長編『イデアリストの呼応』五章
プラスチック・ハザード:雅紀の造語。『無機質な災害』の意。
1
翌日の土曜日。安形雅紀の緊張はピークに達していた。
この身を取り巻く昼の八王子の喧騒が、ぶ厚い壁で隔てられた別世界の騒音のように思える。この胸の高鳴りの方がよっぽどうるさくて現実的だ。
――今日、オレは革命を起こす。この世界を変えるきっかけを生み出すのだ。
「オレにしかできないオレにしかできないオレにしかできない……」
自分は特別な存在だ。最も崇高で限りない自由を与えられた偉大な人間なのだ。
ストゥーピッドという無敵の能力を持つ少女――ナツキは雅紀にこう依頼した。
『ボク、どーしてもあの神父殺したいの。でもボクの能力を発動させるには、相手の攻撃意思が必要不可欠なんだ。あの平和ボケした聖職者にはたぶん、それが無い。だから雅紀。あんたにやってほしい。ちょうどいいじゃないか? 前々から言ってたよね。最大の自由を感じてみたいって』
そうだ。その通りだ。自分がより自由を感じれば感じるほど、世界は変化する。
限りない自由の世界へ民衆を導くこと――それは最大の救済行為なんじゃないか? いつも抑圧された生活を強いられ、苦しんでいる人たちを助けることに繋がるのだ。
だから自分は、常に最高の自由を追い求めねばならないのだ。
「ありがとう、阿礼さん……。すべてのきっかけを与えてくれたのは貴女だ。ふふふ……」
ニヤニヤしていると、ターゲットがデパートの入り口から姿を現した。
両手に持つビニール袋には駄菓子が詰め込まれている。きっと、ミサだか何だかで子供にバラ撒く代物なのだろう。実に平和なことだなあ。
雅紀はズボンのポケットに忍ばせているナイフを握り、彼に近づいていく。
『プラスチック・ハザード』展開。
半径三キロ以内に殺害意思を持つ者を検索――ヒット数は八人。ここから最も近くにいる該当者は、ここから約百メートルのところにいる。よし、そいつの殺害意思を借りよう。
「やるんだ。やらねば」汗で体中がジトジトする。「やるんだ、オレは……今!」
しかし、神父の巨体を目の前にすると、雅紀は途端に萎縮してしまった。
「ん? どうかなさいましたか?」
そいつはにっこりと微笑んでくる。そんな風に笑うな。オレはお前を殺そうとしてるんだぞ。
「う、うう……」
「理由や経緯は分かりかねますが……」にこにこする神父。「そのポケットの中身は、穏やかではないですね」
「なっ! なにを……!」どきり、として全身が一気に冷たくなる。
「それにあなたは、ずいぶんと多くの罪を抱えてらっしゃるようです」
平然と神父は言う。雅紀のすべてを知り尽くしているかのような口調だ。
「は? 意味不明なんですけど……なんで初対面のあんたにそんなこと言われなくちゃなんねえの?」周囲は雑踏で喧しいはずなのに、自分と神父の二人だけの空間が丁寧に切り出されて、どこか静寂な場所に放り出されているような錯覚を覚えた。「あ、あんた……オレがこれから何するか知ってんの? え?」
「お止めなさい」神父は首をゆっくり振る。「あなた自身の心は、それを望んではいないはずですよ」
「な、なんで……? 意味わかんないって」
「わたしには見えているのです。あなたは殺人以外の悪行に、おおよそ手を染めているようですが……まだ心の芯まで染まり切っていないことは、その表情から察せられます」
「は、はあ? 頭大丈夫ですかー? 調子のんなよ。妻も子供もつくれねえ種無しのインポ野郎のくせによー!」
「要するに、拒絶反応を起こしているのですよ。自覚しているのでしょう? 全身から噴出す汗。引きつって歪む顔。そして何よりも、ナイフを握る手に力が入らない。違いますか?」
神父の目は動じない。ぴたり、と雅紀の顔に据えたまま、静かに光っている。何もかもお見通しだ、と言わんばかりに。
「しゃべんな種無し……。オレはなあ、何しても許されるんだよぉ……。カミサマだってさ、地上で起こるすべての罪を許してくれるんでしょ? じゃあもう、何したっていいってことじゃん! 犯罪イコール自由ってことじゃね!?」
「それは戯言ですよ」神父はきっぱりと言い切る。「己の罪を直視し、悔い改める心にこそ、祝福と許しが与えられるのです」
「グチグチるっせえ! クソインポが……」
ナイフを握る手がぶるぶる震える。この神父の言うことがことごとく正しいと思っている自分がいる。しかし、それは偽りの自分なのだ。――これは試練だ。偉業を達成するには、いつだって必ず大きな壁が立ちはだかるものじゃないのか?
オレは最高で究極で至高の自由を手に入れる! それは何よりも素晴らしいことだ! それと比べりゃあこんな種無し神父の命など!
殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!
「さあ、ナイフを捨てなさい」神父はビニール袋を床に放り、両手を広げる。「今のあなたには十分すぎるほど許される権利があります。そんなにまで苦しんでいるのですから。さあ……」
「う、うわあああああ!」
自分の体が自分のものじゃない気がした。ただ、ナイフを前方に押し出すだけのマシーン。それだけの働きしか持たない、冷徹な作業機械。
心などは無い。
気付けば胸からおびただしい血を溢してうずくまる神父が足元にいた。そいつは何か、ぼそぼそと言っている。こういうのを虫の息というのかな?
「主よ……赦したまえ……すべての罪を……赦したまえ……赦したまえ……」
よく見ると、そいつは土下座に近いポーズだった。なんだこれ? 祈ってるのか? 雅紀は「くはっ」と乾いた笑いを上げる。マジで!? こんなになってまで、カミサマにお祈りぃ!? ご苦労さん! 種無しインポさんは、オナニーの代わりにこれぐらいしかすることがねえんだな! ははははは!
「笑わせんなバーカ! ひゃはは! ははははははははははは!」
雅紀は哄笑しながら駆け出す。最高に愉快! いい気分。しかもこれは、オレのせいじゃない! ここから百メートル離れた見知らぬ誰かがやったことなのだ! こんな人ごみの中で人殺しまでしたってのに、誰もオレを見ないんだね! どんなことをしたって、誰もオレを見ない! 果たしてこれ以上の自由がどこにあるだろうか!
2
自分が死と生の狭間で漂っていることを、伊豆倉は薄れ行く意識の中で感じた。
元々、長生きするつもりは無かった。ただ限りある命の時間を、苦しみ喘ぐ人々のために捧げ、この身に宿る愛情の芽を最大限まで育み、満たされながら最期を迎えられたならば、それほど幸せなことはないだろう、と考えていた。
今まで数多くの罪人を救ってきたつもりだったが、あの少年は救えなかった。歯止めが効かなくなった彼はおそらく、これから数多くの重罪を積み重ねていく。しかし、彼もやがては理解することだろう。己の悪行の浅ましさに。
なるべく早く……彼自身の心が壊れてしまう前に気づいて欲しい。
もう、自分には祈ることしかできない。
ふと、マリィの顔を思い浮かべる。
――本当の娘のように思っていた。憎しみと絶望に沈んでいたマリィに主の教えを授け、これからもずっと優しさの光を与えていくつもりだったが……マリィ、すまないね。わたしはもう動けない。
誰も恨まないで……なるべく誰も恨まないで、自分の信じる道を歩んでほしい……。
――光が見えてきた。これは……なんと素晴らしいのだろう……。
3
「ねーママー、あれなーにー?」
「しっ! 見ちゃダメ!」
デパートに入る親子が、跪拝する伊豆倉の死体を一瞥しては無視していく。
ほかの人々も同様で、それを見て見ぬフリをして、むしろ嫌なモノを見てしまった、という不愉快な顔をして通り過ぎていく。
警察と救急車が呼ばれたのは、伊豆倉が刺されてから四十分が経過した頃である。呼んだのはデパートのスタッフであり、店の集客率に悪影響を及ぼすから仕方なく、重い腰を起こして一一〇番通報したのであった。
この群集の異常なまでの無関心な態度は、『プラスチック・ハザード』のイデアエフェクトの効果であった。
4
「おい練吾! 今どこにいる!?」
通話を始めた途端、雫の大声が寝起きの頭にキーンと響き、練吾は顔をしかめた。芋虫男の夢のせいで、朝から既に精神的に疲弊しきっている身にはつらい。
「朝からるっせえな……。布団の中だよボケ。これからバイトだから新宿行くけど」
「ニュース速報見てないの? マリィちゃんのお父さん……伊豆倉神父が殺された! 八王子駅に直結するデパートの入り口でやられたらしい! 犯人は分からない!」
がばっと飛び起きて、速攻で身支度をする。顔を洗う暇など無い。
緑色の革ジャンを羽織り、靴を履いて外へ飛び出した。
「どこへ行けばいい? 死後、どれくらい経過したか分かるか?」
「一時間! だいたいそれぐらい。犯人はおそらく、逃げてる最中かも」
「逃げてる? どうやって?」
とりあえず練吾は最寄り駅へ駆け出した。
「分かんないよそんなこと! とにかく現場近くまで来てくれる? あたしも今向かうから! そこで何か手がかりが見つかるかもしれない」
「今行く! この件はマリィに伝えたか?」
「いや……」ヒステリックな雫の声が、急に沈む。「とりあえず、優亜にマリィちゃんと会うよう、言っておいたわ。優亜なら上手く支えてくれると思うから」
「このことはマリィにはギリギリまで隠しておいた方がいい。あいつは多分、極度的に精神がやられている」オレのようにな、という言葉を呑み込む。「今そのことを知ったらアイツ、ぶっ壊れるぜ」
「ええ、わかったわ。それじゃあ、現場近くで待ち合わせましょう」
通話を切り、全力で疾走する。駅に着くとSUICAで改札を通り、出発間近の京王線に飛び込む。八王子行きの特急だ。ここから二五分くらいで着く。
車内は空いており、席もガラガラだ。しかし座る気にはなれない。
誰の仕業だ? まさかストゥーピッド? もしくはオレの全然知らない他人か?
伊豆倉神父の顔を思い浮かべる。真っ当に生きてきた聖職者の鑑たる顔だ。印象としては、恨みを買うようには見えない。
いや――問題は誰がやったか、ではない。その異様な状況だ。雫の情報を鵜呑みにするのなら、一時間前にデパートの入り口で殺された、という。つまり、犯人は土曜日のデパートの混雑時間帯に殺人を犯したということだ。あまりに大胆すぎる。普通だったら、誰かに取り押さえられたり、すぐに通報されて終わりだろう。
しかし――一時間前? 情報が出回るのが遅すぎるだろう。群集や報道はなぜもたもたしていたんだ?
不可解なことが多すぎる。練吾は顔を歪めた。
だが、今の自分にやるべきことは一つ。伊豆倉が殺害されてから二四時間以内に犯人を見つけ出し、裁くこと! 『理想切断』さえあれば、推理だの捜査だの面倒なことはすべてチャラだ。
思考を巡らせていると――ネックレスが赤く輝きだした。百メートル以内のテリトリーに強姦魔あるいは殺人者が入り込んだのだ!
練吾はすべての感覚をフル稼働させ、どこにいるのかを探る。
対向線路の方向から軋む音が聞こえる。八王子の方向から、新宿方面へ走行する便だ。
デュナミスの輝きが増し、そちらの車内に犯人がいると、警告している。
自動行動、開始!
練吾は車窓を瞬時に開けて外に躍り出た。そして、凄絶な風圧を満身に受けながら電車の屋根へ飛び乗る。獣のように両手を電車の屋根に張り付かせ、なんとかバランスを確保。
対向線路を時速約一一〇キロの車体が轟音を立てて漸近してくる――すれ違う瞬間、そいつに飛び移った。
見事にターゲットのいる、前方から三つ目の車両に移動した練吾は、すぐに車体の窓ガラスをドロップキックの要領で割って、そのまま身を滑り込ませた。
割れたガラスを踏んで立ち、ターゲットの方を睨みつけると――練吾は息を呑み、思わず自動行動を解除してしまった。
「いたい……、いたい……」か細い少女の声。
外道があああああああ!
ホームレス風の男が、仰向けの少女の両手をつかんで覆いかぶさり、せっせと腰を振ってアレを打ち付けていた。中学生くらいの少女は泣いている。男は笑っている。周囲の乗客は無表情で、ぼんやりとその惨状を眺めている。練吾は無意識的に男の腹を蹴り上げた。男は宙に浮いて呻く。ごろん、と仰向けに倒れた男の腹を何度も何度も何度も何度も踏みつける。肋骨が折れる音が何回か聞こえた。そして自動行動を再開させ、赤い刀で手足と性器を不能にする。男は気絶。練吾は一部始終を傍観していた乗客へ振り向いた。
「ナニぼーっと見てんだコラァ! 痴漢モノAVのモブかよてめーら! マジざけんじゃねーぞバカ野郎!」
最大音量の怒号を発すると、乗客たちは練吾に、気味悪げな視線を寄越してきた。
「おいおいなんだよその目は!? 一発ぶん殴って欲しいか!? ああ!?」
ずい、と練吾は客たちに踏み寄ると、ネックレスが揺れた。まだ赤く輝いている。まだ、近くに別の犯罪者がいる、ということだ。
最後部から二番目の車両にそいつがいる!
自動行動を開始して、そいつの許へ疾走――いくつか車両間を繋ぐドアを開けて進み、練吾はシートにもたれて座る犯罪者の目の前に立った。
「ひい! だっ、だれ、ですか……?」
そいつは三十代くらいの太った女だった。化粧の濃い顔を恐怖に歪めている。
デュナミスから送られる情報によると――こいつは一時間前に八王子で男を殺害したという。ビンゴだ。
「てめえか、外道は。八王子のデパートで神父を殺したな?」
「け、警察の人っ、ですか?」
「こんなナリのサツがいるか! とりあえず選べ。自首するか? ダルマになるか? どっちか一つ!」
「う……うううう……」すると、女はうつぶせに泣き崩れてシートから落ち、床に両手をついた。「気付いたら、気付いたら殺していたんですぅ……。夫を殺したかった……でも、間違えて……違う人を殺してしまったんですぅ……」
「間違えて殺した? 何いってんだあんた……」
こいつが殺したことには間違いない。そうデュナミスが教えてくれている。
「自首、させてくださいぃ……うわああああ! ごめんなさいいいい!」
悲痛な叫びを上げる女よりも、練吾はそれをシートに座ったまま見つめる乗客の冷めた視線が気になった。どうしてそうも、無機質的な態度を決めていられるんだ? レイプされた少女がいるんだぞ? 殺人者がここにいるんだぞ?
こいつら、異常だ。何がいったい、どうなっている――?
5
「極めてマズい。危険な状況だ」タマキは腰に手を当てて立ち、表情を曇らせた。「敵の正体も能力の詳細も分からないし。これじゃ手も足も出ない」
午後三時。練吾、人形寺雫、タマキの三人は雫の遊び部屋に集まり、ミーティングを行っていた。一旦、状況を整理したいということで、タマキが招集をかけたのだ。
「とりあえず重要なことは――」ソファにもたれかかる雫は練吾を一瞥する。「伊豆倉神父を殺した犯人は、自首した例の女性ではない。そうよね?」
「確実ではないがな」練吾は険しい顔でテーブルに頬杖をついていた。「あの女は夫と間違えて殺害した、と言っていた。いくらなんでもそんなことってあり得るのかよ?」
「その件に関する情報は、既に仕入れてるよ」タマキは言う。「知り合いの警官から買った情報だけどね。伊豆倉神父が殺されたと推測される午前十時、自首した女は現場から百メートル離れた自宅にいたそうだ。で、リビングのソファで寝ている夫を殺す決心を固めたらしい。浮気か何かされていたんだってさ。ともかくそういう状況下で、女は実際に百メートル離れたデパート入り口にいた神父を、刺殺したのだと証言している。その証言を裏付ける証拠だけど――凶器に使われたナイフは現場近くに落ちていて、付着していた指紋を検証したところ、見事にその女のものと一致。加えて返り血が衣服に付着していて、それが伊豆倉神父のDNAと一致するか現在鑑定中。返り血の件を除いても、ナイフの指紋があまりに決定的過ぎる――彼女の有罪はほぼ確定してると見ていいかもね」
「でたらめだ」練吾は言う。「よくわかんねえけどイデアリストの仕業に決まってんだろ」
「それは分かりきってることよ」雫は苛立ちながら言う。マリィの義父が殺害されたことに怒っているのだろう。「じゃあその能力の効果は? 推測できる?」
「傍観者効果の波及と、罪悪感の欠如だろうね」タマキは答えた。
「傍観者効果? なんだそりゃ」練吾は眉を寄せる。
「練吾くんが車窓を割って電車に入ったとき、女の子がレイプされていたけど周りの乗客全員がそれを傍観していたでしょ? それを言うのさ」タマキは苦い顔をする。「この言葉が提唱されたきっかけとなったのは、キティ・ジェノヴィーズ事件っていう一九六四年にニューヨークで起きた強姦殺人事件で、当時のマスコミはその異様さを大々的に報道した」
「知ってるよそれ。マジ超最悪な事件」雫が語り始める。「キティ・ジェノヴィーズは自宅のアパート前で男に強姦され、大声を出して助けを求めたけど、付近の住人たちはそれに気づきながらも誰も行動を起こさず沈黙していた。その結果、キティは死に至った」雫はソファを力任せに殴る。「コミュニティでの協調性を意識するあまりに、誰も行動を起こさなくなる場合がある。時に空気を読み過ぎることは、裏目に出てしまうのよ。同様の現象が今、この一帯で発生している」
「ああ最悪だね。最悪過ぎる」タマキは苦虫を噛み潰したような顔をする。「ともかく今すべきことは、敵に極力、イデアエフェクトを使用させないことなんだけどね。どうすれば……」
「でもよ、イデアエフェクトって、一度でそこまで模倣者を生み出すものなのか? オレは今まで何度か『理想切断』を発動させてきたが、模倣者なんて多分、数える程しか出てきてねーぜ。ただのコスプレイヤーばっかだし。エフェクトの範囲は半径約二十キロメートルでたいして広くないし」
「それは単に、キミのは模倣することが難しいからだよ。エフェクトの範囲はイデアリストによって異なる。模倣が難しいほど範囲が狭まる傾向にあるらしい」タマキは腕組みをする。「人の手足を不能にするだなんて、まともに生活してる大多数の一般人にはどだい無理な話でしょ。でも傍観者になることだったら、誰にだってできるし、むしろ自分自身の安全の確保に繋がる。人間はおおかた、自分と無関係なトラブルとは無縁でいたい消極的なもんだからね。敵のイデアエフェクトは、そうした保身の意思を補強している。だから影響されやすいし、きっとエフェクトの範囲もかなり広いと思う」
「だから電車の窓を割っても強姦魔をダルマにしても、誰もオレに文句言わなかったのか。乗客全員が、模倣していたから……!」
練吾は舌打ちをする。電車から降りて改札口を通過するとき、駅員が何か言いたげにこちらを見てきたが、一度睨んだだけで怯え、何も咎めてこなかった。
「なあ、イデアリストの能力ってよ」練吾は素朴な疑問を思いつく。「正しく使用できる適格者にしか使わせねえって話だったんじゃないのか? となると、敵にデュナミスを預けたヤツは相当、イカれてたってことだよな」
「ええと、それはだね、練吾くん」タマキはどこか言いにくそうなバツの悪い顔をする。「イデア能力を使用する方法は、二通りあるんだ」
「二通り? そりゃ初耳だな」
「うん、まあ……」タマキは頼りなげな声を上げる。「一つ目は、キミ達のようにデュナミスから能力を引き出して発動するタイプと……それで二つ目は、先天的に能力を自らに秘めていて、デュナミス無しでも発動できるタイプがある」
なぜか、脳裏にマリィの姿が浮かぶ。練吾は頭を振る。
「じゃあ、デュナミスってのは、どうやって作られてるんだ?」
「そ、それは、だね……。うーん……」
「能力を先天的に生み出したイデアリストが、その能力を放棄した時に発生する宝物よ」歯切れの悪いタマキの代わりに雫が答える。「隠すようなもんじゃないし、もう別にいいでしょ? こんな状況だし」
「うーん、まあ」タマキは愛想笑いを浮かべて頭をかく。「先天的なイデアリストはね、能力を手放さざるを得ないなんらかの状況に陥った時に、その能力を物質に封じ込めることができるんだ。それがデュナミスってわけ」
「その物質というのが」雫はテーブルに置いてある自身のデュナミス――フランス人形に触れる。「能力を放棄する寸前に注視した物体。または、心の中で強く念じた物体、となっている。
でもデュナミスに関しては、不可解なところが多いわ。分かってるのは、それが必ず絶対に、その能力を喉から手が出るほど――いや、魂レベルで渇望する人物にしか行き渡らない、ということ。こればかりは運命というしかないわ。
たとえば優亜のデュナミス『理解心療(セントポーリア)』の話だけど――あたし、以前イタリアでその能力を生み出した人物と偶然出会ったわ。ワケあって彼女は能力を放棄し、愛用していたエメラルドリングに念じて、能力を実際に移し替えた。その後、あたしは本人が希望するように、そのリングを太平洋のど真ん中に投げ込んだのよ――フェリーをチャーターしてね――世界で最も適格な人物の手に渡ることを願って。それから約二年後。どういうルートを辿ってきたかは不明だけど、エメラルドリングは原宿の道端に落ちていた。それを優亜が拾って、『優しい掌』が誕生したってわけよ」
「運命だあ……? どうも胡散くせえな。オレのデュナミスはタマキから直接渡されたが」
「それは……」タマキは口ごもる。触れられたくない物事の核心に迫られているように。「すまない、練吾くん。今はまだ言えない」
「なんだよ、らしくねえじゃねえか」
「僕の口からは、言うことはできない。その理由は、練吾くん。君たち自身で見出さなければ、価値がないからだ。他人が気安く教えられることではない」
「はあ? まさかあんた、意図的に仕組んでやがるのか? そりゃいったい……」
――意図的に仕組んでいた? まさか――
不意に、心臓が高鳴る。
マリィのネックレスと母が着けていたネックレス、昔の自分、父の顔が、目まぐるしく思い浮かぶ。
マリィに対して抱いていた懐かしさが、疑問が――なぜ自分が『理想切断』発動に対して抵抗感があるのか――なぜマリィのイデアエフェクトに異常に反応するのか――それぞれの謎のピースが一つの盤面に綺麗に収まっていく感覚。
だが――今はそのことは関係ない。
「……まあいい」練吾は冷静になる。「話を戻そうぜ……つまり敵を無力にするための勝利条件は、能力を放棄させる状態に追い込む、ってことだな?」
「または殺すか」あっさりと雫が言う。「……って、んなことするわけないでしょ。あたしの『感情代理』で善良な市民に変えればオーケー万事解決」
「でもよ、それじゃまたデュナミスが発生して、他のヤツの手に渡ることになるんじゃねえのか?」
「そこんとこはノープロブレム」雫はうなずく。「イデアリストはね、別のイデアリストの能力の所業によって放棄、あるいは殺害された場合に限り、能力は綺麗さっぱり消失するから。イデア能力は、物質世界とはまた異なるベクトルで生まれる力だからね。それに干渉できるのはやはり、同じイデア能力しかないのよ」
「なるほど、餅は餅屋ってことか」練吾はにやり、と笑う。「ベクトルがどうのとかよくわかんねえけど、つまりこの状況を救済できんのは、オレたちイデアリストだけってわけなんだな」
「その通り。あいにく現在、あたしの知り合いのイデアリストはみんな関東付近から遠く離れてたり、海外にいるしね」溜息を付く雫。「ったく、姉や妹め。この一大事にどこほっつき歩いてんだか」
「え、姉や妹って、家族もイデアリストなのかよ?」練吾は少し驚く。
「う~ん」雫は話したくなさそうな様子だ。「でもみんな気が合わなくて」
「性格とか外見とか声とか、ホントそっくりだしね」苦笑するタマキ。
「別に同属嫌悪とかじゃねえよ」雫は口を尖らせる。「そんなことはいいとして! 言いそびれてたけど、あたし含め人形寺一族は先祖代々、世界各地に存在しているイデアリストやデュナミスを探り出して調査する仕事を担っているのよ。国会議員のあたしの親父や、物好きな超常現象マニアたちが集う特殊な秘密結社から資金援助を受けながら活動してんの」
………………
「突然サラっとスケールでかいこと言ったな」練吾は目を丸くする。
「事実は事実。スケールの大小は関係ない」雫はつまんなそうに言う。「で、あたしら人形寺一族は、発見したイデア能力が人間社会に対して有害であった場合、即刻、無力化する使命を負っているわけよ。ずーっと昔からね。あたしの場合『感情代理』で人格を矯正して、イデア能力を放棄させてるでしょ。いわば人形寺一族は、悪しき心を持つイデアリストから人々を守る正義の味方で、悪の抑止力ってゆーポジションなの」
「今回の敵も、有害なイデアリストに認定されたってわけだね」とタマキ。
「うん。あたしがたった今認定した。でも現状、まだイデアリストになって日の浅いあんたの手しか借りれないのが悔しいけど」
「元々アイツはオレの――『血のカマイタチ』の敵だ」練吾は言う。「あんたの為じゃねえ」
「とりあえずだね、雫、練吾くん」タマキが人差し指を立てる。「敵の能力はだいたい推測できたけど、その正体はまったく謎のままだ。ストゥーピッドもこの件に絡んで暗躍してるかもしれない……だから、一人で無闇に捜査するのは控えた方がいいね。傍観者効果の影響が強い今の状況では、警察もさっぱりアテにならない。だから、昼間の街中で襲われても助けてくれる人はいないと認識してちょうだいよ。で、とにかく情報をしっかり共有すること。何か新しい発見や手がかりがあった――」
「――なあ、マリィは今、どこにいる?」練吾は話をさえぎる。
「マリィちゃんなら、今、八王子の自宅にいるはずよ」雫が答える。「優亜も一緒にいるはず」
「八王子か。住所を教えてくれ」
「え、今? 後で携帯にメールするわ」
「今すぐ送ってくれ。敵を倒すには、マリィの力も必要になるかもしれねえからな」
言いながら練吾は歩き出し、ドアを勢い良く開け放つ。
「練吾!」雫の声。「あんた、ちょっと変わったわね」
小さく苦笑し、練吾は振り向かずに出口へ走り出した。
5
練吾が部屋から飛び出して行った後、タマキは長いため息を吐いた。
「まったく、厄介なことになったよ。ああ、とても厄介だ」
「確かに、ストゥーピッドなんかよりはるかにタチの悪い敵よね。なんら利用価値の無いタダの害虫だ。遊ばせとかないで、一秒でも早くさっさと始末しなきゃ……。とりあえず座りなよ。焦っていいことなんてないぜ」
雫に言われるままにタマキはソファに座り、目元を軽く揉む。
「よりによってマリィちゃんの義父が殺されるだなんて……最悪な状況だよ。これから先は神のみぞ知る、だ。すべてはマリィちゃんが立ち直れるかどうか……それにかかっている」タマキはまた、ため息を吐いた。
「焦ったところで、いい方には一ミリも進展しないってば」雫はソファに寝そべってフランス人形を抱き寄せる。「ねえ、何か心当たりないの? 犯人の正体。勘でもいいからさ。はやく駆除したい」
「あったら苦労しないよ。ああ厄介だ。厄介だ……」
「……しっかし、夫と間違えて無関係な神父を殺害、ねえ。まるで、幽霊に取り憑かれでもしたみたいに。そんなことってあり得るかあ? 常識的に」
「……ん? 幽霊?」タマキは立ち上がる。「……である可能性は……ゼロじゃない……?」
あの時――ヤツを見かけた時の、周囲の状況をタマキは思い出す。
阿礼優亜をストーキングしていた彼は――まさか鬱憤を晴らすために、能力を行使していたのか……?
「どったのタマキ?」
「雫。今すぐ準備してくれ」タマキは一世一代の博打を打つように、緊張した笑みを浮かべる。「もしかしたら、ヤツを迎撃できるかもしれない」
「はあ? 準備?」
6
*
十六年前の春、切辻練吾はとある総合病院で産まれ、厳しくも実直な父親と心優しい母親の許で幼児期を過ごした。練吾が三歳になる頃には、切辻一家はマンションから東京都内の新築一戸建てに引越した。二階の一室に母親が愛用するピアノを運び込み、間もなく練吾は母親からピアノレッスンを施され、その才能を発揮することとなる。
母親には特に練吾をプロに仕立て上げる野望は無かった。自由にのびのびと育て、例え他人より劣っていようとも、素朴で心優しい人になってほしいと願っていたのだ。
「ぼく、おかあさんみたいにピアノうまくなって、世界一ゆうめいになるんだ!」
五歳になった時には目的意識を持つようになり、練吾は何よりも母親に褒められたいがばかりにピアノに打ち込むようになる。母親はいつも傍で柔らかい笑みを浮かべていた。彼女は練吾に求められた時にだけ、指導した。
練吾が特に好んでいた楽曲は、ギュスターヴ・ホルストの『木星、快楽をもたらす者』。壮大かつ神秘的なこの楽曲に練吾はすっかり惚れ込んでしまい、毎日欠かさず一度は演奏していた。
いつか世界一広いコンサートホールで『木星』を自分の手で演奏し、世界中の人々の心を感動で揺さぶってやりたい――それが練吾の夢であった。
月日は流れ――両親の暖かな目に見守られながら練吾は健やかに成長し、小学生になると絵画や作詞といった創作にも才能を発揮するようになる。その類のコンクールに出品したら、必ず金賞か銀賞に選ばれていた。
しかし『一芸に秀でる者は多芸に通ず』という諺を地で行くような練吾に、嫉妬するクラスメイトが現れる。絵の具を壊されたり、母親からプレゼントされたピアノ型のキーホルダーを盗まれたりといった、陰湿ないじめを受けるようになった。
練吾はいじめられる度にひどく傷ついた。しかし父親に言われた「他人を傷つけるような卑怯な人になってはいけない」という言葉を頑なに守り、反撃などは考えなかった。両親にもいじめられている事実は何としても隠した。
小学四年生の夏、練吾に人生の転機といってもいい出来事が訪れた。
とても仲の良い親友が、四人のクラスメイトに暴力を振るわれているところを目撃したのだ。その親友は生まれつき体が弱く、運動音痴であったがとても優しい子であった。
「やめろー!」
思わず練吾は駆け寄って、うずくまる親友を抱え込むようにしてかばった。当時の練吾はとても線が細く、運動能力も他人より劣っていた――が、燃え上がる正義感を抑えることができなかった。
同時に、心の奥で確固とした強い意思が芽生えるのを感じた。それは炎のような、人生そのものを決定付けるかのような、それは誰にも砕けない屈強無比な意思――。
初め、四人のいじめっ子は練吾の気迫に怯んだものの、すぐに面白がって練吾の背中を踏みつけ始める。
――絶対に反撃しちゃダメだ……。卑怯な人になりたくないもの……
その一心で、刃向かうことなく、ただ歯を食い縛って練吾は耐えた。
数分後、暴力に飽きたいじめっ子たちが去った後、親友はボロボロになった練吾を心配して泣きながら「ごめん、僕のせいで」を何度も繰り返した。
「良かった。アキラくん、大した怪我じゃなくて……。安心したよ」
練吾はある達成感を覚えていた。自分が身代わりとなったことで、親友を助けられたことに。
練吾は自分という人間の性質を、漠然とではあるが理解した。
悪意によって傷付けられる者が近くにいれば、自分の身がどれだけ痛めつけられようとも救出しせざるを得ないという、病的とさえ言える自分の性質を――。
その時に『理想救出』の能力が芽生えたことには、幼い練吾が気付くはずもなかった。
翌日から練吾は、いじめられている生徒を見かけると、積極的に助けに入るようになった。いじめられている人に対する暴力はすべて自分のものなのだと、半ば盲目的に信じながら彼らを守ることに心身を費やした。
弱き人々の救済を毎日のように続けていると、数週間後には練吾の救出活動を真似する生徒が増え始めるようになった。練吾はそのことに驚くと同時に、嬉しく思った。自分の行動がこうして周りに強い影響を与えて、変えることができるなんて。
真似する生徒が増えるに比例して、いじめっ子もバツが悪くなったのか減っていった。だが不思議なことに、その勇気ある救出活動の創始者である練吾の存在は広まることは無かった。
「いじめられっ子を救い出す男子がいるらしい」という噂が校内に広がり、多くの男子たちがそのヒーローを演じ始め、各々がそのヒーローであると主張したからだ。
積極的な人助けを始めてから二ヶ月ほど経つと、学校内でのイジメが消えつつあった。イジメっ子だった者さえもヒーローを真似し始め、自分がヒーローであることを主張するほど、練吾の影響力は多大なものだったのだ。
練吾は自分の行動が間違いではなかったことを確信し、感動のあまり誰かにそのことを伝えたい、と思った。しかし校内の人間には伝えられない。自分がそのヒーローだと知られたら、恥ずかしいからだ。
「帰ってお母さんに伝えよう! きっと喜ぶ!」
身が弾けるような喜びを胸に自宅のドアを開けると、二階のピアノ部屋からバアーン! とピアノの鍵すべてが一斉に鈍器で叩かれたような、歪な音が響いた。
「え? ピアノに、なにか物でも落ちたのかな……」
練吾は何があったのかを確かめるために、二階に駆け上がって、ドアが開けっ放しになっていたピアノ部屋に入った。
「…………え?」
飛び込んできた光景は――異様で、不可解で、あまりにも残酷だった。
背中からピアノに乗り上がった白い女の体。
それに腰を激しく打ち付ける男。
女の――母の首にかけられた十字架のネックレスが、男のリズムに合わせて儚く揺れる。
――なんだろう、これは? いったい、なんなんだろう……?
「…………あ………ああ…………」
ガクガクと全身が震え、練吾はペタン、と座り込んでしまった。
練吾に気付いた男が舌打ちをし、金属バットを持ってゆらり、と近づいてくる。
せっかくの楽しみを邪魔された顔――鬼みたいだ。
生きている実感が無かった。この世すべての何もかもが、練吾と仲違いしてすっぱり手を切ってしまったかのように、暖かさも冷たさも痛みも振動も、何も感じることができなかった。母の葬式に車椅子で立ち会った時も、その死に化粧を目の当たりにした時も。
悲しくないし怒りもない。自我というものがすっぽりと抜き取られたかのようだった。しかし父親の声だけは辛うじて聞くことができた。その相貌だけはぼんやりと見えた。
父はあの事件以来、一日の大半を練吾が横たわるベッドの傍にいた。
「とても痛ましい事件でしたね。今のお気持ちはいかがですか?」などと訊ねてきた記者たちを片っ端から殴り回ったせいで、その右手はパンパンに腫れていた。その右手を血が滲むほど握り締め、父はぼそぼそと何か喋っていた。
そのセリフは毎日、ほぼ同じ意味合いを持っていたから、自我喪失に陥っていた練吾でもぼんやりと記憶することができた。
「他人を傷付けるというのは、俺が最も嫌いなことだ……。だがなあ……世の中には……それ相応の報いを受けなければならない人間もいる……傷付けることで金を得たり、快感を得る奴らのことだ……そんな外道どもがのうのうと裁かれずに生活している……。決して野放しにはできない……じゃなきゃ、そういう心の無いバカどもに影響された、罪知らずの外道がますます増えていくだろう……お母さんと同じ目に遭う人が増えるだろう……。俺が許せないのはなあ、そこなんだ……そういう悪が悪を呼ぶ仕組みが、はらわたが煮えくり返るほど許せないんだ……。しかしだなあ……俺はやはり傷付けるというのは、大嫌いなんだよ……。バカな記者どもを殴り倒すのとでは次元が違う……。俺は、俺は……できるのか? いや、やらなければ! いや、しかし……いや……!」
セリフの終わりは決まって、そんな風に苦しげに自己問答を繰り返してフェードアウトした。
毎日毎日……父は物言わぬ人形と化した練吾の前で、自らを洗脳するかのようにお定まりのセリフを繰り返した。白髪が一気に増え、やつれ切って骨に皮を貼り付けただけのような青白い顔――落ち窪んだ目から狂気的な光をギラギラ放ちながら、彼は繰り返した。
そんなある日、日課のセリフが決まってフェードアウトしていくように、父の姿は病室に現れなくなった。突然、という印象は無かった。練吾はぼんやりと、父が語っていたその場所には、いつまでも熱いエネルギーが残留している気がしていたからだ。そこではいつでも、父が永遠にお決まりの独白を繰り広げている。
父がずっといつも傍にいる――そんな気がした。
それから数週間、いや数ヶ月は経過しただろうか――?
ある晴れた昼間、半ば意識が無い状態で、看護婦に車椅子を押されてロビーを『散歩』していた時、たまたまテレビのニュースが視界に入った。
報道内容は、ある十六歳の少年が、東京都真宿区の一角で、鈍器で体中を滅多打ちにされて殺されていた、というものだった。
父の顔と母の顔が脳裏に過ぎる。突然練吾は立ち上がり、衰えた足では歩くことができずに倒れこんだが、テレビまで這い進んで食い入るようにモニターを凝視した。
少年の顔が映し出される。その顔は、まさしくお家の二階のピアノ部屋で見た、あの鬼のような顔――。
その瞬間、抑圧されていた感情が爆発した。
やったのだ! お父さんはやったのだ! お父さんがやったに決まっている!
大粒の涙を絶え間なく流しながら、練吾は叫び続けた。何人ものスタッフに取り押さえられたが、異常な力で振りほどいて駆け出し、病院から出た。
お父さんは有言実行した! 自分の迷いに打ち勝ったんだ! お母さんの仇を討ってくれたのだ!
練吾は裸足のまま、何度も転びながら冷え切った冬の道路を駆けていく。興奮した獣のように咆哮し、どこまでも疾走していった。
新たな生命が魂に注ぎ込まれた気がした。膨大で奔流することを止まない猛烈な生命。体が、心が、熱い。目的が生まれていく。
――母のような被害者をこれ以上生み出したくない。
ゴミ置き場に転がっていた鉄パイプを振り回しながら、練吾は満月に向けて叫び続けた。その傍らでは、父も一緒に吠え立てているような気がした。
父の遺体が街外れの川原で発見されたのは、それから一年後のことだった。返り討ちを喰らったのだろう――傷だらけでところどころの部位が欠損していた。その報告を警察から受けた練吾は特に悲しい、とは思わなかった。父は炎のような過酷な理想を掲げ、最期の最期まで戦い抜いたからだ。
そんな父親が、例えようもなく誇らしかった。
*
午後七時。既に日が暮れて空は暗い。
駅からタクシーを利用し、目的地の十階建てマンションに着いた練吾は、エントランスに入る。エレベータで七階まで昇り、七〇七号室へ。
小さく深呼吸をする。一体マリィは今、どのような精神状態でいるのだろう。少しは正気を保っていてほしい。話したいことや確認したいことがたくさんあるのだから。
玄関のチャイムを鳴らすと、少し遅れてインターフォンから少女の声が聞こえた。
「あ、練吾くん」優亜の声だ。元気の無い声音。「ええと、その……」
「マリィはそこにいるのか?」
「うん……いるけど……何て言えばいいのかな。マリィちゃん、今はとっても危険なんだ。それで、その……」
「危険? どういうことだ」
「すごく、暴力的になってて……それで……」涙声になる。
「そうか……とりあえず開けてくれ」
「わかった……でも、マリィちゃんのことは、なるべくそっとしてあげて」
しばらくして、カチャカチャと何度か錠が外れる音がしてドアが開く。
出迎えた優亜の姿を見て、練吾は驚いた。
「おい大丈夫か? 何があった」
「ウチは平気だよ」優亜は微笑を作る。「とりあえず入ろう?」
彼女が着ているブラウスはところどころ破けて、引っ掻かれたような浅い切り傷で血が滲んでいる部分もあった。
練吾は玄関からまっすぐ廊下を突き進んだところにあるドアに、視線を移す。向こうがリビングなのだろう。ドアのすりガラスから光が漏れている。
「ウチがここに来たときはまだ、マリィちゃんはあの事を知らなかったんだけど……マリィちゃんとお菓子食べながら聖書の話を聞いてたら、突然、郵便物が届いて……」
「郵便物……?」
「それは……」思い出すのも辛いようで、優亜は顔を歪める。「写真だった。伊豆倉神父の……血まみれの……」
「……分かった。もういい」噴きあがる怒りで頭が熱くなる。「くそっ、外道が……配達員はどんなヤツだった?」
「背の高い女の人……顔は、帽子を深く被ってるせいで見えなかったけど」
反射的にストゥーピッドの顔が思い浮かんだ。まさかヤツも絡んでいるのか?
「マリィの様子は?」
「今は少し落ち着いたかな……あの写真を見た時は、とてもすごくて……。ウチ、必死に抑えたけど、ダメで……。マリィちゃん、何だかおかしくなっちゃって……」
「……そうか。阿礼、がんばったな。ちょっとここで休んでろ。二人だけで話をしてくる」
練吾は靴を脱いで優亜を通り過ぎ、リビングへ向かう。
「そっと、優しくしてあげてね……」
優亜の声を背中で聞きながら、リビングのドアを開ける。
室内は想像以上にひどい有様だった。タンスやテレビ、電子レンジなどあらゆる家具が倒れ、破損した小物類が散乱している。まるでここだけ限定的な大震災が発生した直後のようだ。しかしこれは人為的なもので、一人の少女がやったことなのだ。
これは部屋の隅で包丁を握りながら膝を抱えて座る、小柄なマリィが暴走した結果なのだ。
練吾はおそるおそる彼女に近づいていく。膝に顔を押し付けているので表情は分からない。
「わたし、もうやめました」
その声がマリィのものだとは、一瞬気づかなかった。あまりに冷徹な声音だったからだ。
「……何を、だ?」
「綺麗事」顔を上げるマリィ。「やめたんですよ。言うの」酷い形相だ。目は極限まで開かれ、笑う口元はひくひくと痙攣している。「練吾さん、お願いしますよ。もっとたくさん、わたしの近くで『理想切断』やってくださいよ。もっともっと、わたしの中の殺意に呼びかけてくださいよ。わたしを悪魔にしてくださいよ。わたしに犯人を殺させてくださいよ」
練吾はその狂気的なセリフに絶句した。もはやマリィの信仰者としての意思は完全に砕かれてしまっている。それを授けてくれた大切な義父が殺されたせいで。
「ねえ練吾さん」マリィは包丁の柄をガジガジ噛みながら続ける。「いまさら気づいたんですけど――わたし、心の奥底で練吾さんが強姦殺人者を狩る度に喜んでたんです。聖書とかいう綺麗事でコーティングされたわたしの心は、あなたの行為を忌み嫌う役を演じてましたが、実はあなたのやることに大いに賛同してたんですよ。だから『理想切断』のイデアエフェクトに強い反応を示していたんです。あと一度だけでいいんですよ練吾さん。あと一回『理想切断』やってくれれば、わたしは確実に犯人をどこまでも地獄の果てまでも追いかける悪魔になれるでしょう。ねえ、お願いしますよ。決意をくださいよ」
「マリィ……」練吾は眉を寄せる。「それはできない」
「は? なんでですか。はっきりした理由、あるんですか? ねえ」
問い詰められ、練吾はこの危険な極限状態に陥ってるマリィに、例の話をしてもいいのか逡巡する。しかし――このまま彼女をほったらかしにしては更に悪化してしまうのではないか。
約十秒後、練吾は重い口を開く。
「……お前を『血のカマイタチ』に戻すわけにはいかない」
「……は? 戻る? 急に何を言ってるんです? 意味わかりませんよ」
「これはまだ推測なんだけどな……。順を追って話がしたい。まずはオレとマリィが互いのイデアエフェクトに強く共感していた理由についてだ」
「理由? ハハ」マリィは歯を研ぐようにして包丁の柄を齧る。「単純に、抑圧してたわたしの悪魔な部分と、練吾さんの天使な部分が、互いの行動に憧れていただけです。誰にだってあるでしょう。自分に欠けてる要素に憧れる心境って」
「じゃあなんで、互いの能力に対して懐かしいと感じていたんだ?」
マリィは、見落としていた重要なことに気づいたように、はっとした。
「き、気のせいです。懐かしいだなんて……きっとデジャビュとか、そういう錯覚の類です」
「錯覚なんかじゃない」練吾は首を振った。「オレはかつて、『理想救出』の能力を開花させた。そしてマリィ。お前もかつて『理想切断』の能力を開花させたはずだ」
あまりに似過ぎた現象が互いに起こっているのだ。過去だって、決定的な部分で似通っているのではないか?
「よくそんな、めちゃくちゃな説明ができますね……。イデアリストはデュナミスが無ければ能力は発動しないんですよ?」
「タマキが言っていたぜ。デュナミスに内蔵される能力は元々、それを先天的に持っていた誰かのものだってな。その誰かが能力を放棄した時に初めて、デュナミスが発生するんだ」
「嘘ですよ、そんな……練吾さんは嘘つきです……過去なんて関係ないです」
カラン、と包丁を落とし、マリィは両手で頭を抱える。
練吾はマリィに手を伸ばせば届く距離まで近づき、しゃがみこむ。
「複雑な気分だよなあ、マリィ。過去と現在の自分が、全く噛み合ってねえもんな」練吾はなるべく優しく見えるように微笑んでみせる。「『血のカマイタチ』には戻りたくねえだろ? オレも『手負いの翼』には戻りたくはない。狩り続けたいんだ、外道どもを――どれだけ苦しくても、どれだけヤバい窮地に立ってもな。複雑だぜ」
「う……ううう……」顔を歪めて頭をぐしゃぐしゃにするマリィ。「わたしは、違う……わたしには、過去なんて……」
「そうだろ? 過去が嫌だから、生まれ変わろうとしたんだろ?」練吾は両手を広げる。「ならそれでいいじゃねえか。生まれ変わった自分のままでいることに、なんの不都合があるんだよ?」
「わたしには! 過去なんて無いんだ!」
マリィは叫んで立ち上がり、包丁の柄で練吾の頭を思い切り殴った。
簡単に避けられる八つ当たりだったが、練吾は敢えてそれを甘受した。それでマリィの気が少しでも晴れるのなら、少しでも救われるのなら、しこたま殴られてやろうと思ったのだ。そのためなら、どんな激痛にも耐えてやろう。『理想救出』を発動させていた過去の自分の意思が、蘇ったかのようだ。
四回殴った後、マリィは包丁を手から落として、泣き始めた。大声を上げて、子供のように。
練吾は頭から血を流しながら、マリィの小さな体を抱きしめた。その白髪に手を置いた。
「過去なんて無いんです」マリィはむせび泣く。「わたしは、おとうさんに会った時から始まったんです……その前のわたしなんて、いないんです……どこにも……」
「ああ……そうだな、悪かった……」練吾はマリィの頭を撫でる。
頭が燃え盛るように痛むというのに、神聖な気分だった。それは昨日、泣く優亜を慰めたときと似ていた。あの時、芋虫男の幻覚が消え失せたように、今もあらゆる何かから解放されたかのようだ。
その何かとは――罪悪感だろうか? そうだ。自分の罪が許されている感覚。なぜ、他人を救うことで、許されているような甘い気持ちになるのだろうか? 不思議だ。誰からもはっきりと明確な許しを貰っていないというのに……。自分勝手な話だ。
自分勝手な話だが――それ以外に許される方法はあるだろうか?
だからマリィは、過去の重い罪がひたすら許される感覚を得たいが為に、『手負いの翼』として第二の人生を歩み始めたんだろう。
今ならそのことが分かる。分かりすぎる程わかる。マリィが神を信じ、かたくなに人を信じて許そうとする意思を理解することができる。すべては自分自身の救済のためなのだ。
――オレはマリィを救わなければならない。
でなければ、自分は救われなくてもいい、ということになる。嫌だ。大げさかもしれないが、マリィは自分自身なのだ。だから絶対にほっとくわけにはいかない。
ガチャリ、とドアが開く。優亜だ。破れたブラウスを隠すためにウィンドブレーカーを羽織っている。
「大丈夫……? すごい音がしたけれど……」
練吾はマリィを抱き止める姿勢のまま優亜を見る。彼女はどうしていいか分からないようで、作り笑いを浮かべながら視線をあちこちへ彷徨わせていた。
「あ、ええっと……大丈夫なら、いいんだけど、ね」
「……悪いな阿礼。外してくれないか? マリィはできるだけそっとしておきたいんだ」練吾は微笑みかける。「ああそうだ。何か食べるものを買ってきてくれ。おかゆなら多分、食べれるだろ」
「う、うん、わかった。買ってくる」
ロボットみたいにギクシャクした動作で優亜は部屋から出て行った。
マリィの熱い涙が自分の革ジャンに染み込んでいく。
――たくさん泣いてくれ。もっと泣いてくれ。『血のカマイタチ』になんか戻るんじゃない。そいつはオレの役だ。お前はその翼で空を自由に飛んでいればいい。オレが地の底でずっと見守ってやるから。
――その時だった。
ビシイ! と窓ガラスがひび割れる音と、近くのテーブルから鋭い破裂音。
銃撃! 練吾は外から銃撃を受けたと咄嗟に判断し、マリィを抱えたまま死角へと飛び込んだ。割れた窓ガラスから風が吹き込んでくる。それ以外の音は聞こえない。
「練吾さん。今のは――」
「しっ!」練吾はマリィを黙らせる。近くに敵がいることは確かだ。
――約十秒後。また弾丸が窓ガラスを粉砕し、ソファを穿つ。それが立て続けに七回あった。狙い撃ちすることを諦めて、自棄になって連射しているのだろうか。
そのまま逃げ帰るつもりか、それとも接近戦を仕掛けてくるのか……。
無意識的にネックレスを握る。もし敵がストゥーピッドならば、『理想切断』が発動するはず。タマキが言っていた――一度『理想切断』の対象者を取り逃がしたとしても、そいつが半径百メートル以内に入ればいつでも攻撃対象にすることができる、と。
デュナミスが赤く輝き始める。やはり、ヤツが近づいてきている!
「マリィ、離れてろ!」
練吾はマリィを壁へ突き飛ばして立ち上がる。右手に赤い刀を発現させ、敵の襲来を待つ。
――突如、窓から黒い人影が侵入した! そいつは飛び込んできた。その手には赤く輝く大剣。ストゥーピッド。長身の少女。ヤツは黒い長髪を躍らせて部屋の中心に降り立った。
「迎えにきたよ。ハルカ」穏やかな笑みを浮かべてそいつは言った。
「寝言は寝てから言え!」
練吾は自動行動を発動。
上体を大きく前方に傾けてチーターのように突進し、ストゥーピッドに切りかかった。
しかし――
「邪魔。今は遊んでる暇ないの」
彼女の両手で握られた大剣が薙ぎ払われる。
練吾は辛うじて刀を盾にして攻撃をガードするが、その衝撃はあまりに大きく、吹っ飛ばされてしまう。リビングと地続きになっているキッチンの食器棚に激突し、ふっ、と意識が消失する――。
7
「これで二人きりだね。ハルカ」
見知らぬ敵がこちらへ歩いてくる。マリィは恐怖でぶるぶる震える手で包丁を拾い、眼前の敵へその切っ先を向ける。漲っていた殺意は、涙と一緒にすべて流れ落ちてしまったようだ。
「ねえ……。ボク、あの神父を殺した人、知ってるよ」少女は邪悪な笑みを浮かべる。「小太りの主婦だよ。今は警察に捕まってるけど、ボクに任せてくれれば簡単に引っ張り出して速達できる」
甘い声音で誘われるも、今のマリィには犯人への殺意など無い。ただ怯えながら敵と対峙することしかできなかった。
「おとうさん殺されたんだよ?」彼女は楽しそうに言う。「痛かっただろうなあ。胸をナイフで一突きだし。血もいっぱい流れただろうなあ。激痛に打ち震えながら死んだんだろうなあ。悔しいでしょハルカ? 復讐したいでしょう?」
目を固くつぶる。精一杯、義父の顔を思い浮かべる。
やさしい笑顔。丸い語り口で信仰者としての在り方を教え諭してくれる声。
「わたしは……」マリィは目を開く。「犯人が憎い。憎くてたまらない。もしも目の前にいたら、躊躇なく殺してしまうかもしれない。でも……わたしは……」
パアッとストゥーピッドは晴れやかに破顔する。
「それじゃあハルカ! 一緒にいこうよ! ねえ、一緒に――」
「――ハルカじゃない!」マリィは叫ぶ。「誰ですかそれ! 人違いです! わたしはあなたとは行きません。わたしは神父の娘。おとうさんを殺した犯人の心に良心があることを信じます。人を正しき道へ進ませるのは憎悪なんかじゃありません」
手の震えがピタリと止まり、包丁の狙いが定まる。
「えっ……忘れたの……?」ストゥーピッドは親に捨てられた子供のように悲しそうな顔をする。「本当に……? ボクのことも? ねえ。五年前、あの牢獄みたいな狭いビルから救ってくれたよね。それからずうっとハルカはボクのヒーローなんだよ。憧れなんだ。えっそれが何? 聖職者の娘? 神への信仰? はは……。本気なの? 冗談だよね?」
「あなたが何を言わんとしてるのか、わたしには分かりません」マリィは凛然として言い放つ。「帰ってもらえませんか? ここにはあなたが求めるハルカなる人物は存在しません。それにわたしは犯人へ復讐するする気もありません」
「じゃあ、思い出させてあげるよ」ストゥーピッドは一筋の涙を流し、意地の悪い顔を作る。「五年前、ボクたちがどこにいたのか。どんな目に遭っていたのか」
――――――。
8
闇の中にいる。いや、身体を覆っているのは闇ではない。
無数のアリか。無数のアリらしきものが、ざわざわと身体中を埋め尽くしている。
アリの群れのようにざわめく不吉な闇は、かつて『血のカマイタチ』だった者達の怨讐の残滓なのかもしれない。そいつらは狂乱している。敵の手足をもぎ取りたがっている。
ストゥーピッドの楽しげな声がずっと遠くから聞こえる。アリがざわざわ騒々しくて聞き取りづらい。マリィはどうなっている? どこにいる? オレは今、どこにいる?
頭が重いな。とてつもなく重い。死にそうだ。マリィにしこたま殴られた上、ストゥーピッドの攻撃を喰らったせいだ。ダメだ。動けねえ。
頭を強く打ったせいでイカれちまったか。くそ。
いや――。ぼんやりと光が見える。赤い光。そうだ。ネックレスの光――。
ろくに見えねえし聞こえねえ。だが、こいつなら意識なんか無くても――。
自動行動、開始!
くれてやるぜこの体!
9
ストゥーピッドはすべてを語り終え、茫然自失となったマリィの顔を眺めては、どうしようもない凌辱感に身を震わせた。
目の前にいる白髪の少女は、かつてのハルカではない。自分を復讐の悪魔に変えてくれたヒーローではない。すべてを捨てて聖職者との家族ごっこに甘んじる裏切り者だ。
あれだけ復讐心に燃えていた残忍な心は、もはや見る影も無い。
ずっと探していたのに。また自分と一緒に来てくれると思ったのに。
ふざけるな! 全部壊してやる。とことん汚してやる。
「ふふふふ……ねえ、分かった? ハルカぁ」ストゥーピッドは嗜虐的な表情で言う。「あんたはただの男のオモチャだったんだよ。親に売られ、世間に裏切られ、社会ではいい顔してる男どもの欲望の捌け口に過ぎなかったんだよ。そんなことも忘れてしまうだなんて……」
――その時、唐突に視界が薄暗くなった。
反射的に天井を仰ぐ――それは天井ではない。食器棚の背面だ――高さ約二メートルの重量感ある物体だ。
それがぶっ飛んでくる――!
ストゥーピッドは声を張り上げて大剣を一振りし、棚を叩き切る――と、大量のグラスが粉砕する音が聞こえ、真っ二つになった棚からガラス片が豪快に飛び散った。
降り注ぐガラス片を全て切り払う。
「くそったれ!」
右手で大剣を持ち、眼前に迫いくる敵の赤い刀を受け止める。
ヤツは虚ろな顔をしていた。その目には自我のかけらさえ宿っていない。
それ故の純粋な剣戟。良心も躊躇もない直線的な攻撃。
限りない最速を目指し、かつ最短、最効率の手法で手足を刈り取ろうとしてくる。
徐々に後ずさりながら右手の大剣でそれを受け止める。
――なぜだ? このボクが防戦一方になっている!? まさか、こいつ!
己のパワーレベルをコンマ数秒ごとに、複雑に激しくアップダウンさせている!
ストゥーピッドの能力概念は『鏡』だ。何者に対しても一方的ではない熾烈な闘いを繰り広げるために、敵の力より少しばかり上回る程度の戦闘力が付加される能力なのだ。しかし、敵の強さを読み取るまでには一秒ばかりの時間を要する。
ヤツは――いや、ヤツの能力は、それを見抜いたのだ!
自身の力を最小限まで弱くし、ストゥーピッドの力を弱めた瞬間、最大限まで力を上昇させて連撃を仕掛けてくる。それがヤツの戦法。卑劣極まりない!
直情的な性格である赤髪の男の自我が少しでも残っていれば、倒せるのに!
「ちくしょう!」
なんとか攻撃を受け流しながら窓へ引き下がり、背面ジャンプする。
宙に踊った身体は一回転して、地上へ降りていく。どうやらあの赤髪の男は追ってこないようだ。あれだけの怪我なのだ。今頃、力尽きている頃だろう。
なんてツイてない夜なんだ!
心の拠り所だったハルカには裏切られ、赤髪を仕留めそこなった。絶対に許すわけにはいかない。赤い髪はシラフの時に殺し、ハルカは生け捕りにして拷問の限りを尽くしてやる。次は油断などしない。
「舐めるなよ……ストゥーピッドは最強なんだ。てめえらみてえなクソ共に負けてたまるか。絶対負けるもんか!」
10
リビングに入った優亜はその光景に戦慄した。
まるでダイナマイトが爆発した後のようだった。あらゆる家具が荒々しく破壊され、壁に刀らしき物で深く斬り込まれた痕がいくつも見られた。
食料で膨らんだビニール袋を落とし、すぐに二人の許へ走り寄る。割れた窓の傍で、頭部を血に染めてぐったりしている練吾の両肩を軽く揺すった。
気絶している。半ばパニックに陥った優亜はマリィへ視線を飛ばした。
壁にもたれて座り、虚空を見るその目には何も映ってなどいないだろう。
「ねえ……マリィちゃん? 何があったの?」
白髪の天使は何も答えない。壊れた人形のように。
今はとにかく練吾の介抱が先だ。まずはどうすれば……とりあえず救急車を呼ばなきゃ。
11
安形雅紀はベッドの隅でうずくまり、ガタガタ震えていた。
時折「わああ」と情けない怯え声を上げるが、一階のリビングで談笑している両親と兄は気に留めることはないだろう。
いつでもどこでも雅紀は一人。家族でさえも、物心付いた時には既に雅紀を無視するかのように振舞っている。そうなってしまった心当たりなど無いし、家族アルバムや思い出ビデオには雅紀の姿だけがぽっかり抜けているため、いつから関係が冷め切ったのも見当がつかない。
しかしそのことで悩んだことはない。物心つく前から既に、元来そういうものなのだ、という価値観が出来上がっていたからだ。家族とか友情といった絆など生まれてこの方感じたことはないので、他の人々がなぜ、どのように家族と共同生活を営み、友人や恋人を作っているのかはいまいちピンと来ない。むしろどうでもいい。
――阿礼優亜に恋をするまでは、本気でそう思っていた。
彼女は自分という存在に気づいてくれた世界で唯一の光なのだ。
優亜と結ばれたい。ずっと繋がったまま、一生を添い遂げたい。
『プラスチック・ハザード』である自分は究極の自由を手にした男だ。自由は誰しもが求めるもの。ルックスや金よりずっと価値のあるもの。つまり、世界で一番価値のある男なのだ。
上手く能力を使えば腐るほど金が集まるだろうし、女どももこぞって自分を奪い合うだろう。しかし、そんなものには興味は無い。
求めるのはただ一つ。阿礼優亜。あなただけがすべてなのだ。
「ふふふ、ふふふふ……優亜さん……待ってて。究極の自由を分かち合おう……優亜さん、優亜さん、優亜……ふふふ」
雅紀は、部屋の壁一面を埋め尽くす無数の写真に頬ずりする。写真はすべて優亜が映っているものだ。天井にもびっしり貼られているが、それ以外にもたくさんストックを保管している。
にやり、と睡眠不足のやつれた顔に笑みを浮かべる。
すると、その幸せな妄想にカウンターを喰らわせるように、またヤツがやってきた。
ぞわっ、と悪寒が走り、雅紀は土下座している伊豆倉神父を見た。腹から止め処なく血を流し、床を赤色に染めていく。彼は「赦したまえ」とぶつぶつ祈っている。延々とそのセリフを優しくも厳しい声音でリピート再生している。
「だまれぇぇぇぇ!」雅紀はヤツを指さして叫ぶ。「インポ野郎! オレを罪人扱いすんな! 殺したのはオレじゃねえ! あのババアなんだよ!」
「主よ、赦したまえ」神父は繰り返す。「わたしを殺した少年の罪を清めたまえ」
「だからオレには罪なんてないんだよぉぉぉ! 赦される覚えはねえええ!」
すると――コン、と窓ガラスを軽い何かが叩いた。誰かが石を投げてきたのだろう。
そちらに意識を集中すると、神父の姿は消失した。
深呼吸して気を取り直し、冷や汗まみれの額を手で拭い、窓のカーテンを開ける。
街灯に照らされる歩道に、ストゥーピッドがいた。窓を開ける。彼女は顔を激しく歪ませて、
「手当てしてくんない? 金無くて病院にも行けないんだわ」と言った。
雅紀は慌てて部屋から出て、玄関から彼女を家に迎え入れ、自室に通した。家族に干渉されないことが幸いといえる。両親のいるリビングから救急箱を持ち出しても、誰も雅紀に声をかけない。
ストゥーピッドを自室に入れるのは初めてではない。互いの能力をどう有効活用していくかを語り合う場として、ここを選んでいるからだ。
苛立つストゥーピッドはベッドに腰掛け、抑揚の無い声でしゃべる。「相変わらず悪趣味な部屋だなここは――ホルスタイン女の写真、壁中に貼りまくりやがって。つーか体中いてえよ。湿布貼ってくれ。冷たいやつな。ぬくいの貼んなよ!」
雅紀は頭から湯気を出さんばかりに怒っている彼女を刺激しないように、何も言わず、慎重に言われた通り手当てをしていく。
「明日、あの赤髪を殺す」小動物を狙う狼のような表情で彼女は宣言した。
「赤髪って、オレが殺して欲しいって頼んだヤツかい? そんなに強いの?」
雅紀はおそるおそる訊く。高圧的な彼女にはどうも頭が上がらない。仲間といっても、互いの能力を利用し合う利害関係の間柄だ。下手なことを言って機嫌を損ねてはならない。
ストゥーピッドは雅紀を狙う敵を排除し、雅紀はストゥーピッドや自分が望む世界を作る――そうした利害関係が成り立っているのだ。
「そうだよ。あいつ……」彼女は親指の爪を噛む。「くそったれ」
「あの……オレにできることはないのかい? 赤髪にはオレにも恨みがあるんだ」
「はっ? なんもねえよ。家でおとなしくしてな。かえって足手まといだ」
「あ、ああそうか」怯えながらも雅紀は言う。「足手まとい、か」
「なんだよ? 残念そうだな」
「オレにだって、人を殺せるんだ。誰にもバレずに」
「バーカ。あんたの獲物はただの一般ピーポーだろ。能力者は相手にすんな」彼女はにやり、と笑い、座ったまま身体を寄せてくる。「これからもたくさん殺してくれよ。期待してるぜ」
彼女の右手が雅紀の股間を撫でる。雅紀は思わず立ち上がってその手を払った。
「なんだよ。いつも拒否するなお前は」彼女は不満そうに言う。「勘違いするな。ボクはやれるなら誰だっていいんだ。お前なんかに情なんてあるわけないだろ。お前も割り切れ」
「おっオレには、優亜さんがいるんだ! そんなことできるわけないだろう!」
「なに純情ぶってんだよぉ」ひひひ、と彼女は笑う。「優亜さん、優亜さん、ねえ。まるで恋人のように連呼しやがる。そんなに欲しいなら犯しちゃえよ。簡単だろ? 『プラスチックハザード』さん」
「ば、バカなこと言うなよ! お前には絶対に分からないよ。この気持ちは……」
「どうせ今頃、優亜さんとやらは適当な男の上に乗って跳ねてんだろうよ」ケラケラと笑う。「お前が優亜さん優亜さんって情けない声上げてる間にさあ。毎晩毎晩」
「そんなことはない! 優亜さんはそんな女の子じゃない!」
「ならさっさとモノにしちまえよ」彼女は平然と言い放つ。「怖いんだろ? 拒否されるのが。だからいつもストーカーみたいに後ろから追い回すことしかできない。そうだろ?」
「ちっ、違う! ちがうちがうちがう! ちがうんだ!」
「今日のお前はずいぶん荒れてるな。神父を殺したせいか?」
「え? なんの話だ?」雅紀はきょとん、とする。「殺したのオレじゃないし。別の誰かだし。それに優亜さんとは関係ないだろ?」
「さっき、人を殺せると言っただろう?」
「言ってない。何を言ってるんだ? 今は優亜さんの話をしてるんだろ?」
「ああ、なるほど。なるほどなあ」くくく、とストゥーピッドは笑う。「殺人の罪意識から逃げるために、ひたすら心を純情にしてウシ女のことしか考えないようにしてるってわけか。なるほど、心が分裂してるんだぁ。ひゃはは」
「な、何いってるんだ?」彼女の言っていることがまったく理解できない。
「気を付けてくれよ」急に真顔になるストゥーピッド。「罪意識から逃げようが精神病になろうがあんたの勝手だし、女に逃げ込むのも勝手だ。でも目的を忘れるな」
「……分かったよ」雅紀は渋々うなずく。
「目的は世界中の人間どもをありのままの状態に戻すことだ。偽善者ぶって人を騙して裏切る人も、表では正義を振りかざして影で悪事を働く人もいない世界にしてやる。みんながみんな、卑屈な善人面しないでストレートに悪人になれる解放的な世界にするんだよ。この世界に正義なんていらないんだ。ひとつまみ程もな!」
「分かってるよ……」何度も聞いている彼女の理想を聞き流し、雅紀は額に手を当てた。
先ほどまで自分は、神父の亡霊に恐怖し怯えていたはずだ。でも今はない。
なぜだろうか?
ただ今の自分には、優亜に対する宇宙規模の恋慕しかない。彼女と永遠に共に寄り添い合うことを約束して、お互いのすべてを肯定しなければならない。
――そうだ。恋だ。優亜への恋が、すべてのネガティブを吹き飛ばしているのだ。
阿礼優亜と自分は繋がっていなければならない。どんな法則よりも、それは絶対的な真理だ。はやく、はやく。急がなければ。
「待ってて、優亜。なるべく早く行くから」
長編『イデアリストの呼応』五章