茸むすび
昔話風の茸小説です。PDF縦書きでお読みください。
四(し)の井(い)川の上流はいくつもの山の合間を流れる小さな源流群に連なる。その一つは石(いし)草(ぐさ)岳(だけ)の洞窟につながっていた。村から歩いて二時間もかかる山奥である。
洞窟といっても、入口は猫が入れる程度のもので、奥に入っても大きな犬が通れるか通れないかほどの大きさでしかなかった。普通だったら洞窟と呼ぶよりも、わき水のでる穴といったほうがよいほどのものである。しかし、地元の人は石草洞窟と呼んで大事にしていた。この洞窟には面白い言い伝えがあったのである。
この穴から水の流れとともに、人の話し声が聞こえてきたというのである。茸採りにきた村人の一人が、聞き耳を立て、来年は四の井川の水の量を多くすると誰かが言っているといいだした。しかも、次の年、本当に川の水の量が増えたのである。村人達はその洞窟の奥には川の水を司る小鬼が住んでいると信じたのである。
やがて、その洞窟は祀られるようになり、洞窟の上に毎年新しい注連縄(しめなわ)が張られ、脇の岩の上には食物が供えられた。
しかし、年月が経ち、村人たちも増え、もっと近くに社が欲しいと誰からとなく思うようになり、洞窟からかなり下った、村に近い山の中腹に小さな神社を建てた。神社は石草神社と名付けられた。
それさえもずい分昔のことで、神社を建てたころを知っている人も少なくなった。しかし、毎年秋の収穫の季節に、豊作と健やかさを祈るため、供え物を持って、四の井川の水で潤っている村々から石草神社に人が集まり、祭りを行い、川の水が枯れないことと、豊作を祈願していたのである。
今では、石草神社の宮司以外に石草洞窟そのものにお参りに行く者は途絶えてしまっている。ただ、神社の周りの林の中は旨い茸が生える場所として、秋には茸狩を楽しみにしている村人が籠を背負って出かけることがあった。
石草神社の宮司は石草洞窟に一番近い小鬼村に住んでいた。当然、石草洞窟に小鬼が住むと信じられるようになってから、その村は小鬼村と呼ばれるようになった。新しい石草神社は小鬼村から歩いて一時間ほどの、山の中腹にある。
小鬼村には役割があった。洞窟から小鬼が出てくるようなときは、石草神社に招き入れ、小鬼村の人がもてなさなければならない。それにより、小鬼はそれより下流の村に行かなくなる。小鬼が下流のほうにまで行ってしまうと、水の管理がおろそかになり、川の流れに異変が起きると信じられてきた。小鬼村の人々は、その役割を果たすために、石草神社の神官を務める家を定め、代々そこの宮司が村人の代表として、小鬼たちを見守る役割をもっていた。
「じいちゃん、この茸は食えるんか」
志染(しじみ)は小鬼村の神主である陽司(はるじ)の孫である。父親の正志は村役場に勤めながら、神主の見習いをしている。
今日は陽司が孫を連れて、朝早くから石草洞窟の近くまで、茸採りに行っている。
志染が持っている茶色い茸は猛毒である。
「そりゃ喰えん、死んじまう」
「これは」反対の手に持っていた白い茸を見せた。
「そりゃ毒鶴茸じゃ、すてれ」
「どんなんが、喰えるんじゃ」
「こういうんじゃ」
陽司は籠の中の、地味な茸たちを見せた。その中に真っ赤な茸が一つ混じっていた。
「これ真っ赤じゃ、毒じゃろ」
志染が指さした。
「そりゃ喰えるんだ、卵茸じゃ」
「ふーん、わからん」
それでも、志染は陽司の採った茸をよく眺めた。
しばらく歩くと、志染の籠にも茸がたまった。
倒れた木の上に陽司が腰掛けると、志染が自分の籠を持ってきた。
「じいちゃん、どうじゃ」
「うん、よいよい、こいつはだめだ、あとはだいじょうぶだ」
陽司がつまみ出したのは月夜茸という毒茸だった。地味な茸だからよく間違えて中毒する人が出る。この茸は夜光る。
「あ」と志染が林の間を見ると指さした。
黒いものがふらふらと木の間を飛んでいる。
「なんじゃろ」
「ううむ、蝙蝠のようだがな、こんな明るい時にどうしたんじゃろ」
陽司も黒い動物を見た。
「蝙蝠にしちゃ、やけにもたもた飛んでいるな」
と見ているうちに、大きな木のあたりで、消えてしまった。
志染はそいつがどこに行ったのかと、木の裏に走って行った。
「あ、じいちゃん、すごい茸だよ」
陽司が志染の声で、木の裏に行くと、そこには大きな舞茸が生えている。
「こりゃ、すごい、志染は茸を見つけるのが上手だな、舞茸といって、とても旨い茸でな、これを見つけると、みんなで舞うんじゃ」
陽司は手を挙げて舞うまねをした。志染が笑った。
陽司は小刀を取り出すと、根元から、大きな舞茸を切り取った。
「こりゃ、水楢の木だな、舞茸が好きな木なんじゃ」
「ふーん」
「じいちゃんの籠の茸を志染の籠にいれるでよ、ほら」
志染の背中の小さな籠に今まで採った茸を移すと、空いた大きな籠に舞茸を入れた。
「これで一杯じゃ、これだけ採れればよいじゃろう、握り飯喰って帰ろう」
このおむすびはこのあたりで採れる味のよい茸を佃ににし、それをまぶしたご飯を握ったものである。
林の中にころがっていた大きな岩に腰掛けると、陽司が腰につけていた握り飯を取り出した。
「あ、蝙蝠が水楢の木の下に落っこちてる」
志染が指さしている木の根元では、黒っぽい蝙蝠のような動物が落ちてもぞもぞ動いている。
志染が駆け寄った。
「じっちゃん、蝙蝠じゃねえ、羽がねえ」
「じゃが、飛んでおったな」
陽司が近づくと、蝙蝠ほどの大きさの二本足の黒い生き物がひっくり返っていた。
「なんじゃ、これは」
目が年老いた陽司はそいつに顔を近づけた。と、陽司の目玉が飛び出した。
「へ、こ、こりゃ、小鬼様のようじゃ」
「小鬼様がなんで落ちたんじゃ、病気じゃないか、爺ちゃん」
志染がかがんで見ると、確かにその黒い生き物の頭の上に角が生えていた。
陽司は首をひねった。
「わからんな、何か悪いもんでも喰ったんかな」
すると、小鬼が薄目を開けた。
「めんぼくない、腹が減った」
「そりゃ大変じゃ、茸のおむすびでよろしければお召し上がりくだされ」
陽司が茸とおかかの入ったむすびを差し出すと、小鬼は上半身を起こして、むしゃぶりついた。あっと言う間に一つ平らげると、
「旨い、じつに旨い」
と目を細めた。
志染も自分の分を差し出した。
「こりゃすまん」と小鬼はそれもぺろりと平らげた。
「うむ、旨かった、最近は神社まで喰いに行っても、貢物もないし、喰うもんに、困っている」
陽司はここのところ、神社に供え物を置くのを忘れていることに気がついた。
「すまぬことを致しました、明日から、忘れずお供えを致します」
陽司は深々と頭を下げ、あやまった。
「わしらは、神社に奉納される米と酒で生きておる。一度食べると数十日は生きていられるが、ここのところ、貢ものがない、月に一回でいいのだがな」
「はいはい、申し訳ありません、石草神社に必ず持ってまいります」
「そうしてくれ、それで安心して、石草洞窟の水を流すことができる」
「ありがとうございます」
「さて、足腰もしっかりしたし、洞窟へ帰るとするか」
「お送りしましょうか」
「いや、だいじょうぶじゃが、洞窟に寄って行かれよ」
小鬼は空中にすーっと舞い上がった。先ほどとは違い、いかにも力が戻ったようで、気持ちよさそうに中空に浮かんでいる。
陽司は「はい」と小鬼の後を追った。志染も追いかけた。
茸を採った林から谷の方に降りて行くと、すぐに石草洞窟に行きあたった。
ほんの両手をあわせた程度の大きさの穴から、きれいな水が静かに流れ出ている。小鬼はその水の中にはいると、なにやら底を両手でかき回していたが、やがて、白く光る石のようなものを拾い上げた。
「あ、白い茸」志染が声を上げた。
「茸ではない、願い石じゃ、今日の礼じゃ、なにかあった時に、この石に願いをするのじゃ、そうするとその願いが叶う」
それは白い茸の形をしている石であった。石英のようでもあったが、ずっと緻密な石である。
「ありがとうございます」
「志染ありがとうな」
小鬼は志染の名前をよんだ。志染はなぜ僕の名を知っているのだろうと首をひねった。
「わしらは、村人たち名前はすべておぼえておるのだ」
小鬼はすーと水の上に浮くと、流れとは逆に洞窟の中に入って行ってしまった。
年月が経った。
小鬼がくれた茸の形をした石は家の床の間に紫檀の箱に入れて置いてある。
陽司はそれを小鬼石と名付け黒檀の台座もつくってもらい、我が家の秘宝としたのである。何の石か一度調べてもらったが、よくわからなかった。
今、陽司はもういない。十年前になくなり、父も隠居の身である。
志染が神主となってはや五年となる。陽司や父親と同じように、村役場に勤める傍ら石草神社の宮司として働いている。
小鬼石をもらった時のことは、今でもまざまざと思い出される。床の間を見るたびにあのときの小鬼の顔を思い出し、不思議な思いに駆られるのである。しかし、誰にも言うなと陽司から口止めされている。父親にも言っていない。言ったにしても、誰一人として信じてくれない話である。志染自身も、大人になるにつれ、なにかの見間違えではないだろうかと、ふっと思うこともある。
ここ十数年、この村の四の井川はきれいな水をたたえ、農業用水だけではなく、村の人々の生活の拠り所となっていた。
ところが、一月前ほどから、四の井川の水が涸れ始め、大人ならまたげるほどの小さな流れになってしまった。今年は日照りの年であったためだろう。雨がずい分長い間降っていない。小鬼様に雨乞いをする儀式、水位が少し下がると、よく行なったものである。それはお祭のようなものであったが、今年は深刻である。
「宮司さんよお、なんとかしてくれよ」
村人に会うごとにそう言われる。
「石草神社ではいつもの雨乞いをきちんとやっとるんだが、今年はどうしたことか、今度の金曜日に、役場休んで、石草洞窟まで行って、雨乞い、水乞いの祝詞を奉納するで、みんなも来てくれや」
「ああ、人集めるで、お供えは何がいいかね」
「茸飯のおむすびだ」
「そんなもんがいいんか、お安い御用さ」
「石草神社に奉られている小鬼様は、茸のおむすびが好きじゃ、それに酒もな」
「そりゃあ、この村の米は天下一品だし、旨い茸が採れる。酒もいいものができる、だが、小鬼さまが好きだとなんでわかるのかねえ、志染さん」
「そりゃあ、うちの言い伝えじゃ、爺様もよく言っておった」
志染は小鬼が自分の差し出した茸のおむすびを喜んで食べたとは言わなかった。
「一軒から握り飯を一つ出させりゃ、二百個にはなるべ、みんないろいろな茸の塩づけをつくっておっから」
「そんなに要らんと思うが、まあ、心意気だな」
金曜日になると、村人がそれでも十数人集まり、わいわいと山に入った。
志染は白い茸石を持った。何かあったらこれに願いをかけるように小鬼が言っていたのを思い出したのだ。
山歩きに慣れているといっても集まったのはかなりの年の人が多く、二時間以上の歩きはかなりこたえたようだ。石草洞窟に来るのは初めての人が多い。
「遠いなあ、宮司さんはよく来るのかね」
「いや、石草神社には行くが、ここには年に一、二度くらいじゃね」
「そうだなあ、そのために石草神社があるんだからなあ」
石草洞窟につくと、洞窟からはちょろちょろと水が浸みだす程度しか出ていない。
「こりゃ、本当に水が涸れておるの、雨の降りが悪いだけじゃなさそうだのう」
村の長老の一人が言った。
「そうだなあ、やっぱり念入りに祈願しなきゃならん」
村人たちと志染はそこから少し上にある林の中に行った。昔、志染が陽司と小鬼に出会ったところである。
苔の生えた石の上に、持ってきた小さな組み立て式の社を置いた。祭壇を作ったのである。
村人たちは馬鹿正直におむすびを二百個ほども持って来ていた。
「志染さん、どこに置くべ」
「ほんとにこんなに持ってきなさったのか」
「おうよ、ほとんどの家(うち)がよこしたよ」
「それじゃ、祭壇の前に羊歯の葉っぱを敷いて、乗せてくれや」
小さな祭壇の前におむすびの山ができた。
「誰か酒を持って来とらんか」
「おーあるぞ」
村の酒屋が、村で造っている酒を二本差し出した。
「ありがたい、わしが忘れちまったんでな」
志染は酒を飲まない。それで、御神酒を忘れることがままある。
御神酒をそなえ、家宝の茸の石を布にくるんだまま、社の前に置いた。
「さて、始めるかな」
志染の声で、村人たちは社の前に集まった。
志染の祝詞が始まった。
一通りの、儀式を終えると、志染は白い茸の石を布から出した。
志染の顔色が変わった。持って出た時は真っ白だった茸石が真っ黒になっているのである。
「こ、これは、なぜだろうか」
志染はその石を押し抱いてつぶやいた。
「なにとぞ、我々の至らぬことをお教えくだされ、どのようなことでもおこないます」
そう言い終わらないうちに、林の中に、ふらふらと黒いものが飛び始めた。
志染にはそれが小鬼であることがわかった。
「蝙蝠が舞っているぞ」
村人の一人が気づいた。
一斉に村人たちはその黒い蝙蝠を見た。それは、何匹にもなり、何十匹にもなった。
「蝙蝠がどうして昼間から出て来たんだ」
「悪いことが起こるのでなければいいが」
村人がそう言っているうちに、蝙蝠が村人たちの目の前の祭壇に降りてきた。
「あ、降りて来た」
蝙蝠たちは茸のおむすびの山にむしゃぶりついた。
「蝙蝠じゃない、よく見てみなされ、あれは小鬼様だ」
志染の声で、村人たちは、おむすびを持ってほおばっている黒い生きものを見た。
「ほんとだの、鬼だ、頭に角がある」
村の人たちは驚いて声も出ない。
「小鬼様だ」
それは、何十人もの小鬼様だった。
みんなお腹が空いていたと見えて、茸のおにぎりをあっと言う間に平らげた。
食べ終わった小鬼たちは宙に浮かんだ。その中から少し小ぶりの小鬼が志染の前に進み出た。
「志染、久しぶりじゃの、あの時の茸むすびは旨かったの、今日のむすびも皆満足している」
「小鬼さま、四の井川の水が干上がっております。お助けください」
「おおよ、ほれ、見てみ、茸の石がまた、白くなっておるだろう」
志染が手にしていた茸石が白くなり、さらに透明になった。
「はい」
「川ももうすぐ、元のようになる、ところでな、ちっと相談がある、村の衆も聞いてほしい」
村人たちはかなりたまげているが、目の前のことを受け入れるほかしようがない。 「ここに我々の一族が、百人近くおる。皆のおかげで一人二つもむすびを食べることができた。これで、しばらくは安心じゃ。
四の井川の水の守りはわしがやってきた。志染の爺様の陽司も、その先代も先代もほんとうによい宮司である。この志染がまだ小さい頃、わしは志染の持っていたおむすびで助かった。もしそのとき、わしの魂がなくなっていたら、四の井川はあっという間に干上がっていたか、濁流になっていたじゃろう。われら一族がいなくなると、川は自分の好きなようになる。
近頃、人間が川を壊してなくしておる。そうすると、その川を司どっていた我々は仕事がなくなり、ふらふらと、人の世の中を彷徨(さまよ)い、悪さをするつもりではないが、人間の生活を乱すことさえある」
「小鬼様、それは、どのようなことでしょう」
「その時その時で違うが、我々の陰が大鬼に見えたり、幽霊に見えたりいろいろじゃ」小鬼はそう続けた。
「ずいぶん日本の川の小さな源流がのうなった。それであぶれた我々の一族がいろいろなところに出没する。それはわれわれも望んでいるところではない、そこでわしは、とりあえず、わしの住まいである石草洞窟に皆を集めた。実は彼らは供物しか食べることができないのだ。そこになっているアケビの実も食べることができない。人間の生活に影響を与えてはいけないのだ。くれるというものしか口にできない。神社に供えられたものはよいのじゃ。
そういうことで、石草神社に貢ぎ物をしてくれていたのはありがたいことであったが、こんなに集まってしまったことで、足りなくなってしまった。
しかし、今日、村の衆が気を利かせてくれた、たくさんの茸むすびはわしらを助けてくれた。感謝する。
もう一つ願いがある、聞いてはくれまいか」
「なんなりと」
「石草洞窟はわし一人で満員じゃ、そこで、この者たちを、それぞれの家においてほしい、月に一個の茸むすびで結構、それをくだされば、その家をみな富ませましょうぞ」
「はは、ありがたい仰せで、おい、みんな、喜べ」
志染は頭を下げた。すると、村人の一人がおずおずと言った。
「茸むすびの一つや二つお易いご用だが、おらの家は家族が十人、部屋がたった三つしかない。それを一つ差し上げることができねえ」
「いや、我々は、天井の隅でよいのだ。鼠も追い払うぞ」
「へえ、それならば大丈夫で、ありがたいことで」
「茸むすびを一つもらえればそれでよい」
「もちろんで、毎日でもお供えいたします」
「いや、それはもったいない、我々は、一月に一つも食せば多すぎるくらいじゃ、二月に一個でもいいのじゃよ」
「小さないろいろな茸のおむすびを三つお供えいたします」
「それは嬉しい、違う味のむすびが食えるのはありがたい」
石草洞窟の小鬼は志染に言った。
「石草神社にも一月に一度たのむぞ」
「もちろんでございます。おいしい茸むすびをお供えいたします、それに、もし、どこかの川がなくなり、小鬼様がこちらにいらっしゃいましたら、私ども、いつでもお迎えいたします」
「おーそれはありがたい、今日からでも参るがいいかな」
「もちろんでございます」
村人一同深々と頭を下げた。
こうして、それぞれの家に小鬼が住むことになり、住人たちはこぞって立派な神棚を用意した。そこには三種類の茸のおむすびが供えられた。
四の井川には綺麗な水があふれんばかりに流れ、鮎がよく獲れるようになった。
その後、この村の茸のおむすびが有名になり、四の井川のほとりで、小鬼祭りが行われる時には、いろいろな種類の茸むすびの屋台が並ぶようになったということである。
志染は次にはどのようなおむすびをつくって小鬼様に差し上げようか、考えるのが楽しかった。
時は過ぎ、志染も孫を持つような年になり、年に一度の石草洞窟参りも足腰の弱りでつらくなるようになった。
最近は息子の朝里(あさり)が代わりに行ってくれる。
ある晩、夜遅くに布団に入り、さて寝ようと電気を消した時である。黒いものがひょいひょいと飛んできて、枕元に降りてきた。
「志染、久しぶりだな、わしじゃ」
志染は起き上がると、布団の上にあぐらをかいた。
「小鬼様、久しぶりでございます。洞窟に詣でることができず申し訳ありません」
「いやいや、そなたには感謝しておる、朝里がよくしてくれている、しばらく会っていないのでな、来たんじゃ」
「こんなところに、おいでくださって、ありがとうございます」
「ちょっと御神酒と、茸のおむすびを持って参ります」
志染が台所から酒とお櫃(ひつ)、それに塩づけの茸を持ってきた。
志染は小鬼の前で、おむすびを作り、皿にのせた。
「すまんな」
小鬼はおむすびを喰って、注がれた酒を飲んだ。
「旨いの、志染も飲んだらいい」
「はい」
志染は自分の茶碗にも酒を注いだ。いつもは飲まないが、小鬼様の酒だ。
「そうだ、ほれ、これを入れてみよ、美味い酒になる」
小鬼が手に持っていたのは、白い茸の石である。ただ、小指の先ほどの小さいものであった。
「これは志染に与えたものの子どもじゃ、これが育つとあのような願いをかなえてくれる石になる」
「はい、ありがとうございます」
志染はその茸石を酒に入れて飲んだ。
えもいわれぬ香りに志染は圧倒された。舌の上で旨味が踊っている。この美味しさは表現できない。のどを通っていく酒がひんやりと心地よい。やがてからだの中がぽかぽかと暖まる。酒を美味しいと思ったのは生まれて始めてであった。
頭の中がすっきりと、霧が晴れたようにすがすがしい気持ちになり、楽しい思い出だけで満たされたような幸福感がただよった。
「それでは、また会おうな」
志染に石草洞窟の主である小鬼の声が聞こえた。
志染はもう一杯飲んだ。もうなにも見えなかった。おいしい、楽しい、それだけに満たされた。
明くる朝、布団の上であぐらをかいたまま息の止まった志染を、息子の朝里がみつけた。あまりにも幸せそうな顔で、初めは「なに笑ってんだ、親父」と声をかけたほどであった。享年八十八歳であった。
志染は石草洞窟にいた。
石草洞窟の小鬼が生前は志染だった小鬼に話をしていた。
「新しい川ができたんだ、そこに行ってくれないか」
「はい」と志染が返事をしている。
石草洞窟の小鬼が茸石の子供を志染に渡した。
志染小鬼は信州の山奥に沸き上がった水が新たな川となったところへと飛んで行った。いずれその山奥の水の穴は志染洞窟と呼ばれるようになるのであろう。
(「茸女譚」所収:2017年自費出版 33部 一粒書房)
茸むすび