悪夢でも日常を過していく内に恐怖も薄れるのが大半なのだから。
花河が一度唸り、口を硬く閉ざした。ハハリの横顔は依然静かなままで、一切の隙も無い。男は終始硬い表情をしている。
花河は男の見る夢の世界にいた。すでに飲み込まれて深く入り、足をがっちりと固められているかのようである。
それは古めかしい石造りの城。
目前に狂気に充ちた目がぎらつく。乱れた頭に王冠が斜めに掛かり、マントは擦り切れて手には血生臭い剣。それはランタンの灯りで強烈に光っている。床は赤く染まり、そして自棄に白い歯は笑みを浮かべて髭の口から覗いていた。背後の窓からは暗澹とした曇りの空がうず高い山の上部を覆い隠している。そしてその山の下方は暗い暗い湖が横たわっているのだ。
カラスや蝙蝠が飛び回って、山からは獣の鳴き声が響き続ける。時々蝙蝠は外への間口となる柱と柱の間から縦横無尽に入っては、人間の血のあたりを飛び回っている。
床にはドレスを着た女や子供が震えながら座っていて、皆が綺麗な装いをしている。王冠の髭の男も女も子供も、王家の者だろうか。
「王、ご乱心を……どうか気を落ち着かせてください」
自身の声の主はうら若き女性の声だった。依頼者の男は夢のなかでは女のようだ。
改めて視線の端を見ると、自身はドレスを纏っている。そして肩から胴体に美しい金髪が流れていた。白い腕がしなやかに伸びるのだが、転んだために擦りむいている。自身の周りにも蝙蝠が飛び回っていた。
そして何よりも異常な王の手にする剣の血液。
だが、怪我を負った人間は見当たらないし、呻き声も聞こえない。きょろついて視線を這わせる床は引きずられた血の跡。それは出口に続き、その間口の左右には筋肉の兵士がいた。だが、その両方とも開けられた目は動かず、そして腹部が赤く染まっていた。槍を持つ手は固まり、既にこの夢の世界からも魂が逸脱しているのだと悟る。
気違いの暴虐な王が近付いてきた。
王妃だろう、床に座る女性がその王の足にマントを腕に絡ませながらすがりつき、途端に子供も泣くような声で「止めてください」と叫び母と共に王の足を引き止める。
王はそれを見向きもせずに二人を引きづったまま、気付きもしないのか、ただただこちらを狂気の笑みで見ながら近付いて来る。夢を見ている彼女はドレスの重い裾を引き連れて走り出した。
倒れる兵士の間を走り抜けて行く内にも、血の道が石の廊下に伸びている。息せき切って逃げていくと、中庭の木々の間に隠れる。夜に染まる木々の間で震えながらあの異常な王が行き過ぎるのを待つ。
庭さえも血の匂いが氾濫し咽かえり、ドレスの裾を必死に掴んで口元に当て背を丸めた。背を夜風が冷まして行く。時々感触にびくっとするが、それは昆虫なので構わずに身を縮めていた。
彼女は疲れ果てて眠ってしまい、目を覚ますとそこは明るい陽の差し込む寝台だった。
どこからか王宮音楽のリュートが聞こえる。それはきっと中庭からだ、と脳裏では分かっていた。それを中庭で聴くのが王妃のいつもの朝の習慣だったからだ。いつもの目覚めだった。城の壁に反響し合い、小鳥たちの声も相まって美しい目覚めを迎える。自身は安堵しきって起き上がり、窓から青空を見た。
悪夢を見ていたのだ。本当に良かった。
そして裾を広げながら寝台を降りると、窓辺まで来た。そして見下ろす。いつもの風景を。
「!!」
リュートを奏でるのは王だった。
王妃は聴いてなどいなかった。
思えば小鳥の声も今日は聞こえない。
王妃はいつもの石のベンチで目を見開き、どこか空虚を見ていた。かんざしも落ちて髪も乱れている。
王はさも心地よさげに奏でている。その手は両方とも血で染まり、楽器にも線を引いていた。弦が一本バチンと弾けて爪弾く毎に太陽に光る弦。リュートにはつめで引っかいたような苦悶の傷が三本つき、そして王妃の爪は剥がれていた。
「ああ、何ということ」
王妃は生きていた。顔は変わらないまま、背は呼吸で動いた。
彼女は汚らわしいものを見る目で異常な王を見て、口元を抑えて後退り、悪夢は終わっていなかったのだと分かり、すぐに城を逃げ出す経路を頭に巡らせる。
自身は貴族の娘でありこの城に呼ばれて五年目。数年するといきなり本性を露にした王は彼女に狂気を叩き付けてきた。
自身の一族や友人にどんなに助けの手紙を認めても助けに来ないということは、従者によって手紙は捨てられていたのだろう。だがら、自分で逃げ出さなければ、と思う毎に眠気が訪れて悪夢がやってくる。不条理と無常のもとに振りかざされる終わりの無い狂気が。
何度も決心して逃げる。
通路に出て、今日はしつこい兵士が見当たらないので走っていく。毎度、愛を囀ってくる兵士で、前は暴虐王に手を掛けられ井戸の横にもたれかかりぐったりしていた。と思えばいつかの目覚めでは何事もなかったように突然現われ、ウインクなどしてきて愛を囀ってきた。何が夢で何が本当なのかの境目さえ分からなくなり、そして確実に、本当に兵士や城の哀れな者はイカレた王の餌食になっている。
実際に目の前で焼き払われた者もいた。恐ろしい匂いをシューシューと上げながらも、その焼けた肉を頬張る王。頬にその肉を突きつけられてドレスを汚し、何度も無理やり焼けた肉を食べさせられた。そして気絶して目覚めれば嘔吐した。
ふらふらと明るい城を歩いていくと、広間に幾人もの体が壁に吊るされ、白くなっていた。そしていきなり背後から優しい手で腹部に触れられ、振り向くと王が生首を彼女の腹部のところにあてがい、後ろから言うのだ。
「君の赤子だよ。可愛いだろう」
兵士の生首を。
彼女は叫んで逃げ走り、床に散らばる腕や足や胴などにつっかかりながら広間を抜けた。突然の段差に転んで、腕をすりむいて逃げ惑い、夜になって兵士二人に見つかり、風景の見える宴の間に連れてこられた。
蝙蝠が飛び交い、おぞましくも狂い笑う王が、足元に王妃と子供を引き連れて追いかけてくる昨夜の悪夢。
そして目覚めたのだ。
今は城からいち早く逃げるために頭で経路を辿っていた。王家では無いので、隠し通路などは知らされてはいなかった。
廊下を出て角を曲がり、また突き当りまで駆け足で走ると大きな鏡がある。近付く毎に鏡に映る走る自分がドレスを揺らし必死の顔を蒼白させていた。美しい顔立ちで、水色の瞳は涙で濡れている。遠目からでも色を失った唇。もとは頬と同じ薔薇色なのに、と、混乱する頭で考え走り、ストレートの金髪は体を包むように何度も左右に揺れる。
鏡に息せき切って凭れかかった。繊細なレースのドレスの足元は平たい靴で、この時代の美しく緻密な刺繍の施されたビロードの靴だ。鏡を見て乱れた場所を正し、すぐに走ろうと思ったのに靴に目が釘付けになったまま。
これ……お気に入りの靴。
自分で姉妹の靴の刺繍を刺し、そして姉様がこの靴の刺繍を施してくれた五年前は、無垢だった。また、また姉様の靴に刺繍を施してやりたい……。途端に鼻頭が痛くなるほど胸が締め付けられ、泣かないように歯を食いしばった。
急いで角を曲がって走る。
あのリュートが近付いてくるような場所は避けなければならない。近くに絶対にあの狂った側近がいて、彼女を見つけて王に報告するのだ。
後ろを振り向きながら走っていたので、いきなり誰かにドンッと当たって跳ね返り地面に倒れた。顔をゆがめて恐怖が占領し、顔をざっと向ける。
それは思ってもいない、体の太った召使の女性だった。
「あらどうなすったんですよお。そんなに慌てて。今日はそんなに集会がうれしいんですか」
よっと、と言って召使は引き起こしてくれた。痛い腕をさすってはにかんだ。
何故か生きる次元でも違うのか、彼女が体験する恐怖の時間とは全く違う通常の時を城は刻んでいるのだ。
悪夢に出てこない人物ももちろんいて、この召使も何の牙も向けられてはいない。だからなおさら恐ろしかった。
助けを呼べないということだからだ。
しかし安心して微笑む。この召使といれば、暴虐王は正常を装ってでもいるのか不明だが何もしてこない。
だが忙しい召使についているわけにはいかないのだ。毎日何枚ものシーツを運んだり、ほうきやはたきをはたいて回り、時に若い召使を叱り付けては励ましベッドメイキングをしている。お針子の繕った衣装を持ちに行ったり、何かと動き回っている。
自分がそれをするわけにもいかないので、しばらくすれば召使のいる空間から離れて行かなければならないのだ。召使も動き回っているので体力の回復は出来ないが、気持ちの面ではかなり変わってくる。
だが着いて歩いていることで、あの王のいる場所に近付いていることを見逃していた。本当は城の出口付近まで行くはずが。
ぎこちなく振り返ると、そこには既にリュートを片手にする王がいた。咄嗟に振り返ると、召使はその辺りを声で確認しながら掃除の点検で見回りをし、角を曲がって行ってしまった。
「ごきげんうるわしく」
だが王は血のついたリュートを提げている。
咄嗟に走った。
背にガツッという衝撃が走って、リュートがぶつけられたのだと分かって必死に走る。きっと痣になるかもしれない。
涙目で走る。背がじんじんと痛くて打った瞬間一瞬息が出来なかった。今は呼吸の間隔も短く歯を食いしばり走って行き、いきなり他の場面で腹部にあてがわれた兵士の生首が思い出された。剥かれた目と口の生首を。あの王のぞっとする声を思い出す前に耳を塞いでとにかく走った。
化け物の声が背後から聞こえる。王が追ってくる。
来ないで、来るな、来ないで!!!
気が狂うことさえ許されずに、それさえも出来ずに喉が痛いほどに干上がりながら走って行き、足がぐだぐだにもつれてくじけそう。
もう駄目、あいつは狂っている、狂っている!!!
髪が何度も肌に張り付いて目にも入ってきて手の甲で退けてもはがれない。
走る毎に視界が乱れて、窓の外の青い空だけが美しい。白い雲は流れている。緑の木々はとても鮮やかだ。涙が流れた。
だがあいつだけは違う。口から毒を吐いて、何かを勘違いしたあいつは酷い言葉で人を毒してきて、筆舌につくしがたい奴なのだ。人間の皮をかぶったナニカなのだ。怪物なのだ。化け物なのだ。
階段を駆け上がったら駄目だと分かっているのに駆け上がっていき、随分先の下へ降りるための他の階段まで行こうとする。だが、それを見越してあの化け物王が下で待ち受けているかもしれない。
恐ろしくて泣き叫びながら走った。
くぼみを見つけてゼイゼイ息をしながら身を固める。
「もう嫌、もう嫌、」
何度も言い続け、隠れる窪みの前をあの鬼畜王の背が気付かず通り過ぎていく。それをしばらく動かずに怨みの目で睨み続け、その背が角で見えなくなったので、押し殺していた息を小さく吐いた。
激しい眠気に襲われて重い瞼が閉ざされ、身体は鉛のように重く、打たれた背は巨大なヒルが背にくっついて血を吸っているかのように重痛く苦しい。
何の仕打ちのつもりなの。何をあいつは勘違いしているの。私の心をこれ以上侵食しないで。あいつの穢れを押し付けられたく無い。
ただただずきずき痛みながら睡魔に連れ去られる。頭もズキズキ痛んで額から指先にドクドク音が伝わる。足をその場に崩してドレスが風を含んでしぼんで行き強烈な眠りへ入って行った。
「………」
「………」
しばらく目を開けずにいたが、視野が闇に閉ざされた花河の耳に聞こえた。
「毎晩毎晩、俺が八年間見続けている悪夢だ。貴族の娘としての夢は俺が八歳のころから見続けてたが、十四歳の頃からその貴族の娘が城に呼ばれて、日常ではしあわせに城で暮らしてたが、夢じゃああの鬼畜王が本性を現して豹変して、その貴族の女は魘されてた。それが俺の日常まで侵食してきやがって、寝ても覚めても目の前に悪夢がちらついて付き纏いやがる」
八年間も放っておいたということにまず驚いて、花河は鋭い目のままの男を見た。こうやって見ると、瞳の色は男の黄緑と夢の女性の水色で異なり、髪の色は男は坊主頭を銀水色に染めているが、顔立ちの彫りの深さは夢の女性に似通っている。まさか前世の記憶だろうか。
だからといえ、顔が似るとは到底思えないし、自分は日本人だから若い男女の顔の見分けがつかなくても無理は無い。この相談者の男も夢の女性もどちらも繊細な顔立ちの整った美男美女だ。それに元々ヨーロッパや北欧は皆顔立ちが良い。
「とにかく女相手に手挙げやがるあの下衆野郎の夢なんかこれ以上見るに耐えねえんだよ。精神も身も心も傷つけやがって、あの野郎はのうのうとしていやがる。俺が自我があったならあの反吐の玉無し野郎ぶちのめしてえぐらいだ」
第一男の自分が女として夢に出ていて、兵士から言い寄られることにも辟易している顔だった。口元を歪めている。
尚、通訳している言葉は「女に手出しをするのは許せない。自分が手厳しく仕置きをしたいぐらいだ」と訳されている。男の怒りは充分に分かるが言葉が激しいので。
幾度と繰り返される行き場の無い激しい怒りを押し込められて、その女性も辛かっただろうに。
ハハリは「ふむ」と言うと、まずは男の手の甲とぼんと叩いた。
「ひとまずこれは言っておこう。八年間もよく耐えたもんだが、その夢もわしが夢食いをすることで忘れていくだろう」
「だったな。逆に申し訳ねえな。八年分じいさんが飲み込むんだろう。最近あんたの噂知ったばかりでな。こんな馬鹿げたこと、周りにも言えねんだ。自分が女として悪夢見てるなんてな」
「よく噂を掴んでくれたもんだ」
ハハリは微笑んでから、男の手の平を上に向けさせた。その上に石を一つ置いて手を重ねた。
「今から夢の告げていることをお前さんに言った後に、夢食いをする。夢というものはいくつか種類がある。一つは記憶を寄せ集めた整理夢。一つは現実逃避から来る不可思議な夢。一つは重要な忠告がある夢で、それはお前さんの置かれた危機的状況や体調などが関係する夢。一つは先見の夢。一つは前世の記憶夢。一つは全く関わりの無い人間の波動を読み取って見ている憑依夢。夢というのは割りと理路整然としているようで、理由があったりするものだ。特に幼い頃のトラウマや何かの鬱屈した気持ちがあると、夢を見やすいこともある」
「まあ、俺は好き勝手やってきたからストレスといえば夢ぐらいなもんだがな。もしかしたら、気付かずに誰かに負担かけてるかもしれねえから抑えたほうがいいとも取れるってことだろう」
「ああ。よく分かってるな。それに気付けただけでも大したものだ。まあ、仲間内で過すのならば誰も何も言わんだろうが、その内に大切な誰かの存在を忘れているようなら、周りをもう一度見回してみるのも人生の勉強になるさ」
男は相槌を打った。
花河は終始大人しくハハリの肩に手を置いて聞いていた。
「もう一度、目を閉じてもらえるかな。まずは夢の忠告、夢の正体の話、夢食いをする前に、お前さん自身を視る必要がある。何故なら、夢を見る原因が何かあるのかもしれないからだ」
男は渋い顔をしてから口を閉ざした。だが、言った。
「俺はムショに行ってる」
花河は言葉が通じないので分からずにいた。時間を置いて日本語で訳されたので、さっと男を見た。
「八年前に学校で喧嘩して二人やっちまってムショに五年間入ってた。そのムショ生活の頃からあの悪夢を見はじめたが、牢屋に入れられてたストレスからが原因かは不明だ」
ハハリはしばらく静かに男の目を見ていたが、何度か頷いてから目を閉じた。
「罪は悔い改めたのか」
「まだそいつらの仲間見ると気が立つがな」
「気持ちっていうのはそうは折り合いはつかんもんだが、繰り返さないことが重要だ」
喧嘩に至った理由まではハハリは聞かないでおいた。男自身の精神が今乱れては夢見に支障を来たす。
ハハリが閉じた目にならって、花河も目を閉じた。
すると、先ほどのように暗がりになっていき、二回目なので要領よく灯火に導かれていく。
静かで音も無い光りの広がりに包まれながら、慎重に歩いていく。今度は相当長い時間が掛かって遠い記憶へと退行していく。一つ一つ紡ぎ出すように。
今の男の手より小さい手。場所は刑務所で、机で作業をしている。意外に少年時代の男は真剣に作業に取り組んでいて、定期的な体力づくりをして小まめに自重筋力向上に努めている。刑務所の猫には食堂で溜め込んだ餌を秘密でやっていたりする。手洗いの鏡に映る少年の顔はやはりきつそうで優しくなさそうだが、何か義理堅い性格なのだろう。鏡の黄緑の真っ直ぐの瞳と視線がぶつかる。囚人同士でも何かと恩をきりうりする場面もあった。
裁判で五年の判決を受けると、遺族が激怒して少年の背を蹴りつけようとして抑えられていたり、そのまま記憶が退行して行き学校での喧嘩のシーンへと繋がった。一瞬のことで少年はぐったりとした仲間を見た。仲間を倒してきた相手に殴りかかるとそいつは倒れ、怒り狂った連れの仲間三人は相手の少年たちに怒号をあげる。原因はどうも、相手の少年からから吹っかけられた喧嘩からだったようだ。相手からの暴言と蔑みの言葉が発端だった。それが結局裁判沙汰になった。
相手も元々何にでも突っかかってくる喧嘩早い一団だったし、男側も彼女を連れていたのを相手に絡まれて浮かれた気分もぶっとんで喧嘩になっていた。
また記憶が退行していく。
中学にはあまり行かずに、酒屋にいて女の子と騒いでは音楽やライブを聴きに行くことが多い。毎日を惰性に生きているが手仕事はしていて、細かい作業をしていた。出来上がったものを見ると、それは靴だった。男は変わった形の靴をたくさん作って生活やライブ、学費の足しにしていた。刺繍などもしていた。あの夢で見た印象的な靴を思い出す。
遡ってもやはり学校では喧嘩をしてばかりで、学校を不登校になって年上の仲間とつるみ、そこで刺青も入れ始めた。素行も見られるしマリファナも吸って生活している。
小学校は図工が得意で、やはり細かい作業、特に花柄の布地をかき集めて貼り付けたものを作品にしていた。そういう女っぽい部分を同級生に馬鹿にされると喧嘩をして酷い怪我を負わせて問題になっていた。だが、その喧嘩した相手が気になって様子を見に行って、自分から必ず仲直りをしに行った。
そしてもっと遡る。
すると、どこかの暗い空間にいる。
どろりとし始めた感覚。闇はすでに闇ではなく混沌で、どろどろしたそれはどんどん身体を包んで、そこから逃げたくなる。ずっと嫌な感覚の暗がりは続いた。何だろう。どても自分では感じたことの無い嫌な予感が身に刻まれている。
いきなり男が呻いて、だが花河は目をずっと閉じてハハリの肩に手を当て続けていた。
ゆるゆると、何かが聞こえてくる。微かな泣き声。激しい音。それが、どんどん大きくなっていく。そして耳からこびりついて離れなくなるまで大きくなり身に迫り侵食し、男も忘れていた記憶がトラウマとなって襲ってきた。閃光のように。
いきなり意識が途切れて体が軽くなり、花河は口を閉ざした。どさっという音が聞こえて、朱鷺島が「おっと、危ない」と言って駆けつける靴音がする。ハハリの肩が動いた。
「ベッドに寝かして来なさい」
「ええ」
ハハリが言った。
「目を開けていい。依頼者が気絶をしたから、一時止めることになる」
「はい……」
花河は目を開き、ベッドを見た。真っ青な男が横になり、朱鷺島は振り返って歩いてきた。
「多少垣間見れた。子供の頃のトラウマがな」
「それが原因で凶暴さや追われ続ける悪夢の記憶が」
「関係しているかもしれん」
朱鷺島は彼らにハーブティーを出した。男は眠っているので静かにさせておいた。
猫は仕事のときは外に出すので、どこかで遊んでいる頃だろう。
ハハリは男の方を見ながら言う。
「六歳の頃に旅行先で連れ去られている。国ははっきりとは分からないが、激しい音が鳴り響き続けていたから暴動が起きていたんだろう。そこで酷い扱いを受けていた場面が断面的に流れてきた。何度か逃げ続けても激しい音に追われ、男に連れ戻されての繰り返しだった」
「それはまた……」
「きっと自身が中世の貴族だった前世の記憶が呼び覚まされたともありうる。それが実際にあったトラウマと交じり合って悪夢が繰り返されて加速したのかもしれない。その頃の記憶が残っていて、花の作品として形にしていたのだろう。人攫いに遭ったことに関しては、調べてみなければ事実関係は分からない。夢のことも史実であれば貴族や王家の実在を調べる必要がある」
男は寝ていたが、スッと目を開いた。一瞬神経質な目になってから、辺りを見回すとすぐに場所が分かって身体を起こした。
「眠りこけてたのか」
頭を振って起き上がると言った。
「また見た。夢だ」
だが男は内容を言わなかった。
ゆっくり椅子に戻ると、朱鷺島が差し出したカップを見た。
「俺はハーブティーは飲まねえんだ」
朱鷺島は肩をすくめて口端を上げた。
「聞くが、夢の時の皆の名前は分かるかい」
「俺がエルン・シェルケン。シェルケン一族ってところの女だ。親は王宮に仕える大臣やってる。王族はドマイネン王朝ってやつで、あの野郎はゴビク二世。王妃は隣の国から来たジャリアネ妃だ」
「なるほど。中世時代に小さな地方や国がまとまっていなかった頃の王朝の一つとして存在していた。今も古城は山間部に残っているが、石も大分崩れ朽ち果てている部分もある。そのゴビク二世は最期には処刑された。そこで王朝は滅び、生き残った王子は妃の母国に引き取られたようだが、王妃自身の記述は不明だ。もちろん、その時代の貴族の史実も残っているのを探すのは時間がかかるだろう」
「あのガキんちょ、生き残ったのか。酷い目に遭わされてたからな。救い出されて良かったもんだ」
男は視線を上げた。
「それで、何か俺のガキの頃のことは分かったのか?」
「気構えは」
「いろいろ連日の夢で慣れさせられた」
ハハリは頷き、伝え始めた。
「六歳の頃に旅行に行った先で人攫いに巻き込まれている」
「俺がか? んな話聞いたこともねえ」
「きっと救出された後に催眠術で記憶を封じたのかもしれん」
怪訝な顔をして男は携帯電話を出した。
「俺はガキの頃から預けられていた。両親は元々甲斐性なしだったのか不明だが、元から顔も何も知らねえ」
相手が電話に出たらしい。事情を聞いている。
どんどん顔色が険しくなって行き、歯を剥いて初めて男がインプラントしている牙が見えて、花河は目をカップローズのように丸くした。
しばらくして電話を切るが、相手の声が馬鹿でかく快活で、いろいろ聞こえていた。きっと相手側は電話を切った今は慌てふためいているのではないだろうか。小僧め、思い出しやがったかと、今まで気丈に振舞って忘れさせて通常に生活していたというのにと。
「原因は電話相手だったらしい。犯人というより、紛争地帯から部隊裏切って俺を救出したまま亡命して、俺を育ててたらしい。それで思い出しやがったかって快活に笑いやがって」
「え、ええー……」
「両親は俺が連れ去られたまま生き別れてて、個人的に調べても俺は名前も言わねえし、どの国から来たかしか言わねえし、道理で六歳以前の写真やアルバムが無くて記憶も無かったわけだぜ。聞いてもアルバムなんか引越しでどっか行ったとしか言わなかったからな」
自分の本名も実は知らない男は、すでに長年のよしみで親しい育ての親に呆れ返っていた。
それもトラウマを思い出せずにいたから、まだ良かったのではないだろうか。男のどこか義理堅い性格も少年を引き取って育てた部隊出の育ての親の気質が移っているのだろう。明らかにその後グレているが。それでも当然弱い者や女に手出しすることなど一度も無かった。
確かに記憶の退行で見た実家で持つ育ての親は一人で、白人だが黒髪で目が焦げ茶の人種違いだった。
「紛争はもう収まったらしい。時代的に言ってもなんとなくどこかは分かる」
男はしばらく上の空だったが、ハハリを見た。
「夢食いは……もっと夢で蹴りがついてからで構わないか。結局俺がどうなったのか、そのルエン・シェルケンがどうなって、本当に王子が無事な形で助かったのかを確かめたい。悪の根源が消える瞬間も、王子が王妃と生き別れたのか、それともどこかへ逃げることが出来たのか」
過去との因果が繋がって、なおさら結果を知りたいのだろう。
「だが、お前さんは半ばで被害にあっているかもしれない」
「それでも原因が判明した以上、きっと立ち向かっていける気がする。夢の女は恐怖に囚われてるからどうなるか分からないが、あんな男にこれ以上心乱されることなんかねえんだ。起きた後は整理が自分で付けられる。俺は恐怖に打ち勝てる人間になりてえんだよ。今それを思った。それが、あの夢に出てくる女を、ここからじゃ結局は無力になろうとも耐える強さで救ってやれる力になると信じて守ってやりてえ」
ハハリはしばらく男の目を見ていたが、静かに微笑んだ。
「無理はしなくていい。最後まで見ることも自身と過去の決別に繋がることもある。もしも耐えられなくなれば、またここに来なさい。夢を食べよう」
打ち勝つ強さを言霊に乗せて発したら、その分優しい強さに変わる。
この依頼者なら大丈夫だろう。守るための本物の強さをいつかは備えられる。
きっと折り合いもつけば、自分で自分の両親を探すことも始めるのではないだろうか。
男は三人に感謝し、夢見の小屋を去って行った。
昼になると朱鷺島は小屋から林へ歩いていく。
開放される右目は、爽やかで美しいフィンランドの森を映す。
心が晴れる。
風が流れていく。
瞳がやはりよろこんでいる。それが分かる。彼は微笑みながら、心地よさを感じて歩いていった。
椿が林ではしゃいでいて、向こうでは青柳がルーペで植物をまじまじと観ている。その姿は植物たちに実によく馴染んでいた。
朱鷺島が来ると、微笑んで椿が手を振った。
「昼にしよう」
朱鷺島が眼帯を外しているので、その瞳の色に椿は惹き付けられる。
あまりに強烈な信号を発していなければ、完全にリラックスした状態でなら、何も読み取らないぐらいのコントロールは出来るので、この自然の環境に囲まれていれば眼帯を外していても大丈夫だ。ただ、瞳を合わせなければいい。
「ハハリ氏の依頼者が先ほど来て、料理店の食事を持ってきてくれたよ。その彼もいる。皆で一緒に食べよう」
「まあ、うれしいわ」
「それはありがたい」
二人も小屋までの原を歩いていく。
光りが差し込む朱鷺島の白水色の瞳はやはり不可思議な印象を与え、緑の草原の空の色を透かしたようである。
椿は、ビアンカ・椿……という白椿の名に、彼の雰囲気を重ね合わせて照れて頬を押さえ歩いていった。さやさやと風が彼らの髪を揺らしていく。
「依頼者の方、夢見と夢食いは成功して?」
「ああ、自分で解決する路を選んだよ」
「お強い方なのね」
椿が感心していると、小屋に入ったら恐い人がいたので目を瞬きさせた。
二時間前に一度去って行った先ほどの依頼者の男だ。
彼の行きつけの美味しい料理店の料理をお礼にと持ってきてくれたのだ。
小屋に入る前に、朱鷺島は眼帯を嵌めて狭い空間では必ず人と目を合わせることになることを予防した。二人を促し、最後に入ってドアを閉めた。
食事が始まるとざっくばらんな性格の男で、すぐに椿の緊張もほぐれた。
「みなさん、夢に悩まれるほど創造性をお持ちなのですね。わたくしは夢を滅多に覚えてないからお話を聞いていても不思議で」
「良い夢ならまだしも、あんなどうしようもなく抜け出す方法がねえもんなんか見ないにつきるぜ」
巨大なジャガイモのチーズ和えにバジルペーストを垂らして食べながら男が言う。
毎度三人の日本人、二人のフィンランド人の通訳をしているので、朱鷺島は自分の言葉は挟めない。
先ほどの会話も「私は夢を見ない。創造性が無いと思う」「嫌な夢など見ないほうがいい。良い夢ならましだ」と要点だけ簡素に訳しているのだ。日本人の場合は口調で性格が現れるので、申し訳程度に「俺、僕」「だと思うよ」「~~だ」などに変えることもある。
男は育ての親から与えられた名をエルモ・アハデーという。彼を育てたのはエリク・アハデーと名乗っているらしい。
なので、椿は英語のTV番組の、あの小さい裏声モンスターエルモを思い浮かべて、唇をぷるぷる震わせていた。
だが当然普通にある名前なので、エルモには伝わっていずに済んだ。料理のあまりの美味しさに彼女が感極まっていると思っているのだ。実際エルモもあの教育番組は知っているが、同級生にも偉人にもいる男名で、もちろん笑いを誘うわけでもない。
だが椿は男がエルモと呼ばれる毎に微笑ましくニコニコしていた。「エルモだよー」が浮かぶのだ。
朱鷺島は親戚の家に戻ると、花河は疲れて早めに客室へ向かって行った。しばらくゆっくりするらしい。自分でも今日のことに整理をつけてまとめたいのだろう。
先程、朱鷺島は眼帯を外した目で花河の記憶を見せてもらったのだが、あれを本人を前に臨場感を持って体験したのでは疲れるのも分かる。それをハハリは続けている。花河はそれでも弱音を吐かずにいる。自分でも自分というものを判定しているようだ。耐えうる人間かどうなのかを。耐性をつけるためにも、花河は皆の眠る時間に眠ると言っている。
青柳は朱鷺島の祖母と話している。彼女は日本語が分かるので、会話はスムーズだった。千里眼についてを話し合っていた。そこに来ると朱鷺島も座り、椿の姿を探した。
どうやら朱鷺島の従姉妹と共に夕食の準備をしてくれているようだ。昨日もジェスチャーで朝食を手伝っていた。
テラスの見える緑の庭は自然体で実によく和む。
「レイ。あなた、とても良い方を連れてきたのね。ビアンカさんとおっしゃるの」
「ええ。最近知り合った子でね」
きっと彼女には、椿の目を見てすぐに孫への好意が読み取れたのだろう。とても和んだ表情だ。朱鷺島は正直照れて咳払いした。まんざらでもないという表情に、祖母は微笑んで庭を見つめる。
花河は部屋に飾られた花を見て和んだ。花は好きだ。
世界にはいろいろな花が咲き、昆虫たちを生かし、人の心さえも潤してくれる。
地球を彩る花の世界が大好きだ。
今までは花の舞う夢をよく見てきた。ロマンティックで、朱鷺島のように架空の処こそは出ないが、時にメルヘンティックな夢も多かった。心を幸せにするそれらの夢の世界。
人々にもその世界観を与えるために花の仕事につく勉強をしようと決めた。それは実現して育てられた多くの花を今まで会場や人々のリビング、レストランやカフェに彩らせてきた。ホテルのラウンジや宴などでも。
花は散る。人に大切に育てられた切花というものは、その時限りの生命であり、精一杯に咲いてくれる。そして地に育てられた花々は季節の廻りにそって芽吹き、花を咲かせて花弁を風に持っていかせ、土に返り再び土の寝床を柔らかくして芽吹く。
その美しい世界をたくさん見てきた。
きっと、どれほどかここに滞在することでハハリの夢見と夢食いを見て行くうちに、彼の跡を引き継ぐ決心が着くことだろう。
花河は花に触れて微笑んだ。
夢に悩んでいる人をこれからの人生で多く見ていく事は、何かを掴み多くを助言することなのだ。
第三章 薔薇の戯れ
朱鷺島が友人、アルバラーの部屋を訪ねたとき、すぐに異様な空気感に気付いた。何か、異常なほどに花が薫る。
まるで庭一面に咲く花を一室にぎゅっと押し込んだかのような。
彼は眼帯を剥ぎ取りドアを開けた。
咄嗟に後退り、ドアを開けた途端に押し迫る花の波が廊下へと雪崩れ込み、足元に美しい花が流れ込んで行った。幾つも、幾つも。
「アルバラー……?」
年に数度、フィンランドに来る際には必ず会う友人だが、こんなに花に明るい、そして無我夢中に愛でるような男だっただろうか?
部屋を埋めつくす大輪の紅い薔薇。その花を掻き分けて歩き、腰元まで埋め尽くす量の花の部屋を行くと、段差の上に置かれた二段ベッドの下にアルバラーが薔薇にまみれて眠っていた。彼の犬は二段目に眠っている。アルバラーの彼女は窓際の椅子に座っているのか、彼女の頭部だけが見えた状態で眠っている。
どういう戯れだろうか。花遊戯だろうか。
朱鷺島は新鮮な薫りと色を発する花、見事な薔薇を掻き分けさらに奥へと歩き、アルバラーの彼女の横から腕を伸ばしベランダへ続く窓を開けた。すると花がどんどんと溢れ出す。
咽せ返るほどの甘い薫りが流れて行き、一瞬建物の外へと漂った濃密な薫りに、路地を行き来する者たちが辺りを見回し、天から降ってくるいくつかの薔薇を見てこちらを見てくる。
「どうも。こんにちは」
相手も笑顔で返す。
「よろしかったら、薔薇をどうぞ」
そういうと、誰もが微笑んで薔薇を数個、拾っては彼に微笑み薫りを楽しみながらも歩いていった。
「レイヨか……」
アルバラーの声が室内の薔薇の先から聞こえる。朱鷺島は振り返った。
「これはどういった趣味移行だ?」
「え……?」
まだ寝ぼけた声で、何のことかというように起き上がると、目を瞬かせて呆気に取られたアルバラーが自室を文字通り埋め尽くす薔薇を見回した。
「んな、なんで部屋が紅くなっているんだ?!」
「え?」
すぐにアルバラーは降りてくると、ハッとした顔になって二段ベッドの横にあるはずの蓄音機の方向を見た。鈍い金色の拡張機が掻き分けられて舞う薔薇に埋もれて出てきた。彼のお気に入りのレコードが何も無いかを調べている。ぎいぎいと鳴っているので、針が花に阻まれていたようだ。スイッチを探してからこちらを見た。
「全く、レイヨ。お前は毎度毎度悪戯が過ぎるぞ」
「いや。俺じゃない」
「お前以外に誰かこんな浪漫主義をやらかす。あいつも今日は誕生日じゃないし、日にちでも間違えたのか?」
確かにこれがドッキリや誕生日のサプライズならば、およろこび頂けなかったようだと肩をすくめることだろう。
犬は上のベッドで起き上がり、辺りを見回して腕に顎を乗せてただただ主人と朱鷺島を交互に上目で見ている。既に嗅覚でもいかれているのだろうか。
「これでは大量の薔薇酒も蒸留液もポプリもなんでもござれだな」
アルバラーは薔薇を手に言い、恋人を起こしに行った。もちろん埋まっているので、薔薇を掻き分けて彼女を出した。
「ううん……あら……とても素敵な薫り」
うっとりと微笑みながら彼女が目を覚ますと、しばらくしてだんだんと満面の笑顔になって、目が輝いていった。それが窓から差し込む陽できらきらとした。
「まあ! とても綺麗だわ!」
薔薇は窓からの陽で芳しく薫りを放ち、美しいシルエットを紅に落とし、鮮やかに彩っている。ベルベットのような花弁の一枚一枚、くっきりと陰影を付け彼女を彩っているのだ。そんな情景には、アルバラーも自身の美しい恋人に見惚れずにはいられない。
これは女性にはうれしいもののようで、およろこびいただけで何より……などと今は甘い雰囲気で抱きしめ合っている二人の恋人を見ているが、誰の仕業だろうか。愛のキューピッドの届け人だろうか。
犬はベッドから降りるのを躊躇しており、首を伸ばして花の薫りを嗅ごうとしている。
さあ、この薔薇はどうするべきか。
今の二人は薔薇のことで頭が埋め尽くされているので、水色の目で見ても薔薇のことで頭がいっぱいの二人の脳内を見せるばかりだ。彼らの目をしっかり確認しても、いつものように彼女は頬を染めて照れて微笑み、それをアルバラーが嫉妬して、今度はアルバラーは彼女との通常の生活を送る記憶があるのみで、特に変わった様子はない。
「町の人間に薔薇のお届けにでもあがるか」
愛のお裾分けだ。
このアパルトメントには、共同のカートが十五台置かれている。近くの広場で蚤の市や市場が開かれるときに自由に使えるので、薔薇をカート一杯に詰め込んで、広場まで来たら「ご自由に」と言えばいいのだ。朱鷺島とアルバラーが運び、アルバラーの彼女が薔薇をカートの横で配ることとなった。
広場では主婦や女性を主として、誰かしらが手持ちのバッグや手提げなどに薔薇を入れて持って行ってくれる。男性なども家族にと言って持って行くものも出てきた。
バスタイムに浮かべるわ、薔薇ジャムを作るわ、化粧水に浮かべるわ、薔薇菓子でも作るかしら、などとそれぞれが笑顔で言い持ち帰っていく。
それを朱鷺島が五台まで行って帰って来ているときだ。
部屋で犬が激しく吠え立てているのが、薔薇のカートを引き広場まで歩いていこうとしたときに聞こえた。朱鷺島は三階にあるアルバラーの部屋の窓を見上げ、戻って行った。
階段を駆け上がり、部屋に戻る。
大分薔薇の少なくなった室内で、犬が何か大きなものを薔薇の下からくわえて引っ張り出しているのだ。
「な……、」
明らかにそれは男で、口に薔薇の花弁が押し込まれていた。そしてポケットというポケットにも。
「うう、ごほっ」
男は呻いて薔薇の花弁に咽せ、ぽろぽろと吐き出した。そして朱鷺島が引っ張り起こした。犬が吠えるのを、朱鷺島がじっと犬の目を見て静かにさせ犬はその場に座った。
「大丈夫ですか。あなたはどなたです」
年齢は四十も前半だろうか。男は黒いシルクを目元に巻いているが、朱鷺島がそれを外した。男が瞼を開けると瞳が覗く。顔を歪めてから朱鷺島を見た。
「君は……一体」
身なりが良いが、まるでどこかの宴の席から連れ去られ薔薇檻に閉じ込められた風だった。
「僕はレイヨ・マティアスです。身体に異変は?」
「ああ、ちょっと腕が痛いぐらいかな。ここは」
辺りを見回し、薔薇を見る。
「薔薇……ロジェスの仕業、か?」
朱鷺島は首を傾げ、その場に座った男は彼を見上げた。
「私はアーレイ・シュワンツァ。宵までは地方の古城に招かれていたのだが」
「ロジェスというのは?」
シュワンツァは不思議そうに朱鷺島を見てきている。その途端に見慣れない風景が朱鷺島の脳裏に蘇った。
現われたのは美しい女だ。
腰を締め付けたボリュームあるヴァイオレットドレスを纏う、金髪の女。暗めのルージュで微笑んでいる。燭台を手にしており、そして鎖を引いた。
それは視野に飲み込まれていく。彼女の腹部に鎖が引っ張られたことで視界がぐらりと揺れた。シュワンツァが拘束されているのだ。明らかに首輪が嵌められている状態で。女の黒皮グローブの手が伸ばされ、頭を撫でてくる。視線が下がった。紳士服の膝をついている。暖色に照らされる石の床に。そして、影が濃く降りて彼女のハイヒールが美しく現われた。
「オッドアイか」
我に返った朱鷺島は、ふと男を見た。
いや、ずっと見てはいたのだが、感覚では男の脳内記憶を視ていたのだ。
「ああ、ええ……」
口端を上げると、シュワンツァを引き立たせる。
「ロジェスという人物は?」
「招かれた城主の男だよ。薔薇が好きで、庭を埋め尽くすほどの壮観なものでね。私が大学の頃からのフェンシング仲間さ」
あの女性は奥方だろうか。まさか、旦那の友人を拘束する趣味でもあるのだろうか。
朱鷺島は言った。
「ここは私の友人宅で、ロジェスさんとは他人だと思いますよ。今ここの家主は広場にいて、この薔薇を町の者にお裾分けしているのですが」
「ハハ。確かに薫りも見た目も美しいからね。私も時々あつらえて頂くが、これはどういった事か。まるで城をぐるりと囲う薔薇の庭の一部を引き連れたかのようだ」
シュワンツァを連れて路地を歩くうちにも、薔薇を持って帰っていく者がちらほら見受けられる。それをシュワンツァも見ながら広場に来た。丁度、空いたカートを引いてくるアルバラーが彼らを笑顔で見た。
「レイヨ。薔薇の代わりにチョコレートとか紅茶葉をくれる人もいたぜ。いろいろな野菜とか菓子とか」
「へえ。本当だ。豪勢な食事になりそうだな」
カートにはいろいろと乗っていて、綺麗な布地もある。
「ああ。彼は?」
シュワンツァを見たアルバラーは、しばらくして「ああ!」と言った。
「久しぶりだ。シュワンツァさんで間違いないよな? 助けてもらってからはあいつももう元気になって、今じゃ薔薇の宅配便だ。まあ、薔薇売り乙女さ」
顎をしゃくると、その方向では薔薇売り、というよりは物々交換の砦と化しているのだが、、乙女と名指された彼女が笑顔で薔薇を手渡している。
「知り合いだったのか」
「森林デートのときにあいつが迷子になってな。あいつはでかい城に迷い込んだようで、俺が湖で途方に暮れて探し回るのも疲れていたときに、セスナで俺を見かけて城まで連絡を渡してくれて、馬で救助に駆けつけてくれたのがその城の主だった。そこにシュワンツァさんもいた。シュワンツァさん自身が街に帰るついでに俺らを自家用機で送ってくれたんだ」
「なるほど」
「それでからは直接会うことはなかったが、よくメール交換したり、彼らから美味しいワインや生ハム送ってくれたりな」
「こちらもこの地方のお菓子やビスケット、いつもありがとう」
それなら住所も互いに知っていたわけだ。
「アルバラー、レイ。薔薇、人気ね」
広場の薔薇カートから離れてこちらに来たアルバラーの恋人ルネはシュワンツァに気付くと笑顔になった。
「まあ! お久しぶりね! いつも素敵なものを送っていただいてありがとうございます。まさか訪ねてらしたなんて。メールを頂ければ良かったのに」
シュワンツァははにかんで困った顔をし、とりあえずは今の所、薔薇を皆に分け与えた。それも昼ごろには広場を囲う店舗にまで行き届いて花が彩ったので、部屋に戻ることにした。
彼女はうれしげに物々交換しもらったもので四人分の料理を始めている。フルーツを皿に盛り付けた。犬は尻尾を振っているが、犬の食事は別のものを用意するので待ったをくらっている。
「え? それじゃあ、覚えてないんですか?」
「ああ。カミーエは悪戯がすきだからね。だが、まさか君ら若いカップルの友人にまで悪戯をするなんて彼女らしいよ」
「ハハ。夫人なら分かる。一週間世話になった期間もいろいろ驚かしてきたり悪戯をして遊んでいたからな。ロジェスさんも変わった人だし」
朱鷺島はアルバラーに言った。
「鍵は開いていたよ」
アルバラーは唸った。
「もしかして、眠り薬でも嗅がされたのか? まさかこいつまで気付かなかったなんて」
犬はダルメシアンとワイマラナーの間に生まれた子で、異常時に警戒する以外では賢く大人しいものだ。
この落ち着き払った白漆喰の壁に黒いネオクラシカルな家具で統一されている部屋で、まさかの薔薇まみれにされているのであれば、気付きそうなものなのだが。第一、この大量の薔薇をいつどのように運び込んだのか。
夜はこの辺りは外出する人間はいなくなる。早めに消灯されて早寝をする者ばかりで、とても静かになる。物音がすればすぐに分かるはずだ。深夜ともなれば皆深い眠りについている。
だが、鍵の問題があった。
「もしかして、昼の内に眠らされて、深夜にシュワンツァさんと薔薇が運び込まれたんじゃないか」
「転寝はしていたんだ。俺たちもそれは覚えている」
せっかくの薔薇だ。部屋にもかなり残したので、飾ったり紅茶に浮かべたりしている。薔薇のクッキーも作って隣の部屋の人にもお裾分けをするとルネが言っていた。チョコレートにつけても美味しいだろうと。
ルネは薔薇を弄び薫りを愉しんで、視線を向けてきた。
「ねえ。レイはどうなの?」
千里眼のことだ。
犬が何か見たのか。シュワンツァの記憶に残っているのか。それを聞いてきている。
ロジェス氏の夫人がシュワンツァを拘束していたことは事実だろう。しかし、そこから暗転したことがシュワンツァがカミーエ夫人に眠らされた証拠でもあるのだろう。しかし、気絶していた分運ばれてきた経緯は不明だ。どうやら、夫妻を知る三人には夫妻が薔薇事件を起こしかねない人物だと感知しているらしいのだから、そこからの新たな情報は今は無い。
「分からない」
「眠らされていたのね。シュワンツァさんも」
窓から淡い水色の空が広がり、まどろんで再び眠ってしまう前に彼らは動くことにした。
「お茶目なだけではカミーエ夫人は済まされないのかもしれない」
朱鷺島が階段を降りながら言うと、シュワンツァは苦笑いした。
「確かにね。彼女は生粋の……」
「サディスト」とでも言いたげに肩をすくめると、裏手へと歩いていく内にも、耳元に先程の薔薇をつけた乙女が笑顔で歩いていく姿も見かけた。皆アルバラーのminiに乗り込む。
ハハリは岩場に座っており、椿は古城を見上げ、花河は湖を見渡していた。青柳は涼しい森で風を受けている。
シュワンツァが金の鍵を出すと、鉄の小箱を開けた。そこから出てきたのは重厚な真鍮の鍵で、きっとこの城の鍵なのだろう。
「あら。もう戻ってきたのね」
小さめの扉に鍵を挿そうとしたら、頭上から声が降ってきた。見上げると、美しい女が、風に髪を靡かせ石の台に肘と頬杖をつき微笑み見下ろしてきている。
「ご招待券はおよろこび頂けて?」
きっと、あの薔薇が招待券であって、シュワンツァが彼らの案内人ということだったのだろう。これは変わり者だ。
「今回の捕獲者はシュワンツァを抜かすと七人のようね。好きよ。奇数の数字。さあ、鍵を開けて場内へお上がりになって」
彼女は引き返して行き、姿が見えなくなった。
日本人三人には彼女が何を行っているのかは分からない。そのはずだった。
「おかしいな。彼女の言っていることが感覚で分かる気がする。今まで夢で多くの人の感情が耳に聞こえてきていたみたいに」
「花河くん、また力が強くなって?」
「あら、とても面白いわ。出力と入力設備が整って、触れ合えば皆に感覚通訳が可能になるのね」
椿が面白いことを言い、実際に皆が皆で触れ合うと本当に上手い具合に通じる。朱鷺島は目から読み取れるし、青柳は自分の記憶を外部に与えることが出来る。ハハリは夢見と夢食い能力があり、花河は夢見と共に夢聴きも出来るのだ。
それが今度は花河が寝ていずとも聞こえるとなると、今は丁度お茶の時間を過しているころの朱鷺島の祖母の能力にも並ぶものが得られる可能性もある。
「まあ、素敵」
古城を進むに連れて圧巻させられて椿は笑顔になる。ルネも「はじめは驚いたものよ」と微笑む。
花河ときたら、椿に手を握られて頬を染めていた。とはいえ、男共も同じく手を握っていたのだが。眼帯を嵌めていることに関して、友人カップルは元から事情を知っているのだが、シュワンツァには分かっていないので首を傾げていた。
ハハリが何かに気付いて、エントランスホールの上部を見上げた。すると、とんとんと朱鷺島の腕を手の甲で叩き上を見るように促した。朱鷺島は彼から遥か高い天井を見ると、見慣れたレリーフを認めた。
「ここは、いつ夫婦が買い取って?」
朱鷺島がシュワンツァに聞くと、彼は頷いた。
「九年前に競売で買い取ってから、六年かけて修復したようだ。その間にいろいろと不気味なことがあったようだよ。白骨が出てきたり、傷ついた中世の刃物が大量に見つかったり。まあ、元がここは有名な幽霊城だったから、尚更彼らも気に入って手に入れたようなものだが」
「エルモがもしも来ていたら、混乱していたかもしれない」
「あの小僧なら大丈夫だろう。眠らん限りはな」
花河の能力を審査しながら進んでいたが、彼も見回しながら首を傾げている。そして朱鷺島に言った。
「ここはまさかドマイネン王朝の」
ドマイネンと言った花河に、シュワンツァは振り返って花河に微笑んだ。
「よくご存知で。もしかして日本でも有名なのかな」
フィンランド語だったが、花河は自分に向けられた言葉なら理解できるのだと悟った。先程も女性が直接皆に向けて言ったから言葉の雰囲気を理解できたのだ。
九年前から修繕されていくことで開放されていく城の空気が一気に時を越えて流れ出し、そして前世の記憶を持つエルモの感覚に、空間を越えて強烈に同調した。それで彼女の魂、貴族の娘の感覚が忘れていた部分までも鮮烈に戻ってきたのではないだろうか。
「物事は引き合うものだ」
ハハリは偶然の内にもたらされる物事の法則や秩序を指して言う。エルモの夢で度々出てきた特徴的なドマイネンの紋章が刻まれた様々なものを目の当たりにして城内を歩いて行く。
この城でまさかあの悪夢のような出来事が巻き起こったのかと思うと背筋が凍る。
「もしかして、この城に文献は?」
「広がる地下にはいろいろとあってね。家財や衣装などは持ち運ばれ貴族が使用したり競売にかけられたようだが、残っているものもある。文献も中世の時代の巻物ばかりだよ。
「城下町は」
「既にこの数百年の内に森になっている。石積みなどは木々の間にちらほら残っているが、皆がこの地を離れて行ったという」
もしかしたら文献に貴族名簿が残っていて、大臣ともなるとエルモの前世だと思われる令嬢の一族も名を連ねている可能性が高い。しかも、この城に引き取られたとなると。
「絵画はありますか」
肖像画があればなおのこと、夢との合致が確認できる。
「その時代なら、壁画になっているよ」
シュワンツァが広い間に出ると、壁画があった。この間は彼らが確認した夢の範囲には現われなかったが、とても明るく陽が差し込んでいる。
今思えば、先程彼らが通ってきたエントランスこそがエルモの前世である貴族の娘が望んだ外へ通じる希望の出口だったのだ。
壁画には近付かないように、美術館のようにロープが張られていた。
中世初期の絵画に見られるように、皆がずんぐりむっくりの体系で描かれており、顔は皆変化が見られない。花も簡略化された描き方だ。舌を巻くドラゴンがいたり、目を剥く怪魚がいたりする。中世中期にようやく見られる写実性は一切見られない。靴を見ると、やはり花柄のフラットシューズ。エルモが見れば奇声を上げて飛びつくだろう。
「いらっしゃい。お久しぶりね。アルバラー、ルネ。それに……」
シュワンツァは彼らの紹介をしていった。
「まあ。日本からいらしたお客様なの。フィンランド語とフランス語しか話せないのだけれど、何かご不備があったらいけないわね」
「僕がフィンランド語を通訳できるので、お任せください」
「それは有り難いわ」
椿と花河はフランス語が分かる。花河はヨーロッパの花の仕事関係でパリに留学していたし、英語も話せる。椿は元々イタリア人ハーフで、少女の頃もイタリアで暮らしていた。その時に日本語、イタリア語、フランス語、スペイン語、英語が話せるように教育されていたので語学に堪能である。青柳は英語を話せた。植物学会でも発表の際にイギリスに赴くことがあるからだ。人を出来る限り避けて生きてきたので、出ることも本当に稀だが。
朱鷺島の場合、日本語、フィンランド語、ロシア語、英語が話せる。ロシア語に関してはフィンランドにいた子供時代、ロシア人が隣人で幼馴染がロシア人だったからだ。
「さあ、客室へご案内するわ」
彼女の後について歩く。
「この古城の歴史については、興味深いものがあるようですね」
「ええ……」
狭くなだらかな肩からちらりと見せた彼女の光る瞳は、確かに間近で見ると淡く嗜虐の想を見せる。だが、彼女は自身で規制を敷いているのだろう。明らかな享楽を目的とした、与え与えられることへの互いの確実な悦びにのみ向けた嗜好を感じ取った。全てをさらりとひけらかすまでの遊戯として。
歩くに連れ目に映る飾り棚の美しい硝子や、無駄の無い芸術を生み出す曲。と思えば、不調和を生み出す巨大な絵画の内側の不可解なコンセプト。それら新しく運ばれたであろう夫婦の趣味趣向の美術品が、何故かこの城に溶け合って融合している。
人ほどの人形が幾つも立っていたり、整然と並ぶのを見ると夢を思い出す。
「ドマイネン王朝というのは、滅多に史実では見られないのでございます。それも揉み消した時代もあったのね。王が凄惨の限りを尽くした後に当然の如く処刑され滅びた城。日本の歴史には明るくはございませんが、少しは嗜んでいるのよ。戦国時代の世は波乱の時代でしたでしょうから」
日本でも山間の村などでは、様々な怪しい風習や事件、伝記があったものだが、それらは揉み消されることが多かったという。人の生み出す闇や混沌というものはやはり陰陽があるのだ。
ルネはその話に眉を上げてアルバラーの横に戻ってきた。
「幽霊……が出るのかしら」
薔薇の期待を充分に膨らませてやってきた彼女にとっては、ここは美しい古の薔薇城であって、殺戮などという言葉など浮かびもせずに夢見心地で来たのだ。
「あなた方が迷い込んだ時期は薔薇も季節を終えて、伝説なども話さなかったのだったわね。こちらへいらっしゃい。先程は城壁からは死角になって見えなかった城を囲う庭を」
広い間口へ誘い込まれるままに近付き、光りに包まれていく毎に芳しく魅惑的な薫りが鼻腔をくすぐる。光りと共に風自体が薫りを含み、全身を吹き抜けていく。城壁を吹き上げて間口から通り抜ける風が。
今に、あの血と不浄の記憶をも塗り替えて、城内にこの清らかに美しい薔薇の薫りだけが占領するかとも思われ……。
女性軍が声を上げ、城壁を一杯に埋め尽くす真紅の薔薇の絨毯によろこび、咄嗟に朱鷺島は椿の細い腰に腕を回した。
「お気をつけになって……」
椿の黒髪がゆらりと揺れ、すぐに椿は足をすくませて朱鷺島が支えた。
「薔薇たちがあんまりにも美しくって、ここからつい落ちた方も多いの。薔薇の誘惑に負けて、引き寄せられてしまうのね。夜にはそれは笑って見えてよ。彼女たち」
椿は息を呑んで、確かに引力を感じて身を乗り出していたので口を閉ざした。そして強力な魔力で誘き寄せるこの薫り。
「ごめんなさい。支えていただいてありがとうございます」
「どういたしまして」
風に乗って城壁に巻き上がる花弁の薫りは、なおも彼女の柔らかな髪を巻き上げて、満開の薔薇を背にした椿にキスをしたくなった。その分微笑むと城内へ引き寄せた。
「良かった。椿さんが落ちなくて」
「大丈夫? 椿さん。足元に気をつけて」
「ええ。どうも心配をおかけして申し訳ないわ。ありがとうございます、花河さん」
花河は既に真っ白になっていて、朱鷺島は彼の強張った肩を叩いてあげた。
「お客様のお部屋全てから薔薇がぐるりと見えますから、彼女等に監視をされていることをお忘れなく。女は得てしてお話好きよ」
朱鷺島と椿の雰囲気を見て、ふふと微笑み夫人が言うと、椿には通じなかったので朱鷺島が咳払いをした。
横目でちらりと夫人を見ると、ウインクされた。ちょっとその熟れた唇を奪って口を塞ぎたくなって自己の唇を舐めたが、彼は自身の意外な浮ついた心に驚いて口をつぐんだ。あまりにも奥方は魅力的だ。
「バウバウ」
我に返って反響した声に庭に視線を落とすと、折り重なる薔薇の間に見える細い小路に、大振りで黒く細身の犬が駆け回っている。番犬のようだ。犬の嗅覚は鋭いが、よくあの群生を駆け回れるものだ。
それぞれが個室に通されると荷物を置く。二泊していく予定だ。
誰もが客間に招かれてお茶とお菓子を頂いた。品の良いレコードが回っている。
椿とルネが美味しいお菓子によろこび、アルバラーは興味深そうにお酒の銘柄を眺めている。
ハハリと花河は揃って地下へ向かっている。夢の人物を調べるためだ。
「この古城を手に入れた理由?」
夫人は遠くを見つめた。
「幼子がね、夢でよく言うのよ。『ドマイネンへいらしてください……待っております』」
すぐに思い当たったのは、ドマイネン王から逃げ出した幼い王子だった。
夫人の横顔は感情が無く、何を考えているのかは不明だった。
「以前、離婚をした際に子供を連れて行かれたショックで立ち直れない時期があったの。その時に、息子にとてもよく似た絵画を所有する方と友人になってね、それでからね。夢に出てくるのはその少年。離婚の原因は私の趣味。嗜好が前夫には受け入れがたいものだったのね。今に息子にも牙を向けるんじゃないかって、勘違いされて連れて行かれたわ。そんなはずないのに」
脳裏に浮かぶ。
首輪をつけた紳士。そして美しい女。彼の全てを有し彼の全てを束縛という甘い蜜で塗り固めていた。シュワンツァがそれを甘く受け入れる風も感じた。ほんのお遊び、その程度の危ない駆け引き。今に本性の皮を破って傷を負わせかねないぎりぎりの理性。それを冷静に保っていた。
「それはお辛いでしょうに。お子さんがいただなんて、全く知らなかったわ」
ルネが言い、ふと微笑んだ夫人は首を横に降った。
「身から出た何とやら。でも今はね、はっきりと毎晩見れてよ。息子に似た少年の顔。もう何年も前に生き別れたから、息子は到底少年なんかじゃ無いけれど」
ここでエルモの実の母が彼女だったら因果だとも思ったが、話を聞く限りでは違うようだ。エルモは貴族令嬢としての前世を持っているのだから。すぐには本当の両親と会わせてあげられはしないようだ。
「何故その少年はあなたに」
「分からないわ。なぜかしら。この城に来たら、話さなくなったのよ。会えるだけでも良いわ」
薔薇の花瓶は彼女を飾る。寂しさを紛らわせるためにも、刻一刻深くなる嗜好の遊び事。それを感じた。
前世で関わった人間の悪影響が苦しんだ人間の現世に悪影響を及ぼしているのだろうか。それを浄化するために、悪影響を及ぼした人間の要素が残された状態で現世で生き、それを浄化して前世で苦しんだ者の魂を洗い清めるために。
根からの悪者は悪者だろうが、エルモやカミーエ夫人にはそれは感じない。何かから他からの影響を受けて意味も分からず何かに抗いたくてもがき、苦しんでいるように思えてならなかった。それがあの悪鬼王からの悪影響なのではないだろうか。
………。
何かが聴こえる。
寒さで目を覚ますと、朱鷺島は薔薇に囲まれた庭にいた。
ああ、あまりにも綺麗だったので、月光に満遍なく照らされた薔薇園に下りてきて、そのまま眠ってしまったのだった。
月光に透かされることの無い白水色の瞳、黒い瞳を光らせる。朱鷺島は両目で辺りを見回し、ふと頭痛を覚えて額に指先を当てた。また見る。
下弦の月。それは淀みを受け入れ巡る。
ゆっくり立ち上がって薔薇の間を歩いていく。夜露に濡れる薔薇を見つめながら。
城内の入り口に来ると、微かに響く声は木霊した。
「ハハリさん」
彼は暗がりで振り返り、朱鷺島を認めた。
「ハルキも起きている。声が聞こえて眠れんのでな」
「僕もそれで目を覚ましました」
城を見回ることにして、どれほどかして花河を見つけた。二人は夢見の能力からくるものだろう。
「『こちらに……』と言っていますね。フィンランド語でしょう。子供か女性の声みたいだ」
そちらへ歩いていく。それは観音扉の向こうからだった。扉を引くと、石の空中廊下橋が続いていた。
左右には湖面が望める。月に冴え冴えとする山々も。今はどちらも月光を受けていた。
やはり、夢で見た情景。
橋を歩いていくと、それは塔に繋がっていた。『こちら』という声が近付いている。彼ら三人は走り、塔まで来ると扉を開けた。
半円の広場を進んで行くとその先の階段を上がる。左右に分かれているが声のする方へ行く。ドアを開けて歩くが、ハハリの持つ蝋燭が無ければ何も見えない闇だ。空気は耳が痛くなるほど詰まっていた。
螺旋階段を下っていく。どんどん深く。その間に何度か鎧戸があった。
どんどん下っていくと、既に花河は息が切れていた。
ハハリは森で暮らしているので細い見掛けによらず足腰も体力も備わっており丈夫だ。
『ここ!!』
いきなり声が大きくなり、どれも鍵が閉まっていた内の一つの鎧戸の前で立ち止まった。
もちろん、そこも鍵が掛かっている。
『松明台の下の石を引き抜いて』
言われた通り、一番背の高い朱鷺島が腕を伸ばし、ごご、と音を立ててこぶし大の石を引き抜いた。蝋燭で照らすと、鍵があった。
「開けます」
その鍵は難なく鍵穴にささり、そして回転した。
埃臭さが濃密で、入るのを躊躇う。だが、ハハリは先にどんどん歩いて行った。
その頃には空気はゆるゆると混ざっていくのか、狭く照らされる空間は石の冷たさを色味だけを暖色の優しさに変えた。
鉄の輪が壁からぶら下がっている。重々しく。微動打にもしないその鉄の風情は、今はもう禍々しさなど無かった。
「ああ、」
ハハリの声が聞こえ、振り向くと角の窪みの前にいる。
彼らも駆けつけると、そこにあった。
色褪せることも無い、花の刺繍の施されたフラットな靴……。
履く本人の血肉は既に魂を開放してこの空蝉にも残ってはおらず、そしてドレス、それだけ褪せた金髪は肩にゆったりと落ちている。
「こっちにも……」
花河が静かに言い、逆側の窪みにはもう一人のドレスを纏う白骨がいた。物言わずとも、どこか気品のある佇まいをして地面に座っている。
「王妃と令嬢……」
ハハリは神に祈りを捧げる仕草をし短く祈り、彼らは黙祷を捧げた。
『……墓標を立てて差し上げてください……』
あどけない声。
先程から聴こえていたその声は、正体も現すことは出来ないのか、夫人の夢にしか姿をあらわせられないのか静かに言う。
「あなたはドマイネン王朝最後の王子殿ですか」
ハハリが静かに聞くと、しばらくの後に声は言った。
『わたくしの名はトビスア・ヘルメ・ドマイネン』
彼の声は涙に震えていた。
『母の魂は転生をし、ここへやって参りました。彼女が自身のこの身体を確認することはございません。秘密裏にどうか』
夫人が王子の母の前世であるらしい。それでは、離婚という形で幼くして生き別れる運命となった夫人の息子こそが王子の生まれ変わりだったのだろうか。
夢で見た本当のあどけない、五・六歳ほどの少年の姿が浮かぶ。さぞ心苦しかったことだろう。王子たる誇りを失わず、ずっと魂は宿っていたのだ。国を離れても。
『私の魂もこの恐怖の城へ近付くことが出来ずに絵の内側におりました。母の魂が僕を見つけて下さり、共に来る事が出来たのです。母の新しい子息は、紛れも無くただ一人の今生の子』
深夜、シュワンツァとアルバラーを起こして、男手で二体の白骨を慎重に運び出すこととなった。
今、主人は会合でパリに出ているので、連絡は取れない。
スコップに一番慣れているのはハハリで、次に若いアルバラーが活躍する。朱鷺島も割りと普段の庭の手入れで鍛えられていて、花河とシュワンツァは根を上げていた。
ここは湖の横。とても静かな場所だった。あの城の中庭にと思っていたが、それでは魂も休まらないだろうとここまで来た。
何時間もかかって掘り下げていくと、二つの白骨を横たえる。美しいドレスを整えた。
「エルモに言った方がいいだろうか」
花河が言う。
「事後報告でも構わないさ。今は夜だ。眠っているか酔いつぶれているかどちらかだと思う」
「うん。確かに」
彼らはこの国にならって祈りを捧げ、とはいえ、昔の時代は何の宗教か対象は不明だが、元の紀元を遡ればフィンランドには多神教が根付いてきた。
青い湖水の横で、美しい白骨の安らかな眠りを祈った。
それぞれに薔薇の花を敷き詰め、月の光りが薔薇から覗く白い頭蓋骨を清らかにする。彼らの背後の湖水はきらきらと輝いていた。
しばらくしてから土を掛けはじめた。墓標となるものは今の所は無いが、目印となる様に大きな木の下を選んだ。
夜啼き鳥が静かに啼く、そんな夜……。
「魂が全てを呼び込むのだろうか。夢を使って、空気を引き連れて、雰囲気を操って」
ハハリが言い、胸元に当てていた帽子をかぶった。
花河に能力が一瞬で移り、ハハリを訪れることになったのも、エルモや夫人が夢を見始めたのも、千里眼の能力がある朱鷺島の友人がアルバラーなのも、そのアルバラーとルネが救出されたのも、魂を鎮めるためのサイン。
翌朝、夫人のいるリビングに来ると、少年の絵画を眺めていることろだった。
「おはようございます」
「まあ、レイヨ。昨夜はよく眠れたかしら」
「ええ」
確かに心はとても晴れた鎮魂の儀式だった。
「その絵画は例の話の」
「ええ」
夢の王子だった。
壁画のようにずんぐりむっくりでは無く、共通の適当な顔立ちでも無く、構成も衣服も細やかに描かれている。羊のなめし皮に描かれているのが光沢で分かる。きっと、どの時代にも写実的に描ける画家はいたのだろう。背景はどこなのかは不明だが、広間のようだ。
「昨夜、夢に出てきたこの子が静かに微笑んだわ。手を振ってきて、わたし、行かないでと言ったのよ。そしたら首を横に振って声を出したの。『あなたの心にいます。そしてあなたの本当のご子息はただ一人なのだから』分かっているわ。でももう会えないのよ。大人になって既にどれほどかしら。記憶が薄れていく。言うの。『この絵画を見つけていただいて心よりうれしゅございます』そして、すうっと月光に消えて行った」
夫人の横顔は涙が流れていた。
今朝の化粧気の無いそのナチュラルな美しい顔が、今気付くと王妃に似て思えて……。
黒猫探偵事務所
自分の持つ辛い記憶とかがありそれを乗り越えたくて作った作品だったので、推敲していてかなりしんどかったですが(そのこともあって推敲を避けていた)、時を経て、こんな見ず知らずの私のために下さった人々のあたたかさに触れ、推敲にようやく踏み切れたので、<黒猫事務所2>の解決編をどんどん作っていけていけると思った。
この話、読んでいて辛いですよね。酷い場面もきつい場面もあるし、目も当てられない内容の場面もあります。私の心が感じた苦しみや痛み、いろいろなものがない交ぜになって、当初の製作時もかなりしんどかったんですが、そんななかにも、光りをどうしても見つけたくて、大好きな美しい自然の風景を織り交ぜたり人との心と心のふれあいを大切に書いてたものです。
みなさんも、辛いことは本当にたくさんあると思う。そんななかでも私の苦しみなんて小さいものだと自分でも思うけれど、乗り越えたいと思う度に、心を誰かに傷つけられても、その分心を元のようなまっすぐに軌道修正できると思う。
辛さなんて味わいたくないのが本音だし、幸せに暮らしている人はいるけれど、自分の根本にある大切な物というのは、辛いことがあっても無くても変わらない。私の場合は、小さな頃から公園の花を見たり、自然の美しさが大好きだということ。中学時代に授業で受けた世界の環境について、心を痛めてずっと心にあり続けたこと。だから、いつか大切なもの、大事なものを見つけたときのために、輝ける美しい心のスペースを保ち続けてください。
そして酷い事を言ってくる人間に負けないでください。心を踏みにじってくる人間に負けないでください。嫌なことをされ続けて忍耐が切れた時にはもうその酷い人との関わりを絶ったほうが良いときもあります。人は変わらないものだとよく人は言いますが、それでも信じたかった時期はあるでしょう。しかし、酷い人は変わらない。心をこれ以上汚される前に、離れることも必要です。心の汚れた人間は神様をも裏切るような人間です。そんな穢れを持った酷い人間は人間ではありませんから、騙されないでください。