好きな料理

 仕事を終えて18時過ぎ。職場から少し離れた繁華街で待ち合わせをする。今日は教え子に5年ぶりに再開する。
 誘われたのは数日前。フェイスブックで突然連絡が届いた。妻に言われて名前だけ登録してあるだけのSNSにまさか誰かから連絡が来るとは思いもせず、返信するにも指が震えた。相手は相沢ゆきであった。相沢は私のクラスの生徒だったが、特に目立つ生徒ではなかった。学校生活も大学受験も問題がなかったため、三者面談もあっさり終わり無駄話をしてしまった覚えがある。(あれは余計なことだった)
 「佐藤先生。こんにちは。覚えていらっしゃいますか?5年前お世話になりました相沢です。今度一緒にご飯を食べに行きませんか?」
 さて、このメールにどのように返事をするべきか私は頭を抱えた。当たり前だが生徒と先生のプライベートの関係はタブーである。これが18歳未満の生徒であったら断ればよい。だが、相手はすでに学校を卒業し20歳を超えた女性。言ってしまえば他人である。私には妻がいるが、彼女は外で飲みに行くことも仕事のうちという考えを持つため、飲み会には寛容だ。仕事だったらの話だ。相沢と飲みに行くのは仕事だろうか。元教え子と飲む。ふむ、仕事らしい。だが、女性と飲むと言うとそれは不倫に当たるだろうか。
 パソコンの前で眉間にしわを寄せて腕組みする私を見て、妻は笑っている。
 「試験が終わったのに、まだ何か作ってるの?」
 「ああ、ちょっと部活で新入生用に資料を用意しなくちゃいけなくてね」
 結婚した頃に比べてやはり肌の張りや元気がなくなったようだが、それでも妻の笑顔は変わらず可愛い。花柄のエプロンを身につけて、皿洗いをしてくれている。私はいかにも仕事をしているかのようにキーボードを打つ。結局、相沢と飲みに行くことを妻には言えなかった。
 相沢からの返信は簡潔ですぐに飲みに行く日取りが決まった。今のクラスの生徒だったらこうはいかないだろう。大人なんだなと思う。下唇を噛んで頬が緩むのを堪えた。
 相沢がやってきた。彼女は白いニットと膝下ほどのチェックのスカートを着ていた。茶色いコートのふわふわとしたファーが彼女の柔らかさを表わしているようだった。
 「お久しぶりです。先生お変わりないですか?」
 にこりと微笑む彼女の睫毛は、高校のときに比べて長く目元がキラキラと淡いピンク色に輝いている。大人だ。想像よりも女性らしい相沢の姿に浮つく心を隠すことができず、上ずった声で返事をしてしまう。
 「ああ、相沢も相変わらずだな。行こうか」
 「はい」
 私より頭ひとつ小さい相沢からほんのりバニラの香りが漂う。私は柄にもなく緊張をしていた。たかが教え子なのに!5年前までは今の生徒たちと同じように子どもだと思っていた。学校にいるときにこの緊張は感じたことがない。それこそ妻と出会った頃のような……否、そんなことはない。薬指の指輪を撫でて気持ちを落ち着かせる。いつもと違う人と飲みに行くことに緊張しているだけだ。今日は先生として過ごす。
 居酒屋に着席すると相沢は慣れたように、ビールと簡単なつまみを註文してくれた。よく飲みに行くのだろうか。
 「先生、今日は来て下さってありがとうございました。突然連絡して迷惑じゃなかったですか?」
 長い髪の毛を耳にかけて挨拶をする。露わになった耳できらりとピアスが揺れた。
 「いやいや、嬉しいよ。お疲れ様です。大学卒業して、今はどうしてるんだっけ」
 「今は丸の内の商社で働いてます。」
にっこりと笑い、ビールを一口飲む。彼女の唇が艶めいて、何でもない仕草に目を奪われてしまう。
 「さすがだね。高校の頃から相沢は優秀だったからな。」
 「いやー、毎日ヘマしてばかりで大変ですよ」
 サラダやほっけ、だし巻き卵をつまみながら、相沢は話す。私は3杯目のビールを飲み始めていた。
 「私、ずっと先生にお会いしたかったんです。聞きたいことがあって」
 人が増えてきた居酒屋で、相沢の声が少し大きくなる。私もよく聞こえるように少し距離を近づけた。
 「三者面談のときに先生、ハヤシライスとカレーライスの話をしたでしょ。あれってどういう意味だったのだろうとずっとお聞きしたかったんです」
 ハヤシライスとカレーライス。私は思い出す。三者面談のときの余計な雑談だ。彼女と彼女の母親の前で時間を潰すために話した話。早く帰せばよかったと後悔しているあの日のことを彼女は覚えていたらしい。
 「えっと、先生何を言ったか覚えてますか?」
 「ああ、覚えているよ」
 それはこんな話だった。
 世の中にはカレーライスが好きな人がたくさんいる。インド人も日本人も大好きだ。だが、ハヤシライスはどうだろうか。カレーライスに比べて人気は低い。スパイスは入っていないし洋風なだけの中途半端な日本料理だ。私はハヤシライスが好きだが、どうも昔から好きな料理を聞かれるとハヤシライスと答えられない。私はいつもカレーライスが好きだと言う。私たちの教え子にはハヤシライスが好きだと言える人に育ってほしい。
 今思い出しても恥ずかしい。意味が分からない。なぜあんなことを言ったのか、ハヤシライスが好きなのに言えないということを打ち明けたのはあのときだけだった。妻は昨晩も私が喜ぶと思ってカレーライスを作ってくれた。
 相沢は空いた皿を取りに来た店員にありがとうございますと声をかける。ビールを飲み、瞳を伏し目がちにして話を続ける。
 「私、すごく印象に残っているんです。最初は、ごめんなさい。何言ってるか分からなかったです。ハヤシライス好きなら言えばいいのにって。それで友だちとか初めて会う人には必ず『好きな料理なに?』と聞くようになりました。ハヤシライスと答える人はまだ会ったことがないです。カレーライスと答える人は多いですね。
 それに私はひとりでハヤシライスの美味しいお店に行きました。すごく美味しかった。これを好きと言えないのはなぜなのだろうって、思います。私はハヤシライス、好きになりました。先生は今もハヤシライスが好きだと言えないのですか?どうしてあの話を私にしてくれたんですか?」
 そして相沢は私の瞳を覗きこむように見つめた。まんまるの黒眼に自分の顔が映る。それはもう若くない、教師を始めた頃の情熱もない、ただのおっさんだった。
 私はおしぼりで顔を吹き、あーと声を漏らす。隣の席のサラリーマンの騒ぎ声が私たちの席の静寂を不自然にさせる。相沢は私を見つめている。私はその目を見つめ返している。私は強張る唇を無理やり動かして、話した。
 「相沢、あれはなんでもなかったんだ。俺はカレーライスが好きだよ」
 相沢の表情が曇る。視線はビールに落ちて、ジョッキの持ち手を握ったり離したりした。
 「美味しいハヤシライス、一緒に食べたかったんですけど、それなら仕方ないですね」
 「そうだね。仕事頑張ってね」
 私は指輪を痛いほど握り締めていた。
 お会計を済ませて店を出た。相沢はにっこりと笑って私にご馳走さまですと言う。私はまだ心が震えている感覚があり、うまく別れの挨拶ができなかった。酔っていたのかもしれない。
 私は帰宅して、シャワーを浴びている間に今日の相沢の様子を思い出していた。とても可愛らしく朗らかで楽しかったというのが正直なところだ。ハヤシライス、か。シャンプーを流す。私は最早ハヤシライスが好きとは言えないところまで年をとってしまったのだ。流れていく抜け毛を眺めてそう思った。
 妻が深夜番組を見て笑っている。子どもはすでに眠っているらしい。私は妻を後ろから抱き締めて、キスをした。妻は驚いていたが、私に身を委ねた。その日の夜は飲み過ぎたせいで勃たなかったが、妻は満足げに私を抱き締めて眠った。

好きな料理

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  • 小説
  • 掌編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-04

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