自動販売機で炭酸水を買おうと考えた僕はアパートから出た。自動販売機は駐車場の横にあり、ボックスは赤色で塗装されている。白っぽいライトが夜中の冷たい空気を照らしていた。それで僕は赤いボックスの目の前に立ってポケットから革財布を取り出して小銭をつまんだ。投入口にコインを三分の一ほど入れた時だった。コインは指からすり抜けて地面に転がった。軽い音がなり自転車の細いタイヤの様に直進した後、縁石に一度ぶつかり金属の溝の口に落ちて行った。僕は勿論の事であるが必死になってコインを拾いに向かう。しかし金属の溝の奥の底は予想以上に深くて暗く、コインの姿さえも反射する煌めきさえも無かった。僕は肺細胞から浮いてきた弱いため息を吐いた。それで、この場から去ろうとして足元に視線を移すとサソリのブローチが落ちていた。嫌に青々強い色だった。僕は虫とか好きではないが、そのサソリのブローチは綺麗に思えた。形とか光沢とかではない。多分。薄暗いこの時間に僕の後方でパチパチと光る自動販売機のバックライトの所為であろう。右手を伸ばしてサソリのブローチを拾い、ポケットに仕舞い込んで自動販売機でハチミツの入った炭酸水を買った。
 アパートに戻った僕は丸いテーブルにアルミ缶を置いてドサリと土のう袋を投げた様な音をあげて座った。サソリのブローチもアルミ缶の隣に置いた。テレビの電源を押すが反応しない。壊れているのか? 僕はイラっとしてノートパソコンがある樫の木で作られた机に向かい其処に座る。電源を入れてネットサーフィンをし始めた時である。
 猫の手で叩いた様なノックが玄関の扉からなった。それがノックだと気づくまでに僕は結構な時間を要した。しかし、どうも風によってもたらされた音でもない。野良猫が叩いている様子でもない。それで僕は自分のアパートの扉がノックされている事に気づいた。この時間帯に僕を呼びかける奴なんていない事は僕自身が百も承知なので、嫌な気分になりつつも、僕は玄関に行った。
「はい。何でしょうか?」
 僕の質問の声はこの薄い扉を容易に貫通した筈だ。思った通りである、すぐに返答が帰って来た。
「夜分遅くにすみません。と言うのは先ほど貴方が拾ったブローチなんですが、あれは私が落としたものなのです。先月の4月にクリーニングセンターに入社した私は管理職に任命されました。と言っても管理職ではありますがクリーニングをする下請けを管理するものでありましてネクタイを締めてスーツを身に着けて偉そうにするわけではなく、青い作業着を身に着けて下請け企業に指示をする役割であります。それで私の仕事の任命として羊のクリーニング、天秤のクリーニングでありました。朝早くから起きて清掃場に出勤して羊をホウキで掃き、天秤を布巾で拭くのです。これを毎朝必ず行い、少しでも埃がついていたら大変です。夜中になると全く持って光らず上司に怒られます。しかし最近は街のネオンが綺麗でありますし、それに注意を向ける人は少ないです。それに加えて夜中でも空気が悪い、排気ガスが充満しています。毎朝、どんなに綺麗に磨いても汚れる始末です。私は一体何の為に一生懸命に働いているか分からなくなってきました。それで同期の方と居酒屋に行ってラム酒と焼酎を飲みふけりました。すると同期も近頃の乙女は化粧が濃い、排気ガスやメタンガスに影響され過ぎだ。とか、双子のクセに頭の色をオレンジや金髪に染めるもんで双子らしさがない。俺はこいつらを毎朝、風呂に入れて綺麗にしてやるのに朝方になるとグレて帰ってきちまう。笑えねぇよ。と文句を言ってラム酒をグビグビと飲むものですから、私もそれに便乗して焼酎をロックで飲んだのです。それの所為です。私の目覚めと言うものは酷い頭痛から始まりました。シャワー浴びて歯ブラシをして作業着に着替えていた時です。会社の携帯がうるさい音で鳴りました。その音は私の頭をピッケルで刺しているものです。電話に耳をあてると上司から昨日、同期の一人が辞めやがったからそいつが担当していたサソリをお前がクリーニングやりたまえ。との事でした。私は死にそうな声で承諾の返事をして電話を切りました。私は鉄道に乗って現場に行き下請けの業者に何時も通りの指示を出します。羊の背中や角を洗ってワックスもかけてね。天秤の洗剤は倉庫にあるから持ってきてね。と言った具合です。私はひと段落をして休憩所で休みました。ウトウトして瞼を閉じたのです。なんせ、二日酔いです眠たくなります。次に目を覚ました時には午後の17時半でした。私は飛び上がって一目散にサソリの現場である場所に向かいました。息を切らして到着しましたが、もう時間がありません。私はブラシと布巾と掃除機を持ってサソリの背中を洗いました。洗剤を泡立てて汚れを落とそうとホースを持ち水を出しました。しかしサソリはジタバタと暴れました。まさかサソリが水を嫌う事を知っていませんでした。私がそれを瞬時に理解した時にはもう遅かったのです。サソリは台座から飛び上がって落っこちたのです」
 若い青年の声がそう言い終えた時、僕はさっきアスファルトの上で拾ったサソリのブローチを思い出した。
「僕が拾ったのはブローチだ。サソリの形をしたブローチだ。仮に君が述べている事が本当だとしてもこれはブローチだ。生きているサソリではないよ。生きていない。何かの金属で造られた物質だよ」
 ドアの向こうの青年は答えた。
「確かに貴方が拾ったのはブローチかもしれません。でも生きているサソリかも知れません。何かの鉱物で造られた産物かもしれません。神経の通った意思のある生き物かもしれません」
「つまり僕に返せと言っているんだな」
「ええ。申し訳ございませんが渡してもらってくれませんか? このままでは私、上司にこっぴどく叱られて夏のボーナスがないかもしれません」
 僕はこのドアの向こうにいる男が哀れに思えてきた。だから僕は丸い机に戻ってサソリのブローチを取った。取ったのは良いのだがシャツの袖がアルミ缶に引っかかって黄色い液体をサソリのブローチにぶちまけってしまった。僕は慌てテッシュで拭いた。玄関に戻った僕は玄関の扉を軽く開いて「これだろ。これ。いいから持っていきな」と言った。
 青年は「ありがとうございます。ありがとうございます。」と言って立ち去って行った。
 僕はドアを閉めて鍵を締めてチェーンをかけて布団に入った。世の中には変な奴が結構居るもんだ。
 翌日の夜はなんだが、甘いハチミツみたいな匂いがする夜だった。

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更新日
登録日
2018-02-04

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