縞と肌、機械の獣

七二六号鳥子(ななとり)

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小説家になろうに掲載していたものの、途中で先の展開の辻褄が合わなくなる点に気づき、掲載を取りやめたものです。そのうち直して書きたいなと思っているのですが……とりあえずここに置いておきます。(なろうアカウントは現在削除済みです)

 海に浮かんでいるものは、一つの大陸、十二の大島、無数の小島。

 十二の大島にはそれぞれに、十二の人族が種の王を戴き、島の王を戴いて暮らしている。
 「人」とは二本の足で歩き、ナホグの実を主食とし、言葉と操術を扱える生きもの。

 たとえば、南のウラスには、頭の両脇についた耳と禿げた顔の、陽気な申人が。
 西南のノイルには、花のような鬣の男と働き者の女の、獅子人が。
 北のアロトーには、美しい縞模様に、見上げるような巨躯の、寅人が。
 というふうに。

 ノイルの獅子、イシュの丑、アロトーの寅、イガスの卯、ウスタットの辰、カエンスの巳、アムの午、ペーシュの未、ウラスの申、イロットの酉、ゴードの戌、シショニの亥……。

 そしてもう一つ、人とは呼ぶにはあまりに奇妙な「人間」が、各地に散らばって住んでいた。
 彼らは種の王を頂かず、土地も持たず、操術も使えず、何にも似ていない。

 彼らは「人」には、数えられない。
 人間は人間。人は人。

 果てない大陸には長く人が住み着かなかったが、その発端を開いたのは人間だった。
 彼らは自分の体以外のものを動かすことは出来ないが、彼らの作った鉄の機械は、獣のはびこる大陸に切り込み、人と人間が暮らす、陸の島を作る。

 だがある者はくりかえす。人は人。人間は人間。
 言葉が操り、二本の足で歩こうとも、本質は獣とかわらない。
 だって彼らは、自分の体しか動かせない。
 魂の力が小さいのだから。

01

『オリーニイドウキマル』
 彼は通信局で電報を打った。大陸の都市オリーに移動が決まった、と。実家に寄れないのはいつものことなので、とくに添えなかった。
 実際、出発は明日である。もうちょっと早めに知らせて頂きたいが、小回りの良さが選ばれた理由の一つでもあるようなので、仕方ない。

 通信局を出ると、車屋台でソカットを買って、公園のベンチに座った。薄パンのすみを軽く握って、溢れるほどはさまった野菜とソースを落ち着かせる。

『被害止まず! オリーの殺人機械――犯人は人間か?』

 置きっぱなしになっている新聞の見出しを見ながら、少し遅めの昼食をほおばる。

『事件に使われた機械は人間の工場街で作られたと見られている。問題は協力者が誰かということであるが、今年に入ってオリーでは行方不明事件が数件起きており、関連の解明が待たれる。操作板の解析が進めば容易に身元がわれるとみられ』

 彼は折り畳まれて隠れた誌名を確認する――ああ、いつもこの調子だ。
 彼は視線を前へと戻し、咀嚼に集中した。

 どうも仕事柄、人間が目についてしまう。とくに女の子は。
 七つくらいの、人間の女の子が一人、ボールを拾っている。かけ戻った先は、彼女より幼い寅人とらびとの男の子。桃色のボールを受け取るたびに遠くへ投げるのを、彼女はいちいち拾っては、彼の元に届けていた。
 仏頂面でボールを投げつづける少年に、彼女はよく笑いかけ、話しかける。

 丸い耳をぴんと立て、まん丸の黄色い目をした少年は、おしりを地面につけたまま、太めの手をめいっぱい伸ばしてボールを投げる。明るい黄色の色彩と、寅人の証ともいえる黒い縞模様が、額から背中を彩っていた。
 少女は、銅のように光る茶色い頭髪を、後ろで一つに結っている。桃色のワンピースの袖や裾から覗く肌は、砂漠の砂のような色だった。そこに体毛が見当たらないのも、結ってもなお背中に流れるほどの頭髪が長く伸びるのも、彼女達の種族の特徴だ。

 ボールに夢中のおちびさんを見れば、その男も、しぜん自分の小さい頃を思い出す。体毛こそ暗がりの雪のような灰色で、目も薄い空色をしていたが、小さい時はちょっと太り気味だった。
 彼女のような友達もいた。

 ボールがベンチの傍へと転がってきたのは、石にひっかかって思いがけず跳ねたからだった。
 人間の少女は今までと同じようにかけてくると、ボールを拾った。それから、くしゃくしゃに丸めたソコットの包み紙を持っている寅人の男に声をかける。

「おじさん、ソースついてる」

 そういって自分の右頬をつつく少女に従って、彼も自らの白い頬毛を拭う。
 すこしべとついた黒い指は、日の光に当たっててかりと光った。

「ありがとう。ソコットはソースが零れて仕方ないんだが、好きなんだ」
「……おいしかった?」

 女の子は笑い、体をゆすりながら、そう訊ねた。見覚えのある仕草に、つい微笑んでしまう。

「ああ。……子守りかな?」

 包み紙で指を拭いながら、ボールの主を視線で示す。うしろで一つに結われていた彼女の髪が、振り返った勢いで跳ねた。

「ううん、ともだち。よく会うの」

 大抵そう言うのだ、よく『教育』された奴隷は……その可能性をまっさきに思いついてしまうのは、職業柄とはいえ、忌々しいと思うこともある。
 だが、この母国アロトーが、人間奴隷の無条件解放を決めたのは、ほんの七年前なのだ。
 アロトー本土に人間が多いのは、寛容や共存の結果ではない。たとえ我々の間の友情や思いやりが、絶えていたわけではなかったとしても。

「そうか。仲が良くていいな」
「おじさん友達いないの?」

 笑ってしまった。

「大丈夫。彼女はいないがね」

 子供達は、さきほどの遊びに戻る。
 少しして時計に気がついた彼女は、友人にキスし、何度も何度もそのシマシマの頭を撫でてから、大通りの向こうへと帰っていった。
 少年は友人の背中が見えなくなるまで手を振った。
 それからちょっと太めの体をゆすって、ボールにじゃれたり、投げたりしていたが、すぐに飽きてしまったらしい。自宅らしき、公園脇のアパートの階段を、壁に手をつきながら一段一段のぼっていく。

 男はその間、置き去りにされた新聞を読み続けていた。


『はじめの事件はオリー市内の三番門付近で起きた。
 工場帰りの工員が襲われ、卯人の男三人が殺された。遺体は四股を切り離され周囲に散乱し、一部は持ち去られていた。凄惨な現場に、警察や警備隊の者も顔を顰めたという。

 薄暗い夕刻であったのと、犯行が比較的短時間だった為、目撃者はいなかった。現場の近所に住んでいたある人は、短い叫び声を聞いただけで、すぐに静かになってしまったという。切断面から、凶器が鋭利な刃物であることはわかっているが、他に物証はなかった。
 この門は十年前に甲獣が襲った際に破損して以来、開かずの門となっているため、当初は街に入り込んだ甲獣の仕業ではないかとされたが、門に破損はなかった。

 次に事件が起きたのは夜の繁華街だった。飲食店の店員四名が襲われ、三名は死亡、一名が重症。死亡した一名は首を持ち去られており、生還した一名も左手を切り取られて持ち去られた。閉店後、片付けをしているときのことだった。生存した一名もショック状態であり、有益な証言が得られないまま、感染症で二週間後に死亡した。

 次の事件は白昼堂々行なわれた。現場は、比較的高価な住宅が並ぶ五番街。一名が内臓を抜かれて死亡、三名が体の一部を切り取られたが、生還した。今回は目撃者が多数いたが、その内容は奇妙なものだった。
 犯人は裏道から飛び出てきた『機械の犬獣』だった、というのである。

 警察・警備隊は当初半信半疑だったが、その後、警備隊自身が襲われることで、その疑念は払拭されることになった――』


 さて、準備をしなければならない。
 午後ののどかな日を受けながら、オリー警察警備隊の予備隊員として呼ばれたスヴァー・シルギットは、立ち上がった。
 もともと物持ちなほうではない。小さな鞄に日用品を詰め込み、使い込んだ戦鎚を布に包むだけ。

02

 船に乗ってからが散々だった。
 陸地に勤務の多かったスヴァー・シルギットだが、船に乗ったことがないわけではなかった。
 なかったが、ペーシュ東海の荒波は、雪国の山育ちである彼の内臓と五感を容赦なくかき回した。それは上陸後にいたっても、頑丈で鳴らした銀毛の武人を発熱させ、三日間寝台に叩き込むくらいの力は持っていたのである。

 熱が出た翌日の朝に『コウネツニテシュッタツノサイレンラクス』と電報を打ってもらい、その次の日、そのまた次の日と寝込んだ。
 そして今日の朝。
 戸が叩かれたので出てみたら、外に寅人の女が立っていた。

「あんたがスヴァル・シグリット? よろしく、ドーア・ウアミラよ」

 彼より頭一つ小さな女は、紺の制服から覗く、赤毛の手を差し出した。
 なんだかよくわからなかったが、汗ばんだ手を寝間着でぬぐい、「よろしく」といって握手をした。
 女の返答は「もう良さそうね」だった。
 ――なにが?

「新人隊員スヴァル・シグリットは、二十日夕刻本部の集合に間に合うように、ルオロックを出立せよ」

 寝起きの頭で現状を把握しかね、寝間着の前をかきあわせてぼんやりしている大男に、彼女はそういった。

「隊長命令を伝えにきた副隊長に逆らう案はないわよ」

 さて、そういうわけで、まだ微熱があったスヴァー・シルギット新隊員でだが、副隊長直々のお迎えとあっては、列車に詰め込まれないわけにはいかなかった。
 いろいろ余裕がなくて日程など確認してこなかったため、目的の都市オリーが、この港湾都市ルオロックから機車で丸一日かかる内陸だということも、当の機車に乗り込んでから聞く始末だ。
 向かい合わせになった長椅子が、ずらりと並ぶ客車内。スヴァーの向かいに座っているのが情報源で上司だ。さっきからずっと喋っている。

「白い毛皮って初めて見たわ。わたしずっとこっちだからさ、寅人自体多くないし、いても南の連中が多いのよ」
「白じゃない……」
「ああ、灰色? どっちでもいいじゃないのさ。だいたいで」

 彼女の赤みの強い毛皮と、比較的小柄な体つきは、たしかにアロトー南部の血だった。ぴりっとした黒の縞模様と、強い色彩の黄色い瞳は、その張りのある声によく似合っている。頭痛にもよく響いている。

「スヴァル・シグリットは細かいことを気にするタイプ、と」
「……スヴァー・シルギット」
「あーらごめんなさい。あたしの名前を言って見なさいよ」
「ドーア、ラ……ラー……」

 ラーミラ?
 そう言いかけた北部アロトー人の目の前に、銀の六角形メダルが差し出される。複雑な回路文様に囲まれた中心にある名前を、より目がちになって読み上げた。

「オリー市警警備隊所属、一等操戦士、ドーア・ウアミラ」
「繰り返して」
「ドーア・ウアミラ……覚えました」
「よろしい、スヴァー・ギルギット」
「シルギット……」
「向こうについたらあんたもこれ貰えるから、そしたら私に突きつければいいのよ」

 ウアミラはメダルの表面に息をふきかけると、手を離した。
 銀の隊証は浮き上がり、肩にぶらさげたちょっときつめの隊証入れに、その身を揺らしながら潜り込む。「ただ、今年のはすぐ埃が干渉するからイヤなのよね」

 窓の外を小さな車のついた荷台が通っていく。

「おのみものに、軽食ーっ、おのみものに、軽食ーっ」

 そう叫ぶ売り子を呼び止めて、スヴァーはお茶を買った。窓から手を出して、お金と、陶器の小さな水筒をやりとりする。
 彼の用を済ませるあいだに、服に油染みをつけた卯人うびとの男が数人やってきて、売り子に軽食の中身を訊ねる。売り子の申人さるびとは振り返って、愛想良く説明をはじめる。
 おそらく機車の作業員だろう。注意を引かれる度にぴんぴんと動く耳の先にも、機械の汚れがついていた。
 スヴァーは機車は初めてだった――酔わなければいいのだが。

「新聞ある?」
「失礼、ウアミラ副隊長……寝ていても?」
「どうぞ。なんでも……ああ、それでいいわ。はい、どうも」

 向かいに座ったウアミラは手を伸ばして新聞を受け取り、ぱりぱりと音を立てて開いた。一面は、巳島カエンスを襲った大嵐、裏面は求人だ。大陸市民新聞。
 スヴァーは、堅い寝台にもたれて目をつむり、発車の汽笛をまつ。
 ふと、出発前に見た記事が気になった。

「オリーの事件はどうなりました? あの」
「機械の獣?」

 頷いたが、しばらく答えは返らなかった。

「わたしは同僚が気に入らないわね。やり方が」

 ウアミラは新聞に目を落としたまま、深くため息をついた。
 ――予想はしていたが、やはりそちらへの配属なのだろう。
 体の横に立て掛けた戦鎚の包みを肩で押して言った。

「……戦鎚は、金床を打つものではないのですが」
「悪いわね。剣じゃ歯が立たないのよ」

 大陸市民新聞は、今日も事件を報じていた。


『結成されたばかりの特別捜査隊は、工場街の工房数カ所を営業停止にした、と発表した。一時的な措置であり、関係者に協力を求める。

 猟奇殺人鬼ならぬ殺人機事件について警察は、高度な技術が使われていることから、人間の工房が関わっていることは明白であるとしている。市外の工房の可能性もあるが、被害が今のところオリー市内に限られていることから、市内の工房の強制捜査に踏み切る。

 強制捜査に賛同した議員の一人はこう述べている。
「人間の工房を閉鎖したことは、被害者が人間以外、つまり人族に限られているという点から見て、人間が関わっているという可能性が、当然でてくるわけです。これだけ残忍な事件が、これだけ長期にわたって解決されていない。工場街には再三捜査協力をもとめてきましたが、大きな協力を得られない。もっとも重要なのは市民の安全であり、この非常事態には必要な措置だと考えています」

 警察や議会は、これが一時的な措置であることを強調しているが、一部の人間団体や、技術者組合はこれに強く反発しており――』


 ドーア・ウアミラは友人の顔を思い出し、再度、ため息をついた。

03

 揺れる箱の中の、堅い椅子が宿。
 正直どうなることかと思ったが、しらじら明けてきた空を見ているスヴァーの気分は悪くなかった。食事をとる気になれずにお茶ばかり飲んでいたせいで胃はからっぽだったが、頭も軽い。
 ウアミラは上着を着込んだ上に読んでいた新聞をかぶせ、軽いいびきをたてながら眠っていた。
 寝台車がとれなかったのは、彼女がぎりぎりまで切符を買わなかったからではないかと軽く不満だったのだが、こうなってしまうと、案外堅い椅子が良かったのかも、なんて気になるから、現金なものだ。
 だるさはまだ少し残っていたが、もともと丈夫な方だ。この分なら、しっかり食べてゆっくり眠れば、一日で回復出来るに違いない。

 窓の外に見えていた半島北の海は、夜の間に草原に変わっていた。
 のびのびした草と木々は土の柔らかさを感じさせ、のどかで、民家がないのが不自然にさえ思える。ルオロックの周りには、あれだけの耕作地が広がっていたというのに。
 理由はわかっている。大陸の奥へと切り込んだ証拠だ。つまり、獣が多すぎるのだ。そもそも、ここは獣の土地なのだから。
 島の生き物である我々に、大陸は優しくはない。戦争をするように、ひとつひとつ攻略された土地――陸に作られたかりそめの島が、都市だった。

 彼は、窓から顔を出して、進行方向を振りむく。
 黒い石材で組まれた壁は高く、規則正しく平坦で、それゆえに威圧的にそびえていた。その向こうに、繊細な細工の尖塔が幾本も突き出ている。立ち上る生活の煙。城壁の上から外を見渡す、小さな人影。
 人と物資をつめこんだ列車が、真っ赤に塗られた鉄のゲートをくぐると、黒い壁の一角が左右に割れて、線路に道を開ける。
 その口の横にある建物の窓を認識したときには、もう街の片方の端が見渡せないほどだった。
 人の住めない大陸に、最も深く食い込んだ城塞都市オリーは、辺境ではない。豊富な資源を元手に各地から職人を呼び込み、拡張に拡張を重ねた、巨大な技術都市だ。
 ――大変な仕事になりそうだ。

 門を入った左右には鉄の足場が組まれ、武器を持った憲兵が立っていた。
 電車のなかに暗い影が入る。長い車両がすべて入ってしまうこの駅自体が、高い壁に囲まれていた。
 獣が走る速度から、人が歩く速度へと、ゆっくりと落ちていく速度。ブレーキがかかり、ゆっくりと車輪が止まる。

「終点、オリー!」駅員が叫んだ。

 スヴァーも負けじと、座席一つ占領して寝ている上司に声をかけたが、効果がない。
 新聞がほとんど口のあたりにまでかかっていたので、どこを叩いて起こせば失礼に当たらないのか解らず、これはこれで失礼かとは思ったが、頭を軽く小突くことにした。

 彼女は眠りの世界から帰還するなり、半目で叫んだ。「オリーは終点よ!」

「……だから降りましょうと申し上げているのですが」

 ウアミラは新聞をはねのけて窓の外を確認すると、大きく伸びをして、席を立った。「思ったより速かったわね!」
 オリーでは新聞は読み捨てていくものなのかもしれないが、スヴァーの道徳観念には反するので、軽くまとめて後を追う。

「ドーア!」

 目が日の光を受けるなり、駅に高い声が響いた。
 彼の名前はドーアではなかったが、目を向けた。
 黒茶の髪を輝かせながら走ってきたのは、人間の女の子だった。小柄だが、しっかりした足取り。白い肌と桜色の頬のうつろいが、真珠みたいに見えた。
 ――綺麗な娘だ。
 目の前にあった赤い頭が、左に避けた……と思ったとたん胸に軽い衝撃があった。
 見下ろすと、黒茶のつむじ。つむじの主は、小さな手を彼の胸に置き、前のめりになった自分の体を立て直す。
 思わず腰がひけた。

「……あら、ごめんなさい」

 見開かれた灰色の瞳のなかで、灰色の寅人がとぼけた顔をしている。
 彼女は、自分が追突した寅人の胸を軽くはたくと、もう一度謝罪した。

「ごめんなさいね、標的はあなたじゃなかったんだけど、とまらなくて。……ドーア、ひどいわ」

 彼女が振り向いた先には、さっきまで寝こけていた副隊長がいた。
 ドーア・ウアミラは呆れたように顔をしかめてみせると、ついでに軽く舌を出す。

「毎回毎回毎回やめろって言ってんじゃないのさ」
「いいじゃないの、友達なんだから」
「あんたのもふもふ心底しつこいのよ。公衆の面前で抱きつかないで」
「密室でやるほうが怪しいじゃない」
「……そうじゃなくてさあ」
「あの、お知り合いで?」

 おずおずとそう訊ねたスヴァーに「友達よ」とはじけるように答えたのは、人間の少女のほうだった。
 彼の上司も頷く。その諦めたような、ふざけているような表情が、二人の友情の形をあらわしている……のかもしれない。
 少女は面白そうにドーアを見る。

「ドーア、紹介してよ。彼氏?」
「仕事よ。制服でデートはしない」
「そうだった? でも……そうね、過去はまぼろしっていうものね」
「案外元気じゃない? 心配して損した」

 ウアミラの言葉に彼女はちょっときょとんとしたが、すぐにスヴァーの左手で丸まっている新聞に気がついた。

「ああ、読んだの」

 彼女は「ちょっと貸してもらえる?」といって、スヴァーから新聞を受け取ると、くちゃくちゃのページを何枚かめくって片手でまとめ、記事のひとつを指差した。

「名前、出ちゃったの。大変よ」
「見たわよ」

 彼女が指差した先には『アーチム工房』という名前があった。その文字の前の行を辿ると『営業停止措置』の文字。
 さらにその前を追うと、あの殺人事件の記事だということがわかる。『猟奇殺人鬼ならぬ殺人機事件について警察は、高度な技術が使われていることから、人間の工房が関わっていることは明白であるとしている。』

「うちはだいたい師匠が気難し屋だから、苦労してるのに」

 少女はしみじみとため息をつくと、新聞を畳みながら友人に話しかけた。

「ああ、それでね、ちょっと相談があるんだけど」

 新聞はへんな折り癖がついてしまっていたので、目を離しながらの作業は、たんに手の中でばりばりやっている、という以上にはなっていなかった。
 ウアミラは騒々しい紙の音を聞きながら、怒っているような、弱っているような顔をした。

「あたしじゃどうにも出来ないのよ」
「それはいいの、無実なんだからすぐ何とかなるわ。相談って言うのは、今日のお昼ご飯について」
「……あんたまさか」

 彼女は片手を挙げた。挙げた手から、手首だけだらんと下に向けて振る。なんにも出てこない、というポーズ。

「お財布が必要ない身分になったわ」

 ドーア・ウアミラの友人ティムーは、無一文だった。

04

 飴色に光る机の奥に、黒い耳のぴんと立った、戌人(いぬびと)の男が座っていた。灰色の寅人が狭い扉をくぐりぬけると、読んでいた書類を置いて立ち上がる。

「第六特別捜査隊付属警備隊へようこそ。隊長のオロセット・シブナーだ」

 長い足をさっさと動かして本の山を跨ぐと、いかにも戌人らしい、やや細みの手を差し出した。スヴァーも、がっしりした幅広の手を差し出す。

「スヴァー・シルギットです。到着が遅れて申し訳ありません」
「到着おめでとう。君の仕事は明日からだが、いくつか聞きたいことがある。つったってないでかけたまえと言いたいところだが、つったっていてくれたまえ。今朝、足が折れたのでね」

 その狭い部屋に置いてある一つきりの客人用の椅子は、たしかに左手に傾いていた。ついでに言えば、座面の綿が飛び出ており、膝の裏が当たるところの表布はすりきれて所々糸くずになっていたので、斜めになっていなくても座らなかったかもしれない。
 そのような有様であるにも関わらず、この椅子が部屋の真ん中に陣取ったままなのはおそらく、大量の本や書類達が、本来しずかに収まっているべき本棚を飛び出し、床を侵食しつつ高みを目指しているためと思われた。
 やつらは成長を続けたうえ、カラの本棚の前に本の層を形成しようとしているようだったので、体の大きいスヴァーは少し緊張した。

「君のことは大体届いている。が、いくつか聞きたいこともあってね。細かいやつだと不快かもしれないが……」
「構いません。当然のことかと」

 部屋の主は、部屋の惨状に似合わぬ優雅さで机の奥へと戻り、立ったまま書類を順にめくっていたが、目的の一枚引き抜いて皺を伸ばした。

「ありがとう。正直に言うと、君の上司は達筆でね、印字に慣れた大陸人にはつらいものがある」

 厚手の上質紙に書かれた直筆の推薦状には、茶色いインクで大振りの字が書かれていたが、その書き手については、ちょっと思い当たらない。
 新しい上司は、しばらくその文面を眺めていたが、切り出した。

「戦士の位をとったのは、奴隷商の取り締まりしていた後だろうか?」
「いえ、その前です。十六で取り、北部警備隊に三年おりました。二等に上がったのをきっかけに異動に」
「任務内容は?」
「現場捜査員です」
「戦闘要員ではなく?」
「奴隷商といっても繋がりが広く、通常の捜査にも危険が伴うという判断でした」
「それを何年?」
「二年ほど。その後、北部警備隊に戻り、獣の討伐任務を二年。次の現場がこちらです」
「ありがとう。良い人材を獲得出来たようだ」

 シブナーは満足げに頷いた。それから書類を机の上に放ると、手を後ろに組んで話しはじめた。

「我が第六特別捜査隊付属警備隊は、ある事件の捜査のために結成された。非常に残虐で、恐ろしい事件だ……私にとって最も恐ろしいことの一つは、この隊の結成が先月という事実だがね。事件については、話題になっていると思うが」
「殺人機事件ですか」
「呼び名は色々あるようだ。老若男女問わず、市民が切り刻まれて遺体の一部を持ち去られている。目撃証言によると、やったのは機械だったという、あれだ。
 私も実地で見ている。動きから見て、操作用の譜板が使われているのは確実だ。誰が操っているのか調べる為には物証が必要だが、何しろ、非常に危険な物証でね。今のところ一機も確保できていない。
 したがって、我々の仕事は、殺人機械を破壊し、物証を確保し、事件を解決に導くことだ。捜査と戦闘、両方の経験があり、口が堅い人物……と、要望して送られてきたのが君だ。
 最後に、遅れた理由を聞きたいのだが」

 目の前の戌人の、口角が少々おもしろそうに上がっているように見えたが、さっきから続いている芝居がかった所作や話し方を見るに、なんとも判断出来ない。
 単なる事実確認であると信じ、スヴァーは背筋を伸ばした。

「こちらへは船舶で。アロタハーからポラッグ経由でルオロックへ向かう便でしたが、ペーシュ東海の風と波が強く……酷い船酔いに」
「で?」
「その日の最終列車に乗れず宿を取りましたが、夜から発熱があったため、翌日も切符はとらず、宿の者に電報を頼みました。二日ほど寝込んだところに、ウアミラ副隊長のお迎えが」
「なるほど」

 どう考えても面白そうな顔をしていた隊長は再び頷くと、扉の方を見た。

「ではメンバーを紹介しよう。……ウアミラ、エナック!」

 すぐに扉が開き、赤毛の寅人、ドーア・ウアミラが背筋を伸ばして入場した。狭い室内なので、スヴァーはそっと足を持ち上げ、背中にも気を配りながら場所をつめる。

「お呼びですか」
「エルサート・エナックも呼んでいるのだが?」
「表で女の子をからかってます」
「呼べ」

 ドーアはきびすを返した。
 スヴァーは間違っても、疑心暗鬼になって『気配』に脅えるようなタイプではないが、扉が開け閉めされる度に、背中のあたりで何かが動くのをたしかに感じた。
 次に戻ってきたドーアが片手にぶら下げていたのは、シブナーより頭一つ小さな、金毛の戌人だった。
 敬礼と共に、若々しい青年の声が響く。

「エルサート・エナック、参上いたしました!」

 そう言うと、彼は敬礼の格好のまま、真っ黒の目だけ動かして、その大きな新人を見た。
 まん丸の目、丸みのある口、根元近くで折れた耳の先も丸い。柔らかい金毛に覆われた、いかにも人好きのする顔で、口を思い切り引き上げて笑うものだから、顔まで妙に丸く見えた。
 同じ戌人でありながら、容貌が与える印象は正反対といっていい隊長は――つまり、黒く短い毛皮に、ブナの葉をさらに半分に千切ったようなカーブを描く目、細くぴんと立った耳、細い口元――の隊長は、細いが筋肉質な手で自分を指し、続いて二人の部下を示した。

「私が隊長のシブナー、副隊長ドーア・ウアミラ、バカのエルサート・エナックだ。今後、私があのバカ、と言うことがあればエナックのことだと思ってくれていい」
「……隊長、ひどいっす」
「諸君、新しい隊員、船酔いのスヴァー・シルギットだ」

 やれやれ、あんたも苦労するわね、と目で語るのはウアミラ。面白そうな顔を隠しもしなかったのはエナック。仲良くなれそうなメンバーだった。

「女の子は無事ひっかけたのか?」
 隊長のふいの一言を、エナックはすぐには理解しかねたようだが、瞬きを二三度するとその意味をつかんだらしく、口をとんがらせた。

「俺は隊長と違ってロマンチストっすから! 人間に欲情する変態でもないっすから! 相談に乗ってたんですって、ほらあの、なんとか工房の、なんとかに!」

 内容を補完したのはウアミラだ。「あたしの友達です。アーチム工房の」

 そして次に眉をしかめ、口をとんがらせたのも彼女だった。内容を予期したのか、シブナーは話す前から肩をすくめてみせる。

「てか隊長、あの話どうなってるんです?」
「工房、友達……とくれば、営業停止措置について私に文句を言うつもりかな?」
「証拠なんか何にも上がってないじゃないですか! ここ二日で捜査に新展開でもあったんですか?」
「私はいつも通り仕事をしていたよ。だが、ドブ攫いのおっさんより、社交界のお嬢様がもてはやされるのは自然の摂理だ。ウェールに言わんとどうしようもない」

 眉をよせ、机を軽く小突いた彼の落胆は、真実のようだった。

「君から友人に説明してくれ。時間のムダだ、極めて時間のムダ」
「昼食をおごる約束なんですよ」
「ウアミラ。休日は、まだ君の元を訪れていない」
「隊長、私がおごる約束で」

 そう言ったスヴァーを、ウアミラが見た。どういうつもりか、という意志が目から伝わってきたが、あとで話すから今は流せ、の意味を込め、目をそらした。
 隊長の視線に大してもまた、私事ですから話すほどのこともないと思いますが、という意味を込めて視線を合わせない。

「そうか。私は、食えない魚に餌はやらない主義だが、たしかに、君の仕事は明日からだ」

 隊長はきわめてどうでもよさそうに続けた。

「とにかく、これが我が警備隊の全メンバーだ。当初は班の予定だったが、班じゃ無理だ、隊にしてくれと言ったところ、隊にしてくださった。名前だけ。
 つまり私は舐められている。つまり出世の見込みがない。つまり余計なごますりは不要」

 視界の右端で、改めてようこそ、というように腕を広げるオロセット・シブナー。左端で、まん丸の目をきらきらさせるエルサート・エナック。無言の中央、ドーア・ウアミラ。

「君の仕事ぶりに期待しているよ。よろしく」
「よろしく! 隊長は、騙した女の子に泣きつかれてる場面に出くわさなければ、尊敬出来る上司っすよ」

 今日の彼らの言葉のなかには、少々スヴァーの心をえぐる一言が含まれていたが、煙を払うように、さっさと気持ちを切り替える。
 自分がどうかしているのはよく解っている、というか、みんな自分のようだったら人族は滅亡してしまうのだから、いいのだ。

 とにかく、今は食事だ。
 挨拶を終えたスヴァーは、どこか軽やかな足取りで、扉をくぐった。

05

 君の友人は仕事が入っているようなので、自分が代わりに奢る、と提案したところ、無一文の少女ティムーは非常に驚き、初対面の人にたかれないわ、といって固辞した。
 その一言に友人ウアミラは何だか納得いかないような顔をしていたが、結局『食事を奢る代わりに道案内をする』ということで決着した。

「本当に部屋に荷物を置いてからじゃなくて良かったの?」
「こっちも昨日からまともに食べてないんでね。このままだとあんまり歩けそうにない」
「……あなたのお腹は無口でいいわね」

 スヴァーは笑いながら水に口をつけた。
 さっきの提案も、彼女のほうは『それほど詳しくない』と渋ったのだが、お腹の虫のほうが催促してきたのだった。

「女性は賑やかな方がいいじゃないか」
「好き好きじゃない?」

 丁度お昼を少し過ぎた頃で、店は繁盛していた。開けっ放しの大きな扉からは日の光とともに、腹を空かせた通行人が顔を覗かせ、開いた席を見つければ入ってくる。

「今日は特に混んでるわ」

 賑やかな様子に目を取られていたスヴァーに、彼女はどこか申し訳なさそうに言った。別に不快で見ていたわけではない。

「賑やかなのは好きだよ」
「そう? 私のお腹ももう一回くらい鳴ってくれそうだけど」

 彼女は厨房のほうを振り返る。二人いる給仕はてんてこまいだったが、その盆にはまだ、彼らの頼んだ品は乗っていない。
 スヴァーは飽きもせずソカット二つとお茶を頼み、ティムーはだいぶ迷った末、ラーシーと薄パンのセットにした。

「ここはすごく美味しいんだけど、ちょっと混むとすぐ待たされるのよね」
「よく来るのか?」
「いつもはもっと安いお店かな。でもときどき来るわ、美味しいから」

 店に並ぶ男や女たちの様子はさまざまで、染みのない乳白色のシャツをほのぼのと着込んだ女もいれば、鮮やかな紺の上着をぴしっと着ている男もいたし、ずいぶん擦り切れた頼りないズボンをはいているものもいた。
 手を動かして働くものたちの、気取らなくて人なつこそうな、でもちょっとシャイそうな雰囲気は、異国の客にも心地良い。
 目の前の、綺麗なえんじ色のスカートをはいた娘もまた、身なりも雰囲気も、この場所にとてもふさわしく見えた。
 値段も高くはない。というか、擦り切れたズボンの工員でさえ、毎日来ている、という風情なのだが……。
 そんなにお給金が少ないのだろうか。

 額に軽くしわをよせ、まん丸の目で神妙に見つめてくる寅人を、彼女も不思議に思ったらしい。「なにか心配ごと?」と尋ねる。

 間違いなく失礼な質問だと言うことは、スヴァーもわかっていたので躊躇い、テーブルの木目を見た。
 だが、とっさに言い繕えなかった時点で負けだと判断した。

「大変失礼だとは思うのだが……無一文になった経緯を聞いても?」

 ティムーは目を見開き……それから、吹き出した。

「昔、その……取り締まりをしていたもので、気になって。恥ずかしい話だが、俺の郷では、人間奴隷の開放が、たった七年前でね。表向きは違法になったのだが、ほとんど給与を払ってないとか、休みがないだとか、まだあるんだよ。だから……」

 気まずそうにいいわけをする男に、彼女は笑顔のまま首を振ってみせた。

「十分もらってるから大丈夫。ただ私、借金持ちなのよ。取り立て屋が働き者だから、ちょっとお給料日が遅れると食いっぱぐれちゃって……今回は勤めてるところがあんなことになっちゃったでしょ? だから早めに貯金を押さえに来たみたい……」

 話している途中に、やっと注文していたものがやってきた。給仕の女は、料理が合っているか客に軽く確認すると、小さな盆にぎっしり乗った皿を素早く置いて去っていく。
 ものは合っていたのだが、置く場所が逆だった。ティムーは目の前のソカットの皿を本来の持ち主の前へと持っていき、彼の差し出す皿をもう片方の手で受け取る。
 その左手に、ベージュの手袋がはめてあることに、スヴァーはそのとき気がついた。

「オリーへも、そのお仕事で来たの?」
「何の?」
「取り締まり」
「いや、こっちへは……違う件だ」
「機械の事件?」

 スヴァーは頷いた。
 ティムーは手首を押さえに使って、右手だけで器用にパンをちぎる。スープにつけようとした手前で手を止め、彼の目を見た。

「私の勤めていた工房ね、一時的に閉鎖されちゃったのよ。工房主も今取り調べ中で、いつ帰ってくるのか聞いたんだけど、わからないって」

 何ともいえなかった。ただ、そうか、とだけ答える。

「でもね、師匠は無実だから、すぐ帰ってくるわ。うちの工房は頼まれればいろいろ作るんだけど、私がうちの仕事で一番好きなのはね」

 彼女はちぎったパンを皿に戻すと、左手にはめたままだった手袋を外した。
 綺麗な白い手だった。ただ、中指と薬指の先だけ黒い。
 と思ったのだ。彼女がその五本の指を、順に動かしてテーブルを叩いたとき気づいた。
 鉄の指だ。

「すごいでしょ?」

 思わず目を近づけたスヴァーの視線の先で、五本の指はもう一度、楽しげに跳ねた。

 それが、彼女が恩人の無実を疑わない証拠であり、警察がアーチム工房を真っ先に疑った理由だった。

06

 結局その日、街の案内はしてもらわなかった。
 彼女の鉄の指にいたく感心した(そして心配した)スヴァーが、その仕事について訊ねると、就職したきっかけから何故か子ども時代の話になり、スヴァーも故郷の話なんか始めてしまい、話が止まらなくなってしまったのだ。
 いつまでも繁盛している食堂に居座っているわけにもいかないので、喫茶店に場所を移し、夕方まであれこれ喋っていた。
 彼女が案内してくれたのは一カ所。彼の新しい自宅だった。

「それじゃ、しっかり寝てね。ごちそうさまでした」
「楽しかったよ、ありがとう」

 こちらこそ、と言うと、彼女は手を振りながら元来た道を歩き出した。スヴァーも相手が見えなくなるまで手を振る。彼女は前を向いたまま手だけ振っていたのだが、角を曲がるときにちらっと振り返って笑ってくれた。

「予定が空いたら連絡してね! 案内するから!」

 まだ辺りは明るかったが、光の色はずいぶん赤みを帯びていた。
 連絡用に住所を預かり、ぜひとも自宅まで送っていきたかったのだが、彼女は病み上がりの男につれなかった。
 正直もうすこし喋っていたかったのだが、病み上がりだとバレてすぐ席を立たされ、早く帰って寝るように、と命令されてしまった。

 寮がいっぱいだとかで向こうで用意してくれたアパートは、どっしりとした明るい色の石造りで、屋根は鮮やかな青に塗られていた。通りは大きく、綺麗だった。
 戸をくぐって管理人に挨拶すると、部屋に案内される。とくとくと床板が踏まれる音と共に、彼女の言葉が頭に響いていた。

 ――うちは、曾お婆ちゃんの代から奴隷よ。

 息がつまった。


 ティムーが故郷を出たのは、十四のときだったそうだ。機械の勉強をしたくて、卯島(うしま)イガスへと向かった。そのときに、母の主人にお金を借りたのだという。

 五歳まで奴隷の身分だった。五歳になったときに、丑島(うしじま)イシュでは、十歳以下の子どもの奴隷解放と、奴隷の生んだ子どもの所有権をその主人に認めない法律が施行された。
 市民権を得られた彼女は、それなりではあるものの、一応それなりの教育を受けた。機械について学び始めたのは母に勧められたからで、それは人間が高い収入を得るための、ほとんど唯一といっていい選択肢だったからだ。

 最初はいやいやだったのだが、歯車を木切れで作って遊んでるうちに面白くなってしまった。卯島では人間も高等教育を受けることが出来ると知り、屋敷の主人に思い切って掛け合ったのだそうだ。
 倍にして返すからお金を貸してくれ。
 母の持ち主でもあった丑人の老人は聞く耳を持ってくれなかったが、その話を聞いた息子夫婦がこっそり貸してくれた。

 ――いま機械技術はどこでも重要になってるんだ。しっかり勉強して、どんな形でもいいから、丑島に技術を持ち帰ってくれると嬉しい。

 そして彼女は船をとった。治安が心配だったので、そこそこの船に乗ることにした。乗っている期間も長かったのでお値段もしたのだが、その頃はお金を持たせてもらったことがなく、あまりすごい金額だという感覚もなかったという。
 丑島を出て、申島、戌島と越えて、卯島へ。ちなみに金の力で海流をあやつることは難しく、ティムーも船酔いに苦しんだそうだ。

 無事にたどりついた卯島の首都イガスオンは、ちょっとびっくりするほどの大都会だった。林のようにひしめく塔、その間に枝のようにかかる橋、地上には蒸気の車が走り、上空には酉人(とりびと)の伝書員が滑空機を飛ばしている。
 なにより感動したのは、様々な人族にまじって、人間もまたその一員として歩いていたことだった。ぱりっとした服を着て、人族の同僚と、政治問題なんか論じたり、仕事のぐちをこぼしあったり。
 騒音を栄光の証のように感じた。塔は希望を示すように高かった。
 それはともかく彼女にとって深刻だったのは、宿賃が高かったことだ。

 いちおう算術は心得ていた。この金額を毎日払い続けていれば、あっという間に底をつくことは確実である、ということくらいはわかる。あわてて仕事を探した。
 いくつか工場を当たってどうにか仕事にありついたものの、学校に入るには学力とお金が必要だと知ったのである。
 お金はもちろんなかったが、島の内外からやってくる大勢の学生を押し退けられるほどの学力もなかった。彼女は数年、勉強と貯金に励むことになったのだった。

 結局彼女は、ある有名大学の聴講生になった。それでも倍率が高くて大変だったという。
 仕事場と大学を往復し、自宅でも復習を続けていた彼女に、恋人を作るような暇はなかったが、友人は出来た。
 ドーア・ウアミラは、その大学の生徒だった。実はあまり書き取りが速くないティムーが、その日も記憶を頼りに廊下の隅で授業ノートを書いていたところ、声をかけられた。

 ――あたしのノートみる?

 お礼に食事にさそったところ、すっかり意気投合した。

 興味を引かれたのが、操術についての話だった。人間にはなく、人族でなければ使えない力。
 彼女の勤めている工場は人間が多かったし、なにより目の前の仕事をこなすのに精一杯だったので、目にしたことはあったものの、詳しい話を聞いたことはなかったのだ。
 一番驚いたのは、その力自体はすべての動物にある、ということだった。

 ――操術のもとになる操力っていうのは、要するに、魂が自分の体を動かすための力なのよ。人にもあるし、獣にもあるし、もちろん人間にもあるわ。
 ただ、人族には一つだけ共通した特徴があって、必ずその力に『余り』があるの。
 つまりね、操力っていうのは、ふつうは体を動かす為に必要な、ぴったりの量を持ってんのよ。大きい獣ならそれだけ大きい操力を持ってるってことになるし、小さい獣なら小さいわけ。
 人族はどういうわけか、体の大きさに比べて、過剰って言っていい量の操力を持ってるのね。で、その余りをほかの物体を動かすのに使っちゃいましょうっていう、その技術が操術。
 ただあくまで体を動かす為の力だから、魂が自分の体だと認識してくれるものでないとダメなのね。
 昔は布に血を染み込ませて巻いたりだとか、抜けた歯を埋め込んだりしてたらしいんだけど、劣化すんのよ。あと、剣なんかは、相手を斬って他の人の血がついた時点で動かなくなっちゃったりするでしょ。するのよ。
 で、今は、体の情報を石に移して、譜を彫り込んで、これは体の一部ですよぉ、死体じゃなくて生きてますよぉ、って言って、使うわけ。
 武器に埋め込んだり、小さなピンセットを動かしたり、機械につなげたり……。

 ウアミラがそう言ったのを思い出し、自分もやってみようと思ったのは、仕事中に指を切ってしまったときだった。

 勉強と仕事、ついでに友人とのおしゃべりも加わって、少し疲れ気味だった彼女は、ついウトウトしてしまった。そのときに、機械に指を挟んだのだ。
 激痛が襲ったが、彼女は気絶しなかった。
 慌てる同僚の声を聞きながら、自分の指から流れる血を押さえる布が……彼女の動揺を映すように、わずかに上下したのを見た。

 人間も獣も、動かす体を失えば『余り』が出るのでは?

 彼女は時間の合間をぬって、大学の図書館に通った。
 そしてそういうことがあると知ったのだが……そこには必ずこう書いてあった。『人間や獣の場合、体を欠損して出た操力の余剰は長く機能しない』と。体の一部が死ぬと、そこにあった操力も死んでしまうのだ。

 だが、彼女は例外を見つけた。
 何日たっても、何ヶ月たっても、彼女は自分の血のついたものを、わずかだが動かすことが出来ていたのだった。
 中指と薬指ぶんの余剰しかないが……中指と薬指ぶんなら、動かすことができる。
 彼女と同じアイディアにたどりついている人も見つけた。

『機械義肢のための、人間の余剰操力定着の試み――アーチム』
 

 新しい自宅の空気は、からりとしていた。日当りがいいのだろう。
 窓を開けて外を見る。故郷はもう肌寒くなっているだろうが、ここの空気はまだぬるい。
 自分の父親が、奴隷持ちだったことは言わなかった。
 ――まずいな。
 彼はしばらく夕日を見ていた。部屋はまだよそよそしく、少し埃っぽかったが、棚に入れるものも、散らかすほどの荷物もないし、お腹も満たされている。結局、早めに眠ることにした。
 布団をめくって寝台にもぐりこみ、目をつむる。体の芯にだるさが残っている感じがしたし、喋りすぎたせいかなんとなく胸のあたりにつかえがあったが、それでもすこし興奮気味だった。今日は楽しかった。
 大きなしぐさで船の揺れについて文句をいったり、なにかを思い出そうとするときに必ず指先をちょこちょこ動かす様子が思い出されて、ちょっと微笑んでしまう。
 そして思う。まずい。
 早く眠りについて、早く細かいことを忘れ去らなければ。

07

 なんだかつらい夢を見たような気がする。

 そんなことを考えながら、更衣室でぼんやりと制服に着替えていると、エルサート・エナックが入ってきて、スヴァーを見るなり敬礼した。

「おはようございます!」
「おはよう」

 スヴァーが返事をし、ネクタイの装着に戻ると、エナックもロッカーを開けて、自分の制服を引っ張り出す。
 彼の手が着替えでふさがる前に、スヴァーは声をかけた。

「敬礼も敬語も必要ないと思うが」

 同僚は、シャツのボタンに手をかけながら肩をすくめる。

「戌人は上下関係にうるさいんすよ」
「べつに君の上司じゃない」
「年上っすよね。その上、みたところ実力者。ここの門をくぐったら職務中だし、敬礼しない理由はないっす!」

 年を尋ねると、二十一だという。スヴァーより二つほど下だ。
 寅人……というか、寅島アロトーでは実力と現場の経験がものをいうので、あまり年を聞く機会もないのだが、ここではそういうわけにもいかないのかもしれない。
 むしろエナックこそ先輩風を吹かせる理由がある気がしたが、新人隊員スヴァーはとりあえずそこで引き下がる。そのうち打ち解ける機会もあるだろう。

 いつまでも首の前でネクタイの結び目をにぎり、ぐちゃぐちゃやっていると、もうあと上着を着るだけになったエナックが声をかけてくれた。

「ネクタイ、しめられます?」
「……しめられるんだが、キマらない」

 鮮やかなオレンジのネクタイ。自分でやったときは、なんだかしなびたニンジンをぶらさげているようにしかならなかったのだが、エナックがやってみても、新鮮なニンジンにしかならなかった。

「短いっすね、それ……」

 彼は人より少し首周りが太めなので、そのせいだろう。
 上着も着込んで、扉の裏側についた鏡を見る。ぴりっとした紺の三ぞろえに、枯れ草色のシャツ、同色の脚半。それにオレンジのアクセント。
 都会的でかっこいいと思ったが、ふだんゆるゆるの上着に帯を締め、だぼだぼのズボンを脚半で止めている寅人の武人には、窮屈な感じがした。
 というか、小さい気がする。
 ためしに肩を回してみる。みしみし鳴りそうなその制服を見て、エナックがため息をついた。

「あとで採寸して作りなおしてもらわないとダメっすね。大丈夫、予算で落ちるっすよ」

 しばらくはニンジン飾りで我慢するしかないようだ。
 革製の靴ともの入れだけは、馴染みのものだ。もの入れをぐるりと肩にかけ、バックルで止める。戦鎚を背負うと、じぶんの聞き慣れた足音を聞きながら、会議室へと向かった。


「捜査隊長のリオピュセ・ウェールよ」

 そういって挨拶したのは、長いスカートに柔らかい純白のシャツを着込んだ、獅子人の女だった。淡い金毛に彩られた顎をきゅっと上げ、挨拶を済ませたスヴァーに言う。

「付属警備班は、基本的に捜査隊の要請で動いてもらうの。捜査員の安全確保や、証拠品押収に役だってもらうわ」

「ふだんは見回りをしているがね。この制服の前にのこのこ現れる犯人はいないだろうが、市民の安全に少しでも貢献すること」
 そう言ったシブナーは明らかに機嫌がよろしくないようだった。

 会議は軽い状況確認で終了した。つまり、大きな進展なし。捜査隊は一日、大小の工房から押収した書類の検証に費やすらしい。
 スヴァーとエナックは見回りを言い渡され、外に放り出された。

「捜査隊と警備隊……仲が良くないのか?」

 それが朝一会議を終えた、異邦人の率直な感想だった。警備隊の代表者は部屋のすみっこでぶすっとしているし、同僚はぽやっとしている。捜査隊は捜査隊で、彼らには無関心をつらぬいていた。
 エナックはあきれたように頷く。

「声を荒げて喧嘩はしないっすけど、そりゃあもう、仲良しじゃあないっすよ。
 なにがって、隊長同士が! こないだも隊長がとってきた証言が要るだの要らないだの、警備隊の人員を増やせだの他に金使うところがあるだのって……向こうにも話のわかるのはいるっすけど、二人の前ではおとなしくしてるに限るっす」

 エナックはこれみよがしに短いしっぽをしんなりとさせ、目をしょぼしょぼと瞬かせる。
 ふざけているのだろうが、そのあとにふっと空を見上げた目には本物の辛苦が映っている、ような気がした。

「ま、仕方ないっすね。ウェール隊長は、気障な年寄りを毒虫のように煙たがってて、シブナー隊長は、戌人以外の強気な高飛車女は大嫌いっすから」

 いちおう訊いてみる。「……戌人の場合は?」

「好みど真ん中! 手懐ける感じがいいんだとかで」
「無駄話は慎みたまえ」

 振り返ると、二人を追い出したはずの我らが隊長が腕を組んで突っ立っていた。あわてて敬礼する。
 隊長は軽く笑うと、足をくずし、ポケットに手を入れた。

「オリー市警察第六特別捜査隊付属警備隊、スヴァー・シルギット、一等戦士……仮のものなので、謹んで受け取る必要はない」

 隊長が投げたのは、銀色の隊証メダルだった。もの入れの胸ポケットに入れてから、敬礼する。

「ご期待に添えるよう努力します」
「いかに無駄足と思えても出発したまえ。私は私で私の資料の整理があるのでね。なにかあれば颯爽と現場に現れる。気をつけて」
「了解しました!」
「いちおう聞き込みもしたまえ……ウェールに相手にされなくとも、手帳の白紙が埋まっていくのは楽しいものだ」

 そう言い捨てると、黒い頭の後ろ姿は舎へと消えた。
「俺、ノートをとるだけとって勉強した気になってるタイプだったっす……」と、エナックは囁いた。スヴァーはノートをとった覚えがない。田舎に赴任したやる気のない教師の行なう授業は、ひたすら教科書を読むだけというものだったからだ。

「で、どこ行きたいっすか?」

 見回りとは、そんな観光じみた台詞で始まるものだっただろうか。金色の頭を見下ろし、とりあえず「見回りに……」行きたい、と答える。

「隊長から、新人にはとりあえず地理を把握してもらえって言われてるっす。俺は、この周辺をざっくり案内しつつ、事件現場を順番に見てもらおうかなあって思ってるっすけど」
「ああ、それでいい」
「じゃ、出発っすね」

 金色の背中を追いかけ、スヴァーも石畳を踏んだ。

08

「つまり、被害者は無差別、証拠なし、手がかりはわずかな目撃証言のみ、なんだな」

 スヴァーのまとめに、連れが頷く。
 二人は、第一工業区の三番門前から始まり、第二区の大通り、第五区……と回り、再び庁舎のある、第一行政一般区へと踏み入れたところだった。
 第一工業区の吐き出す煙が、ふたたび空に滲んでいる。

「目撃証言っていっても、機械の獣がどれだけ恐ろしかったか話してくれることがほとんどで。暗い時間帯が多いし……せいぜい、逃げていった方向っすかねえ。
 それも参考にならないわけじゃないんすけど、最初の事件は一年も前なんで……今、重点的に聞き込んでるのはこのあたりで」

 彼らがたっていたのは、第三区の境目にほど近い、緩やかな坂道だった。城壁が右手に迫っている。
 道の隅にある、白い色が目を刺した。
 大陸の弔い花は、波打った花弁が重なり、すぼんだようになった可憐な花だった。死者に捧げられるときはそれがさらに束ねられ、あるいは一本一本、積み重ねられる。今日なんども目にしたその白は、死者の平安というよりは、生者の慟哭のように、どこか凄惨だった。

「ここで先月、見回りの警備兵が二人亡くなったっす」

 古びた石畳は全体的に薄汚れていて、その痕跡はわからない。エナックが指差したのは、目を奪われていた白い花ではなく、道の真ん中だった。
 スヴァーは襟を正すと胸に手を当て、頭を垂れる。エナックも彼に続いて、そのようにする。
 たまたま通りかかった荷車が、二人が敬意をしめす場所を、そっとを避けて通る。馬獣は、六つ足をその指示に従わせた。

 空が暗いのに気がつき、手の平を上へと向けると、針の先のように小さな雨粒が、ぽつんと冷たく当たる。

「聞き込みはしなくていいのか?」

 かたわらの戌人は、歩き始めてもぼんやりとしていた。自分のつま先を見ながら、すねたように歩いている。

「今日はいいっす……それに、重要な目撃者はここにいますし」

 ひとつだけ大きく育った雨粒が鼻先にあたる。それを拭いながら、そうか、とだけ返した。
 この歳までに、死者への礼儀は覚えたが、残されたものへの慰めは、いっこうに学ぶことが出来ないでいる。彼もいずれ死ぬからには、死者は師だったが、死者をみとる存在は、あまりに自分に近すぎる。

 二人は黙って歩く。雲はますます厚く、空は暗くなってきた。
 どこかのおかみさんが大きな声をあげ、子どもが怒ったように返事をする。ざんざんぶりになってからじゃ遅いんだよと母親が再び怒鳴ると、エナックは軽く笑った。

「本格的に降ってきそうっすね」
「そうだな」
「このまま突き当たりが大通りで、そこを左で、すぐ庁舎っすよ」
「帰るのか?」

 エナックは肩をすくめる。

「実際、見回りは他の連中がやってるっすよ。俺たちは不規則にやるんで……ま、少しは犯人の不安要素になるかもしれないけど、どうっすかね。警備兵を狙ったのは、自信をつけてきたからじゃないかって噂もあるし」
「噂か」

 雨が、肩口をぱらぱらとたたき出した。しぜん二人の足取りも速くなる。
 結局、半日かけて解ったのは、とにかく残忍な事件である、ということだけだった。情報がなければ仕事も出来ない。

「捜査隊とはもう少し仲良くなる必要があると思う」
「そうっすね」
「人間が犯人だという話については?」

 大股の寅人が三歩で進むところをエナックは五歩歩いて追いかけ、「それこそ噂っすよ」と言った。

「もちろん、人間が関わってる可能性はゼロじゃないっすよ? でも、機械作れりゃどうにかなるってもんでもないってのが、俺らの意見すね。車だとかポンプだとか、そういう動きじゃないんで。
 四つ足で……それこそ、獣みたいに動くんす。俺も、最初は小柄な犬獣かなんかかと思ったっすよ。暗いときだったし、黒く塗られてたみたいで。それがバアッと飛び跳ねて……。
 俺らは、操力の使える人族が関わってると思ってるっす。それも、かなり練習を積んだ連中なんじゃないかって。
 もちろん、機械は機械っすけど、現物を確保出来ない以上、技術レベルもわからない。それを、機械だから人間ってのは、正直、思いつきでしかないっす。
 その思いつきを強めているのが、今のところ人間が襲われたことがないってのと、あと、捜査に非協力的だからっすかね」

 理由の数だけ折ってみせた指を、エナックは振ってみせた。
 それを見て、彼はふっと思いついた。
 歩数を増し、同僚を置いていく。駆けて追いつこうとするエナックを片手で制して言った。

「一人でいい……人間街は二区だったな?」
「え? そ、そうっすけど」
「正直、よくわからん」

 大通りが見えてきた。大通りに出たら、まっすぐ進めばいいはずだ。


 オリー市第二区は、第一工業区のとなりにある、鉱山からの豊富な資源を、街外の職人達にもっぱら固まりのまま売り渡していたこの都市が、職人を呼び入れるために拡張した地区だった。とくに、技術力の高かった卯島の人間達を、である。
 そういったわけで、この地区は現在も人間が多い。居住区と工業区が別れている第一区と違い、第二区は工場も店も家も入り乱れて存在しており、通りごとにまったく雰囲気が違う、
 ということだったが、今日にかぎっていえば、その違いがよくわからない。

 町には人影は見えず、土の道はすべてが茶色で水っぽく、前は細かな水滴でけぶっていた。
 二人が二区に踏み込んだとたん、雨雲のタガがはずれたのだ。

「いつもはもっと埃っぽいんだけど、今日はそんなことなくて良かったっすね!」

 彼らが踏み込んだところはたまたま建物が低くてひさしが長く、幸いとばかりに雨宿りしている。
 正直、スヴァーはさっさと駆け抜けてしまおうと言ったのだが、同僚が反対した。

「靴はよごしたくなし、裸足は泥に踏み入れたくなし、すべからくすべての生き物が、屋根の下で静かにしている時分っすよ……」

 彼の細い毛は、どうやら水を吸いやすいらしい。スヴァーの場合は頭をひとふりすれば大体とんでしまうのだが、エナックは枯れ果てた草みたいになった自分の頭毛を、なんどもなんどもハンカチで拭ってはぶうたれている。
 気持ちまで湿気やすいらしい。
 半目のままむすっとしている同僚に、スヴァーはいちおう指摘しておく。

「ついてこなくて構わないと言ったような」
「よくわからんって言ったじゃないっすか!」

 噛みつくような剣幕だった。
 思わず腰がひけた……が、どうやら行き違いがあったようだ。
 不機嫌に唇をまくりあげた彼にそれを指摘するのは気が進まなかったが、気を取り直して言っておく。

「道がわからんと言ったわけじゃない。機械のしくみがわからないので、どこか見せてくれるところがないか、行って訊いてみるという意味で、君はべつに来なくても良かった」
「……それをよくわからんに詰め込むのは無理があるっすよぉ!」

 飛びかかってくるのではと恐れたが、どうやら、逆に気が抜けたらしい。すわりこんでぶつぶつ言い出した。

「気取ってるくせに勤勉な隊長、才女と思いきやお人好しなだけの副隊長。言葉の不自由な異国人。俺は同僚に恵まれてないっす……」
「だから帰って構わんと」
「俺だけ帰ったらサボってるみたいじゃないっすか!」

 きっと見上げた黒い目から、スヴァーは水色の目をそらす。
 雨だ。雨を見よう。
 雨は細かい粒を、まだまんべんなく振りまいていた。人影はなく、耳に届くのは雨音だけ。
 雨の日はこんなものなのだろうか。
 エナックは座り込んで、どんどん水を吸っていく地面を眺めている。動きそうにない。

 スヴァーはそっと、懐から一枚の紙を出した。あまり達筆ではないが、読みやすく、几帳面な字。彼女はこれを、一文字一文字、ゆっくり書いていた。
 ーー工房と自宅の住所よ。お客を呼ぶようなところじゃないけど、何か力になれることがあったら来てね。
 とりあえず工房へ行くつもりだ。そこにいなかったら、もしいなかったら自宅。
 −−書くの遅いから、話聞きながらノートなんかとれなくって。授業中なんかもう必死……

「なんっすか、それ」

 スヴァーが我に返ると、金色の頭はいつの間にか立ち上がっていた。
 真っ黒の目がのぞき込もうとするのを、折り畳んで懐にしまい直す。工房はともかく、自宅住所はプライバシーだ。

「……友人の勤め先だ」
「ひょっとしてアーチム工房っすか? あすこは閉鎖されてるし、工房主なら署にいるっすよ。知ってると思うけど」
「……工房主とは友人じゃない。それに、機械の仕組みを聞きたいだけだ。彼女は技師だし、用は足りる」
「でも人選としちゃ不適切じゃないっすか? いちおう疑いは晴れてないんすよ」
「……聞き込みがてらだ」
「そっすか。ま、ティムーは話しやすい娘だし、いいかもしれないけど……」
「……別に付いてこいとは言ってない」
「なに意地になってんすか? ここまできたら行くっすよ、地獄でなけりゃ。アーチム工房ならこっちっすよ」

 エナックはふんっと鼻を鳴らすと、自ら指さした方へと足を向ける。軒を出て、頭から水をかぶった彼の肩は、少々いかっているが、このまま行くようだ。
「気持ちいいっすよ?」
 動かない駄々っ子をあやすよう言いぐさに、少々もやっとしたものを感じないでもないスヴァーだが、とりあえず歩き出す。

「ティムーと知り合いなのか?」

 歩きながら尋ねると、エナックはずぶぬれの頭を縦に振った。

「ウアミラ副隊長と仲がいいっすからね。副隊長とは前から持ち場が近いんで、顔は合わせてたっす」
「ああ……」
「ときどき昼飯持ってきてくれて、一緒に食ったっすよ。今は隊長がお堅いんで、そういうことも出来なくなったんすけど」
「……」
「それが結構うまいんすよ。いわゆるソカットなんすけど、中身が、なんてったかなあ、丑島の料理で。食中毒がなんだとかって隊長の言い分もわかるっすけど、あれは志気に関わるっすよねえ」

 エナックはそう言いながら、顎をつたった雨を拭った。ここまで降られると、逆に元気が出てくるというものだ。
 しかし、返事を求めて見上げた先の同僚は、口をとんがらせ、目を針のように細めて歩いている。

「……シルギット隊員?」
「雨が口に入るので、返事をしたくない」
「そ、そうっすか?」

 二人は、間に得体の知れない禍根を残しつつ、雨のアーチム工場へと一歩一歩近づくのだった。

09

 曇り空の下、警察署を訪れたティムーはしみじみとため息をついてしまった。

「警察署の人でも、連れてったきり帰してくれないうちの工房主がどうしてるか知らないなんてこともあるんですね」
「そう。申し訳ないがね」

 黒い戌人は、山と積んだ本を、棚から出したり、納めたりしながらそう返事をした。
 片づけをしているらしいのだが、奇妙なのは、一冊の本を三段目に並べてみたり二段目に並べてみたり、数冊の本を束ねて持って、その背表紙をとっくり眺めていたりすることである。
 だが彼女にとってその様子は、嫌というほど見覚えがあるものだったので、あえて理由も聞かなかった。
 工房に勤め始めたときこそ、女ながら高い技術を持つアーチムに心酔していたこともあり、彼女も『本棚の秩序』にこだわれるくらい蔵書を持ってみたいものだ、などと思ったものだ。昔のことだが。

「誰があの人の担当かくらい知りません?」
「私が知ろうと思ったことが未だかつてあっただろうか」
「ないの?」
「あるとも。だがまあ、色々あった。私は私の仕事をすることにしたわけだ」

 どうも、この隊長さんとやらは苦手だ。ドーアは仕事の愚痴をあまりこぼさない人なのでよくわからないが、普段もこんななのだろうか。
 あらためてため息を落とす。
 ティムーとて、いつもはこんなに疲れた風情の女ではないのだが。
 アーチム工房の主人アーチムは、工房閉鎖と同時に警察に連行されてから、まだ帰ってきていなかった。

「食事の差し入れもだめ?」
「むろん、お断り申し上げる。事件の真相を知る共犯者の受付嬢が、なにか重大な秘密を守るために、己の主人を毒殺をしないと何故いえるのだろうか? 言えるわけがない」
「隊長さんっていつもこんななんです?」
「いや、今日はあまり調子が良くないようだ」

 しれっと言いながら、彼はまた足下の本の束を一つほどきにかかる。さっき解いた山が崩れかかっているが、彼の関心を引くほどのことではないようだ。
 今日は手ぶらでは帰れない……いや、正確をいうと、手ぶらで帰りたかった。足下においた重たいバスケットを横目でみながら、ティムーは再びため息をつく。

 工房の主人アーチムは、社会的な生命体として、いろいろ問題のある人だった。
 まず彼女はソカットしか食べない。それも、炒めたタマネギの入ったトマトのソースだけのやつ。ちょっと変わった具を入れるとすぐ残す。そのくせ大食い。あと彼女の喉を通るのはイモとリンゴくらいだ。
 つぎに人付き合いが嫌い。人が訪ねてくるときは実に不機嫌で、それを隠そうとしない。何でも思ったことはズケズケいうし、刺々しい言葉を使う。しかもそれを、話をさっさと切り上げるために使っている節があるのが始末に負えない。
 何か良い思いつきや面白い課題を見つけて熱中したあとなどは機嫌がいいが、そもそも喋り方を忘れている。
 それに、その熱中しているときがもっとも悪い。机から離れない。風呂に入らない。寝ない。トイレにいく回数を減らすため水分をとらない。邪魔するとキレる(それで一回クビになった)。総じて、意志疎通が困難である。
 いちおう食事だけは押しつけているのだが、出されたものを一瞥もせずに口の中へと放り込むので、そのうちとんでもないものを飲み込んで医者でも呼ぶ羽目になるのではないか。
 風呂も二日や三日ならいいが、下手をすると一週間も入らないので、机の前にタライを持ってきて、ティムーが洗ってやったことさえある。
 結婚する気もないし別にいいのだと本人はいう。これで結婚する気があったら本当にすごいと思うので、この人にも真っ当な感覚が残っていたんだわとティムーは胸をなでおろすのだ。
 何かが麻痺してきている。

 結局、警察署訪問は無駄足に終わった。
 バスケットを置いていこうかと思ったが、隊長さんがティムーによる警察署員集団毒殺事件のシナリオなどを披露してくれたので、やめた。まあ、ソースが挟まっているだけなので、正直、人にお勧めするようなものでもない。
 しかし、どうしたものだろう、この籠いっぱいのソカット。
 自分一人では多すぎる。レチエはもうソカットなんか見たくもないと言っている。ドーアはトマトが嫌いだ。ご近所は今、アーチム工房とはしばらく関わりたくない、という雰囲気を漂わせている。
 閉鎖された工房はいくつかあるが、主人が帰ってきていないのは、彼女たちの工房だけなのだ。

 ――具を入れたら、あの人食べるかしら。

 いつのまにか灰色に染めあげられた空を見て、思いついたのは昨日知り合った寅人だった。
 美しい銀毛を誉めたら、そんなにいいもんじゃない、雪に埋まっても誰も気づいてくれないと言って笑っていた。
 昨日食事したときは、それほど大食いという感じではなかったが、彼女より頭二つ以上大きいのだから、それなりに食べてくれるのではないだろうか。
 たっぷりご馳走になり、お喋りにもさんざ付き合わせておいて、残り物を押しつけるのも気が引けるが……しかも、材料費はドーアが置いていってくれたお金だ。情けない。
 それにしても、彼は風邪をぶりかえしたりしていないだろうか。昨日は調子に乗って喋りすぎてしまった。
 今日も少し肌寒い。
 それに、雨も降りそうだ。

 丁度、我らがアーチム工房の屋根には穴が開いている。アーチムの湿気た布団を干そうとしてティムーが踏み抜いた。直すつもりで木材を買い、工房に帰ったところで警察と鉢合わせした。
 それから快晴が続いていたこともあり、今日の今日まで放置していたのだ。
 やれやれ。
 こんなにため息をつく日が、今後訪れないことを祈るばかりだ。

 彼女が、工房に足を向けると、細かな雨がぽつぽつと落ちてきた。
 慌てて走る。雨が吹き込んで中のものが濡れでもしたら、今度こそクビになりかねない。
 最悪の天才アーチムと、恥ずかしがり屋だが一級の操術師レチエ・ノイップが引っ張る工房の、愛想のいい受付嬢ティムー。
 自分は今のところ、それでしかないから。


 工房の屋根に梯子をかける頃には、外はすっかりざんざん降りになっていた。
 ティムーは頭巾のついた肩がけを羽織り、片手に板を持って梯子を一歩一歩のぼる。とりあえず、穴のうえにその板を置いてから、釘と金槌をもって再び上がった。
 瓦を少しよけ、適当なところに釘をうちつける。そのうちちゃんと修理に来てもらうつもりだから、とりあえずは風で飛ばなければいいのだ。
 打ちつけた板の上に手を置き、少しゆらしてみる。大丈夫そうだ。

 顔をあげ、雨でけぶった屋根の列を眺めた。光は雲ごしに少し黄色っぽく、街も少し黄ばんで見えた。
 この街に来て三年になる。アーチムは多大に問題のある人だが、その高い技術や情熱や、義肢を必要としている人へのぶっきらぼうだが細やかな思いやりを尊敬している。勉強にもなる。大勢ではないが素敵な友人もいるし、楽しみもある。
 でもときどき、すべてが砂の楼閣のように思えることがある。
 雨が降れば、消えてしまう。

 ……さあ、帰ろう。
 彼女は座ったまま、ゆっくり後ずさりして梯子に足をかける。
 古い木製の梯子は、雨のせいかいつもより軋んでいるように感じた。金槌をしっかり片手に持ち、一歩、一歩降りていく。

 四歩目を踏み出したとき、ぎょっとして足をひっこめた。
 なにか……柔らかいものをふんずけた。
 そっと背中越しに振り返る。灰色の手が梯子にとりついているが、よく見えない。
 片足を曲げ、スカートを持ち上げて、今度はお腹のほうから覗き込んだ。

「……スヴァー?」

 彼は、縞々の頭をこれ以上曲げられないほどに下に曲げ、うなるように返事をした。

10

 ティムーは、二人を彼女の自宅に案内してくれた。
 狭い路地裏を歩かねばならなかったが、工房からそれほど離れたところではなかった。

「人を招待するような部屋じゃないんだけど、雨宿りくらい出来るから」

 ティムーは階段を上りながら、すこし気弱な、恥ずかしそうな声でそう言った。
 彼女の家は艶のない階段を登った先の、屋根裏の部屋だった。少し小さめの扉を開けると、すっきりと磨かれた床が目に入る。
 椅子が二つに、小さな丸いテーブル。壁に吊り棚が一つ。それから、小さなベッドが一つきりの窓のそばに置いてあった。
 ものは少なかったが、どれも静かに、それぞれの居場所に落ち着いていて、感じの良い部屋だとスヴァーは思った。

「綺麗にしてる」

 客人の控えめな誉め言葉に、彼女は「ありがとう」といって笑い、持っていたバスケットを床におろして、布を客人に手渡した。それから自分の上着を脱ぎ、すぐに暖炉の火を起こしにかかる。

「上着干すところ作るから、ちょっと待ってね」

 彼女は暖炉を挟んだ二つの壁にてきぱきと縄を張ってしまうと、受け取った上着の表面を軽く布で押さえてから、かけてくれた。

「靴下も干してもらっていいっすか?」

 彼女は、はいはい、というと、エナックが脱いだ靴下を嫌がりもせずつまんで、ロープに加えた。

「スヴァーは?」
「いや……その」
「気持ち悪いでしょ?」
「……自分で、やる」

 そう? と首をかしげたティムーを、スヴァーは、なんだか居たたまれないような感じで眺めた。「スヴァーはしっかりものね」という誉め言葉も、なんとなく有り難くない。

「お茶入れるわね。丁度ドーアがくれたのがあるの。あの人のことだから、たぶんいいやつだと思う……淹れるのが私ってのが不安要素だけど」
「あっ、俺、俺、淹れたいっす!」

 シュバッと手を挙げるエナック。そんなに伸び上がらなくても、彼らの視界を阻むものは何もない。
 ティムー許可すると、エナックは暖炉の上のやかんを取り、棚にあった茶葉をチェックする。

「あっ、この包装はアート商店の! ……香りも間違いない……さては、副隊長の情報源は俺っすね!」
「そういえば、あなたっていつもお茶煎れてたわね」
「ろくろ通り派出所のお茶汲み小僧といったらエルサート・エナックの二つ名っすよ」

 何が嬉しいのか、エナックはしっぽを降りながら自慢げに言うと、さらに砂糖に目をつけて唸っていた。それもウアミラ副隊長からのお裾分け品らしい。

「あ、お水は外かもしれないわ。やかん、空よね?」
「はいはい、やるっすよー」
「ごめんなさいね。一階のね、奥、曲がったところなの。すぐ解ると思うけど」
「はーい」

 エナックは、やかん片手に、裸足に靴をひっかけて、るんるんと出ていった。
 なんでそんなに楽しそうなのか、といささか不満にも似た不審を同僚に抱いていたスヴァーだが、しんとした部屋に残されると少し心細いような気がする。
 ティムーが片方の椅子から何かを持ち上げたので、見ると数冊の本だった。
 彼女はそれをベッドに放ると、手持ちぶさたなスヴァーがまだぐずぐずと持っていた布を受け取って、椅子をすすめた。
 スヴァーは少し迷ってから、布を干す彼女の向かいに座った。すると、ティムーが濡れた靴下を脱ぎだしたので、スヴァーは目をそらした。肌はまずい。
 しばらく目のやりどころに困っていたが、そういえば、と思って後ろを振り向いた。
 少し体をひねって重なった背表紙を見る。三百の機構とその実例、機械工学の基礎、蒸気動力機……

「技術書?」
「表紙はね。中は恋愛小説」
「……ホント?」
「うそ。見てもいいわよ」

 スヴァーは迷ってから、一番上にある本を開いてみた。てっきり、機械の絵や文章がびっしりあるのだろうと思ったが、そこにあったのは、円や線で描かれた簡単な図や、数式だった。
 数式が苦手であるスヴァーは、ページをめくる意欲が一気に減退したのを感じた。が、開いたとたん閉じるのも格好悪いような気がしたので、とりあえず数ページめくる。
 正直、恋愛小説のほうが彼向きだった。

 ティムーがテーブルに何か置いたので、見ると手袋だった。濡れたからだろう、そのまま吊り棚のほうへ歩いて、新しい手袋を取り出す。

「左手だけ下さいっていうとイヤな顔されるの。右手の手袋の使い道って、なんかないかしら」

 手袋をひっぱり終わった手で、棚にある小さな箱をトントンと叩いた。上から、綺麗なままの(おそらく右手の)手袋の指が覗いていた。

「頼んで縫ってもらえないのか?」
「そうよね……でも、火傷のあと、ってことにしてるもんだから」

 理由は思い当たる。スヴァーは鉄の指を見ても『そんなもんか』と思うだけだが、機械にふだんから親しんでいる連中から見ると、操術を使っていることが明白な義肢を、人間が使っているのは異様なのだろう。
 おそらく彼が変な顔をしていたのだろう、ティムーは苦笑いして、おどけたように肩をすくめた。「ごめんなさい、変な話になっちゃった」

「あなたは目をまんっ丸にしてて面白かったわね」

 考えごとをしていたので、一瞬、ついていけなかった。
 ――面白かったって? なにが?
 ぱちぱちと瞬きをして記憶を探るスヴァーに、ティムーは心細くなったらしい。指を見せてくれたときか、と思ったときには、彼女は顔を少し曇らせて、申し訳なさそうにつぶやいた。

「……気を悪くした?」
「いや、あのときは本当にびっくりした。あんまり機械を見たことがないんだが」

 少し喉がつまる。意味などないが、この単語を彼女の前で言うのは、なんだか少し緊張した。どうかしている。

「……綺麗なものだな、と」

 ティムーは少し驚いたが、すぐに笑った。百点満点、といった感じで。
 それから、スヴァーが見ていた本の向こうに座った。ベッドが少し軋む。

「私はここ」

 で、エナックがもう一つの椅子らしい。
 スヴァーは、丸いテーブルをすこし動かして、大きな椅子にすわる彼女が、テーブルにつけるようにした。

「ありがとう」
「今日は機械のことについて訊きに来たんだが」
「うん、言ってたわね」
「その、疑ってるとかそういうんじゃない、ただ、詳しくないので……」
「聞いたってば。それに、べつに疑ってたっていいと思うの。ほら、言うでしょ、疑いは知性の証って」

 スヴァーは「信頼も」と、小さな声で付け加えた。
 ティムーはなんだか、知らないことを聞いた、という感じだった。それから、少し気まずそうに笑った。

 大きいな足音を階段に響かせながら、お茶汲み小僧が帰ってきた。エナックは戸をくぐると、やかんを胸のあたりまで持ち上げて、そのおしりをもう片方の手で押さえる。

「ちょっと余分に入れてきたんすけど、水差しに入れとけばいいっすか?」
「ありがと。でもうちはやかん水差し兼用なのよ」
「ええー……」
「いいのよ、一人なんだから」
「だからこそ、薪と時間が無駄じゃないっすか。スープになるくらいあるっすよ!」

 エナックがぶうぶう言うのを、ティムーはテーブルに肘をついて、ただ笑ってみていた。結局、余分な水は空いていた鍋に移され、やかんは暖炉にかけられる。

「ティムーは恋人とかいないんすか?」

 エナックが振り向いていきなり言い放った質問に、スヴァーもちょっと緊張する。いるのか。いないのか。関係ないといえば全く関係ないが、重要な問題だ……。
 ティムーは、重ねた腕に顎を乗せたまま、つまらなそうに答える。

「いないわよ」
「えー、声かけられたりしない?」

 思わず訊いたエナックの気持ちが、スヴァーにもわかる。
 人間の美醜について、当の人間ほど敏感ではないにしても、右と左のそろった、きれいな桃色の頬をした彼女を、エナックだってきれいだと思ったのだろう。

「……まあ、なくはないんだけど」

 ほら。
 ティムーはどこか気まずそうに天井をみた。なぜかため息。

「忙しいし……なんか正直、面倒で」
「……あっ、見えるっす、見えるっすよぉ、いき遅れたティムーの未来が見えるっす……」
「そういうエルサート先生はどうなんです?」

 目をつぶって人差し指を眉間に当て、透視屋先生をきどっていたエナックが顔をあげる。
 ちょっと目が切ないので、彼も恋人ほしい族なのかもしれない。

「いないっすよ。でもそれは俺の責任じゃなくて、隊長みたいのが女の子を食い散らかすことによって、我々誠実なる一般男性の評判までもが下がり、恋愛へのハードルがあがっているんすね」
「あら、慰め作戦は鉄板じゃないの?」
「いや……隊長好みの女性はちょっと」

 ティムーはけらけら笑う。
 スヴァーはというと『いきおくれる』という表現が『結婚出来ないまま歳をとる』という意味なのだと、ようやく思い出したところだった。
 寅人には、じつは結婚制度がない。
 恋人同士一緒に住んだり、そのまま一緒に子育てしたりすることはあるものの、基本的に寅人の子育ては女性の仕事だ。女性も男性も基本的に一人の暮らしを好む……というか、そういうものなのだ。スヴァーも父親のことはよく知っているし可愛がってくれたが、家は別だった。
 この世には結婚というものがあると初めて知ったときは、よく理解できなかったものの、羨ましいような気がしたものだ。
 好きな人と、生活と苦楽を共にする。
 もっとも、それを教えてくれた女の子は、幼いときに両親と離ればなれになったこともあって、少し理想化していたようだ、というのは、あとで思ったことだ。初恋の相手だった。

 自分で立候補しただけあって、エナック氏のお茶は美味だった。
 ティムーがお茶受けにいろいろ出してくれたので、なにやらお腹もいっぱいになってしまった。
 やれ何々がおいしかっただの、ごちそうさまだの、今度作り方を教えてだの、と畳みかけるように発言して、玄関を出る二人に、ティムーは首を振った。

「二人とも、違うでしょ?」
「……勉強になりました」

 今日の本題は、機械のしくみを(ほんの少しでも)理解すること、だった。
 ティムーは、コップや皿を使って歯車だとか、上下のピストンの運動を回転に変える装置だとかの仕組みを説明してくれ、男二人は、へえー、という顔をしながら、お茶を飲んだ。ついでに、彼女がお茶菓子代わりに焼いてくれた砂糖入りの薄パンだとか、具のないソカットに彼女が作ってくれた炒め物をはさんだりして食べたのだ。
 スヴァーは数式を目撃したことによって学習への意欲は減退していたが、エナックが後先考えずに質問を連発したせいで、理解の方はともかく、それなりに楽しいおしゃべりになった。

 雨は小降りになっていた。
 先をあるくスヴァーに、エナックが怪訝そうな声で訊ねる。

「そんな美味しかったっすか?」
「……なにが?」
「なんか、足取りが妙に軽やかっすよ……目もきらきらしてたし」

 この寅人はあまり表情に出ないタイプだが、体は正直らしい。重りをイメージして、浮き立つ足を押さえる。そして言う。

「雨が好きなんだ」
「……雨宿りして、あんまり味わえなかったみたいっすけどね」
「すこし物足りないくらいがいい」
「そうっすか」

 日は暮れかけていた。たぶん、隊長にこってり怒られるだろう。

11

 そのとき、スヴァーは短い足で、雪をまたぎながら歩いていた。道の途中で吹雪きはじめたが、街の姿はまだ雪の間に見えたので、それを頼りに歩いていた。
 書き置きはしてきたものの、黙って出てきたので、母はいまごろ怒っているだろう。それとも、雪国の寅人がこの程度の吹雪で死ぬはずはないと、悠長にお茶でもすすっているのかもしれない。通いなれた道ではある。

 アロトーのほとんどがそうであるように、大都市も少し離れれば田舎だった。大きな港のあるアロタハーならばまだしも、ここはアロティチ。首都アロティチは、島の王と寅の王を頂く壮麗な城下町だが、背後にそびえる白銀の山脈にはかなわない。
 その山脈の麓が、スヴァー・シルギットが暮らす母の家であり、目指す都が父の家だった。
 子供好きで、スヴァーをことさら可愛がってくれる父は、ここふた月ほど遊びに来てくれていなかった。母は、父だって遊んでいるわけではないのだからこういうときもある、というし、同い年の友人は、戦士の父と会えるのは年にいっぺんくらいだという。
 だが、スヴァーの父は商人だし、いままでだって月に二度くらいは遊びに来ていた。スヴァーもまた、ひと月にいっぺんくらいは、母につれられて父の家に遊びにいくのが恒例だった。しかしそれも先月、今月と延期になった。父母の都合はもとより、スヴァーももう十になり、学校もあるので、そういつでも行けるわけではない。
 だが、父はいつも言っていた。いつでも遊びに来いよ、と。

 それはもちろん、言葉通りの意味と言うよりは、いつでもおまえに会いたいのだという愛情表現だったのだろう。スヴァーも子供とはいえ、そのくらいのことは理解していた。
 だが、二ヶ月も来ないなんて、スヴァーの我慢と不安も、そろそろ限界だったのだ。冒険心だってうずいていた。
 雪はどんどん降っている。だが大丈夫。寅人は子供といえども健脚だから。

 街へ入ってしまうと風は弱くなったが、まだ雪は降っていた。父の家は、街についてしまったら、そほど奥に入ったところではない。小走りに走って、すぐにたどり着いた。
 庭はないが、洒落者の父らしい白い壁のすっきりした家。二階立てで、玄関の横の小さな窓に、四色の色硝子がはまっている。そんな家に住んでいる父が、彼は少し自慢だった。
 戸をトントンと叩く。返事はないが、鍵はもらっていた。鍵穴に差して、回すのだ。いつもは母と一緒なので、今日は少し心細いが、少し誇らしい。
 留守だと思っていたので、玄関を入った広間に火が焚かれているのを意外に思った。

「父ちゃん」

 縦長の、大きな囲炉裏に向かってスヴァーは呼びかけた。今度は、天井のほうへ向かって父ちゃんと呼ぶ。
 スヴァーの父親は、寅人の中でも目立って背が高かったので、選んだ家の天井も高い。彼の声だけ反響する。
 便所かな。書斎かな。急用で呼び出されて、事務所に行ってるのかもしれない。
 スヴァーはそう思いながら、長靴を脱ぎ、囲炉裏のそばに敷かれた絨毯に座った。いつもは父が、室内用のすこし厚手の靴下をすぐに出してきてくれるのだが。かじかんだ手を火にかざし、裸足の足をこすった。

 スヴァーの足がようやく暖まった頃、階段の上で、床板がきしんだ。父にしては小さい音だったが、それでもスヴァーが階段のほうへを目をやったとき期待していたのは、間違いなく父の姿だった。
 赤い毛布を頭からかぶった小さな影が、壁にかくれるようにしてこちらを伺っていた。誰と尋ねる暇もなく、スヴァーと目があったとたんに、それは二階へとかけだした。
 スヴァーは叫んだ。

「どろぼう!」

 彼は立ち上がると駆け出し、飛ぶように階段を上がった。階段から顔がでると、赤い毛布の固まりは一番奥の部屋へと転がり込むところだった。扉をぴしゃりと閉め、どうやら鍵をかけたらしい。
 スヴァーはその扉を一回強くひっぱって開かないことを確認すると、廊下にあった椅子を扉の前に乱暴に置いた。隣の部屋の扉をあけて、窓まで走る。開けた窓から首を出して、となりの部屋の窓を確認する。
 まだ続いていた吹雪が、スヴァーの後頭部を叩いた。
 窓は開いてない。下の雪にも足跡はない。つまり、まだ部屋にいる。
 スヴァーはどうしようかと迷ったが、窓を見張ることにした。椅子が動く音がしたら、そちらに走ればいい。
 だが、すぐに玄関から音がした。扉が開き、乱暴に閉じる音。
 まさか逃がしたのかと、スヴァーは慌てて階段を降りた。
 大きな影が、戸口で雪を払っていた。

「やあ、スヴァーか!」

 雪まみれの父は、目をまん丸くして息子を見た。スヴァーにそっくりの空色の瞳。くっついた雪を落としても、まだ雪のように白い頭。
 父は頭の雪を払い終わると、上着を脱いで、灰色の毛皮の息子に笑いかけた。

「こんな日に来るとは思わなかったな、母ちゃんは?」
「父ちゃん、どろぼうだ!」
「どろぼう? ……どこに?」
「一番奥の部屋に逃げた。窓から逃げたかもしんないけど、まだいる」

 それを聞いて、父は明らかに狼狽したようだった。
 上着を投げ捨て、慌てて階段を駆け上がった。スヴァーは短い足で後を追った。階段を登りきったところで、父が扉を叩く物凄い音と「レタ!」という叫び声が耳をつらぬく。
 レタ?
 父は大柄だったが、そのぶん扉も丈夫に作ってあった。何度かゆさぶってみて駄目だと見ると、すぐ隣の部屋へと飛び込み、開けっ放しの窓から、外に出てしまった。

「スヴァーは隠れてろ!」

 追ってきた息子を振り返って、そう怒鳴った。そしてそのまま壁の出っ張りを踏んで、隣の窓を開け、隣の部屋の中に飛び込んでしまった。
 スヴァーは、父の書斎の机の下にもぐり、不安なまましばらく小さくなっていた。何の騒ぎも聞こえない。父は盗賊を倒したのだろうか。それとも入ったとたん、やられてしまったのだろうか。父は戦士ではなく、商人だ。
 待っている時間は、ずいぶん長く感じた。
 カチャリと小さな音がして、扉から足音が出てくる。

「スヴァー」

 父だった。喜びのあまり立ち上がろうとして頭をぶつけ、顔をしかめながら机の下から這い出た。
 父がいた。赤い毛布の包みを片腕に抱いて。
 スヴァーは目を剥いた。

「とうちゃん、それ!」
「あー……スヴァー? この子は、泥棒じゃないんだ」

 父は、その子の頭を覆う毛布をそっとおろすと、その長い黒髪を慈しむように撫でた。

「レタだ」

 レタは泣きはらした黒い目でスヴァーを見下ろした。白目の大きい黒い目。頭にだけある、黒く長い髪。するんとした、毛のない肌。
 人間だ。

「この子は父ちゃんの……」

 父はそう言いかけて、少し困ったように息子と彼女を見比べた。

「娘、みたいなものかな?」


 スヴァーの父、スブラ・シルギットがレタに出会ったのは、買い付けに出かけたアロタハーでのことだった。知り合いの船で織物を見せてもらっていたとき、たまたま隣に停まっていたのが奴隷商人の船だったのだ。
 知り合いが奥へ品物を取りにいっている間に、彼はその船から出てくる奴隷たちを、なんとはなしに眺めていた。
 清潔な服を来た若い人間の女たちが十人ほど、船から降りるところだった。船もこぎれいで、女ばかりなのを見るに、おそらく家事奴隷を扱っているのだろう。この島で需要があるのは、俄然、家政婦としての奴隷だった。
 彼女達は、先導の寅人に従って一列に並んだが、最後に出てきた少女がしきりに後ろを気にしていた。気を揉んでいる様子で、落ち着かない。
 それを、スブラもなんだろうと見ていた。
 少しすると、彼女たちに指図していた寅人の男が気がついて、憤慨した様子で船へと戻る。さっきまで落ち着かなかった少女の顔が青ざめた。
 船から引きずり出されたのは、ひときわ小柄な人間の女の子だった。引っ張られて痛いのだろう、顔をゆがめたまま、その男の腕にぶら下げられ、列の最後尾に立たされた。
 叱る代わりに男は彼女を軽く小突いた。大げさによろめいたのが、監視役の寅人は気に入らないらしくぶつぶつ言っていたが、スヴラは彼女が立っているほうが不思議だった。
 がりがりに痩せていた。頬もこけていた。ほかの少女より頭一つ小さいのも、幼いからなのか、栄養が足りていないのか、判断がつかない。
 男が行ってしまうと、となりの少女が、彼女の痩せた背を撫でた。ずっと俯いていた彼女が、少し顔をあげる。
 港町がめずらしいのか、おずおずと周りを見渡した。そして、目の前の船を浮かべている水面に目をやり、それから、ゆっくりと上を見た。
 黒い瞳だった。
 臆病だが、反抗的で、暗いが、理知的な目だと思った。
 スヴラの話し相手は奥から戻ってくると、奴隷船に釘付けになっている彼を見て言った。

「シルギットさんは奴隷解放派でしたっけなあ。でも、許可を受けた奴隷商人ですよ。あすこはちゃんとしてて、客もみて、変なのには売りませんから。無許可のとこは、いろいろ、かわいそうだけどねえ……。私はべつに解放派じゃあねえですけど、ああいうのはね、ちゃんとしねえとだめですよ」
「あの船の方とは、お知り合いで?」
「あすこで買ったのを、女に贈ったですよ。いい子だそうですよ。俺は旅暮らしだから、持ってませんがね。人間の女じゃ、留守番にもならんし」

 彼は、商品の買い付けのために港町に滞在している間、その日のことは出来るだけ考えないようにしていた。
 しかし、実際は三日間悩んだ。その奴隷商人を紹介してもらうか否かを。その度に彼は、紹介してもらってどうする気だと自分に問いかけた。買うのか? まさか。奴隷解放派の自分が奴隷を買うなどと。連中の懐に金を投げ込むなんて、そんなことをしたいわけじゃない。そう、買いたいわけじゃない。そう。そうだ。自分は、痩せ過ぎの彼女が、虐待されていないかをどうかを確認したいだけなのだ。
 奴隷商の頭は、きちんとした身なりの、感じの良い男だった。スブラがおずおずと、痩せ過ぎの少女を見かけて気になるのだが、と提案しても嫌な顔ひとつせず、どうぞ見ていってください、と言って自ら案内してくれた。

「買い付けは部下に任せております。彼の話では、途中で寄った港で、人間の男に買ってくれと提案されたそうで。途中では買い取ってないんだって言ったんだそうですが、向こうも折れなくてね……。向こうでもろくに食べてないふうで不憫だったのと、ここらじゃ黒髪が好まれますんでね、買ったらしいんですが」
「……人間が売りに?」
「我々は、べつに人さらいしているわけじゃないんですよ。たいてい親が売りに来ますし、人間の奴隷商もけして珍しくない……父親って感じじゃあなかったそうですから、後者でしょうね。ペーシュもアムも認可制になりましたから、連中も廃業するんでしょう。
 もともと痩せてたんですが、船も初めてだったらしくて、余計痩せてしまいまして。うちはどのみち、しばらく置いて躾てから出すんですがね……私が見たところ、なんというか、ちょっと神経質すぎるかな」
「どうするんです?」
「普通は買い手に戻しますよ。まったく、こういうのは買わんようにって言ってるんですがねえ……」

 彼はそう言って、奴隷たちが置かれているところに案内してくれた。
 まだ躾の済んでいないらしい女の子たちが、興味津々という感じで、二人の歩く廊下を覗き込むのを、躾係がはんぶん笑いながら追い払っていた。
 奥の一部屋に通された。それから少しして、あの少女が入ってきた。
 少しだけ話をした。彼女はぎこちなくお辞儀をしたあとは、彼の話におずおずと頷くだけだった。それから、黒い瞳でスブラを見た。
 おとなしすぎるほどおとなしく、どこかどんくさい印象だったが、視線だけは図々しいくらいにまっすぐで、黒い瞳には傷と反抗心が宿っていた。
「要領が悪くてね」という男の評を、スブラは信じなかった。

 アロタハーからアロティチに帰ってきたとき、スブラは内心弱っていた。彼の腕には、痩せぎすの人間の少女が抱えられていたからだ。同じ奴隷解放派の友人には、今後、口を利いてもらえないかもしれない。
 これでもあの面会の日から、三日悩んだのである。結局、出立という日の朝にあの店に飛び込んで、言い値で買ったのだった。
 店の方はもうすっかり判った風だったので、自分のような客はときどきいるのかもしれない。悔しいような気もした。値もけして割安ではなかったが、気にはならなかった。

「名前は?」
「……チビって」
「ご両親から貰った名前は?」
 彼女は困ったような顔でスブラを見た。奴隷商のところで見た目とは違い、そのときはただ、臆病な娘にみえた。
 結局、レタと名をつけた。

「ご両親からもらった名前があるだろうけども、何、名前なんて、三つ四つあっても困らないさ」

 レタは頷いた。

 友人にどう説明するかはともかくとして、とにかくこの棒のような娘を、食べさせて、暖かくしてやらなければ。
 幸い寝具は少し余分なものがあったし、天井が高くて便利でそこそこ静かな通りに面している、という条件で探した彼の家には、空き部屋がいくつもあった。
 日当たりのいい部屋を見せて彼女に選ばせるつもりだった。しかし、良さそうなところを順に見せてどこがいいか尋ねた。
 泣き出してしまった。
 一体なにがいけなかったのか。
 なだめすかしてようやく聞き出すと、なんでも「正解」が解らなかったので、叱られると思ったという。彼女は「謙虚と服従」を学ばされていたが、物覚えや察しが悪かったので、よく罰を受けていた。
 仕方なく父が選んで、小さなベッドを与えてやったが、寝ようとしない。最初は単に慣れないのかと思い、とりあえず部屋のすみに毛布を重ねて寝床を作ってやったが、夜中、床の上で凍えているのを発見して仰天した。
 なんで寝ないんだと思わず声をあげてしまったところ、やっぱり泣き出してしまった。
 こちらもなだめてすかしてようやく聞き出すと、なんでも、前いたところでは、綺麗で暖かそうな毛布と粗末な毛布が並べてあって、誘惑にまけて綺麗な方を選ぶと叱られるという、非常に意地の悪い教育がなされていた。今回は「粗末なほう」がなかったので、床で震えるほかなかったということらしい。
 どうもこういう融通の利かないところが、奴隷商の評価が芳しくなかった理由らしい。だが、とにかく、彼女は奴隷向きではなかった。
 痩せていた。神経が細かった。一人で黙々と何かをするのが好きだった。自分をごまかすことが得意ではなかった。物思いにふける癖があった。
 そういうわけで二ヶ月ちょっと、彼女にかかりきりだったらしい。
 レタはまだ痩せてはいたものの、健康的な心身を取り戻しつつあった。当然のようにスブラの膝に座り、肩に小さな頭をあずけたまま、父が火をくべるようすを見ていた。

「本が好きみたいなんでね、いま、字を教えてるんだ」

 スヴァーは二人の横に、むすっと口を引きむすんで座っていた。ずうずうしい子だと思ったし、それを気にもしていないふうな父の態度も気に入らなかった。まだたった二ヶ月しか『娘のようなもの』をやっていないのに。
 父は鍋で、簡単なお菓子を焼いてくれていた。甘いお茶も。
 父がお菓子をひっくりかえすのを見ていると、

「絵の本……」

 そう、レタがささやくように言った。
 ちらっと彼女のほうを見てぎょっとした。黒い瞳はスヴァーをみていた。

「そうそう、絵のある本が好きなんだ。布の見本帳を一冊とられてしまった。スヴァー」
「何」
「そんな離れたところにいないで来なさい。父ちゃんの膝が片方開いてるんだ、埋めてくれ」

 あぐらをかいた父は、レタを座らせたのと反対の膝を、大きな手のひらで叩いた。
 たき火がぱちぱち燃えていた。
 すこし渋るようなふりをしてから、スヴァーは父の膝に座る。
 レタはまっすぐスヴァーを見ていた。黒い目のなかで火がはぜたかと思うと、小さく笑った。新しく薪をくべた父が、大きな音におおげさに驚いて見せたからだった。でも彼女はスヴァーに向かって、おかしいねえ、というように笑いかけた。

 レタが、スヴァー・シルギットの初恋の相手だった。

縞と肌、機械の獣

縞と肌、機械の獣

小説家になろうに掲載していたものの、途中で先の展開の辻褄が合わなくなる点に気づき、掲載を取りやめたものです。そのうち直して書きたいなと思っているのですが……とりあえずここに置いておきます。(なろうアカウントは現在削除済みです)

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
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